長谷川和彦

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長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - )は、日本の映画監督。愛称ゴジ広島県出身。

経歴

生い立ち

広島県賀茂郡西高屋町(現:東広島市)に出生[1]。父は農業協同組合勤務、母は教師で三人兄弟の末弟。1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射線を浴び、胎内5ヵ月のため胎内被曝となった[1]。4歳からABCC(現・放射線影響研究所)で定期検診を受けた[2]。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐ原因となったとインタビューで語る[3][4]

広島市翠町(現:南区翠町)で育ち、広島市立皆実小学校から広島市立翠町中学校を経て広島大学付属高校へ進む[1][5]。翠町中学の一学年下に吉田拓郎[5]。広大付属高の同級に鳥取県米子市長・野坂康夫[6]。高校時代はジャズに熱中、テナーサックスを吹きバンドも組んで、ジャズミュージシャンを目指したが挫折[4]

高校卒業後は東京大学文学部英文科に進んだ。在学中は大学闘争真っ盛りの時期だったがそれには参加せず、ボート部を経て[7]アメリカンフットボール(アメラグ)に熱中し、フットボール部ではキャプテンにもなった[8]。「麻雀とアメラグだけのノンポリフーテンだった」と話す。英文科に3年在籍、のち映画監督を目指して美学科に変わる。

助監督時代

大学に通う傍ら、映画監督との出会いを求めて、夜にはシナリオ研究所で映画監督の浦山桐郎のゼミを受講。浦山から今村昌平の今村プロの助監督試験を紹介されて、合格[9][10]。在学5年目の1968年、今村プロに入社。卒論を残すのみだったが、大学は今村の命令で中退[7]。映画『神々の深き欲望』の制作スタッフについて沖縄ロケに参加した[8]。沖縄ロケでの資金枯渇や未払いなど残務処理など今村組での体験によって、今村昌平流の粘る映画作りがすり込まれ、後の日活時代の助監督生活も苦しいと思ったことはないという[11]

今村プロ時代に24歳で結婚[7]。家賃2万円のボロ家の今村プロ事務所に、管理人夫婦を兼ねて住んだ[12]相米慎二はそこへ長谷川の妻の女友達のヒモとして転がり込んでそのまま居着き日活に入った[5]1970年の今村監督の『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』には助監督としてつき、その後も1981年に映画化された『ええじゃないか』の資料調べをするなど[13]、3年ほど今村プロに在籍。しかし今村プロが開店休業状態のため仕事がなく、他の独立プロで仕事をしたいと今村に申し出。日活の臨時雇いの契約助監督の仕事を、あくまで出向だぞと釘を刺されながら今村から紹介され[14]1971年に日活契約助監督となる[15]。25歳のこの年、国映の専務から声をかけられ、外国人ポルノ女優を使って洋ピンもどき『センチメンタル・ジャーニー』を作ったが、9割方撮り終えたところで頓挫した[15][注 1]

当時はダイニチ末期と日活ロマンポルノ転換の端境期にあたり[5][15]小沢啓一藤田敏八西村昭五郎神代辰巳らの作品に付く傍ら、『濡れた荒野を走れ』、『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビ『悪魔のようなあいつ』などのシナリオを書き注目された。「ポルノの脚本なんか書いたら他から仕事が来なくなるぞ」といわれ、ロマンポルノ初期には一線級のライターは殆ど脚本を書かなかったから[15]、長谷川が脚本を書くようになった[15]。脚本料は1本15万円[15]。テレビ『悪魔のようなあいつ』は1本25万円[15]。長谷川は日本映画のプログラムピクチャーシステム体験(大手映画会社で助監督経験)を持つ最後の世代となる[17][18]。神代辰巳が監督した1974年の『青春の蹉跌』では脚本のみならず、ラストシーンとなるアメフトシーンの撮影を担当[19]

