アンソニー・イーデン
初代エイヴォン伯爵ロバート・アンソニー・イーデン(英語: Robert Anthony Eden, 1st Earl of Avon、1897年6月12日 - 1977年1月14日)は、イギリスの政治家、貴族。外相(在任:1935年 - 1938年、1940年 - 1945年、1951年 - 1955年)、首相(在任:1955年 - 1957年)。
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経歴
前半生
カウンティ・ダラムにてイーデン準男爵家の息子として生まれる。イートン・カレッジ、オックスフォード大学と、エリートコースを歩む。第一次世界大戦が勃発するとこれに大尉として従軍する。イーペルの戦いにも参加し、後に第二次世界大戦の敵国元首であるアドルフ・ヒトラーとは戦線を挟んで対峙していた。
若き政治家
1922年に下院選挙にウォリック・レミントン(Warwick-Leamington)選挙区から保守党候補として出馬したものの落選、翌1923年12月の選挙で当選した。この年には銀行家の娘ベアトリス・ベケット(Beatrice Beckett)と結婚し、3人の子をもうけたが夫婦仲は良くなかった。
1924年からの保守党内閣では内相の議会担当秘書官を務め、1931年には外務次官に就任した。1934年6月にはラムゼイ・マクドナルド内閣の王璽尚書として初入閣を果たした。この時期のイーデンはファッションリーダー的存在としても注目を集め、彼の愛用した帽子はアンソニー・イーデン・ハットと呼ばれ、外交官や公務員の間で流行した。
最初の外相時代
1935年スタンリー・ボールドウィン内閣が成立すると、イーデンは国際連盟担当の無任所大臣となり、12月22日には外務大臣に就任した。以降ボールドウィンと、後を継いだネヴィル・チェンバレンの宥和政策に基づく、対伊・対独にとって融和的な外交活動を行ったが、彼の中で宥和政策に対する疑念は高まりつつあった。1938年2月にイーデンは外相を辞任した。後にイーデンはチェンバレンがイタリア首相ムッソリーニとの間で、秘密交渉を行っていたことが原因だと述べている[1]。その後の彼はウィンストン・チャーチルらとともに対独・対伊強攻策を唱えるグループを形成するようになる。少佐として軍務に復帰した。
戦時内閣の外相
1939年9月3日の第二次世界大戦勃発後、イーデンはチェンバレン戦時内閣の自治領大臣として入閣した。チェンバレンが辞職してチャーチルが首相となると陸軍大臣となり、1940年には外相に復帰、連合国や中立国等との交渉、特にアメリカとの特別な関係を築くために活動した。また政治戦争執行部の執行委員として対枢軸国プロパガンダにも参加している。また、このころから中東政策に関心が高く、1941年5月29日からはアラブ連盟を構想、1942年には中東司令部最高司令官(実際の指揮はハロルド・アレグザンダー大将が行った)に就任している。同年に下院議長にもなった。
一方で1945年には長男のサイモン・ガスコインがビルマ戦線で戦死し、ベアトリスとの関係は修復不可能になった。
戦後
1945年の選挙での保守党敗北後、イーデンは保守党の副党首に就任した。1950年にはベアトリスと離婚し、1952年にはチャーチルの姪クラリサ・チャーチル(1920年生まれ)と再婚した。1951年の選挙では保守党が政権復帰し、チャーチル首相の下で三度外相に就任した。この頃にはチャーチルは老衰して指導力も衰えており、外交政策はほとんどイーデンがとり回すようになった。1954年にはガーター勲章を受章している。
首相就任
1955年4月のチャーチル引退に伴って保守党党首、そしてイギリスの首相となった。就任後間もない5月27日行われた総選挙では、長いチャーチル時代と変わる新鮮さと、イーデンの華々しいイメージも幸いし、労働党277議席に対して保守党344議席という圧倒的勝利を収める。この頃のイーデンのスローガンは「Peace comes first, always」であった。
スエズ危機
1956年7月26日、エジプト大統領のナセルはスエズ運河を国有化した。これに対し、イーデンはフランス・イスラエルとの協力のもと、エジプトを攻撃する準備を進め、10月29日に秘密の取り決め通りイスラエルがシナイ半島を攻撃した。
イーデンらはこの頃、ソ連はハンガリー動乱を鎮圧するためハンガリーに軍を派遣しており、アメリカでは大統領選挙のため中東に注意を払うことはないと推測していた。
しかし、結局米ソの批判と国連の制裁を示唆されることになり、国連緊急総会では即時停戦の要求が決議された。こうして英仏はスエズ運河会社の喪失のみならず、エジプトに存在した他の資産も国有化され、西欧諸国による植民地主義の実質的敗退の事実だけが残された[2]。
退陣
イーデンはもともと体調不良に悩まされていたが、スエズ危機で更に健康を害し、1957年1月9日、閣議において辞任を表明した。この閣議では、「諸君はみな私を捨てようとしている、捨てている」と叫び、理性を失いながら、涙を流し続けた。
イーデンのスエズ危機対処の失敗は、その利権の喪失に加え莫大な戦費の支出からポンド下落を招いて経済力の低下を招くなど、大英帝国の凋落を招く直接的な原因になったといえよう。
後半生
首相退陣後のイーデンは妻クラリッサとともにウィルトシャー州に隠棲し、いくつかの回顧録を書いた。1961年にはエイヴォン伯が授けられ、上院議員となった。1977年1月14日、肝臓ガンのため、ソールズベリーで死亡した。 1985年、次男ニコラス・イーデンの死で、エイヴォン伯爵は2代で断絶した。
参考文献
- 黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』(丸善ライブラリー、1998年)
脚注
- ↑ “Career Built on Style and Dash Ended with Invasion of Egypt”. The New York Times
- ↑ 鏡 武「中東紛争 その百年の相克」(有斐閣選書、2001年4月10日)ISBN 4-641-28049-5
関連項目
- 次男。最初の妻・ベアトリクスとの間に生まれた子。サッチャー政権で環境政務次官。
外部リンク
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