アップル (企業)
アップル(英: Apple Inc.)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州に本社を置く、インターネット関連製品・デジタル家庭電化製品および同製品に関連するソフトウェア製品を開発・販売する多国籍企業である。2007年1月9日に、アップルコンピュータ (Apple Computer, Inc.) から改称した。
Contents
- 1 概要
- 2 沿革
- 2.1 創業とApple I
- 2.2 Apple Computer設立
- 2.3 Lisa と Macintosh
- 2.4 ジョブズ追放
- 2.5 Newton
- 2.6 業績低迷期とMacintosh互換機
- 2.7 Apple売却交渉
- 2.8 Copland
- 2.9 ジョブズ復帰
- 2.10 iMac
- 2.11 Mac OS X(後にOS Xに改称、現macOS)
- 2.12 iPod
- 2.13 iPhone
- 2.14 iPad
- 2.15 ジョブズ退任と死去
- 2.16 法人向けビジネスの拡充と異業種提携
- 2.17 環境への取組みと太陽光発電事業
- 2.18 Apple Park
- 2.19 データセンター
- 2.20 コンテンツデリバリネットワーク
- 3 歴代CEO
- 4 製品・事業
- 5 ロゴマーク
- 6 CM
- 7 Apple Store
- 8 サポート
- 9 Apple Japan
- 10 騒動・不祥事
- 11 脚注
- 12 参考文献
- 13 関連項目
- 14 外部リンク
概要
ハードウェア製品として、スマートフォンのiPhone、タブレット型情報端末のiPad、パーソナルコンピュータのMacintosh (Mac)、携帯音楽プレーヤーのiPod、ウェアラブルコンピュータのApple Watch、ソフトウェア製品としては、オペレーティングシステムのmacOS、iOS、watchOS、tvOS、クラウドサービスとしてはiCloudなどの開発・販売を行っている。
直営店のApple StoreとApple Online Storeにおいてハードウェアとソフトウェアの販売を行っている他、音楽、映画、テレビ番組、アプリ、電子書籍、Podcastなど広範囲のデジタルコンテンツのダウンロード販売を提供している。現在の売り上げの半分以上を占めるのは創業事業のパソコン部門ではなく、iPhoneおよびiPadを中心とした携帯端末事業である。専門の音楽・映画産業向けソフトウェア製品の大手の提供元でもある。
1977年1月3日に設立されて以来“Apple Computer, Inc.”を名乗っていたが、2007年1月9日 (PST) に主力事業の変化を反映させ[1]、現社名の“Apple Inc.”に改称した[2]。
2012年8月20日、株式時価総額が6230億ドルを超え、マイクロソフト社が1999年12月30日に記録した史上最高額を更新した[3]。
沿革
創業とApple I
1974年、大学を中退しアタリの技師をしていたスティーブ・ジョブズとヒューレット・パッカードに勤務していたスティーブ・ウォズニアック(以下ウォズ)の2人は、地元のコンピュータマニアの集まりであったホームブリュー・コンピュータ・クラブ(「自家醸造」コンピュータ・クラブ)に参加するようになった。
1975年にインテルが8080をリリースすると、Altair(アルテア)8080というコンピュータ・キットが早速発売されるようになり人気を博した。ウォズは8080より6800の流れを汲むモステクノロジーの6502の方が安く、しかも簡易な回路のコンピュータができると確信し、1975年10月から半年間かけて設計、1976年3月に最初のプロト機を完成させた。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行った。ジョブズは自分達で売る事を考えていたが、ウォズはヒューレット・パッカードの社員であるが故に「開発した製品を見せなければならない」と上司にこの機械を見せるが製造販売を断られ、自分達で売り出すこととなった。
ジョブズは、マウンテンビューにあったコンピュータショップのバイトショップのオーナーであったポール・テレルに基板(メインロジックボード)を見せた。テレルは非常に強い興味を持ち、30日以内に50台を納品できたら、現金で代金を支払うと提案する。ジョブズは愛車のワーゲンバスを1500ドルで売り、ウォズはヒューレット・パッカードのプログラム電卓を250ドルで売り払い、100台分の部品を集めた。さらにアタリで製図工をしていたロン・ウェインも株式10%分の権利を持つことを条件として参加した。彼はApple Iのマニュアルなどを作成する仕事に従事した。
彼らは本格的に基板、マニュアルの製作にあたった。また、彼らの会社の名前はAppleとなった。この名前の由来には諸説があって、代表的なものだけでも、
- ジョブズがビートルズを尊敬していた(ビートルズのレコード会社名がApple)から[4]
- 同じくジョブズがフルーツダイエットをしていた時期があって、そのころリンゴだけ食べればシャワーを浴びる必要が無いと考えていたことから
- リンゴは知恵の実で良いイメージ
- アタリ (ATARI) よりも電話帳で前に掲載してほしかったから(2文字目のPがABC順でTより前)
- 現在のコンピュータの概念を初めて提唱したアラン・チューリングが青酸カリ入りリンゴで自殺したから
など多くの仮説・俗説があるが、アップルは公式な説明をしていない。一方、ウォルター・アイザックソンが著述したジョブスの公式自伝『スティーブ・ジョブズ』では、ジョブス自身の言葉として、
- 果食主義を実践していたこと
- 名前を決める打ち合わせの直前にリンゴ農園の剪定作業から帰ってきたところだったこと
- 元気が良くて楽しそうな名前であること
- 怖い感じがしないこと
- コンピュータの語感が少し柔らかくなること
- 電話帳でアタリより先に来ること
が理由であったと述べている[5]。また最初に会社のロゴをデザインしたのはロンだという。
1976年6月に、バイトショップにApple Iを50台納品。666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロンは10%の配当権を放棄する代わり、800ドルを受け取って会社を去る。しかし8月を過ぎると売上は好転し、ジョブズとウォズは昼夜時間を惜しんでApple Iを製造した。ロンはその後別な会社に勤めるなどし、2010年現在はネバダ州で年金生活を送っている。放棄した10%の権利を2010年まで保有していれば、200億ドル以上の資産を得ていたはずだが、辞めたことに関しては後悔していないという[6]。
Apple Computer設立
Apple Iの最初の取引で、約8,000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったノーラン・ブッシュネルに融資を頼んだ。ブッシュネルは投資を断るが、代わりにベンチャーキャピタル会社セコイアのドン・バレンタインを紹介した。バレンタインもジョブズの話に興味を持てず、話を断るが、代わりに同じく個人投資家のマイク・マークラを紹介した。マークラは、フェアチャイルドセミコンダクターとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち、1976年11月にAppleに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。25万ドルの融資はマークラが個人で保証をしたが、代わりの条件として、ウォズニアックがヒューレット・パッカードを退社してApple専業になることを求めた。ウォズニアックは2、3日考えた末に「自分は経営者には向いていない」と断ったが、ジョブズがウォズニアックの家族にも働きかけるなど猛烈な説得を行い、最後にはウォズニアックが折れた。1977年1月3日、3人はApple Computerを法人化した。
1977年5月、マークラはナショナル セミコンダクターから、友人であったマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはAppleをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議する。しかし、社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが3番、スコットが7番の社員番号であった(スコットは5番目の社員であったが、社員の増加を見込んで好きな数字を選んだ)。
ヒューレット・パッカードを退社したウォズニアックは、Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発し、1977年4月に発表する。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をAppleにもたらした。Apple II発売に際してApple Iを回収、無償交換キャンペーンでバージョンアップ対応したため現存するものは少ない。
1980年にAppleは株式公開を果たし、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手に入れることになった。また、フォーチュン誌で長者番付に名を連ねた唯一の20代(当時25歳)となり、コンピュータ業界の天才児としてもてはやされる事となる。
Lisa と Macintosh
Apple IIの大成功は、青い巨人 (Big Blue) と呼ばれたIBMにパーソナルコンピュータ市場への参入を決断させる。1981年にIBM PCが発表されると、Appleは新聞広告で“Welcome, IBM. Seriously”と挑発したが、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。
前後して、1978年にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるためのブレインストーミングが始まり、1979年の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においたLisaプロジェクトが立ち上げられた[7]。
この頃、ジョブズはゼロックスにAppleの株式と交換にパロアルト研究所の見学を申し出る。ゼロックスの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的なSmalltalkで動くGUIを持ち、ビットマップディスプレイとマウスで操作されるAltoのデモにインスピレーションを得たジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisaプロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisaプロジェクトのメンバーからジョブズを外した。