当時の日活は社員助監督がみんな監督になって、ヤケになっていた時期でもあり[15]、「ゴジなんかにも一本撮らせてみるか」と[15]、『卓のチョンチョン』というロマンポルノと『燃えるナナハン』という一般映画の監督をする話が2度あったが、正社員の社員助監督ではなく契約助監督だったことから、いずれも労働組合の反対で流れる[15]。『燃えるナナハン』は、藤田敏八監督の『』の併映作の予定だった[5]。政治に関わらないノンポリだったにもかかわらず、日活撮影所を仕切る日本共産党系労働組合からトロツキスト呼ばわりされる形で撮影所を追い出され[5][7]、日活に見切りをつけ[4][20][21]1975年よりフリーとなる。同年1月には林美雄の企画による、渡哲也菅原文太原田芳雄ら映画俳優のコンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」を演出[22][23]。当時は外部の作品に契約のまま一本だけ付くということはよくあったが[5]、『青春の殺人者』を撮る際、日活の助監督連中に声をかけたら「長谷川組についたら、日活は再契約はしない」と当時の撮影所長・黒澤満から脅しをかけられた[5][15]

監督時代

1975年[24]、長谷川の噂を聞きつけたATGの多賀祥介に話を持ちかけられ[7]中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』により翌1976年監督デビュー。製作が決まってクランクインまで丸一年を要した[24]。「30歳の新鋭映画監督登場」、「ニューシネマの旗手」[25]として話題を呼ぶ。この作品はその年のキネマ旬報ベスト・ワンに選ばれるなど、高い評価を受け、多くの映画賞を独占。新人の第1回作品がベスト・ワンになるのは異例であった[26]。長谷川に引っ張られるように、次々に映画界に若手監督がデビューした[25]相米慎二は「長谷川は映画を動かす時代の始まりだった」と述べている[27]

1978年小林信彦の小説『唐獅子株式会社』の映画化に取り組むが、脚本が難航して流れる[28][29][30]。また、角川の大作『人間の証明』は、最初に角川春樹から長谷川に直接脚本の依頼があったが[31]、長谷川が角川に対して無礼な物言いを行って流れたといわれる[32]

1979年伊地智啓によると、長谷川のためにキティレコードが映画製作部門としてキティ・フィルムを設立[33]。映画のプロがいないので長谷川が伊地智をキティ・フィルムに引っ張り込んだ[5]。1979年、レナード・シュレイダー(ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で、『太陽を盗んだ男』を監督。孤独な中学物理教師(沢田研二)がアパートで原爆を製造。国家を敵にまわし、ナイター中継の延長やローリング・ストーンズの日本公演を要求する。原発の襲撃や派手なカーチェイスなど、それまでの日本映画にないエネルギッシュな娯楽アクションに仕上げ、“日本のスティーヴン・スピルバーグ”の異名を取る。キネマ旬報ベスト・テン2位、同誌読者投票1位と高評価を受け、「若手監督の旗手」と、大きな支持を受けた。しかし、この映画は興行的には振るわなかった[18]。この映画が当たらなかったことは、当時の独立系の映画製作者にとってショックが大きかった[18]。理由は諸説言われているが、後の東映社長・岡田裕介田山力哉は当時「題名が良くなかった」と語っていた[34]ATG代表・佐々木志朗は「興行というのが不可測になった。分からなくなった」[18]荒戸源次郎は「『太陽を盗んだ男』が興行的に当たるべきだった。失敗してはいけなかったんだ。次に来るやつらの為にも。スターも出ている、作品の出来もいい、なぜお客が入らなかったのか。長谷川和彦のシャシンは客が呼べるということになっていれば、随分状況は違ってたと思う」などと話した[18]。こうした事情もあって、本作は長らくカルト映画の位置付けであったが[35]、その後一般的な評価が高まり、映画誌などで<日本映画史上歴代ベストテン>にも挙げられたり、<20世紀を代表する日本映画>などと評されている[36]。 

1981年12月9日深夜に起こした飲酒運転による人身事故で[24]懲役6ヶ月の実刑判決を受け[37]1983年3月から同年8月18日まで交通刑務所に5ヶ月間服役[38][39][40]。付き合いの広さから新宿サンルートホテルで出所を祝うパーティが芸能界、麻雀界から多士済々な人々を集めて開催された[40][41]。このときのことは『月刊プレイボーイ』の1983年12月号と1984年1月号に「市原交通刑務所、163日間体験記」と題して連載した。

