スクーデリア・フェラーリ
スクーデリア・フェラーリ(伊: Scuderia Ferrari[※ 1])は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリが運営するワークス・レーシングチームである。現在はF1のコンストラクターとして活動しているが、かつてはスポーツカー世界選手権にも参戦していた。
「スクーデリア(伊: scuderia)」はイタリア語の厩舎から転じた、「チーム」に当たる言葉で、英語のsquadに相当する。
Contents
概要
エンツォ・フェラーリによってアルファロメオのセミワークスレーシングチームとして発足し、独立後は一貫してシャーシとエンジンを内製するフルコンストラクターとして活動を続けている。
F1世界選手権創設時から参戦し続けている唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のドライバーズチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。
フィアット傘下に入り経営効率化が進められた1970年代以降は、F1活動に専念しているが、それ以前はF2やヒルクライムレース、GT/スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、各種カテゴリーでも成功を収めている。ル・マン24時間レースでは歴代3位となる9勝を記録した。
現在は、開発及び人的資源の分散により効率化向上を目的に、F1は「ゲスティオーネ・スポルティーバ(Gestione Sportiva/ GES)」部門[1]、GTによるレースと「フェラーリ・チャレンジ」、「F1クリエンティ」と「XXクリエンティ」プログラムなどは「コルセ・クリエンティ」部門と分割されている。
チームのファクトリーはマラネッロのフェラーリ本社内の市販車の工場に隣接し、敷地内には社有のテストコースである「ピスタ・ディ・フィオラノ」(フィオラノサーキット)がある。
歴史
創成期
1929年に、アルファロメオのレーシングドライバーで、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初はレース愛好家をサポートするディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[2]。
1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォは現役を引退してチーム運営に専念し、アルファ・ロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして活躍した。ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権のサポートも受けて参戦した1935年のドイツGPでは、タツィオ・ヌヴォラーリが強力なドイツ勢を破り、歴史的な勝利を記した。
1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。1940年にはエンツォにより「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」の社名でモータースポーツに参戦するが、同年にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため活動は中止となった。
エンツォが第二次世界大戦後の1947年にフェラーリを興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。F1やミッレ・ミリア、ル・マン24時間レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。
1950年代
1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。
アルファロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌1953年も連覇を達成した。アスカリの個人9連勝[3]、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付き記録)。
1954年と1955年にメルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(ランチア・フェラーリ D50)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノ」V6エンジン搭載車でマイク・ホーソーンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 125F1 375F1 |
1.5L V12SC 4.5L V12 |
テンプレート:Pirelli | アルベルト・アスカリ | 0 | 0 | -* | -* |
ルイジ・ヴィッロレージ | ||||||||
1951年 | 375F1 | 4.5L V12 | テンプレート:Pirelli | アルベルト・アスカリ | 3 | 3 | -* | -* |
フロイラン・ゴンザレス | ||||||||
ペーター・ホワイトヘッド | ||||||||
ルイジ・ヴィッロレージ | ||||||||
1952年 | 500F2 | 2.0L L4 | テンプレート:Pirelli | アルベルト・アスカリ | 7 | 7 | -* | -* |
ピエロ・タルッフィ | ||||||||
ジュゼッペ・ファリーナ | ||||||||
1953年 | 500F2 | Tipo106 2.0L L4 |
テンプレート:Pirelli | アルベルト・アスカリ | 8 | 6 | -* | -* |
マイク・ホーソーン | ||||||||
ジュゼッペ・ファリーナ | ||||||||
ピエロ・タルッフィ | ||||||||
1954年 | 553F1 | Tipo107 2.5L L4 |
テンプレート:Pirelli | アルベルト・アスカリ | 2 | 2 | -* | -* |
フロイラン・ゴンザレス | ||||||||
マイク・ホーソーン | ||||||||
ジュゼッペ・ファリーナ | ||||||||
ピエロ・タルッフィ | ||||||||
1955年 | 555F1 | Tipo106 2.5L L4 |
テンプレート:Englebert | フロイラン・ゴンザレス | 1 | 2 | -* | -* |
ジュゼッペ・ファリーナ | ||||||||
ピエロ・タルッフィ | ||||||||
エウジェニオ・カステロッティ | ||||||||
1956年 | D50 | 2.5L V8 | テンプレート:Englebert | ファン・マヌエル・ファンジオ | 5 | 6 | -* | -* |
ピーター・コリンズ | ||||||||
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
ルイジ・ムッソ | ||||||||
エウジェニオ・カステロッティ | ||||||||
1957年 | 801F1 | 2.5L V8 | テンプレート:Englebert | マイク・ホーソーン | 0 | 0 | -* | -* |
フロイラン・ゴンザレス | ||||||||
ピーター・コリンズ | ||||||||
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
ルイジ・ムッソ | ||||||||
1958年 | 246F1 | Tipo143 2.4L V6 |
テンプレート:Englebert | マイク・ホーソーン | 2 | 4 | 40 | 2 |
ピーター・コリンズ | ||||||||
フィル・ヒル | ||||||||
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
