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フェラーリ (Ferrari N.V. ) は、イタリア、モデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカー。
Contents
概要
イタリアの元レーシングドライバーのエンツォ・フェラーリによって、イタリア北部のモデナ近郊に1947年に設立されて以来、レーシングカーと王侯貴族や富裕層に愛用される高級スポーツカーのみを製造している自動車メーカー[1]である。
また、F1世界選手権等のモータースポーツコンストラクターでもあり、FIA 世界耐久選手権やル・マン24時間レース、ミッレミリアやタルガ・フローリオなどのレースで活躍し数々の伝説を残していることもあり、イタリアのみならず世界的にも高い人気とブランドイメージを持つ。
設立以来独立した運営を続けていたが、1969年にアニェッリ家率いるフィアット・グループの傘下に入り、2016年にはフィアット・クライスラー・オートモービルズ (FCA)から離脱独立した[2]。しかしその後もFCAの大株主のアニェッリ家が経営に影響力を持ち続けており、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在である。
沿革
- ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ
1929年12月に、アルファロメオのレーシングドライバー[3]で、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初は裕福なモータースポーツ愛好家をサポートする、アルファロメオのディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[4]。
1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォはドライバーを引退してチーム運営に専念し、1933年に国営化されたアルファロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして当時イタリアを率いていたベニート・ムッソリーニの主導によるイタリア政府のサポートも受け、タツィオ・ヌヴォラーリなどの強力なドライバーラインナップを擁して数々の勝利を記した[5]。
その後チームは1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した[6]。
- アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ
1940年にエンツォは、アルファロメオとの誓約項目を避けるために「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、4月28日から行われたミッレ・ミリアに参戦し好成績を上げた[7]。
しかしその直後の6月10日に、イタリアが日独伊防共協定と鋼鉄条約を組んでいた同盟国のドイツ国を支援するために、イギリスとフランスに宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。このためにイタリアにおいてモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、イタリア軍の兵器製造のための粉砕機などの工作機械製造を行うようになった[8][9]。
その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏したものの、その直後にイタリア北部は事実上ドイツ軍の占領下になったこともあり、モデナの工場が連合国軍機の空襲を受け多くの工場が破壊された[10]上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。しかしエンツォは、戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。
- 設立
1945年5月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結すると、この後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったジョアッキーノ・コロンボらを擁して[11]、1946年より自前のレーシングカーを開発するようになった。なお1945年には、エンツォと愛人のリーナ・ラルディとの間に、現在フェラーリの副会長を務めるピエロが生まれた[12]。
1947年には晴れて自らの名を冠した「フェラーリ」を設立した。処女作は創業初年度に製造したレーシングスポーツ「125S」であった[13]。「125S」は、フェラーリの手で同年開催されたローマグランプリに参戦し、いきなり優勝をあげることでフェラーリの名を一躍有名にした。なお生産台数は2台のみであった。
また「125S」は、エンツォが懇意にしていたタツィオ・ヌヴォラーリが、フォルリとパルマのレースで連勝するなど、フェラーリのみならず、戦後におけるチャンピオンの復活も印象付けることになった[14]。
- 生産開始
その後、1948年に発表した「166インター」よりGTカーの少数受注生産を開始し、ヴィットリオとジャンニーノ・マルゾット伯爵らの4兄弟が率いる「スクーデリア・マルゾット」や、アルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵、ブルーノ・ステルツィ伯爵などのモータースポーツに参戦するイタリアの裕福な貴族などに販売する[15]とともに、ワークスとして「ミッレミリア[16]」や「タルガ・フローリオ」、「ル・マン24時間レース」や「ツール・ド・フランス」などのヨーロッパの著名なレースに参戦し、その多くで優勝を飾った[17]。
さらに1950年には、同年より開始されたフォーミュラ1(F1)世界選手権への参戦を開始し、1951年のイギリスグランプリでアルゼンチン人ドライバーのホセ・フロイラン・ゴンザレスが初勝利を挙げた。なおフェラーリは、同選手権が開始されてから現在まで参戦している唯一のレーシングチーム及び自動車メーカーである。
その後、エンツォの友人で1949年のル・マン24時間レースにフェラーリで勝利(パートナーはセルスドン男爵)した優秀なレーシングドライバーで、かつアメリカ東海岸でフェラーリの正規輸入販売代理店「ルイジ・キネッティ・モーターズ」を経営することになるルイジ・キネッティ[18]の勧めにより、当時の世界最大の自動車市場であるアメリカ市場向けの「340アメリカ」 (1951年)や「340メキシコ」(1952年)、「212ヴィニャーレ」(1950年)など、次第に車種と販路を拡げていったが、いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンして市販車に仕立て上げ、欧米の王侯貴族や大富豪、映画スターなどの非常に限られた層を中心に販売していたものであった[19]。
なお当時のフェラーリは車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、ボディはツーリングやヴィニャーレ、スカリエッティやピニンファリーナ、ボアノなどのカロッツェリアに委託していた。その後2010年代まで60年以上続くピニンファリーナとの関係は「212インター・カブリオレ」(1952年)より始まる。
- 市販車製造
その後「250」シリーズで初めてレーシングカーを基にしない純粋な市販車の製造を開始した。この市販車として製造された1950年代初期の「250」は、「暑い」、「うるさい」、「乗り心地が悪い」、「故障が多い」などオーナーからの不評も多かったが[20]、シリーズを重ねるごとに改良は進み操作性や快適性は増して行き、1960年代前半に「世界最速の2+2」と称された「250GTE」などいくつかのモデルは、その実用性と快適性が高い評価を受けた。なお故障の多さをめぐるエンツォとフェルッチオ・ランボルギーニのやり取り、その結果の「アウトモビリ・ランボルギーニ」の設立は、今も真実であるかは置いておき語り草になっている。
その一方で、「250MM」や「250GT TdF」などの2シーターモデルは、モータースポーツへの参戦のためのホモロゲーション取得を目的としたもの、もしくは多少のモディファイをすることで各種レースへの参戦も可能とした「ロードゴーイング・レーサー」であった。実際に、エンツォは自社の市販車に「スポーツカー」という、軟弱かつ公道での使用を強くイメージさせるような言葉は用いなかったばかりか、公道での乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでさえいた[21]。
さらにエンツォは「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」と公言していたという逸話が残っており[22]、実際にこの逸話通りに、この頃生産されていたすべての市販車はコロンボやアウレリオ・ランプレディが設計したV型12気筒エンジンを搭載していた(ただし、当時フェラーリのレース専用モデルには、レギュレーション合致や軽量化による性能向上の観点から4気筒や6気筒エンジン搭載モデルが多数存在していたため、この発言は多分に市販車の販促効果を意識したものと取られている)。
なお、「250GTルッソ」や「275GTB/4」をはじめとして、1973年にデビューした「365GT4BB」から1995年に生産を中止した「512TR」までの期間を除き、現在の旗艦モデルの「812スーパーファスト」に至るまで、限定生産車を除く市販車のトップレンジを担っているのはフロントエンジン(FR)、V型12気筒のモデルである[23]。
- 高い評価
その後フェラーリの市販車は品質や機能性、生産効率を高めて行き、1957年にはピニンファリーナと高級スポーツカーカテゴリーにおけるデザイン及びボディ製造の独占契約を結び[24][25]、デザイン面と生産効率面における優位性を獲得することで生産台数を順調に増やして行ったものの、その価格は依然として高価なものであり、その購買層は非常に限られていた。
しかし、これらのフェラーリの市販車は、F1世界選手権や「ミッレミリア」、「ル・マン24時間レース」や「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」をはじめとするレースにおける活躍によるブランドイメージの向上や性能の高さ、デザインの美しさが高い評価を受けて、1950年代にはヨーロッパや北米を中心に高性能市販車としての地位を確固たるものとしていった[26]。
この頃には各国での販路の拡大も進め、当時から現在において主要市場の1つであるイギリスでは、自社のワークスドライバーかつ正規輸入販売代理店を務めていたマイク・ホーソーンの死後に、自動車業界の経験豊富なロナルド・ホーア大佐率いるマラネロ・コンセッショネアーズに販路を委託するとともに[27]、右ハンドル仕様をほとんどのモデルに用意した(さらに同社は1970年代には日本への輸出にも関わることとなる[28])。
またアメリカにおいても、キネッティの手によりハリウッドのある西海岸にも販路を広げるとともに、フェラーリのアメリカにおけるセミワークスチーム的存在の「ノース・アメリカン・レーシング・チーム」が創設され、「デイトナ24時間レース」や「セブリング12時間レース」、「ル・マン24時間レース」をはじめとする様々なレースに参戦し好成績を上げることでその名声を高めることになる[29]。
また、欧米においてはスウェーデンのグスタフ6世国王やイランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王などの王族や貴族、アーガー・ハーン4世やポルフィリオ・ルビロサ[30]などの大富豪やジェット族、ロベルト・ロッセリーニやその妻のイングリッド・バーグマン[31]などのアーティストや映画俳優などといったセレブリティが愛用し、その姿が世界各国のニュース映画や雑誌の紙面を飾ったこともそのブランドイメージを押し上げる結果となった。なお、フェラーリは、現在に至るまで自社製品の広告を全く行わないことでも知られている[32]。