ディレカンの設立

1982年6月、大森一樹相米慎二高橋伴明根岸吉太郎池田敏春井筒和幸黒沢清石井聰亙ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立[42][43]。監督代表として取締役に就任する[44]。ディレカン設立は、長谷川が「一人の監督の主宰する独立プロではなくて企業としてもちゃんと映画を作っていける集まりを作りたい」と相米と根岸にしたら、二人が「やるなら乗ってもいい」と応えたことを発端とする[43]。ディレカンのうち、長谷川にとって一番目の弟分である相米[45]と黒沢は長谷川の口利きで業界入りした[46]。相米は前述のように長谷川の妻の知り合いという関係で日活に入り[5]、長谷川とともに日活を退社して『青春の殺人者』でチーフ助監督を務めた[5][38][47]。黒沢は雑誌『GORO』の座談会をきっかけに『太陽を盗んだ男』の脚本書きに引っ張り込まれたもの[48]石井聰亙は長谷川の誘いでディレカンに参加した[49][50]。ディレカンは世間の関心を呼び、雑誌媒体の他、メンバー全員で『11PM』などテレビにも出演、これらを見て触発された若い映画人も少なくない[51]。当初は週一回の定例企画会議があって全員で集まり[43]、若い人材の発掘に脚本公募をすると400本集まり『台風クラブ』の脚本・加藤祐司や『東京上空いらっしゃいませ』の脚本・榎祐平などが世に出た[43]。ディレカンではプロデューサーなどの裏方的仕事にまわり、石井聰亙監督『逆噴射家族』などを製作。相米が『光る女』などで大赤字を出し、ディレカンが経営難で給料遅配が続いたときは、長谷川個人で借金をして会社につぎ込んだが[52]井筒和幸監督『東方見聞録』での死亡事故もあり[53]、ディレカンでは唯一、長谷川だけが映画が1本も撮れないうちにディレカンは倒産した[43][54]

その後

その後、テレビ、ビデオ、CMなどを演出するが、『太陽を盗んだ男』以降の映画監督作品はない[55]。デビュー作と第2作がキネマ旬報ベストテン1位と2位という華々しいスタートだったこともあり、長らく次回作が見たい映画監督ナンバーワンと言われ続けてきたが[1][56]、2014年夏の時点では新作の話は聞かれない[55]。「俺はやめたと思ってるわけではないんだ。半年後にはクランクインする気持ちは今も変わらないんだ」と話している[55]

この間にも、『戦国自衛隊』の続編企画[57]や『ガンヘッド[58]、『禁煙法時代』[59]菅原文太プロデュースの『吉里吉里人[60]近藤真彦中森明菜の『愛・旅立ち』の原型になった『PSI』[60][61]など様々な企画があったが、本人が断ったり、途中降板するなどして実現していない。東映俊藤浩滋プロデューサーからは、青函トンネルを題材にした映画の脚本を依頼され、北海道に1ヶ月間取材旅行に行った末に飲み食いで金を全て使い切り、「竜飛岬UFOが降りてくる」という脚本を持って行ったところ、俊藤が激怒して流れた[62]。この企画は製作費20億円という話で、大金を使って失敗したらという不安だったともいわれる[24]

なかでも意欲的だったのは連合赤軍を題材とした作品で[63]、1980年前後に東京地裁であった連赤統一公判の公判日には、田村孟と欠かさず通い[63]、シナリオ化して監督するとの構想を語っていた[42][64][65]。田村は「加藤3兄弟」を軸として本を書き、長谷川は『仁義なき戦い』のような、ドキュメンタリータッチで、戦後学生運動史のような映画にしたいと黒沢清を助手にして年表作りまでして構想を練り[63]高橋伴明もずっと手伝う約束をしていたというが[66]、その後頓挫している。2008年に『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った若松孝二監督は「ゴジが撮る撮るといっていっこうに撮らないから俺が撮った」と話している[55][67]

1980年代以降は『近代麻雀』や『週刊ポスト』などに雀士として登場したり、『スーパーワイドぴいぷる』(TBSラジオ)のレギュラーを受け持つなど、本業以外で名前があがっていた。雀士として井上陽水などを麻雀仲間に引き込み文化人と交流させた[注 2]。第13・14・15期麻雀名人、第9期近代麻雀王位。

