亡命
亡命(ぼうめい)とは、主に政治的な事情により政治家や軍人、学者やスパイなどが他国に逃れることを意味する。また、亡命してきた志士・名士を亡命客と呼ぶ[1]。
概説
亡命の理由として政治的迫害によるものが多いが、宗教対立や民族対立、経済的窮乏など、その他の理由によるものが含まれることもある。
クーデターなどの政変により国を追われた政治家や王族が他国に亡命したり、政治的抑圧から逃れるため、周辺国または亡命者の親族、保護者等が在籍する国など亡命者の安全が確保できると思われる国に亡命する例などがある。
越境にて亡命する以外にも大使館などの在外公館に保護を求める場合もある。近年では、北朝鮮から亡命を試みる者が北京など当事国外に所在する亡命先または第三国の在外公館、外国人学校などへ駆け込むケースもみられた。(脱北者、瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件を参照)
亡命者の多くは交通を制限された状況下で脱出を図っており(ベルリンの壁等)、その途中で命を落とす者もいる。なお、東ドイツからの場合は例外もあり、政治犯として逮捕され西ベルリンへ追放される形で成功した者もいる。また、反体制側の要人の場合は亡命先で暗殺される恐れもあるため、保護が必要である。
また、亡命者達が作った政府の事を亡命政府と言い、世界の各所に現存する。古くは第二次世界大戦中、ドイツに占領されたフランス、ポーランド、チェコスロヴァキアなどで組織された。
政治家や官僚や王族ではない一般市民が他国に越境する場合は難民として区別される。
「refugee」を亡命者と訳すか難民と訳すかの問題で、両者は同一であるとする見解もある。 大家重夫の『「亡命者」と「難民」』[2]では、「外務省は「refugee」の訳語に「難民」の文字をあてることにして、難民条約に加入することにし、「亡命者」、「難民」等の定義については、一義的な定義を行ったり、区別を明確にすることは困難な実情がある」としている。
主な亡命事件
- 百済滅亡(660年)により、一部の百済人が日本へ亡命。王族は百済王氏となった。
- 高句麗滅亡(668年)により、一部の高句麗人が日本へ亡命。王族は高麗氏となった。
- 17世紀前半、朝鮮からの亡命者である佐野主馬が、但馬守となった柳生家の門番をしていたとされる(耳嚢、玉栄拾遺)。
- 1659年、復明運動(zh:反清复明)の失敗によって朱舜水が日本へ亡命。
- フランス革命(1789年)による、フランス貴族、僧侶(聖職者)の亡命。亡命貴族のことをフランス語でエミグレと言う。
- ヴァレンヌ事件(1791年): フランス革命時のフランス王家の亡命事件。失敗におわり、反王家の傾向を激化させる一因となった。
- 1895年、孫文が日本に亡命。1911年、中国に帰国。
- ロシア内戦(1917年~1922年)及びソビエト連邦誕生により、白系ロシア人が中華民国・日本・欧米へ亡命。
- 1929年、レフ・トロツキー、ソビエト連邦から追放。以後フランス、メキシコなどに亡命。1940年殺害。
- 1933年、アルベルト・アインシュタイン、ナチス・ドイツから追放。米国に亡命。
- 1938年、ゲンリフ・リュシコフがソ連の重要機密情報を持って満州に亡命。
- 1947年、ミハイ1世、ソ連軍占領下のルーマニア王国で共産党政府の成立と王制廃止により退位。スペインに亡命。
- 1949年、プリーディー・パノムヨン、クーデターに失敗し、フランスへ亡命。
- 1952年、チャールズ・チャップリン、アメリカから追放。スイスへ移住。
- 1957年、プレーク・ピブーンソンクラーム、クーデターによりカンボジア経由で出国。日本へ移住。
- 1959年、ダライ・ラマ14世、チベットからインドに亡命。チベット亡命政府を樹立。
- 1960年、李承晩、韓国からアメリカに亡命。
- 1970年、共産主義者同盟赤軍派メンバーが日本航空機(よど号)をハイジャックし、北朝鮮へ亡命(よど号ハイジャック事件)。
- 1974年、アレクサンドル・ソルジェニーツィンがソビエト連邦から国外追放。スイス経由で1976年にアメリカに移住。
- 1974年、ミハイル・バリシニコフ、ソビエト連邦からアメリカに亡命。
- 1975年、マルチナ・ナブラチロワ、チェコスロバキアからアメリカに亡命。