ルイジ・ムッソ | ||||||||
1959年 | 246F1 256F1 |
Tipo155/19 2.4L V6 2.5L V6 |
テンプレート:Dunlop | フィル・ヒル | 2 | 2 | 32 | 2 |
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
トニー・ブルックス | ||||||||
ジャン・ベーラ |
- * コンストラクタータイトルは1958年から設定された。このためコンストラクターとしてのポイントやランキングは存在しない。
1960年代
1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPでヴォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。
しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1960年 | 256F1 | Tipo171 2.5L V6 |
テンプレート:Dunlop | フィル・ヒル | 1 | 1 | 24 | 3 |
リッチー・ギンサー | ||||||||
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
ホセ・フロイラン・ゴンザレス | ||||||||
クリフ・アリソン | ||||||||
ウィリー・メレス | ||||||||
1961年 | 156F1 | Tipo178 1.5L V6 |
テンプレート:Dunlop | フィル・ヒル | 5 | 6 | 40 | 1 |
リッチー・ギンサー | ||||||||
ヴォルフガング・フォン・トリップス | ||||||||
オリヴィエ・ジャンドビアン | ||||||||
ジャンカルロ・バゲッティ | ||||||||
1962年 | 156F1 | Tipo178 1.5L V6 |
テンプレート:Dunlop | フィル・ヒル | 0 | 0 | 18 | 5 |
ジャンカルロ・バゲッティ | ||||||||
リカルド・ロドリゲス | ||||||||
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ウィリー・メレス | ||||||||
1963年 | 156F1 | Tipo178 1.5L V6 |
テンプレート:Dunlop | ジョン・サーティース | 1 | 1 | 26 | 4 |
ウィリー・メレス | ||||||||
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ルドヴィコ・スカルフィオッティ | ||||||||
1964年 | 158F1 1512F1 |
Tipo205B 1.5L V8 Tipo207 1.5L F12 |
テンプレート:Dunlop | ジョン・サーティース | 3 | 1 | 45 | 1 |
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ルドヴィコ・スカルフィオッティ | ||||||||
ペドロ・ロドリゲス | ||||||||
1965年 | 158F1 1512F1 |
1.5L V8 1.5L F12 |
テンプレート:Dunlop | ジョン・サーティース | 0 | 0 | 26 | 4 |
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ニーノ・バッカレラ | ||||||||
ペドロ・ロドリゲス | ||||||||
1966年 | 312F1 | Tipo218 3.0L V12 |
テンプレート:Dunlop | ジョン・サーティース | 2 | 3 | 31 | 2 |
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ルドヴィコ・スカルフィオッティ | ||||||||
マイケル・パークス | ||||||||
1967年 | 312F1 | Tipo242 3.0L V12 |
テンプレート:Firestone | クリス・エイモン | 0 | 0 | 20 | 4 |
ロレンツォ・バンディーニ | ||||||||
ジョナサン・ウィリアムス | ||||||||
1968年 | 312F1 | Tipo242C 3.0L V12 |
テンプレート:Firestone | ジャッキー・イクス | 1 | 4 | 32 | 4 |
クリス・エイモン | ||||||||
アンドレア・デ・アダミッチ | ||||||||
デレック・ベル | ||||||||
1969年 | 312F1 | Tipo255C 3.0L V12 |
テンプレート:Firestone | ペドロ・ロドリゲス | 0 | 0 | 7 | 5 |
クリス・エイモン |
1970年代
312Bの、新たに開発された水平対向12気筒 "ボクサー[4]" エンジンが、名門復活の力となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。引続き開発した、トランスミッションを横置きとした312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。
1979年はジョディー・シェクターとジル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締めくくった。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | 312B | Tipo001 3.0L F12 |
テンプレート:Firestone | ジャッキー・イクス | 4 | 5 | 55 | 2 |
イグナツィオ・ギュンティ | ||||||||
クレイ・レガツォーニ | ||||||||
1971年 | 312B 312B2 |
Tipo001-1 3.0L F12 |
テンプレート:Firestone | ジャッキー・イクス | 2 | 3 | 33 | 4 |
クレイ・レガツォーニ | ||||||||
マリオ・アンドレッティ | ||||||||
1972年 | 312B2 | Tipo001-1 3.0L F12 |
テンプレート:Firestone | ジャッキー・イクス | 1 | 3 | 33 | 4 |
クレイ・レガツォーニ | ||||||||
マリオ・アンドレッティ | ||||||||
アルトゥーロ・メルザリオ | ||||||||
1973年 | 312B3 | Tipo001-11 3.0L F12 |
テンプレート:Goodyear | ジャッキー・イクス | 0 | 0 | 12 | 6 |
アルトゥーロ・メルザリオ | ||||||||
1974年 | 312B3 | Tipo001-12 3.0L F12 |
テンプレート:Goodyear | クレイ・レガツォーニ | 3 | 10 | 65 | 2 |
ニキ・ラウダ | ||||||||
1975年 | 312B3 312T |
Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Goodyear | クレイ・レガツォーニ | 6 | 9 | 72.5 | 1 |
ニキ・ラウダ | ||||||||
1976年 | 312T 312T2 |
Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Goodyear | ニキ・ラウダ | 6 | 5 | 83 | 1 |
クレイ・レガツォーニ | ||||||||
カルロス・ロイテマン | ||||||||
1977年 | 312T2 | Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Goodyear | ニキ・ラウダ | 4 | 2 | 95 | 1 |