浮名にも事欠かない[25]。早くに結婚してすぐに子供もできたが、女優・沖山秀子との仲が取沙汰されたり[25]田淵幸一の離婚話が出た際に田淵夫人の田淵博子の浮気相手に擬せられたこともある[25]1988年からは女優の室井滋との不倫と同棲生活がマスコミを騒がせて[69][70]1992年に妻と離婚し[71]、室井と同居生活を送っている[72][73]

1993年には、日本映画監督協会新人賞選考委員長として、岩井俊二の『if もしも打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』をテレビドラマ作品としては異例の選出を行う[74]吉田大八は、ディレカンに憧れ、イベントで吉田の8ミリ映画を観た長谷川に「助監督やる気ある?」って声をかけられ、3回だけディレカンの仕事をしたと話している[75]成島出は、ぴあフィルムフェスティバルで、長谷川と大島渚に「映画監督になれ」と言われ映画監督になり[76]、長谷川のもとで5年間、書生のような生活を送った[77][78]。「長谷川監督の弟子として様々な経験を積んだこと、自主映画の現場で仕事を覚えていったことは、全て今に繋がっていると思います」と述べている[79]真辺克彦荒井晴彦たちの映画会社「メリエス」に脚本を持ち込み、これが荒井や長谷川、成島出に評価されたことが映画界に入る切っ掛けで[80]、このため長谷川ら三人を師匠として挙げている[80]平山秀幸は『青春の殺人者』のスタッフを皮切りに映画界入りした[81][82]

評価の高い2本の監督作のみで伝説的映画監督と化しているが[55]、未だ熱烈な支持者を持っている[83]

鈴木清順監督・沢田研二主演の映画『夢二』に悪役で出演している他、テレビドラマにも俳優として出演したことがある。

人物

寡作になった理由については、『太陽を盗んだ男』で古くからつきあいのあった後輩のチーフ助監督が映画界から消えたことにショックを受けたことが原因と語る。そのことで、自分は本当に撮りたい映画以外は撮る資格がないと考え、依頼された企画を見送っているうちにどんどんハードルが高くなってしまった結果なのだという[84]

愛称の「ゴジ」は、大学時代アメフトのボールを長髪を振り乱して目をギョロギョロさせて追う形相を、「ゴジラそっくり」と部の監督が言ったのが始まりである[7]。あるいは酔っぱらったときにゴジラのように破壊するからだという説もある[85]。パパと言われるのが嫌で、息子と娘にも「ゴジ」と呼ばせている[86]ラジオ日本では『ゴジラ・バラエティ』というラジオ番組を持ち、DJをやっていた[4]

酒を飲んではあたりかまわず喧嘩を仕掛ける豪傑として知られ[2][87]、助監督時代から監督よりも偉そうにしていたと言われ[88]、藤田敏八の演出に口出ししたり、藤田をパキ、神代辰巳をクマと呼び捨てにしていた[7]。そのため生意気だというので日活スタッフの間から長谷川を懲らしめようという話が出ては、その度に先輩監督がおさめたという[89]

しかし、映画評論家の白井佳夫は、長谷川は「わざと尊大で無造作な態度」をとっていると評する[85]。長谷川本人も豪傑が自分の地ではないことを認めており、少年時代はガリガリに痩せて軟弱だったのが強くなりたいと願ってスポーツをして強いふりをし、ゴジというニックネームに合わせて豪傑ぶっているうちに、本当に外見的にもそうなってきたと語っている[8]。自分の性格は、気が小さく、末っ子の甘えん坊で威張って怒鳴って甘えるともしている[90]。サングラスを常用[85]黒沢清も、サングラスをかけた強面の見た目から想像した人柄とは大分違い、インテリでとても人に気を遣うジェントルマン、「なかなかの人格者」などと述べている[91]

