林彪
林 彪 | |
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職業: | 軍人、政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 林 彪 |
簡体字: | 林 彪 |
拼音: | Lín Biāo |
和名表記: | りん ぴょう |
発音転記: | リン・ビャオ |
- テンプレート:中華人民共和国
林 彪(りん ぴょう、リン・ビャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中華人民共和国元帥。国務院常務副総理(第一副首相)、国防部長(国防大臣)、中国共産党中央委員会副主席、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。文化大革命で失脚した劉少奇国家主席に代わって毛沢東党主席の後継者に指名されるが、政争に敗れてソビエト連邦に亡命する途上、モンゴル人民共和国において搭乗機が墜落し、死亡した。
経歴
共産党入党
清国の湖北(現在の湖北省)で生まれた。両親は中産階級で小さな織物工場を経営していたとも、貧しい農家であるともいわれる。中学卒業後、1923年に中国社会主義青年団に参加。1925年には黄埔軍官学校に入り、中国共産党に入党。卒業後、国民革命軍第12師葉挺独立連隊で小隊長・中隊長を勤める。1927年の南昌蜂起に参加し、井崗山で毛沢東に合流し、長征にも参加した。労農紅軍第四軍の営長、団長、第一縦隊司令員、紅四軍軍長、紅一軍団軍団長、紅軍大学校長などを勤めるなど、英雄的な指揮官として名を馳せた。
八路軍
抗日戦争では八路軍115師を率い、山西省で遊撃戦を指揮。1939年には頭部に負った戦傷の治療のためソ連に行き、この時の治療が原因でモルヒネ中毒になる。1942年延安に戻り、中央党校副校長となる。第二次世界大戦後に勃発した中国国民党との間の国共内戦では、東北民主連軍総司令、東北野戦軍司令員、第4野戦軍司令員として活躍した。
指導者に
1949年の中華人民共和国成立後、中央人民政府委員、中南軍政委員会(のち中南行政委員会)主席、第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員となる。1949年末、モルヒネ中毒症の治療目的で再度訪ソ。朝鮮戦争が勃発すると、毛沢東から中国人民志願軍の司令官に指名されたが、病気療養を理由に辞退し、彭徳懐が指揮をとった(ただし、林彪が育てた第4野戦軍系の精鋭部隊が活躍している)。
1951年、中央人民政府人民革命軍事委員会副主席に就任。1954年9月、中華人民共和国憲法の制定にともなう政府機構再編によって国務院と国防委員会が設置されると、林彪は国務院副総理兼国防委員会副主席に任命された。また、党中央軍事委員会委員となった。1955年4月、第7期5中全会において党中央政治局委員に選出される。同年9月27日には中華人民共和国元帥(十大元帥)の一人となり、朱徳、彭徳懐に次ぐ序列第3位の軍事指導者となったが、十大元帥の中では最年少でもあり、軍閥の寄せ集めであった紅軍時代からの派閥や人脈が生きていた軍内においては、まだ地位は低かった。特に党に通じる人脈は皆無であり、これが後の毛沢東への接近へもつながることとなる。
毛沢東の軍師
1959年7月から8月にかけて開催された廬山会議(政治局拡大会議)において、彭徳懐が大躍進運動について毛沢東を批判したために国防部長を解任された。林彪は彭に代わって国防部長に就任し、さらに党中央軍事委員会第一副主席に任命されて軍権を掌握。ソ連をモデルにした軍の精鋭化および近代化と国境付近での敵撃滅を主張する彭徳懐と異なり、林彪は毛沢東の持久戦論および遊撃戦論を支持していた。このような林彪が中ソ関係の不安定な状況の中で軍で実権を掌握したことが、後に発生する文化大革命の伏線になったといわれる。文化大革命が始まると、「毛沢東の軍師」[1]として、多くの軍幹部を失脚に追い込んだ。また、1959年に解放軍向けとして『毛主席語録』の編集・刊行を命じ、1966年の文化大革命の発動とともに一般向けに大量に出版された。
林彪事件
林彪は1958年に党中央政治局常務委員に任命されて党副主席の一人となり、党内序列第6位の地位にあったが、1966年の第8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、国防部長を兼任したまま単独の党副主席となり、軍政両面の権限を掌握し始めた。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。しかし、劉少奇国家主席の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。1971年9月13日、人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で山海関空軍基地を強行離陸し、ソ連に向けて逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村(モンゴル国ヘンテイ県ベルフ市の南方10キロ付近)で墜落死した。
燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、中ソ関係悪化を恐れた当時のソ連が入国拒否の最終的意思表示(武力行使)としてミサイル撃墜を行なった説がある。なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、母は嫁に行くものだ。好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪され、批林批孔運動が起こされる。
再評価
1981年の林彪・四人組裁判では「反革命集団の頭目」とされ、彼が抗日戦争であげた戦功は歴史から抹消されることとなったが、近年、研究者の間では革命期における軍人・林彪の功績を客観的に再評価しようという機運も起きており、北京の革命博物館の展示でも林彪の名が見られるようになった。中国国内で出版されている辞書類でも殊更な否定的記述がなくなったほか、故郷の湖北省など少なくとも5カ所で観光客誘致などのための像が建てられている[2]。また、林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書「五七一工程紀要」に見られる、「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」などという記述が、文化大革命に批判的な見方を示す研究者からも注目されている。
エピソード
- 1971年9月の墜落事件の後、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル国内に墜落したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。抗日戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという。
- 中国人政治学者の厳家祺およびその妻の高皋による『文化大革命十年史』によれば、1950年に林彪が体調不良を訴え朝鮮戦争への出征を拒んだ際、診断した党幹部の御用達医師である傅連暲によって体の主立った器官に疾患はなく、神経系の異常あるいはモルヒネ中毒と診断され、これが毛沢東に報告された。毛沢東は以前から林彪の中毒を知っており、まもなく、林彪に曹操の詩『亀雖寿』をしたためて送ったとの逸話が載っている。
- 文化大革命の時期に中国郵政当局が発行した切手には、政治指導者として毛沢東とならんで林彪が登場していた。文化大革命時期に中国で発行された切手で、特定の人物(群集を除く)としては毛以外には林しか登場していなかった。特に1967年に発行された『毛主席の長寿をたたえる』とのシリーズ切手8種類のうち3種類には、毛と林が並んだ写真が採用されている。なお日本で中国切手のカラーカタログである「新中国切手」(日本郵趣協会編)では、「政治的配慮」のためか長年にわたり林の肖像が見えないように掲載されていたが、現在では全体が掲載されている。
- モルヒネ中毒はソ連での治療によりほぼ完治したが、1950年頃から統合失調症を患うようになった。病気療養を理由に朝鮮戦争への参加を辞退してから、1959年に国防部長として復帰するまでの約9年間、一切の活動から身を引いていた。奇妙な言動が目立つようになり、風や太陽光に触れることを恐れて、外出を極力避けようとした。水に対する恐怖心は極限に達し(水音を聞いただけで下痢を催す程であった)、水だけでなく、茶・スープ等液状の飲食物の摂取を拒絶した。窮余の策として、夫人の葉群が予め水を含ませておいた饅頭を毎日食べることで、かろうじて水分を摂ることができた。
関連項目
脚注
- ↑ 林彪―七億の軍師, 高田富佐雄, 新人物往来社, 1969
- ↑ “【検証・文革半世紀 第4部(4)】林彪の再評価を避ける歴代政権 民間では人気回復、増える像”. 産経新聞. (2016年10月29日)
外部リンク
- 「敗者達の叫び 林彪グループ」第一回
- 「敗者達の叫び 林彪グループ」第二回
- 「敗者達の叫び 林彪グループ」第三回
- 林彪氏写真を街頭展示―北京市通県の「十大元帥の壁」
- 亡命・墜死の林彪氏、軍事博物館で異例の写真展示
- 【今日は何の日?】1971年:逃亡中の林彪が墜死
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