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日本の貨幣史(かへいし)では日本の貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に蝦夷地や琉球と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、貨幣史を参照。
概要
各時代の概要
- 古代
日本で金属貨幣が作られる以前の弥生時代の遺跡からは、中国から運ばれた硬貨が発見されている[1]。貨幣の素材そのものに価値のある貨幣を、物品貨幣や商品貨幣と呼ぶ。日本では、古代から米・絹・布が物品貨幣として用いられた。米は初期の金融や手形の発生にも関係した[2]。
日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の銀貨は7世紀の無文銀銭、最古の銅貨は708年(和銅元年)の和同開珎、最古の金貨は760年(天平宝字4年)の開基勝宝である。地金の重量を測って用いる秤量貨幣の銀が飛鳥時代から存在し、8世紀には硬貨が発行された。
貨幣の発行によって物資の調達や財政を改善する貨幣発行益は、古代より利用されてきた。和同開珎が発行された時代の銅貨は、原料である銅の4倍ほどの貨幣発行益があった[3]。朝廷が発行した皇朝十二銭は新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、貨幣発行は朝廷や通貨制度への信用低下をもたらし、結果として銭離れを招いた[4]。このために和同開珎を含めて初期に作られた硬貨は、数々の奨励策にも関わらず流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した[5]。
- 中世
中世に入ると、中国との貿易で流入した大量の銅貨(宋銭)によって硬貨が広まる。秤量貨幣としては主に銀が用いられ、この傾向はのちの江戸時代でも続いた。銅貨は酸化銅からの鋳造は容易であるが、火山の多い日本では硫化銅が主体だった。そのため室町時代後期に山下吹という精錬方法が開発されるまでは銅が慢性的に不足しており、銅貨の発行に影響を与えた[6]。古代から中世においては金属貨幣の流通がたびたび不足して、その都度、物品貨幣が重要となった[7]。東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。金と銀は、16世紀に大陸から伝わった灰吹法によって産出量が増加して、江戸時代には貴金属の輸出も行われた[8]。
税制では、通貨単位を尺度とする貫高制にかわり、米の収穫量を尺度とする石高制の普及が進んだ。石高制の普及には、太閤検地が大きな影響を与えた[9]。
- 近世
江戸時代には、江戸幕府によって金・銀・銅にもとづく三貨制度が定められ、金属貨幣の流通が全国で統一された[10]。この時代に紙幣も発行されており、存在が確認されている最古の紙幣は、1610年に発行された羽書である。羽書は私札とも呼ばれ、藩領が発行する藩札や、旗本領が発行する旗本札があった[11]。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、江戸幕府による改鋳がある[12]。
- 近代
明治時代からは、政府による政府紙幣や銀行による銀行券が発行された[11]。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、明治政府の政府紙幣などがある[13]。日清戦争の軍事賠償金をもとに金本位制を本格的に採用し、外債の発行で日露戦争の戦費を調達した[14]。日中戦争や太平洋戦争の時期に占領地などで用いられた紙幣や軍用手票(軍票)は、日本統治下の地域でインフレーションを起こして、通貨の信用低下をもたらした[15]。
- 現代
第二次世界大戦後の日本の通貨は、ドルを基軸とするブレトンウッズ協定のもとで為替レートが定められた。ブレトン・ウッズ体制は、ニクソン・ショックを経た変動相場制への移行によって終了した[16]。アメリカの双子の赤字をきっかけとして、為替レート安定のために先進5か国(G5)によるプラザ合意がなされると、急速に円高が進んだ[16]。
現代の日本では、日本政府ではなく中央銀行にあたる日本銀行が貨幣を発行している。たとえば2014年度(平成26年度)には日本銀行券が30億枚発行され、銀行券製造費は51,483,108,000円となっている[17][18]。このため、銀行券の製造コストと額面の差額は貨幣発行益とはならない[19]。日本銀行の貨幣発行益は、銀行券発行の対価として買い入れた手形や国債から得られる利息となる[20]。
貨幣の単位
古代から中世にかけて、文(もん)や貫が用いられた。江戸時代では、金貨の単位は両、分(ぶ)、朱(しゅ)があり、銀貨の単位は貫、匁(もんめ)、分(ふん)、銅貨の単位には文(もん)が定められた。明治時代からは円が採用されて現在にいたっている。円の補助単位として、銭(せん)、厘(りん)がある[21]。
古代
弥生時代、古墳時代
弥生時代の遺跡からは、中国の硬貨である秦から前漢にかけての半両銭や五銖銭が発見されている。弥生時代と古墳時代の遺跡で出土した中国の硬貨は、青銅器の原料となっていたほかに祭祀にも用いられていた[1]。下関市武久町の海岸砂丘から出土した武久浜墳墓群の半両銭は副葬品であることが判明している[22]。『魏志倭人伝』に記述がある一支国の首都とされる原の辻遺跡では前漢時代の五銖銭が出土しているが、副葬品には含まれていない。原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もある[23]。
律令国家の貨幣
律令制においては、真綿、布、絁(あしぎぬ)、鍬、米、塩などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば藤原京の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した[24]。奈良時代の官人への報酬や経典の筆写への報酬は、布や絁で支払われている[25]。
律令政府は、首都の造営をはじめとする大規模な国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金である功銭や、資材の購入費とされる。和同開珎は平城京の造営、万年通宝は平城京の改築や保良宮の造営、神宮開宝は西大寺・西隆寺や由義宮の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である穎稲で支払われるようになる[26]。
貿易用の貨幣として、物品貨幣として銀や金の輸出が始まった。銀は、674年に対馬で銀が発見されて国産化された。金は日本は朝鮮半島から金を輸入しており、平安時代に陸奥国で砂金が発見されて以降は東北からの砂金が用いられた。東大寺で大仏に鍍金するための金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある[27]。初めて金の国外輸送は、776年(宝亀7年)の遣唐使藤原清河に対する砂金の支給である[28]。8世紀の新羅との貿易では、真綿を交換に用いていた[29]。
最古の国内鋳貨
日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には秤量貨幣が用いられていた。飛鳥寺の物資調達についての木簡には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある[30]。『日本書紀』には、683年(天武天皇12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。貨幣を鋳造する機関である鋳銭司の長官が任命されて、設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある[31]。
国内での鋳造貨幣として現存する最古のものは、7世紀の銀貨の無文銀銭があり、次に銅貨の富本銭がある。飛鳥池工房には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である東漢氏を中心とする工人だったとされる[32]。
無文銀銭や富本銭は、厭勝銭(まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている[33]。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として六文銭を冥銭として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている[34][35][36]。
和同開珎
飛鳥時代には、和同開珎が発行された。和銅という元号は、元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で銅が発見されたことがきっかけとなった。新羅の帰化人である金上无が、和同(にきあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して朝廷に献上した。当時は、そのように銅が貴重な資源だった[37]。和同開珎は銀貨が5月、銅貨が8月に施行され、唐から流入していた開元通宝をモデルにしたといわれる。発行にあたっては、平城京で製造した種銭を見本として各地の工房に配り、大量生産を意図していた[1]。翌年の709年(和銅2年)には私鋳の禁止令が出され、和同開珎の銀貨は廃止されており、当初から銀貨の贋金が問題となっていた。漢詩集の『経国集』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった[38]。