カルロス・ロイテマン | ||||||||
ジル・ヴィルヌーヴ | ||||||||
1978年 | 312T2 312T3 |
Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Michelin | カルロス・ロイテマン | 5 | 2 | 58 | 2 |
ジル・ヴィルヌーヴ | ||||||||
1979年 | 312T3 312T4 312T4B |
Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Michelin | ジョディー・シェクター | 6 | 2 | 113 | 1 |
ジル・ヴィルヌーヴ |
1980年代
ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年、1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPでディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。
それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェやホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーがマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。
1989年はナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980年 | 312T5 | Tipo015 3.0L F12 |
テンプレート:Michelin | ジョディー・シェクター | 0 | 0 | 8 | 10 |
ジル・ヴィルヌーヴ | ||||||||
1981年 | 126CK | Tipo021 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Michelin | ジル・ヴィルヌーヴ | 2 | 1 | 34 | 5 |
ディディエ・ピローニ | ||||||||
1982年 | 126C2 | Tipo021 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ジル・ヴィルヌーヴ | 3 | 3 | 74 | 1 |
ディディエ・ピローニ | ||||||||
パトリック・タンベイ | ||||||||
|マリオ・アンドレッティ | ||||||||
1983年 | 126C2B 126C3 |
Tipo021 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | パトリック・タンベイ | 4 | 8 | 89 | 1 |
ルネ・アルヌー | ||||||||
1984年 | 126C4 126C4M2 |
Tipo031 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ミケーレ・アルボレート | 1 | 1 | 57.5 | 2 |
ルネ・アルヌー | ||||||||
1985年 | 156/85 | Tipo031 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ミケーレ・アルボレート | 2 | 1 | 82 | 2 |
ルネ・アルヌー | ||||||||
1986年 | F186 | Tipo032 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ミケーレ・アルボレート | 0 | 0 | 37 | 4 |
ステファン・ヨハンソン | ||||||||
1987年 | F187 | Tipo033 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ミケーレ・アルボレート | 2 | 3 | 53 | 4 |
ゲルハルト・ベルガー | ||||||||
1988年 | F187/88C | Tipo033B 1.5L V6 ターボ |
テンプレート:Goodyear | ミケーレ・アルボレート | 1 | 1 | 65 | 2 |
ゲルハルト・ベルガー | ||||||||
1989年 | 640 | Tipo035 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | ナイジェル・マンセル | 3 | 0 | 59 | 3 |
ゲルハルト・ベルガー |
1990年代
1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。
1991年も引き続きプロストが残留。ナイジェル・マンセルの入れ替わりにジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いにも絡めなかった。この年はフィアットからルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した。1992年はF92Aの斬新なダブルフロアデッキ構造が仇となった上に信頼性がなく、表彰台獲得もわずか2回のみで、シーズン途中でイヴァン・カペリを解雇するなどチームの混乱も続いた。1993年は、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据えるが、結局3シーズンの間、1勝もできない最長の低迷期に陥っていた。
この危機にモンテゼーモロはチームマネージャー(監督)に、WRCやル・マン24時間レースに参戦していたプジョーで、実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは1993年フランスGPから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。1994年ドイツGPでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。1995年にはアレジもカナダGPで自身初勝利を上げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了。当時2年連続ドライバーズチャンピオンのミハエル・シューマッハ(ベネトン)とエディ・アーバイン(ジョーダン)との契約を締結し、1996年シーズンからドライバーを一新した。
同年、スペインGPでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードやグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウン、ロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築。この体制で1997年以降、タイトル争いに毎シーズン絡んでいくこととなる。1997年はウィリアムズ、1998年はマクラーレンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。1999年は、途中シューマッハの事故で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアGPで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあった。それでもシューマッハの代役エースとなったアーバインが最後までハッキネンと競り合いドライバーズタイトル獲得こそは逃したが、シューマッハの代役、ミカ・サロの活躍もあって最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | 641 641/2 |