- 1976年、ソ連空軍のパイロット、ヴィクトル・イワノヴィチ・ベレンコ中尉が乗機MiG-25で函館空港に強行着陸。アメリカに対し亡命を申請(ベレンコ中尉亡命事件)。
- 1979年、イディ・アミン、ウガンダからリビア経由でサウジアラビアに亡命。
- 1983年、アントニオ・ネグリ、イタリアからフランスに亡命。
- 1984年、アンドレイ・タルコフスキー、ソビエト連邦当局からの帰国要請を拒否しイタリアにて事実上の亡命を宣言。
- 1986年、フェルディナンド・マルコス及びイメルダ・マルコス、エドゥサ革命によりハワイへ亡命。
- 1989年、ナディア・コマネチ、ルーマニアからハンガリー経由でアメリカに亡命。
- 1998年、李洪志、中国からアメリカに亡命。
- 2000年、テルアビブ空港乱射事件に対してイスラエルで終身刑判決を受け、服役中に「捕虜交換」の名目で釈放されレバノンに滞在していた岡本公三に、再びテルアビブ事件についての刑事責任を問う目的で日本政府が引き渡し要求をした事に対し、レバノン政府は岡本の政治亡命を認め保護。
- 2000年、日本滞在中のペルー大統領、アルベルト・フジモリが大統領辞任を表明後も日本滞在を続け、事実上亡命。大統領選出馬の意を表明、2005年帰国途中のチリで逮捕。
- 2002年、中国・瀋陽において北朝鮮を脱出した住民が亡命を目的に日本総領事館に駆け込むが、総領事館を警備していた中国公安職員が敷地内に立ち入り住民を拘束。日本国政府が抗議。その後、住民らはマニラを経て韓国へ亡命。
- 2004年、当時のチェス世界チャンピオンであったボビー・フィッシャーが成田空港で有効旅券不所持により出国差止めのうえ身柄収容され、フィリピンへの亡命を申請。アイスランドが市民権を承認し出国。
- 2006年、タクシン・チナワット、外遊先からタイ王国に帰国せず、以来、事実上の亡命状態となる。
- 2007年、ネパールの親王族派の有力一族であるケー・シー・ディパックが、ネパール共産党毛沢東派からの迫害を受け日本へと亡命[3]。ディパックは、他にも難民認定の必要な亡命者が居るとしている[3]。
- 2009年、キューバの野球選手アロルディス・チャップマンがキューバ代表の遠征地オランダにて亡命。
- 2013年、アメリカの元CIA職員エドワード・スノーデンがロシアに一時亡命。
- 2015年、中国共産党中央統一戦線工作部元部長の令計劃の弟である令完成が機密資料を持ってアメリカに亡命。
このほかの亡命の事例についてはCategory:亡命者を参照。
アメリカへの亡命
アメリカ合衆国では、政治的迫害などを理由に亡命(難民認定を含む)申請する者が多数存在する。2016年の出身国別傾向では、ベネズエラ人が14,700人を超えてトップであり、以下、中華人民共和国、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドルと続く。ベネズエラは経済的に混乱が続いており、2017年も増加傾向にある[4]。
報酬
亡命元と亡命先が対立国の場合、亡命先の国から亡命者に対して報酬が出る場合がある。北朝鮮から韓国へ亡命(脱北)する例では、機密情報や軍艦、爆撃機などを韓国内に持ち込んだ場合、報労金として最大で10億ウォンが支払われる[5]。
備考
自身の所属する会社・団体・学校などを辞める際、(派閥争いに負ける、上司から不利な扱いを受ける、イジメに遭うなど「追いやられた」「排除された」といった印象が強い場合)、競合する事業をしている組織に移籍するにあたって前所属先に対する皮肉という形で比喩的に遣われることがある。
出典
- ↑ 『社会ユーモア・モダン語辞典』 社会ユーモア研究会編、鈴響社、1932年。全国書誌番号:44060236、NDLJP:1109797。
- ↑ 法苑47号 12ページ〜19ページ - 新日本法規出版・1982年4月発行
- ↑ 3.0 3.1 “ネパール難民、初認定 夫婦迫害の恐れ 申請から4年半”. 東京新聞. (2015年4月24日). オリジナルの2015年4月26日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ 米国への亡命申請、ベネズエラが最多に CNN(2017年5月24日)2017年5月25日閲覧
- ↑ 戦闘爆撃機に乗って来た脱北者への報賞金を引き上げ 中央日報(2017年3月5日)2017年7月11日閲覧