- 金属貨幣の奨励策
和同開珎を流通させるため、律令政府は数々の奨励政策を行った。価値の基準としての硬貨(銭貨)は、711年(和銅4年)に穀6升(現在の2升4合)=銭1文として、712年(和銅5年)に調庸の基準として布1常=銭5文とする。物納であった調庸に硬貨を認め、貨幣による代納を調銭や遥銭と呼んだ。支払い用としては、平城京造営工事の労賃や、官人の給与に硬貨を部分的に導入して、官人には東西市などでの使用を強制した。交換用の貨幣を普及させるために硬貨で購入できるものを増やして、交通の要所では納税する物資を運ぶ者や旅行者が米を硬貨で購入できるようにした。硬貨を蓄蔵する利点としては、同年10月には蓄銭叙位令を出して、貯蓄した銅貨の量によって位階を昇進できるようにした。貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。しかし、昇進のために献納銭をする者は少なく、強化策として郡司の任命には6貫の献納銭が必要とした。叙位法の影響で昇進するための私鋳や、貨幣発行益を目的とする私鋳の増加が予想されたことから、私鋳銭の罰則が流刑から斬刑(死刑)へと重くなった[39][† 1]。
皇朝十二銭
和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年(天平勝宝3年)には穀6升=銭30文に上がった。律令政府は、私鋳銭への対策という発表のもとで新貨幣の鋳造を行う。次に発行された万年通宝は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた[41]。
708年(和銅元年)から平安時代中期の958年(天徳2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれた[39]。発行年は以下の通りである。
貨幣名 | 発行年 | |
---|---|---|
和同開珎 | 708年(和銅元年) | |
万年通宝(萬年通寳) | 760年(天平宝字4年) | |
神功開宝(神功開寳) | 765年(天平神護元年) | |
隆平永宝(隆平永寳) | 796年(延暦15年) | |
富寿神宝(富壽神寳) | 818年(弘仁9年) | |
承和昌宝(承和昌寳) | 835年(承和2年) | |
長年大宝(長年大寳) | 848年(嘉祥元年) | |
饒益神宝(饒益神寳) | 859年(貞観元年) | |
貞観永宝(貞観永寳) | 870年(貞観12年) | |
寛平大宝(寛平大寳) | 890年(寛平2年) | |
延喜通宝(延喜通寳) | 907年(延喜7年) | |
乾元大宝(乹元大寳) | 958年(天徳2年) |
銭離れ
奈良時代には、平城京のある畿内とその周辺地域を中心として銅貨が用いられた。しかし原材料の銅は不足して、和同開珎の含有率90パーセントから万年通宝の78パーセント、富寿神宝の66パーセントと低下が続き、かわって鉛の含有率が増えてゆく。律令政府は改鋳益を得るため、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとした。交換比率は8つの銅貨で記録が残っており、それにもとづけば、延喜通宝1枚は和同開珎1億枚と同じ価値となる[42]。実際には旧貨よりも銅含有率が低い新貨を、価値が高いものとして扱ったため、旧貨は退蔵されて流通されなくなる。そこで朝廷では和同開珎の使用を禁止して、蓄銭禁止令を出し、蓄銭叙位令を廃止した。これらの施策は、通貨量の確保と、インフレーションの防止が目的だったとされる[5][† 2]。しかし、度重なる改鋳によって硬貨は価値や信用が低下して、流通の減少も止まらず、民衆の銭離れが起こった[4]。硬貨は估価法などの公定価格の尺度としては通用したが、支払いや交換には物品貨幣の米、絹、布が用いられ続けた[44]。皇朝十二銭以降、朝廷は硬貨の発行を停止する。11世紀前期からは東国では絹や布、西国では米を中心とする物品貨幣が用いられた。
古代の金融
金融活動としては、8世紀に出挙という利子付きの貸借が行われていた。国司が財政をまかなうために行う公出挙と、より利息が高く個人が行う私出挙がある。出挙は貸稲(いらしのいね)とも呼ばれ、春や夏に稲を貸し付けて秋に3割から5割の利息を返済させた。9世紀の『日本霊異記』には、米や酒の私出挙について記述があり、大安寺の修多羅分の銭が金融資本とされた事例が見られる。正倉院文書や木簡には、出挙の一種である月借銭解という借金の申込書にあたる記録がある。月借銭は月ぎめの短期融資で高利であり、官司が官人に貸付を行っていた。月借銭解の金額は最低100文、最大5貫で、数百文が多かった[2][45]。
中世
貿易と貨幣流入
平安時代の中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国の宋からの銅貨がきっかけとなった。日宋貿易を通じて流入した宋銭が、そのまま日本国内の貨幣として通用した[46]。1193年(建久4年)には出挙の返済に宋銭の使用を禁じた記録があるが、13世紀前半には、銅貨は絹や布が持っていた価値尺度の機能を果たし始め、鎌倉幕府は銅貨の流通を認めるようになる。鎌倉時代の公卿である広橋経光の『民経記』には、西園寺公経によって銭10万貫文を運んだ貿易船の逸話が書かれている。13世紀に中国で成立した元は、紙幣の交鈔を流通させるために貴金属の私的な取引を禁じ、日本には管理貿易や密貿易によって銅貨の流入が続いた[47]。韓国の新安郡で発見された沈没船は、7500貫の銅貨を積んで日本へ向かっていた船であった[48]。元の次に明の時代に入ると、日明貿易によって永楽通宝などの明銭が流入した。明では外国への銅貨の流出が懸念されて、室町幕府からの朝貢に対する回賜に紙幣を用いることもあった。しかし日本では銅貨での受け取りを求めて、中国紙幣は国内では流通しなかった[49]。
金属貨幣の普及
硬貨の流入が続き、絹、布、米に代わって銅貨で年貢を納める代銭納が広まり、特に東国において普及した[50]。代銭納制によって生産物の換金が必要になると商品の流通が活発となり、そのため渡来銭だけでは足りず、豪族や大商人が発行した私鋳銭も流通した。そうした私鋳銭は粗悪だったため、鐚銭とも呼ばれて悪貨として扱われた。悪貨の受け取りを断る行為は撰銭と呼ばれ、15世紀以降に深刻となる。鐚銭には数百年の流通によって割れ、欠け、磨耗が著しい宋銭も含まれており、「ビタ一文受け取らない」のビタとは鐚銭のことである[51]。
硬貨に加えて、中国にならって紙幣を流通させる計画もあった[† 3]。後醍醐天皇は建武の新政において、乾坤通宝という新貨を銅貨と楮幣(とへい)という紙幣で発行すると宣言した。しかし政権の崩壊によって実現はしなかった[52]。
中世の金融
貨幣や商品の流通が増加するにつれて信用経済も発展して、金融業も活発となる。利子付の貸借を利銭や借銭などと呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。鎌倉時代からは、年貢を運ぶ手間を省略するために為替(かわし)や割符という手形が用いられるようになり、室町時代からの割符は商業の取引にも流通した。決済されるものに応じて、替銭や替米などとも呼ばれた。割符が用いられた史料によれば、1個で10貫文という定額の割符が通用して、本来なら1回の個別送金用である替銭と区別する記述も見られる。このため、割符には不特定の人々のあいだで流通して紙幣に近い機能を持っていたという説もある[53]。
室町時代の初期から中期にかけては借上という金融業者が活動して、室町中期からは土倉や酒屋が現れ、室町幕府が衰退するまではそうした業者が納銭方なども行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった[54]。鎌倉時代から室町時代にかけて特に御家人の債務問題が深刻となると、債務免除を行う徳政令が出された[55]。
撰銭令
戦国時代には日本に銅貨が入らなくなる。日明貿易の断絶と、明の海禁政策によって銅貨の流入が停止して、加えて産銅の減少から明の鋳造が低調となったことが原因である[56]。一方で国内では悪貨を巡るトラブルが絶えず、撰銭を禁じて悪貨を流通させるための撰銭令が出されるようになる。撰銭令は大内氏に始まり、室町幕府、北条氏、織田信長などの諸大名によって出された。撰銭令に登場する悪貨として、うちひらめ、さかひ銭、ほろ、焼銭(やけせん)、ゑみやう、大欠(おおかけ)、破(われ)、磨り、南京、京銭(きんせん)などがある。この中で、さかひ銭は堺で作られた私鋳銭とされ、ほかにも鎌倉、京都、加治木といった都市や港町で中国の銅貨を模した私鋳銭が作られていた[57]。銅貨不足が解消されないため撰銭が続き、代わりに物品貨幣である米の普及が進んだ。撰銭令も米の普及に影響しており、16世紀後半の畿内では撰銭令の発布から2、3年後に米での支払いが増えている[58]。
鉱山と精錬法の伝来
