弥生時代
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。
2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした[2]。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている[3]。
弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され[4]、2世紀末畿内に倭国が成立[5]。3世紀中頃古墳時代に移行した。
Contents
名称
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する[6]。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
概要
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡(福岡市博多区)、福岡市博多区那珂、糟屋郡粕屋町江辻、糸島市曲り田遺跡、野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。 弥生時代のはじまりである。
1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡[8]が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている[9]。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。
一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美群島の歴史、先島諸島の歴史も参照のこと。
弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった[10][11]。
時期区分
弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。
そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。
そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。
現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。
2003年、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、炭素同位体比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる[12][13][14]。
晩期
早期
前期
中期
後期
終末
時期区分を視覚的にしてみたが、少しずれていることに注意。最上段は歴博グループによる炭素年代、二段目はこれを前期(黄)・中葉(緑)・後期(青)に等分したもの、三段目は従来の年代観、四段目は一世紀ごとの目安[15]。
定義の変遷
弥生時代の定義は発掘調査の進展に伴い、大きく変化してきている。そのため、文字資料から情報を得る場合、どの時点でどのような認識が主流だったのかを確認しておく必要がある。
江戸時代〜
先住民と渡来人の交替があったとする人種交替説が主流で、日本人は中国人や朝鮮人など大陸のアジア人と同種であると認識されていた。当時、海外の著名人の著作物も同様の認識で書かれている。
1884年(明治17年)
弥生式土器が発見されたが、当初は縄文式土器の一様式と認識されていた。
1898年(明治31年)
弥生式土器が複数発見され、縄文土器との比較から別種とされ、土器の発見場所から弥生時代という名称が生まれた。
1916~21年(大正5~10年)
縄文土器と弥生土器の違いは何であるかや、年代的な先後関係については論争があったが、1916年(大正5年)に発見された鹿児島県指宿市の橋牟礼川遺跡で、濱田耕作が行った発掘調査により、縄文土器が弥生土器より下の包含層から出土し、年代的に古いということが層位学的に確認された[16]。この時濱田耕作が弥生土器だと認識していた土器は、実は古墳時代後期の「成川式土器」という南九州独特の土器様式であることが後に判明するが[17]、縄文土器と弥生土器の違いが年代差であることや、「縄文時代から弥生時代へ」という変遷の認識はこの時から始まった。
1936〜7年(昭和11〜12年)
奈良県唐古遺跡で行われた発掘調査で弥生式土器と共に農耕具が発見されたことから、弥生式土器の時代に農耕が行われていたことが明らかになり[18]、弥生時代は農耕社会であるとされた。 また、土器の変遷から時代をはかる「土器編年」が確立した。
1950年代
弥生時代の人骨が出土するようになり、その特徴と縄文人骨との相違点から、渡来系の人骨であるとされた。
- 金関丈夫の混血説
- 鈴木尚の文化・環境による形質変化がおきたという変形説
などが発生する。
1970〜1980年代
弥生時代が稲作を主体とする時代であることが定説になり[19]、弥生時代の特徴は、稲作・農耕・高床式住居・布の服・戦争などであり、渡来人によってもたらされたという考えが一般的となった。
1990年以降
目覚ましい発掘調査の進展により、それまで弥生時代の特徴とされていた
- 稲作
- 農耕
- 高床式倉庫
- 大規模集落
- 木工技術
- 布の服
などが縄文時代に既に存在していたことがわかった。 また、遺伝子の研究という新しいアプローチから下記の事が判明している。
- 人種の置き換えは起きていない
- 渡来系の人骨の発掘には地域差がある
文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について議論が起きている。
弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて国家形成への道を歩み始めることが重要とする見解が示されるようになり[20]、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった[21]。
この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であって、東日本のものはそれとは大幅に異なる[22]別文化であるとする見解が示される様になった[23]。この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」[24]、「続(エピ)縄文」[25]、「東日本型弥生文化」[26]など研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。
ただしこの新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる東日本の研究者からの強い反発がある[27]。
弥生文化の発生と展開
縄文時代後期、西日本では生業の一部として既に農耕が行われていたが[28]水田農耕の本格的な開始は紀元前10〜9世紀の九州北部が最初とされる[29]。紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では既に集落内に階層差が存在したことが確認されている[30]。
北部九州に弥生文化が発生して約250年後、弥生文化は西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に弥生時代が始まり[31]、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まったとされている[32]。紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが[33]、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域でいったん止まってしまう。
東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。中里遺跡では集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されており、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている[34]。その後紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。
これよりさかのぼって、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない。
弥生文化/弥生時代は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている[35]。
弥生時代の研究では、弥生文化発生時の担い手が誰であったのかが議論になっている。考古学では九州の研究者は北部九州在来の縄文人が弥生化したと考えるのに対し、近畿の研究者の多くは渡来人が主体的な役割を果たしたとしている[36]。人類学の埴原和郎は北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、クニを作ったとしている。その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がったとする[37]。埴原よると現代でも弥生〜古墳時代の人口動態の影響があるという。すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種であるとしている[38][39]。
政治
戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。
受傷人骨
弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。
北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。
受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。
また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。