なお、1957年にはエンツォが「ミッレミリア」におけるアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵と観客死傷事故の責任を問われ起訴され、モータースポーツ参戦中止や賠償金の支払いによる経営への影響が危惧されたが、その後無罪となる。
- 「宮廷の反逆」と経営危機
このようにフェラーリは世界各国で高い名声を勝ち取り、その生産台数も順調に増加を続けたものの、エンツォによる過剰なモータースポーツへの投資や、手作業が多い旧態依然とした生産設備による生産コストの高さが収益を圧迫した。
さらに当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争と、それがもたらした度重なるストライキやサボタージュなどが経営に悪影響を与え、1959年のF1イギリスグランプリでは、メカニックのストライキによりマシンの整備ができずに出走を取りやめることになってしまったために、トニー・ブルックスが僅差で年間チャンピオンを逃すという事態になってしまった。
また1961年10月には、エンツォの妻のラウラによる過度な製造及び開発現場への介入に反対する、カルロ・キティやジオット・ビッザリーニ、ロモロ・タヴォー二、エルマーノ・デ・ラ・カーサ、フアウスト・ガラッソ、ジローラモ・ガルデイーニ、フェデリコ・ジヴェルディ、エンツォ・セルミら8人の部署長級のメンバーが、弁護士を経由してエンツォに抗議を申し出た手紙を送付したものの、これに怒ったエンツォに会議の場で全員が解雇される事件「宮廷の反逆」が起きた[33]ことも影響し社内が混乱し、1960年代初頭には経営が苦境に陥った。
- ASAの失敗
この様な状況を打破すべく、エンツォは安価な小型スポーツカーを投入することで収益構造を改善することを企画し、ジョアッキーノ・コロンボが開発した高性能な4気筒エンジンとジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたスタイリッシュなボディを、ジオット・ビッサリーニが設計したシャシーに搭載した小型2ドアクーペ「ASA 1000 GT」を1961年のトリノ・モーターショーにて発表した[34]。
当初は「フェラリーナ」と呼ばれフェラーリの廉価版として販売、生産することが検討されたが、社内の反対によりフェラーリのブランドは与えられず、エンツォの友人であるオロンツィオ・ディ・ノーラ率いるミラノに拠点を置く化学系企業の「ディ・ノーラ」内に本拠を置いた「ASA(Autocostruzioni Società per Azioni)」ブランドで販売されることになった。しかし発表時にはエンツォ自らプレゼンテーションを行ったほか、フェラーリのディーラー網を通じて販売されるなど、フェラーリの影響が色濃くみられるモデルとなった。
そのスタイリングと操縦性、エンジンは高い評判を得たものの、1000cc級の4気筒エンジンを搭載した小型クーペとしては価格が高価であった上に、フェラーリのブランドが与えられなかったこともあり販売は芳しくなく、1963年にはスパイダーモデルが追加されたほか、1800ccにパワーアップしたモデルがルイジ・キネッティの手によりアメリカでも販売されたものの、1962年から1967年にかけてクーペとスパイダー併せて120台程度が生産されたのみで、エンツォが意図したフェラーリの経営と収益構造の改善には貢献しなかった。
- フォードとの買収騒動
このような状況を受けて1963年には、ベビーブーム世代の顧客へのアピールを狙い、モータースポーツ部門の拡大を考えていたヘンリー・フォード2世会長率いるフォードの取締役のドン・フレイ率いるチームとの間で買収交渉を進めたが、マラネッロでの買収契約調印の寸前にエンツォが交渉を止めたことで決裂した。
交渉決裂の理由は明らかにされていないが、モータースポーツ部門における決定権の委譲をエンツォが嫌ったという説[35]、金額の不一致という説、フェラーリを外国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップのジャンニ・アニェッリの意向など、複数の理由が影響していたという説がある[36]。
- ル・マンでの戦い
これに不快感を持ったヘンリー・フォード2世は、「250LM」などのマシンで連勝を続けていたフェラーリをル・マン24時間レースで破るべく、その資本力にものを言わせて膨大な資金を投入して「アドバンスド・ビークル」部門を設立して短期間のうちにレーシングカー「フォード・GT40」を開発した[37]。
フォードは膨大な予算と人材を投じてマシンを開発し実戦に投入したものの、実戦経験の不足と性急な開発はすぐに実を結ばず、ル・マン24時間レースやスパ・フランコルシャン、デイトナなどで数多くの敗北を経た上に[38]、ジオット・ビッザリーニの後任としてフェラーリのレース部門の開発責任者となったマウロ・フォルギエーリの引き抜きさえ画策している[39]。これに対してエンツォも、ボブ・ボンデュラントの引き抜きに成功している。フォルギエーリの引き抜きには失敗したものの、レース経験が豊富なキャロル・シェルビー率いる「シェルビー・アメリカン」などからの技術的提供を受けマシンの開発を進めたことにより、1966年のル・マン24時間レースでフェラーリを破ることになる[40]。
なお、ここまでヘンリー・フォード2世がフェラーリを破ることにこだわったのは、エンツォに買収交渉を袖にされたことだけではなく、当時不倫をしていた(その後1965年に結婚)イタリア人のマリア・クリスティナ・ベットーレ・オースティン [41]が、フェラーリのファンであったことも影響されていると言われている[42]。
なおフェラーリは、フォードにル・マン24時間レースで敗れたものの、フォードの地元のアメリカで開催された1967年のデイトナ24時間レースに「330P4」で参戦し1位-3位を独占し、さらに翌年に発表した「365GTB/4」に「デイトナ」の愛称をつけフォードに一矢を報いることになる。
- フィアットとの提携とディーノ
その後、F2用エンジンのホモロゲーション取得のため、新たに開発された軽量かつ高性能なV型6気筒エンジンを通じて、イタリア最大の自動車メーカーであるフィアット・グループとの提携が始まる。1956年に亡くなったエンツォの息子であるアルフレード「ディーノ」[43]の名を冠したV型6気筒エンジンは、市販車の「206/246」と、2+2モデルである「208GT4/308GT4」に搭載された[44]。
これらのV型6気筒エンジン搭載車は、前述の「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」というエンツォの言葉通り「ディーノ」ブランドが与えられ、フェラーリの名が冠されることはなかった(後に「246」のアメリカ市場向けモデルの後期型に、販売戦略上フェラーリのロゴが付けられることとなった[45]他、「208GT4/308GT4」の後期型には正式にフェラーリの名が冠され、「ディーノ」ブランドは廃止された[46])。
このV型6気筒エンジンはフィアット・グループ内の様々なブランドでも取り扱われ、「フィアット・ディーノ・クーペ/スパイダー」と、ラリー界を席巻した革命的なマシンである「ランチア・ストラトス」が生まれた[47]。キャブレター、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で排気レイアウトの関係上フィアットの方が有利なのにもかかわらず、マーケティング的配慮とチューンの関係から馬力が少ない仕様になっていた。
- フィアット傘下へ
その後フィアットとの提携が進み、1969年にフェラーリは完全にフィアット・グループ傘下に入ることで経営の安定と、多額の経営資金を得ることで新技術の導入を図ることになる。その後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、モータースポーツ部門(スクーデリア・フェラーリ)の指揮に専念した[48]。なおフェラーリの株の10パーセントはエンツォが引き続き所有するなど、名目上での資本関係は保ちつづけした。
その後、フィアット・グループのジャンニ・アニェッリ会長の指揮のもと、フィアットからの人員を開発から経理に至るまで様々な部門で受け入れる中で、1973年に当時成績不振に陥っていたスクーデリアのマネージャーに就任したのが、フィアット・グループ創業者のアニェッリ一族につながる家柄の出身で、のちにフェラーリ会長(とフィアット・グループ会長)を務めるルカ・ディ・モンテゼーモロであった[49]。
モンテゼーモロは、その後スポーツカーレースからのワークス参戦の撤退やマシンの開発撤退などチーム内の再編を行い、さらにスクーデリア内では1974年から加入したオーストリア人ドライバーのニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。様々な社内外からの抵抗にあったものの、この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1975年にはラウダがドライバーズチャンピオンを獲得する[50]などチームを立て直し1977年まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任する。
なお1969年には、かねてから関係の深かったカロッツェリア・スカリエッティと資本関係を結んだ(その後1977年に同社を買収し、ボディ製造部門とする)[51]ほか、1972年にはマラネッロの本社工場の西側にある果樹園を取得し、新たにF1をはじめとするレース専用車や市販車のテストコースとして使われる「フィオラノサーキット」が造られ[52]、併せてサーキット内にエンツォの別宅やピットなども設けられるなど、フィアット・グループの傘下に入ったことで流れ込んだ資金と人材を、市販車とレース部門に積極的に活用し始める。しかしながら、本社正門前にある「リストランテ・キャバリーノ」が1975年に売却されている(しかしその後も同社は事実上関係会社と思われている)。
1973年には、名車と称された「365GTB/4」を引き継いでフェラーリのトップレンジを担う12気筒モデルとして「365GT4BB」が登場した[53]。同車はフェラーリの市販車として初めて最高時速300キロを超えるモデルとなり(公称時速302キロ)[54]、またV12気筒ミッドシップはその後約20年に渡り生産されるヒット車種となる。
- V型8気筒エンジンの登場
市販車部門を親会社のフィアットの意向が支配するようになった結果、6気筒エンジンを搭載した「206/246」に代わる最廉価モデルかつミッドシップの量産2シーターとして、1975年に「208/308」が生まれた[55]。これらのモデルは新たに開発されたV型8気筒エンジンを、ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたFRPボディに搭載した(これはイタリアの労働ストライキにより当初予定していたスチール製ボディの生産が間に合わなくなったためであり、1977年には通常のスチール製ボディに戻された[56])。
これらのV型8気筒エンジンを搭載したモデルは、6気筒エンジン搭載モデルとは違い最初からフェラーリブランドが与えられ「ピッコロ・フェラーリ(小型フェラーリ)」と称された。「ピッコロ・フェラーリ」シリーズは、「208/308」の後継モデルの「228/328」や、「208GT4/308GT4」の後継モデルの「モンディアル」と併せて2万台以上が生産される、フェラーリ史上最大のヒット作となった[57]。
さらに「208/308」と「モンディアル」に搭載されたV型8気筒エンジンは、高い性能と汎用性を生かして、フィアットの意向を受けてフィアット・グループ内のランチアの世界耐久選手権(WEC)参戦用のレーシングマシン「LC2」にも使用されたほか、1980年代には同社の高級セダンである「テーマ8.32」に使用された[58]。
この時に始まったフェラーリのV型8気筒路線はその後「348」、「F355」、「360」、「F430」や「カリフォルニア」、「458イタリア」、そして現在の「488GTB」と「ポルトフィーノ」へと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの収益の屋台骨を支える系譜となった[59]。
