チェコスロバキア社会主義共和国

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チェコスロバキア社会主義共和国(チェコスロバキアしゃかいしゅぎきょうわこく、チェコ語スロバキア語:Československá socialistická republika)は、1948年から1989年までの間存在したヨーロッパ東部の国家である。1948年のチェコスロバキア総選挙によりチェコスロバキア共産党が政権を獲得し、人民民主主義体制をとったことにより誕生した。ただし、1960年までの国号は以前と同じチェコスロバキア共和国Československá republika)であった。「社会主義共和国」の国名が正式に使われるようになったのはそれ以降である。1989年ビロード革命により共産党一党独裁体制が崩壊して消滅した。

国名

チェコスロバキアの公用語のチェコ語スロバキア語での正式名称の表記は、1960年までは「Československá republika」、それ以降は「Československá socialistická republika」であった。
また、当時はチェコ語・スロバキア語を問わず、「チェコスロバキア」は、ハイフン無しの「Československo」だった。

歴史

チェコスロバキア共産党政権獲得

1948年のチェコスロバキア議会選挙においてチェコスロバキア共産党と、それが率いる国民戦線が圧勝した。これにより共産党書記長のクレメント・ゴットワルトが大統領に就任し、「人民民主主義」宣言を行い、事実上の共産党一党独裁体制を確立した。

1960年には社会主義憲法を採択、国号を「チェコスロバキア社会主義共和国」と改称した。

プラハの春・チェコ事件

1968年に、チェコスロバキア共産党第一書記に、アレクサンデル・ドゥプチェクが就くと、「人間の顔をした社会主義」と称して自由化政策が実行されていった。しかし、これを危険視したソ連はチェコスロバキアと幾度の会談を重ねたが、結局軍事介入に踏み切ることになった。この軍事介入後ドゥプチェクは辞任、後任のグスターフ・フサーク第一書記(大統領兼務 1975年-1989年)の時代には民主化政策は停滞し、「正常化」と呼ばれる時代に入ることとなる。「正常化」体制では改革派の共産党員50万人が除名され、強権的な体制が敷かれた。

連邦制導入

しかしながらプラハの春は、それ以前から存在したスロバキア地域の自治権要求にさらに拍車をかけ、1969年に施行された「チェコスロバキア連邦に関する基本法」(Ústavní zákon o československé federaci、チェコスロバキア連邦議会1969年法律第143号)に基づき連邦制が導入され、チェコおよびモラビア地方に「チェコ社会主義共和国」、スロバキア地方に「スロバキア社会主義共和国」が設置された。[1]

ビロード革命

1980年代に入ると、ソ連ペレストロイカの影響で、チェコスロバキアにも民主化の機運が高まっていたが、フサークは相変わらず「反体制派」とみなした国民を弾圧していった。

1989年ハンガリーが隣国オーストリアとの国境にある鉄条網を撤去した。これにより東ドイツ国民は西ドイツへ行けるようになったが、そのためにはチェコスロバキアを経由する必要があった。これに対しチェコスロバキア政府は東ドイツ国民を西ドイツに輸送することを決断した。
ハンガリーに次ぎチェコスロバキアも「鉄のカーテン」の撤去に踏み込んだことにより、東ドイツではベルリンの壁が市民によって破壊された。
この一連の動きを知ったチェコスロバキアの反体制派の学生はデモを実施し、それがきっかけでビロード革命が起きた。この革命で、チェコスロバキアは共産党一党独裁を放棄することとなった。

脚注

  1. ただし国名は「チェコスロバキア社会主義共和国」のままである。

関連項目