大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[40]。死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[41]。
なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[42]。
環濠集落・高地性集落
環濠集落・高地性集落は、集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられてきた。環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山である。ただ、秋田市地蔵田B弥生ムラが4軒の家を柵で囲んでおり、これを入れるとすると日本海側の防御集落の北限がさらに北上する。これにより戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側の方が北まで広がっていたのではないかと考える者もいる。
しかし、これには反論が存在する。北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争があったと推定されるが、南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。遠江、静岡県浜松市には環濠集落はあるが、登呂などの静岡市周辺の大規模な弥生ムラには環濠はなく、戦争があった可能性は薄い。神奈川県逗子市周辺は農耕的性格を示していながらも食料採集にも大きく依存していたことを示しており、戦争はなかったと考えられる。北関東と東北地方の広い範囲は、米の生産高が低かったからこそ戦争とは無関係であったのであろうと推測する説もある。[43]
さらに、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼる事(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半 - 中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ない事、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって外敵を有利にしてしまう(盛り土を矢避けにしたり盛り土の上から攻撃できる)事などから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考えるのではなく、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であった、又は環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったとする議論も提出されてきている。しかし弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が多い事もまた明らかである。環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張がある。
一方、古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。
史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半 - 末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末 - V期前半期に該当していた。このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半 - 末に該当する。畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張が多いが、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られる。後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われている。一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めている。
倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。
近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記、日本書紀等の神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。
地域勢力と大型墳丘墓の出現
時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。
- 吉備地域
- 瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県と広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。これらの土器は、吉備地方で発生後、美作・備前・備中・備後の地域に分布する。その発達の中心は、備中南部の平野であった。そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。
- 山陰地域
- 中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には台形土器と壺形土器。出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。
これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成につながったとされている。
弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。
人々の生活
水田農耕
日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてからお米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、明治11年大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる[44]。
では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。収穫量は多いとは言えない。一日あたりの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった[45]。デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた[46]。
家畜利用
弥生時代には水田農耕が行われるが、中国大陸における農耕がブタやウマ、ウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた[47]。これに対し、1988年・1989年に大分県大分市の下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した[48]。イノシシ類頭蓋骨に関しては西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ[49]。また、1992年には愛知県の朝日遺跡で出土したニワトリの中足骨が出土している[50]。
弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている[51]。
弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている[52]。2000年の小澤智生による分析では12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された[53]。2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている[54]。なお、石黒らは加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している[55]。 また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された[56]。
狩猟・漁労
狩猟
漁労
縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労
縄文時代の関東地方では東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた[57]。関東地方では縄文晩期に貝塚数が減少し、弥生時代前期には縄文型貝塚が消滅するに至る[58]。一方、三浦半島など外洋沿岸地域では引き続き外洋漁労が行われている[59]。外洋漁労の痕跡を残す洞穴遺跡では外洋沿岸岩礁のアワビやサザエ、外洋性回遊魚のカツオ、サメ、外洋沿岸魚のマダイが出土している[60]。アワビは縄文時代において出土事例が少なく、弥生時代には潜水漁が行われていたとも考えられている[61]。遺物では漁具として釣針、銛(もり)、ヤスなどが出土しており、特に縄文後期に東北地方太平洋岸で特異的に見られる回転式銛頭が出土している点が注目される[62]。
弥生中期には全国的に内湾干潟の貝類であるハマグリ・イボキサゴを主体とする貝塚の形成が行われるが、小規模で数も少ない。漁労においても大陸から渡来した管状土錘を使用した網漁が行われ、網漁は後に増加・多様化し、瀬戸内海で特に発達した。また、内湾型の漁労としてイイダコの蛸壺漁も行われている[63]。
こうした縄文以来の漁労活動が継続した関東においても弥生中期には稲作農耕社会が成立する[64]。稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として神奈川県逗子市の池子遺跡がある。池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる[65]。池子遺跡では銛漁やカツオの釣漁、網漁が行われいたと考えられており、カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁・釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられている[66]。