一方で1979年にAppleに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。マイク・マークラはラスキンに500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の担当を打診したが、彼は500ドル台のパーソナルコンピュータの開発を提案し許可される。彼はカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年にMacintosh(マッキントッシュ) プロジェクトを開始する。Macintoshは北米ではポピュラーな小型のリンゴの品種名(ただしリンゴの綴りはMcIntosh、和名は「旭」)である。
MacintoshはApple VまたはApple 32という商品名で1981年に500ドル程度(直ぐに1000ドル程度に変更)での販売を考えていた。これに対し、ジョブズはプロジェクト開始当初は開発に懐疑的で、反対の立場をとっていた。
しかしジョブズは、Lisaプロジェクトから外されたいらだちもあってか、1981年に突如としてMacintoshプロジェクトに乗り出す。Macintoshではハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役であったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増えた。ジョブズは、「海軍に入るより、海賊であれ」とメンバーを鼓舞し、この精神に基づきLisaプロジェクトからメンバーや技術の引き抜きを行った。またMacintoshプロジェクトのあった建物の屋上にドクロの海賊旗を掲げさせた。
ところが、Lisaを上回るものにしようとするジョブズがソフトに対しても介入を行い、2人の対立は深刻化していく。結局1982年3月、ラスキンはAppleを去った。
ジョブズは「Lisaの機能の70%しかなくても、価格がLisaの20%であれば売れる」と70/20の法則をメンバーに説いてまわった。またMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、出来上がった基板パターンが美しくないという理由で却下してもいる。このとき、「もし君が大工で美しいタンスを作っていたら、人の見えない部分に合板を貼り合わせてごまかすようなまねはしないはずだ。」と喝破したという。
また、同じく美しくないという理由で拡張スロットの採用を拒否し、フロッピーディスクドライブもイジェクトボタンはみすぼらしいという理由で、現在にも通ずるオートイジェクトのドライブをソニーに開発させ、採用した。マウス、GUIといったものだけでなく、視覚的にも動作的にも美しく分かりやすいものを採用した功績は大きい。
Macintoshの開発は難航し、1984年1月にようやくスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした。しかし、Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。そこでAppleは、外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。
Macintoshの発売後、マークラはジョブズに干される形でAppleを去ったラスキンに対し、敬意を表する形でMacintoshを送ったが、ラスキンがどういった感情を抱いたかは不明である。
社内ではそのような波乱が起きてはいたが、AppleはMacintoshという新たなパーソナルコンピュータを登場させることで、すべてのコンピュータ業界に新たな方向性を示したのだった。
そしてAppleは、Macintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンターであるLaserWriterを登場させることで、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、奇麗なアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現アドビシステムズ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命と、高価ではあったがグラフィック処理にも耐え得るモトローラ製CPUの採用に起因していると言える。
ジョブズ追放
1981年、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは(会長ではあったものの)自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任としてマーケティングに優れた社長となる人物を連れてくる必要に迫られた。
ジョブズは、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行う。このとき、彼は「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?) などとスカリーを口説いた。
1983年ジョン・スカリーはAppleの社長の座に就く。ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、2人の関係は常に良好だった。1984年1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。
しかし、1984年のクリスマスシーズンは、需要の予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩まされることになった。この第4四半期で初の赤字を計上、従業員の1/5にあたる人数の削減を余儀なくされた。Appleの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、1985年4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。
スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をAppleから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策をスカリーが問い質し、他の取締役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にAppleでの(会長職以外の)すべての業務から外された。
ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。 スカリーは、一番後悔していることとして、ジョブズを辞めるように追い込んだことを挙げている[8]。
Newton
スカリーは、Macintosh以外にAppleの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてKnowledge Navigatorというものを描いていた。これは、コンピュータがユーザの優秀な秘書をこなし、言葉や簡単なリモコン操作のみで自由自在に操れるという物で、この後の予定を教えてくれたり、電話を取り次いだり家に居ながら会議が行える。Appleは、ナレッジ・ナビゲータを仮想ではない近未来のコンピュータとして提案した。
一方、スティーブ・サコマンはガセーの許可を受け1987年頃にはNewtonとよばれるPDA開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。
1990年、スカリーはMac OS互換機(後述)およびニュートンの方向性を巡ってガセーと対立する事となる。ガセーを辞職させた後、スカリー自身は技術者でないのにも関らずAppleのCTO (最高技術責任者)に着任した。そして1992年、CPU にARMを採用し、スタイラスによる手書き認識などを実現した PDA、Newton Messagepadを発表した。
初代Messagepadはシャープと共同開発されたと言われており、シャープにとっては後のザウルスのヒットへと繋がる事となる。世界初のPDAとなったMessagepadはNewton OSと言う独創的なOSを採用し、ペンデバイスで入力した文字をそのままテキスト文書として保存が出来る事が特徴だった。それ以外にもフリーハンドで書いた文字や絵を保存する作業をせずに電源を落としても、電源投入後にはそのままの文字や絵を表示させる事が出来、メモ帳(紙)にとって変わる新しいコンピュータの方向性を示した物と言える。しかし、ビジネスとしては失敗した。
業績低迷期とMacintosh互換機
ジョブズがAppleを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー宛に、マイクロソフトのビル・ゲイツから「AT&Tやヒューレット・パッカード、ソニーなど有力メーカーにMacintoshのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまない」という内容の手紙が送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。
スカリーはOSライセンスの可能性について調査を指示したが、ガセーを筆頭にした技術陣からの猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。
その後、パソコン用の16ビットCPUは逐次32ビットに移行していく。Appleの採用したモトローラ系ではMC68000、MC68020、MC68030、MC68040と推移していく。モトローラのCPUは最初のMC68000から、32ビットへ容易に移行できるように設計されていた。
Appleはライセンス違反をしているとして、マイクロソフトに対してGUIに対する対価を求めて裁判を起こす。ジョブズが復帰(後述)する頃まで裁判は長引き、その時点ではAppleに対して不利な裁定が下る事になる。しかしその数年前、ゼロックスがAppleに対して同様の裁判を起こし、ゼロックスに対して不利な裁定が下っている事も有り、熱心なマッキントッシュ・ユーザは複雑な心境を抱いていた。
AppleはマイクロソフトのMicrosoft Windowsに対して市場競争を模索する。これより68000系以外のCPUアーキテクチャへの移行である。その1つx86系への移植プロジェクトであるスタートレックが、1992年頃にノベルの協力を得て開始される。しかし計画は後述のPowerPCに専念するため中断され、日の目を見ることは無かった。
1992年、スカリーはIBMと交渉し、同年AppleはIBMとモトローラと組んで新しいパーソナルコンピュータのプラットフォーム開発を発表した。IBM PCとマッキントッシュの経緯から、この共同開発発表は西海岸と東海岸の巨頭同士の歴史的和解とも言われた。
