蒋介石政権

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蒋介石政権(しょうかいせきせいけん)とは、中華民国における政権の1つ。中国国民党蒋介石を事実上の指導者(一時、国民党総裁と軍事委員長)とした南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)の異称。

歴史

初期

中国国民党は中国共産党との国共合作を行って、1926年以後、蒋介石の指導の下に北伐を行って軍閥政権との戦いを続けた。だが、急激な勢力拡大と共産党勢力の浸透は反共的な蒋介石の支持者や経済界の不満を抱かせた。そこで、1927年4月上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、同年4月18日南京に南京国民政府を樹立した。蒋介石はこれに反対する武漢国民政府を屈服させ、1928年6月には軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。

1928年10月、蒋介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任し、「訓政綱領」と「国民政府組織法」を定めた。これは「以党治国」(国民党による国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたものであった。だが、翌年以後蒋介石の方針に反対する勢力と保内紛が勃発し、1931年5月には広州国民政府が成立して蒋介石を脅かした。だが、同年の満州事変の勃発が和解機運を生み出し、1932年1月には南京国民政府は統一を回復した。蒋介石は主席の地位を林森に譲って自らは軍事委員長に転じ、行政院長に汪兆銘(後に孔祥熙)を擁立したが、実権は蒋介石が掌握していた。

南京国民政府成立後最初の10年(南京十年)は、第一次上海事変の影響で一時洛陽に疎開した他は南京にあり、関税自主権の回復や廃両改元などの幣制改革や鉄道網整備などの経済基盤を確立して都市の資本家や中間層の支持を固め、列強から認められる安定政権の確立に成功した。だが、内実は農村部における共産党勢力の浸透は重大な脅威とされ、日本の侵略に対する自国の国際的信頼の低さから、「先安内後攘外」(国内の安定化を優先し、その後で対外的危機にあたる)路線を打ち出して、国内各層の反感を買った。

日中戦争

その後、西安事件を機に蒋介石は「先安内後攘外」路線の放棄と国共合作の復活を余儀なくされる。1937年7月に始まった日中戦争は、12月13日に首都南京の陥落を招き、政府は武漢、ついで重慶への疎開を余儀なくされた(重慶国民政府)。この間国民参政会国防最高委員会を組織して、蒋介石に全国陸海空軍統帥権を付与するなど抗日戦争を指揮する体制を整備し、連合国から治外法権回復や軍事・経済援助を受けるなどの支援策を受け、1943年10月には蒋介石を再び政府主席とした。だが、汪兆銘の離反と支持基盤である東部の喪失、急速な財政悪化と物資不足、国民党と共産党との反目と事実上の内戦再開など、統治の不安定要素も増加していった。

国共内戦

1945年9月2日ポツダム宣言調印(日本の降伏)を機に首都南京を回復した蒋介石政権は、10月15日GHQの命令を受けて台湾に進駐し、10月25日光復式典によって台湾を編入した。蒋介石は国共内戦を開始する一方で、1947年1月に中華民国憲法を公布、1948年3月には制憲国民大会が召集された。これをもって訓政及び国民政府制度の終了と立憲・民主政府による憲政確立が宣言され、蒋介石が新設の中華民国総統李宗仁が副総統に選出された。だが、内戦に不利とそれに伴う経済危機克服のために程なく事実上の軍政に突入し、実態は国民政府時代と大きな違いはなかった。やがて、1949年1月21日に蒋介石は総統辞任と李宗仁への移譲を決断、4日後に政府の広州移転を決断して、南京国民政府はここに崩壊した。

1949年4月23日に中国人民解放軍が南京を占領、10月1日中華人民共和国が成立すると、共産党による中国大陸支配が始まった。これを受けて、2ヶ月後の12月7日に、中華民国政府は台北への疎開が決定された。

関連項目

先代:
-
中華民国統治時代の台湾
南京国民政府
1945年-1949年
次代:
台湾国民政府
1949年-1996年