広隆寺
広隆寺 | |
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所在地 | 京都府京都市右京区太秦蜂岡町32 |
位置 | 東経135度42分26.31秒北緯35.0155度 東経135.7073083度 |
山号 | 蜂岡山 |
宗派 | 真言宗系単立 |
本尊 | 聖徳太子(上宮王院本尊) |
創建年 |
推古天皇11年(603年) または推古天皇30年(622年) |
開基 | 秦河勝 |
別称 | 蜂岡寺、秦公寺、太秦寺 |
札所等 | 聖徳太子霊跡24番 |
文化財 |
木造弥勒菩薩半跏像(国宝) 木造阿弥陀如来坐像(国宝)ほか 絹本著色三千仏図(重要文化財) 木造薬師如来立像(重要文化財) 鉄鐘(重要文化財)ほか |
地図 |
広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。
Contents
歴史
創建
広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。
蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。
なお、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と関連して取り上げられる。
弥勒菩薩像の由来
広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。
前述のとおり、『書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。
このほか、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある[2]。なお、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬師如来に代わっており、縁起によれば延暦16年(797年)、山城国乙訓郡(おとくにのこおり)から向日明神(むこうみょうじん)由来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたという。現在、寺にある薬師如来立像(重要文化財、秘仏)は、弘仁9年(818年)の火災後の再興像と推定される。通常の薬師如来像とは異なり、吉祥天の姿に表された異形像である。
平安時代以降
広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。
寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(ともに国宝)が伝わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。
阪神・淡路大震災
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では京都市でも震度5の強い揺れを観測した。この震災では兵庫県の神戸・阪神地域や淡路島の被害が最も大きかったことで、大阪府や京都府などの他の近畿の各県はそれほど注目されなかったが、広隆寺でも像が折れるなどの被害を受けた。
伽藍
楼門を入り、参道を進むと右手に講堂(重要文化財)、左手に薬師堂、能楽堂、地蔵堂(平安時代の地蔵菩薩坐像を安置)などがある。参道正面には本堂にあたる上宮王院太子殿があり、その手前右手に太秦殿(秦河勝を祀る)、左手(西)には書院、北側には霊宝殿と旧霊宝殿がある。このほか、書院の西方、奥まったところには桂宮院本堂(国宝)がある。
- 楼門-寺の正門である。元禄15年(1702年)の建立と伝える。
- 薬師堂 - 木造薬師如来立像(平安時代前期、像高101.3センチ)を安置する。通常の薬師如来像と異なり、女神の吉祥天像のような像容に造られた吉祥薬師像である[3]。
- 地蔵堂 - 「腹帯地蔵」と通称される木造地蔵菩薩坐像を安置する。本像は平安時代後期の作で、像高275.8センチ[4]。
- 講堂(重要文化財)
- 正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺き。瓦銘や近世の絵図によれば元は「金堂」と呼ばれていた[5]。永万元年(1165年)の再建で、京都市内に残る数少ない平安建築の一つであるが、永禄年間(1558-1570)に改造を受け、近世にも修理を受けていて、建物の外観や軒回りには古い部分はほとんど残っていない。堂内は敷瓦を敷いた土間とし、正面柱間は中央3間を吹き放し(壁や建具を入れない)、左右端の間は花頭窓入りの土壁とする。堂内には平安時代の様式が見られ、身舎(もや)は梁行方向に虹梁(こうりょう)を2段に掛け、板蟇股(いたかえるまた)を置いた二重虹梁蟇股とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする点が特色である。内陣には中央に本尊阿弥陀如来坐像(国宝)、向かって右に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、左に虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置する。一般拝観者の入堂はできず、堂外からの拝観になる。
- 上宮王院太子殿 - 広隆寺の本堂に当たる堂。入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、享保15年(1730年)の建立である。堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を安置する。
- 桂宮院本堂(国宝)-境内の西側、塀で囲まれた一画にある。聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳があることから、おおむねその頃の建立と推定される。堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝の附(つけたり)として指定されている。本尊の聖徳太子半跏像(鎌倉時代、重要文化財)は霊宝殿に移されている。建物は原則として非公開。