新宿ゴールデン街スナックで飲んで暴れて、窓ガラスを割り、冷蔵庫を床に転がし、足の踏み場も無いほど店を破壊して、駆けつけた警官を殴り、四谷署でぐるぐる巻きにされて床に転がされていた[92]、俳優でもツワモノに位置する竜雷太と殴り合いで五分を張った[93]安岡力也ととっくみあいの喧嘩をした[89]、作家のリチャード・ブローティガンを殴打して鼻骨を折った[94]、新宿の焼肉店・長春館で監督協会理事長・大島渚以下、深作欣二貞永方久など、錚々たる幹部連中を前にして監督協会批判を始め、崔洋一から殴られて怒鳴り合いになり店にいたヤクザからうるさいと怒られると今度はそのヤクザに向かっていった[95]、各界の著名人が集った伝説のバー「ホワイト」でも、内田裕也と並んで"ハリケーン"といわれたが、女子供相手の内田とは違い、いる人誰にでも喧嘩を売って出入禁止となった[96]など、武闘派として多くの逸話を持つ。 ただし、自分より弱い相手とは喧嘩をしなかったと語っている[7]。今村昌平は、長谷川について、体が大きくて大酒飲みのわりにはひ弱、甘ったれと評し、『神々の深き欲望』のロケでは体力がなく、日射病でダウンしたと述べている[7][97]。長谷川にとって今村は多くを学んだ師匠であるが、今村プロ時代から何度も決裂寸前となり、プロデュースしてもらったデビュー作の『青春の殺人者』でも色々あり、愛憎半ばする関係だとしている[98]

一晩にボトル1本の豪放な酒豪で、井筒和幸は「ゴジと伴明さんに、月25万円やるからディレカンに来ないか」と誘われたが、自分ばかりで働かせられて、ゴジたちは毎晩酒ばっかり飲み、挙句25万円会社に入れろと言われ、その金も飲み代に使われた」と話している[99]

逸話

江口洋介は17歳の頃、所属した事務所に出入りした長谷川や原田芳雄ら「70年代の怪物(江口談)」と新宿ゴールデン街にくっついていき、華やかな芸能界どころでない、不良の世界を初めて覗き見た。みんな映画を熱く語りすぐに喧嘩が始まる。そこは酒とフィルムと喧嘩とイデオロギーの世界でとても面白く憧れたという[100][101]

白井佳夫の企画で倉本聰脚本、萩原健一主演の予定でクランクイン3日前に中止になった映画『純』では、チーフ助監督につく予定だったが、倉本の脚本を「おれたちが撮影現場で直し直し撮っていきゃあ、まあまあ一応の映画にゃ、なるんじゃないの」と発言し、倉本が長谷川を外せないかと打診したが、その後はうちとけて仲良くなった[85]

作品

監督作品

脚本

  • 性盗ねずみ小僧(1972年、脚本)
  • 濡れた荒野を走れ(1973年、脚本)
  • 青春の蹉跌(1974年、脚本)
  • 宵待草(1974年、脚本)

