国立歴史民俗博物館
国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。
法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。
Contents
設立の経緯
日本には明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館(のちの国立博物館)が存在したが、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見は早くからあり、歴史学者の黒板勝美はすでに昭和戦前に国立歴史博物館の必要性を訴えていた。しかし、国立の歴史系博物館の設置構想が具体化するのは第二次世界大戦後のことであった。1966年、日本政府は「明治百年」記念事業の一環として歴史博物館の設置を決定し、以後、学識経験者らによって建設地、展示内容などが検討されはじめた。1971年には文化庁内に博物館設置のための基本構想委員会が置かれ、1978年には同じく文化庁内に国立歴史民俗博物館設立準備室が設置されて、ようやく開館へ向けての準備が本格化した。同準備室の室長は歴史学者で東京大学名誉教授の井上光貞であった。「考古、歴史、民俗」の3分野を展示の柱とすること、博物館は大学共同利用機関とし、調査研究機能を充実することといった歴博の基本コンセプトは、井上の発想によるところが大きい。[1]
国の機関としての国立歴史民俗博物館は1981年に発足し、井上光貞が初代館長となった。ただし、博物館としての一般公開が始まるのは2年後の1983年3月のことである。初代館長であり、歴博の設置準備において終始指導的立場にあった井上は一般公開開始直前の1983年2月に急死し、東京大学文学部教授の土田直鎮(なおしげ)が2代館長となった(土田も館長着任期間中の1993年1月に急死した)。
歴代館長
- 井上光貞 (1981年4月 - 1983年3月)
- 土田直鎮 (1983年4月 - 1993年1月)
- 石井進 (1993年3月 - 1997年9月)
- 佐原真 (1997年9月 - 2001年8月)
- 宮地正人 (2001年9月 - 2005年8月)
- 平川南 (2006年4月 - 2014年3月)
- 久留島浩 (2014年4月 - )
組織と理念
歴博は開館当初から国立大学共同利用機関として位置付けられた。歴史資料の展示公開を行うことが歴博の重要な業務であることは言うまでもないが、歴博は展示施設であるとともに考古学、歴史学、民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに展示を行うことが重視された。
歴博は組織上も研究を重視し、開館当初は情報資料研究部、歴史研究部、考古研究部、民俗研究部が置かれた。このうち情報資料研究部は展示資料の材質、技法、保存修復、博物館運営におけるコンピュータの活用、展示手法の研究などを行う部門であり、歴史研究部、考古研究部、民俗研究部の役割は読んで字のごとくである。各研究部はそれぞれ4から6の部門に分かれ、それぞれの部門に教授、助教授、助手(現在は、教授、准教授、助教)が配置された。2004年に歴博が大学共同利用機関法人人間文化研究機構の所管になるとともに、研究組織の改組が行われ、「研究部」のもとに情報資料研究系、歴史研究系、考古研究系、民俗研究系が置かれることとなった。
建築
- 敷地面積 - 129,496m2
- 延床面積 - 35,548m2
- 建築面積 - 17,124m2
- 設計 - 芦原建築設計事務所
展示
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっている。展示室は常設展示の第1~第6展示室と、企画展示室に分かれている。常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色である。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されている。2016年現在の総合展示は以下のような構成になっている。
- 第2展示室 中世 (平安時代-安土桃山時代) 王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
- 第3展示室 近世 (江戸時代) 国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
- 第4展示室 民俗 (列島の民俗文化) 「民俗」へのまなざし / おそれと祈り / くらしと技