なお、同時期に12気筒エンジン搭載モデルの刷新も行われ、「365GT 2+2」は「365GTC/4」を経て1972年に発表された「400」に、1973年に発表された「365GT4BB」は1976年に改良版である「512BB」に引き継がれ[60]、さらに1984年には新設計のミッドシップに12気筒エンジンを搭載した「テスタロッサ」とその後継の「512TR」へ引き継がれた。
- その後のエンツォ
エンツォは1977年にはフェラーリの会長職を退くものの、その後も市販車からスクーデリア・フェラーリの運営まで大きな影響力を保ち続けた。さらに1981年にはスクーデリア・フェラーリの代表としてF1のコンコルド協定締結の立会人となるなど、F1界で多大な発言力を有していた。また1987年には、FIAゴールドメダルを受賞している。
その為もあり、イタリア国内では「北の教皇」(南の教皇とはヨハネ・パウロ2世)と呼ばれるほどモータースポーツや自動車業界への影響力は大きかった。
- 限定生産
1984年には、WRC(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーであるグループBのホモロゲーション(参戦公認)を得ることを目的に「288GTO」を開発したものの、WRCで戦うマシンのトレンドが四輪駆動車に急激に移りつつあったために参戦を断念し、限られた台数が生産され販売された。
「288GTO」は、あくまでグループBの公認を取得するための規定生産台数をクリアするため限定生産となったものであり、わずか272台が生産されたに過ぎなかった[61]が、その後「288GTOエボルツィオーネ」を経て、創業40周年記念モデルの「F40」が限定生産、販売され、生産開始直後のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博し、更には「F40 コンペティツィオーネ」や「F40 LM」も生産されたことから、以降はこのような限定生産を節目の年に行うことになる。
創業50周年を迎えた1997年には「F50」[62]、創業55周年には、当時ピニンファリーナに在籍していた日本人デザイナーの奥山清行がデザインした「エンツォ・フェラーリ」[63]、そして2013年にはフェラーリとして初めてのハイブリッドである「ラ フェラーリ」や「ラ・フェラーリ・アペルタ」といった限定生産モデル(スペチアーレ)や、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」や「599GTO」、「SA アペルタ」や「F12 TdF」などの既存車種を改良した限定生産モデルを発表し、フェラーリ自らが選択した顧客に対して販売している[64]。
- エンツォの死
80歳を超えてもエンツォは多忙な公務にいそしんでいたものの、1988年2月1日にモデナ大学から物理学の名誉学位を授与された際の式典以降は社外に姿を現さなくなり、6月にヨハネ・パウロ二世がマラネッロの本社工場を訪問した際にもメッセージのみで姿を現さなかったことから、イタリアのマスコミからは「深刻な状態にあるのではないか」と噂された。
実際にエンツォはこの時腎不全に侵されており、その後も賢明な治療を続けたものの、回復することなく8月14日に没した。90歳であった。なお、夏の休暇を考慮され、発表は8月17日に行われた。イタリアが世界に誇る自動車会社の創始者かつ、F1世界選手権におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際して、イタリア全体が喪に服した。
生前に行われた取り決め通り、エンツォが所有していた株はかねてから資本関係にあったフィアット・グループによって買われ、フェラーリはレース部門も含めて完全にフィアット・グループの管理下に収まった。しかしその後も、リナ・ラルディとの間に生まれた次男のピエロ・ラルディ・フェラーリが、議決権のあるフェラーリの株を10パーセント所有し、フェラーリの副会長を務める[65]など、「創業家」であるフェラーリ家との繋がりは保ち続けている。
- エンツォ亡き後の混乱
エンツォ亡き後、一部のマスコミからは「エンツォのいないフェラーリはフェラーリ足り得るか」と言われるなど、その行き先が危惧された[66]。
さらに当時のフェラーリは、長年投資を怠っていた市販車部門の生産設備が旧退化し、品質管理と生産効率、収益性に大きな問題を抱えていた上に、「412i」や「モンディアル」などの中心モデルの旧退化がすすんでいたが、このような経営上の問題を解決するべく強いリーダーシップを取り、さらに親会社のフィアットからの必要にして十分な投資を取り付けることができることのできる人材に欠いていた。
またスクーデリア・フェラーリも、毎年チャンピオン争いに絡む位置にいながらも、ドライバーのナイジェル・マンセルやアラン・プロストと、監督のチェーザレ・フィオリオとの対立やドライバーによるチーム批判をはじめとしたお家騒動が災いして、チャンピオンを取り逃すことが続いていた。さらにこれらの混乱に嫌気がさしたデザイナーのジョン・バーナードやスティーブ・ニコルズが突然チームを脱退するなど悪循環に陥っていたが、このような混乱を収拾できるものはいなかった。
- モンテゼーモロによる改革
この様な状況を解決すべく、エンツォの死後3年が経過した1991年11月には大株主のフィアットのジャンニ・アニエッリ会長の肝いりで、かつてはエンツォの下でスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして辣腕を振るい、サッカーワールドカップ・イタリア大会の事務局長を務めたルカ・ディ・モンテゼーモロがフェラーリ社長に就任した。
モンテゼーモロは就任後ただちに市販車部門の品質と生産効率の向上に着手し、かねてからその品質の低さや剛性不足が指摘されていた「348tb/ts」の大幅改良版である「F355」や、「412i」の生産中止以来途絶えていた2+2モデルの後継となる「456GT」、12気筒エンジンを搭載したフラッグシップモデルとして久々にフェラーリ伝統のフロントエンジンレイアウトに回帰した「550マラネロ」や、空力を突き詰めたスタイリングやアルミを多用したボディなど、完全に新設計となった8気筒モデルの「360モデナ」などの新型車を次々に開発、市場に投入した。
これらの新型車は、劇的な品質の改善と新技術の導入による高性能化や故障の低減、内装の質感の向上、そして安全性の向上のみならず、セミAT「F1」やパワーステアリング、アンチロックブレーキやフルオートエアコンなどの安全装備や快適装備の積極的な投入、車内の手荷物スペースやトランクルームの容量の拡充などにより[67]、運転初心者や女性、道路状況が劣悪な後進国など、これまでフェラーリに手を出すことのなかった新たなオーナー層の拡大に成功し、世界各国の市場においてこれまでにない好調な業績を上げた。
また1993年には、「348チャレンジ」によるワンメイクレース「フェラーリ・チャレンジ」が開始された。その後同シリーズは1994年から北アメリカ、2011年にはアジア太平洋で開催されるなど世界各国へと開催地を広げ、フェラーリのブランドイメージ向上と収益向上に貢献することになる[68]。
新体制を率いて改革を成し遂げたモンテゼーモロはその手腕を買われ、ジャンニ・アニエッリ会長の死後の2004年6月に、親会社のフィアット・グループの会長に就任することになった。モンテゼーモロは会長就任後ただちにフェラーリの傘下にマセラティを加えて、マセラティにフェラーリのV型8気筒エンジンを搭載し、さらに製造工程においても一部の工程を統合させるなど、ブランドイメージの向上と生産における合理化を同時に行うことで、フィアット・グループに買収する以前から長年経営状況が安定しなかった同社を復活させ、さらにはジェネラル・モーターズとの経営統合が破談になるなど苦境に陥ったフィアット・グループをも建てなおした[69]。
- スクーデリア・フェラーリの改革
さらにモンテゼーモロは、F1において長年チャンピオンの座から遠ざかっていた(コンストラクターズ選手権は1983年以降、ドライバーズ選手権はジョディー・シェクターが獲得した1979年以降)だけでなく、お家騒動が続き優勝すらおぼつかなくなっていたスクーデリア・フェラーリの改革も進めることになる。
新体制を敷いたスクーデリア・フェラーリは直ちに好成績を上げるには至らなかったものの、1994年以降にはゲルハルト・ベルガーとジャン・アレジが勝利を挙げたほか、コンスタントに表彰台に立つなど成績が向上した。改革が進んだ1999年には16年ぶりのコンストラクターズ・チャンピオンを獲得し、2000年にはミハエル・シューマッハが21年ぶりのドライバーズ・チャンピオンを獲得した[70]。
さらにエディ・アーバインやルーベンス・バリチェロ、ミカ・サロなどの経験豊富なドライバーと、ジャン・トッド監督やロリー・バーン、後藤治やロス・ブラウンなどの国籍にこだわらないメンバーが開発に関わった戦闘力の高いマシンを投入し、2000年代前半にはコンストラクターズ部門とドライバーズ部門の両方で複数年連続でタイトルを奪取するなど、再び絶頂期を迎えることとなった[71]。
- 好調な収益
2007年には設立60周年を迎えた。同年のF1では、コンストラクターズ・チャンピオンを獲得するとともに、キミ・ライコネンがドライバーズ・チャンピオンを獲得した。2008年には初のクーペカブリオレで、2+2シートと実用的なトランクを装備した「カリフォルニア」を発売したほか、同年には、フェラーリにとって伝統的な主力市場である日本にアジア初の現地法人を立ち上げるなど[72]、積極的な経営戦略を実施した。
そのかいもあり、世界金融危機(リーマン・ショック)後に世界経済が低迷し、親会社のフィアットが他社との資本提携を模索した他、いくつかの自動車メーカーが破産や事業停止を余儀なくされた中でも、ヨーロッパ諸国や日本、アメリカや中東などの主要市場で好調な販売実績を維持した[73]上に、中華人民共和国やインド、ロシアなどの新興国において積極的な事業展開を進めた結果、好調な業績を維持し続けた。
なお、モンテゼーモロが顧客の間に飢餓感をあおり希少性を維持するために年間生産台数を抑制する政策を取ったため、そのような中でも高収益を維持すべく、2000年代後半から2010年代にかけては、中古のF1マシンの販売とメンテナンスを行う「F1クリエンティ」や[74]、「FXX」や「599XX」等の台数限定のサーキット走行専用モデルの開発と販売、メンテナンスを行う「XXプログラム」を開設した[75]。
さらに注文主の求めに応じて世界に一台しかない特注車を製作する「ワンオフ/フォーリ・セーリエ」の製造再開、製造から20年以上経過したモデルのレストア及び承認プログラムである「フェラーリ・クラシケ」の設立など、高い技術とノウハウ、そして歴史と高い名声を生かして顧客の様々な要求に答える上に、高い収益性を持つ様々なプログラムを提供している。
同時期には、フェラーリの世界的に高い知名度と人気を生かしたブランド(ライセンス)ビジネスも好調に推移し、専門部署を設立するなど商標管理を徹底した上に、衣類やミニカーのみならず、携帯電話やセグウェイに至るまで様々なジャンルの企業と提携を進めた結果、収益の3割を占めるほどに成長した。
- 環境対策
2000年代中盤以降は、ヨーロッパの自動車メーカーに与えられた市販車の二酸化炭素排出規制などに対する環境対策に本格的に力を入れ始めており、2009年にはフェラーリ初のV型8気筒直噴エンジンを搭載した「458イタリア」の販売を開始したほか、2010年1月にはマニエッティ・マレリと共同開発したフェラーリ初のハイブリッド機能「HY-KERSシステム」を搭載した試作車である「599 HY-KERS」を公開した[76]。
同年には、フェラーリ初のアイドリングストップ機能や燃料ポンプ、電動エアコンの圧縮制御などのパフォーマンスを維持しつつ環境負荷を減らすシステム「HELE」を搭載した「カリフォルニアHELE」を発表した[77]。高性能と低燃費の両立を目的にした「HELE」(「High Emotion Low Emission」の略である)システムは、「458イタリア」や、2011年に発表された、フェラーリ初の4輪駆動システムを持つ[78]V型12気筒直噴エンジン搭載の4座シューティングブレーク「FF」(フェラーリ・フォー)や、2012年に発表された当時のトップモデルの「F12ベルリネッタ」にも搭載されている[79]。さらに環境対策に関心の高い日本市場においては、同システムは全ての市販車種に標準装備された。