新しいPCは、CPUにRISCチップであるPowerPC、OSとしてTaligent(開発コード:Pink)、アプリケーションとしてマルチメディア開発ツール「カライダ」(開発言語ScriptX)からなる予定であった。
技術者が休暇中に趣味で作り上げた68000系エミュレータの出来がよく、またTaligentの開発は困難を極めたため、1994年、PowerPCと68LC040エミュレータを搭載し、従来の68000系のバイナリプログラムの動作も可能なPower Macintoshシリーズを発表する。それまでの上位機種であったQuadraをベースにしており、メモリに72pinSIMM、拡張スロットバスにNuBusを採用する等、ハードウェアの互換性も計られていた。しかし当時のMac OS(System 7.1.1や7.5.2)はバグが多く、度々エラーやフリーズを起こし、快適さと相反する不安定さも兼ね備えていた事実は否定出来ない。Mac OS 7.6までにはその不安定さは解消され、その後しだいに信頼性は向上したが、Mac OS 9.2.2に至るまで100%のPowerPCコードで作られたOSとはならず、メモリ保護もない脆弱さもそのままであった。これらの問題が完全に解消されたシステムは2001年のMac OS Xの登場まで待たねばならなかった。
1994年にAppleは、モトローラ、IBMなどにMacintoshのライセンスを与え、互換機ライセンスを開始する。1995年にパワーコンピューティングとパイオニアが初のMac OS互換機を発表すると、akia、UMAX、ラディウスなどが続々と参入した。しかし、PC/AT互換機からの市場奪還は進まず、互換機がMacintoshのシェアを浸食するという結果となった。
1995年後半になると、マイクロソフトはWindows 95を販売開始する。Windows 95は、Macintoshに似たGUIを搭載し、従来のMS-DOS上のWindows 3.1ではなし得なかったデスクトップ環境とフォルダ管理のGUI化を果たした。様々な面でDOSのしがらみを依然として引きずっていたWindows 95ではあるが、操作性が3.1以前に比べて大幅に向上したことにより爆発的にヒットし、次期OSであるCoplandの開発に手間取っていたMacintoshの深刻な脅威となった。
Apple売却交渉
後に公表される事となるが、サン・マイクロシステムズとは1988年ごろから合併交渉を行っていた。1990年には、ほぼ合意に達していたが、AppleがIBMとモトローラとの提携を発表したことで白紙に戻ってしまった。その後もAT&Tやコダックと交渉を行うが企業風土の違いでまとまる事はなかった。
Newtonや政治(スカリーはビル・クリントンの大統領選挙応援に力を入れていた)など、Macintoshに力を注いでいないスカリーの行為に、Appleの取締役会は、不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、Appleのヨーロッパ市場で功績を上げていたマイケル・スピンドラーが新たなCEOに就任する。
1993年にスカリーの後任としてCEOに就任したスピンドラーの仕事は、Apple本社を高く売ることだったとも言われている。
1994年は低価格MacintoshのPerformaシリーズを増産してクリスマスシーズンを迎えたが、スピンドラーはこの需要予測を大きく外す事となる。リサーチ部門とセールス部門、さらには開発部門までもがそれぞれ大きく対立していた事と、市場ではPower Macintosh等のハイスペックマシンの需要が高かったにも関わらず、ロースペックで利益率の悪いPerformaの在庫が日に日に増えて行き、需要の高いPower MacintoshやPowerBookが品薄状態で、生産が全くもって追いついていないと言う最悪の結果となった。
当時のAppleは内部のゴタゴタが余りにも多く、悲惨な状態であった。需要予測を外した上に、スピンドラーの指示を誤解したセールス部門は、ただでさえ利益率の悪いPerformaを赤字でバラ撒いて売りさばいてしまった。それ以外にもさまざまな要因が重なり、この四半期で赤字は8000万ドルに達した。
その頃(1995年)Appleはキヤノンと1株54ドル50セントでの買収交渉を行うが、キヤノンの社長が急死した事も重なり、最終的には実現する事はなかった。そしてAppleは再びIBMと交渉の場を持つが、IBMはロータス社を買収しサービスビジネスに会社を方向転換の最中で、Apple買収にはお世辞にも前向きな姿勢とは言えなかった。その上、IBMはどんな買収交渉であっても、結論を出すまでに途方も無い時間をかける事が通例で、交渉に入ってもまったく音沙汰が無いと言う事が多い企業である。 どんな形であってもAppleを売り出したい取締役連中は、その余りにも遅いIBMの動きだけに目をとらわれてしまい、実際のIBMの過去の動向には全く気付いていなかった。最終的にはIBMとの交渉は決裂してしまい、その後にはフィリップスと1株36ドルで交渉を行うが、フィリップスの役員会であっさりと否決されてしまう。
1996年1月23日の株主総会で、Apple再建策としてマック互換機ライセンスビジネスの加速と人員削減による提案を行うが、株主から辛辣な言葉を浴びせられる。総会後の取締役会でサン・マイクロシステムズのスコット・マクネリも参加して最後の買収交渉(1988年時とは異なりAppleが吸収される立場)が行われた。マクネリはApple1株につき23ドルを譲らず、買収交渉は頓挫。その後の取締役会で、スピンドラーは責任を取らされる形でCEOの座を下ろされた。
マイク・マークラを筆頭とするAppleの取締役会はスピンドラーの後任として、かつて倒産寸前だったナショナル セミコンダクターを再建し、Appleの社外取締役にも就任していたギル・アメリオをCEOの座につけた。アメリオは後に、「当時の取締役の(アメリオを除く)全員がAppleをどこに売り渡すかと言う事しか考えておらず、Appleを再建する事はみじんも考えていなかった」と語っている。大のMacintoshファンでもあったアメリオは、Appleを売る事しか考えていなかった取締役のほとんどに失望を覚え、Apple再建の道標となるべく一歩を踏み出した。
Copland
MacintoshのOSは、1984年の出荷以降、System 7まで大幅に強化改良されたものの、基本的な部分はほとんど進化していなかった。1990年代に入ると、マルチメディアやネットワークの時代を迎え、従来はミニコンや大型汎用機のOSの機能であったマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)、メモリプロテクション(メモリ保護)、仮想メモリ、ネットワーク機能を備えた“モダンOS”が、次世代のパソコン用OSに必要だと考えられるようになった。
System 7が提供するマルチタスクも仮想メモリもあくまで擬似的な物で、モダンOSにはほど遠く、継ぎ接ぎで機能を拡張した結果、動作が不安定になりやすいという欠陥を抱えていた。いくら操作性や外観が良くとも、Mac OSは頻繁な強制再起動が強いられる不安定なOSとしての評価を受ける事となってしまう。この問題を解決するために、Apple社内では、幾度にも亘り新しいOSの作成が計画された。当時のSystem 7の機能を拡張してネットワーク機能やGUIを拡張する"Blue"計画は、System 7.5としてリリースされたが、未来志向の“オブジェクト指向OS”を作る“Pink”計画は、IBMも巻き込んで別会社を作り開発し始めたが、要求仕様だけが膨らみ続け、道半ばで頓挫した。
Pink OSの反省からやり直された新OSが開発コード「Copland」で、System 7.x系と互換性を持たせつつ、革新的なGUI、暫定的なマルチタスク機能と暫定的に改良されたメモリ管理機能を提供し、メモリ4MBのMac Plusでも動作するほどコンパクト、というふれこみであった。さらにCoplandの先には、モダンOSの条件を備えた、開発コード「Gershwin」が予定されていると発表された。
1996年5月、Appleは「Worldwide Developers ConferenceでCoplandを「Mac OS 8」として発売する」と発表した。しかし、期待されていたベータ版の配布は行われず、基調講演でアメリオが新しいFinderのデモを見せる程度で終わってしまった。この頃、Coplandは各モジュールがバラバラに開発されている状態で、OSとして組み上げられないという悲惨なものであった。また、Gershwinは名前とコンセプトの触れ込みだけで、開発は全く手をつけられていなかった。この状況を調べ上げたCTO兼副社長のエレン・ハンコックは、Coplandが完成する見込みがないと早々に判断を下した。IBMやノベルの撤退でOpenDoc計画も中止になり、Coplandは次第に人々の記憶から消えていった。
アメリオとハンコックは、Coplandの開発中止を発表し、予定されていたCoplandの機能は、1年ごとに「Tempo」「Allegro」「Sonata」(いずれも開発コード)として、少しずつリリース、その合間にマイナーアップデートを提供すると発表、翌1997年1月に、「Mac OS」という呼称を初めて公式に採用したSystem7.5のマイナーアップデート版「Mac OS 7.6」が発売された。7.6登場の前後、PowerPCによる実質的なマッキントッシュ互換機のための仕様であるCHRPが策定される。CHRPは、PowerPCを搭載するマッキントッシュ上でWindows NT等のIBM互換機で動作するOSをネイティブに動かす事が出来、以後のOSに対する方向性を打ち出した物だった。しかし、互換機に対する抵抗感があるAppleは二の足を踏む事となり、1997年にNeXT社を買収したことによるRhapsody(後述)の登場によってCHRPの存在意義が無くなってしまった。
Copland計画を白紙に戻したアメリオとハンコックは、次期Mac OSとなる新たなOSを外部から調達する事を決定する。その中には マイクロソフトのWindows NT、サンマイクロシステムズのSolaris、IBMのOS/2、BeのBeOSを候補として、調査と交渉を行った。なかでもBeOSこそ本命と噂されていた。
1995年、PowerPC 603を2機搭載したBeBoxを発表したBe社は、1990年にAppleを追われた元ハードウェア担当社長のジャン=ルイ・ガセーが創業した会社である。BeOSは、コンパクトなオブジェクト指向のOSを目標とし、モダンOSとしての条件をすべて備え、マイクロカーネルによる高い移植性を維持しながらマルチタスク/マルチスレッドの高負荷時にカーネル・サーバ間に通信がボトルネックにならない、などの特徴を持つOSとなる予定であった。音楽や動画関係に強く、かつ軽快に動作することを目指したBeOSは、自社のBeBoxを生産中止にした後、非常に短期間の間にPowerMacintosh用に移植され、その後IBM互換PC用にもこのBeOSを短期間で移植している。