- 霊宝殿 - 仏像を中心とした広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、1982年の建設である。国宝の弥勒菩薩像2体、十二神将像などはここに安置されている。西隣の旧霊宝殿は1922年、聖徳太子1,300年忌を期に建設されたもので、現在は公開されていない。
木造弥勒菩薩半跏像
広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。
様式と制作地
像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。[8]。
制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される[9]。
第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。
朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。
『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。
エピソード
篠原正瑛によれば、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を「人間実存の最高の姿」を表したものと激賞した[10]。
1960年(昭和35年)8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよく言われるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼られておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。なお、京都地方検察庁はこの学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。
本像についてしばしば「国宝第1号」として紹介されるが、本像と同じく1951年(昭和26年)6月9日付けで国宝に指定された物件は他にも多数ある。本像の「国宝第1号」とは、国宝指定時の指定書及び台帳の番号が「彫刻第1号」であるということである。[11]
切手の意匠になった。
- 1967年(昭和42年)11月1日発売 15円 国宝シリーズ第1集 飛鳥時代
- 1981年(昭和56年)3月16日発売 600円普通切手
文化財
国宝
- 木造弥勒菩薩半跏像(通称「宝冠弥勒」)-既述
- 木造弥勒菩薩半跏像(通称「泣き弥勒」) - 霊宝殿に安置。像高90センチメートル(左足含む)、坐高66.4センチメートル。「宝冠弥勒」と同様のポーズをとる、像高はやや小さい半跏像である。朝鮮半島には現存しないクスノキ材製であるところから、7世紀末~8世紀初頭頃の日本製と見られるが異説もある。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。
- 木造阿弥陀如来坐像 - 講堂本尊。像高261.5センチメートル。両手を胸前に上げ、説法印を結ぶ。『資財帳』及び『実録帳』の講堂の項に「故尚蔵永原御息所願」とある像に該当し、承和年間(840年頃)の作とみられる。永原御息所とは淳和天皇女御の永原原姫である。巨大なヒノキの一材から頭・体の根幹部を彫出し、像表面には厚く木屎漆を盛り上げて整形している。二重円相の光背と裳懸座は一部に後補があるものの、当初のものを残している。[12]
- 木造不空羂索観音立像 - 像高313.6センチメートル。霊宝殿に安置。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の東北隅にあった。奈良時代末~平安時代初期(8世紀末~9世紀初)の作。『実録帳』の金堂の項に「本自所奉安置」(弘仁9年・818年の広隆寺の火災以前から安置されていた、の意)として7体の仏像が列挙されているが、そのうちの「不空羂索菩薩檀像」とあるものに該当する。
- 木造千手観音立像 - 像高266.0センチメートル。霊宝殿に安置。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の西北隅にあった。もと講堂に安置され、現在は霊宝殿に安置。平安時代初期、9世紀の作。
- 木造十二神将立像 - 像高は113 - 123センチメートル。霊宝殿に安置。『広隆寺来由記』によれば、康平7年(1064年)、仏師長勢の作。長勢は定朝の弟子にあたる。12体の作風はいくつかのグループに分かれ、12体すべてが長勢の作とはみなしがたい。片目をつぶり、矢の調整をしているさまを巧みに表現した安底羅大将像など数体が長勢の作に帰されている。12体の像名は以下のとおり(玄奘訳『薬師経』による名称。括弧内は広隆寺で用いている表記)。宮毘羅大将(金毘羅)、伐折羅大将(和耆羅)、迷企羅大将(弥佉羅)、安底羅大将(安底羅)、頞儞羅大将(摩尼羅)、珊底羅大将(宗藍羅)、因達羅大将(因陀羅)、波夷羅大将(婆耶羅)、摩虎羅大将(摩虎羅)、真達羅大将(真陀羅)、招杜羅大将(昭頭羅)、毘羯羅大将(毘伽羅)。
- 広隆寺縁起資財帳
- 広隆寺資財交替実録帳
- 桂宮院本堂
重要文化財
- 絹本著色三千仏図
- 絹本著色十二天像
- 絹本著色准胝仏母図
- 紙本著色能恵法師絵詞
- 木造虚空蔵菩薩坐像(所在講堂)
- 木造地蔵菩薩坐像(所在講堂)
- 木造薬師如来立像 - 秘仏。11月22日のみ開扉。
- 塑造弥勒仏坐像
- 木造大日如来坐像(像高95.5cm、1917年重文指定)
- 木造大日如来坐像(像高74.5cm、1927年重文指定)
- 木造阿弥陀如来立像(もと桂宮院本堂安置)
- 木造五髻文殊菩薩坐像
- 木造聖観音立像
- 木造千手観音坐像 - 寛弘9年(1012年)の像内墨書銘あり。