2013年には、「HY-KERS」システムを搭載したフェラーリ初の市販ハイブリッドカーである「ラ フェラーリ」を、2014年にはヤス・マリーナ・サーキットで開催された「フィナーリ・モンディアーリ」において、「ラ フェラーリ」をベースにしたサーキット走行専用モデルの「FXX K」を発売した[80]。なお「ラ フェラーリ」発売当時にモンテゼーモロ会長は、今後のハイブリッドモデルのラインナップ拡充に含みを持たせたが、「完全な電気自動車を発売する事は考えていない」とコメントした。
しかし、ヨーロッパにおける規制強化などから市販車の二酸化炭素排出規制などに対する対策は急務とされ、2014年に発表された「カリフォルニアT」と、2015年に発表された「488GTB」では、さらなる高性能と低燃費の両立を目的にしてV8エンジンのターボ化が行われた。なお、フェラーリにおいてターボエンジン搭載の市販車が発売されるのは、1990年代初頭にF40が生産中止になって以降20数年ぶりの事である[81]。
- モンテゼーモロ退任
金融危機終息後の世界的な好景気を背景に、全世界での販売が好調を続ける中でも2010年代に入って以降はF1では低迷が続き、コンストラーズ・チャンピオンを獲得できない年が続いた[82]ことで、長年フェラーリを率いてきたモンテゼーモロ会長の指導力を問う論調がイタリアのメディアを中心にささやかれた[83]。
さらに、ニューヨーク証券取引所上場とその後の経営戦略、さらにフェラーリ会長を務めながら、トッズやポルトローナ・フラウ、ヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリなどのフェラーリとの取引がある複数の企業に投資し経営陣に名を連ねていること[84]などを巡って、モンテゼーモロ会長と、エンツォの息子でフェラーリの副会長のピエロ・フェラーリ[85]や、フィアット・クライスラー・オートモービルズ (FCA) の最高経営責任者となったセルジオ・マルキオンネとの間の確執が、2013年頃からイタリアのメディアを中心に伝えられた。
2014年9月には、F1イタリアグランプリの開幕直前にイタリアのメディアを中心にモンテゼーモロの退任が噂されたものの、F1の現地を訪れた本人はこれを否定した[86]。しかし同月に、1970年代にスクーデリア・フェラーリの立て直しを行った後にフェラーリに戻り、24年に渡ってフェラーリの経営を引っ張ってきたモンテゼーモロの退任が発表された[87]。11月に退任した後はマルキオンネがフェラーリ会長を兼務することとなった。
- 上場と再独立
2015年10月21日にはマルキオンネやピエロ・フェラーリ、ジョン・エルカーンやアメデオ・フェリーザら経営陣の立会いの下でニューヨーク証券取引所に上場した。取引の際に使われる証券コードは「RACE」を採用している[88]。
なお、上場により収益の継続的向上を迫られたことから、デザインを1950年代以来委託してきたピニンファリーナ[89]から社内のデザインセンターに一本化するなど内製率を向上させるほか、これまではあえて抑制していた生産台数の増加を検討するなど、新たな経営戦略を検討、導入することになった。
2016年1月3日に、FCAはフェラーリの同グループからの離脱独立の手続きが完了したと発表するとともに、登記上の本社をイタリアからオランダのアムステルダムに移した。
これでフェラーリは再び独立した会社となったが[90]、その後もエクソールが大株主でアニエッリ家が経営に影響力を持ち続けることには変わりはなく、マルキオンネがフェラーリ会長を兼務することや、マセラティやアルファロメオのエンジンの委託生産が本社工場で引き続き行われるなど、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在であることは変わらない。
- 現在
2017年に会社創立70周年を迎え、マラネッロ本社とフィオラノや主力市場の日本、イギリス、アメリカ、そしてオーストラリアやシンガポール、香港をはじめとする各国で70周年記念イベントが開催されたほか[91]、現行生産車種の創立70周年記念バージョンが台数限定で発売された[92]。
市販車部門やブランドライセンスによる収益は好調なものの、新体制下になりチーム代表にマウリツィオ・アリバベーネが就任し、成績の向上が期待されたスクーデリア・フェラーリは、キミ・ライコネンとセバスチャン・ベッテルという経験豊富な元チャンピオン2人を抱えているものの、モンテゼーモロ時代の2008年以降、コンストラクターズチャンピオンが獲得できない状態が続いている[93]。
また、2018年7月にマルキオンネ会長が肩の手術を受けたものの、その後容態が急転し死去した。これを受けてジョン・エルカンが会長に、ルイス・キャリー・カミレッリがCEOに就くことが急遽発表された。
車種一覧
純正オプション
- カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム
全車種ともにフェラーリ純正パーツやアクセサリーを選択できるのみならず、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」と呼ばれるオプション・プログラムにより用意された数多くの内装色や外装色、内装の素材などを、好みの通りに組み合わせることができる(追加料金が必要)。なお、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」に対応した専用施設として、マラネッロの本社や正規販売代理店のショールーム内に「フェラーリ・アトリエ」が設置されている[94]。
- テーラーメイド・プログラム
さらに「スクーデリア」、「クラシカ」、「インエディタ」の3つのスタイルを基本とし、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」によって用意された内外装の仕様以外の好みのものを自由に選ぶことができる「テーラーメイド・プログラム」が2012年より導入された。
通常のオプションでは用意されていないようなデニムやカシミア織りの生地にした内装や、ニキ・ラウダ時代のスクーデリア・フェラーリのF1マシンからインスピレーションを受けた内外装など、まさに自分の意のままの内外装に仕立て上げることができる[95]。なおこのプログラムは、ジャンニ・アニェッリの孫で元フィアットの国際マーケティング部長のラポ・エルカンが主導し導入された。
限定生産モデル
2000年代以降に生産台数が年間数千台になってからも、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」(2000年)や「575スーパーアメリカ」(2004年)、「スクーデリア・スパイダー16M」(2010年)、「599GTO」(2010年)や「SAアペルタ」(2010年)、「F60アメリカ」(2014年)や「セルジオ」(2014年)、「458スペチアーレ・アペルタ」(2014年)や「F12TdF」(2015年)、「J50」(2016年)など、既存のモデルを元に製作された限定生産モデルを生産している。
これらの限定生産モデルの多くが、既存のモデルの高性能版であったり(「599GTO」や「F12TdF」)、オープンモデル(「550バルケッタ・ピニンファリーナ」や「SAアペルタ」)である。また「GTO」や「スーパーアメリカ」、「TdF」などの、過去に「名車」と称されたモデルで使用された名称がつけられることが多い。
また発表時に生産台数(世界で数台から数百台)がアナウンスされた上で、フェラーリ本社と各国の現地法人、もしくは正規ディーラーが選択した、F1クリエンティやXXプログラム、フェラーリ・チャレンジに参加しているオーナーやワンオフモデルのオーナー、または過去に正規ディーラーから限定生産モデルを含む複数台数を購入したことがあるような、身元がはっきりした優良顧客に対してのみ生産開始前に案内、販売される[96]。なお過去には日本やアメリカなどの重要市場のみで販売される限定モデル(「J50」や「F60アメリカ」)もあった。
これらの限定モデルは上記のように生産台数がごくごく限られていることもあり、多くの場合、これらの優良顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。なお優良顧客への案内時には、スペックや価格、納期などの詳細のみならず、デザイン画すら提示されないケースも多い。
スペチアーレ
フェラーリはかねてからFIAのホモロゲーション取得を目的に、一から設計された限定生産台数モデルを生産、販売してきたが、1984年にグループB参戦のためのホモロゲーション取得を目的として、「308シリーズ」を元にほぼ一から設計された「288GTO」を開発し、限られた台数を生産し販売した。その後1987年に創業40周年を記念したモデルとして「F40」が限定生産、販売されたが、翌年のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博したことから、初期に設定していた限定生産数を大幅に超える台数を生産した[97]。
以降フェラーリはこのような「スペチアーレ」と呼ばれることになる、一から設計された限定生産モデルを節目の年に出すことになり、創業50周年の1997年には「F50」を、創業55周年の2002年には「エンツォ」を、2013年には「ラ フェラーリ」と、それぞれ数年の間をおいて限定生産モデルを発表している。
これらの車種は、限定生産モデルと同様に、「F40」のオーナーとして著名であった世界的テノール歌手のルチアーノ・パヴァロッティ[98]や、フェラーリマニアとして知られる「ピンクフロイド」のニック・メイスンや「ジャミロクワイ」のジェイ・ケイ[99]などの、過去に「スペチアーレ」を正規ディーラーを通じて購入したオーナー(並行輸入や中古での購入者は対象外)やワンオフモデルのオーナー、F1クリエンティやXXプログラム、フェラーリ・チャレンジの顧客をはじめとする、フェラーリ本社と各国の現地法人が選択した顧客に対して、1号車の完成より前の段階で案内される[100]。
場合によっては、案内時にスペックやデザイン、価格などの仕様詳細が決定していない上に、限定生産モデルよりも高価にも関わらず、多くの場合、これらの顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。
これらの「スペチアーレ」には、その後の生産モデルに採用される新機軸やテクノロジー、デザインモチーフが先取りして用いられることも多く、フェラーリの最新テクノロジーのショーケースとなるのみならず、優良顧客の囲い込みと優良顧客育成のツールとなっている。
ワンオフモデル/フォーリセーリエ
創業-1950年代末
創業以来1950年代末ころまでフェラーリは、大富豪や王族、貴族などの特別な要求に答えるべく、市販モデルやレーシングモデルを元に製作した世界に1台の特注車両「ワンオフモデル/フォーリセリエ」を製作、販売していた。
この中でも特に著名なのが、イタリアの有名な映画監督のロベルト・ロッセリーニが、妻で女優のイングリッド・バーグマンとともに乗るためにオーダーしたとされる、「375 MM」を元に1954年に注文した「375 MM ピニンファリーナ・ベルリネッタ・スペチアーレ」[101]や、1959年にフィアットのジャンニ・アニエッリが注文した「400 スーパーアメリカ・ピニンファリーナ」などである。
その他にもレオポルド3世やバオ・ダイ帝、アーガー・ハーン4世やファン・ペロンなどのそうそうたる王族や独裁者、大富豪がワンオフを発注し、フェラーリの下でピニンファリーナやトウーリング、ヴィニャーレやボアノなどのボディが載せられ、それぞれが現在でも高い評価を受けている。
しかしフェラーリは、様々な理由からその後ワンオフモデルの受注を受け付けなくなり、このようなモデルの製造はピニンファリーナやザガート、ベルトーネやミケロッティなどのカロッツェリアが独自に行うようになった(なおその後も、1980年代にフィアットのアニエッリ会長向けに「テスタロッサ」のスパイダー仕様が製作された他、2000年にはアニエッリ会長からモンテゼーモロ会長に向けたプレゼント用に「360スパイダー・バルケッタ」が製作されるなど、経営陣向けにごく少数のワンオフモデルが生産されることはあった[102])。