製作

出演

  • 夢二(1991年、出演) 鬼松

テレビドラマ

ミュージック・ビデオ

CM

関連書籍

  • 罵論・ザ・犯罪―日本「犯罪」共同体を語る(1986年5月、アス出版 ISBN 978-4900402126 )-栗本慎一郎小室直樹との鼎談集。

脚注

注釈

  1. 国産のピンク映画よりフィルム貸し出し料が高い洋画のピンク映画を、いっそ海外から買うよりも、日本にいる素人の外国人を騙して、タダで連れてきて撮影しようというプランだった。主役の黒人は立川基地の兵士で、彼のオフに合わせて撮影した。しかし初の監督作に力の入るゴジの演出がピンク映画の枠を逸脱し、10日で終わる予定の撮影が2ヶ月たっても終わらない。それでも台本の9割は撮影した。しかし裸は出てもエロ要素が薄く、追加の予算で裸のアップを入れるつもりが、予算を預けたプロデューサーが金を倍に増やそうとして競馬に賭けて無くなり頓挫した。あらすじは、関東村を脱出した主人公が放浪を続けながら仲間たちに出会っていくという日本版『イージーライダー』。当時国産のピンク映画は250万円で作っていたが350万円の予算だった。若松孝二が「ゴジ、それは大作だ!」と驚いていたという。この幻のデビュー作は、今も現像所の倉庫にあると話している[16]
  2. 井上陽水が麻雀を通じて文化人と交流を持った経緯は、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木寛之に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち阿佐田哲也に会い、この後、長谷川と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之黒鉄ヒロシ畑正憲らと知り合った[68]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 青春の殺人者 | 広島国際映画祭 | HIFF
  2. 2.0 2.1 中島丈博「熱気あふれる『青春の殺人者』伊豆・下田ロケ訪問」『キネマ旬報』1976年10月下旬号、77−79頁
  3. 『キネマ旬報』2011年3月下旬号、p.143
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『毎日ムック―シリーズ 20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』(2000年、毎日新聞社)pp.26-27
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 「対談 長谷川和彦×相米慎二」『月刊シナリオ』 日本シナリオ作家協会、1980年8月、8-17。
  6. 高校時代の思い出/米子市ホームページ
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 7.7 7.8 田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』(1980年、ダヴィッド社)pp.214-221
  8. 8.0 8.1 8.2 香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』(2004年、河出書房新社)pp.276-279
  9. 今村昌平「長谷川和彦という男」『キネマ旬報』1976年10月下旬号、109頁
  10. 浦山桐郎「『泥の河』に寄せて」 『月刊シナリオ』1981年6月、pp.50-51
  11. 香取、2004年、pp.281-283
  12. 香取、2004年、p,290
  13. 香取、2004年、p.293
  14. 香取、2004年、pp.295-296
  15. 15.00 15.01 15.02 15.03 15.04 15.05 15.06 15.07 15.08 15.09 15.10 「インタビュー長谷川和彦」『月刊シナリオ』1982年5月号、pp.14-18
  16. 「失われた映画を求めて これは、観たい!巨匠たちの未完の大作。 『センチメンタル・ジャーニー』『連合赤軍』長谷川和彦」『BRUTUS』1998年8月15日号、マガジンハウス、27頁。
  17. 佐藤隆信『黒沢清の映画術』(2006年、新潮社)p51
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 「佐々木志朗・小林紘・荒戸源次郎『オーナーたちの最大魅力映画群(その1) 狂い咲きサンダーロードをめぐって」『月刊シナリオ』1980年9月号、pp.40-46
  19. 「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』2002年夏・秋合併号 NO.401(編集プロダクション映芸)p.27
  20. 『映画芸術』NO.401、p.27
  21. 『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』(1989年、芳賀書店)pp.54、65
  22. 『キネマ旬報』2011年9月下旬号、p.66
  23. 柳澤健『1974年のサマークリスマス』(集英社)
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 長谷川和彦「顔と言葉 非現実的な予算の中で」『キネマ旬報』1976年9月下旬号、59頁
