内田裕也
内田裕也 | |
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生誕 | 1939年11月17日(85歳) |
出身地 | 日本 兵庫県西宮市 |
ジャンル |
ロック ロカビリー |
職業 |
歌手 音楽プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1959年 - |
公式サイト | 内田裕也オフィシャルサイト |
内田 裕也(うちだ ゆうや、1939年11月17日 - )は、日本のミュージシャン、俳優である。本名、内田 雄也(読み同じ)。
夫人は女優の樹木希林。娘は内田也哉子。また、内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たる。身長174cm。血液型はB型。
兵庫県西宮市出身。1959年に日劇ウエスタンカーニバルにて本格的なデビューを果たす。以降、グループ・サウンズ・「内田裕也とザ・フラワーズ」のヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活躍し、映画出演や監督なども手掛ける。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
Contents
経歴・人物
兵庫県生まれだが大阪府堺市育ち[1]。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校入学(1952年)[1]。中学二年の時、清教学園中学校に転入(一期生)[1]、翌1953年、大阪市立旭陽中学校へ転入[1]。1955年、大阪府立旭高等学校へ入学[1]。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める[1]。中学ではラグビー部、高校では野球部に所属[1]。しかし、エルヴィス・プレスリーに憧れたことで学校をドロップアウトし、旭高等学校を退学して1956年、大阪府立三国丘高等学校に転校する[1]。1957年、高校卒業後、日本大学法学部の夜学中退。
関西出身のため、プロ野球は阪神タイガースファン(阪神ファン)である[2]。
バンド・ボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)と共に、バンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成する[1]。
1958年、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二などがいた[1]。
1959年、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。
1960年、かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年、寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。
1963年、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年公開の『エレキの若大将』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー……なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス……シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技が見られる。
1960年代中頃から、ベンチャーズやビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウトする。東京へ活動の場を移しジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし諸事情で
1967年、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ロンドン、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとしてフラワーズ(バンド)を結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。
1969年、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。
1970年、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会(通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。
1971年、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。
1973年、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月には悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月には年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催する。
1974年8月にワンステップフェスティバル、1975年8月に第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティストの
