朝鮮戦争
韓国での表記 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 한국 전쟁 / 육이오 사변 |
漢字: | 韓國戰爭 / 六二五事變 |
発音: | ハングク・チョンジェン/ユギオ・サビョン |
日本語読み: | かんこくせんそう/ろくにご じへん |
ローマ字転写: | Hanguk jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon |
テンプレート:北朝鮮の事物 朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争[2][3][4][5]。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[6][7]。
分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていないが、2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表された。
Contents
概説
第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表し、1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された[8]。
1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし8月24日に平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施し、朝鮮半島南部には9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を実施、朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼と右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた[9]。
その後、米ソ対立を背景に1948年8月15日、南部に大韓民国が建国され、翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。武力統一支配を目指す金日成率いる北朝鮮は1950年6月、毛沢東とヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境の38度線を越えて侵略戦争を起こした[10]。
侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦、一方の北朝鮮側には抗美援朝義勇軍(実態は金日成に韓国侵略を許可した中国人民解放軍)が加わり、ソ連は武器調達や訓練などで支援した。北朝鮮が意図的に起こしたため、「代理戦争」や「内戦」と表現する者には親北だと批判がなされている [11]。
- 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。
呼称
呼称に関しては、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争あるいは開戦日にちなみ6・25戦争、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記で「亜美利加(アメリカ)」の略)または朝鮮戦争と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
開戦までの経緯
第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況
第二次世界大戦の連合国会議によって、降伏後の日本が朝鮮半島を含む海外領土の統治権を放棄することは既定方針であり、1945年7月26日に発表されたポツダム宣言においてもその方針は明らかにされていた。
8月9日に行われたソ連軍の日本と満州国への侵略に伴う、日本領の朝鮮半島への侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり[12]、アメリカ軍占領域にその後大韓民国の首都ソウルとなる京城府が含まれる事も考慮されていた[13][14]。日本政府は8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告、日本の降伏が決定された。
ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に8月16日に合意し、翌17日には一般命令第一号として、38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された[15]。合意を受けてソ連軍は8月16日以降に朝鮮半島内への本格的侵攻を開始、27日には38度線付近の都市新義州に至った[13]。
9月2日、日本は降伏文書に署名、正式に降伏。この際に一般命令第一号は日本側に伝達され、大本営は朝鮮半島に駐留していた日本軍に対し、一般命令第一号に従って降伏するよう通告した。
日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあり、その勢力は小さく亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも朝鮮半島の住民から大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。
このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は全く醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった[16][17]。朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[18]。
朝鮮建国準備委員会
諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し8月10日、密かに建国同盟を結成していた。その2日前の8月8日、参戦したソ連は8月9日に豆満江を越え、朝鮮半島に侵攻してきた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。超党派による建国を目指した。
呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。9月6日、同委員会は朝鮮人民共和国の成立を宣言。その要人には李承晩、金日成、朴憲永、金九、曺晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。
一方、連合国はすでに戦時中の諸会談で、自身の主導による朝鮮半島の信託統治を決定していた(後述)。彼らにとって朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。また総督府も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱し、さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。9月8日、仁川にアメリカ軍が上陸。呂は面会を求めるが拒絶される。翌9月9日、総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲。9月11日、アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。
建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。さらに反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、9月16日宋鎮禹をトップとする韓国民主党(韓民党)を立ち上げ、上海から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。
建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本の敗戦で朝鮮統治が終了した後、行政機構として一定の機能を果たしたとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であり、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。
朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を初めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちも次々に帰国し、独自の政治活動を展開していた。しかしこの過程で、朝鮮半島に発生した各政府はいずれも連合国全体からの承認を得られなかった。
信託統治案
アメリカ政府は第二次世界大戦前に行われたアジアの将来についての検討の中で、日本領となっていた朝鮮半島には信託統治を適用すべきと考えていた。さらに第二次世界大戦中の1942年には、「(日本の統治が終わった場合)朝鮮半島の住人は貧しく、文盲が多いため一世代は強大国の保護と支援が与えられなければならない」という、戦時中のためにきちんとした調査に基づかない報告書が出されており、しかしこれはアメリカの第二次世界大戦後の朝鮮半島政策の根幹となった[19]。
アメリカ大統領ルーズヴェルトは、1943年2月のアンソニー・イーデン英外相との対談でこの構想をはじめて明かした[20]。1943年11月22日のカイロ宣言では、朝鮮は自由かつ独立すべきとされていたが、「しかるべき手続きを踏んで」という、信託統治機関に含みをのこす形で発表された[21]。その後のテヘラン会談で「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」とし、ソ連のスターリンもこれに同意した[22]。1945年2月のヤルタ会談では「20〜30年間は信託統治すべき」とし、それに対してスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答していた[23]。日本の統治が終了した後の長期間の信託統治を提案したルーズヴェルトは1945年4月12日に死去したが、同月にモスクワでは米英ソ中の4カ国による信託統治が原則的に合意されている[23]。しかしその後、朝鮮問題についての詳細な打ち合わせは両国間で行われなかった[24]。
1945年9月9日、アメリカ軍が朝鮮半島に入り、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島の日本軍の武装解除にあたった。先に米ソ両軍の間で締結されていた協定に即し、京城府(ソウル)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退し、半島の南側はアメリカ軍が受け持つことになった[25][26]。
後の1945年12月、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連は外相会議を開いたが(モスクワ三国外相会議)、朝鮮半島問題も議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として、暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。この提案は合意され(モスクワ協定)、12月27日に公表された[27]。その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。
ところが韓国民主党系新聞の東亜日報が協定について「アメリカはカイロ宣言を根拠に、朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった(東亜日報#捏造記事・疑義が持たれた報道)。12月31日の集会とデモは空前の規模に達した。
信託統治に対してはほとんどの派が完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。右派は信託統治では反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。軍政庁にとって行政運営上、朝鮮人登用は必要であり、過激な運動を抑える治安問題の解決のため、即時独立に固執せずアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用した。さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認した。ここに李承晩が合流した。
ソ連軍占領区域のみならず、済州島など各地で自発的に生まれた人民委員会が1945年10月までに朝鮮総督府の統治組織を接収することも起こった。朝鮮の統一志向は米ソの思惑を超えて進んでいたと言える。ソ連は1945年11月に朝鮮民主党を起こした曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかったため、代わりに朝鮮共産党の北部分局のトップに過ぎなかった金日成の支援に回った。ソ連の正式な後ろ盾を得た金日成によってその後、国内の他の共産主義者たちは時間をかけて粛清されていく。
アメリカとソ連は、1946年1月16日からの予備会談を経て、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、李承晩などが反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張、ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、5月6日委員会は決裂、信託統治案は頓挫した。
反米化する国内、米ソ対立
不調に終わった米ソ共同委員会の再開を目指すアメリカ政府は、軍政庁の親米派(李承晩、金九など)に偏重した政策[28]を批判、極左、極右を排斥して呂運亨などによる左右合作の親米政権の樹立を画策し始めた。
アメリカは常に朝鮮問題は東西対立の一部としてみなし、対立となる要素を国内からアメリカが主導して排除することに腐心した。一方ソ連は、朝鮮人自身の南北問題とみなし、ソ連と主義を一にする朝鮮人主導者を立てて統一を支援した。
ソ連占領下の北半部では、1946年2月8日、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日に北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行して共産主義国家設立への道を歩み出した。これに対抗して李承晩は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた(6月3日の「井邑発言」)。金九などはこれに反発して離反した。