- 第5展示室 近代 (明治時代-昭和初期) 文明開化 / 産業と開拓 / 都市の大衆の時代
- 第6展示室 現代 (「戦争-高度経済成長」) 戦争と平和/戦後の生活革命
収蔵品
歴博の収蔵品は「収集資料」と「製作資料」とに大別される。「収集資料」は実物資料であり、古文書、古記録、絵図などの歴史資料、考古資料、民俗資料などが主なものである。「製作資料」は、建造物の模型、古墳・町並み・集落などの復元模型、考古資料など各種遺物の模造(レプリカ)などがある。
収集資料(実物資料)については、開館時に文化庁から歴博へ管理換えになったものが大部分を占めている。なお、2004年をもって博物館が国有施設から独立行政法人へ移行したことにより、文化庁買上げ品(=国有財産)が歴博へ移管されることはなくなった。
収蔵品中には個人のコレクションが一括して収蔵されたものがあり、特色あるコレクションとしては以下のものが挙げられる。
- 田中忠三郎が発掘した縄文遺跡の考古学資料約1万点、および民俗資料を含む約2万点
- 野村正治郎収集近世衣装コレクション(小袖、宮廷衣装、櫛、髪飾りなど)-1973-74年度文化庁買上げ
- 秋岡武次郎収集古地図コレクション-1975年文化庁買上げ
- 紀州徳川家旧蔵雅楽器類-1972年文化庁買上げ
- 上田綱治郎収集甲冑武具コレクション
- 田中教忠収集古典籍類
歴博の常設展示においては、土器・石器のような長期展示可能なものを除き、実物資料の代わりにレプリカが多用されている。常設展示されていない実物資料は企画展示で公開される場合がある。「洛中洛外図屏風甲本」の原本は例年秋に公開されている。
指定文化財
国宝
書跡・典籍
- 宋版漢書(慶元刊本)61冊
- 宋版後漢書(慶元刊本)60冊
- 宋版史記(黄善夫刊本)90冊
古文書
- 額田寺伽藍並条里図(麻布)
- 後宇多院宸記(文保三年具注暦)自筆本(東寺旧蔵)
重要文化財
絵画
- 絹本著色宗祇像 三条西実隆賛
- 絹本著色足利義輝像 策彦周良賛
- 紙本金地著色洛中洛外図 六曲屏風一双(歴博甲本、町田本)
- 紙本金地著色洛中洛外図 六曲屏風一双(歴博乙本)
- 紙本著色結城合戦絵詞
- 紙本著色前九年合戦絵詞
- 紙本著色醍醐花見図 六曲屏風一隻
- 紙本白描隆房卿艶詞絵巻(たかふさきょうつやことばえまき/「艶詞」を「こいことば」と読む説もある)
彫刻
- 木造地蔵菩薩立像 建武元年(1334年)康成作在銘
- 附:像内納入品(地蔵菩薩印仏(4種)一括、地蔵菩薩印仏包紙1紙、願文・結縁交名等6通、毛髪・切爪包3包)
工芸品
- 黒韋威肩白腹巻 大袖付(くろかわおどしかたじろはらまき)(※「腹巻」は鎧の一種)
- 色々威腹巻 大袖付
- 色々威腹巻 大袖付
- 太刀 無銘伝国行
- 白繻子地(しろしゅすじ)紅梅文様描絵小袖 酒井抱一画
- 黒綸子地桐唐草入大葉文様小袖
- 黒紅綸子地菊水文様小袖 - 2017年度指定[2][3]。
書跡・典籍
(日本文学)
古筆・宸翰類
歴史、伝記、法制など
|
仏典
漢籍
|
古文書
書状類
日記類
|
その他古文書・古記録類
|
歴史資料
- 大久保利通関係資料
- 書状類2620点、文書・記録類231点、書跡類128点、遺品類74点
考古資料
- 対馬シゲノダン遺跡出土品
- 銅印 印文「山邊郡印」
- 肥後マロ塚古墳出土品
- 梵鐘(千葉県成田市八代出土)
- 鹿児島県広田遺跡出土貝製品 152点(附:土器残欠2個体分)
弥生時代開始時期繰り上げ説
2003年5月、博物館の研究チームが、弥生時代の開始時期を定説より約500年早い紀元前1000年頃との研究成果を発表した。2003年12月、四国地方の弥生時代の開始時期は紀元前810年~前600年頃と発表した。
交通
- 京成佐倉駅より
- 徒歩15分
- バス5分「国立博物館入口」または「国立歴史民俗博物館」下車
- JR佐倉駅より
- バス10分「国立博物館入口」または「国立歴史民俗博物館」下車
- 東京駅八重洲口(京成高速バス3番のりば)より
- 「国立歴史民俗博物館」行の高速バス約1時間30分「国立歴史民俗博物館」下車
脚注
- ↑ 本節の記述は参考文献の(土田、1984)による。
- ↑ 平成29年9月15日文部科学省告示第117号
- ↑ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
- ↑ 「中右記部類」の第七と巻第十九は旧所蔵者が異なり、別個に重要文化財に指定されている。
参考文献
関連項目
- 房総の魅力500選
- ちば見聞録(千葉テレビ放送)
- 広域高速ネット二九六(「歴博のミカタ」という番組を放送している)