小椋佳

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小椋 佳
出生名 神田 紘爾(かんだ こうじ)
別名 葉月多夢
生誕 (1944-01-18) 1944年1月18日(80歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都台東区上野
学歴 東京大学法学部卒業
ジャンル フォークソング
職業 シンガーソングライター
元銀行員
担当楽器
ギター
薩摩琵琶
活動期間 1971年 -
公式サイト gfe.co.jp/ogla

小椋 佳(おぐら けい、本名:神田 紘爾(かんだ こうじ)、1944年1月18日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家である。

来歴・人物

東京都下谷区東黒門町(台東区上野)出身。両親は飲食店を経営[1]

東京都立上野高等学校東京大学法学部卒業後、日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現:みずほ銀行)に入行した[注 1]。銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長[注 2]、本店財務サービス部長などを歴任する傍らで音楽活動を行ってきた。またこの間、ノースウェスタン大学留学や、メリルリンチ証券派遣など、米国滞在を経験している。

1971年、歌手デビューした。当初は、フォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げていった。

初コンサートは1976年10月7日NHKホール、2度目は1982年1月普門館[注 3]である。

1993年、銀行を退職すると、音楽活動の一方で母校の東京大学法学部に学士入学。さらに文学部とその大学院でも学び、2000年に修士号を取得した(哲学専攻)。

他の歌手への提供曲も多く、1975年の「シクラメンのかほり」(歌:布施明)は第17回日本レコード大賞などを受賞した。その他、「俺たちの旅」・「時」・「俺たちの祭」(歌:中村雅俊)、「愛燦燦」(歌:美空ひばり)、「夢芝居」(歌:梅沢富美男)、「十六夜だより」(歌:三橋美智也)などがある。作詞のみを担当した曲としては「憧れ遊び」、「愛しき日々」、「遥かな轍」(作曲・歌:堀内孝雄)、「山河」(作曲:堀内孝雄、歌:五木ひろし)、「白い一日」(作曲・歌:井上陽水)がある。作曲のみを担当した曲では「」(歌:三橋美智也)がある。また、アニメーション銀河英雄伝説』のエンディング曲、校歌・市歌・社歌なども数多く手掛けている。

浜松支店勤務の際、地元の要請に応えて「やら舞歌[注 4]」を作った。これはも浜松まつりなど浜松市のイベントで使われ続けている。第一勧銀浜松支店の担当取引先であった縁で、2005年には同市の菓子製造会社春華堂CMソングうなぎのじゅもん」を作っている。

芸名の「小椋」は、大学3年生の時に法律の勉強で福島県耶麻郡北塩原村の学生村に約2ヶ月間滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したものである[2][3]


長男・神田知秀は小椋のマネジメント会社である株式会社ゴッド・フィールド・エンタープライズの代表取締役である。次男・神田宏司は、国内でも数少ない琵琶製作者である。俳優神田利則は甥に当たる。

2014年、生前葬としてNHKホールで4日間連続の歌が重複しない100曲コンサートを行った。

ディスコグラフィ

太字は小椋がセルフカバーした作品。

書籍・著作

連載
書籍
  • 『今語るあの時あの歌 小椋佳(CD BOOK series)』インタビュー・テキスト前山聿志 (アートデイズ2006)ISBN 4-86119-059-2
  • 『言葉ある風景 (祥伝社黄金文庫 お 16-1) 』(祥伝社2007)ISBN 4396314345

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1993年(平成5年)/第44回 特別出演 山に抱かれて - - ゲスト出演。他の出場歌手と共に歌唱
1994年(平成6年)/第45回 さらば青春 10/25 島倉千代子
2007年(平成19年)/第58回 特別出演(2) 愛燦燦 - - 特別企画枠。美空ひばりの生誕70周年を
記念して、小椋佳が生前のひばりの
映像とのデュエットを披露した。
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

ラジオ番組

2018年4月現在。

現在
  • 小椋佳~闌の季節 (文化放送、日曜 08:00-08:30)
  • 小椋佳の歌とともに - コメント出演(K-mix、金曜 20:00 - 20:30)
過去

備考

病気
2000年に胃癌で胃の3/4を切除。2012年には劇症肝炎で生死を彷徨った。もっとも病の後も1日2箱の煙草を欠かさず、また米留学以来常にコーラを愛飲し、1.5リットルのボトルが1日半でなくなるという[8]
記録
『夢追い人』と『彷徨』の2枚は、という、未だ破られていない最高記録を持つ。
デビュー経緯
1966年、寺山修司DJをしていたラジオ番組の「5分間なんでもコーナー」で自作の歌を歌う。これが縁で、寺山が企画していた天井桟敷LP『初恋地獄篇』に歌手として参加。これを聴いた日本グラモフォン(後のポリドールレコード)の新人プロデューサー多賀英典は、声のイメージから美少年だと思って会おうとしたところ、『初恋- 』の関係者から「やめた方がいいよ。彼は東大のエリート銀行員だし、なんと言っても歌手という感じじゃないし⋯」と断られたと回想している。
喫茶店で待っていたらやってきてさ。一目見てなんと言って断ろうかと思った(笑)。