2008年以降
しかしその後約50年を経て、世界的に著名な日本のフェラーリのコレクターで、フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの元会長(かつフェラーリ・オーナーズ・クラブ・ジャパンの発起人)で実業家の平松潤一郎[103]の依頼を受けて、モンテゼーモロ会長がワンオフモデルの製作を了承した。
その後制作を開始し、2008年にピニンファリーナのデザイナーであったレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたワンオフモデル「SP1」が完成した[104]。これが高い評価を受けたため、これ以降フェラーリは、数十年ぶりに自社の手によるワンオフモデルの受注、製作を再開した。
2008年に平松が「SP1」の製作を依頼して以降、2018年までに10台(うち1台は未完成)のワンオフモデルの存在がフェラーリより正式に発表されている。なおそのうちの2台が世界6大市場の1つである日本人オーナーによる依頼である。
これらのワンオフモデルは、製造の依頼と着手金の支払いを受けてから、フェラーリ本社の担当部署と現地法人の担当者、正規ディーラーの担当者と発注主との間で多くのやり取りがなされるため、完成までに数年がかかる。価格は非公開で、オーナーの依頼により複数台が製造されることもある(実際に「SP1」も2台が製造されている)。
なお、これらのモデルは完成しオーナーに引き渡される時点で「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される。また、転売による価格高騰や、転売先のオーナーによるフェラーリの手を経ない改造を防ぐため、全てのワンオフモデルはフェラーリが買い戻す権利を持つ。
ワンオフモデル一覧(2008年以降)
- SP1(2008年/オーナー:平松潤一郎[105])基礎となったモデル:F430
- P540 スーパーファスト・アペルタ(2009年/オーナー:エドワード・ウォルソン)基礎となったモデル:612スカリエッティ
- スーパーアメリカ 45(2011年/オーナー:ピーター・カリコウ)基礎となったモデル:SAアペルタ
- SP Arya(2012年/オーナー:チェラグ・アルヤ。デザイン発表後に基礎となったモデルが変更された上に、最終的に完成しないままとなった)基礎となったモデル:599GTO>F12ベルリネッタ
- SP12 EC(2012年/オーナー:エリック・クラプトン)基礎となったモデル:458イタリア
- SP FFX(2014年/オーナー:名前非公開の日本人[106])基礎となったモデル:FF
- F12 SP アメリカ(2014年/オーナー:ダニー・ウェグマン)基礎となったモデル:F12ベルリネッタ
- F12 TRS(2014年/オーナー:名前非公開)基礎となったモデル:F12ベルリネッタ
- 458 MMスペチアーレ(2016年/オーナー:名前非公開のイギリス人)基礎となったモデル:458イタリア
- SP275 RW コンペティツォーネ(2016年/オーナー:名前非公開)基礎となったモデル:F12tdf
- SP38(2018年/オーナー:デボラ・マイヤー)基礎となったモデル:488GTB
非公認ワンオフモデル
上記のようなフェラーリ公認のワンオフモデル以外にも、ザガート(ガレーヂ伊太利屋代表の林良至のオーダーによって製作された「575GTZ」など)やミケロッティ(サウジアラビアの王子のために内田盾男によりデザインされた「メーラS[107]」など)、ピニンファリーナ(ブルネイのハサナル・ボルキア国王向けに複数台が製作された「456」のステーションワゴンモデル「456ベニス[108]」など)などの、フェラーリと縁の深いイタリアのカロッツェリアの手で、市販フェラーリを改造した世界に1台もしくは数台しか存在しないワンオフモデルが製作されたことがある。
これらはフェラーリが自らの手で製作したモデルではないため、フェラーリ公認のワンオフモデルとは厳密に区別されている。しかし、その多くが歴史的価値から「フェラーリ・クラシケ」のファクトリーで整備され、「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される対象になっている。
コンセプトモデル/ミューロティーポ
下記にはフェラーリ自らが新技術やデザインテーマを試すことを目的に製作し、「コンセプトカー/ミューロティーポ」として発表したモデルのみを明記する。なおこれ以外にも、フェラーリ自らの手で製作されたものの、外部に対して正式に発表されなかった試作車的モデル「ミューロティーポ」が多数存在する。
また、ピニンファリーナやザガート、ベルトーネやミケロッティなどの外部カロッツェリアが、量産モデルを元にコンセプトカーとして製作、発表したものは除く。
- 365Pグイダチェントラーレ(1966年)
- P5(1968年)
- レインボー(1976年)
- 408 4RM(1987年)[109]
- モンディアルPPGペースカー(1989年)
- エンツォ・プロトタイプ・M3(2000年)[110]
- ミレキリ(2007年)
- フェラーリ・F430バイオ・フューエル(2008年)
- 599HY-KERS(2010年)[111]
フェラーリ・アプルーブド
導入
2000年代後半に、正規販売代理店と正規サービスセンターのみで発売される、新規登録より14年以内でかつフェラーリ・テクニシャンによる所定の検査と、車輌の履歴とメンテナンス履歴の確認をパスした中古のフェラーリのみが対象となる認定中古車制度「フェラーリ・アプルーブド」が導入された[112]。
付帯サービス
正規販売代理店と正規サービスセンターのみで扱われる対象車には、全てのフェラーリに義務付けられた納車前の190項目におよぶ点検や、必要な場合の認定パーツへの交換が行われるほかに、車歴に応じてエンジンやトランスミッション、サスペンションなどへの12カ月間および走行距離無制限の補償と証明書が与えられる他、24時間/365日対応のロードサイドアシスタンスなどの「フェラーリ・パワー補償」が12カ月間付帯される[113]。また購入より1年間「フェラーリ・マガジン」が無償で送付される。
フェラーリ・クラシケ
レストア
1980年代後半以降にクラシックカーの取引価格が高騰し、コレクターや投資家を騙す目的で製作された贋作がオークションなどを通じて市場に出回ったことや、コレクターによるレストアサービスに対する需要が高まったことから、2006年に「フェラーリ・クラシケ(Ferrari Classiche)」と呼ばれる、生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリに対するレストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う部署が置かれることになった。
現在は、マラネッロの本社内におかれた本部において、レストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う専用のファクトリーが置かれているほか、これまでに生産されたフェラーリについての膨大な資料が保管されている。
認証委員会
またこれらの資料を基に、ピエロ・フェラーリ副会長率いる認証委員会(「Comitato di Certificazione/ COCER」)が、生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリやワンオフや限定車種のみならず、一般オーナーに向けて販売されたF1マシンをはじめとするレーシングカー、そして販売後社外カロッツェリアによって手を加えられたものの、世界的なレースでの実績やコンクール・デレガンス出展などの経歴があり、特にフェラーリが認めた車輌などの特別なフェラーリに対する鑑定を行い、パスした車体に対して真贋鑑定書も発行する[114]。
鑑定書
生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリは、オリジナルの状態が保たれたもの、もしくは純正でない部品を使用していた場合は、純正のものに戻し認証委員会が認証した場合のみフェラーリ・クラシケの鑑定書が発行される。なお、一般オーナーに向けて販売された中古のF1マシンやXXプログラムのマシンと、「458MMスペチアーレ」などのワンオフや「ラ・フェラーリ」などのスペチアーレ、「F12tdf」や「セルジオ」をはじめとする一部の限定市販車は、オーナーへ引き渡される時点でフェラーリ・クラシケの鑑定書が発行される。
しかし、市販車はフェラーリの手を経ない改造がされた場合に、F1マシンやXXプログラムのマシンは、コルセ・クリエンティ部門を通じたメンテナンスを行なわずに純正でない部品を使用した場合は鑑定書が無効となる。
また、マラネッロに車輌を持ち込めない地域にある場合、正規販売代理店と正規サービスセンターが鑑定の申し込み代理を行う。日本においても全ての正規販売代理店と正規サービスセンターが鑑定の申し込み代理を行えるほか、東京都江東区の「コーンズ東雲サービスセンター」と大阪府大阪市の「コーンズ大阪サービスセンター」に、メンテナンス、修理、及び鑑定書の発行を専門に行うためのトレーニングを受け資格を有したサービス・テクニシャンが駐在する「オフィチーナ・フェラーリ・クラシケ」が設けられている。
モータースポーツ
イタリアのナショナルチーム
1947年の創業以来、フォーミュラカーレース(F1・F2)、スポーツカーレース(プロトタイプ・GT)など様々なカテゴリーに幅広く参戦しており、数多くの勝利を獲得している。イタリアのナショナルカラーの赤がチームカラーとなっているなど、イタリアのナショナルチーム的存在である。
特に、F1世界選手権では1950年の選手権初年度から唯一参戦を続けているチームであり、これまでに史上最多となる16度のコンストラクターズチャンピオンを獲得している[115]。かつ数少ないエンジンとシャシー両方を製作するコンストラクターであることから、強い発言力を持つとされる。
スポーツカー世界選手権では1950年代から1960年代にかけて一時代を築き、ジャガーやフォード、ポルシェやマセラティと覇権を争ったほか、「ミッレミリア」[116]や「タルガ・フローリオ」、「ル・マン24時間レース」や「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」などのレースで数多くの優勝を飾っている。
また、ワークス参戦するだけではなく、創業当時からマルゾット兄弟率いる「スクーデリア・マルゾット」やアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵、ブルーノ・ステルツィ伯爵のようなプライベートでレースに参戦する貴族や大富豪、また「ノースアメリカン・レーシングチーム[117]」や「シャルル・ポッツィ[118]」、「エキュリー・フランコルシャン」や「クレパルディ[119]」、「ベランカオート」などのディーラーチームにマシンを供給していた。
分割
なお、フィアットによるフェラーリ買収後の1974年以降は、ワークス(スクーデリア・フェラーリ)の活動をF1世界耐久選手権に一本化し、それ以外のカテゴリーは「コルセ・クリエンティ」に一本化され、マシンの開発は「ミケロット」などの社外パートナーの協力を受けて行っている。
FIA 世界耐久選手権やブランパンGT選手権、スーパーGTやスーパー耐久など各選手権への参戦も「AFコルセ」のようなセミワークスチームを通じて、もしくは「RACING WITH FERRARI」のロゴの使用を許可されたプライベートチームへのマシン供給に限っている。
その中にはラリーも含まれ、1981年には「ミケロッティ」と「シャルル・ポッツィ」によりグループ4仕様に改造された「308GTB」が「ツール・ド・フランス・アウトモビル」で優勝し、1982年の「ツール・ド・コルス」ではWRC最高位の2位を獲得している。
F1
