秦郁彦
人物情報 | |
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生誕 |
1932年12月12日(91歳) 日本 山口県 |
出身校 | 東京大学 |
学問 | |
研究分野 |
日本の近現代史 第二次世界大戦を中心とした日本の軍事史 |
研究機関 |
防衛庁防衛研究所 防衛大学校 大蔵省財政史室 プリンストン大学大学院 拓殖大学政経学部 千葉大学法経学部 日本大学法学部 |
学位 | 法学博士(東京大学) |
主な受賞歴 |
菊池寛賞 毎日出版文化賞 |
秦 郁彦(はた いくひこ、1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の元官僚、歴史学者、現代史家。元日本大学法学部教授。法学博士(東京大学、1974年)。
Contents
略歴
山口県防府市生まれ[1][2]。父は広島県広島市の出身で[3][4]、小学生までは郁彦の本籍地も広島の爆心地にあった[4]。このため自身は広島出身でもあると述べている[4]。父は鉄道省の技術官吏で、九州の宮崎県、出水(鹿児島県)、若松(福岡県北九州市)の順で機関区長をしたため、小学校を5回転校[3]。太平洋戦争中に広島市に引っ越し、原爆投下の一年前に母の実家がある山口県防府市に移った[3][5]。父は戦時中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して終戦の1か月前に戦死した[3][6]。
1951年山口県多々良学園高校を卒業後、1951年に東京大学文科一類に入学(のちに法学部へ進級)。在学中は戦史や、清浦奎吾ら政治家の研究に没頭した。当初の指導教官は丸山真男だったが、後述する休学で丸山ゼミには入れず、岡義武に学んだ。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリンズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した[7][8]。
1955年に6級職国家公務員採用試験(経済)に合格し、1956年に卒業。通商産業省と自治庁からの内定は辞退し、将来の転職も考えて大蔵省に入省した。朝日新聞の入社試験も受けたが、落ちたという[9]。入省当初は大学時代の戦史研究の延長で出版社の仕事もしており、『別冊知性・秘められた昭和史』(河出書房、1956年)の刊行などに携わった。大蔵省では為替局、中国財務局、名古屋国税局で勤務したほか、経済企画庁に出向。大蔵省や経企庁の半ば公認で、日本国際政治学会などでの研究活動と二足の草鞋だったと回想している[10][11]。
1963年にハーバード大学、1964年にコロンビア大学にそれぞれ留学している。1965年に防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1969年8月に大蔵省へ復帰して、国有財産総括課長補佐として沖縄返還の事務を担当。1971年から1976年までは大蔵省財政史室室長として戦後財政史の編纂事業の責任者となり、自身もそのうちの一巻『アメリカの対日占領政策』を執筆した[12]。大蔵省大臣官房参事官を最後に、大蔵事務官を1976年に依願退官し、20年間に及ぶ官僚生活を終えた[13]。
退職後5年間、読売新聞社の嘱託として、公開された外交文書の分析などに協力[14]。1977年にプリンストン大学大学院客員教授、1980年に拓殖大学政経学部教授となり1994年に依願退職、1994年に千葉大学法経学部教授、1997年に定年退職した。1997年からは日本大学法学部教授、2002年に退職後は日本大学大学院法学研究科非常勤講師を2010年まで務めた[15]。
研究・主張
専攻は、日本の近現代史、第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史。その他、昭和史に関する著作がある。
日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は開戦に至る日本外交を描いており、。近現代史に関わる事典の編纂も行った。
ジョン・W・ダワーの『敗北を抱きしめて』やアルヴィン・D・クックスの『ノモンハン』の献辞では、共同研究者として名が挙げられている。
南京事件
南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している。2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。