- 木造如意輪観音半跏像(もと桂宮院本堂安置)
- 木造日光・月光菩薩立像
- 木造地蔵菩薩立像(埋木地蔵)
- 木造菩薩立像
- 木造不動明王坐像
- 木造毘沙門天立像
- 木造持国天・増長天・広目天立像[13]
- 木造多聞天立像
- 木造吉祥天立像(像高184.5cm、1917年重文指定)
- 木造吉祥天立像(像高168.0cm、1917年重文指定)
- 木造吉祥天立像(像高164.6cm、1902年重文指定)
- 木造吉祥天立像(像高142.2cm、1917年重文指定)
- 木造吉祥天立像(像高106.8cm、1938年重文指定)
- 木造聖徳太子半跏像(もと桂宮院本堂安置)
- 木造蔵王権現立像(像高100.4cm、1938年重文指定)
- 木造蔵王権現立像(像高96.4cm、1938年重文指定)
- 木造神像(伝秦河勝像)
- 木造女神(にょしん)坐像(伝秦河勝夫人像)
- 鉄鐘 - 建保五年(1217年)銘
- 講堂
※重要文化財の仏像のうち、虚空蔵菩薩坐像・地蔵菩薩坐像以外は霊宝殿に安置。
牛祭
太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。
大酒神社社伝によれば、平安時代、比叡山の恵信僧都(源信)が極楽浄土の阿弥陀如来を拝する願いを持っていたところ、広隆寺絵堂(講堂)のご本尊を拝めばよいと夢のお告げがあり、恵心は大いに喜んで三尊像を手彫りして念仏会を修た。そして常行念佛堂を建立し、念仏守護の神、摩吒羅神を勧請して祈祷したのが始まりとされている。かつては毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっている。
交通アクセス
霊宝殿の拝観は有料。桂宮院本堂は非公開。
京都市の工事での振動による建物損傷問題
京都市が、広隆寺に隣接して建てられていた右京区役所を移転の上、留学生寮を建設するため、旧右京区役所の解体工事を2009年3月から開始した。ところが、この工事による振動で、地蔵堂と薬師堂の壁などに10ヵ所以上に亘り皹が入るようになったとして、広隆寺が京都市を相手取り、同年8月5日に京都簡裁に、工事手順の改善や、土地利用の具体的な条件設定などを求める調停を申し立てた[14]。一方、京都市側も、広隆寺に対し、工事妨害の禁止を求め、京都地裁に同年12月5日に仮処分を申し立てた[15]が、翌2010年1月12日に取り下げ[16]。また、広隆寺側も、同年1月に工事続行禁止を求める仮処分を京都地裁に申し立てたものの却下され、大阪高裁に抗告中である。こうした中、京都市は2010年2月5日から、地上部分の解体工事を、特別抗告の結果を待たずに再開した[17]。市側は、振動を軽減する改良を行ったとしているが、広隆寺側は強く反発している。
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、矢内原伊作、清滝英弘著『古寺巡礼京都13 広隆寺』、淡交社、1977
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』15号(広隆寺)、朝日新聞社、1997
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 「秦公寺」の正確な読みは不明で、「しんこうじ」「うずまさでら」とする説もある。
- ↑ 「金銅救世観音」の「金銅」は、文字通りには「銅製金メッキ」という意味である。広隆寺の弥勒像は2体とも銅造ではなく木造だが、木造漆箔の像を「金銅」と誤認した可能性がある。また、「救世観音」は像容の上では弥勒菩薩と同様の半跏像として表されることがある(四天王寺本尊像など)。
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』15号、p.6 - 154
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』15号、p.6 - 155
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』15号、p.6 - 137
- ↑ 本像の説明は以下の資料による。像高は『古寺巡礼 京都』に記載の数字による。
- 伊東史朗「広隆寺の聖徳太子信仰と太子像」『週刊朝日百科 日本の国宝』15号所収、朝日新聞社、1997
- 山崎隆之『仏像の秘密を読む』、東方出版、2007
- 矢内原伊作、清滝英弘著『古寺巡礼京都13 広隆寺』、淡交社、1977
- ↑ 7.0 7.1 関裕二 『教科書に絶対載せられない 偽装! 古代史』 廣済堂出版、2013年。ISBN 978-4331655078。
- ↑ 『週刊朝日百科 世界の美術』104号p11-105の解説による。
- ↑ この韓国国立中央博物館像は、1912年に李王家が日本人美術商から入手したもので、それ以前の来歴は不明である。制作地についても新羅か百済か、その他の地域であるかはっきりしない。また、同時期の朝鮮の木造仏で同型のものは残っていない。
- ↑ 出典は篠原正瑛『敗戦の彼岸にあるもの』
- ↑ 文化財保護法に基づく国宝の最初の指定は1951年6月9日付けで行われた(官報告示は1952年1月12日に掲載、文化財保護委員会告示第2号)。この時には建造物32件、美術工芸品145件が国宝に指定されている。
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』15号、pp.6 - 139 - 6 - 141
- ↑ 持国天・増長天・広目天・多聞天の4体は霊宝殿の四隅に安置されているが、多聞天像のみ別件で重要文化財に指定されている。
- ↑ 「京都市の隣地解体工事でひび」広隆寺が調停申し立て 産経新聞 2009年8月5日
- ↑ 京都市が仮処分申し立て 旧右京区役所解体工事で広隆寺に 産経新聞 2009年12月8日
- ↑ 旧庁舎解体工事で広隆寺への仮処分申し立て取り下げ 京都市 産経新聞 2010年1月12日
- ↑ 京都市、広隆寺隣接の解体工事再開 産経新聞 2010年2月5日