1996年中頃には、BeとAppleの買収交渉が本格的に始まった。ガセーは1億ドルを要求したが、Appleは5000万ドルと見積もっていた。アメリオはこのBeOSに高い関心を寄せていたが、BeOSは未完成でAPIが整備されておらず、BeOSを買収したとしてもMac OSとして出荷できるようになるまでには数億ドルの投資と、数年にも亘る歳月が必要だと見積もられていた。なかなかBeOSの売り込みが進まないBe社は、Mac互換機メーカーだったパワーコンピューティングにBeOS開発版である「BeOS PreviewRelease」をライセンスするなど、挑発的とも取れる行為をするようになった。
1996年の11月頃、Appleが次期OSを外部に求めているという話を知ったNeXTのエンジニアは、スティーブ・ジョブズに打診。公表されてはいなかったがNeXTはハードウェアから撤退し創業以来初の黒字となっていたものの経営状態は良好とはいえず、ジョブズはこの話を受けてAppleとアメリオに対してOPENSTEPとNEXTSTEPを売り込んだ。ジョブズは12月上旬に、1985年以来初めてApple社内に入り、アメリオら首脳陣と話し合った。12月10日にはBeOSとOPENSTEPの比較プレゼンテーションがあったが、勝利を確信していたガセーがほとんど事前準備をしていなかったのに対し、周到に準備をしたジョブズがカリスマ的なプレゼンテーションを展開し、ガセーは敗れ去った。12月20日にAppleがNeXTを4億ドルで買収することを発表し、次期OSの基盤技術としてOPENSTEPを採用すると発表した[9]。
ジョブズ復帰
1997年2月に正式にNeXT買収が成立し、アメリオの要請も有りジョブズはAppleに非常勤顧問という形で復帰した(同時に、NeXTのセールス担当副社長ミッチ・マンディッチ、技術担当副社長アビー・テバニアンが重役としてAppleに加わる[10])。この時、アメリオからプレゼントされた20周年記念Macintosh(Spartacus)を窓から投げ捨てたという噂が真しやかに囁かれた(ちなみにウォズにもこの記念すべきMacintoshがプレゼントされた)。
Appleに復帰したジョブズは、同年6月には一度はAppleの先行きを悲観し株式を手放したが、経営混乱の責任を取るよう取締役を巻き込み、アメリオを追い込む。7月冒頭にアメリオが辞任させられた後は、執行副社長兼CFOのフレッド・D・アンダーソンが短期間を暫定的に経営を行い[11]、その間にジョブズは復権していった。アメリオ辞任に伴い、取締役会はジョブズにCEO就任を要請したが、Pixar CEOとして多忙を理由に彼はこれを拒否し「責任がそれほど大きくない一時的なことであれば構わない」と言い、8月には暫定CEOに就任した。
一方、アメリオによるリストラ[12]は、このころようやく成果を上げ始めていた。膨れ上がった研究開発費や一般管理費は大鉈をふるわれ、経費4億ドルと従業員4,100人が削減されていた[13]し、複雑になっていたMacのラインナップもPerformaを止める等で整理されつつあった。低迷を続けていたNewton事業を別会社に分離し、Apple本体はMacintoshに集中できるようになった。1997年7月にリリースされた「Mac OS 8」は、久々の大ヒットとなり、Macユーザーの間に広く受け入れられた。Coplandプロジェクトやその次のGershwinのコンセプトさえも遥かにしのぐNeXTのOS技術を手に入れたことで、Mac OSの漸進的改良を進めるという開発方針が順調に進み、1998年にはMac OS 8.1をはさんでMac OS 8.5、1999年にはMac OS 8.6、Mac OS 9と、メジャーアップデートとマイナーアップデートが交互に半年ごとにリリースされた。これらはアメリオ/ハンコックによるプラン[14]をジョブズ/テバニアンが踏襲したものである。
ジョブズは、その思惑通りに事を進めて行く中で、士気を上げるため従業員のストックオプションの引き下げを取締役会に提案した。しかし、取締役会がこれを否定すると、ジョブズは取締役全員に辞任を迫った。結局、マイク・マークラを含む取締役陣は、そのほとんどが辞任する事となる。代わりに、オラクルのラリー・エリソン、インテュイットのビル・キャンベルらを取締役に迎え入れ、取締役会はほぼジョブズ寄りのメンバーに再構成された。
- 前後し、CFOのフレッド・D・アンダーソンを除いて、1997年中にCEOやCTO以外にも、ATG閉鎖やイメージング部門等の事業整理とともに、多数の幹部がAppleから離職した。
- COO兼セールス担当EVPのマルコ・ランディ、COOのジョージ・スカリス、マーケティング担当SVPのサジーブ・チャヒル、マーケティング担当SVPのゲリーノ・デ・ルーカ、ソフトウェア担当SVPのアイク・ナッシ、デベロッパーリレーションズ担当VPハイディー・ローゼン、セールス担当SVPのジョン・フロイサンド、Power Macintosh担当SVPフレッド・フォーサイス、チーフエヴァンジャリスト/アップルフェローのガイ・カワサキ、ATG担当VPのドナルド・ノーマン、研究開発担当VP兼チーフサイエンティストのラリー・テスラー等[15][16][17]
ジョブズは同年8月。マイクロソフトと特許のクロスライセンスおよび業務提携を結んだ[18](アメリオがビル・ゲイツと長らく交渉してきた中で頓挫した内容であった)。AppleはNetscape Navigatorに代わりInternet Explorerを標準ウェブブラウザとしてバンドルする事と引き換えに、マイクロソフトはMicrosoft OfficeをMacintosh用により一層最適化させ、さらにMacintosh版とウィンドウズ版を同時リリースするということである。さらにマイクロソフトはAppleに対し1億5000万ドル以上と言われる出資(額は非公表、議決権のない株式を発行)を行った。そしてボストンで行われた1997年のMacworld Conference & Expoでは、ジョブズの基調講演の最中にゲイツがスクリーン中に登場し、それらの提携を発表する事となる。歴史的和解とも取れるこのコンピュータ業界の大物同士の両者の演出は、発表された提携内容よりも話題性の方が大きく報道され、関心の深い者には良くも悪くも波紋を呼ぶ結果となった。
かねてから開発が進んでいたPowerPCの新たな製品としては、低価格ながら従来のハイエンドチップを上回る性能を持つPowerPC G3を発表。モトローラとIBM、Appleの共同開発で進められたこの次世代チップは、新たなMacに搭載され、Power Macintosh G3として発売される。またG3の発表と並行して「赤字の元凶で共食い競争でしかない」とされたMacintosh互換機メーカへのMac OSライセンスを順次停止して行く事も決定。そのうちの1社であるパワーコンピューティング社を買収し[19]、Apple自身がオンライン直販を行うことを決める。これが後にApple Online Storeとして展開して行く事となる。
1997年11月には、分離されたNewton事業をAppleに戻す形で清算した。同じ頃、Appleは“Think different” キャンペーンを大々的に開始する。この"Think different."では各界の偉人・著名人をCMに起用し、Apple自身のイメージ転換戦略が計られた。
1998年、PowerBook G3を発表。複雑な曲線を多用した斬新なデザインは従来のPowerBookと一線を画すものであり、ジョブズの製品に対する美意識が現れた初めての製品としてMacユーザーの関心を呼んだ。同時期にAppleのソフトウェア部門の別子会社であったクラリスをファイルメーカー社と改名し、FileMakerの開発・販売に専念させ、クラリスワークスに代表されるその他のアプリケーションの開発・販売権をAppleに戻す決定もなされる。
iMac
ジョブズは1998年5月に、Worldwide Developers ConferenceでiMacを発表する。このiMacはポリカーボネイト素材をベースに半透明(トランスルーセント)筐体を採用した製品であった。このデザインの視覚的な訴求力と、ボンダイブルーなる青緑のカラーリングにマスコミはこぞって賞賛を送る事になる(デザイン界では意見は二分されたが、日本ではグッドデザイン賞を受賞した(1998年)[20])。iMacの存在意義はそれだけでなく、単純明快なコンピュータである事を示すべく、それまでのSCSIインターフェースやRS-422シリアルポート、ADBなどを廃止し、当時のPC/AT互換機で採用が始まっていたUSBを新たに全面的に採用した。
さらに、ベージュや白だったコンピュータ業界を否定する様にトランスルーセントデザインを採用する事で、ジョブズはこのiMacにも似合う周辺機器が開発される事を見越しており、サードパーティー各社はこぞって新製品や現行品の改訂版として同様の半透明素材を採用した製品を発表した。Appleは後にこのiMacの改訂を行い、5色になったiMacは"Candy"と名付けられ、色名も"ブルーベリー"、"タンジェリン"、"ストロベリー"、"グレープ"、"ライム"の名称が与えられる。その後もカラーテーマを替えて人目を惹き、それに付随する様にiMac DVではスロットローディングタイプのDVD-ROMドライブを採用したり、Power Macintoshにしか与えられていなかったFireWireポートを採用する等でヒットを続け、iMacはAppleに久しぶりの大きな売り上げをもたらした。
iMacの特徴はそれだけでなく、初代Macintoshから続くコンパクトマックの特徴であった"取っ手"を復活させ、発表時にはiMacの画面に"hello (again)"と表示させていた[21]ことも、Appleの原点回帰を印象付ける結果となった(初代Macintoshの発表時、その画面に"hello"と表示されていたことをふまえている)。
Mac OS X(後にOS Xに改称、現macOS)
Rhapsodyがサードパーティーに受け入れられないと判断すると、Mac OSで用意されているAPIのうち、使用頻度の高い命令を抽出し、いくつかの新機能を加えたAPI CarbonをRhapsodyに統合した新OS、Mac OS Xへの移行が宣言される。Rhapsodyは暫定的にMac OS X Server 1.0としてリリースされ、PCIバスを持つPower Macintoshで動作した。
2000年9月13日には、Mac OS Xの初の公開版であるMac OS X Public Betaを発表、日本国内では3500円で提供された。新たにAquaを採用し、Mac OS X Server 1.0ともMac OSとも全く異なる新しい外観を持っていた。