百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で「投降した敵[16]」を斬ったと自ら公言していたことを、名簿を頼りに問合せ4人から回答を得て、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。志々目彰証言は「戦意を失って投降[注釈 1]した敵を斬[17]」ったと言っている。秦自身が語る捕虜の要件は「リーダーがいて、標識を制服につけていて、公然と兵器を携帯しているのが条件で、国際法上の待遇が受けられます」[18]。北之園陽徳は中国兵が綿服を着ていたと言っている[19]。中国兵が日本軍に降った状況[注釈 2]を語るのは志々目1人だが、秦は根拠を示すこと無くこれを「捕虜」とする[21]。
慰安婦
日本軍による「朝鮮半島において婦女子を強制連行し慰安婦とした」ことについては否定的である。1999年、それまでの議論や様々な資料を広く参照し、おもに時代背景やその変化などから慰安所制度や慰安婦の実態を明らかにすることを試みた著書『慰安婦と戦場の性』を出版した。
1992年3月、済州島において慰安婦狩りをおこなったとする吉田証言について現地調査を行い、そのような事実が存在しなかったことを明らかにした[22]。
フィリピン人では強要を認定せず[23]、女性を慰安婦として募集した事例を記す[24]。
オランダ人女性を慰安婦として採用したスマラン慰安所事件については、「承諾書に判を押させているから、みんな自発的だったと言っても、うそにはならんですよ[25]」と言いつつ「なかには違反する部隊もあった[26]」とする。根拠は大戦直後の軍事裁判で、これは判事が全て軍人[27]、本人(慰安婦人)は法廷に出席せず[28]、弁護側からの証人は一切受付けない[29]、拷問(54人)、脅迫・強要(71人)、甘言・強要(38人)、白紙陳述書に署名強要(8人)、等[30]を呈するものであったが、秦は「オランダ官憲の公正な手法に感銘する[31]」と述べている。「承諾書」に「違反する部隊もあった」については、「自由意志に依る者のみより採用す。本人署名せる宣誓書に依る[32]」「例外は見たることなし。日本語及マレー語にて作成せられあることを要す[33]」と、被告ではない、従って自己正当化する必要の無い監督参謀が証言しているのだが。なお、日本軍は婦人らとの意思疎通をマレー語に依った[34]。
2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている[35]。
2014年、政府による「河野談話」の検証チームのメンバーとなる[36]。
『慰安婦と戦場の性』英語版をアメリカの出版社から刊行する準備を進めている[37]。
その他
- 東條英機は、仮に東京裁判の代わりに日本人による裁判が設けられていたとしても、当時の法律に則りチャハル作戦における捕虜殺害、憲兵を用いた弾圧等を罪状として有罪となっただろうと著作『現代史の争点』で主張している。また、昭和天皇が靖国神社に参拝しないようになった理由は「A級戦犯合祀」であると主張して、首相・三木武夫の「私的参拝発言」原因説を唱える岡崎久彦、渡部昇一、櫻井よしこらを『諸君!』誌上や産経新聞「正論」欄で批判している。
- 張作霖爆殺事件に関しては、一次史料に基づく先行研究に依拠して河本大作大佐を中心とする日本陸軍の犯行であることは明らかであるとし、「張作霖爆殺はコミンテルンの仕業」との説を陰謀論にすぎないと批判している。この説はユン・チュアンとジャン・ハリディの共著「マオー誰も知らなかった毛沢東」の第16章の本文中の中として日本で初めて紹介された。「ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると」と日本に紹介された。典拠はその注の注としてGRU(ソ連赤軍情報総局)資料をもとに書かれたコルパキディアおポルホロフの共著「GRU帝国」であるとされていた。「マオ」では簡略に扱われていた記述であったが日本では「(もしこの話が本当なら)20世紀の国際関係氏は根本的に見直しを迫られる」松原隆一郎(朝日新聞2006/1/15 書評) 「日本人読者があっと驚くような文書…。もしこれざ事実であれば、日本の近代史も多少修正を余儀なくされるのではないか」猪木武徳(文藝春秋2006年2月号 書評) 「もし「マオ」の論証通りであるとすればーつまり張作霖を爆殺したのは日本軍でなかった〜とすれば、この一点だけで、きわめて大きな歴史の書き換えが必要となる」中西輝政(諸君! 2006年3月号) [38]など反響を巻き起こした。しかし産經新聞モスクワ支局長の内藤泰明記者の取材に、この説を最初に主張したドミトリー・プロホロフは「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書を根拠としているわけではない」としたうえで、関係者の回想録や公開文書を「総合し分析」して書いたもので「ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と説明したという。同記事にコメントした藤岡信勝は「失敗した1回目の作戦の内容は詳しく語られているのに、"成功"した2回目の実行行為に関しては極めて抽象的」と評した[39]。秦は「張本人が、あっさりと伝聞と推論の産物と自認したのだから騒ぎは決着しそうなものだ」とした[40]。