戦国大名は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで金山と銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになる。大陸に由来する精錬技術である灰吹法の普及は、金銀の産出量に大きな影響を与えた。灰吹法とは、金銀の鉱石を鉛に溶かして反射炉に入れ、空気を吹きつけて酸化させた鉛を灰に吸着させて金銀を取りだす方法である[59]。古代から銀鉱脈で知られていた石見銀山の採掘が16世紀前半に再開されると、対馬や壱岐を経由して李氏朝鮮と貿易をしていた博多や、朝鮮半島へ鉱石が運ばれて精錬が行われた。『朝鮮王朝実録』には、1528年(大永8年)の漢城で日本の鉛鉄から密かに銀を精錬したという事件の記述もある。石見銀山の発見を記した『銀山旧記』によれば、1533年(天文2年)に博多の商人である神屋寿禎が宗丹と桂寿(慶寿の表記もあり)という技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる[60]。その後、灰吹法が但馬の生野銀山など各地に伝わって産出が増えると、銀は畿内や九州で流通する。さらに、外国との取り引きが行われる貿易港や、外国の産物が集まる交易地で用いられるようになった[61]。
東日本では、甲斐や駿河、伊豆で金が採掘され、佐渡金山はのちの江戸時代から本格化する。戦国大名のなかには、春日山城に約400キログラムにあたる金を蓄えた上杉謙信や、甲州金と呼ばれた金貨を流通させた武田信玄(晴信)なども現れた。大口取引には砂金および灰吹銀が用いられ、金は板金や碁石金に整形されるようになる[62]。当時は東日本で金山が多く、西日本で銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中して、江戸時代にも影響を与えた[63]。
倭銀と貿易
銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を外国に運ぶ貿易が活発となる。日本の銀は倭銀とも呼ばれて貿易用に普及が進み、朝鮮では貨幣として使われている木綿布と交換された。朝鮮政府は民間の私貿易で銀が大量に流入するのを避けるために、公貿易として対処した。これは、明への貢銀を避けるための対策もかねていた。1544年(天文13年)には安心と名乗る僧が日本国王使として朝鮮に8万両の銀を持ち込んでいるが、当時の日本からの国使は多くが貿易を目的とした偽使であった。銀と引き換えに大量の綿布が輸入されて、船舶の帆布や衣料品となる。大内氏の主催による1539年(天文8年)の第18次遣明船には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した[64]。
銀の増産によって、海外からの日本進出も盛んになる。明の鄭舜功が書いた『日本一鑑』によれば、1534年(天文3年)には福建の商人が日本の僧からの情報で貿易を盛んにしたとされている。明では銀で納税する一条鞭法という銀本位制をとっていたため、銀を求めて福建のほかにも浙江や広東の商人が訪れた。ポルトガルとの南蛮貿易が始まると、平戸からも銀が運ばれるようになった[65]。明は海禁の政策をとっており、倭寇とつながりがあるされた日本との取り引きは密貿易であった。しかし、中国沿岸やポルトガルの商人は統制のなかでも日本に渡航を続けて、1570年(永禄13年)にはポルトガルが長崎・マカオ間の定期航路を開設する。これによって日本銀がマカオから明に流入するルートが確立した。戦国・織豊時代の日本は、銀によって生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である硝石などの軍需物資を調達した[66]。
貫高制と石高制
税制では、通貨の単位である貫を尺度とする貫高制にかわって、米の収穫量を尺度とする石高制が優勢となってゆく。室町幕府では15世紀から守護や国人の所領の規模を貫高という単位で表しており、貫高を基準として徴税を行っていた。各地で荘園制が解体するにつれて、戦国大名も貫高をもとに軍役や年貢の基準を定めるようになり、領内の把握と権力強化のために検地を行った[67]。貫高制は貨幣での納税を求めたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難であった。『妙法寺記』や『多聞院日記』などの記録によれば、戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた。貫高制と検地は戦国大名の支配を強化する一方で、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)などの逃亡の増加を招いた[68]。
戦国期には、銅貨や米に加えて金や銀の流通が増加して貨幣状況が複雑となった。織田信長は京都において、米を商取引に使うことを禁じつつ、金銀の商取引を認めて銅貨との交換比率を定めた。米による現納を正確にするために、京都の十合枡を公定枡として採用して、これはのちの豊臣政権にも引き継がれる。公定枡による度量衡の統一は、米の価値尺度としての信用を高めたため、結果として石高の信用につながった[69]。
貫高制と検地の関係は、豊臣秀吉によって石高制と検地へと変更される。秀吉は太閤検地が古代の検田を継承するとして、天皇のもとでの国家事業として位置づけた。そして1589年(天正17年)の美濃検地をはじめとして、貫高制から石高制への切りかえをすすめた。秀吉は1591年(天正19年)に、天皇に献上する検地帳である御前帳を石高で提出するように諸大名に求めて、全国で石高制の成立がすすんだ。秀吉の要求は、石高制による軍役の編成と大陸出兵が理由とされており、1592年(文禄元年)には文禄の役が起きている[9]。石高制が優勢となった背景には、領主の政策もあった。貫高制の進展は農民の離農や、欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとり、江戸幕府にも継承された[70]。
近世
皇朝十二銭が発行中止になってから、日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度にもとづいて初めて作られた金属貨幣は、起源は不詳であるが戦国時代には甲斐国を中心とする戦国大名・甲斐武田氏の領国で地方貨として用いられた甲州金とされる[71]。続いて豊臣秀吉が製造を命じた天正大判[72]も通貨としての性格は薄かった。全国的な貨幣の統一は、江戸時代からとなる[73]。
江戸時代の三貨制度
江戸時代になると貨幣制度が統一され、江戸幕府が金貨・銀貨・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の正貨とした。まず慶長の幣制により金貨・銀貨が作られ、続いて1606年(慶長11年)に慶長通宝が発行され、皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳となった。2年後には明銭の永楽通宝の流通が禁止され、永勘定(1貫文=金1両)による優位性を廃止した[70]。鋳貨を発行した場所をそれぞれ金座、銀座、銭座と呼んだ[74]。
金貨の単位は両、分(ぶ)、朱(しゅ)があり、1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法だった。銀貨の単位は貫(かん)、匁(もんめ)、分(ふん)があり、1貫=1000匁、1匁=10分だった。銅貨の単位には文があり、1貫文=1000文だった。金・銀・銅はそれぞれ独自の体系を持ち、交換用の基準を決められてはいたが、実際には金・銀・銅の相場は変動して、現在の為替相場のように機能した。そのため後述のように両替商が重要となった[75]。
金貨
金貨には大判、小判、一分判の3種類がある。大判は、大名や旗本など特権身分の贈与や賜与、多額の支払い用の金貨であり、販売値段は時価である御道具値段として表され、枚数で数えられた[76]。実際の交換には、小判と一分判がよく用いられた。小判は楕円形であり、両を単位とする。一分判は小判の4分の1に相当して、分を単位とする。円形の円分金や、短冊形の額壱分金がある[77]。
銀貨
銀貨は丁銀が主体で、ほかに大小さまざまな豆板銀があった。金貨と銅貨は額面価値と枚数で価値を決める計数貨幣であったが、銀貨は18世紀半ばまで丁銀、豆板銀といった秤量貨幣であった。この統一を目指して、幕府の老中である田沼意次は初の計数銀貨として明和五匁銀を発行させた。これは商人の反発によって1772年(明和9年)に発行が停止されたものの、同年に南鐐二朱銀が代わって発行され、こちらは徐々に定着した[78]。以降、計数貨幣の銀貨と秤量貨幣の銀貨が併用され、南鐐二朱銀は合計39年間にわたって発行された。19世紀初頭の文政年間に入ると、金貨の単位である分・朱を通貨単位とする計数銀貨の流通高が秤量銀貨を上回った[79]。
銅貨(銭貨)
銅貨は小額取引用で、庶民にもっとも使われた。本格的な銅貨鋳造および全国的な流通にいたるのは寛永通宝以後となった[80]。1768年(明和5年)には、田沼意次の改革で、それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭が加わった。初期の銅貨と比べれば含有率が低い真鍮貨だが、当時は長崎貿易による銅流出で銅が不足しており、鉄貨の銭が増えていたため普及した[79]。