朝鮮半島を近代化させた日本による統治が終わり、軍や政府、警察だけでなく企業も撤退して行ったことで、経済も治安も混乱した朝鮮半島はインフレが進行し失業者が急増。5月には水害と疫病(コレラ)が発生し1万人規模で死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生する。軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力で暴動鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネスト発生。10月には大邱10月事件が発生、全国で230万人が参加する騒乱となった。軍政庁は戒厳令を敷き鎮圧したが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁は一連の騒動の責任を左派、特に朝鮮共産党から11月に結成した南朝鮮労働党に求め、朴憲永などは弾圧を避けて越北した。
1947年3月12日、トルーマン大統領は、イギリスがギリシャ内戦への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言(トルーマン・ドクトリン)。それ以降、南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。そこへ反共活動のため渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。1947年6月には軍政と対立したまま李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂。それを機に北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
金日成は1948年3月に、南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(1910年から1945年の間、朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心に水豊ダムなどの水力発電所を建設し、そのため南半部は電力を北半部に依存していた)。一方、李承晩は韓国内で朝鮮労働党を参加させない選挙を実施し、正式国家を樹立させることを決断した。1948年、済州島では南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件も発生した(済州島四・三事件)。
分断の固定化と対立
南北の分離独立
1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。建国後、南北両政府の李承晩大統領は「北進統一」を、金日成首相は「国土完整」を主張し、共に政治体制の異なる相手国を屈服させることによる朝鮮半島統一を訴えた[29]。
その後、金日成は李承晩を倒し統一政府樹立のため、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーヴ条約に調印し[30]、麗水・順天事件を受けて南朝鮮労働党をはじめとする国内の左翼、反李承晩勢力除去の為に11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした[31]。
同じ頃、地続きの中国大陸ではソ連の支援を受けていた毛沢東主席率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が建国された。一方、アメリカからの支援が途絶え敗北した中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国は台湾に脱出した(台湾国民政府)。親中派のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領率いるアメリカは、蒋介石率いる国民党政府を第二次大戦中に熱心に支援していたが、1945年にルーズヴェルトが死去するとともに大統領になったハリー・S・トルーマンは米国が仲介した双十協定やジョージ・マーシャルによる共産党との調停を国民党は破ったと看做して支援を打ち切り、1950年1月5日には中国人民解放軍が国民党を追撃しても台湾に介入しないとする声明[32]まで発表して台湾に逃げた国民党を見放した。政府内の中国共産党共感者(チャイナ・ハンズ)やスパイの影響も受けていた。
アメリカの誤算
1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾、インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「西太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、台湾や朝鮮半島は地政学上大陸と大洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。またアチソンは、広く知られる上記の発言のあとを「アメリカの安全保障に関するかぎり」(ここでアチソンが台湾と韓国を明らかに考えていた)「これらの地域への軍事的攻撃について何らかの保障ができる者はいない。そのような攻撃が行われた際には(略)最初は攻撃された人々に頼るしかないのだ。」とつづけ、彼らが断固として戦うならば国連憲章に基づき国連の裁定に訴えることができるだろうと、最後をあいまいに結んだ。[33]
また、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下の日本統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった[34]。
中国大陸が共産化しても台湾不介入声明[32]まで出したトルーマン政権の対中政策を観察していた金日成は朝鮮半島にもこれを当てはめて「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」を推察した。
スターリンによる侵攻容認
これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月にはモスクワで、T34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。
これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
南北の軍事バランス
開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全くなく、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)のみであった。
これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製新鋭戦車T34/85戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2など航空機211機を有していた。また、上のソ連や中国との協定に基づき、1949年夏より独ソ戦でスターリングラードの戦いなどに参加した高麗人ソ連軍兵士五千名が帰国、また中国からは、朝鮮族で構成された国共内戦の経験を持つ東北人民解放軍の3個師団と2個連隊が朝鮮人民軍に部隊ごと移籍され、3万を超える実戦を経験した兵士が増強された。
また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。
参戦国一覧
国連軍
- 国連軍(22カ国)
- 大韓民国:兵力98,000人(14歳〜17歳の少年少女14,400人[35])
- アメリカ合衆国:兵力302,483-480,000 人
- イギリス:兵力15,700人
- フランス:兵力7,400人
- オランダ王国:兵力7,200人
- ベルギー王国:兵力5,600人
- カナダ:兵力5,400人
- トルコ共和国:兵力4,600人
- エチオピア帝国(当時):兵力1,200人
- タイ王国:兵力1,100人
- フィリピン共和国:兵力1,100人
- コロンビア共和国:兵力1,100人
- ギリシャ王国(当時):兵力1,000人
- オーストラリア:兵力900人
- ニュージーランド:兵力800人
- 南アフリカ共和国:兵力800人
- ルクセンブルク大公国:兵力400人
- その他インドなど
- 開戦当時に国連軍の占領下にあった日本は参戦国に算入されていないが、#日本の参加と日本特別掃海隊の節に記している通り、国連軍の要請(事実上の命令)により特別掃海隊などを派遣、死者も出している。
在日義勇兵
在日韓国人の団体である在日本大韓民国民団は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定した志願兵の募集を行ったが在日韓国人647名、日本人150名の志願者にとどまったため[36]、志願に応じた在日韓国人641名を選抜して韓国に送り込んだ(在日学徒義勇軍)(135名戦死、行方不明。242名韓国に残留)[37]。
アメリカ海軍予備船隊
アメリカ合衆国はこの戦争遂行に際し、国防予備船隊から第二次大戦時に大量建造して保管されていた輸送船舶の内、540隻を軍隊輸送支援のため動員した。また戦争期間中は世界的に海上輸送力に不足を来たした時期にも重なっており、1951年から1953年までは国防予備船隊より600隻以上が北欧への石炭輸送とインドへの穀物輸送(民需輸送)に使用されている[38]。
北朝鮮・ソ連・中国連合軍
- 朝鮮民主主義人民共和国:兵力135,000人
- 中華人民共和国(抗美援朝義勇軍)兵力780,000人
- ソビエト連邦:兵力72,000人(金日成に武器を援助している。また、ソ連軍パイロットが中国兵に扮し局地的な戦闘を行っていた)
戦争の経過
北朝鮮の奇襲攻撃
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。
トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明[32]を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動された。
国連の非難決議
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「中国」を代表していた中華民国の中国国民党政府と、前年に誕生した中国共産党の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から安全保障理事会を欠席していた。
しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで、アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、ヨーロッパにおける共産主義を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。これらのことは1950年8月27日付のスターリンからチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に宛てられた極秘電文によって、現在では明らかになっている[39]。
決議後、ソ連代表のヤコフ・マリクは、国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。
保導連盟事件
1950年6月27日、李承晩は南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、保導連盟事件が発生、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された[40]。
韓国軍の敗退
南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件)[41]。同日、韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備は旧日本軍の九九式小銃などが中心であり、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製観測機(L-4、L-5)とカナダから購入した複座の練習機(T-6)が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。
アメリカ軍の出動
マッカーサーは6月29日に東京の羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けた。
マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。
この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(奉天軍官学校5期卒、日本陸士55期相当・元満州国軍大尉)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日[42]に北朝鮮軍と交戦を開始したが7月5日には敗北した(烏山の戦い)。
国連軍の苦戦
6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。
なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。
準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)[43]。
また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した[44]。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた[45]。
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[44](離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている[46]。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。
仁川上陸作戦
マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。
また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺(en)が起きた[47][48]。
この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相は済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。
国連軍の38度線越境
1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった[49]。
しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。しかし、ジョージ・マーシャル国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた[50]。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日にその事実がアメリカのマスコミに公表されると[51]、ついで10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。[52]また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた[53]。