- 司馬遼太郎に関しては、秦は『昭和史の秘話を追う』にて戦前昭和期(特に旧日本軍)に対する司馬の言説を「新司馬史観」「司馬神話」などとして批判・否定している。また戦後においては、旧日本軍の批判を行うことは圧倒的な大義名分が備わっていたために、司馬の言説を盲信したマスコミや評論家が子引き・孫引きを行い、世間に伝播した結果「新司馬史観」は大きな権威を持って受容される結果となり、旧日本軍の戦車も参謀も将軍も全て劣悪だった、という自虐的イメージが広く定着してしまい歴史学者も逆らうことが困難だったとしている[41]。
- 家永三郎を「変節組」と批判し、家永教科書裁判においては、国側証人として出廷した。
- 1990年12月号の文藝春秋において公表された「昭和天皇独白録」について、翌月号の座談会で伊藤隆、児島襄、半藤一利とこの資料の評価を行った。秦は、「独白録」は昭和天皇の戦犯訴追を回避するためにGHQに提出することを念頭に作られた弁明書であり英語版も存在するはずであると主張し、政治的な背景を持たない率直な内輪話の記録に過ぎないとする伊藤、児島と対立した。伊藤は「秦さんのいう英語版が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)」、児島は「せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)」とコメントしている。後に英語版が実際に発見されている[42]。
- 2006年7月に日本経済新聞社紙上で、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に強い不快感を示した記述が含まれる富田メモの存在が報道された。秦はこの真偽を評価する研究委員会委員をつとめ、このメモが本物であると認定した。
- 選択的夫婦別姓制度導入に否定的[43]。
評価
- 肯定
- 嶋津格は、秦の著書『慰安婦と戦場の性』の裏表紙で「このような結論を導くに際して、秦は、自らが国内外にわたって収集、調査した資料を駆使する歴史学的態度を堅持している。そして、その結果生まれた本書は、総合性の上で、既存の類書の水準を超えた、「慰安婦」及び「慰安婦問題」の百科全書ともいうべき力作になった。これでやっと、冷静な遠近法の中で慰安婦問題を語る土壌が作られたのではないか」との賛辞を寄せている[44]。
- 池井優は、秦の著書『日中戦争史』および『軍ファシズム運動史』を、この分野における古典的名著であると評価した[45]。
- チャルマーズ・ジョンソンは、秦の『日中戦争史』を「1930年代の日本の対中政策に関する最も徹底した研究」と評した[46]。
- 佐々木隆は、東京大学出版会より刊行した『日本陸海軍総合事典』を日本近代史・軍事史研究必携の事典と評価した[47]。
- アメリカの軍事史家であるエドワード・J・ドレアは、「日本軍事史研究の長老」と評する[48]。そして、秦の著書を研究や精度、解釈のモデルであると指摘する[49]。
- 中国研究を専門とするヨーク大学のジョシュア・A・フォーゲルは、「40年以上にわたって日本の戦争に関する優れた研究を発表してきた著名な学者」と評価する[50]。
- 元ワイオミング大学講師の山本昌弘は、「日本近代史研究で日本を代表する学者」と評価している[51]。
- 伊藤之雄は、中曽根康弘が、内閣が一致して決めたことには、憲法上天皇には拒否権がなく、自動的に裁可したと誤解しているのも1989年の研究水準に照らすと無理はないとして、「たとえば、高い実証能力を持つ歴史研究者の秦郁彦ですら、1984年に公刊された著作で、次のように述べている。」と記している。また太平洋戦争の終結は、広島への原爆投下とソ連の参戦のどちら(もしくは両方)が主要因なのかは研究者でも見解が一致していないが、両方がないと終戦にもっていけなかったという秦郁彦の聞き取りは当を得ている、とも述べている[52]。
- 奈良岡聰智は、「私の好きな中公新書3冊 現代の古典を読む」において、秦郁彦の『南京事件 増補版「虐殺」の構造』(中公新書)を挙げて、「膨大な一次史料に基づいて実証的に虐殺の背景に迫っており、その堅牢な実証は他の追随を許さない」「いかなる立場に立つにせよ、本書を読むことなくしてこの事件について語ることはできない」と評している[53]。