2001年3月24日、Mac OS X初の公式リリースであるMac OS X v10.0 (Cheetah)が発売される。G3以降のMacを動作対象にしており、OPENSTEPで評価が高かった開発環境(Interface Builder・Project Builder)が標準で付属していた。Aquaは「Macらしさ」を重視して大きく改良されていたが、Mac OS 9にあった機能が多く省かれており、動作が非常に遅いという欠点があった。時を同じくしてAppleは、Macintoshを核に様々なデジタル機器を連携させる「Digital Hub」という構想を打ち出した。
2001年9月25日、Mac OS X v10.1 (Puma) を公式リリース、Mac OS X v10.0の登場からわずか7か月での発売だった。10.0からの無償アップグレードサービスが行われる。動作速度の問題が改善されたほか10.0に欠けていた様々な機能が追加され、実用的に使える初めてのバージョンとなった。マイクロソフト、アドビなどから少しずつ対応ソフトがリリースされ始め、先進的ユーザから受け入れられる。
2002年8月24日、Mac OS X v10.2 Jaguarがリリース。動作速度がより向上し、細かい部分の使い勝手に多くの改良が施された。事実上、このバージョンが現在に続くMac OS Xの完成型と言える。このバージョンからMac OS Xのみが起動する(Mac OS 9をサポートしない)Macが販売された。
2003年10月24日、Mac OS X v10.3 Pantherが発売された。 iPodの売れ行きの好調さ、デジタルカメラやデジタルビデオカメラ、無線LAN環境の普及により、パソコンの「Digital Hub」化の流れが定着した。Mac OS Xでも大手印刷会社への入稿受け入れが整ったため、遅れていたデザイン、出版分野への導入が徐々に進み始める。またライセンス使用料の追加がないクライアント無制限のMac OS X Server搭載の1UサーバXserve導入とディスクレスNetBoot機能が評価され、東京大学[22]、東京女子大学に大量導入された。
2005年4月29日、Mac OS X v10.4 Tiger発売。システム内部が大きく進化した。セキュリティ機能が充実し、あおぞら銀行[23]、神戸大学にNetBoot端末としてiMac G5が大量導入された[24]。単体リリースはないが、このバージョンより、Mac OS XをIntel対応化した。
2007年10月26日にMac OS X v10.5 Leopardがリリース。300以上にも及ぶ新機能が搭載された。iPhoneのソフトウェア開発を優先させるため当初の予定から発売が延期された。
2009年8月28日、Mac OS X v10.6 Snow Leopardが発売され、Intel Macのみをサポートした初のバージョンとなった。Finder・QuickTimeが全面的に作り直されるなどシステム全般にわたるブラッシュアップが行われるメジャーアップデートながら、シングルユーザライセンスは米国で29ドル、日本では3300円と低価格で提供されている。
2010年10月21日、Mac OS X Lion発表。Exposé・Dashboard・Spacesの各機能に統合されたアクセスを提供する"Mission Control"を搭載するほか、ソフトウェア販売サービス"Mac App Store"やフルスクリーンのウィンドウ表示、ランチャー"LaunchPad"などiOSに由来する機能を搭載。Mac OS X v10.5 Leopard以来の大幅な機能とインターフェイスの刷新となる。2011年2月24日には、公式サイトにさらなる新機能の説明が追加された。LaunchPadやAirdropなどを含む250を越える新機能を追加し、64ビットマルチコアCPU(Intel Core 2 Duo以降)のみをサポートする。7月20日にMac App Storeでダウンロード販売を開始した。8月17日には、USBメモリ版も発売された。
2012年2月16日、OS X Mountain Lion発表。メッセージやリマインダー、AirPlayをはじめとする100を越える新機能を追加[25]。このリリースより、製品名から "Mac" が外され、単に "OS X" と呼ばれるようになった。
2013年6月10日、OS X Mavericks発表。無償提供になり、マップやiBooksなど200以上の機能が追加。このバージョンから実在の地名が使用される。
2014年6月2日、OS X Yosemite発表。iOS 8やiCloudとの緊密な連携を実現させている。
2015年6月9日、OS X El Capitan発表。UIにSplit View、グラフィックシステムにiOS同様の高速化を図るMetalを導入した他、日本語入力システムやフォントの充実など日本語環境を強化している。
2016年6月13日、macOS Sierra発表。このバージョンから、iOS、tvOS、watchOSに合わせた "macOS" という名称に変更された。MacでもSiriが利用可能になったほか、Apple Watchを使用したMacのロック解除、 ストレージの最適化機能などを導入した。
2017年6月5日、macOS High Sierra発表[26]。Apple File SystemやHigh Efficiency Video Coding, High Efficiency Image File Formatなどを導入。
iPod
2001年、それまで主流だったフラッシュメモリ型とは一線を画す、大容量ハードディスクドライブ型携帯音楽プレイヤー『iPod』を発売。当初は価格の高さにより売れ行きを疑問視する声が少なくなかったが、直感的な高い操作性と、管理ソフトiTunesとの抜群の連携機能もあり、徐々に売上を伸ばす。
当初はMac版しかなかったiPodであるが、後にWindows版のiPodも発売される。その後、Windows用・Mac用といった区分けはされなくなり、Windows向けiTunesが提供された頃からヒット商品となる。そして廉価版とも言えるiPod miniを登場させた事で、爆発的にヒットする。
さらに2003年には、音楽配信サイトのiTunes Music Store(現在のiTunes Store)を開始。2004年には、iPodをヒューレット・パッカードにライセンスするなど、携帯音楽市場で、米国を中心に独占的な地位を確保するに至り、既存の音楽産業の構造を根本から変え、タワーレコードやHMVといった音楽CDショップが破産、米国の街中から姿を消した。
日本でも、ソニーのウォークマンを圧倒し、2003年以降一貫してデジタル携帯音楽プレーヤーのシェア1位となる。iPod miniの後継モデルとしてiPod nano、また「シャッフル再生」というコンセプトをメインに据えることにより、低価格化とより一層の小型化を実現したフラッシュメモリ型のiPod shuffleも発売され、人気を博した。
iTunes Music Storeは日本においては、2005年8月4日より開始された。登録楽曲数100万曲、1曲150円か200円という低価格で始まり、開始よりわずか4日で100万曲ダウンロードを達成する。ポッドキャストと呼ばれる新しいデジタル配信媒体を構想し、テレビよりも技術革新が進まないラジオのデジタル化に革新をもたらすことが期待されている。現在Apple社において最も収益を上げている部門であり、Macにもそのハロー効果が及びはじめている。
iPodが登場した当初は、現状のような大成功を収めると思っている関係者が多かったわけではない。初期には価格の高さ、利用にはパソコンが必須となるコンセプトが理解されなかったことにより、懐疑的な意見が多くあった。しかし2001年前後にAppleが提唱していたコンセプト「デジタルハブ」(多くのデジタル機器の中心にパソコンを据えるというコンセプト)構想が時宜を得て、iPodは携帯型音楽プレイヤーの代名詞となった。
iPhone
2007年1月9日、Appleは新製品iPhoneを発表し、スマートフォン市場へ進出した。同年6月29日米国で発売。iPhoneは高機能携帯電話+iPod+インターネット端末と発表され、マルチタッチスクリーンなど先進的でユニークなデザインが話題を呼び、世界的な話題となった。
その後iPhoneのOSはMac OS Xベースであることが公表され、2008年6月にはiPhone OS SDKが公開される(iPhone OSは後に名称を"iOS"(アイオーエス)に変更)。AppleにとってはNewton以来の実質的なPDAへの復帰である。2008年6月9日には、第三世代通信規格のUMTS、高速通信のHSDPAやA-GPSに対応したiPhone 3Gが発表された。この機種より日本でも発売されている。
その後も年1回のペースで改良を重ね、ブランド、売上において同社の主力製品となっている。
iPad
2010年1月28日、Appleは新製品iPadを発表し、タブレットPC分野に進出した。製品発表会において、スティーブジョブズはiPhoneとMacBookの間となるものと位置づけていると語った。
iPhoneと同じオペレーティングシステムを採用しており、多くのソフトウェアはiPhoneと互換性がある。マルチタッチスクリーンを採用している。また、米国内で発売される当端末にはiBooksが搭載され、iBookStoreを開設し電子書籍分野にも進出することを発表した。
2012年10月24日の製品発表会で手のひらサイズに小型化したiPad miniを発表。同時に、iBooksとiBooks Authorのバージョンアップを発表し、教育現場におけるiPad活用をアピールした。[27]
ジョブズ退任と死去
2011年1月18日、ジョブズが病気を理由に休職することが発表された。日常業務は前回(2009年前半)同様ティム・クックCOO(最高執行責任者)に任せるが、CEOにはとどまり、大きな戦略的決定には関与するとしている。
2011年8月24日、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任。取締役会の承認を受けて会長職へつく。ジョブズがCEOを退任する8月には、Appleは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。
2011年10月5日、スティーブ・ジョブズ死去。56歳没。同日同社の公式サイトでは、すべての言語のTOPページにジョブズのモノクロ写真が掲載され追悼を行った。
法人向けビジネスの拡充と異業種提携
2015年以降、アップルは法人向けのサービスや異業種との提携を相次いで発表。一般消費者向けと法人向けの両市場で拡大を図る米Googleや米Microsoftへの対抗を意識し、法人向けビジネスのシェア拡大を推進している。2015年には米ビジネスコンサルティング大手デロイトとの法人向け販売の強化[28]、2016年にはドイツの大手ソフトウェア企業SAPと組んで法人向けクラウドサービスへの参入や人工知能の業務への活用[29]、米通信機器大手シスコシステムズの製品と連携可能にする[30]など、法人市場におけるシェア拡大に取り組んでいる。