淡水漁労の開始
また、弥生時代には稲作農耕の開始により、水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産魚類・貝類を対象とした漁労も行われる[67]。愛知県清須市の朝日遺跡は大規模な貝塚を伴う漁労と稲作農耕を兼ねた集落遺跡で、内湾漁労のほかタニシ、コイ科、フナ、ナマズ、ドジョウを対象とした淡水漁労も行われている[68]。淡水漁労の成立に伴い専用の漁具も生まれ、大阪市八尾市の山賀遺跡や静岡県春日市の辻畑遺跡では淡水魚を捕獲する筌(うけ)と考えられている漁具が出土している[69]。
各地の漁労活動
北海道では稲作農耕が需要されなかったため縄文型漁撈が継続し、海獣猟や寒流性の魚類を対象とした狩猟・漁業が行われた[70]。
九州北部では縄文時代に外洋漁業が発達し、西北九州型結合式釣針と呼ばれる独自の釣針が生まれた。この釣針の分布は縄文時代には北部九州にとどまっているが、弥生時代には山陰地方へ普及している[71]。
関西地方では大阪湾岸の宮の下貝塚など縄文型の貝塚が継続した事例が見られ、縄文晩期から弥生中期に至るまで継続して貝塚が営まれている[72]。
道具類
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができる。
石器
石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。 石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。
青銅器
青銅器は大陸から北部九州に伝えられた。 北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。また、鏡も弥生時代前期末に渡来した。中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。
青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末 - 中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。 一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。
鉄器
鉄器の初現は弥生時代早期とされ、弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。
弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。
北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。
弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。
土器
土器は、弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。弥生土器の初めは、板付I式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器である。縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。
土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。 最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別して、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。
木器
木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。
集落
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものに、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。
弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。 この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布しており、韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越すると、一部に隅丸方形のものが見られるが、弥生時代後期に入ると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化する。その後、次第に長方形へと統一されていく。
このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布すると、また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。
弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。 平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。 また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。
弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。
中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が現れ、これが主要な倉庫の形態となる。
墓制
弥生時代の墓制を示す用語に、支石墓、墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓、土壙墓、木棺墓、石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。
甕棺墓は、北部九州弥生時代前 - 中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立する。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約100年後であり、半島から伝来したとは考えにくい。その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着するとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的であるが、このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓・箱式石棺墓などに取って代わられ、糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。主たる分布域は北部九州地域でも筑前・筑後・肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。
木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがあり、これが被葬者の[出自]集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用され、特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。弥生時代後期にはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期 - 前期前半期に特徴的に認められる。
土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。縄文時代の土壙墓と弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。
中国との通交
中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている[73]。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある[74]。
稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている[75]。
また近年、渡来系弥生人のDNAとお酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている[76]。
弥生時代の開始についてはかつて中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあったが、弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいは殷から周への政変に関連付ける考えが検討されるようになった。
中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。
『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。
三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。
中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。
朝鮮半島との関係
現代の日本人の起源についてはさまざまな仮説があったが、今の遺伝子学の研究結果によると現代の日本人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人が縄文人と混血して形成されたという。[77]
弥生人の特徴