- 北岡伸一は、自身が日本側座長を務めた「日中歴史共同研究」報告書を秦が概ねフェアとコメントしていることについて、さすが日本近代史研究の第一人者と評している[54]。
- 否定
- 林博史は、『慰安婦と戦場の性』における資料の引用に際して、出典を示していないものがある、数値を誤っている、証言の一部分だけを抜き取って都合よく引用している、などとして批判している[55]。
- 永井和は、1998年になって自由主義史観を教材対象とするときにこの問題を調べ始め、この問題の中心はいわゆる広義の強制の責任問題であり、それを『もっぱら「強制連行」の有無を争う』ことに絞ろうとする自由主義史観派が対立の因であり、それに実証的な立場のはずの学者(秦)が協力的だったと批判している[56]。また自身のブログで、『慰安婦と戦場の性』について、秦が「おそらく、(略)大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突きとめるのは至難だろう」とする結論については支持しつつも、結論に至る論証の手続きについて実証史家としては問題がある、などとしている[57]。
- 前田朗は、上記著作には国連組織への初歩的な間違いや憶測に基づいている記述が多いとも述べ、秦の手法に対して方法論的な疑問を提示している[58]。これに対する秦の反論が「前田朗氏への反論」(『戦争責任研究』 2000年夏季)。
- 堀和生は、秦の発言である「(慰安婦は)日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたとの評価は、「過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。」と批判している[59]。
- その他
受賞歴
その他
- 両切りの缶入りピースを愛好する喫煙者である[60]。『愛煙家通信』に寄稿[61]するなど、禁煙や喫煙規制への批判・抗議活動にも参加している。
- 産経新聞2015年2月23日付朝刊の「正論」欄で「大弁護団抱える植村訴訟の争点」と題する論考を発表し、その中で朝日新聞記者だった植村隆について「植村氏は訴訟までの約1年、被告ばかりか日本メディアの取材を拒否し、手記も公表していない」と事実ではない記述をした。産経新聞は2015年6月8日付朝刊7面でこの記載は誤りとし「植村氏は複数の日本メディアの取材に応じており、手記も発表しています。産経新聞のインタビューの申し込みには応じませんでした。訂正しておわびします」と誤報を認めた記事を掲載した。
著書
単著
- 『日中戦争史』(河出書房新社、1961年、増訂版1972年、復刻新版2011年/原書房(新装版)、1979年)
- 『軍ファシズム運動史――3月事件から2・26後まで』(河出書房新社、1962年、増訂版1972年、復刻新版2012年/原書房(新装版)、1980年)
- 『実録第二次世界大戦――運命の瞬間』(桃源社、1968年)
- 『太平洋国際関係史―日米および日露危機の系譜 1900-1935』(福村出版、1972年)
- 『昭和財政史 終戦から講和まで(3) アメリカの対日占領政策』(大蔵省財政史室編、東洋経済新報社、1976年)
- 『太平洋戦争六大決戦―なぜ日本は敗れたか』(読売新聞社、1976年)
- 『実録太平洋戦争―六大決戦、なぜ日本は敗れたか』(光風社出版、1984年/光風社選書、1995年)
- 『太平洋戦争六大決戦』(中公文庫(全2巻)、1998年)
- 『史録日本再軍備』(文藝春秋、1976年)
- 『八月十五日の空―日本空軍の最後』(文藝春秋、1978年/文春文庫、1995年)
- 『太平洋戦争航空史話』(各:全2巻、冬樹社、1980年/光風社出版、1984年/中公文庫、1995年)
- 『昭和史の軍人たち』(文藝春秋、1982年/文春文庫、1987年/文春学藝ライブラリー、2016年)
- 『官僚の研究―不滅のパワー・1868-1983』(講談社、1983年)
- 『裕仁天皇 五つの決断』(講談社、1984年)/『昭和天皇 五つの決断』(文春文庫、1994年)
- 『実録第二次世界大戦―運命を変えた、六大決戦』(光風社出版、1984年/光風社選書、1995年)
- 『第二次世界大戦―鋼鉄の激突』(中公文庫、1998年)
- 『昭和史を縦走する―柳条溝事件から教科書問題まで』(グラフ社、1984年)
- 『南京事件―「虐殺」の構造』(中公新書、1986年、増補版2007年)
- 『第二次大戦航空史話』(各:全3巻、光風社出版、1986年/中公文庫、1996年)
- 『昭和史の謎を追う』(各:全2巻、文藝春秋、1993年/文春文庫、1999年)
- 『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年)