10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した[54]。 しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた[55]。 中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官のディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった[56]。
中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、トラック島において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1〜2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している[57]。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。
その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍が二方面より進撃する計画であった。ウォルトン・ウォーカーは、第10軍の指揮は今まで第8軍司令官として前線の作戦全般を取り仕切ってきた自分が任されるものと考えていたが、マッカーサーは第10軍団の指揮をマッカーサーを心酔しているエドワード・アーモンドに継続して行わせる事とし、更にウォーカーの指揮下にあった韓国軍の半分をアーモンドの指揮下に移し、朝鮮半島の指揮権も二分、西部をウォーカー、東部をアーモンドの管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任は引き続きウォーカーが任される事となった。ウォーカーが現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問を感じ、また、第10軍団を時間がかかり危険も大きい水陸両用作戦で元山に上陸させる事に統合参謀本部の参謀らも疑問を持ったが、仁川の成功で国民的喝采を浴びているマッカーサーに対し、作戦の疑問を呈する事は憚られた[58]。
10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌(1948年から1972年まで法的効力を有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった[59]。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し[60]、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していた[61]。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40〜60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった[62]。
その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
日本の参加と日本特別掃海隊
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上[63]の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした[64]。
開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した[65]。元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する[65]。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した[65]。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。
特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した[66]。李承晩韓国大統領も1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた[67][68]。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという[69]。
中国人民志願軍参戦
金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた[70]。
当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた[71]。
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めていた。毛沢東主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。
- 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
- 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
- 1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党の蒋介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など、「国内問題」の解決を優先すべき
しかし、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。 アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。副司令官は北朝鮮で要職を務めてた朝鮮族出身の朴一禹を任じ、12月の中朝連合司令部の設置からは朴一禹が朝鮮人民軍を主導することになる[72]。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された[73]。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。
参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである[74]。
中朝国境付近に集結した中国軍は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。
中国軍の作戦構想は平壌-元山以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御戦を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった[75]。しかし中国軍が北朝鮮に進撃した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった[75]。そこで彭徳懐は亀城-球場洞-徳川-寧遠の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった[75]。さらにこの時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった[75]。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした[75]。
それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報を報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた[76]。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーにより、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した[77]。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている[78]。
マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった[79]。10月26日、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した[80]。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、迫撃砲を中心とした攻撃に大韓民国国軍はこれを朝鮮人民軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した[81]。10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた[82]。
前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった[83]。
さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた 清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した[84]。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した[84]。中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった[84]。
毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ[85]。
マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた[86]。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった[87]。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、もっともあてにならないと思われていた[88]。
11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った[89]。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った[90]。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している[91]。しかし実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた[92]。
ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し[93]またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった[94]。
中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた[95]。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった[96]。
マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った[97]。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された[98]。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ[99]。
12月11日、戦況が悪化した為、大韓民国の李承晩政権は国民防衛軍法を発効すると直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した[1]。
LT636号沈没事件
1950年11月15日、元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没し日本人船員22名が死亡した[64]。
初のジェット機同士の空中戦
また、中ソ友好同盟相互援助条約に基づいてソ連により中国に供与された最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が中国軍の参戦で投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。当時はまだF4Uコルセア、P-51、F6Fなどのレシプロ戦闘機が現役で、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。哨戒機や爆撃機はほとんどの機体がレシプロ機であり、第二次世界大戦時に使用していたボーイングB-29などの機体も投入された。
後退翼を採用したMiG-15は当初、速度差で国連軍のノースアメリカンP-51やホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していた直線翼のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた[100]ほか、レシプロ機であるボーイングB-29やボーイングB-50爆撃機の撃墜率を高めていった。しかし、すぐさまアメリカ軍も後退翼を採用した最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。旧式化したレシプロ戦闘機や直線翼のジェット戦闘機はその後の戦闘では対地攻撃などの爆撃任務や夜間戦闘任務に使用されたが、停戦後は多数の機体が退役し、練習機として運用されている。
初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。
なお、中朝軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したと言われているが、低い練度のまま参戦したことで十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的にMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった[101]。
朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸・海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員の搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。
なお、世界初の本格的なジェット爆撃機であるボーイングB-47は実戦投入されなかった。また、朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。
国連軍の北進と中朝軍の攻勢
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)[103]。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した[102]。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。