上記のように、1950年にF1世界選手権が始まって以来、現在も継続して参戦している唯一のコンストラクターである[120]。現在もエンジンとシャシーの両方を開発、製造する数少ないコンストラクターの1つで、過去16回チャンピオンを獲得しているF1の象徴的存在である。
イタリアのナショナルチーム的存在にも拘らず、エンツォの生前からイタリア人にこだわらずにファン・マヌエル・ファンジオやフィル・ヒル、ニキ・ラウダやミハエル・シューマッハ、そして現在ドライバーを務めるキミ・ライコネンとセバスチャン・ベッテルなどの才能豊かな外国人ドライバーや、ジャン・トッドやハーベイ・ポスルスウェイト、後藤治やジョン・バーナード、浜島裕英やニコラス・トンバジスなどの外国の経験豊かな監督や技術者を積極的に選択することでも知られている。
また1990年代より、「ミナルディ」や「ザウバー」、「ハース」など、他のチームへのエンジン供給も行っている。なお現在、F1は本社内の「ゲスティオーネ・スポルティーバ(Gestione Sportiva/ GES)」部門内で、開発から製造、参戦まですべてを手掛けている。
コルセ・クリエンティ
現在、F1世界選手権以外のモータースポーツは、「コルセ・クリエンティ(Corse Clienti/顧客レース部門)」と呼ばれる部門内の、「コンペティツオーニGT」、「フェラーリ・チャレンジ」、「XXプログラム」そして個人顧客が中古のF1マシンを所有し走らせる「F1クリエンティ」の各部署が統括している。
コンペティツオーニGT
FIA 世界耐久選手権やブランパンGT、SUPER GTなどで「AFコルセ」などのセミワークスや「Racing with Ferrari」のロゴの使用が許可されたプライベートチームのサポートは「コンペティツオーニGT」がサポートしている。
現在は「488GT3」や「488GTL」などのマシンで戦われており[121]、これらのマシンの開発と製造については「ミケロット」に社外委託している。なお、現在はGTマシンは個人顧客への販売は認められておらず、実績のあるガレージを持つレーシングチーム以外への販売以外は認められていない。
フェラーリ・チャレンジ
ジェントルマンドライバーによるワンメイクレース「フェラーリ・チャレンジ」を、ヨーロッパとアジア太平洋、北アメリカの各地域で開催している。
現在は「488チャレンジ」で開催されており、同選手権のマシンの開発と製造については「ミケロット」に、メカニックのサポートは「AFコルセ」に社外委託している。
XXプログラム
「599XX」や「FXX」、「FXX K」などの、最新技術が搭載されたサーキット専用車で個人オーナーがサーキットを走行することで、今後の車輌開発に役立てるデータ収集を行っている。
なお、各マシン30台程度が限られたオーナーに販売されており、マネージメント及びオーナーへのサポート、マシンの販売及び管理は全て「XXプログラム」が行っている[122]。
F1クリエンティ
中古のスクーデリア・フェラーリのF1マシンと「333SP」を所有する個人オーナーへのマネージメント及びオーナーへのサポート、マシンの販売及び管理を、GES部門と協力して行う「F1クリエンティ」[123]がある。
なお、各国の正規販売代理店で販売された市販車のオーナーで、かつフェラーリと正規販売代理店に承認された顧客に限り、フェラーリまたは各国の拠点を通じて中古のF1マシンを購入することが可能である[124]。
また、2014年シーズン以降のF1マシンについては、「KERS」システムの管理上の問題により中古の販売を中止することが決定された[125]。
主な成績
主な選手権・イベントにおける製造者部門(マニュファクチャラー/メーカー)の成績を以下に記す。なお、世界三大レースに数えられるインディ500へは、1952年に1度挑戦したのみで優勝はない。
- F1世界選手権:16回(1961年、1964年、1975年、1976年、1977年、1979年、1982年、1983年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2007年、2008年[126])
- スポーツカー世界選手権
- 総合優勝:7回(1953年、1954年、1956年、1957年、1958年、1961年、1972年)
- GTクラス:3回(1962年、1963年、1964年)
- プロトタイプクラス:4回(1963年、1964,1965,1967年)
- FIA スポーツカー選手権:1回(2001年)
- FIA 世界耐久選手権
- GTクラス:1回(2012年)
- IMSA WSC:2回(1995年、1998年)
- スーパー耐久:1回(2017年[127])
- ル・マン24時間レース:8勝(1949年、1954年、1958年、1960年、1961年、1963年、1964年、1965年[128])
- デイトナ24時間レース:5勝(1963年、1964年、1967年、1972年、1998年)
- セブリング12時間レース:12勝(1956年、1958年、1959年、1961年、1962年、1963年、1964年、1970年、1972年、1995年、1997年、1998年)
- ミッレミリア:8勝(1948年、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年、1956年、1957年[129])
- タルガ・フローリオ:7勝(1948年、1949年、1958年、1961年、1962年、1965年、1972年)
- カレラ・パナメリカーナ・メヒコ:2勝(1951年、1954年)
- ヨーロッパヒルクライム選手権:3回(1962年、1965年、1969年)
オーナー向けサービス/イベント
フェラーリや各国の現地法人によるオーナー向けの有償や無償の様々なサービスやイベント、特典が用意されている。世界規模で活動する裕福なオーナーが多いことから、これらはオーナーが購入または在住している国だけでなく、世界各国で享受、体験できるものが多いことが特徴である[130][131]。
さらに、「フェラーリレーシングデイズ」などのサーキットイベントやツーリングイベント、パーティーなどの、正規販売代理店と正規サービスセンターが開催しているオーナーを対象としたイベントも多数ある[132][133][134]。
- フェラーリ・コンシェルジュ
日本やイタリア、イギリスやアメリカなどの主要市場に設置しているオーナー向けのサービス窓口。オーナーに提供する下記の各種サービスの利用や問い合わせ、イベントへの参加や問い合わせを無料で受け付ける。
他にも、オーナー限定のマラネッロの本社工場見学ツアー「ファクトリー・ツアー」や、本社に隣接した博物館「ムゼオ・フェラーリ」見学、「フェラーリF1クラブ」のパドックパスや「フェラーリ・ワールド」のオーナー向け入場券の手配も行っている。また、オーナー以外による各種問い合わせの窓口ともなっている[135]。
- フェラーリ・ロードサイド・アシスタンス
日本を含む主要市場に設置している24時間対応のフェラーリ専用のロードサイド・アシスタンス・サービス。路上や自宅などにおけるバッテリー上がりや故障などの対応を行う。正規販売代理店で販売された車両のみがこのサービスを受けることが出来る。
- フェラーリ純正パーツ/アクセサリー
「Ferrari Genuine」と呼ばれる、正規販売代理店と正規サービスセンターのみを通じて販売する、フェラーリの社内品質基準と各国の車検基準に適合した純正パーツ及び純正アクセサリー[136][137]。新車保証を受けたり「フェラーリ・クラシケ」の鑑定をパスするためには純正パーツ/アクセサリーのみが使用されていることが必要である。
- フェラーリ・ファイナンシャル・サービス
正規販売代理店で発売される新車及び認定中古車、フェラーリ純正パーツやアクセサリーを購入する際に、リースやローンサービス、クレジットカードなどを提供している[138]。各国でサービス内容は異なる。
- フェラーリ・レーシング・デイズ
フェラーリの主催により世界各国のサーキットで開催されるオーナー向けの祭典。フェラーリ・チャレンジやF1クリエンティ、XXプログラムの走行、スクーデリア・フェラーリのドライバーや元ドライバーによるF1マシンの走行、市販車のオーナーによるサーキット走行体験などのイベントが行われる[139]。
日本でも隔年に1回国内のサーキットで開催される。参加はフェラーリ各車種とそのオーナーに限られるが、オーナー以外による観覧も可能である[140]。これらのイベントを総括するものとして、年末に「フィナーリ・モンディアーリ」が開催される。
- フィナーリ・モンディアーリ
毎年末にイタリアやスペインなどのサーキットで開催されるフェラーリ最大のモータースポーツイベント。世界各国から関係者や重要顧客、オーナーやファンが集まり、フェラーリ・チャレンジの各シリーズの最終戦及び世界一決定戦が行われるほか、F1クリエンティとXXプログラムの走行、スクーデリア・フェラーリのドライバーや元ドライバーによる最新のF1マシンの走行などが行われ、フェラーリ・チャレンジの年間表彰式を兼ねたガラ・ディナーや、F1クリエンティとXXプログラムのオーナー向けのガラ・ディナーも開催される。
また、F1クリエンティとXXプログラム、フェラーリ・チャレンジのドライバーという、フェラーリにとっての最重要顧客が世界各国から集まることから、会場でサーキット専用車種やレーシングカーなどの新型車の発表が行われることが恒例となっている[141]。
- フェラーリ・カヴァルケイド
イタリアやヨーロッパ各地、日本やアメリカなどの名所やフェラーリにまつわる場所を、自分のフェラーリを世界各国から持ち込んだ数十人から百数十人の重要顧客たちが数日をかけて走るイベント[142]。
年間数回世界各地で開催され[143]、遠方から訪れたオーナーは現地に用意された車輌を使用しての参加も可能である。なお、参加台数が限られていることもあり、参加者はフェラーリおよび現地法人、正規ディーラーにより招待を受けた者のうち、参加を承諾したもののみとなっている。
- フェラーリ・トリビュート・ミッレミリア
毎年イタリアで開催される「復刻版ミッレミリア」のサポートイベントとして開催され、「カヴァルケイド」と同様に自分のフェラーリを世界各国から持ち込んだ数十人の重要顧客たちが、復刻版ミッレミリアと同じコース(とフェラーリにまつわる名所)を走るイベント[144]。
日本などの遠方から訪れたオーナーは、現地に用意された車輌を使用しての参加も可能である。なお、参加台数が限られていることもあり、参加者はフェラーリおよび現地法人により招待を受けた者のうち、参加を承諾したもののみとなっている。
- ピロタ・フェラーリ
フェラーリのオーナー向けに、プロのレーシングドライバーを講師として招いて開催されるドライビングスクール。初級者向けからフェラーリ・チャレンジ経験者向けまで4つのクラスが用意されており、年数回イタリア(フィオラノ・サーキットなど)や日本、アメリカや中華人民共和国のサーキットで開催され[145]、フェラーリ・コンシェルジュや正規販売代理店、正規サービスセンターを通じて申し込むことができる。
- ファクトリー・ツアー
オーナーとその同伴者限定で提供されているマラネッロの本社工場見学ツアー(有償)。本社工場のラインやコルセ・クリエンティ、フェラーリ・クラシケの本部などをガイド付きで見ることができる。イタリア語と英語のほか、日本語のガイドも用意されている。
フェラーリ・コンシェルジュ[146]や正規販売代理店、正規サービスセンターを通じて申し込むことができる。なお、工場内に入ることから、16歳以下は安全上の観点から参加できない。
- フェラーリ・ワールド/フェラーリ・ランド
2009年にアラブ首長国連邦アブダビのヤス島にオープンした、フェラーリをテーマにしたテーマパークで、2017年にはスペインのバルセロナ近郊にもオープンした[147]。2014年12月にはアブダビで開催された「フィナーリ・モンディアーリ」のガラ・ディナー・パーティーが全館貸し切りで開催された。
また、スペインのバルセロナ郊外のタラゴナにも、「フェラーリ・ランド」が2017年4月にオープンした。なお、フェラーリのオーナー向けの割引入場券も用意されており、フェラーリ・コンシェルジュを通じて申し込むことができる。
- フェラーリF1クラブ