- 『日本人捕虜―白村江からシベリア抑留まで』(原書房、1998年/中公文庫(上下)、2014年)
- 『現代史の争点』(文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)
- 『現代史の光と影―南京事件から嫌煙権論争まで』(グラフ社、1998年)
- 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年)
- 『なぜ日本は敗れたのか―太平洋戦争六大決戦を検証する』(洋泉社新書y、2001年)
- 『現代史の対決』(文藝春秋、2003年/文春文庫、2005年)
- 『旧制高校物語』(文春新書、2003年)
- 『漱石文学のモデルたち』(講談社、2004年/中公文庫、2013年)
- 『歪められる日本現代史』(PHP研究所、2006年)
- 『統帥権と帝国陸海軍の時代』(平凡社新書、2006年)
- 『現代史の虚実―沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム』(文藝春秋、2008年)
- 『靖国神社の祭神たち』(新潮選書、2010年)
- 『病気の日本近代史 幕末から平成まで』(文藝春秋、2011年)
- 『昭和史の秘話を追う』(PHP研究所、2012年)
- 『陰謀史観』(新潮新書、2012年)
- 『明と暗のノモンハン戦史』(PHP研究所、2014年)
- 『旧日本陸海軍の生態学 組織・戦闘・事件』(中央公論新社[中公選書]、2014年)
- 『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』(PHP研究所、2016年)
共著
- (袖井林二郎)『日本占領秘史 〈下〉』(朝日新聞社、1977年/ハヤカワ文庫、1986年)
- (坂本多加雄・半藤一利・保阪正康)『昭和史の論点』(文春新書、2000年)
- (半藤一利・横山恵一)『太平洋戦争―日本海軍戦場の教訓』(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)
- (半藤一利・横山恵一・戸高一成)『歴代海軍大将全覧』(中公新書ラクレ、2005年)
- (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 明治編』(中公新書ラクレ、2009年)
- (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 大正編』(中公新書ラクレ、2009年)
- (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 満州事変・支那事変期』(中公新書ラクレ、2010年)
- (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 太平洋戦争期』(中公新書ラクレ、2010年)
- (伊沢保穂)『日本海軍戦闘機隊-戦歴と航空隊史話』(大日本絵画、2010年)
- (半藤一利・保阪正康・井上亮)『「BC級裁判」を読む』(日本経済新聞出版社、2010年/日経ビジネス人文庫、2015年)
- (半藤一利・原剛・松本健一・戸高一成)『徹底検証 日清・日露戦争』(文春新書、2011年)
- (半藤一利・戸高一成)『連合艦隊・戦艦12隻を探偵する』(PHP研究所、2011年)
- (聞き手笹森春樹)『実証史学への道 一歴史家の回想』(中央公論新社、2018年)
編著
- 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)
- 『世界諸国の制度・組織・人事 1840-1987』(東京大学出版会、1988年。増補版2001年)-2000年までを追加した
- 『真珠湾燃える(上・下)』(原書房、1988年)
- 『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年。第二版2005年)
- 『ゼロ戦20番勝負』(PHP研究所[PHP文庫]、1999年)
- 『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)
- 『検証・真珠湾の謎と真実-ルーズベルトは知っていたか 』(PHP研究所、2001年)
- 『太平洋戦争のif「イフ」-絶対不敗は可能だったか?』(グラフ社、2002年/中公文庫、2010年)
- 『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
- 『昭和史20の争点 日本人の常識』(文藝春秋、2003年/文春文庫、2006年)
- 『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所、2009年)