37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた[104]。
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた[104]。 12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を後任として推薦した。トルーマンや統合参謀本部の評価はマッカーサーより高く「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」との評価で、アメリカ陸軍が得た最高の人物という評価であり、マッカーサーの推薦を承認しウォーカーの後任を命じた[105]。
リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた[106]。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた[107]。
リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた[104]。
1951年1月25日、第25師団と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した[104]。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に水原-利川の線に進出した[104]。1月27日、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した[104]。北上するにつれて第50軍と第38軍の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した[104]。
西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって洪川付近に中国軍が集結していることを掴んだ[104]。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-江陵の線に進出するように命じた[104]。2月5日から北進を開始し、順調に進展していたが、横城付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した[108]。
2月11日夜、中朝軍が横城正面に第40、42、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の第39軍で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した[108]。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した[108]。
攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、2月18日には後退の兆候も見られるようになった[109]。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した[109]。2月21日、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅はかなわなかった[109]。
リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパ―作戦を命じた[109]。3月7日、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した[109]。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した[109]。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを収復した[110]。
4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン(臨津江-全谷-華川-襄陽)を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した[111]。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩ませながらもユタ・ラインに進出した[111]。各軍団は21日からワイオミング・ライン(漣川-鉄原-金化-華川)を目指して北上した[111]。
4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した[111]。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた[111]。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した[112]。新たに第8軍司令官として着任したヴァンフリート中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した[112]。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した[112]。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した[112]。
国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた[112]。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計30個師団を太白山脈沿いの韓国第3軍団に向けた[113]。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた[113]。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した[113]。
カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した[113]。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた[113]。
7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した[114]。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した[114][115]。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した[114]。
膠着状態に
中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。
それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回した[116]ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した[117]。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した[117]。
1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった[117]。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた[117]。
マッカーサー解任
1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に[118]38度線以北進撃を命令[119]し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する[120]。
またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事をトルーマンに進言した。
この当時のマッカーサーによる、中華人民共和国国内への攻撃、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、原子爆弾の使用などの提言は、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言であった。
マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から[121]解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。
韓国軍の強化
1951年5月末、カンザスラインをほぼ確保した時点で、再び機動戦が展開されることはないと判断され、第8軍と韓国陸軍本部は協議して韓国軍の再訓練に取り掛かった[122]。
1951年7月、野戦訓練団が束草の南側に創設され、アメリカ軍から第9軍団副軍団長のトーマス・クロス准将をチーフとする教官、助教あわせて150人が派遣された[123]。訓練期間は9週間を予定し、各個教練、小銃射撃、分隊訓練の基本から師団司令部の幕僚勤務まで、あらゆる訓練をやり直した[124]。最初の訓練対象は第3師団となり、9週間後の検閲で合格し、アメリカ軍第10軍団に編入されて第一線に復帰した[125]。1952年末までに全10個師団が訓練を受けた[126]。
既存部隊の再訓練と並行して各兵科の専門教育の充実も計られた[125]。何千人もの将校、下士官がアメリカの陸軍歩兵学校や砲兵学校などの実施学校で受け、高級幹部はアメリカ陸軍指揮幕僚大学にも留学している[127]。5〜10ヵ月の短期課程を終えて帰国した要員は、17の各種実施学校の教官、助教となった[127]。済州島に開設された第1訓練所には負傷して前線勤務が出来なくなった者を教官や助教に充て、新兵には16週間の基本教練が行われ前線に補充された[128]。
1952年1月に正規4年制の陸軍士官学校が鎮海で開校され、4月から教育を始めた。また1951年12月には大邱に幕僚学校が開設されて参謀の育成も始まった[128]。
戦線では再訓練の効果が現れ、東部戦闘地区と中央東側戦闘地区における国連軍の攻撃作戦の多くは、ほとんど韓国軍の部隊で実行された[129]。
将来予想される休戦線の長さ、韓国の国力、期待できる軍事援助などを考慮し、20個師団が必要と算定し、1952年11月から新師団の編成が始まった[130]。1952年末の時点で前線部隊の4分の3近くを韓国軍が占めるようになり、前線に配備された16個師団のうち、11個師団は韓国軍、3個師団は米陸軍、残りの2個師団はそれぞれ米海兵隊と英連邦軍であった[131]。他の韓国軍部隊は、韓国海兵連隊をアメリカ軍第1海兵師団に編入させるなどして、いくつかのアメリカ軍師団を補強した[131]。またヴァンフリートは予備として韓国軍1個師団とアメリカ軍3個師団を用意した[131]。20個師団体制は休戦後の1953年11月に確立した[132]。
停戦
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
休戦協定
1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
中立国停戦監視委員会
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
犠牲と損害
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出した。北朝鮮軍および中華人民共和国の義勇軍も多くの損害を出した。しかしこれらの推計は発表者によって数値にかなりの差がある。
アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。これに対して、中華人民共和国と北朝鮮は約39万のアメリカ軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から「抹消」したと推定している。
また西側の推定によれば中国軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者を出している。一方中華人民共和国側の公式発表によれば、北朝鮮軍は29万人の犠牲を出し、9万人が捕らえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされ、中国軍については戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、負傷者34万人、行方不明者7600人、捕虜2万1400人となっている。これらの捕虜のうち約1万4000人が中華民国(台湾)へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した[133]。
戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人〜500万人の犠牲者が出たという説もある。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。民間人に対する惨劇の最悪の実行者は韓国警察であった[134]。開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたもののアメリカ軍による報道検閲の実施により隠ぺいされるようになった[134]。また、ソウルにいた金億や朴烈らは北朝鮮軍によるソウル占領に伴い北朝鮮へ連行され、現在に至るまで消息を絶っている(刑死したともいう)。
また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりも目まぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。一方で、アメリカ軍によってアメリカに運ばれて難を逃れた文化財が多数あるが、韓国では御宝窃盗事件として報じられ、現在にいたっても返還を要求する運動がなされている[135]。
アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行った。その85パーセントは民間施設を目標とした。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍である。
中国人民解放軍、北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、前述した如く旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされる。それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げた。
慰問団・慰安婦
アメリカ軍慰問団
国連軍の中で最大規模の軍隊を派遣したアメリカ軍に対して、アメリカ本国から慰問団の訪問が相次ぎ、ボブ・ホープやアル・ジョルスン、ジェリー・ルイスなどの当時人気の絶頂期にあった俳優やコメディアンが、日本国内の基地などを経由して前線に慰問に訪れ、兵士らを相手に公演を行った他、停戦後にも韓国に駐留するアメリカ軍に対して、日本をジョー・ディマジオとのハネムーンに訪れたマリリン・モンローが訪れた。朝鮮戦争を通して、国連軍兵士のための国連軍慰安所が韓国の行政官によって運営された[136]。