江戸時代の紙幣
羽書
現存する日本最古の紙幣は、伊勢国で発行された山田羽書である。羽書という語の由来は、小額貨幣を指す端書からとされる。伊勢国は伊勢商人でも知られる商業の活発な地域であり、秤量貨幣である銀の取引の煩雑さや、釣銭用の銅貨の不足を解決するのが目的とされた。山田羽書は秤量銀貨の預かり証として発行されて伊勢神宮の宗教権威により流通して、紙幣として普及が進んだ。発行にあたっては、楮から和紙を作って版木で印刷をした[81]。図柄としては、大黒天、恵比寿、弁財天、布袋、倶利伽羅竜王などの人物のほかに、打ち出の小槌、瑞雲、青海波、蝶、麒麟、象が描かれた。こうした図柄は、明治政府の政府紙幣にも影響を与えている[82]。羽書のように藩領や旗本領以外で発行された紙幣は私札とも呼ばれる。私札には発行者によって公家札・寺社札、町村札、宿駅札、鉱山札、私人札などがあった[83]。
藩札
大名領国では、藩札と呼ばれる紙幣が発行された。藩という呼称は明治維新以後に普及したものであり、当時は札、鈔、判書という具合に呼ばれた[84]。初の藩札は1630年(寛永7年)に備後福山藩から発行されている。楮による丈夫な和紙を用い、用紙には摂津の名塩村、越前の五箇村、美濃の岐阜などの名産地のものが使われた。職人たちは誓書によって藩札用紙の製法の秘密を守り、印刷には版面を彫刻する絵師がおり、判師と呼ばれた。版木は2分割か3分割されており、1人では完成しないように偽造対策がされていた。図柄には七福神の大黒天、弁財天や、鶴、亀、神代文字、梵字などが使われ、偽造対策の印章も使われた[11]。
藩札の発行目的は、藩財政の窮乏が多くの原因であった。領内での流通を目的としていたが、藩内を越えて流通したものもあった。旗本が治める知行地では、藩札と同様の目的で旗本札が発行された。江戸時代後期までの藩札は銀立てによる銀札が多く、特に銀遣いの西日本で流通した。1707年(宝永4年)には前年に改鋳された宝永銀流通促進のため、幕府は札遣いの禁止を出して紙幣は流通停止とした。この禁止令は、改鋳で新たに発行する質の低い銀貨と藩札が競合することを避けるためとされる。札遣いの禁止は、1730年(享保15年)まで続いた[85]。
のちの明治政府による統計では、244藩、14代官所、9旗本領により計1694種類の紙幣が発行されていたという。江戸時代の庶民は金貨や銀貨を目にする機会が少なく、実際によく用いた貨幣は銅貨と紙幣だったという説もある[86]。
両替商
金貨は江戸以北の太平洋側の地域、銀貨は大坂、京都、東北以南の日本海側の地域で主に用いられた。江戸では金貨が流通する金遣い(きんづかい)であったのに対して、上方では主として銀貨が流通する銀遣い(ぎんづかい)であった[87]。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に両替が必要であった。このため両替商の存在が重要となり、金座や銀座の周辺にいた両替商は、本両替商と銭両替商へと分業が進んだ。本両替商には為替や貸付、預金などの業務を行う者もおり、なかでも江戸の本両替仲間と大坂の十人両替仲間がよく知られるようになった[88]。
1609年(慶長14年)に御定相場として金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000文)と定められ、1700年(元禄13年)には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定されたが、実際には相場が変動していた。幕府貨幣の三貨のほかに、米も貨幣として流通し続け、米の預かり証である米切手も用いられた。さらに多額の金銭の輸送のリスクを避けるために為替が発達して、大坂では手形決済が商品取引の99パーセントにも及び、京都では50パーセント、江戸はそれ以下だったとされる[89]。
江戸時代の貿易と貨幣
江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、朱印船貿易が1635年(寛永12年)まで行われて貨幣も流通した。取引相手はポルトガル、ベトナムの安南、スペイン領マニラ、タイのアユタヤ王朝やパタニ王国などの諸国だった。江戸幕府によって1639年(寛永16年)に鎖国令が出されたのちは、ポルトガルに代わりオランダ東インド会社が日本と取引を行った[12]。
長崎貿易
オランダ東インド会社はポルトガルの手法を参考にして中国産の生糸などを日本に売り、日本は金や銀で支払いをした。1640年(寛永17年)には小判2万1千枚と大判300枚が輸出されるなど金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に送った。輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、1659年(万治2年)には貿易用の長崎貿易銭が発行された。1667年(寛文年)には小判4万枚以上が輸出され、オランダの単位に換算すると106万グルデン以上となり、オランダ本国から東インド会社への送金34万グルデンを上回るほどだった。銀の輸出量は、17世紀前半当時の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半のバタヴィアでは日本の小判が流通して、獅子の刻印を打ったものが9から10ライクスダアルダーとして用いられた。金銀の流出は長年の問題となり、幕府は1685年(貞享2年)からの定高貿易法で貿易に上限を設けたり、1695年(元禄8年)の改鋳などを行う。改鋳は取引国のオランダや中国から反発を受ける原因となった[12]。
日朝貿易
朝鮮半島においては李氏朝鮮と対馬藩が貿易をしており、日本は中国の生糸や朝鮮の高麗人参を慶長銀で購入していた。改鋳した銀貨を用いるようになるが、改鋳で含有率が低くなった銀貨は、朝鮮側が受け取りを拒否するようになる。薬用として貴重であり消費が増えていた高麗人参の輸出が中止され、対馬藩は幕府に対策を訴える。幕府は1710年(宝永7年)には高麗人参専用の銀貨として人参代往古銀を発行した[90]。
山丹貿易
北方では、樺太のアイヌが、山丹人とも呼ばれるニヴフやウリチと山丹貿易を行った。山丹側の商品は中国の清に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物で、アイヌの商品はクロテンをはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品だった。取り引きにおいて日本や清の金属貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された[91]。松前藩はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手しており、清の絹織物は蝦夷錦と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした[92]。
銅の流出
金銀の次は銅の輸出が増え、17世紀から18世紀初頭にかけての日本は当時世界一の年間6000トンを産出した。銅の流出は国内に影響を与え、元文時代になると鉄で作られた寛永銭が目立つようになった。輸出された銅は海外の貨幣にも用いられ、東インド会社時代のセイロンや、ナポレオン戦争時代のジャワでは、日本の銅地金を切断して刻印を打った貨幣が現地用に急造されていた[93]。
六道銭
厭勝銭に関連がある貨幣として、副葬品に用いられるものを六道銭と呼ぶ。六道銭には寛永通宝のほかに南無阿弥陀仏と書かれた念仏銭、南無妙法蓮華経と書かれた題目銭などがあり、ほかに絵銭がある。絵銭には図柄によって多くの名称が知られており、馬が描かれた駒曳銭、七福神から選ばれた大黒銭や恵比寿銭、玩具にも使われた面子銭などがある[94]。
改鋳
経済の拡大にともない、貴金属の産出の減少と通貨の流通不足が起き、幕府財政の悪化が深刻化した。このため幕府では金銀貨の改鋳が行われた。元禄・宝永(小判1回、丁銀4回[† 4])・正徳・享保(小判のみ[† 5]。)・元文・明和(五匁銀、南鐐二朱判)・文政・天保・嘉永(一朱銀のみ)・安政・万延(小判のみ)の計14回にわたる改鋳が行われた。ただし一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる。江戸幕府最初の金貨である慶長小判の時には約17.8グラム・金含有率84.3パーセントあったものが、最後の万延小判には約3.3グラム・金含有率56.8パーセントという水準にまで低下している[96]。
改鋳による貨幣発行益を出目と呼び、元禄改鋳では500万両、天保の改鋳では幕府年収の30パーセントの利益があった[59]。江戸幕府による改鋳は、含有量が異なる金属貨幣を同価として扱うことで、退蔵されている富裕層の金銀貨を投資に向けさせ、貯蓄への課税と同様の効果を目的としたという評価もなされている[97]。また、当時は長崎貿易で貴金属の流出が続いており、金銀貨の含有率を下げることで貿易額を保ったまま流出量を減らす目的もあったとされる。しかし、こうした改鋳は貿易相手国のオランダ、中国、朝鮮の反発をまねいたため、幕府は貿易用の貨幣を発行したり、金銀から銅への切り替えを進めた[12]。
幕末