大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系を伝えた渡来系の弥生人の形質に最も近い集団は頭蓋骨の計測値に基づく自然人類学的研究によると河南省の新石器時代人、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった[79]。また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものであるが、南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。
近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、弥生系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に弥生系と考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。水田稲作の先進地帯でも、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。[80]
鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。
一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し[81]、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[82]。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた[83]。
佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている[84]。混血が起きた地域を西日本と限定すると、東日本では鈴木尚の説のように在来の縄文人が弥生人化したと理解している。
また丸橋賢は、弥生人の形質は生来的に退化し易い形質で、「食生活の向上」による咀嚼の減少が咀嚼力の退化に繋がり、それが結果的に日本人の生命力自体の退化に繋がったとしている。[85]
そもそも弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという見方もある[86][87][88]。
弥生時代の終焉と古墳時代への移行
弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し[89]、2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった[90]。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り[91]、環濠集落は消滅し首長居館が出現した[92]。2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった[93]。
3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された[94]。大和の政治勢力が主導したとされる[95]。
変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった[96]。縄文時代から使われてきた石器は消滅し[97]、弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した[98]。
古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる[99]。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている[100]。
ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し[101]、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている[102]。
脚注
- ↑ 藤尾慎一郎、『弥生文化の輪郭 : 灌漑式水田稲作は弥生文化の指標なのか』、「国立歴史民俗博物館研究報告」 178、国立歴史民俗博物館、2013年3月、p.96-97。[1]
- ↑ 藤尾 慎一郎、今村 峯雄、西本 豊弘、『弥生時代の開始年代 ―AMS-炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―』、「総研大文化科学研究」 1、総合研究大学院大学文化科学研究科、2005年8月、p.73。[2]
- ↑ 藤沢敦編、「倭国の形成と東北」、吉川弘文館、2015年9月、p.45。
- ↑ 岸本直文、『倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス』、「国立歴史民俗博物館研究報告」 185、国立歴史民俗博物館 、2014年2月、p.374。[3]
- ↑ 女鹿潤哉、「えみし社会の成立と倭国」、弘前大学國史研究 113、弘前大学國史研究会、2002年、p.7。[4]
- ↑ なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっている
- ↑ 弥生人 夫婦・女の子・イヌ - 国立科学博物館
- ↑ 岡山市中溝遺跡では、灌漑用の水路や溝、井堰なども見つかっている。狩野久「吉備の国づくり」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社 2000年 16ページ
- ↑ 東北で最初で最北端の弥生時代中期の水田跡、広大な小区画水田
- ↑ 一木絵理(2012):日本における縄文海進の海域環境と人間活動 第4章 地域研究からみた縄文海進像 (PDF)
- ↑ 東京低地における「弥生の小海退」の発見 産業技術総合研究所 産総研 TODAY 2015.2 VOL.15-2 (PDF)
- ↑ 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。(『歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代-AMS年代測定法の現状と可能性-AMS年代測定法の現状と可能性 -』)。
- ↑ 中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。
- ↑ 『翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は呉の太伯(文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。
- ↑ 弥生時代の開始年代 - AMS年代測定法の現状と可能性 -参照
- ↑ 濱田 1921.
- ↑ 橋本 2015, pp. 20–24.
- ↑ 豆谷和之、唐古・鍵遺跡第74次調査 大型掘立柱建物の検出、 日本考古学Vol.7 No.10、p.108、日本考古学協会、2000年。[5]
- ↑ 設楽博己、農耕文化複合と弥生文化、国立歴史民俗博物館研究報告 185、p.463、国立歴史民俗博物館、2014年。[6]
- ↑ 工藤雅樹、考古学から見た古代蝦夷、日本考古学Vol.1 No.1、p.142、日本考古学協会、1994年。[7]
- ↑ 設楽、2014、p.451。
- ↑ 工藤、1994、p.142。
- ↑ 藤尾、2013、p.95〜96。
- ↑ 設楽、2014、p.452。
- ↑ 設楽、2014、p.451。
- ↑ 工藤、1994、p.142。
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- ↑ 佐原真「日本・世界の戦争の起源」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年
- ↑ 「漠然とではあるが、日本国民は、神代の昔から毎日米を食っていたであろうという観念を持っている前記の調査報告を見て、少なくともここ2,3百年間はそうではなかったらしいということに驚かされ」たと瀬川清子はいう。1957年 『食生活の歴史』講談社
- ↑ 寺沢薫・寺沢知子 1981年 「弥生時代植物質資料の基礎研究」橿原考古学研究所紀要『考古学論攷』第5冊 佐原真 2005年 「米と日本文化」所収 金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事6 考古学と現代』岩波書店
- ↑ 奈良時代の水田の100平方メートルあたりの収穫量は、上田50束・8斗4升6合・玄米105.7kg、中田40束・6斗7升7合・玄米84.63kg、下田30束・5斗8合・玄米63.5kg、下々田15束・2斗5升4合・玄米31.75kg 沢田吾一 1927年『奈良朝時代民政経済の数的研究』冨山房
- ↑ 新美(2009)、p.95
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- ↑ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
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- ↑ 78.0 78.1 渡来系弥生人の頭骨の特徴 国立科学博物館
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参考文献
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- 新美倫子「弥生文化の家畜管理」『弥生時代の考古学5 食糧の獲得と生産』同成社、2009年
- 濱田, 耕作「薩摩国揖宿村土器包含層調査報告」 (pdf) 、『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第6巻、京都帝国大学、1921年10月15日、 29-48頁、. 2017閲覧.
- 『成川式土器ってなんだ? -鹿大キャンパスの遺跡で出土する土器-』 鹿児島大学総合研究博物館、鹿児島大学総合研究博物館、2015-09-30。
- 橋本, 達也 『成川式土器の研究の道』(pdf)、2015-09-30。
関連項目
外部リンク
- 弥生時代の開始年代について 国立歴史民俗博物館
- 春成秀爾、弥生時代の年代推定 (特集 弥生時代の始まり) -- (弥生時代の開始年代) Archaeology quarterly (88), 17-22, 2004-08