周恩来

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周恩来
各種表記
繁体字 周恩來
簡体字 周恩来
拼音 Zhōu Ēnlái
和名表記: しゅう おんらい
発音転記: チョウ・エンライ
ラテン字 Chou En-lai
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周 恩来(しゅう おんらい、1898年3月5日 - 1976年1月8日

中国の政治家。

字は少山,伍豪。

天津の南開中学を経て 1917年日本に留学。帰国後,南開大学に入り,五・四運動に参加し,逮捕投獄された。出獄後,進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなり,20年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,22年入党。 24年帰国し,党の広東省委員会書記となり,黄埔軍官学校政治部主任代理を兼任。 26年中山艦事件で逮捕。北伐が開始されると上海に潜入し,27年北伐軍に呼応する労働者の蜂起を指導したが,蒋介石の上海クーデターで逮捕され,武漢に脱出。国共分裂後,南昌暴動に参加。 28年モスクワで開かれた六全大会に出席,31年江西ソビエト区に入り政治局主席団の一人に選ばれ,軍事部長を兼任。 32年第1方面軍総政治委員,34年から革命軍事委員会副主席 (主席は朱徳) を兼ね,同年長征に参加。 36年 12月西安事件が起ると,党代表として蒋介石に内戦停止,国共合作を約束させる一方,蒋の生還に努力し,抗日民族統一戦線の結成を可能にした。日中戦争勃発後は国民政府の軍事委員会政治部副部長 (部長は陳誠) などの要職について,国共間の折衝の任にあたり,国民参政会の党代表団の一員でもあった。一方,党内では政治局副主席,革命軍事委員会副主席の要職にあった。 46年国共の武力衝突を避けるため,G.マーシャル張群と三人委員会をつくり,同年の政治協商会議には党代表団長として政権の民主化に尽力。 49年の中華人民共和国成立後は政務院 (のち国務院) 総理兼外交部長となり,総理は 76年の病死まで,外交部長は 58年陳毅に譲るまで,それぞれ 27年間と9年間の長期にわたってつとめた。 69年の九全大会では中央委員,中央政治局委員,中央政治局常務委員会委員に選出され,73年の十全大会でも再選,副主席の筆頭に選ばれた。この間,50年の中ソ友好同盟相互援助条約,54年ジュネーブ会議中国代表団主席,55年バンドンにおける第1回アジア=アフリカ会議,56~57年ハンガリーをはじめとする 11ヵ国歴訪など,中国外交の中心をになった。文化大革命の激動期ののち,71年の国連復帰,中米接近,72年アメリカの R.ニクソン大統領の訪中と米中共同声明 (上海コミュニケ ) 発表,日中国交正常化と,柔軟外交を推進した。林彪事件ののち影響力が上昇したが,73~74年の「批林批孔」運動では,江青グループから攻撃を受けた。 76年1月病死時の主要な公職は,党中央委員会副主席,中央政治局常務委員会委員,中央政治局委員,国務院総理,人民政治協商会議全国委員会主席。


中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
政務院総理から移行
国務院総理
1954年 - 1976年
次代:
華国鋒
先代:
設置
政務院総理
1949年 - 1954年
次代:
国務院総理へ移行
先代:
毛沢東
全国政治協商会議主席
1954年 - 1976年
次代:
鄧小平
先代:
設置
外交部長
1949年 - 1958年
次代:
陳毅
 Flag of the Chinese Communist Party.svg中国共産党
先代:
林彪
(単独の副主席)
中央委員会副主席
(党内序列2位、副主席筆頭)
1973年 - 1976年
次代:
華国鋒
(第一副主席)
先代:
設置
中央委員会副主席
1956年 - 1966年
劉少奇、周恩来、朱徳
陳雲林彪(1958年 - )
次代:
林彪
(単独の副主席)


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