  25. 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 「八面六臂の『猶予』大活動の甲斐なく長谷川監督の『入獄』前夜」『週刊新潮』1983年3月3日、pp.140-143
  26. 田山力哉『新しい映画づくりの旗手たち』(1980年2月、ダヴィッド社)p224
  27. 『シネアルバム126 相米慎二映画の断章』(1989年、芳賀書店)p.74
  28. 小林信彦『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』(1989年、筑摩書房)p.10
  29. 小林信彦「本音を申せば 連載 第577回 なつかしい人、笠原和夫2」『週刊文春』2009年11月5日号、p.54
  30. 小林信彦『森繁さんの長い影 本音を申せば6』(文春文庫)
  31. 「邦画新作情報 長谷川和彦が角川映画の脚本を」『キネマ旬報』1976年12月下旬号、pp.184-185
  32. 『月刊シナリオ』 日本シナリオ作家協会、1977年1月号、p.83
  33. 『甦る相米慎二』(2011年、インスクリプト)pp.183-186
  34. 『月刊シナリオ』 日本シナリオ作家協会、1981年1月号、28頁
  35. 『ぴあシネマクラブ 日本映画編 2007年最新版』(2006年、ぴあ)p363
  36. 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開1位は東京物語とゴッドファーザー キネ旬がベスト10 - Asahi、「キネ旬ムック オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」キネマ旬報社、2009年12月、p1-20、Amazon.co.jp: 太陽を盗んだ男[DVD]商品の説明
  37. 「控訴棄却!長谷川和彦監督に懲役6ヶ月の厳しい実刑判決」『週刊平凡]』1982年11月4日号、pp.36-37
  38. 38.0 38.1 『映画芸術』NO.401、p.28
  39. 「飲酒運転で刑務所生活162日、仮出所した長谷川和彦監督」『週刊明星』1983年9月8日号
  40. 40.0 40.1 「長谷川和彦出所」『月刊シナリオ』1983年11月号、p.107
  41. 「パーティ ゴジとの再会を喜ぶ会」『噂の真相』1983年10月号、p.14
  42. 42.0 42.1 インタビュー長谷川和彦「5月末にディレクターズ・カンパニー設立を目指す 好きな映画を作ってしっかり金を儲ける」 『月刊シナリオ』1982年6月、pp.62-67
  43. 43.0 43.1 43.2 43.3 43.4 長谷川和彦・根岸吉太郎・相米慎二「ディレクターズ・カンパニーの監督たち シンポジウム報告」司会・大久保賢一『キネマ旬報』1990年5月下旬号、pp.140-143
  44. vol.127 黒沢清の映画術- 全国映画よもやま話
  45. 『映画芸術』NO.401、p.29
  46. 黒沢清監督が語る『神田川淫乱戦争』から『ダゲレオタイプの女』までの軌跡
  47. 効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二
  48. 黒沢清の映画術、45-48、60頁、効率至上主義の真逆を突き進んだ男、伝説のシネアスト(映画人)相米慎二「あ、春」「セーラー服と機関銃」 - KAWASAKIしんゆり映画祭
  49. 「撮影現場訪問 逆噴射家族」『キネマ旬報』1984年4月下旬号、pp.138
  50. 『爆裂都市』から『ソレダケ』へーー石井岳龍監督が再びロック映画に向かった理由
  51. 黒沢清の映画術、69-71頁
  52. 鈴木義昭「解散説が取沙汰されるディレクターズカンパニーの内情」『噂の真相』1988年5月号、p.59
  53. 山根貞男『映画はどこへ行くか 日本映画時評'89-'92』(1993年、筑摩書房)p.207
  54. 『映画芸術』NO.401、pp.32-33
  55. 55.0 55.1 55.2 55.3 55.4 長谷川和彦監督が35年間新作を撮っていない理由とは
  56. 新文芸坐開館9周年企画に長谷川“ゴジ”和彦監督が降臨!、鈴木隆『俳優 原田美枝子 映画に生きて生かされて』(2011年、毎日新聞社)58頁
  57. 轟夕起夫「日本一多作な男が日本一寡作な男の半生に迫る! 長谷川和彦vs三池崇史」『轟夕起夫の映画あばれ火祭り』 (2002年、河出書房新社)p.237
  58. 川北紘一『特撮魂 東宝特撮奮戦記』(2010年、洋泉社)p.159
  59. 『映画芸術』2009秋、NO.429(編集プロダクション映芸)p.16
  60. 60.0 60.1 樋口尚文『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』(2004年、筑摩書房)p.249
  61. ″歩く伝説″山本又一朗プロデューサー 小栗旬初監督作の舞台裏を存分に語る!(後編)
  62. 俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』(1999年、講談社)36-238頁
  63. 63.0 63.1 63.2 田村孟「映画に遠い脚本家〈その2〉 『連合赤軍』ロングロングアゴウ」『月刊シナリオ』1990年10月号、pp.48-51