幕末からの開港により、通商条約を結ぶうえで貨幣の交換比率が問題となった。幕府とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの交渉では、貿易銀であるメキシコドルと日本の天保一分銀が、ドルにとって有利な重量交換で行われることが決まり、1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された。日本では鎖国により金銀比価の差が少なかったが、欧米ではその差が大きく、日本の金を海外へ持ち出せば利益が大きい。このため1859年(安政6年)の横浜港開港によって、外国の貿易商はドルを一分銀に交換したのちに一分銀を小判に換え、半年で30万〜40万両ともいわれる大量の金が日本から流出した[98]。
幕府は万延の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延二分判が流通を制した。この二分判にも諸藩による贋造が横行して、さらに幾種もの貨幣が並列した。非常に複雑な流通となったために諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないことや、将来的な通貨改革と金銀地金の持込によって本位貨幣を発行する自由造幣局の設立を約束させられた。これを継承した明治政府も高輪談判の結果、通貨の近代化に踏み切った[99]。
近現代
新貨条例
1867年に王政復古が宣言されると、維新政府は1868年(明治2年)に金座や銀座を貨幣司に吸収した。藩札については、1871年(明治4年)の藩札処分令によって廃止された。同年2月に現在の造幣局にあたる造幣寮が開設されて、5月に新貨条例の制定があり、円という単位が正式に採用された[100]。当時はイギリスから広まった国際的な金本位制が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められた[101]。
貿易専用銀貨として、1円銀貨も発行された。モデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)で、レアルは貿易決済用として国際的に流通していた洋銀(貿易銀)であった。銀貨は貿易専用だったが、貿易銀として国際決済に用いられることが増え、また本位金貨の絶対数不足のため、1878年(明治11年)には貿易銀も本位貨幣扱いとされる。新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は金銀複本位制となった[102]。
1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)まで、明治政府により太政官札が発行される。戊辰戦争の戦費や殖産興業の費用調達が目的であり、これが初の日本全国で通用する政府紙幣(不換紙幣)となった。明治政府は1870年(明治3年)にフランクフルトのドンドルフ・ナウマン社に発注して明治通宝を発行して、1871年(明治4年)7月には現在の国立印刷局にあたる紙幣司が設けられた。新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。1873年(明治6年)には国立銀行紙幣の旧券が印刷され、天の岩戸開き、蒙古襲来、神功皇后などの神話や歴史のテーマが図柄に採用された[11]。のちの新券では、富国強兵や殖産興業など当時の政策に合致する水兵や鍛冶屋が採用された[103]。
紙幣の国産化
新紙幣の偽造防止のために、当初は「明治通宝」の文字を書家が手書きしていた。しかし、1日あたり約500枚が限界であったために木版に変更となった。押印の手間に加えて、外国で紙幣を製造するコストの高さや、緊急時の発行が問題視された。1874年(明治7年)には紙幣製造の機械と版面がドイツから運ばれ、技術指導の技術者の派遣も決定した[104]。
1875年(明治8年)には、ドンドルフ・ナウマン社で働いていたイタリアの版画家エドアルド・キヨッソーネが来日をして、紙幣司で製造にあたった。キヨッソーネは改造紙幣1円札で神功皇后を描き、これが日本初の肖像入り紙幣となる[105]。
銀行制度
国立銀行
明治政府は不換紙幣である政府紙幣を大量に発行して、1867年から1868年にかけては政府歳入の7割に達していた。この状況を改善するために、イギリス式の中央銀行と、アメリカ式の分権的な銀行を参考に検討をする。結果として、アメリカの国法銀行法を参考に1872年(明治5年)国立銀行条例を制定した。この条例は民間銀行による兌換紙幣の発行と貨幣価値の安定をはかる内容で、国立銀行とは「国法によって立てられた銀行」を指すもので、実際は民間銀行である[106]。設立された国立銀行は兌換紙幣として銀行券である国立銀行紙幣を発行して、のちに1876年(明治9年)の条例改正で不換紙幣の発行も可能となる。国立銀行は決済手段や金融仲介サービスを提供したが、不換紙幣は解消されずインフレーションを招き、紙幣整理が行われた。1880年(明治13年)までに国立銀行は153行が設立され、現在の銀行の起源となったものも多い[14]。国立銀行のほかに、紙幣の発行はできない私立銀行も多数設立された[107]。
中央銀行
1882年(明治15年)に中央銀行として日本銀行が創設された。これ以後は日本銀行が唯一の発券銀行となり、国立銀行紙幣の回収にあたる。そして1885年(明治18年)に最初の日本銀行券にあたる日本銀行兌換銀券が発行された[108]。銀券発行により日本は銀本位制に移行して、物価の安定は達成したが、当時は国際的に金本位制が普及しており円為替レートは1897年(明治30年)までに40パーセント以上切り下がった。円安によって輸出は促進される一方でインフレーションが持続して、金本位制の採用につながる[14]。日本銀行兌換銀券の図柄には、国立銀行紙幣新券の恵比寿に続いて大黒天が採用され、商売繁盛を願うのが理由とされている。「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道眞があげられた[109]。
朝鮮、台湾との関係
当時の日本の政策は、周辺地域の通貨制度にも影響を与えた。李氏朝鮮とのあいだでは1876年に日朝修好条規を結び、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定めた。日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店は業務を拡大して、1902年(明治35年)に第一銀行券を発行し、大韓帝国の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の韓国銀行(朝鮮銀行)は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった[110]。台湾は、1895年(明治28年)に日清戦争後の下関条約によって中国の清から割譲され、1899年(明治32年)に台湾銀行が設立された[15]。
金融恐慌
銀行制度は現在のように整備されておらず、1920年代から銀行の取り付け騒ぎが頻繁するようになった。のちの1927年(昭和2年)には昭和金融恐慌を招くことになる。大規模な取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから発行された二百円紙幣は、緊急だったため片面だけの印刷で、偽札と間違えられて逮捕された所持人もいた[111]。
金本位制
1897年(明治30年)に日清戦争の軍事賠償金として得た金額は3億6000万円で、1895年(明治28年)の日本のGNPの2割以上にあたる。この賠償金を金準備金に設定して、金本位制を軸とした貨幣法が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の銀本位制で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、日露戦争の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された[14]。
金輸出解禁
第一次世界大戦の影響を受けて、日本は1917年(大正6年)9月に金輸出の禁止を行い、金本位制を停止した。大戦期のマネーサプライの平均増加率は29パーセントで、大戦期間のインフレ率は年平均15.29パーセントとなった[112]。大戦後の1919年(大正8年)にはアメリカをはじめとして各国が金本位制を再開して、1922年(大正11年)のジェノヴァ会議では、各国に金本位制への再開を求める決議がなされる。
日本でも金本位制再開のための金輸出解禁(金解禁)について検討が進むが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の影響もあって決定が遅れ、業界団体、新聞の経済部、商工会議所などから金輸出解禁の要望が出された。1929年(昭和4年)には、世界恐慌ののちに金輸出解禁の方針が発表される。世界的な不況のなかで金輸出解禁が適切であるかについては、政策担当者の間でも激しい論争があった[113]。金輸出解禁の実施は1930年(昭和5年)1月となり、100円=43ドルから44ドルだった為替レートは旧平価の49ドル85セントに戻された[114]。
昭和恐慌