韓国軍慰安婦
韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった[137]。また、慰安婦で構成される「特殊慰安隊」と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達の中には拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった[138][139]。韓国軍やアメリカ軍の前線には第五品目補給物資としてドラム缶に押し込められた女性達がトラックで補給され夜間に利用された[140]。
影響
毛沢東は戦前には核兵器を「張り子の虎」と呼び軽視していたが、朝鮮戦争終了後には核開発を本格的に開始している[141]。
朝鮮半島の分断と離散
「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない。日本の地図でいう北方領土や竹島と同じようなもの)。さらに国際法上では現在も戦闘が終結していない(休戦中)ままである。ここが、分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。
なお日本も韓国と同じように北朝鮮を国家として正式には承認しておらず、外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と地域扱いしているが、国際政治の舞台では実質的に国家扱いしている。日本国内で発行されているほとんどの地図でも「朝鮮民主主義人民共和国」と国名が記されており、ひとつの国家として扱われている[142]。日本国内の在日本朝鮮人総聯合会は、主に日本社会党(後の社会民主党)を通して、事実上の政府代表部として機能していた。
日本への影響
朝鮮戦争は戦争発生以来、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、オーストラリアや中華民国、ソビエト連邦などを中心とした連合国の占領下にあった戦後日本の政治、経済、防衛にも重要な影響を与え、一つの重大な転機とさえなった。
日本を占領しているアメリカ軍やイギリス軍からは韓国への援軍が順次送られていたが、劣勢が伝えられていた時期には士気が低下し、脱走兵による騒乱事件も発生した(小倉黒人米兵集団脱走事件)。
当時の国会では1946年1月に尾崎行雄が衆議院議長へ元号改元の意見書を提出したことを契機に、改元や廃止など元号問題が取り沙汰されていた。しかし朝鮮戦争の勃発により議題は棚上げされ、停戦以降も様々な問題への対処が優先されたため元号の議論は低調にとどまり、そのまま元号と西暦を併用し続けることとなった。
一時は国連軍が劣勢に立たされ、朝鮮半島の端まで戦線が下がったことから日本への上陸も憂慮されていたが、当時の防衛は占領軍頼みであり、民間でも自主的に対策が検討された。上野動物園では日本への戦闘拡大により飼育が困難となった際、戦時中の戦時猛獣処分の再現や空襲被害による動物の死亡・逃亡を避けるため、1950年末から1951年1月にかけてマニュアルを策定、伊豆大島への疎開を行う方針を固めていた。
逆コース
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、賠償負担がにわかに軽減されたりした。日本を独立させるサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に(旧)日米安全保障条約と共に締結された。サンフランシスコ平和条約の発行に先立ち、SCAP覚書により賠償責任は完全免除された。さらに警察予備隊(自衛隊の前身)の創設・発足が実現したことで事実上軍隊が復活した。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。
もっとも、日本の再軍備自体は連合国軍による占領終了後には必要となってくることから、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していた。
在日韓国・朝鮮人と日本共産党による武装蜂起、テロ事件、および左翼運動規制の強化
- 参照: 在日韓国・朝鮮人
朝鮮総連と在日朝鮮人、その関係者、また日本共産党員などによる日本政府や警察に対する武装蜂起、テロ事件も多数発生し、1951年3月21日には北朝鮮を支持する在日朝鮮人による浅草米兵暴行事件によって、日本の占領任務にあたっていた連合国軍兵士(アメリカ軍兵士)に死傷者が出て[143]、1951年12月1日に東成警察署襲撃事件、1951年(昭和26年)12月16日に国連軍を支援する工場に対して襲撃が加えられた親子爆弾事件、1952年(昭和27年)5月1日に血のメーデー事件、1952年5月25日〜5月26日に高田事件、1952年5月30日に大梶南事件、1952年6月24日〜6月25日に吹田事件・枚方事件、1952年7月7日に大須事件などが起こった[144][145]。
これら一連の事件は、朝鮮戦争を有利に進める為に連合国軍の後方を攪乱しようとするソ連と、それに呼応した朝鮮総連と在日朝鮮人、日本共産党による計画的な騒擾事件であった[144]。これを受けて1952年7月21日、破壊活動防止法が施行。
なお、在日韓国人側が引き起こした事件として、1959年12月4日に在日朝鮮人の帰還事業を妨害するため、「在日義勇兵」によって新潟日赤センター爆破未遂事件が引き起こされた。
このほかに、戦火を逃れるために朝鮮半島から大量の密入国者が流入することとなった[146]が、韓国政府が摘発された密入国者の送還を拒んだため、日本政府予算を逼迫する深刻な事態となった[146]上に、多くがそのまま不法滞在を続けることとなった。これに関連し、在日韓国人と在日朝鮮人や避難民の間で騒乱事件が度々発生した。
アメリカ軍による朝鮮戦争特需とそれによる経済活性化
- 参照: [[朝鮮特需]]
朝鮮特需とは、朝鮮戦争に伴い、在韓米軍・在日米軍から日本に発注された物資やサービスを指す。また在日国連軍、外国関係機関による間接特需という分類も存在する。日本はアメリカ軍の補給基地として重要な役割を果たした。朝鮮戦争勃発直後の8月25日には、横浜市に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われる。なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は特需景気、糸ヘン景気、金ヘン景気、朝鮮戦争ブーム、朝鮮動乱ブームなどと呼ばれた。日本はこの好景気により経済再建の機を掴んだ。
アメリカへの影響
この戦争においてアメリカは国連軍の中枢として48万人に上る将兵と大規模な正規軍を送り、4万人を超える戦死者を出したが、その規模にもかかわらず政治や経済など国内情勢にほとんど影響を与えなかったことから「忘れられた戦争」とも呼ばれる[147]。
中華人民共和国への影響
中華人民共和国では、戦時中に中ソ友好同盟相互援助条約を理由としたソビエト連邦からの空軍を中心とする多数の最新兵器の供与で、軍備近代化がおし進められた[141]。また、北朝鮮との間に軍事同盟である中朝友好協力相互援助条約を結び、その関係はその後50年以上続いたが、ソ連との同盟関係は数年後の「中ソ対立」によって解消された。
インドシナ戦争への影響
朝鮮戦争が起きると米中ソは朝鮮半島からみて中国沿岸部の反対側に位置するベトナムで起きていた第一次インドシナ戦争への介入を本格的に始めた。 第一次インドシナ戦争は朝鮮戦争休戦から約一年後のディエンビエンフーの戦いにより終結した。
休戦から現在まで
- 韓国
- 韓国は停戦後も引き続き李承晩大統領による独裁が維持され復興が遅れていた。このため北朝鮮の呼びかけにより在日朝鮮人の帰国事業が行われると日本に工作員を送り込み新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こし帰国事業を妨害した[148]。クーデターにより政権を掌握した朴正煕大統領が日本と日韓経済協力協定を締結し多額の資金を得て、またベトナム出兵によって急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称され、1980年代には日本に次ぐアジア有数の工業国となった。北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。1972年までに1万人を超える北派工作員と呼ばれる武装工作員を北朝鮮に送り込んだ[149]。
- 北朝鮮
- 戦争開始間もない1950年6月30日には北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合同して朝鮮労働党が成立し、その後も同党による一党独裁が継続している。休戦直後の1953年、旧南朝鮮労働党の勢力は朴憲永らの指導者が逮捕され消滅した。1956年のスターリン批判後にはソ連との関係が悪化し、朝鮮労働党満州派の領袖である金日成が延安派・ソ連派などの国内派閥の粛清を進め、党内での独裁権を確立した(8月宗派事件)。対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、韓国を含む外国民の拉致を行った(北朝鮮拉致問題)。ほか、1968年の青瓦台襲撃未遂事件や1976年のポプラ事件など緊張をもたらす事件が発生した。1980年代以降は度重なる経済政策の失敗により韓国との経済格差が広がるだけでなく、ソ連崩壊や冷戦終結により東側諸国からの援助も減り、飢饉による飢餓が起きるなど深刻な経済状況が続いた。
現在
韓国の金大中・盧武鉉両大統領時代には太陽政策により対立が緩和され、2000年には南北首脳会談が実現した。しかし2010年3月に韓国哨戒艦沈没事件が発生して6月に北朝鮮が戦争事態を宣言、さらに同年11月23日に延坪島砲撃事件が発生して関係が悪化した。
両国は平和条約の締結や両国政権の相互承認などには至っておらず、2016年現在も準戦時体制にある。国際法上では「休戦」(戦闘の一時休止)であり、戦争は「継続中」である。北朝鮮は1994年、1996年、2003年、2006年、2009年、2013年の6回、もはや休戦協定に束縛されないと表明している[150][151]が、国際連合は休戦協定は国際連合総会で採択されたものであり南北朝鮮のいずれかが感情的に破棄できるものではないとしている[152]。
現在でも、軍事境界線上にある板門店の共同警備区域内に置かれた「中立国停戦監視委員会」と「軍事停戦委員」が定期的に確認し、韓国には在韓米軍司令官が司令官を兼ねる国連軍司令部が存在する。
この状況は両国間関係のみならず、韓国に基地を持ち、米韓相互防衛条約によって同盟関係にあるアメリカと、中朝友好協力相互援助条約によって北朝鮮との相互援助義務を持つ中華人民共和国との軍事的なバランスと対立がある。またこの四国にくわえて日本とロシアは北朝鮮核問題解決のための六者会合(六カ国協議)の参加国であるなど、朝鮮半島問題に関与している。露朝関係はかつてソビエト連邦が締結していたソ朝友好協力相互援助条約による相互援助義務規定は失効したものの、ロ朝友好善隣協力条約が締結されている。2010年には六者会合の元北朝鮮人民軍通訳がロシア亡命を求めたがロシア側が拒否するといった事件[153]も起きている。一方で北朝鮮の核開発に対しては中国およびロシアもたびたび反対を明言している。また2010年、アメリカ外交公電Wikileaks流出事件で中国当局が北朝鮮を批判したとされる内容や、韓国による南北統一に言及したとされる内容を含んでいたことが発覚[154]、さらに北朝鮮もモンゴル政府との協議で中国とロシアへの批判を繰り返していたことも発覚した[155]。国連制裁にも賛成していることから北朝鮮は中露を「米国に追従した」と批判している[156]。
朴槿恵大統領と安倍晋三首相は2015年慰安婦問題日韓合意を交わし2016年には日米韓が対北朝鮮協力で一致[157]して初のミサイル防衛合同演習を実施し[158][159][160]、朴槿恵政権は野党の反対も押し切って日韓初の防衛協力協定[161]である日韓秘密情報保護協定(GSOMIA)も締結した。日本の中谷元防衛相も国連軍地位協定が現在も有効であることを述べている[162]。一方でTHAADミサイル配備を進めていることに対抗して中国とロシアが初のミサイル合同演習を実施する[163][164][165]など中露からの反発を招いており[166]、朴槿恵政権が北朝鮮への牽制で国防相間でホットラインを開設する[167]など重視してきた中国との関係に影響が出ている[168]。また、朴槿恵政権は米国に1991年に撤去した戦術核兵器の再配備も要請していた[169]。
2017年に米国でバラク・オバマ政権からドナルド・トランプ政権に交代後は2017年北朝鮮危機が起きてるとされ、4月に米中首脳会談が行われていた中で内戦が続くシリアへミサイル攻撃を行った際、トランプ政権は北朝鮮に対するメッセージでもあることを明言した[170]。同時期にアフガニスタンのISILの拠点に大規模爆風爆弾兵器(MOAB)を投下したことも地下要塞を複数持つ北朝鮮への牽制とされた[171]。韓国では朴槿恵氏が大統領の解任決議により不在の状況下で、朝鮮半島は緊張状態に陥っていた。11日にアメリカは朝鮮半島沖に原子力空母を派遣し、イギリス、オーストラリアなど複数の同盟国に厳戒態勢に入るよう要請した。また、北朝鮮は最高指導者の金正恩委員長の斬首作戦の訓練が米韓合同軍事演習に盛り込まれているとして警戒しており[172][173]、5月にはCIAと韓国の国家情報院が金委員長の暗殺を企んだと非難する声明を北朝鮮は発表した[174]。同時期に極秘に韓国訪問したCIA長官のマイク・ポンペオは金正恩体制への反乱煽動などを脱北した北朝鮮の元駐英公使と協議し[175]、特定の国を対象としたものとしては初めてである北朝鮮を専門とした部署を新設しており[176]、これに対して金委員長暗殺を目的とした動きとする見方もある[177]。また、同年7月にはポンペオ長官は金委員長の排除を示唆している[178]。