  64. 白井佳夫『監督の椅子』(1981年、話の特集)p.256
  65. 「大友克洋との次の仕事 長谷川和彦インタビュー」『SFイズム』5号(1983年、シャピオ)p.73
  66. INTERVIEW:高橋伴明インタビュー - HogaHolic | ホウガホリック
  67. 映画芸術: 映芸マンスリーVOL14
  68. 井上陽水えのきどいちろう『井上陽水全発言』、福武書店、1994年、131頁。
  69. 「半同棲中 室井滋の『結婚して』に長谷川和彦監督が冷や汗!」『アサヒ芸能』1988年11月17日、p.45
  70. 「噂の不倫相手はひと回も年上 室井滋 13才年上の映画監督と半同棲」『女性自身』1991年9月10日、pp.66-67
  71. 「長谷川和彦監督離婚!噂の室井滋といよいよ再婚か」『FLASH』1992年7月29日号、pp.8-9
  72. 「室井滋 映画監督長谷川和彦氏 キトキト同棲中 『いってらっしゃ~い』1億円豪邸前でまるで夫婦のツーショット」『週刊女性』1995年11月28日号、pp.39-41
  73. 朝ドラで農家役の室井滋 実生活でも家庭菜園・野草採取する
  74. 樋口尚文『テレビ・トラベラーー昭和・平成テレビドラマ批評大全』(2012年、国書刊行会)9頁
  75. 映画監督になる方法「私はこうして監督になりました」(日本映画監督協会 座談会)
  76. 成島出監督~映画への熱き思い 映画に対する思い| 東映マイスター
  77. 成島出(なるしま・いずる)クリエイター・インタビュー PEOPLE / CREATOR
  78. 『ちょっと今から仕事やめてくる』成島出監督インタビュー【PR】転職会議レポート『風を見た少年』 - WERDE OFFICE
  79. 映画『ソロモンの偽証』監督 成島 出さん - Creative Village
  80. 80.0 80.1 「ソロモンの偽証 脚本 真辺克彦に聞く」、『映画芸術』、編集プロダクション映芸、2015年春号 第451号、 p51。
  81. 平山秀幸 『呑むか撮るか 平山秀幸映画屋(カツドウヤ)街道』 ワイズ出版、2016年、22-25。ISBN 9784898303023。
  82. 平山秀幸監督が映画屋人生を語り尽くす
  83. 早稲田松竹2007/10/6~2007/10/12【寺島進おれの1本】第1回『太陽を盗んだ男』ー長谷川和彦に映画を聞く! - ぴあフィルムフェスティバル(PFF)河瀬直美「太陽を盗んだ男」を見て長谷川和彦に聞く! - TwitLonger 河瀨直美が世界に伝えたい日本の名画屈指の問題作「太陽を盗んだ男」長谷川和彦監督が33年を経た今、改めて自作を振り返る! 長谷川和彦さんに取材: newswave on line (personal edition)大根仁が世界に伝えたい日本の名画しんゆり発 5時からシネマ Vol.1 - 川崎市アートセンター アルテリオ映像館
  84. 轟、2002年、p.243
  85. 85.0 85.1 85.2 85.3 白井佳夫『監督の椅子』(1981年、話の特集)pp.226-227
  86. 香取、2004年、p.295
  87. 内田裕也オフィシャルサイト
  88. 中田新一『奔れ!助監督 奮闘昭和映画史』(2010年、早稲田出版)p.51
  89. 89.0 89.1 松島利行『日活ロマンポルノ全史 名作・名優・名監督たち』(2000年、講談社)pp.247-248
  90. 「談盟友、そして仇敵が死んだ 長谷川和彦vs荒井晴彦」『映画芸術』NO.401、pp.23-24
  91. 『黒沢清の映画術』51、69頁、サンスター VO5 for MEN
  92. 佐々木美智子 岩本茂之『新宿、わたしの解放区』(2012年、寿郎社)p113
  93. 高瀬将嗣「技斗番長 活劇与太郎行進曲」『映画秘宝』2012年6月号(洋泉社)p95
  94. 内藤誠『偏屈系映画図鑑』(2011年、キネマ旬報社)p.196
  95. 立松和平『映画主義者 深作欣二』(2003年、文藝春秋)p.157
  96. 宮崎三枝子著・高平哲郎構成・編集『白く染まれ ホワイトという場所と人々』(2005年、アイビーシーパブリッシング)p.45、52、136
  97. 今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』(2004年、日本経済新聞社)p.149
  98. 香取、2004年、pp.276、302-307
  99. 『井筒和幸のナイタースペシャル』(2013年5月30日放送)
  100. 「阿川佐和子のこの人に会いたい」『週刊文春』2011年10月6日号
  101. profile32 |www.morinaga-hiroshi.combook - 森永博志

参考文献

  • 「日本映画人名事典 監督篇」(キネマ旬報社
  • 田山力哉「新しい映画づくりの旗手たち(ダヴィッド社、1980年2月)
  • 樋口尚文「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」(筑摩書房、2004年3月)
  • 大槻ケンヂ「オーケンの、私は変な映画を見た!!」(キネマ旬報社、2009年4月)
  • 熊谷秀夫、長谷川隆「照明技師熊谷秀夫 降る影 待つ光」(キネマ旬報社、2004年12月)

外部リンク