金輸出解禁から4カ月で、2億円の正貨にあたる金が国外に流出した。解禁前と解禁後の平価の差額を利用すれば利益が出るため、解禁直後から政府の予想以上に金が流出した点が原因とされる。金本位制のもとでは、金の流出は国内で流通する通貨の減少につながる。このために日本銀行の通貨発行高は、1930年(昭和5年)1月の14億4300万円から同年9月には11億2400万円と減少した。以前から金輸出解禁に備えてデフレーション政策をとっていた日本では、国内市場の縮小や輸出産業の不振がさらに深刻となる。1930年から昭和恐慌となり、特に農産物においては暴落と凶作が重なって昭和農業恐慌とも呼ばれた。加えて、1931年(昭和6年)の満州事変は日本の国際的信用の低下を呼び、資本逃避を加速させた。同年9月にイギリスが金本位制を停止すると、日本も金本位制を停止するとの予想から円為替レート低下への期待が高まり、国内投資家はドル買いを行い、海外投資家は資本逃避を行った。政府と日本銀行は横浜正金銀行にドル売りの介入をさせ、公定歩合を引き上げて投機を防ごうとするが、同年12月には日本も金輸出を停止して再び管理通貨制度に移行した[115]。1932年(昭和7年)からは再建策として、国債の日銀引き受けによる通貨供給、低金利といった政策が採用された。為替レートの低下は輸出を促進して、早い段階で景気回復へ向かった[116]。しかし財政再建策を進めた高橋是清は、軍事費の削減も計画していたため二・二六事件で暗殺された[117]。
ブロック経済の通貨と軍票
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めた。ブロック経済は英連邦のスターリングブロックをはじめとして通貨圏にもとづいており、日本は日本円を中心とする日満支経済ブロックを形成した[118]。日満支経済ブロックには、日本および日本統治下の台湾、朝鮮、満州国、そして中国の中華民国臨時政府、南京国民政府、蒙古連合自治政府が含まれ、各地の中央銀行としては台湾銀行(1899年)、朝鮮銀行(1911年)、満州中央銀行(1932年)、中国連合準備銀行(1938年)、中央儲備銀行(1940年)がある。これらの銀行は通貨として台湾銀行券、朝鮮銀行券、満州国圓、連合準備銀行券、儲備銀行券を発行した。台湾や朝鮮には日本円を導入する案もあったが、混乱発生時に日本に波及するとの理由で採用はされなかった[119]。太平洋戦争の開戦後に日本の統治下に置かれた東南アジアの諸国は、円とは異なる通貨を維持しつつ日本の経済圏に組み込まれた[119]。
預け合い契約
日中戦争や太平洋戦争の戦費を調達するため、銀行間で預け合い契約という手法がとられた。連合準備銀行は朝鮮銀行、儲備銀行は横浜正金銀行と契約をした。預け合い契約では、たとえば朝鮮銀行東京支店から北京支店に戦費を送金されると、北京支店はそれを自行の連銀名義の円預金口座に記帳する。一方で連銀は自行の朝鮮銀行名義の連銀券預金口座に同額を記帳する。連銀にある朝鮮銀行の連銀券預け金は戦費にあてられた。預け合い契約によって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した。通貨価値の下落は信用の低下を招き、かわりに蒋介石政権の通貨である法幣が流通した[120]。
軍票
日中戦争以降は、軍が占領地や勢力下で物資調達に用いる軍用手票(軍票)が増加した。中国大陸では日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票の使用が始まり、東南アジアでは1941年(昭和16年)のマレー作戦後に南方外貨表示軍票が発行された。1942年(昭和17年)には南方開発金庫が設立され、1943年(昭和18年)に南方開発金庫券(南発券)を発行したが、実態としては軍票と同様に扱われた。日中戦争での軍票は円標示で、法幣に対する物資争奪戦に用いられた。南方占領地の大東亜戦争軍票や南発券は現地通貨を標示して、物資を現地自活するために用いられた。いずれの地域でも、輸送力の低下や物資の不足により増発され、特に1943年(昭和18年)以降は濫発によるインフレーションが各地の経済を混乱させた[121][119]。
ブレトンウッズ体制
1944年(昭和19年)にアメリカのブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開催され、大戦後の国際金融についての協定が結ばれた。これがブレトンウッズ協定であり、金との兌換性はUSドルのみが持ち、各国の通貨はUSドルとの固定相場制をとるという体制だった。金とドルの交換レートは、金1オンス=35USドルと定められた。戦後の日本の通貨も、ブレトンウッズ体制にもとづいて定められることになる[122]。
戦後新紙幣
1945年(昭和20年)8月15日に日本は第二次世界大戦で敗戦を迎え、沖縄県や奄美群島では、アメリカ軍の軍票であるB円が1958年まで流通した[123]。連合国軍占領下の日本は新しい紙幣を発行することになり、新しい図柄の検討は民間の印刷会社も参加できるコンペ形式で20日間の公募が行われた。11月の審査には大蔵省、日本銀行関係者、画家の藤田嗣治や杉浦非水らが参加した。審査の結果、千円札の図柄には新薬師寺の伐折羅大将、五百円札には広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が選ばれ、戦争で焼失を逃れた仏像が心をなごませるというのが選考理由であった。高額紙幣は当面必要がないため百円札が弥勒菩薩、十円札が伐折羅大将として決定したが、この案はGHQによって不採用とされた。不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。そこで百円札は従来の聖徳太子を継続して、十円札は国会議事堂を使用した。インフレーションが進行して紙幣の供給が急務とされたが、物資や機械の不足により、民間の印刷会社も動員して印刷が行われた[124]。
高度成長
1946年(昭和21年)の金融緊急措置令で新円切替が行われるなどインフレーション対策が行われたが、1945年から1950年の5年間で卸売物価は70倍となった。このインフレーションにより最も利得を得たのは、多額の国債を発行していた政府、巨額の負債がある金融機関や企業だった。金融緊急措置令は預金封鎖をともなっていたため、多くの個人にとっては現金・預金・公債について損失となった。公定価格の数十倍のヤミ価格で物資が取り引きされて個人業者には利益をもたらした[† 6]。その一方、1947年(昭和21年)にはヤミ食料を拒否した山口良忠判事が栄養失調で死亡する事件も起きた。1949年(昭和24年)3月からドッジ・ラインが実施されると、ヤミ物価は低下して価格や配給の統制が解消に向かった[125]。
第二次世界大戦後の日本の通貨は、ブレトンウッズ体制に従うこととなった。占領下の貿易は貿易庁とGHQの仲介で行われ、為替レートは存在せず個々の取引ごとに円とドルの換算比率を決めていた。ドッジ・ラインにより、円は1ドル=360円(変動幅±1パーセント)に固定された。ブレトンウッズ体制のもとで、日本は高度経済成長をとげる[125]。
1938年(昭和13年)に施行されていた臨時通貨法は戦時の時限立法であったが、戦後に期限が削除され、激しいインフレーションにともなって円単位の臨時補助貨幣が追加された。この法律のもとで、1988年(昭和63年)まで臨時補助貨幣が発行され続けた。円単位であるにもかかわらず、1〜500円硬貨が補助貨幣と呼ばれたのは、このような背景がある[126]。
変動相場制
ブレトンウッズ体制の終了
1971年(昭和46年)8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、USドルが金との兌換を一時停止すると発表した。原因はアメリカの金保有量の減少によるもので、それまでの金とドルにもとづく国際通貨体制の終了をもたらし、ニクソンショックとも呼ばれた。ニクソンショックによってドルの値下がりが予想されたため、ヨーロッパの外国為替市場はいったん閉鎖したのちに変動相場制へ移行する。一方で日本は、市場を閉鎖せずに1ドル=360円のレートでドル買いを続けた。このドル買いによって、8月15日の発表から8月28日の変動相場制移行までのあいだに、5億5千万ドルの為替差損を出した[127]。その後のスミソニアン協定で固定相場制が再開され、ドル切下げと円切上げが決定する。新たに金1オンス=38ドル、1ドル=308円(変動幅±2.25パーセント)の交換レートが定められたが、固定相場の維持はやはり困難となり、1973年(昭和48年)2月に日本は再び変動相場制へ移行した[122]。
プラザ合意
1980年代前半のアメリカのロナルド・レーガン政権のもとで、双子の赤字と呼ばれた貿易赤字と財政赤字が問題となった。為替レートを安定させるために、1985年(昭和60年)9月22日にG5の蔵相や中央銀行総裁による会議が開催され、プラザ合意がなされた。これ以降は円高が急速に進み、2年間で1ドル=240円前後から121円と2倍近く上がった[128]。
円高とデフレーション