共編著
- 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編『太平洋戦争への道 第4巻 日中戦争 下』(朝日新聞社、1963年)
- 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編『太平洋戦争への道 第6巻 南方進出』(朝日新聞社、1963年)
- (三宅正樹・藤村道生・義井博)『昭和史の軍部と政治(全5巻)』(第一法規出版、1983年)
監修
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報(全18巻・別巻2巻)』(アテネ書房、1996年)
- 『別冊宝島 日本史再検証真珠湾攻撃』(責任編集:宝島社、2016年)
共監修・共著
訳書
- デイヴィッド・カーン『暗号戦争』(共訳、早川書房、1968年/ハヤカワ文庫、1978年)
- ウォルター・ロード『南太平洋の勇者たち――ソロモン諜報戦』(早川書房、1981年)
脚注
注釈
論文
- 「20世紀の戦争と平和」(年報戦略研究6<20世紀の戦争と平和>、戦略研究学会編、芙蓉書房出版、2009年3月)
- 国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所
出典
- ↑ 著者プロフィール 秦郁彦 - 新潮社
- ↑ “時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(1)大本営発表に疑問抱く”. 読売新聞朝刊. (2017年3月14日)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 “時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(4)国鉄マンだった父 戦死”. 読売新聞朝刊. (2017年3月18日)
- ↑ 4.0 4.1 4.2 秦郁彦 『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』 PHP研究所、2016年。ISBN 9784569830070。
- ↑ “時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(5)あだ討ちの心情消えた”. 読売新聞朝刊. (2017年3月20日)
- ↑ 秦郁彦 『現代史の争点』 文春文庫、2001年。ISBN 4167453061。
- ↑ 『現代史の虚実』
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(7)白眉 丸山真男の分析力『読売新聞』朝刊2017年3月22日
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(12)公務員試験 独学で挑む『読売新聞』朝刊2017年3月29日
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(13)旅館から車で初登庁『読売新聞』朝刊2017年3月30日
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(14)歴史の女神に魅入られて『読売新聞』朝刊2017年3月31日
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(20)沖縄返還と財政史編纂『読売新聞』朝刊2017年4月11日
- ↑ 『官僚の研究―不滅のパワー・1868-1983』(講談社、1983年)の、著者紹介欄など。
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(23)「天皇退位せず」の特ダネ『読売新聞』朝刊2017年4月15日
- ↑ 奥付 『日本近現代人物履歴事典(第2版)』秦郁彦
- ↑ p.43 月刊『中国』志々目彰 1971年 引用『政経研究』再録p.297『旧日本軍の生態学』秦郁彦 2014年
- ↑ p.43 月刊『中国』志々目彰 引用『政経研究』再録p.297『旧日本軍の生態学』秦郁彦
- ↑ p.34 『南京「虐殺」研究の最前線』秦郁彦・東中野修道 展転社 2002年
- ↑ 『政経研究』再録 p.302『旧日本軍の生態学』秦郁彦
- ↑ 月刊『中国』志々目彰 1971年 引用 p.297『旧日本軍の生態学』秦郁彦
- ↑ p.302-304『旧日本軍の生態学』秦郁彦
- ↑ “慰安婦問題で「吉田証言」に踊った人たち 記事取り消しの意味”. SankeiBiz. (2014年8月9日) . 2014年8月10日閲覧.