日本グランプリやモナコグランプリをはじめとするF1世界選手権各戦における「Formula One Paddock Club」のフェラーリ・シャレーや各スポンサーのシャレーでの観戦パスをオーナー限定で提供しており、フェラーリ・コンシェルジュ[148]を通じて申し込むことができる。なお、購入者には特製のお土産も用意される。
- フェラーリ・マガジン
フェラーリが発行しているオーナー向け雑誌。新車を正規販売代理店で購入したオーナーへの「コンタクト・プラン」の特典の一部として、注文後2年間、認定中古車を購入したオーナーに1年間無償で送付される。また、それ以降も有償で定期購読が可能な他、オーナー以外でも有償で定期購読が可能である。
「コンデナスト・パブリケーションズ」により編集されており、イタリア語と英語の併記版のみが用意されているが、2016年のリニューアル以降は日本語のオンライン版も用意されている[149]。
- 公認オーナーズクラブ
イタリアや日本、イギリスやフランスなどの主要市場のみならず、レバノンや香港、チリやオーストリアなど、世界各国にフェラーリが正式に公認しているオーナーズクラブが設けられている。これらの公認オーナーズクラブはフェラーリからは独立して運営されているが、フェラーリのエンブレムの使用の権利が与えられ、さらにイベントやパーティー、サーキット走行などの様々な活動にはフェラーリ及び現地法人、正規ディーラーが全面的に協力している。また、各国の公認オーナーズクラブ同士の交流も活発に行っている[150]。
なお本来は1国に1クラブが原則ではあるが、歴史的経緯から2018年現在日本には「フェラーリ・オーナーズ・クラブ・ジャパン(Ferrari Owners' Club Japan)[151]」と「フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン(Ferrari Club of Japan)[152]」の2つの公認オーナーズクラブがあり、それぞれ数百人の会員がいる。なお両クラブともに入会には現会員2名の推薦が必要である。
ブランド
カヴァッリーノ・ランパンテ
後足で立ち上がった馬の図柄を使用するため「跳ね馬」の愛称を持つ。この紋章はイタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」(Cavallino Rampante )といい、「Rampante」は紋章用語で「気負い立ち」を意味するため、直訳では「気負い立ち馬」であるが、英訳では「(後肢で前へと)跳ねる馬」(Prancing Horse )となっている。
紋章の形状は長方形と盾形の2種類があり、この2種類は下記の様に用途によって明確に使い分けられている。いずれも上部にはイタリアの国旗と同じ三色(緑白赤)のラインが入っている。なお2種類ともに各国で商標として登録されており、フェラーリおよび正規ディーラーと正規サービスセンター、フェラーリとライセンス契約を結んだ商品のみで使用できる。
長方形のものは、フェラーリの公式な社章として社員の名刺や社用便箋、公式文書や工場で働く工員の作業着、社用車などで使用されているほか、市販車や「フェラーリ・ストア」、正規ディーラーや正規サービスセンターなどでも使用されている。
盾型(スクデット)のものは、元々は1920年代から1930年代にかけてスクーデリア・フェラーリがアルファロメオで参戦していた際に使用されたもので、下部に「スクーデリア・フェラーリ」のイニシャルである「S」と「F」が入っている。その後スクーデリア・フェラーリとアルファロメオが袂を別ってから使用されていなかったが、フェラーリ設立後の1952年に、モータースポーツに参戦するために製造された車輌と、増え続ける市販車を明確に区別するために再び導入された[153]。
この様に、盾形はフェラーリの元でモータースポーツに関わっていることを示すもので、本来はF1とGTレース、フェラーリ・チャレンジ、F1クリエンティとXXプログラムに参加しているマシンと支援車輌、そしてモータースポーツに携わるゲスティオーネ・スポルティーバ部門[154]とコルセ・クリエンティ部門[155]、両部門に関連した業務に携わる各部門のフェラーリ社員と、承認を受けたGTなどのプライベートチームや正規ディーラー、正規サービスセンターのエンジニアやメカニックなどの外部スタッフ、そしてこれらに参戦するドライバーや関係者に対して配布されたアイテムのみで使用できるものである[156]。
しかし現在は、市販モデルのオーナーやファンのみならず、マスコミなどが長方形の紋章と混同して使用しているケースが多いだけでなく、フェラーリの市販モデルのフェンダー部に盾形の紋章が正規オプションとして用意されている他、一般向けに販売されているレプリカウェアや各種グッズにも盾形の紋章が使われているなど、本来の用途とは異なるかたちで使われることも多い[157]。
本来この紋章は、第一次世界大戦時にイタリア空軍のエースだったフランチェスコ・バラッカが、自身の搭乗する戦闘機に付けていた[158]。その由来には複数の説がある。
- 元々はバラッカが空軍に移る前に所属していた、イタリア陸軍第11山岳騎兵連隊の紋章であった。その後バラッカは空軍に移り、第91a飛行隊に所属。それに伴い、この紋章も部隊のエンブレムとなっていた。
- バラッカがドイツ空軍機を撃墜した際、その機体にはパイロットの出身地シュトゥットガルト市の紋章である跳ね馬が描かれており、バラッカと彼が所属する第91a飛行隊はそのアイデアを頂戴した[159]。
1923年、アルファロメオのワークスドライバーだったエンツォ・フェラーリは、ラヴェンナで行われたチルキット・デル・サヴィオで優勝した。このレースを観戦していたパオリーナ夫人(バラッカの母親)はエンツォに亡き息子のシンボルであった跳ね馬の紋章を使うよう勧めた[160]。第91a飛行隊にエンツォの兄アルフレードが所属していた縁もあり、エンツォもこの申し出を受け入れた。ただし、研究家によっては「英雄の母親とはいえ息子の部隊章の使用許可を与える権限はなく、この話はエンツォの創作ではないか」と考察している[161]。1932年、スパ24時間レースに出場したスクーデリア・フェラーリのマシン(アルファロメオ製)に初めて跳ね馬の紋章が付けられた[162][163]。
フェラーリと共に高スポーツカーの代名詞とされるポルシェの社章にも跳ね馬があしらわれているが、これはポルシェの本社があるシュトゥットガルト市とそれを含むバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章を組み合わせたものであり、偶然ではあるが両社はエンブレムの由来でつながりを持つ。
コーポレートカラー
フェラーリの「イメージカラー」としては赤(ロッソ)が非常に有名であり、「赤がコーポレートカラーである」というイメージが浸透しているが、この色はそれ以前にモータースポーツにおけるイタリアのナショナルカラーであり、アルファロメオやチシタリア、スクーデリア・イタリアなど他のイタリアの自動車会社やレーシングチームでも使用されている[164]。
本来のフェラーリのコーポレートカラーは会社があるモデナ県のカラー「黄色(ジャッロ)」であり、フェラーリの黄色い外板色の名前は「ジャッロ・モデーナ」とされている。また「跳ね馬」の社章の背後にもコーポレートカラーがあしらわれているが、これはシュトゥットガルト市の紋章の背景が黄色だったため(ただしポルシェのエンブレムは金色)。
現在では「ロッソ・スクーデリア」や「ロッソ・コルサ」、「ロッソ・フィオラノ」や「ロッソ・フオッコ」など数パターンの赤系の色が用意されている[165]。また暗黙のうちにコーポレートカラーに含まれているので、量産車の新車発表時には、車種によっては赤色と黄色の車両も用意するように配慮されている。
ブランド展開
ブランド維持への取り組み
イギリスのブランド価値調査機関である「ブランド・ファイナンス」がまとめた報告では、「コカ・コーラ」や「アップル」などを抑えて2013年の「世界で最もパワーのあるブランド」に選ばれた[166]。
なお、F1やWECなどのモータースポーツに直結した高性能スポーツカー専業メーカーとしてのブランドイメージを重視しており、ポルシェやランボルギーニなどの量販スポーツカーメーカーがこぞって参入しているものの、SUVやエンジン不要の電気自動車 (EV) には参入しない方針を示している[167][168]。
2012年には同社にとって過去最高の営業利益と販売台数を記録したが[169]、エンツォ・フェラーリ時代よりモンテゼーモロ時代に至るまで伝統的に維持してきた、オーナーに対する「飢餓感」を維持するために恣意的に生産台数を抑えており、2013年にはあえて生産台数を7000台以下に抑えると発表した[170]。
ブランドビジネス
世界的に高い知名度とブランドイメージを活かして、各種企業とライセンス契約を結び、自動車関連製品から装飾品、衣類、コンピュータ、玩具、自転車、セグウェイ、インテリア、さらには携帯電話に至るまで様々なフェラーリ公式グッズの販売が行われている[171]。
また、ローマやミラノ、アブダビやドバイにある「フェラーリ・ストア(Ferrari Store)」の店舗や公式ウェブサイト内で、フェラーリの公式グッズやミニチュアカー、衣類や純正パーツなどを利用した装飾品の販売を行っている[172]。
自動車メーカーではホンダと並んで知的財産権の取り組みが早く、1999年にマテルがフェラーリと商品化権を独占的に使用する締結を結び、これ以降他社はフェラーリのミニカーを基本的に生産、販売できなくなった。なお、2015年以降はマテルに代わり「ブラーゴ」や「マイスト」ブランドを傘下に持つ香港のメイ・チョングループと契約を締結しており、メイ・チョングループのライセンスの元、他ブランドでの発売も再開されるようになった。
これらのライセンス契約金は本業以外の大きな収入源となり、フェラーリの全収益の約30%を占めている。現在は海賊品の取り締まりのみならず、並行輸入業者などによるエンブレムやブランドロゴの不正使用の取り締まりを、世界各地の担当者による調査を通じて日常的に行っている。
テーマパーク
2009年11月には、アラブ首長国連邦のアブダビにフェラーリのテーマパーク「フェラーリ・ワールド」が開園した[173]。同パーク内には、世界最高速を誇るジェットコースターやドライビングシミュレーター、フェラーリ本社前にあるレストラン「カヴァリーノ」の初の支店などがある。また2017年には、スペインにも「フェラーリ・ランド」がオープンした[174]。
日本におけるフェラーリ
- 6大市場の一角
設立から10年足らずの1950年代後半に初めて輸入されるなど[175]、欧米以外では比較的歴史が長い上に販売台数が多く、また「Matsuda Collection」の松田芳穂や平松潤一郎などの世界的に著名なコレクターや、ワンオフやコルセ・クリエンティなどの重要顧客が多い日本は、母国のイタリアや、伝統的に販売台数が多いイギリスやアメリカ、ドイツ、そして2010年代前半に販売台数が急増していた中華人民共和国と並び、フェラーリの最重要市場である「6大市場」の1つとされている。
最重要市場であることから、世界でも数少ない現地法人と北東アジア本部(「フェラーリジャパン&コリア」として日本と大韓民国の2国を統括)も置かれている他、2010年以降は「フェラーリ・レーシング・デイズ」が2年に1回開催されている上に、「フェラーリ・チャレンジ」も1シーズンに1-2回開催されている[176]。
さらにサービスのレベルも高い評価を受けており、東京都に本拠を置く正規ディーラーの「ロッソ・スクーデリア」が、2018年1月にマラネッロのフェラーリ本社内で行われた世界のフェラーリディーラーの年次総会で、2016年度のセールス、アフターサービス、マーケティング、コルセ・クリエンティの活動を総合的に評価され、全世界186のフェラーリ正規ディーラーの頂点である「グローバル・トップ・ディーラー・オブ・ザ・イヤー」を獲得した[177]。
- 設立-1965年
創立から1965年までは、日本国内にフェラーリと契約を結んだ正規輸入及び販売代理店は存在しておらず、また日本国内での知名度もほとんど無かった事もあり、日本への輸入台数も裕福な自動車マニアや在日外国人による個人輸入という形でごく少量に留まっていた[178][179]。なお初めて日本にフェラーリが輸入されたのは上記の様に1950年代後半で、裕福な自動車マニアによる個人輸入であった。