環境への取組みと太陽光発電事業
アップルは、2004年から同社の使命として環境のページを運用してきたが[31]、2014年に環境への取り組み担当VPとしてリサ・ジャクソンを採用し[32]、環境に対する取組みを加速させ、100%を目指し再生可能エネルギーの利用(RE100プロジェクト参加[33])とリサイクルを促進している[34]。米国内では、ノースカロライナ州、オレゴン州、ネバダ州、アリゾナ州[35]、カリフォルニア州[36]で、大規模な太陽光発電など再生可能エネルギー事業へ投資している[37][38][39][40]。また、中国での太陽光発電事業を支援・促進し[41][42]、アイルランドとデンマークに建設するデータセンターは再生可能エネルギーだけを利用する[43]。
Apple Park
2011年にスティーブ・ジョブズCEOの元で進められていた新本社Apple Campus 2(当時)、2017年2月に同年4月より6ヶ月をかけて移転が行われることが発表された。名称もこれまでのApple Campus 2から正式にApple Parkとして決定した[44]。2018年2月16日に本社所在地住所もApple Parkへ変更された[45][46]。
データセンター
AppleはAWS, Google Cloud, Microsoft Azureを利用する[47]とともに、自社データセンターも運用している。米国内では、ノースカロライナ州Maiden, カリフォルニア州Newark, オレゴン州Prineville, ネバダ州Reno, アリゾナ州Mesaに、米国外ではデンマークViborgで建設中であり, アイルランドAthenryにも計画がある[48]。
コンテンツデリバリネットワーク
Appleはコンテンツデリバリネットワークとして、1999年からアカマイ[49]やLevel 3を中心に利用していたが、2014年から自社CDNの運用を開始、併用している[50]。
歴代CEO
氏名 | 在任期間 | |
---|---|---|
初代 | マイケル・スコット | 1977年 - 1981年 |
2代 | マイク・マークラ | 1981年 - 1983年 |
3代 | ジョン・スカリー | 1983年 - 1993年 |
4代 | マイケル・スピンドラー | 1993年 - 1996年 |
5代 | ギル・アメリオ | 1996年 - 1997年 |
6代 | スティーブ・ジョブズ | 1997年 - 2000年(暫定) 2000年 - 2011年 |
7代 | ティム・クック | 2011年 - |
製品・事業
ハードウェア
|
ソフトウェア・サービス
過去の製品
- ハードウェア
- デスクトップ
- Apple I - Apple II - Apple III - Lisa - Macintosh XL
- Macintosh - Macintosh Plus(en) - Macintosh SE(en) - Macintosh Classic - Macintosh Classic II(en) - Macintosh Color Classic
- Macintosh II - Macintosh IIx(en) - Macintosh IIcx - Macintosh IIci(en) - Macintosh IIfx(en) - Macintosh IIsi(en) - Macintosh IIvi(en) - Macintosh IIvx(en)
- Macintosh LC - Macintosh LC II - Macintosh LC III - Macintosh LC 475
- Performa
- Macintosh Quadra -Macintosh Quadra 700 -Macintosh Quadra 900 - Macintosh Quadra 950
- Macintosh Centris(en)
- Power Macintosh- Power Macintosh G3 (Blue & White)
- Power Mac - Power Mac G4 - Power Mac G4 Cube - Power Mac G5
- eMac
- 20th Anniversary Macintosh
- ラップトップ(ノートブック型)
- サーバー
- Apple Newton
- MessagePad - MessagePad 100 - MessagePad 110 - MessagePad 120 - MessagePad 130 - eMate - MessagePad 2000 - MessagePad 2100
- iPod
- iPhone
- iPhone - iPhone 3G - iPhone 3GS - iPhone 4 - iPhone 4S - iPhone 5 - iPhone 5c - iPhone 5s - iPhone 6 - iPhone 6 Plus
- プリンター
- LaserWriter - Color StyleWriter - ImageWriter(en)
- その他周辺機器
- ColorOneScanner(en) - QuickTake - iPod mini - iPod Hi-Fi - iSight - Apple Thunderbolt Display - Apple Battery Charger
- デスクトップ
- ソフトウェア
- AppleShare
- AppleWorks
- QuickTime Pro
- QuickTime Streaming Server
- QuickTime Broadcaster
- Shake - クロマキーの高度なキーイングが可能な映像編集ソフト。
- WebObjects - 世界初のWebアプリケーションサーバ
- Final Cut Studio
- DVD Studio Pro - プロフェッショナル向け DVD オーサリング環境
- Soundtrack Pro - プロフェッショナル向けサウンドトラック編集環境
- Color - カラーコレクションツール
- Final Cut Server - プロフェッショナル向けデジタルアセット管理環境
- iPhoto
- Logic Express
- Logic Studio
ロゴマーク
Appleが創業されたときのロゴマークは、アイザック・ニュートンがリンゴの木に寄りかかって本を読んでいるところをモチーフにした絵(ロン・ウェインのデザイン)であった。しかしこれでは堅苦しいと考えたスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケンナ社のアートディレクターロブ・ヤノフに新しいロゴマークのデザインを依頼する。最初はモノクロだったが、ジョブズが、Apple IIのカラー出力を印象づけるため、カラー化を指示し、6色の横縞が追加された。横縞のないモノクロのロゴも、マニュアル、製品包装などの白黒の印刷物に引き続き使用された。
1985年、芸術家でポップアートの旗手として有名なアンディ・ウォーホルは、Appleとのコラボレーションにより6色AppleのMacintoshロゴマークをモチーフにした作品「APPLE」を発表。晩年の代表作である。
1997年にジョブズが暫定CEOとしてAppleに復帰すると、黒のボディに白抜きの大きなAppleロゴを大胆にあしらったPowerBook G3を発表。続いて1998年に発表されたiMacでは、従来のApple製品に長らく採用されていた6色に塗りわけられたロゴは外装には使われず、立体的にデザインされた単色ロゴを採用し、新生Appleを人々に強く印象づけた。1999年以降は、6色ロゴは全く使われなくなり、単色のロゴが使用されている。
その後、2017年に公開されたiOS 11では、端末内にあるデフォルトの壁紙の中に、上記の6色ロゴと同じ配色の斜め線が施された壁紙が7種類用意されている。
CM
コンピュータ企業には多い傾向だが、特にいわゆるWintelに対して挑戦的なCMを製作する。IBMがパソコン業界に参入したときは「Welcome!」と出迎え、ファイル名が8.3形式の文字の制限が緩和されたMicrosoft Windows 95の発売に対し、広告で『C:\ONGRTLTN.W95』(「congratulations Windows 95」を8.3形式で無理矢理表現したもの)と皮肉った祝辞を送り、発熱量の多いインテルチップが高温で燃えるようなCMも作っていた。
そんなAppleのCMで、とりわけ話題になったものがある。それは、1984年のスーパーボウルの試合中に放送された。タイトルは、その名の通り「1984」。内容は、「1984年1月24日、Apple ComputerはMacintoshを発表いたします。そして我々は、今年1984年がSF小説『1984年』に描かれているような年にならないということをお目にかけましょう…」と言うもの、このCMは、映画「エイリアン」や「ブレードランナー」、「ブラック・レイン」などを手掛けた監督・リドリー・スコット作によるもので、ビッグ・ブラザーなる独裁者をIBMに見立てており、闇を支配する独裁者を打ち砕くという内容だった。センセーショーナルなこのCMは、数々の賞を総なめにした。このCMは、スーパーボウルで1度だけ放映されたものだが、実際には、その話題性から放映後、ニュース等で繰り返し流されることになり、結果的にAppleはCM料を払わずに宣伝していたことになる。なお、後に期間限定で蘇っており、同CM中では独裁者を打ち砕く女性がiPodを身につけている。[51]。
2006年より、アメリカ合衆国およびヨーロッパで、"I'm a Mac", "I'm a PC" の台詞から始まるGet a Macと呼ばれるCMを放映していた。それには、カジュアルな服装のMac役のジャスティン・ロングと背広にネクタイのPC役のジョン・ホッジマンとの2人のショートコント仕立てで、Microsoft Windowsとの比較広告を行っていたもので60編以上ある。他の国では、基本的に米国版(フランス・ドイツ・イタリアでは各言語に吹き替えられている)を流していたが、日本とイギリスでは別制作のCMを放映した[52][53]。日本ではコンセプトを継承しつつ、お笑い芸人ラーメンズ(Macが小林賢太郎、PCが片桐仁)を起用したものとなり、内容は基本的に米国版を踏襲している。このCMは米国版のうちの十数編のみのローカライズであるが、いずれもPCのコンピュータウイルスに対する脅威(Macではウイルスが無いような表現をしている)、マルチメディアへの弱みを皮肉る内容である。
Apple Store
アップルによって運営されている直営の販売店および技術サポート拠点。2016年1月現在、世界18か国に470店舗以上がある[54]。日本には8店舗が出店されている。
2016年、Appleは各店舗の名称から"Store"表記を削除し、単に"Apple"とした。
サポート