1980年代後半から日本はバブル景気となり、1990年代前半にはバブル崩壊が始まるが、金融政策で緊縮策をとったため状況は悪化して、円高とデフレーションが進行する。日本は円の国際化としてアジアへの直接投資やラテンアメリカ諸国の債務問題への資金協力を行い、1997年のアジア通貨危機の際にはアジア通貨基金構想を出す。しかし、円の国際化は本格化しなかった。頓挫の原因としては、各国やIMFの反対、国内経済の低迷、金融機関の不良債権処理による縮小、アジア諸国に対する市場開放の不十分さが指摘されている。2000年代前半の超低金利の時期には、円で資金調達をして外貨に投資する円キャリートレードが増加して、外国為替証拠金取引(FX)の個人投資家を表すミセス・ワタナベという語も生まれた[129]。
日本経済の長期停滞は、失われた10年や失われた20年とも呼ばれている。1990年以降の長期停滞については、消費・投資・生産などの実物的現象よりも物価・為替レートなどの貨幣的現象を原因とする研究がある。理由には国内におけるデフレの持続に加えて、対外的にはプラザ合意以降に円高が持続した点があげられ、これは総需要の停滞およびデフレの進行という解釈と整合している。生産の伸びに対してマネーストックの伸びが少なかった点から、日本銀行の金融政策によるマネタリーベースの伸びが十分でなかったと指摘されている[130]。
クレジットカード、電子マネー、デビットカード
1950年代にはアメリカでクレジットカードによる決済が始まり、日本では1960年代から同様のサービスが始まった。クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして1990年代には電子マネーが出現している。日本では、電子マネー実験として1999年(平成11年)の渋谷でVISAキャッシュ、新宿でスーパーキャッシュが試験的に用いられた。どちらも接触式のICカードによるプリペイド方式だった。その後は2001年(平成13年)頃からタッチ式のプリペイド電子マネーが交通機関を中心に普及している[131]。
デビットカードは即日決済が可能なキャッシュカードにあたり、認証機関を通さずに決済できる。現金よりも個人小切手やクレジットカードの決済が習慣となっている欧米で普及が早かった。日本では1999年(平成11年)のJ-Debitから始まっている[132]。
仮想通貨
仮想通貨は、国家による裏付けを持たない点、ネットワークによって流通する点、決済手段である点などの特徴を持つ貨幣である[133]。仮想通貨として有名なものにビットコインがあり、汎用性のある決済手段として国際的に流通している。これに対して、ゲーム内の通貨やマイレージなどは、汎用性がない点で広義の仮想通貨とされる[134]。 日本円と異なり、仮想通貨は強制通用力を持っていない。そのため、2015年(平成26年)2月25日の第186回国会の質問第28号では、日本の民法においてビットコインが通貨に該当するのかが問題とされた[135]。
日本においては、東京でビットコインの交換所を提供していたマウントゴックス社が破綻する事件が起きた。大量のビットコインが消失したため、マウントゴックス社は2014年(平成25年)2月26日にビットコインの取引を停止して、同社のユーザーは訴訟を起こした。2月28日には、マウントゴックスは東京地方裁判所に民事再生申立手続きを行った[136]。マウントゴックス社の破綻により明らかになった点として、破綻した法人の財産の保全をする場合に、仮想通貨を管理することの困難さが指摘されている[137]。
2016年(平成28年)5月25日、情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律(平成28年6月3日法律第62号)が成立し、資金決済に関する法律の一部が改正された(平成29年4月1日施行)。改正後の同法2条5項には、仮想通貨の定義が以下の通り定められた。
- 資金決済に関する法律
- (定義)
- 第2条
- 5 この法律において「仮想通貨」とは、次に掲げるものをいう。
- 一 物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合に、これらの代価の弁済のために不特定の者に対して使用することができ、かつ、不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる財産的価値(電子機器その他の物に電子的方法により記録されているものに限り、本邦通貨及び外国通貨並びに通貨建資産を除く。次号において同じ。)であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの
- 二 不特定の者を相手方として前号に掲げるものと相互に交換を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの
また、併せて仮想通貨交換業等の規制も定められ、仮想通貨の利用に関する法整備を進めた。
年表
- 7世紀 - 銀貨の無文銀銭が発行。
- 683年(天武天皇12年) - 銅銭を推奨し、銀銭を禁じる。
- 694年(持統天皇8年) - 鋳銭司の長官が任命される。
- 708年(和銅元年) - 和同開珎を発行。5月に銀貨、8月に銅貨。
- 709年(和銅2年) - 私鋳銭の禁止令。和同開珎の銀貨が廃止。
- 711年(和銅4年) - 穀6升(現在の2升4合)=銭1文とされる。
- 712年(和銅5年) - 調庸の基準として布1常=銭5文とする。蓄銭叙位令が発布される。
- 714年(和銅7年) - 撰銭令が出される。日本では最古の記録。
- 760年(天平宝字4年) - 万年通宝発行。
- 760年(天平宝字4年) - 初の金貨である開基勝宝発行。
- 765年(天平神護元年) - 神功開宝発行。
- 779年(宝亀10年) - 朝廷が和同開珎の使用を禁止する。
- 796年(延暦15年) - 隆平永宝発行。
- 798年(延暦17年) - 蓄銭禁止令を発布。
- 800年(延暦19年)- 蓄銭叙位令を廃止。
- 818年(弘仁9年) - 富寿神宝発行。
- 835年(承和2年) - 承和昌宝発行。
- 848年(嘉祥元年) - 長年大宝発行。
- 859年(貞観元年) - 饒益神宝発行。
- 870年(貞観12年) - 貞観永宝発行。
- 890年(寛平2年) - 寛平大宝発行。
- 907年(延喜7年) - 延喜通宝発行。
- 958年(天徳2年) - 乾元大宝発行。
- 13世紀後半 - 中国の元が紙幣の交鈔を流通させるために銅貨を禁じ、大量の銅貨が流入。
- 1485年 - 撰銭令が大内氏から出される。
- 1506年 - 撰銭令が室町幕府から出される。
- 1558年 - 撰銭令が北条氏から出される。
- 1569年 - 撰銭令が織田信長から出される。
- 1606年(慶長11年) - 慶長通宝発行。江戸幕府によるものとする説もある。その場合は皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳となる。
- 1609年(慶長14年) - 御定相場が定められる。
- 1610年(慶長15年) - 初の紙幣である山田羽書発行。
- 1630年(寛永7年) - 初の藩札が備後福山藩から発行。
- 1636年(寛永13年) - 日本各地の銭座で寛永通宝の鋳造が始まる。
- 1639年(寛永16年) - 鎖国令。貿易の主体がポルトガルからオランダ東インド会社となる。
- 1659年(万治2年) - 貿易用の長崎貿易銭発行。
- 1695年(元禄8年) - 江戸時代最初の改鋳が実施。
- 1707年(宝永4年) - 前年の改鋳に伴い藩札が一時流通停止となる。
- 1710年(宝永7年) - 高麗人参の貿易用の人参代往古銀発行。
- 1765年(明和2年) - 初の計数銀貨として明和五匁銀を発行。
- 1858年(安政5年) - 日米修好通商条約。
- 1859年(安政6年) - 横浜港が開港。外国人居留地設置。大量の金が日本から流出。
- 1868年(明治2年) - 貨幣司 設立。
- 1868年(明治2年) - 太政官札が発行。初の全国で通用する政府紙幣(不換紙幣)。
- 1870年(明治3年) -明治通宝発行。 ドンドルフ・ナウマン社に発注。
- 1871年(明治4年)2月 - 造幣寮を開設。
- 1871年(明治4年)5月 - 新貨条例を制定。円を単位として採用。
- 1871年(明治4年)7月 - 紙幣司設立。
- 1872年(明治5年)国立銀行条例。国立銀行による銀行券発行を認める。
- 1876年(明治9年) - 日朝修好条規。日本の通貨が李氏朝鮮の開港場で使用可能となる。
- 1878年(明治11年) - 貿易銀である1円銀貨も本位貨幣となり、金銀複本位制となる。
- 1882年(明治15年) - 中央銀行として日本銀行設立。
- 1885年(明治18年) - 最初の日本銀行券にあたる日本銀行兌換銀券が発行。
- 1897年(明治30年) - 日清戦争の軍事賠償金をもとに貨幣法を施行し金本位制を本格化。
- 1899年(明治32年) - 台湾銀行設立。
- 1902年(明治35年) - 第一銀行の韓国総支店が第一銀行券を発行。大韓帝国の通貨となる。
- 1909年(明治42年) - 大韓帝国にて韓国銀行が設立。日韓併合後には朝鮮銀行となる。
- 1917年(大正6年)9月 - 第一次世界大戦の影響を受けて金輸出の禁止、金本位制を停止。
- 1927年(昭和2年) - 昭和金融恐慌。
- 1930年(昭和5年)1月 - 金輸出解禁。大量の金が流出する。
- 1930年(昭和5年) - 昭和恐慌、昭和農業恐慌が発生。
