トリグブ・リー
トリグブ・ハルブダン・リー(ノルウェー語: Trygve Halvdan Lie ノルウェー語発音: [ˌtɾyɡʋə ˈliː], 1896年7月16日 - 1968年12月30日)は、初代国連事務総長。ノルウェー出身。
生涯
1896年7月16日、オスロに生まれる。父マルティンは、家族を残してアメリカ合衆国に大工として働きに出てしまったため、母フルダは下宿屋を経営しつつトリグブを育てあげた。
1911年に15歳でノルウェー労働党に入党し、1919年にオスロ大学法学部を卒業すると、党の国民長官として名を連ねるまでになる。私生活ではヒョルディス・イェルゲンセンと1921年に結婚し、ジゼル、グリ、 ミーの三人の娘をもうけると、翌年1922年からノルウェー労働組合の法律コンサルタントとして働きはじめ、ノルウェー議会にも選ばれた。ついに1935年にはヨハン・ニガードフォルドによる労働党政権が発足し、法務大臣に抜擢される。その後、通商産業大臣、物資船舶大臣を歴任した。
ロシア10月革命の初期からの賛同者であるリーはウラジーミル・レーニンと会い、ソ連追放後のレフ・トロツキーにノルウェーに居住する許可を与えている。トロツキーを自宅軟禁状態のもと無力化しておきたいというヨシフ・スターリンの願いにリーが屈したと言われるが、結果として、トロツキーが政治活動を控えるという約束を破ってしまったので追放せざるを得なくなった。
1940年、ノルウェーがドイツによって侵略されると、リーは全てのノルウェーの船舶に同盟国の港に行くよう命令を出している。リーはノルウェー亡命政府の外務大臣として名前を連ねていた。
リーはノルウェーの代表派遣団を1946年サンフランシスコでの国連会議に導き、国連安保理の前身の立案のリーダーの一人であった。彼は1946年の国連総会の使節団の団長であった。1946年2月1日、彼は初代国連事務総長に選ばれた。これは大国間の妥協の結果であり、わずかな期間を経たのみで最初の国連事務総長が選ばれた。リーは国連本部を現在の場所にするために多くの献金をジョン・ロックフェラー2世から受け取り、そこに事務局を設立し、国際連合の旗を定めた。
事務総長である間、リーはイスラエルとインドネシアの建国を助け、国連への加盟を認め、特にイスラエルには秘密裏に軍事情報の提供も行っていた[1]。第一次中東戦争ではラルフ・バンチの仲介による休戦後は国際連合休戦監視機構、第一次印パ戦争では国際連合インド・パキスタン軍事監視団を派遣して国際連合平和維持活動の先例となる。また、ソ連軍のイランからの撤退に尽力した。朝鮮戦争中、韓国側に与して国連軍を送ったことはソ連を怒らせ、ソ連は1950年以降国連での会合をボイコットし、彼はソ連に国連に戻るよう働きかけたが効果は低く、最終的にソ連は国連に戻ったが、リーの関与は少なかった。リーは、フランコ独裁政権に反対し、1946年12月にスペインをファシストの国として排除する国連決議を採択させた。また、国共内戦で中華民国が台湾に追われた後、中国を代表する国家として中華人民共和国を承認しようとした[2]。
批判としては、ベルリン封鎖に対する対応のまずさ、さらには朝鮮戦争を迅速な終結に導けなかったことに対する点が挙げられるが、これはリーが国連事務局において「特定の勢力」の影響下にあったためとも言われる。また、尊大かつ頑固であるという面に関しても言及されることがある。
リーの任期が終わりに近づきつつあった1950年、アメリカはリー以外の候補を立てることなどまったく考えていなかったが、ソ連はこれを断固拒否した。朝鮮戦争下の対立のため安全保障理事会は完全なる袋小路に陥っており、リーの国連事務総長としての任期延長はソ連からの異議があったにもかかわらず、総会で賛成46反対5で強行採決された。ソ連は彼を事務総長と認めることを拒否し、また彼は「不誠実な」アメリカ人(国連組織の創設の際、必要な公務員の迅速な雇用を彼が強行したと考えた事実)を雇用したとジョセフ・マッカーシーによって非難されたため、リーは1952年11月10日に辞任した。
事務総長辞任後もリーのノルウェーの政治への意欲は存続し、オスロとアーケシュフースの知事、エネルギー評議会委員長、工業大臣と貿易と商業担当大臣を務めた。また、本も何冊か書いている。1954年に『In the Cause of Peace: Seven Years with the United Nations』を出版している。
1968年12月30日、心臓発作によりイェイロで死去。72歳であった。