2017年4月16日、アメリカ太平洋軍と韓国軍の合同参謀本部の発表により日本時間の4月16日午前6時21分、北朝鮮が東部のハムギョン咸鏡、南道シンポ新浦付近から弾道ミサイル1発を発射したが直後に爆発し、失敗したことがわかった。度重なる北朝鮮のミサイル発射や核実験に対してトランプ政権は外交・軍事両面で「最大限の圧力」で対応することを方針に位置づけ[179][180]、テロ支援国家への再指定[181]、2017年だけでも4度もの国連での経済制裁強化決議[182][183][184][185]、国連軍派遣国の会合や海上封鎖の呼びかけ[186][187][188][189]、各国に国交断絶など北朝鮮との外交・貿易関係の見直しを迫る圧力[190][191]、米国民の北朝鮮渡航禁止と北朝鮮籍者の入国禁止や北朝鮮と取引する個人・企業のアメリカ経済からの締め出しといった独自制裁[192][193][194]、史上初のICBMを迎撃する実験[195]、韓国との戦術核再配備や軍事的選択肢の協議[196][197]、朝鮮半島沖での軍事境界線を越えた戦略爆撃機の威嚇飛行[198]や3個の空母打撃群[199][200]と2隻の原子力潜水艦の展開[201]などといったありとあらゆる圧力行動で対応し、トランプ大統領は「米国は25年間も北朝鮮に脅されて強請られた。対話は答えではない」[202]「軍事的な解決策の準備は完全に整っている」「米国を脅し続ければ世界が見たこともない火力と怒りに遭わせる」と発言した[203][204][205]。トランプは初の国連演説で米国人大学生オットー・ワームビアの拘束や金正男の暗殺の他、北朝鮮による日本人拉致問題などを挙げて北朝鮮を批判し、「米国と同盟国を守ることを迫られれば、北朝鮮を完全に破壊する以外の選択はない」と強く警告した[206][207]。これに北朝鮮の金委員長は「トランプが世界の面前で私と国家の存在自体を否定して侮辱し、我が共和国を滅ぼすという歴代で最も凶暴な宣戦布告をしてきた」として「老いぼれ」「犬」などと罵倒する北朝鮮史上初[208]の最高指導者名義の声明で猛反発し、トランプも「チビのロケットマン」「狂った男」「不気味な犬ころ」と貶すなど激化する米朝の応酬は国家間を超えて政府首脳同士の個人攻撃にも拡大した[209][210][211][212][213][214]。トランプは初の韓国の国会演説で空母3隻が朝鮮半島近海に展開してることを挙げて「我々をなめるな、試すな。愚かにも米国の決意を試して滅びた政権は歴史上いくつもある」[215]「北朝鮮は人が住むに値しない地獄だ、あなた(金正恩)の祖父が描いたような地上の楽園ではない」[216]と演説した。また、レックス・ティラーソン米国務長官は朝鮮半島有事を想定して核の確保と難民対策や38度線を越えた米軍の撤退など具体的対応を中国と協議してることを初めて公表した[217][218]。
2018年1月2日、「米国全土を射程におさめた核のボタンが私の机の上にある」「平昌五輪に向けた南北会談も可能だ」とする新年の辞を述べた金正恩に対して「制裁と圧力が北朝鮮に効いてきた。兵士は危険を冒して韓国に逃げてる。ロケットマンは韓国と交渉したいようだが、朗報かどうか様子を見よう」「食料が枯渇し、飢えた北朝鮮の体制よりも私は巨大で強力な核を持ち、私の核のボタンはちゃんと動くことを誰か彼に教えてやれ」[219]とトランプは述べて双方とも核威嚇を行った。1月16日、カナダのバンクーバーでティラーソン米国務長官の呼びかけ[220]により国連軍派遣国を中心に日本や韓国なども参加した外相会合が開かれ、平昌五輪に向けた南北対話が非核化対話に進展することを期待しつつ「完全で検証可能かつ不可逆な非核化」まで北朝鮮に圧力を継続する方針を盛り込んだ議長声明が発表され[221][222]、北朝鮮に対する海上阻止行動の強化や国連安保理の枠を超えた独自制裁の検討でも一致した[221][223][224]。また、この会合に先立つ夕食会でジェームズ・マティス米国防長官は外交努力が失敗すれば外相会合から国防相会合に発展するとして「米国には北朝鮮との戦争計画がある」と表明[225][226]して国連軍の参加国・関係国と軍事面の連携で一致した[227]。
2018年4月27日に行われた2018年南北首脳会談の共同宣言(板門店宣言)にて、韓国の文在寅と北朝鮮の金正恩の両首脳が、年内に終戦宣言を出すとの方針を表明した。
軍事バランス
- 韓国
- 韓国軍の装備はアメリカ製のジェネラル・ダイナミクスF-16戦闘機、同じくアメリカの技術協力を受け開発されたK1A1戦車やイージス艦の世宗大王級駆逐艦など、おおむね現在の西側先進国の水準である。また、男子に対して徴兵制が施行されている。これに更にTHAADミサイルを含めた在韓米軍の戦力や、有事の際には在日米軍の戦力も加わる事になる。なお、韓国は首都ソウルが軍事境界線に近く、軍事境界線の北側からでも北朝鮮の長射程砲やスカッドミサイルの射程内に収まる事が弱点で、北朝鮮から侵攻しやすい。また、現在に至るまでアメリカ軍を中心とした国連軍が駐留している。国連軍[228]やアメリカ軍[229][230]には慰安婦が提供されていた[231][232][233]。
- 北朝鮮
- 北朝鮮の軍備は冷戦時代にソ連から供与されたものや、ソ連の技術供与を受けて中国で製造された物が主で、現行水準の通常兵器はほとんどないという。2003年3月に公海上でアメリカ空軍のボーイングRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機のミコヤンMig-29戦闘機が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の偵察衛星に写る北朝鮮機は、Mig-15やMig-17のような骨董品レベルの古典機ばかりで、部品調達や燃料調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。こうした状況から核兵器の開発や化学兵器の配備を進めており、2006年には最初の核実験を成功させた(北朝鮮の核実験)。また韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な弾道ミサイル(テポドン、ノドン、ムスダン)の開発に熱心であると見られ、たびたび発射実験を行っている。なお、北朝鮮の羅先には中国人民解放軍が進駐しているとする情報もある[234]。
研究と評価
韓国侵略説(北朝鮮の主張)
北朝鮮では、当時から現在に至るまで「韓国側が先制攻撃した」と主張し続けているが、これは国際的に全く支持されておらず、戦争当時北朝鮮を支援したソ連崩壊後のロシアや中華人民共和国でも、北朝鮮のいうような「韓国による侵略」という主張は全く認められていない。
日本国内の朝鮮学校教科書『現代朝鮮歴史高級1』には以下の記述がある[235][236]。
米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争に拡大した。
敬愛する金日成主席様におかれては、(25日の)会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国の奴らに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反撃に移るよう命令をお下しになった。
当時日本でも、1950年代から1960年代にかけて米国による陰謀説など、共産主義イデオロギーによる決め付け的な内容のものが多々あった[5]。左派・革新系研究者遠山茂樹・今井清一・藤原彰共著『昭和史』(岩波新書、1959年)では、「米空軍戦闘機部隊は北九州に集結していた。そして北朝鮮が侵略したという理由で韓国軍が38度線をこえ進撃した」と主張した[237]。親北派の学者寺尾五郎も北朝鮮による先制攻撃ではないと主張した[238]。これについて井沢元彦は、北朝鮮は正義で、悪いのは韓国でありアメリカ帝国主義であると考えるように、近現代史学者の一部は、大切なのは「真理」ではなく「イデオロギー」であるだけであると批判している[239]。家永三郎は、「朝鮮戦争」(アメリカの侵略による)と記した[240]。高山正之は、マスコミでもNHKの磯村尚徳が番組で「北が南に攻め込んだ」と語ったことに在日朝鮮人が騒ぎ出し、彼らに同調する土井たか子が抗議、番組内で謝罪するに至ったと述べている[241]。
重村智計によると、日本では長く韓国とアメリカによる侵略説が支配的であり、それに反対すると、学界などの社会から抹殺されかねない雰囲気があり、共産主義・社会主義の北朝鮮を支持するあるいはシンパシーを持つ左派・革新系研究者は、韓国とアメリカによる侵略やアメリカの陰謀を主張したのに対して、リアリズム系の研究者は、北朝鮮による侵略を譲らなかったという[242]。朝鮮戦争に関する最初の書籍は、I.F. ストーン(英語: I. F. Stone)の『秘史朝鮮戦争』であり、戦争は韓国とアメリカの共謀の可能性が高いと主張した。D・W・W・コンデは、『朝鮮戦争の歴史』において、朝鮮戦争は韓国とアメリカによる侵略であると主張して、共産主義・社会主義の北朝鮮を支持するあるいはシンパシーを持つ左派・革新系研究者の韓国とアメリカによる侵略説のバイブルとなる[243]。しかし、神谷不二が朝鮮戦争は、北朝鮮による侵略であることを客観的に分析した[244]。他に、信夫清三郎がストーンとコンデの誤りを指摘した[245]。その後、児島襄[246]、神田文人[247]などの研究を経て、現在、学術的には北朝鮮による侵略が一般的な見解となっている[2][5]。
1950年6月25日の朝、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国側に侵入したことによって始まった。当時、アメリカ軍は韓国から撤退しており、韓国軍の力は弱かったから、北朝鮮軍は無人の野を行くように南朝鮮を進撃し、たちまちソウルは陥落した。
今になってはじめのころの戦局を見ると、北の朝鮮民主主義人民共和国が十分に準備をして攻め入ったと考えざるを得ません。というのも当時、大韓民国(南)に駐留していた米軍はほぼ日本本土に移っていましたから、その空白を狙って、と言うと反論する人もいますが、とにかく北が38度線を越えていきなり攻め入ってきたのです。戦闘準備不足の韓国側は、38度線にほど近いソウルがあっという間に陥落してしまい、その後もガンガン攻められて後退に後退を続けました。
ちなみに一番間抜けなのは日本のメディアと学界です。金日成は「韓国が国境線で挑発してきたので、反撃を行った」と声明を出しましたが、おそらく本気でこんな声明を信じたのは、日本のメディアと新聞くらいでしょう。朝日新聞と岩波書店、当時「朝日岩波文化人」と呼ばれた大学教授たちは、「南の侵略」と言い張っていました。しかし、十分な侵略準備もしていないのに、釜山以外の韓国全土を占領するなど不可能です。当事者の北朝鮮や韓国は真相を知っています。スターリンや毛沢東は笑い転げていたでしょう。
朝鮮戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連が承認し、北朝鮮と中国が共同で実行した国際紛争戦争でした。
旧ソ連の外交文書の公開で、朝鮮戦争の起源が明らかにされた。それによると、朝鮮戦争は『内戦』や『誘因』の展開ではなく金日成首相がソ連の指導者スターリンを説得し開始した、『金日成』の戦争だったのである。また、『ヤルタ体制の崩壊』が生んだ戦争でもあった。
この間、6月25日に北朝鮮軍は38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争となった。突然の侵攻に韓国軍は劣勢で、ソウルは陥落し、釜山周辺にまで追い詰められた。
同軍(北朝鮮軍)は1950年6月25日、38度線をこえ韓国軍を奇襲した。こうしてはじまった朝鮮戦争は、金日成、スターリン、毛沢東が組んでおこなった国際共産主義運動の一大攻勢にほかならなかった。
北朝鮮は50年6月、韓国を奇襲攻撃した。当初、韓国軍は劣勢だったが、マッカーサーが指揮する国連軍が参戦して戦況を盛り返す。韓国・国連軍は中国との国境である鴨緑江まで北朝鮮軍を追い詰めたが、そこで中国は人民解放軍の義勇兵を大量投入した。
1950年6月25日午前4時に、約10万の北朝鮮軍は何の前置きもなく、突如、北緯38度線を越えて、侵攻してきました。この日は日曜日で、多くの韓国側の軍人は登庁しておらず、また、農繁期のため、帰郷していた軍人も多く、警戒態勢をとっていませんでした。大統領の李承晩をはじめとする政府首脳部も北朝鮮軍の侵攻を想定していませんでした。(中略)しかし、アメリカ軍も戦争の準備は全く整っておらず、その動きは緩慢で、トルーマン大統領が報告を受けたのは、北朝鮮の侵攻開始から10時間後というありさまでした。(中略)北朝鮮軍は侵攻作戦を綿密に計画していました。そして高度に統制された軍隊は抜け目なく正確に作戦を展開し、破竹の勢いでソウルへ向けて進撃していました。
修正説(内戦説、統一説、解放説、誘因説)
朝鮮戦争は、「朝鮮戦争=(統一のための)内戦説」「朝鮮戦争=誘因説」という学説がある。李榮薫や重村智計によれば、この動きはブルース・カミングスの1981年の著書『朝鮮戦争の起源』が導火線であり、学界ではこれを「修正説」と呼んでいる[259][260]。朝鮮戦争については伝統主義と修正主義(修正説)という相反する見解があり、朝鮮戦争は北朝鮮の南侵から勃発したと解釈するのが伝統主義であり、対して日本の植民地支配からの解放、アメリカ・ソ連による分割占領、南北政府の樹立へと連なる構造のなかで戦争が勃発したと解釈するのがカミングスに代表される修正主義となる[261]。修正説は、「学問的というよりは、政治的意図を含む研究」「北韓鮮と金日成首相に責任を負わせず、アメリカを非難するための理論であった。その政治的な目的と動機は、あきらか」な意図的に編み出されたものであるという指摘があり[262]、日本[263][264][265][266]や韓国[267][268][269][270][271][272]はもとより、Boudewijn Walraven(ライデン大学)やDouglas J. Macdonald(米国陸軍戦略大学)やJames Matray(カリフォルニア州立大学チコ校)やKathryn Weathersby(ジョンズ・ホプキンス大学)など欧米でも歴史修正主義という評価がある[273][274][275][276]。
修正説は「内戦説」と「誘因説」とに分類することができる[277][278]。
- 内戦説
- 「内戦説」は、朝鮮戦争は、植民地時代に始まる互いに異なる国家を建国する葛藤が、解放後に反乱と衝突とに引き継がれ、アメリカ軍政は民主化を抑圧する一方、少数の地主を擁護した。葛藤の核心は農地改革であったが、アメリカ軍政は地主を擁護して、農地改革を後回しにしたことにより、民主勢力は大邱10月事件、済州島四・三事件と麗水・順天事件、それに続くゲリラ活動で抵抗した。38度線では韓国と北朝鮮の武力衝突が続いており、最終的に戦争に発展したという説である[279][280]。
カミングスは朝鮮戦争の起源を日本の植民地支配に遡り、朝鮮戦争の責任は日本にあり、北朝鮮にはないとする[283]。1980年代以後研究の進化により欧米や韓国[284]では「通説として受け入れられてきたのは北朝鮮による南侵説」「北朝鮮の金日成が民族統一の名分を掲げ、ソ連と中国の支援を受けて南侵を強行」したとする北朝鮮による侵略説が定説化するなかで[285]、カミングスの修正説は、日本での共産主義・社会主義革命を実現したいあるいは北朝鮮の戦争犯罪への非難を回避したい共産主義・社会主義の北朝鮮に好意を抱く・支持するあるいはシンパシーを持つ日本の左派・革新系研究者を魅了し、大きくもてはやされ、受け入れ、便乗するようになり、カミングスの修正説を支持するようになったという[286]。重村智計によると、ソ連・中国・北朝鮮などの共産主義・社会主義は、アメリカ帝国主義をアジアから駆逐するため、アメリカ帝国主義の侵略戦争としての朝鮮戦争という図式が必要であり、これを中国共産党や北朝鮮政府が共産主義・社会主義の北朝鮮を支持するあるいはシンパシーを持つ日本の左派・革新系研究者を支援して、彼らは運動の手先となっていたという[287]。
例えば、左派・革新系研究者藤原彰は、1989年6月に底本が発行された『大系日本の歴史15 世界の中の日本』において、以下のように記している[288]。