1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本・主演を兼ね、いずれも衝撃的な作品として評判となった。
1979年1月、妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサーの久世光彦と番組出演者の不倫を暴露し騒動となる。騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカーが出動する騒ぎを起こした[3]。
1981年、離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、訴訟となり、離婚無効との判決が下る。
1991年にはアントニオ猪木が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され東京都知事選挙に立候補し、対立候補浜田マキ子と共闘。政見放送の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラで「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語及びフランス語で主張を演説した[4][注釈 1]。また選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた[4]。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込むことを求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。以上、数々のエピソードを作り(この模様は映画『魚からダイオキシン!!』にて一部見ることができる)、メディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判され、結果的には落選したが、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。
シンガーでありながら1985年に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以来シングル盤を発表していなかったが、2014年6月11日に29年ぶりにシングル盤としてエイベックスから「シェキナベイベー」[注釈 2]を指原莉乃(HKT48)とのコラボレーション・デュエットという形で発売した[5]。
ニューイヤーズワールドロックフェスティバル(New Years World Rock Festival)
沿革
「打倒!NHK紅白歌合戦」をテーマとして、1973年12月に年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を渋谷西武劇場(現:PARCO劇場)にて開催。以降2014年まで計42回開催されている。
イベント名・開催会場は度々変わっている。名称については「浅草ロックンロールボランティア」、「スモーキン・クリーンコンサート」、「ニューイヤーロックフェスティバル」を経て、2007年からは「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」の名称で実施。開催会場は一時は浅草の国際劇場やロックンロック、ロック座で行われていた時期もあるが、2008年(36回)から東京会場は銀座の博品館劇場をメイン会場に据えるようになっている。なおライブの模様はフジテレビでダイジェスト放送されている。
開催国の拡大
2004年から中国(2004から2011年と2014年は上海、2012年・北京)、2005年から韓国(ソウル)、2006年からアメリカ(ニューヨーク等)、2008年と2009年はカナダ(トロント)、2010年からイギリス(ロンドン)、2013年から台湾(台北)、2014年にはロシア(モスクワ)と年々開催国が増え、2009・2013・2014年にはこれまでで最大規模となる5カ国6都市で同時開催されている。また、2013年からは日本国内において2都市同時公演を東京と石巻(2015年は福島)で行っており、東北開催ではその地ゆかりのアーティストが参加している。
参加者
内田の交友関係により集まったアーティストが中心となっている。
【常連】白竜、シーナ&ザ・ロケッツ、THE NEWS、石橋勲BAND、PANTA、氏神一番/カブキロックスなどに加え、故人となったジョー山中、桑名正博、安岡力也が生前までほぼ毎年参加していた。
【常連以外】ビートたけし、原田芳雄、宇崎竜童、近田春夫、かまやつひろしなどが数回出演した他、沢田研二、キャロル、本木雅弘、RCサクセション、アナーキー、あぶらだこ、THE MODS、ルースターズ、陣内孝則/ザ・ロッカーズ、P-MODEL、BOØWY、RATS & STAR、スターリン、松田優作、JAGATARA、つんく♂、ヒカシューなどが過去の参加者として名を連ねている。
naoshin、新月灯花、TERROR FAMILIA、mil9といった若手アーティストの参加により、出演者の若返り化を図る傾向がある。
家族
娘は内田也哉子、娘婿は婿養子となった本木雅弘である。なお、『SWITCH』誌にて、本木も含む家族全員の記念写真が掲載されたり、孫の七五三を報じるワイドショーでは、内田裕也は不在だったが、一家の祝い事を撮影するジョー山中の姿が全国にオンエアされたこともある。女優の内田伽羅は孫[6]。
エピソード
- 自身の自虐ネタにもなっている位にヒット曲といえるものはない。また、日本のロックの