iPhone・iPadを例として挙げた場合、基本的にキャリアショップでの修理受付は行っていない[55](一部の直営店舗を除く[56])。
その代わり、アップル製品の正規サポートについて、直営店舗Apple Store内にある修理受付の「Genius Bar」、Appleリペアセンターへの送付、アップルと契約している「Apple正規サービスプロバイダ」で行っている[57]。
「Apple正規サービスプロバイダ」については、修理を担当するスタッフが認定資格を取得していること、アップルが要求する店舗が用意出来るなどの基準を満たしており、アップルの保証を使って修理出来る。料金については、運営する事業者により異なっている[58]。
また、製造終了から5年以上7年未満の製品を「ビンテージ製品」とし一部の国を除いてサポートを終了。7年以上の製品を「オブソリート製品」として、全ての技術サポートを終了している[59]。
Apple Japan
Apple Japan合同会社(英: Apple Japan, Inc.)は、アップルの日本法人である。2011年に、有限会社アップルジャパンホールディングスから改称した[60]。
当初の日本法人は、1983年6月21日にアップルコンピュータジャパン株式会社として設立され、その後1992年2月にアップルコンピュータ株式会社に、さらに2007年3月1日にアップルジャパン株式会社へと商号変更された。
2011年10月30日に、アップルジャパン株式会社はApple Japan合同会社を存続会社として吸収合併されて消滅し[61]、現行の体制となった。
設立当初は、赤坂ツインタワービル本館に入居していた。1992年2月から1996年10月までの所在地は東京都渋谷区千駄ヶ谷。同年11月以降2013年4月までは東京オペラシティタワーに本社を置く[62]。2013年5月7日以降、六本木ヒルズ森タワーに本社を置いている[63][64]。
日本での開発拠点として、2015年度に横浜市・みなとみらい地区の横浜アイマークプレイス内に「テクニカル・デベロップメント・センター」を設置し[65][66][67][68][69]、さらに2016年12月には横浜市綱島のTsunashima サスティナブル・スマートタウン内に、本格的な研究開発施設となる「綱島テクニカル・デベロップメント・センター(綱島TDC)」が完成している[70][71][72][73]。
日本法人設立前のApple II 時代は代理店は数社あり、文京区本郷にあるESDラボラトリが最大手で、BMCインタナショナルなどが日本語マニュアルなどを作成して販売していた。日本語版Apple II であるj-plusを投入する際に、Apple本社は両社を切り、東レを総代理店とした。
数年後、東レからアップルコンピュータジャパン設立委員会に移管し、日本法人が設立されるまで、キヤノンの子会社であるキヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)がほぼ総代理店を務めていた。
日本法人設立後も、キヤノン販売(ゼロワンショップ)でのMacintosh独占販売はしばらく続いたが、一般消費者向け量販シリーズであるPerfomaシリーズ発売の1993年頃に、大手家電量販店に販路を拡大、Macintoshの販売はこちらが主体となり、キヤノン販売は2002年頃までにApple製品を含む一般向けコンピュータ販売事業(ゼロワンショップ)から撤退した。
1999年12月7日、AppleはiMacやiBookの販売価格を小売店に指示したという独占禁止法の違反容疑で公正取引委員会から立ち入り調査[74]を受け、2000年10月3日には独占禁止法違反の疑いで警告[75]を受けている。
歴代社長
- 1983.6 - 1985 福島正也[76]
- 1985 - 1989 ロバート・コーリー[77]
- 1989.3 - 1994.7 武内重親[78][79]
- 1994.7 - 1995.7 三田聖二[80]
- 1995.7 - 1997.4 ジョン・フロイサンド[81][82](代表取締役会長)
- 1996.6 - 1997.4 志賀徹也[83]
- 1997.4 - 2004.2 原田泳幸[84]
- 2004年10月より以下の2人が就任
- 2009.10 - 2010.2 ジェニファー・ベーリー[85](現Vice President of Apple Pay)
- 2010.3 - 2014.5 ダグラス・ベック(現Vice President, North America and Northeast Asia Sales[86])
- 2014.5 - ダニエル・ディチーコ 元BMG Japanの代表取締役社長、コーチジャパンCEO[87]
取扱店
- Apple Shop
- Apple Japanは、これまで米国法人直営のApple Storeが展開してきた全ラインアップの展示・販売方法のスタイルを継承した店舗を、家電量販店のビックカメラ有楽町店本館5階にオープンさせた。今後も家電量販店内への出店を進める予定。この場合、Apple Shopとして[88]店頭販売スペースのレイアウトや、商品知識など、直接のガイドラインの指導が行われ、Apple Expertまたは販売店のApple Product Professionalが専任スタッフとして常駐している。
- Apple Value Added Reseller
- Appleと、システム構築を含めたApple製品のソリューション販売を行う契約を結んでいる正規代理店。
- 法人・公共機関向けの導入はApple Business VARが担当する。また、教育機関向けには、日本ではApple Education VARプログラムが展開されている。
- Apple Consultant Network
- Apple Consultants Networkは、Apple認定資格を取得しているプロフェッショナルが在籍するITソリューションやITコンサルタントの法人がメンバーの枠組み[89]。
騒動・不祥事
アップル対アップル訴訟
ビートルズが所有したアップル・コアと「Apple」の名称およびロゴの使用を巡って裁判で争ったことがあり、Apple Computerが音楽事業を行わないことで和解していたが、iPod や iTunes の登場によって契約違反として再度訴訟問題となった。この問題は、2007年に、Apple Inc. がアップル・コアに5億ドルを支払って「Apple」に関連する商標権を保有し、アップル・コアがライセンスを得て使用することで最終的に和解した[90]。
電子書籍の価格操作で独禁法違反
2013年7月に米連邦地裁は、Appleが電子書籍の価格をつり上げるために、出版大手5社と共謀したと認定、独禁法違反であると判決を下した。大手出版社やAppleと交わしている電子書籍のエージェンシーモデル価格契約を違法であるとアメリカ合衆国司法省が2012年5月に告発した裁判で、アップルに有罪判決が下った。本裁判を担当したマンハッタン連邦地裁のデニス・コート判事の判決文によると、「2009 - 2010年当時の状況に絞って考えると、Amazon.comの独占に対抗するために、アップルや大手出版社が価格を引き上げようとした動機は理解できるが、その行為自体は法的に正当化されるものではない」と判決理由を明らかにしている[91][92]。
2014年4月に、アップルが電子書籍の分野で、大手出版社5社と価格カルテルを結んでいたとして33州・領土の検事総長らが提起した訴訟について、米連邦裁判所のデニス・コート判事は、アップル側の訴訟の取り下げ請求を棄却した。今回の判断により、検事総長らは損害賠償請求を進められることになった。コート判事は7月、アップルが電子書籍の価格をつり上げるため、2009年 - 2010年に出版社と共謀し、公正な競争が阻害されたとの判断を下した。アップルは州当局が損害賠償を請求する法的根拠はないと主張。判事はこうしたアップルの主張を退けた[93]。
スイス連邦鉄道の時計デザイン盗用問題
アップルのモバイル端末向けOSのiOS 6に搭載される時計ウィジェットアプリが、スイス連邦鉄道の時計のデザインを盗用しているとして[94]、スイス連邦鉄道がアップルを相手に法的措置に踏み切った。 アップルはスイス連邦鉄道に対し、ライセンス料として2000万スイスフラン(約16億7000万円)を支払う事で和解した[95]。
島野製作所との訴訟
アップルの日本における下請会社の一つである島野製作所が、2012年にアップルから増産を指示され、これを受ける形で設備投資を行ったものの、直後に取引を急減させられた上、納入価格を半額にするよう要求され、さらに約1459万ドルのリベートも支払うよう求められた。同社はこれらについて、不当取引であるとして東京地方裁判所に100億円の損害賠償を求め提訴。この訴訟に関連して、「両社間の紛争はアメリカの裁判所で解決する」と両社が合意していたことの有効性についての中間判決が2016年2月15日に同地裁で言い渡され、「合意が成立する法的条件を満たしておらず無効」として、日本国内で審理することが決まった[96]。 2016年3月18日、アップルを訴えていた島野製作所が請求を棄却され敗訴した[97]が、 島野製作所は控訴した[98]。
子会社の源泉徴収漏れ
米アップルの子会社であるiTunes株式会社が、東京国税局から所得税の源泉徴収漏れを指摘され、約120億円を追徴課税されていたことが、2016年9月に判明した。音楽・映像の配信事業に於いて、アイルランドのグループ企業に資金移転した、タックス・ヘイヴンでの利益の一部について、源泉所得税を納める必要のある「配信事業でのソフトウェア使用料」に相当すると判断された[99]。
iPhone販売契約における独禁法違反の疑い
2018年7月11日、公正取引委員会の報告書によって、アップルがNTTドコモ・KDDI(au)・ソフトバンク(※以下、キャリア3社)それぞれと、iPhone販売方針に関する「iPhoneアグリーメント」と呼ばれる契約を結んでいたことが発覚した。アップルに独占禁止法違反の疑いがあるとして、2016年10月から公正取引委員会による調査が行なわれたことにより、この契約が明るみに出た。この契約によりアップルは、本来、キャリア3社が毎月の通信料の引き下げに充てるはずの資金を、iPhoneの割り引きに充てるように義務づけていた[100][101][102]。
独占禁止法は、取引相手のビジネスを不当に縛る行為を禁じており、公正取引委員会は、「iPhoneアグリーメント」が壁になり、キャリア3社が月々の通信料が安いプランを消費者に提供できない状態が続いたことが問題だと指摘した。これらの問題を受けて、アップルがキャリア3社との契約を改定するとの申し出をしたことにより、公正取引委員会による調査は終了した[100][101][102]。
脚注
- ↑ 原丈人2007『21世紀の国富論』
- ↑ “米アップルコンピュータ、社名をアップルに変更へ”. ロイター (2007年1月10日). . 2007年9月25日閲覧.