朝鮮の南半分では一九八四年八月に大韓民国が成立したが、四八年四月から一年以上もつづいた済州島人民の武装闘争や、四八年一〇月の南海岸の麗水・順天での軍隊の反乱などがあって、政情が不安定なうえに、財政危機もつづいていた。李承晩政権は、国内の危機を北への武力挑発で解消しようとし、武力北進をとなえていた。一方北朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連軍の撤退後もその援助で急速に軍備をととのえ、南の政情不安に乗じて、いっきょに武力で統一を完成しようとしていた。こうして朝鮮の南北双方から準備された内戦として、戦火が開かれたのである。戦闘がはじまると、かねて南進の態勢をととのえていた北朝鮮軍は、三八度線をこえて進撃を開始し、韓国軍は一撃で壊滅し、三日後の六月二八日にはソウルも陥落した。
修正説は、ウィスコンシン大学マディソン校のアメリカ外交史講座のウィリアム・A・ウィリアムズが1958年に提唱した冷戦の原因がアメリカの拡張主義にあるとしたニュー・レフト史学・修正主義学派のいわゆる「ウィスコンシン学派」の影響を受けており、カミングスもこの系譜に繋がる修正主義学派として挙げられる[289]。修正主義学派のアメリカ責任論と南侵誘導説は、全国教職員労働組合や民族問題研究所や歴史問題研究所など韓国左派に多大な影響を与え[290]、カミングスの修正説は、韓国で大きな反響を呼び、1980年代の民主化の波を受け、韓国現代史を急進的に再解釈する梃子として作用して、毛沢東の新民主主義革命理論に基づく韓国現代史の左派的な解釈として発展した[291]。しかし修正主義学派は、ソ連崩壊で公開された公文書に基づく、ジョン・ルイス・ギャディスに代表される「脱修正主義(post-revisionism)」研究がスターリニズムやソ連-北朝鮮の関係を明らかにした結果、アメリカ責任論や南侵誘導説などの修正主義学派は、「降伏した」「徹底的に壊された古い理論」「廃棄された理論」「学説として、すでに寿命が尽きた」というのが主流の研究者の見解であり、国際政治学界はもちろん、本国のアメリカでも居場所を失い、もはや学術的価値がないという[292][292]。学界では、ウィリアム・A・ウィリアムズ、ウォルター・ラフィーバー、トーマス・J・マコーミック、ロイド・ガードナーら「ウィスコンシン学派」の伝統を継承してきた総本山のウィスコンシン大学マディソン校のアメリカ外交史講座を脱修正主義の大家ジョン・ルイス・ギャディスの直系弟子で、修正主義学派を厳しく批判した正統主義派のJeremi Suriが教授が引き継いだことから脱修正主義学派の学術的勝利という評価を下している[292]。Jeremi Suriは、修正主義学派はアメリカが共産主義の脅威を誇張して、経済的利益のために軍備拡張競争を追求したと主張したが、ソ連崩壊後に公文書が公開されたことから根拠を失っており、アメリカの外交政策の欠点を明らかにしたことは、修正主義学派の学術的成果であったが、共産主義の侵略戦争であった朝鮮戦争においては、アメリカと韓国の合法性は損なわれず、脱修正主義の正統主義派の学界は、朝鮮戦争のアメリカの防衛的役割を認めており、1990年代に公開されたソ連の公文書は朝鮮戦争について議論の余地のない3つの事実を明示しているとして以下を挙げている[293]。
- 金日成とスターリンと毛沢東は、韓国を奇襲攻撃する計画を1950年に互いに協議した。金日成とスターリンと毛沢東は、ソ連を盟主とする共産主義の影響力を東北アジアに拡大しようとして、共産主義の拡張について話し合い、1950年6月25日の攻撃を韓国解放のための内戦と見ておらず、共産勢力は明らかな侵略戦争を行った。
- 金日成とスターリンと毛沢東は、アメリカの強力な対応を想定しておらず、そのことはアメリカが過度に介入主義でなかったことを示している。朝鮮戦争開始後の数週間は、アメリカは共産主義の拡大を撃退することができなかった。
- 朝鮮戦争中、スターリンは、北朝鮮の戦略に多大な影響力を及ぼし、韓国に莫大な被害を負わせて、アメリカも巻き添えにするため、金日成に戦闘を継続するよう煽った。そして、スターリンは毛沢東と一緒に戦争を持続させるための広範な軍事的支援を行った。
李榮薫は、今日の研究水準として「農地改革のための民衆の革命的な要求が内戦につながり、これが朝鮮戦争に発展した」という修正説の抱えている問題点として、「韓国では、農地改革を後回しにしたのではなく、地主と小作農の間の事前販売が解放と同時に始まり、1949年の農地改革法を以てスピードを上げ、朝鮮戦争以前には完了していた」「スターリンが軍事活動を禁止する命令を下したことによって、1949年8月以後は、38度線は軍事的に平穏な状態が保たれていた」ことを挙げた[294]。ソ連崩壊後に機密解除されたソ連の公文書によると、1949年3月5日のモスクワ会談において、金日成がスターリンに南侵の提案をおこなった。スターリンは提案を拒否したが、その後の1950年1月17日、金日成は再度スターリンに南侵の提案を上申する[295]。スターリンは同年1月30日、金日成の南侵の提案を受諾する電報を平壌に飛ばし、4月、極秘にスターリンを訪問した金日成に対し、アメリカが戦争に介入してきた場合の対策として毛沢東の支持・協力を取り付けることを指示した。5月13日、金日成は毛沢東を訪問して南侵の提案を明かして支持・協力を要求したが、毛沢東は別ルートからスターリンが提案を受諾していることを知っており、アメリカが戦争に介入してきた場合、中国が兵力を派兵して金日成を助けることを約束した後、毛沢東は瀋陽に9個師団を配置して、来たるべき戦争に備えてソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を締結する。その席上、スターリンは毛沢東に、「アメリカの介入を恐れるな」「アメリカが鴨緑江を越えて東北地区まで進撃してきたら、中国とソ連の挟撃を受けてアメリカは甚大な失敗を味わうことだろう」と激励した[296]。結果、朝鮮戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたスターリンと毛沢東の支持・同意・協力を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備・企図した北朝鮮による先制攻撃であることが明らかとなった。従って、日本・韓国・アメリカなどの学界では修正説はまったく認められていない。しかしなお近年も修正説を主張する見解は提起されている。以下列記するが、韓国には韓国内で北朝鮮(北韓共産集団)・共産主義を賛美する行為及びその兆候は法的に取締る国家保安法があり、2005年東国大学校教授の姜禎求が、「朝鮮戦争が革命的な民衆勢力と外国の勢力に依存する反革命分子とのあいだに起こった内戦[297]」「北朝鮮の立場からすると、南朝鮮を外国勢力の植民地的な支配から解放するための民族統一戦争[298]」と主張して、国家保安法違反で懲役2年、執行猶予3年、資格停止2年の有罪判決を受ける事件があった[299]。
- 主張者
- ブルース・カミングスは「誘因説」と「内戦説」を育てた「開祖」であり、修正説の旗手として共産主義・社会主義の北朝鮮を支持する日本及び韓国の左翼から受け入れられた[300]。カミングスは、南北戦争において、アメリカ合衆国が侵略したのか、アメリカ連合国が侵略したのか特定することができないように、朝鮮戦争も内戦であるから、北朝鮮が侵略したのか、韓国が侵略したのか特定することができず、「朝鮮戦争の開戦責任などどうでもいいこと」だという[301]。
- 小此木政夫は、「北朝鮮が民族解放戦争の論理のもとソ連と共謀して朝鮮戦争を始めた」と説明しており、金学俊(ソウル大学教授などを歴任、朝鮮戦争研究の第一人者という評価がある[302])は、日本の修正主義学派に位置付けている[303]。
- 桜井浩(久留米大学教授)は、「北朝鮮が韓国での土地改革が成功する事を憂慮し朝鮮戦争を開始した」と説明しており、同じく金学俊は、日本の修正主義学派に位置付けている[304]。
- 日本・中国・韓国の研究者が編集した学校副教材『未来をひらく歴史』には朝鮮戦争について日本語版には、「北朝鮮の人民軍が半島南部の解放をめざして南下をはじめたのです。」(p188)とある。一方、韓国語版には、「北韓の人民軍が武力統一を目標に南侵したのである。」(p214)とある。下川正晴は、日本語版と韓国語版は正反対であり、「半島南部の解放」という朝鮮戦争史観について、「旧態依然たる共産党史観というべきか、B・カミングス教授らに影響を受けた“修正主義史観”というべきか」と批判している[266]。左翼政権(盧武鉉)の韓国でも学校副教材に「半島南部の解放」とする修正説を書くわけにはいかず、カメレオンのように姿を変える歴史修正主義者たちの奇々怪々さにはあきれるしかないと批判している[305]。
- ガヴァン・マコーマックの「朝鮮戦争を内戦と規定し、介入した米国と国連を批判[306]」「アメリカや国連を非難」[307]」する朝鮮戦争史観は、「北朝鮮側に立ち北朝鮮を弁護しようとの意図がうかがえる」という[308]。木村幹は、カミングスと「同じ歴史修正主義の立場」であると評している[309]。重村智計は、カミングスとジョン・ハリディの歴史修正主義をさらに越える新歴史修正主義と評している[310]。
- ジョン・ハリディは、カミングスとの共著で、「二つの国内的勢力(反植民地闘争にもとづく革命的民主主義運動と、不平等な土地制度と結びついた保守派の運動)の闘争が別の形で継続されていった内戦」「1950年6月に突如として始まったとする通説を批判」しており[311]、重村智計は、カミングスの系譜に繋がる歴史修正主義と評している[312]。
- 姜禎求は、「朝鮮戦争が革命的な民衆勢力と外国の勢力に依存する反革命分子とのあいだに起こった内戦[313]」「北朝鮮の立場からすると、南朝鮮を外国勢力の植民地的な支配から解放するための民族統一戦争[314]」と「カミングスの修正説を越える[315]」主張を行い、国家保安法違反で懲役2年、執行猶予3年、資格停止2年の有罪判決を受ける。姜禎求は、『朝鮮日報』によると、ウィスコンシン大学マディソン校の大学院で修士と博士を取得しており、ニュー・レフト史学・修正主義学派のいわゆる「ウィスコンシン学派」なかでも、大学院時代の教授のトーマス・J・マコーミック[292]と著作や論文の引用・参考文献からカミングスの強い影響を受けているという[316]。
- カミングスが著書『朝鮮戦争論―忘れられたジェノサイド』のp268で、「なかでもマリリン・ヤング、すでに故人となられたジェームス・B・バレー、和田春樹には深く感謝している」と謝辞を送っている[317]和田春樹は著書『朝鮮戦争』で「朝鮮戦争は、南北両方の内部矛盾を解決するための避けられない選択」「北朝鮮の計画された先制攻撃で開始された『内戦』からはじまり、中国-日本-アメリカ-ソ連などが参戦することで、『国際戦』に拡大された戦争」と歴史修正主義的な解釈をしており[289]、韓国の保守派から「日本版ブルース・カミングス(일본 버전(version)의 브루스 커밍스 )」「朝鮮戦争を内戦と主張、姜禎求の主張と酷似(6.25전쟁은 “內戰”, 강정구와 동일한 역사인식)」と批判されている[289]。和田は、朝鮮戦争を「内戦から始まり、中国・日本・米国・ソ連 などが参戦することによって国際戦へ拡大した戦争」「韓国戦争が勃発したのは解放後の韓半島で理念的に異なった南北の韓国分断政府が樹立されたことにともなう必然的な結果」「国連軍の参戦で韓国軍と米軍が38線を越えて進撃することで南北双方1回ずつ武力統一を試みた戦争」「当時韓国の李承晩政府も『武力による北進統一論』を積極的に進めた」と主張しており[261]、『京郷新聞』は「韓国戦争は南北すべての内部矛盾を解決するための避けられない選択」というカミングスに代表される「修正主義と似た見解」と指摘している[261]。ちなみに和田春樹は、朝鮮戦争は南侵(北朝鮮による韓国侵略)か北侵(韓国による北朝鮮侵略)なのかについては、「あまり本質的な問題ではない。南北の双方に武力統一プランはあった」と述べている[318]。
- 油井大三郎は、1985年が底本の論文では、朝鮮戦争が韓国が北朝鮮を侵略した「北侵」、もしくは韓国が北朝鮮に軍事挑発を行い、それに対して北朝鮮が反撃を加えた「南侵誘導」を示唆しており、I.F. ストーン『秘史朝鮮戦争』とD・W・W・コンデ『朝鮮戦争の歴史』の説を検討すべきと主張しており、朝鮮戦争が北朝鮮による侵略戦争であることを否認、「解放戦争」「統一戦争」「防衛戦争」と主張、朝鮮戦争における米軍と国連の介入を「干渉」「ジェノサイド」「なぜ、内戦に外国軍隊が介入し、国際化されたのか、が問われるべき」、北朝鮮を「革命的民族運動」と主張していたが[319]、ソ連崩壊後の1998年が底本の著書では、カミングス『朝鮮戦争の起源』や和田春樹『朝鮮戦争』を引用・参考文献に挙げて、「戦争が北朝鮮による武力統一をめざした内戦の性格をもっていたことが明らかになっている」と主張している[320]。
- 批判者
機密が解除されたソ連の公文書から、朝鮮戦争はスターリンと毛沢東の支持・同意・協力を取り付けた金日成が行った侵略戦争であることが裏付けられたことから、日本・韓国・アメリカなどの学界ではまったく認められていない。これについて、「統一のための内戦説」は、「彼らも世界の学界ではそうした主張を提起することはできない。せいぜいあざわらわれるのがおちだからだ」という指摘もある[321]。修正説を主張している人物に対しては、「内戦ならば、北朝鮮は開戦責任を問われることはなく、内戦に介入したアメリカを批判できる[322]」から「学問的というよりは、政治的意図を含む研究[323]」「その政治的な目的と動機は、あきらかであったと言わざるをえない[324]」「北朝鮮側に立ち北朝鮮を弁護しようとの意図がうかがえる[325]」「価値と威信を失った[326]」「日本や韓国の常識ではバランスを逸した歴史記述[266]」「北朝鮮と国内の偏向した修正主義史観の支持者だけが、韓国戦争を統一のための内戦というこじつけに執着している[321]」「韓国社会でまだ北侵説や自然発生的な内戦論があるというのに驚く[268]」「いまやカミングスの修正主義、80年代式歴史認識の枠を越える時になっているのは明らかだ[269]」「理論的基盤は崩れた[270]」「韓国国内の一部の歴史学者たちは相変わらず1980年代の古い理念のフレームから脱け出せずにいる[327]」「いわゆる進歩とされる一部勢力は、依然として『南侵か北侵か分からない』、『内戦だ』と云々し、事実を受け入れない[328]」「北朝鮮の共産集団が、民族に最大の悪行を犯したにも関わらず、北朝鮮政権を庇護し、反共を批判する勢力が堂々と大手をふるう[328]」など指弾する見解が多数ある。
朝鮮戦争を題材とした作品
「Category:朝鮮戦争を題材とした作品」を参照。
直接の題材とはしていないが、TVアニメ版「機動警察パトレイバー」第10話「イヴの罠」同第11話「イヴの戦慄」は、「50年のクリスマスを探しに行く」と謎めいた言葉を残して失踪した登場人物の祖母を探す、というもので、朝鮮戦争勃発が事件解決のキーワードにされている。
「あしたのジョー」には朝鮮戦争での悲惨な経験から、胃が縮み、小食となったため減量しないボクサー金竜飛が登場する。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 ““국민방위군 수만명 한국전때 허망한 죽음””. ハンギョレ. (2010年9月7日) . 2010閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 中村隆英『昭和史 下 1945-89』 東洋経済新報社,p.565
- ↑ 半藤一利『昭和史 戦後編 1945-1989』 平凡社ライブラリー,p297-298.