首領 ()(関西では「関西のロック界の首領 ()」と称される)とされているが、実態はほとんどない[7]。 - 『YOUNG GUITAR』1972年7月号での大滝詠一との対談で「おれは、フォークとロックの違いというのは、結局Drugをやってるか、やってないかの違いだと思う。日本の場合だと、わりと健康、健康ムードで、LSDのようなものはヘビー過ぎてあれだろうけど、GRASぐらい別に日本でも売っておかしくない世の中になるんだと思う」と発言、大滝に「Drugは、音楽する人には必要ないと思う」と反論された。これに内田は「アメリカではDrug常用者の80%がロック・ミュージックが好きだということを考えれば、日本でも。そういうことが絶対にあると思う」などと、日本での麻薬合法化を期待する発言を行なった[8]。
- 映画『花園の迷宮』で共演した島田陽子と不倫していたが後に破局(DVもあった)。さらに内田が1991年東京都知事選挙に出馬した際、島田は内田に選挙カーを提供するなどの支援をしたが、この際方々から数億ともいわれる膨大な借金をし、破局後それに関するトラブルを多数引き起こしてしまい、現在に至るまで尾をひくこととなり、彼女の女優としてのキャリアに大きく傷を付ける結果となってしまった[9][10]。
- 内田が主演を務めた映画『水のないプール』では、ヒロイン役に当時は無名だった高畑淳子が内定していたが、高畑が脱ぐのを拒みクランクイン寸前で降板してしまう(代役は中村れい子が務めた)。内田はこの降板劇をいまだに許しておらず、「会ったら蹴飛ばしてやろうと思ってんだけど、なかなか会わねぇんだよねぇ。」との言葉を残している[11]。
- 2011年4月6日に東日本大震災で被災した宮城県石巻市で炊き出しを行なった。ピザ・野菜スープ400食、ロックにちなんだバナナ690本、ミカン690個を被災者に配布した[12]。
- 先述の指原莉乃とのデュエット曲発売の関係で、2014年7月13日に福岡市の海の中道海浜公園で開催されたHKT48コンサート「可愛い子にはもっと旅をさせよ」に出演、「裕也」コールや「超絶かわいい裕也」など、アイドルのコンサートならではのかけ声を浴びた内田は出番を終えた後「俺の一生の中でも忘れられないコンサートになりました」と振り返った[13]。
- 『NHK紅白歌合戦』には出場歴がない(先述)一方、2013年9月13日放送のNHK総合テレビ『あさイチ』出演時、「いつか紅白に出て見返したい」と語った[14][15]。
逮捕・犯罪歴
- 1977年9月に佐世保警察署に大麻取締法違反の疑いで逮捕され(事情聴取後、起訴猶予処分)[16][17][18][19]、釈放後の『週刊文春』のインタビューでは「マリワナに関して、くどくど弁解などしたくない。オレは10年前からやってるわけで、いつかはやられるだろうと思ってた。ただね、ひとつだけ言っとくと、あれによって音楽が変わるかというけど、そんなにたいそうなもんじゃないよ。まあ、アルコールは人を攻撃的にするよね。酔うと悪口の言い合いになったりする。その点マリワナは、決して攻撃的にならない。やさしく包んでくれる。そういう意味では、アルコールよりも健康的なわけで、ただそれだけのことだよ」と持論を述べた[19]。
- 2011年5月13日、交際中の女性に別れ話をされた際に女性を脅迫し、女性の自宅に侵入した容疑で逮捕された。逮捕容疑は4月2日、交際していた50歳の女性会社員に別れ話を持ちかけられ、復縁を迫ろうと、「会社に連絡した。内容は、暴力団と交際している。アブリ[注釈 3]をやっている。まだ実名は言ってない!よく考えて一週間以内にTELLを!今ならまだ間に合う!」(原文ママ)などと書いた文章を女性宅のポストに
投函 ()した。さらに同月19日、女性宅を自分の家と偽って鍵屋に頼んで鍵を無断で交換し、女性宅に侵入したとしている。帰宅した女性が110番通報し、内田は同署で事情を聴かれた。交際していた会社員の女性に対し、2011年4月2日に女性宅のポストに復縁を強要する内容の文書を投函し、4月19日には女性宅の玄関の鍵を付け替えて侵入をして、警視庁原宿署は2011年5月13日に強要未遂と住居侵入の疑いで逮捕した。玄関の鍵が開かないことを不審に思っているところに内田が部屋の中から出てきたという[20]。2011年3月にはストーカー行為を110番通報され、4月には被害届も提出されていた。2011年5月31日に起訴猶予処分で原宿署から釈放され[21]、6月3日に銀座博品館劇場にて謝罪会見を行った[22][23]。警察署に留置されていたときにつけられた内田の番号が、偶然にも69番であったことを、阿川佐和子との対談で語った[24]。
作品
シングル
- ひとりぼっちのジョニー/ヤング ワン(1963年)
- 破れたハートを売り物に/メダルのジョーイ(1963年)
- 悲しき悪魔/キューティー・パイ(1963年)
- ブルージーンと皮ジャンパー/ジプシー・キャラヴァン(1964年)
- ラスベガス万才/ロール・オーバー・ベートーベン(1964年)
- スイムで行こう/ラン ラン ラン(1965年)
- マンジョキロックンロール/ジョキ安ブギ」(内田裕也と1815ロックンロールバンド名義)(1974年)
- きめてやる今夜(Gonna Make It Tonight)/レッツ・ツイストNo.1(Let's Twist No.1)(1977年)[注釈 4]
- いま、ボブ・ディランは何を考えているか(What's Happening, Mr.Dylan?)/アニーよ銃をとれ!(Annie Get Your Guns)(1978年)
- 無礼講(Sake,Women & My Life)/ONE NIGHT ララバイ(One Night Lullabye)(1979年)
- 長いお別れ(The Long Goodbye)/さらば愛しき女よ(Farewell My Lovely)(1982年)