—多賀英典

銀行員で結婚していて、とても歌手という風貌ではないので、どう断って帰ろうかとそればかり考えた。

—多賀英典

当時はアイドルにしろ歌手にしろ必ずテレビで売るから容貌が悪いのは問題外だったんだよね。

—多賀英典

小椋君が「『初恋地獄篇』の曲、僕の曲じゃないんだ。僕の曲、聞いてくれる?」というので断るわけにもいかず聞いたら、思わず「この曲、私がなんとかするから私にくれ!」と叫んでいた。すごく興奮したことを覚えている。その曲が『しおさいの歌』だった。

—多賀英典

小椋佳を歌手デビューさせるわけにもいかないので、小椋君の曲を歌える歌手を探していたら、彼が銀行の米国研修に行くことになったのでしかたがなく本人でいくことにした。

—多賀英典

デビューアルバム
1971年、『青春 〜砂漠の少年〜』でデビュー。アルバムで世界観を創るという多賀の方針から当時としてはめずらしい、アルバムでのデビュー。
ポッと出の新人なら当時LP一枚の制作費250万円程度が相場だったのに、多賀は部長と喧嘩して500万円を使わせた。
いいものは必ず売れると思っていた。若かった。

—多賀英典

初回販売が1000枚だと言うので営業を怒鳴りつけた。こんないい作品が売れないはずがないと思った。

大野進

ポリドールの営業会議で、僕の写真と井上陽水[注 7]の写真が並べられて、どういうわけか陽水が売り出されることになってしまいまして。陽水って、サングラスを取るとそんなに美男子というわけでもないんですが⋯。

—小椋佳

こんなことが続くはずがないと思っていたので、銀行は辞めませんでした。

—小椋佳

セカンドアルバム・雨
ファーストアルバムが制作費をカバーできる程度に売れたので2枚目のLP『雨』に着手。
結局表に出せないから、「東大卒の謎のシンガー」で行くことにした。小椋の情報はテレビやマスコミ、外部にはすべてシャットダウンした。ラジオで少しずつ流して、人々の間に広まっていけば、絶対いいものを創ってるんだから売れないはずがないと思っていた。

—多賀英典

『少しは私に愛を下さい』は、1971年に小椋のいた日本勧業銀行と第一銀行の合併を皮肉った歌。人事部に知れて怒られる。歌中の「バラ」は勧銀のマーク。
サードアルバム・彷徨
アルバム『青春』と『雨』を再構成したアルバム。小椋自身は自分が知らないうちに出されていたと証言している。232週間連続の長期間にわたりTOP100チャートに滞在し、ビートルズの『レット・イット・ビー』・『アビイ・ロード』に次いでオリコンモンスターアルバム。。
アルバム・残された憧憬
フォーク、ロックストリングスを融合したニューミュージックの先駆け。今までの小椋のクラシカルな世界から、キング・クリムゾン的ロックをフィーチャーしたポップスを目指す取り組みがなされた。大野進によると最新鋭の16チャンネルのミキサーを使用。元六文銭安田裕美、後のYMO細野晴臣矢野誠矢野顕子林立夫坂本龍一の先輩だった深町純、まだ10代だった高中正義が参加している。
ザ・モップス星勝を起用した。
小椋佳は軽いサウンドだと思った。ロックじゃない。なんでオレが⋯って思ったけど、多賀さんと大野さんの尋常でない音取りの執念に圧倒され、気がついたら一緒になってのめり込んでいた。最高傑作だと思う。

—星勝

(『残された憧憬』以後)小椋佳と星勝は切っても切れない関係。

—多賀英典

陽水が「今何やってるの?」「小椋佳」「また小椋佳やってるの?」とやっかむように言うので「君は君、彼は彼だよ」と言った。その時までは陽水と小椋佳は別の世界だと思ってたけど、陽水や星勝君、安田裕美君に小椋佳の世界を音楽にしてもらったら、よりドラマチックな世界が表現できるのではないか?そう思って『残された憧憬』を創った。フォークギターとストリング中心からベースドラムを中心にしたリズムセクションを強調してさ。ロックサウンドだよね。フォークというとギター一本とかの時代でさ。あまりサウンドというものは重要視されてなかったんだ。音取りなんて2時間で終わり、とかね、そんな時代だった。このアルバムから音楽業界もフォークからロックとストリングスを融合した濃厚でよりドラマチックなサウンドに変わっていったんだ。ニューミュージックの先駆けとなった。中島みゆきとか荒井由実が出てくるだいぶ前でさ。

—多賀英典

シクラメンのかほり
布施明に提供した『シクラメンのかほり』が大ブレイク。マスコミが大騒ぎして小椋の存在を隠しきれなくなる。NHKコンサートでお披露目という流れに。
『シクラメン- 』が売れて、第一勧銀でも問題になる。当時の小椋の上司で後の頭取・宮崎邦次は小椋をかばった。
神田君はみんなと一緒になって最後まで残業して一生懸命仕事をしている。なんの問題があるのか?