- ↑ 神谷不二『朝鮮戦争』中央公論社, 1966年
- ↑ 5.0 5.1 5.2 芦田茂「朝鮮戦争と日本」戦史研究年報 第8号(2005年3月)防衛研究所
- ↑ 1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している。#国連の非難決議
- ↑ http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659.html
- ↑ 田中(2011:4)
- ↑ 田中(2011:4-8)
- ↑ http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659.html
- ↑ http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/13/2017101301659_2.html
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 405-406.
- ↑ 13.0 13.1 李圭泰 1992, pp. 406.
- ↑ J.ハリディ、B.カミングス共著「朝鮮戦争 -内戦と干渉-」1990 岩波書店
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 405.
- ↑ 李景珉『増補版 朝鮮現代史の岐路』平凡社、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203。
- ↑ 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、「自ら独立を勝ち取ることができなかったことが、今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろう」と述べたと言われている
- ↑ 前掲李景珉、22頁
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 393-394.
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 394.
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 395.
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 395-396.
- ↑ 23.0 23.1 李圭泰 1992, pp. 396.
- ↑ 李圭泰 1992, pp. 396-397.
- ↑ 「つい先ごろ、中国戦線からペンタゴンに帰ってきた若い将校ディーン・ラスクが、38度選沿いの行政分割ラインを引いた」ディーン・アチソン回想録
- ↑ 「ダグラス・マッカーサー」ウィリアムス・マンチェスター 河出書房新社 1985年 205頁
- ↑ 1945年12月27日のモスクワ協定 -イェール大学「アバロン・プロジェクト」(英文)
- ↑ マッカーサーから任じられていた軍政長官のホッジ司令官は生粋の軍人であり、政治や外交、朝鮮をとりまく状況などについての知識は皆無だった。これはホッジの失策というよりは、マッカーサーの朝鮮への無関心によるものだった。
- ↑ 田中(2011:9)
- ↑ 今日の歴史(8月12日) 聯合ニュース 2009/08/12
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- ↑ 32.0 32.1 32.2 “Harry S Truman, “Statement on Formosa,” January 5, 1950”. 南カリフォルニア大学 (2014年2月25日). . 2017閲覧.
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- ↑ 朝鮮戦争:少年・少女兵の実体認められる 朝鮮日報 2010/02/19 2010/02/19閲覧
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- ↑ 黒田勝弘 (2008年6月28日). “朝鮮戦争のソ連安保理欠席 米の参戦図る”. 産経新聞
- ↑ 60万人以上、120万人以下!( 최소 60만명, 최대 120만명! ) The Hankyoreh Plus 2001年6月20日 第364号(朝鮮語)
- ↑ “60년 만에 만나는 한국의 신들러들 [2010.06.25 제816호 [특집] 김춘옥, 김노헌, 박청자, 이섭진, 안길룡, 백남길, 박남도…한국전쟁 당시 자기 목숨을 걸고 이웃의 생명을 살린 이들의 이야기”] (朝鮮語). ハンギョレ. (2010年6月25日) . 2010閲覧.
- ↑ 今日の歴史(7月4日) 聯合ニュース
- ↑ 최소 60만명, 최대 120만명! The Hankyoreh Plus
- ↑ 44.0 44.1 「戦時中に後退、銃殺された将校の名誉回復を」 朝鮮日報 2008/11/28
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- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7803
- ↑ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、 pp. 264
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 288
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7644〜pp. 7655
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 288
- ↑ ジェフリー・ペレット『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』鳥影社 pp. 1078〜pp. 1082
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 292
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.278
- ↑ 下斗米伸夫『モスクワと金日成』岩波書店、2006年、103ページ
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- ↑ マシュー・リッジウェイ『朝鮮戦争』恒文社 pp.66〜pp.70
- ↑ ただしこの数字は、期間、場所、延べ人数など明確な定義を設定せず概数を加算したものである。(石丸、2010)を参照
- ↑ 64.0 64.1 防衛研究所戦史部石丸安蔵. “朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―”. 防衛研究所. 2011年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010閲覧.
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- ↑ 金賛汀 (2007年1月). 在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史. 岩波書店, 156.
- ↑ 1951年4月、倭館駐屯の韓国軍部隊への演説。 金賛汀 (2007年1月). 在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史. 岩波書店, 157.
- ↑ 金周龍「回顧録」
- ↑ 歴史群像 2005年4月号 p160 学研パブリッシング
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp. 7796
- ↑ スターリンが朝鮮戦争に米国誘導、当時の文書発見 韓国新聞 2008年6月25日
- ↑ 田中恒夫「彭徳懐と金日成」『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、83頁
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 290
- ↑ 「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本軍国主義が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである。」
- ↑ 75.0 75.1 75.2 75.3 75.4 田中恒夫 『図説朝鮮戦争』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年、85頁。
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 309
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.934
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1059
- ↑ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 河出書房新社、pp.278
- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp. 290
- ↑ 田中恒夫 『図説朝鮮戦争』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年、86頁。
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- ↑ マシュー・リッジウェイ『朝鮮戦争』恒文社 pp.73
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- ↑ ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』(上)千早正隆訳、光人社pp.332
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(下)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1467
- ↑ マシュー・リッジウェイ『朝鮮戦争』恒文社 pp.84
- ↑ マシュー・リッジウェイ『朝鮮戦争』恒文社 pp.85
- ↑ デイヴィット・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上)』 文藝春秋(電子書籍版)pp.1503
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参考文献
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- 児島襄『朝鮮戦争』 (全3巻、文藝春秋、のち文春文庫)
- 小此木政夫『朝鮮戦争 米国の介入過程』(中央公論社)
- 平松茂雄『中国と朝鮮戦争』(勁草書房)
- I・F・ストーン『秘史朝鮮戦争』(内山敏訳、青木書店)
- 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争 中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、のち岩波現代文庫)
- 萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋、のち文春文庫)
- 萩原遼『「朝鮮戦争」取材ノート』(かもがわ出版、のち文春文庫)
- A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』(下斗米伸夫、金成浩訳、草思社)
- ジョン・トーランド『勝利なき戦い 朝鮮戦争』 (上・下、千早正隆訳、光人社)
- ブルース・カミングス、ジョン・ハリディ 『朝鮮戦争 内戦と干渉』(清水知久訳、岩波書店)
- ディヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影』
- 金子宣子訳、上・下 (新潮社、1997年)、のち文庫(全3巻、2002年)
- 新訳版『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影』 峯村利哉訳(ちくま文庫 全3巻、2015年)
- デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 ※著者の遺著
- 山田耕介・山田侑平訳、(上・下、文藝春秋、2009年/文春文庫、2012年)
- ジョン・ブルーニング『クリムゾンスカイ-朝鮮戦争航空戦』(手島尚訳、光人社NF文庫、2001年)
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う〈下〉』、「朝鮮戦争と日本」(文藝春秋、のち文春文庫)
- 軍事史学会編『軍事史学 特集朝鮮戦争』 (第36巻1号・通巻141号 錦正社)
- 木村幹『韓国における「権威主義的」体制の成立』(ミネルヴァ書房 2003年)。人文・社会科学叢書71
- 李圭泰「連合国の朝鮮戦後構想と三八度線」(1992年)
- 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』(学研 上・下、1999年、新版1冊本 2007年)、図説本
- 田中恒夫編 『図説 朝鮮戦争』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011-04-30、初版発行。ISBN 978-4-309-76162-6。
- ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社(上下)、1985年
- 重村智計 『北朝鮮の拉致、テロ、核開発,有事の国際関係』 早稲田大学社会安全政策研究所紀要(3)、2010。
- 李榮薫 『大韓民国の物語』 文藝春秋、2009-02。
- 大部な研究
- 韓国国防軍史研究所『韓国戦争 第1巻〜第5巻』(同翻訳編集委員会訳 かや書房 2000年9月 - 2007年6月)
- ISBN 4906124410、ISBN 4906124453、ISBN 490612450X、ISBN 4906124585、ISBN 490612464X
- 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』(上・中・下、原書房)
- 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』(全10巻、原書房)
- 赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会)
- 金東椿、崔真碩ほか訳『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(平凡社)
- 金学俊『朝鮮戦争 原因・過程・休戦・影響』(論創社)
- 和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店 2002年) ISBN 4000238094
- 西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争』 (岩波書店 2004年) ISBN 9784000223782
- 金賛汀『在日義勇兵帰還せず』 (岩波書店 2007年) ISBN 4000230182
- 回顧録
- サー・セシル・バウチャー『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』
- レィディ・バウチャー編、加藤恭子・今井万亀子訳(社会評論社)
- マシュー・リッジウェイ 『朝鮮戦争』 熊谷正巳、秦恒彦共訳(恒文社)
- 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社、のち草思社文庫)
- 崔極 『実録朝鮮戦争』(光人社)
- 葉雨蒙『黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史』(同文舘)
- 大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会、1978年。
- 日本の特別掃海隊について
- 「朝鮮動乱特別掃海史」掃海OB等の集い世話人会(平成21年1月5日)[1]
関連項目
- 戦争一覧、代理戦争
- 朝鮮統一問題
- 朝鮮戦争休戦協定
- 板門店
- 軍事境界線、38度線
- 老斤里事件
- 保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件
- 朝鮮特需
- チュー・イェン・リー
- 冷戦、新冷戦
- 朝鮮戦争戦没者慰霊碑
- 第1延坪海戦、第2延坪海戦
- 大青海戦
- 吹田事件
- 延坪島砲撃事件
外部リンク
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸まで
- 朝鮮戦争年表 仁川上陸から
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ前編
- 朝鮮戦争の経過 フラッシュ後編
- 参戦国別朝鮮戦争(英語)
- Collection of Korean War videos(英語)
- 平成18年度戦争史研究国際フォーラム報告書 - 防衛研究所
- LIFE IN THE KOREAN WAR: CLASSIC PHOTOS - ライフ (雑誌)アーカイブ