- 雨の殺人者(Killer In The Rain)/ローリング・オン・ザ・ロード(テーマ・オブ「ロックンロールBAKA」)(1982年)
- アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)(1985年)/コミック雑誌なんかいらない(No More Comics)(1985年)
- シェキナベイベー(内田裕也feat.指原莉乃名義)(2014年)
アルバム
- ロック・サーフィン・ホット・ロッド(尾藤イサオ+内田裕也)(1964年)
- レッツ・ゴー・モンキー(尾藤イサオ+内田裕也)(1965年)
- Challenge!(内田裕也とフラワーズ)(1969年)
- ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)(1973年)
- エキサイティング! ロックンロールパーティ(内田裕也と1815スーパーロックンロールバンド)(1973年)
- HOLLYWOOD(内田裕也 & ザ・ヴェンチャーズ)(1975年)
- ア・ドッグ・ランズ(1978年)
- さらば愛しき女よ(1981年)
- NO MORE COMICS(1985年)
出演作品
テレビドラマ
- ザ・ガードマン(1966年、大映テレビ室・TBS)第87話「檻の中の女」
- 三匹の侍 第5シリーズ 第5話「獣」(1967年、フジテレビ) - ふうてんの仙太
- 七人の刑事(1978年・TBS)第28話「悲しきチェイサー」
- 翔んでる警視(1986年・TBS)
- スターライト・キッズ 新・北斗七星伝説(1988年・TBS)
- 美少女新世紀 GAZER(1998年・テレビ朝日)第4話・第5話
- 警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官(2016年) ‐ 伊藤重太郎
映画
- 素晴らしい悪女(1963年)
- エレキの若大将(1965年)
- クレージーだよ奇想天外(1966年)
- お嫁においで(1966年)
- パンチ野郎(1966年)
- リオの若大将(1968年)
- コント55号 世紀の大弱点(1968年)
- 恋のつむじ風(1968年)
- 昭和元禄 TOKYO・196X年(1968年)
- ザ・タイガース 華やかなる招待(1969年)
- ドリフターズですよ! 特訓特訓また特訓(1969年)
- ドリフターズですよ! 全員突撃(1969年)
- 野蛮人のネクタイ(1969年)
- キャロル(1974年)
- 炎の肖像(1974年)
- 不連続殺人事件(1977年)
- 実録不良少女 姦(1977年)
- 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)
- 最も危険な遊戯(1978年)
- エロチックな関係(1978年)
- 桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール(1978)
- 餌食(1979年)
- スーパーGUNレディ ワニ分署(1979年)
- 夢一族 ザ・ライバル(1979年)
- 赤い暴行(1980年)
- 少女娼婦 けものみち(1980年)
- ヨコハマBJブルース(1981年)
- 無力の王(1981年)
- 嗚呼! おんなたち 猥歌(1981年)
- 水のないプール(1982年)
- コールガール(1982年)
- さらば相棒(1982年)
- 十階のモスキート(1983年)
- 戦場のメリークリスマス(1983年)
- ハンガー(1984年)
- コミック雑誌なんかいらない!(1986年)
- さらば愛しき人よ(1987年)
- 花園の迷宮(1988年)
- 座頭市(1989年)
- ブラック・レイン(1989年)
- 魚からダイオキシン!!(1992年)
- エロティックな関係(1992年)
- 共犯者(1999年)
- 修羅のみち2 関西頂上作戦(2002年)
- 実録・安藤昇侠道伝 烈火(2002年)
- すてごろ 梶原三兄弟激動昭和史(2003年)
- 赤目四十八瀧心中未遂(2003年)
- IZO(2004年)
- ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム(2004年)
- JOHNEN 定の愛(2008年)
- 星くず兄弟の新たな伝説(2018年)
コンサート
- ザ・ビートルズ日本公演 (前座) (1966年)
- Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ (2003年)
CM
- ビッグジョン「天然インディゴ」
- リクルート「ゼクシィ Get Old with Me」(妻の樹木希林との共演)
- スニッカーズ
- イシダ
- セレミューズ株式会社 (2015年11月1日-、近畿地方のみ放映)[注釈 6]
MV
著書
- 「音楽をどう生きるか 内田裕也対談集」 中村とうよう編 創樹社, 1974年
- 「俺はロッキンローラー」 高平哲郎構成 講談社 1976年(2009年、復刻版として廣済堂文庫より発売)
- 「JOHNNY TOO BAD 内田裕也」モブノリオ/内田裕也 文藝春秋 2009年
- 「内田裕也俺は最低な奴さ」 白夜書房 2009年
- 「ありがとうございます」 幻冬舎アウトロー文庫 2014年
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 『ぼくのしょうらいのゆめ』 プチグラパブリッシング、2006-07-07。ISBN 978-4-903267-33-3。
- ↑ “内田裕也、阪神は「ロックな勢いバリバリ」”. 日刊スポーツ. (2014年12月18日) . 2017閲覧.