- ↑ “米アップル、時価総額史上最高を記録 6230億ドル規模”. CNN (2012年8月21日). . 2012年8月21日閲覧.
- ↑ 「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)でのウォズのコメントで、社名選考でジョブズが「Appleというのはどうか?」と突然言い出し、それに対して「僕もジョブズも音楽好きであったので、ビートルズのレコード会社として有名なAppleから思いついたのかもしれない」との記載がある
- ↑ ウォルター・アイザックソン、2011、『スティーブ・ジョブズ』上、 講談社
- ↑ Apple's lost founder:Jobs, Woz and Wayne
- ↑ Lisaの名前は、ジョブズが当時付き合っていた女性との非嫡出子の名前からとったとされているが、ジョブズ本人はその娘の名前からとったことは認めていない。
- ↑ [1]
- ↑ “米Apple、4億ドルで米NeXT Softwareを買収、ジョブズ氏も古巣に復帰”. PC Watch (1996年12月21日). . 2012閲覧.
- ↑ Acquisition Brings New Talent to Apple
- ↑ “Apple’s CEO Is Ousted as Steve Jobs’ Role Expands”. Los Angeles Times. (1997年7月10日)
- ↑ OpenDoc、Cyberdogの開発中止 2,700人をレイオフ 米Apple社、リストラプランを公開。一部技術開発の停止も PC Watch (1997年3月14日)
- ↑ スティーブ・ジョブズがAppleを葬った日 (3/3) ITmedia (2007年02月16日)
- ↑ Mac OS Release Strategy MacWorld Boston 1996 (1996年8月8日)
- ↑ Landi latest to go at Apple CNET (1997年2月19日)
- ↑ Amelio's right-hand man quits CNET (1997年5月20日)
- ↑ Apple exodus continues as De Luca departs CNET (1997年9月17日)
- ↑ “Microsoft、Appleに1億5千万ドルを投資、共同開発も”. PC Watch (1997年8月7日). . 2012閲覧.
- ↑ “Apple、Macintosh互換機メーカーPower Computing社を事実上買収”. PC Watch (1997年9月3日). . 2012閲覧.
- ↑ 受賞対象名 - パーソナルコンピューター [iMac]GOOD DESIGN AWARD
- ↑ With Apple Watch, a Naming Tradition Ends
- ↑ “東京大学:iMacとXserveが選択される理由”. Apple.Inc. . 2012年3月3日閲覧.
- ↑ “あおぞら銀行が業務クライアントをMacに移行、その理由とは?”. Enterprise Watch (2005年10月21日). . 2007年9月25日閲覧.
- ↑ “神戸大学学術情報基盤センター 1215台のMacをNetBootで管理 国内最大規模の情報教育システム”. Apple.Inc. . 2007年9月25日閲覧.
- ↑ Apple、100以上の新機能を搭載したOS X Mountain Lionのデベロッパプレビューをリリース
- ↑ macOS High Sierra、先進のテクノロジーをストレージ、動画、グラフィックスに
- ↑ “アップル - スペシャルイベント”. アップル (2012年10月24日). . October 24, 2012閲覧.
- ↑ アップル、デロイトと組み企業向け販売強化
- ↑ 米アップル、独SAPと提携 法人向けクラウドサービス開発
- ↑ アップルとシスコ、提携を発表--法人向けにiOSデバイス普及強化へ
- ↑ アップルと環境 Wayback Machine 2004年12月6日
- ↑ Apple、幹部紹介ページに女性2人を含む副社長5人を追加(ダイバーシティのアピールか) ITmedia 2014年08月18日
- ↑ アップルが「RE100」加盟、サプライヤーにも再エネ100%の動き 日経テクノロジー 2016年9月23日
- ↑ 地球にふさわしい、最高のアイデアを。 アップル
- ↑ アップル社がアリゾナ州メサに建設した50MWメガソーラー 日経テクノロジー 2016年9月23日
- ↑ 米アップル、280MWのメガソーラーから電力購入、総額8億4800万米ドルの電力購入契約を締結 日経テクノロジー 2015年2月14日
- ↑ アップルのデータセンター「再生エネルギー100%」に Wired 2013年03月27日
- ↑ アップルがエネルギー戦略を加速、再生可能エネルギーの利用率75%に到達 ITmedia 2013年03月27日
- ↑ Apple announces plans for $2 billion solar-powered “command center”
- ↑ 太陽光の電力に1000億円を投入、アップルが25年契約で調達 ITmedia 2015年02月13日
- ↑ アップルが40MW分の営農型メガソーラー、発電と牧草栽培 日経テクノロジー 2015年4月21日
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- ↑ 『Appleの新本社アップル・パークを写真と映像で紹介』 2017年2月28日 Onebox News
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- ↑ auがiPhoneとiPadの店頭修理サービスを開始。au SHINJUKUにて本体やバッテリーの即日交換が可能に - engadget 2016年6月1日
- ↑ Genius Barの予約とAppleサポートのオプション - Apple(日本)
- ↑ iPhone修理の細かすぎるまとめ 6/6 Plusの画面修理や5のボタン修理はアップル本体のほうが安かった(4/8) 【身近な正規サービス】全国でアップル本体と同等の修理が受けられる - 日経トレンディ 2015年3月17日
- ↑ ビンテージ製品とオブソリート製品 - Apple サポート
- ↑ 2011年(平成23年)6月20日『官報』第5579号31ページ「組織変更公告」
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- ↑ Fürs iPadApple klaut Bahnhofs-Uhr der SBB
- ↑ Appleがスイス連邦鉄道時計のデザインを盗用した件で約17億円を支払いへ
- ↑ 米アップル社のお手盛り契約にNO! 荒川区の下請け部品メーカーの損賠訴訟を東京地裁で審理へ 産経新聞 2016年2月16日
- ↑ 島野製作所がアップルに敗訴 特許権侵害巡り、東京地裁 - 日本経済新聞
- ↑ アップルに敗訴の島野製作所が控訴 - 産経ニュース
- ↑ アップル子会社 音楽配信巡り追徴 120億円納付 利益、アイルランド子会社に 国税指摘 毎日新聞 2016年9月16日
- ↑ 100.0 100.1 “Appleは大手3キャリアと「iPhone Agreement」なる契約をかわし、iPhoneの販売にプレッシャーを課していたことが判明”. BIGLOBEニュース. (2018年7月12日) . 2018閲覧.
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参考文献
- オーウェン・W・リンツメイヤー・林 信行 『アップル・コンフィデンシャル2.5J(上)・(下)』 武舎 広幸・武舎 るみ、アスペクト、2006年。ISBN 978-4757212541・ISBN 978-4757212558。
- ブレント・シュレンダー, リック・テッツェリ 『スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで』 井口 耕二訳、日本経済新聞出版社、2016年。ISBN 978-4532321000 (上), ISBN 978-4532321017 (下)。
関連項目
- アップルの合併・買収リスト
- アップル認定資格プログラム
- Apple User Group
- TBWA\CHIAT\DAY(担当広告代理店)
- TBWA\JAPAN(TBWAワールドワイドの日本法人)
- パロアルト研究所
- インターネット協会
外部リンク
https://support.apple.com/ja-jp/HT201232 appleサポートセンターへの連絡先 [{{#property:P856}} Apple] (英語)
- Apple (日本語)
- Apple - 公式YouTubeチャンネル (英語)
- Apple Japan - 公式YouTubeチャンネル
- アップルの取り組み プライバシー(日本語)