—宮崎邦次

資生堂
第一勧銀で財務担当だった小椋の顧客で、資生堂の当時の宣伝部長・福原義春に「神田君、こんなことやってるんだ」と言われてCMソングを依頼され、断り切れずに曲を創る。それが資生堂の初のCMキャンペーン「ゆれる・まなざし」。『揺れるまなざし』はCMソングの先駆けになった。これ以降、資生堂ではCMイメージソングを重要視するようになる。
曲作り
小椋はよく「ギター弾けないんですよ」と言っているが、これは「アコースティック・ギターが弾けない」という意味である。
僕はギターが弾けないんです。ですから僕のバックに流れてるすばらしいギターの音が聞こえるのは、ここにいる安田裕美さんが弾いているんです。いわば「本当の小椋佳」です。

—小椋佳(1981年普門館のコンサートにて)

昔から我が家にあったボロいクラシック・ギターで、コードを3つぐらいしか知らないのに、曲を創っては、夜、私をたたき起こして「一曲創ったんだ。聞いてくれる?」とやるんです。

—神田富雄(実弟)

NHKコンサートでは「アンコールがあったら一人でやれ」と多賀に言われて、安田からマーチンのアコースティックギターを借りて練習させられて『木戸をあけて』の弾き語りをやった。
小椋は譜面が書けないので、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にしていくという手法。それをカセットに録音していた。
よく小椋さんの家に行って曲作りと譜面おこしを手伝いました。

—安田裕美

人物評
(学生時代に)『青春 〜砂漠の少年〜』は擦りきれるほど何回も聞いた。友人に何度も何度もいいだろ?いいだろ?って言ったんです。そんなわけで『俺達の旅』は小椋さんにお願いしました。

中村雅俊

小椋佳はよく素人の余興と言われるがとんでもない。彼が米国に研修に行っていた時、ロスで『夢追い人』のレコーディングをやったんだけど、一緒に麻雀を徹夜でやる。朝になると僕等は寝てても彼はちゃんと銀行の仕事に出かけてこなす。そういった強烈なパワーの持ち主だった。

—多賀英典

当時のキティはもの凄く儲かっていた。小椋佳のライヴの2枚組(『遠ざかる風景』)なんか100万枚売れてたしさ。

—宗像和男(キティレコード・プロデューサー)

小椋佳と井上陽水の大ヒットで多賀英典はドイツのポリドール社からスタジオをプレゼントされた。それが「キティ伊豆スタジオ」だった。

—大野進

小椋さんは第一勧銀の頭取候補だったんだ。頭取候補が、支店長経験がないというのは問題だということになって浜松支店長をやることになったんだけど、ウチとしては東京にいてもらわないと困るんだ。アルバム『いたずらに』はそんな最中の制作で、第二回目のコンサートをやってケジメをつけようということになって普門館コンサートが企画された。だから最後の曲が『さよなら』なんだよね。

—岩瀬貞行(キティレコード・プロデューサー)

ポリドールの第一スタジオで小椋さんの音取り。第二スタジオで陽水の音取りなんてこともよくあった。いい時代だった。

—安田裕美

その他
  • 日本中央競馬会馬主である(本名名義)。
  • 小椋の事務所は一時期アニメ「うる星やつら」・「めぞん一刻」などの公式ファンクラブ「キティアニメーションサークル」(略称KAC)の事務局を兼ねていたことがある。当時の事務所社長は小椋の実弟であった。
  • 一時期、東京キッドブラザースへの提供作品を中心に『葉月多夢』というペンネームを用いていたことがある。由来は長男のアメリカでの愛称からきている。次男に自分と同じ名前を付けたことから、長男への配慮として長男の愛称をもうひとつのペンネームとしたという。

脚注

注釈

  1. 大学、勧銀の同期には後に第一勧銀最後の頭取となる杉田力之がいた。また、東大法学部の同期には公明党元代表の神崎武法東京海上日動火災保険相談役の石原邦夫らがいた。
  2. 営業店としては富士銀行側に統合、建物跡地としてはダイワロイヤルネットホテルが立地する
  3. 1月15日テレビ朝日系で録画放送。
  4. 「やらまいか」とは遠州弁で「やってみよう」の意味。
  5. 静岡県を除く東海地方北陸地方近畿地方山口県を除く中四国地方
  6. 本来掲載するべき1月2日の土曜日が新聞休刊日により新聞がなかったため、元日付けに併載の2日のテレビ面に初回を掲載。
  7. まだ無名のころ、ライブハウスで初めてステージに立った際、一緒に出演したのが井上であった。

出典

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外部リンク

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