- ↑ “芸能界スキャンダル史”. 日刊ゲンダイ (日刊現代): 13面. (2013年3月7日)
- ↑ 4.0 4.1 『ミュージック・マガジン』1991年5月号、ミュージック・マガジン、 171-172頁。
- ↑ “内田裕也&さしこ 53歳差デュエット「シェキナベイベー」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2014年4月23日) . 2016閲覧.
- ↑ “祖母・樹木希林が高評価 15歳の内田伽羅に宿る“怪優”の素質”. Yahoo!ニュース. 日刊ゲンダイ (Yahoo Japan). (2015年4月8日). オリジナルの2015年4月20日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ “「ヒット曲もなく」内田裕也は本当に「ロック界のドン」なのか”. ライブドアニュース. 日刊サイゾー (LINE). (2011年5月21日) . 2016閲覧.
- ↑ 『フォーク黄金時代 FOLK OF AGES 1969-1978』 シンコーミュージック、1992-11。ISBN 4-401-61406-2。
- ↑ ““国際女優”島田陽子をドン底に突き落とした内田裕也に山路氏批判の資格ナシ!”. 日刊サイゾー (サイゾー). (2011年1月4日) . 2016閲覧.
- ↑ “DV癖も…トラブル“常習犯”内田裕也、本当の素顔!”. ZAKZAK (産経デジタル). (2011年5月16日) . 2016閲覧.
- ↑ 内田裕也 『俺は最低な奴さ』 白夜書房、2009-11-16。ISBN 978-4-86191-525-3。
- ↑ “内田裕也 ピザ車で参上!石巻市で炊き出し”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年4月7日) . 2016閲覧.
- ↑ “HKT48 たどり着いた「伝説の一日」 単独アリーナツアー「可愛い子にはもっと旅をさせよ」福岡市で千秋楽”. 西日本スポーツ (西日本新聞社). (2014年7月18日) . 2014閲覧.
- ↑ “内田裕也、22年ぶりNHKで「ロックンロール!」 紅白出演に意欲も”. ORICON NEWS (オリコン). (2013年9月13日) . 2017閲覧.
- ↑ “『あさイチ』登場の内田裕也をグサリ、有働由美子アナの一言”. サイゾーウーマン (サイゾー). (2013年9月23日) . 2017閲覧.
- ↑ 敏いとう「俺が見てきた芸能界薬物汚染40年」の闇真相(1)研ナオコが声を詰まらせた
- ↑ 「実刑もありうる」内田裕也容疑者の前歴…大麻に銃刀法違反も
- ↑ 内田裕也、ASKA容疑者に喝 関連商品発売中止には苦言
- ↑ 19.0 19.1 藤原邦洋「ミュージック・スポット」、『週刊文春』1977年(昭和52年)12月22日/29日号、文藝春秋、1977年、 119頁。
- ↑ “ロックミュージシャン内田裕也容疑者を逮捕 交際女性に復縁迫る”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年5月13日). オリジナルの2011年5月15日時点によるアーカイブ。
- ↑ “「よろしくロックンロール」内田裕也容疑者 起訴猶予で釈放”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月1日) . 2016閲覧.
- ↑ “内田裕也「釈明ショー」に取材陣は失笑”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2011年6月4日) . 2016閲覧.
- ↑ “内田裕也 赤裸々告白「娘が口をきいてくれない」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年6月4日) . 2016閲覧.
- ↑ 『週刊文春』2011年7月14日号、文藝春秋、2011年7月6日、 。
- ↑ “神戸アイドルKOBerrieS、ニューシングルでガガガ山本や内田裕也とコラボ”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2015年8月26日). . 2015閲覧.
外部リンク
- 内田裕也オフィシャルサイト
- ニューイヤー・ロック・フェスティバル公式サイト
- [1] - allcinema
- | sub | s=0000000879764 | -7 }}/ Yûya Uchida - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- 内田裕也 - テレビドラマデータベース