モータースポーツへの参戦はそれから数年後の1963年で、鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ」に、ピエール・デュメイが「250GT・パッソ・コルト」で参戦している[180][181]。
なお、日本での歴史についてはフェラーリ自らの見解が混乱しており、2016年には、1966年の「新東洋企業」による正規輸入販売の1台目から逆算して「日本での販売開始50周年」としていた[182]。
しかし、これより5年遡る2011年7月には、東京都港区三田にある在日イタリア大使館で行われた、東日本大震災のチャリティーパーティーのために来日したモンテゼーモロ会長とフェラーリ・ジャパン社長のハーバート・アプルロスが、1976年の「コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド」による正規輸入販売権取得から逆算して「日本での販売開始35周年」であったと発表している[183]。
- 1965年-2008年
1965年に「新東洋企業」がフェラーリ本社との契約を結び、初の正規輸入及び販売代理店となった。なお、日本で初めて正規輸入車として登録されたフェラーリは、同社により1966年に登録された「275GTB」である[184]。
その後1968年から1972年までは「西欧自動車」、1971年から1974年までは「西武自動車販売」、1975年から1978年までは「ロイヤル・モータース」、1976年から2008年(1976年から1978年までは、ロナルド・ホーア大佐率いるイギリスの「マラネロ・コンセッショネアーズ」の香港支店を経由した並行輸入扱い[185])までは「コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド」が、フェラーリの正規輸入及び販売代理店として、輸入と販売、整備とマーケティング業務を担当していた。
しかしこれらの企業は、資金力や販売戦略の観点からショールームやサービスセンターを全国に展開することができない上に、あくまで一輸入販売代理店でしかないために、フェラーリ本社への発言権や影響力が少ないことなどから割り当て台数も少ない(その上に1980年代後半のバブル景気時期には、「テスタロッサ」などの売れ筋のモデルや限定モデルに、「モンディアル」や「412i」などの売れ行きが悪いモデルを抱き合わせられる始末であった)ため、並行輸入車が年間輸入量の半数以上を占めることも多数あった[186]。
さらに、スーパーカーブーム直前の1976年から2008年にかけて輸入販売を行っていた「コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド」は、受入態勢不足などの理由で当時日本へ輸入されたフェラーリの多くを占めていた並行輸入車の整備を受け付けていなかったことから[187]、1991年11月のモンテゼーモロの社長就任以降、全世界規模で正規販売代理店の展開を拡大すると同時に、正規サービスセンターの展開を拡大することで、既存オーナーへのアフターサービスの充実を図っていたフェラーリの戦略と齟齬をきたすようになっていた。
またバブル景気以降、日本市場がフェラーリにとってイタリアやアメリカ合衆国、ドイツ、イギリスと並ぶ主要市場として重要な存在となったこともあり、フェラーリの全世界戦略を直接反映できる本社直轄法人の設立が急務とされ、2000年代に入ると本格的な検討が始まった[188]。
- フェラーリ・ジャパン設立
その後2008年2月には、フェラーリ本社直轄の日本法人の設立を発表[189][190]するとともに設立準備室が設けられ、同年7月1日から東京都港区に本拠を置くフェラーリ本社直轄の日本法人である「フェラーリ・ジャパン」が設立された[191]。上記のように、現在はフェラーリ・ジャパンが「北東アジア地域本部」として日本と、新興市場である韓国市場を統括している[192]。
これ以降は、フェラーリの全世界戦略の元に、同社が日本国内における車輌の輸入及び型式証明の取得、正規販売代理店や正規サービスセンターに対する車輌やパーツの卸販売、アフターサポート、F1や「フェラーリ・チャレンジ」、「XXプログラム」などのモータースポーツ活動に関する支援、イベントの主催やパートナー企業との提携などのマーケティング及び広報業務、公式フェイスブックの運営、並行輸入業者などによるブランドの不正使用の調査など幅広い業務を行っている。なお過去には日本語ウェブサイトの管理も行っていたが、現在は本社が行っている。
また千葉県富里市に、輸入後の車検取得と納車前整備を行うPDIセンターを設けたほか、アフターサービスの充実の一環として、正規サービスセンターのメカニックの技術教育を目的とした施設「フェラーリ・アカデミー」も設けている。なおフェラーリ・ジャパン設立以降、新型モデルの日本市場への導入が飛躍的に速くなった。
さらに、さらなる拡販とアフターサービスの充実を積極的に行い、これまでフェラーリと直接契約を結ぶ正規販売代理店がなかった中四国地方や九州地方に正規販売代理店を開設、北海道や東北地方、北陸地方に整備と正規パーツの販売と認定中古車の販売を行う正規サービスセンターを開設するほか、これまでは1か所しか正規販売代理店や正規サービスセンターが存在していなかった東京都や神奈川県、兵庫県や静岡県内にも新たな正規販売代理店や正規サービスセンターを開設するなど、ネットワークを全国に広げている[193]。
- 販売および整備
フェラーリ・ジャパンと正規販売代理店契約を結んだ「コーンズ・モーター」(東京都、大阪府、愛知県)、「ロッソ・スクーデリア」(東京都)、「ニコル・コンペティツォーネ」(神奈川県)、「オート・カヴァリーノ」(兵庫県)、「エムオート・イタリア」(広島県)、「ヨーロピアン・バージョン」(福岡県[194])、「エムアイディ・サッポロ」(北海道)の7社が正規販売代理店となっており、新車の販売や認定中古車の販売、整備や正規パーツの販売、フェラーリ・チャレンジへの参加受付や各種サポート、フェラーリ・クラシケの承認受付[195]などを行なっている。
また、これらの正規販売代理店に併せて、「モデナ・スポーツ・カーズ」(北海道)、「イデアル」(宮城県)、「グランテスタ」(長野県、石川県)、「オート・スペチアーレ」 (静岡県)が正規サービスセンターの指定を受けており、認定中古車の販売や整備と正規パーツの販売、「フェラーリ・チャレンジ」への参加受付や各種サポートも行っている。
これらの正規販売代理店と正規サービスセンターにおいては、正規輸入されたフェラーリのみならず、これまでに並行輸入された全てのフェラーリへの修理や整備(不法改造車や対応不可の改造がなされた車輛は除く)、正規パーツの販売も受け付けている。
その他
- 1980年代後半から1990年代前半にかけて、イタリア高級ボートメーカー「リーヴァ」とのコラボレーションで、高性能エンジンを搭載し深紅に塗装されたボート「リーヴァ・フェラーリ32」が製造された[196]。その後このようなコラボレーションは行われていないが、「フェレッティ・グループ」傘下となった「リーヴァ」[197]は、2015年以降スクーデリア・フェラーリの公式スポンサーとなっている。
- 2011年に、フェラーリ・ジャパンが「ダイナースクラブ」との提携を開始し、日本国内の正規販売代理店で新車もしくは認定中古車、純正パーツを購入した際の決済にダイナースクラブのカードを使用した場合、ダイナースクラブのポイントが2倍付与されるというキャンペーンを行った(現在は終了)。また正規販売代理店で購入したオーナーで、ダイナースクラブ プレミアムカードの入会を希望する者には、通常インビテーション制のプレミアムカードの入会案内が渡されるキャンペーンや、ダイナースクラブの会員をフェラーリ・ジャパン主催のイベントに招待するキャンペーンを行っていた[198]。なおこの提携関係は、その後マセラティ・ジャパンに引き継がれている。
- 毎年フランスで行われているクラシックカーイベント「サロン・レトロモービル 2015」で、フランスの俳優のアラン・ドロンが1963年から1965年まで所有していた「250GT SWB カリフォルニア・スパイダー」が、レトロモービル史上最高値の約21億円で落札された[199]。なおこの車は、長年整備を受けないままに、フランス国内の大富豪の屋根付きの駐車場に放置されていたものであった。
- 2017年9月9日に、マラネッロで行われた創立70周年記念イベントにおいて「RM サザビーズ」が開催したオークションにおいて、1971年に日本に輸入され、1970年代後半から岐阜県に長年整備を受けずに保管されていた「365GTB/4」のアルミボディ版が出品され、同モデルの過去最高額となる約2億3300万円で落札された[200]。
- 日本には「フェラーリ・クラブ・ジャパン」と「フェラーリ・オーナーズクラブ・ジャパン」の2つのフェラーリ公認のオーナーズクラブ以外にも、「ディーノ・クラブ・ジャパン」[201]や「Ferrari 308 Owners Club」[202]などのモデル別の非公認オーナーズクラブが存在する。
- 2018年8月27日、伝説の希少車「フェラーリ 250 GTO」が約54億円で落札され、オークション史上最高額を更新した[203]。
出典
- ↑ GQ UK 「The life of Enzo Ferrari」
- ↑ フェラーリ、FCAからの分離・独立が完了carview
- ↑ 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P.157
- ↑ "The Scuderia Ferrari". Museo Casa Enzo Ferrari. 2013年2月13日閲覧。
- ↑ 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P225
- ↑ 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201
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- ↑ 「Rettificatrice Ferrari」
- ↑ 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201
- ↑ WW2talk
- ↑ 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P.158
- ↑ GQ UK 「The life of Enzo Ferrari」
- ↑ 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P.17
- ↑ 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P227
- ↑ 『ワールド・カー・ガイド DX08 フェラーリ』 ネコ・パブリッシング、2006年、p.59。
- ↑ Ultimatecarpage
- ↑ 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P.17
- ↑ New York Times 1994年8月20日
- ↑ 「ああ、人生グランドツーリング」徳大寺有恒著 二玄社刊 P.146
- ↑ 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、講談社刊 2006年
- ↑ 『幻のスーパーカー』福野礼一郎著、双葉社、1998年、P20
- ↑ 『こだわりのネーミングこそ名車の条件』Goo-net
- ↑ 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P.21
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関連項目
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外部リンク
- 公式ウェブサイト (日本語)
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