- 1931年(昭和6年)12月 - 金本位制(兌換)を停止し、事実上の管理通貨制度に移行。
- 1932年(昭和7年) - 満州国にて満州中央銀行設立。
- 1937年(昭和12年) - 日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票を発行。
- 1938年(昭和13年) - 中華民国臨時政府で中国連合準備銀行設立。
- 1938年(昭和13年)6月 - 臨時通貨法公布、即施行。これ以降半世紀にわたり日本で発行される硬貨は全て臨時補助貨幣となる。
- 1940年(昭和15年) - 南京国民政府で中央儲備銀行設立。
- 1941年(昭和16年) - 日本統治下の東南アジアで南方外貨表示軍票を発行。
- 1942年(昭和17年) - 日本統治下の東南アジア向けに南方開発金庫設立。
- 1943年(昭和21年) - 南方開発金庫が南方開発金庫券を発行。日本統治下の地域でインフレーションが深刻化。
- 1946年(昭和21年) - 新円切替。
- 1949年(昭和24年)3月 - ドッジ・ラインにより、円は1ドル=360円(変動幅±1パーセント)に固定。
- 1971年(昭和46年)8月 - ニクソンショック。
- 1973年(昭和48年) - 変動相場制へ移行。
- 1985年(昭和60年) - プラザ合意により、円高が急速に進む。
- 1988年(昭和63年)4月 - 通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行。貨幣法、臨時通貨法などを廃止。名実共に金本位制停止。
- 1980年代後半 - バブル景気。
- 1990年代前半 - バブル崩壊。
- 1997年(平成9年) - アジア通貨危機発生。
- 1999年(平成11年) - 電子マネーの試験的な運用が開始。デビットカードのJ-Debitがサービス開始。
- 2011年(平成23年)10月31日 - 1ドル=75円32銭の戦後最高値を更新。
- 2014年(平成25年) - 円がジンバブエでも法定通貨となる[138]
出典・脚注
注釈
- ↑ ただし、律令政府は貨幣の流通を都と畿内に限定して、国家による支払いで地方に流れた貨幣は地方では流通させずに政府に回収する方針であり、蓄銭叙位令もその一環であったとする森明彦の説がある[40]。
- ↑ 硬貨の認識は次第にすすみ、『日本霊異記』や『今昔物語集』などにも銅貨が登場する説話が記録されている[43]。
- ↑ 中国では。宋の交子に始まり、元の時代に交鈔、明の時代に宝鈔と呼ばれた紙幣が発行された。
- ↑ 最後の改鋳は正徳元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ。
- ↑ 丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある[95]
- ↑ 食料となる農産物をヤミで売った農村では、新10円札の厚さが一尺(約30センチ)に達すると一尺祝いという宴会を行った。
出典
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- 田中健夫 『倭寇』 講談社〈講談社学術文庫〉、2012年。
- 田中史生 『越境の古代史』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2009年。
- 東野治之 『貨幣の日本史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。
- 東野治之 『遣唐使』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年。
- 冨田昌弘 『紙幣が語る戦後世界 - 通貨デザインの変遷をたどる』 中央公論新社〈中公新書〉、1994年。
- 中島圭一、「日本の中世国家と貨幣」、歴史学研究会編 『越境する貨幣』 青木書店、1999年。
- 永積昭 『オランダ東インド会社』 講談社〈講談社学術文庫〉、2000年。
- 永積洋子、「東西交易の中継地台湾の盛衰」、佐藤次高; 岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。
- 永原慶二、「大名領国制の展開」 『日本歴史大系 第7巻』 山川出版社、1996年。
- 中村和之、「北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏」、姫田光義編 『北・東北アジア地域交流史』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。
- 中村隆英 『昭和恐慌と経済政策 - ある大蔵大臣の悲劇』 講談社〈講談社学術文庫〉、1994年。
- 中村和之、「北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏」、姫田光義編 『北・東北アジア地域交流史』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。
- 中村哲 『近代東アジア史像の再構成』 桜井書店、2000年。
- 仁藤敦史、国立歴史民俗博物館編、 『お金の不思議 - 貨幣の歴史学』 近代東アジア史像の再構成、1998年。
- 橋本寿朗; 長谷川信; 宮島英昭; 齊藤直 『現代日本経済』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年。
- 坂野潤治; 大野健一 『明治維新 1858-1881』 講談社〈講談社現代新書〉、2010年。
- 藤尾慎一郎 『弥生時代の歴史』 講談社〈現代新書〉、2015年。
- 本多博之 『天下統一とシルバーラッシュ - 銀と戦国の流通革命』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015年。
- 丸山裕美子 『正倉院文書の世界 - よみがえる天平の時代』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年。
- 三上喜孝 『日本古代の貨幣と社会』 吉川弘文館、2005年。
- 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年。
- 三上隆三 『貨幣の誕生 - 皇朝銭の博物誌』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1998年。
- 三上隆三 『円の誕生 - 近代貨幣制度の成立』 講談社〈講談社学術文庫〉、2011年。
- 宮本又郎; 阿部武司; 宇田川勝; 沢井実; 橘川武郎 『日本経営史〔新版〕 - 江戸時代から21世紀へ』 有斐閣、2007年。
- 村井淳志 『勘定奉行荻原重秀の生涯』 集英社〈集英社新書〉、2007年。
- 村井章介 『中世倭人伝』 岩波書店〈岩波新書〉、1993年。
- 村上勝彦、「貿易の拡大と資本の輸出入」、石井寛治; 原朗; 武田晴人編 『日本経済史2 - 産業革命期』 東京大学出版会、2000年。
- 森明彦 『日本古代貨幣制度史の研究』 塙書房、2016年。
- 森下章司 『古墳の古代史 - 東アジアのなかの日本』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2016年。
- 山田豪一編 『オールド上海 阿片事情』 亜紀書房、1995年。
- 湯浅赳男 『文明の「血液」 - 貨幣から見た世界史(増補新版)』 新評論、1998年。
- 四日市康博、「銀と銅銭のアジア海道」、四日市康博編 『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』 九州大学出版会、2008年。
論文、記事
- 大久保隆・鹿野嘉昭「貨幣学 (Numismatics) の歴史と今後の発展可能性について」日本銀行金融研究所「金融研究」第15巻第ー号、1996年。
- 大田由紀夫 「一ニ-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布 - 日本・中国を中心として」(『社会経済史学』 61巻2号、1995年。)
- 酒寄雅志 (2011年). “渤海と古代の日本 (PDF)”. 2010年度第6回日本海学講座. 日本海学推進機構. . 2018閲覧.
- 小栗誠治 「セントラル・バンキングとシーニョレッジ」 滋賀大学経済学部研究年報、2006年。
- 丹野昌弘 「いわゆる正徳丁銀について」(『月刊 収集』 1999年9月号。)
- 日本銀行金融研究所 「日本の貨幣・金融史を考える - 古代の貨幣および中世から近世への移行に伴う貨幣の変容を中心として」 日本銀行金融研究所、1997年。
- 本多博之 「織田政権期京都の貨幣流通 - 石高制と基準銭「びた」の成立」 広島大学大学院文学研究科論集72巻、2012年。
- 松村恵司 『日本初期貨幣研究史略:和同開珎と富本銭・無文銀銭の評価をめぐって』 日本銀行金融研究所、2004年。
- 松村恵司・次山淳 「日本初期貨幣史の再構築」 奈良文化財研究所、2011年。
- 若田部昌澄 「昭和恐慌をめぐる経済政策と政策思想 - 金解禁論争を中心として」 経済社会総合研究所、2003年。