- ↑ p.192-198『慰安婦と戦場の性』新潮社 ISBN 4106005654
- ↑ p.196 高宮証言 p.197 下津証言 同前
- ↑ p.196 『「BC級戦犯裁判」を読む』日本経済新聞出版社 2010年
- ↑ p.217 『慰安婦と戦場の性』新潮社
- ↑ p.39 『戦犯裁判の実相』巣鴨法務委員会 1981年
- ↑ p.120 荻原弁護人証言『バタビア裁判慰安所関係事件開示資料』 国立公文書館
- ↑ p.120 同上
- ↑ p.690 『戦犯裁判の実相』巣鴨法務委員会 1981年
- ↑ p.220 『慰安婦と戦場の性』新潮社
- ↑ p.123 山口参謀証言『バタビア裁判慰安所関係事件開示資料』 国立公文書館
- ↑ p.136-137 宮元参謀証言 同上
- ↑ p.9,15,16,23,42,79『バタビア裁判慰安所関係事件開示資料』
- ↑ 『諸君!』2007年7月号 秦郁彦、大沼保昭、荒井信一「激論 「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」
- ↑ 河野談話作成過程等に関する検討チーム (2014年6月20日). “慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯 河野談話作成からアジア女性基金まで”. . 2016閲覧.
- ↑ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(1)はじまりは東京裁判『読売新聞』朝刊2017年3月14日
- ↑ 全て秦邦彦「陰謀史観」2012より
- ↑ 『正論』2006年4月号
- ↑ 秦邦彦「陰謀史観」2012
- ↑ 『昭和史の秘話を追う』 - 第四章 司馬遼太郎と戦車
- ↑ 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波書店、1992年。ISBN 4004302579。
- ↑ 『産経新聞』2015年11月25日
- ↑ 『慰安婦と戦場の性』裏表紙推薦文
- ↑ 著書『日中戦争史』復刊の際のパンフ(池井優慶大教授)より
- ↑ Chalmers Johnson, Peasant Nationalism and Communist Power (Stanford: Stanford University Press, 1962), 200
- ↑ 史学雑誌102-3、1993年3月、佐々木隆による同書の新刊紹介
- ↑ Edward Drea, Japan's Imperial Army: Its Rise and Fall 1853–1945 (Lawrence, Kansas: University Press of Kansas, 2009), ix
- ↑ Edward Drea, "Book Review: Hirohito: The Showa Emperor in War and Peace," Global War Studies 8, no. 1 (2011), 172-174
- ↑ Joshua A. Fogel (2003). "Response to Herbert P. Bix". Japan Focus
- ↑ Masahiro Yamamoto, Nanking: Anatomy of an Atrocity (Westport, Connecticut: Praeger, 2000), xi
- ↑ 伊藤之雄『昭和天皇伝』 文藝春秋、2011年7月。ISBN 978-4-16-374180-2。p19、p372
- ↑ “「現代の古典」を読む/奈良岡聰智”. 中央公論新社. (2016年12月22日). オリジナルの2017年1月2日時点によるアーカイブ。
- ↑ 『外交フォーラム』2010年4月号、都市出版、北岡伸一「『日中歴史共同研究』を振り返る」
- ↑ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判」 『週刊金曜日』 290号 1999年11月5日 - 林博史研究室 論文ページ
- ↑ 永井和 日本軍の慰安所政策について『二十世紀研究』創刊号、2000年
- ↑ 2007-04-15 従軍慰安婦問題を論じる - 永井和の日記 - 掲示板への投稿から―その2― - 従軍慰安婦問題を論じる - 永井和の日記
- ↑ 前田朗 『秦郁彦の「歴史学」とは何であるのか?』 (日本の戦争責任資料センター『戦争責任研究』 2000年春季)
- ↑ 「京都大学経済学研究科東アジア経済研究センター ニュースレター」2015年2月2日発行 第555号、京都大学経済学研究科教授堀和生『東アジアの歴史認識の壁』[1]
- ↑ 『日本の論点』文藝春秋1999
- ↑ 異様な肺ガンの急増ぶり/秦郁彦(現代史家)『愛煙家通信』No.2
- ↑ 文藝春秋 80周年記念出版 世界戦争犯罪事典