Tipo036 Tipo037 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | アラン・プロスト | 6 | 3 | 110 | 2 |
ナイジェル・マンセル | ||||||||
1991年 | 642 643 |
Tipo037 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | アラン・プロスト | 0 | 0 | 55.5 | 3 |
ジャンニ・モルビデッリ | ||||||||
ジャン・アレジ | ||||||||
1992年 | F92A F92AT |
Tipo040 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | ジャン・アレジ | 0 | 0 | 21 | 4 |
イヴァン・カペリ | ||||||||
ニコラ・ラリーニ | ||||||||
1993年 | F93A | Tipo041 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | ジャン・アレジ | 0 | 0 | 28 | 4 |
ゲルハルト・ベルガー | ||||||||
1994年 | 412T1 412T1B |
TipoE4A-94 Tipo043 3.5L V12 |
テンプレート:Goodyear | ジャン・アレジ | 1 | 3 | 71 | 3 |
ニコラ・ラリーニ | ||||||||
ゲルハルト・ベルガー | ||||||||
1995年 | 412T2 | Tipo044/1 3.0L V12 |
テンプレート:Goodyear | ジャン・アレジ | 1 | 1 | 73 | 3 |
ゲルハルト・ベルガー | ||||||||
1996年 | F310 | Tipo046 3.0L V10 |
テンプレート:Goodyear | ミハエル・シューマッハ | 3 | 3 | 70 | 2 |
エディ・アーバイン | ||||||||
1997年 | F310B | Tipo046/1B Tipo046/2 3.0L V10 |
テンプレート:Goodyear | ミハエル・シューマッハ | 5 | 3 | 102 | 2 |
エディ・アーバイン | ||||||||
1998年 | F300 | Tipo047 3.0L V10 |
テンプレート:Goodyear | ミハエル・シューマッハ | 6 | 3 | 133 | 2 |
エディ・アーバイン | ||||||||
1999年 | F399 | Tipo048 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 6 | 3 | 128 | 1 |
ミカ・サロ | ||||||||
エディ・アーバイン |
2000年代
2000年代に入り、マシン開発はエアログリップを重視する傾向が強くなる。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など、要因は複数ある[5]が、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降、2017年まで16年間勝利から遠ざかっていた。皮肉にも、(モナコほどではなくとも)ホームサーキットたるモンツァもマシンコンセプトと相性が悪い。
2000年は、アーバインに代わりルーベンス・バリチェロが加入。前年第8戦イギリスGPでミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止めてマシンの熟成をそれ以上行なわない代わりに、2000年シーズン用F1-2000の開発に注力する決断をしたことが功を奏し[6]、コンストラクターズと合わせ、シューマッハが21年ぶりのドライバーズタイトルをももたらした。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップは1999年から2004年まで6連覇し、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年のカナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。
しかし、2005年は、新型マシンである「F2005」が新レギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーとフェルナンド・アロンソに明け渡してしまう。翌2006年にバリチェロの後任として同郷のフェリペ・マッサが加入する。シューマッハが再びチャンピオン争いに加わったが信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年に現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。
2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたため、同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なお、ブラジルGPではマッサも2位に入って1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204とし、マクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り[※ 2]、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。
2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。
2009年シーズンは苦戦を強いられた。この年から搭載が認められたKERSをF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録せず、かつコンストラクターズでも4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットを直撃し、長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況の中で、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。
なお、マッサの代役は当初はミハエル・シューマッハが起用される予定であったが、バイクレースでの事故の首の痛みがとれず、断念。テストドライバーのルカ・バドエルを起用した。しかし成績不振のため、ヨーロッパGP・ハンガリーGPの2戦のみにとどまり、イタリアGP以降はフォース・インディアより移籍したジャンカルロ・フィジケラが担当することとなった。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000年 | F1-2000 | Tipo049 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 10 | 10 | 170 | 1 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2001年 | F2001 | Tipo050 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 9 | 11 | 179 | 1 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2002年 | F2001B F2002 |
Tipo050D Tipo051 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 15 | 10 | 221 | 1 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2003年 | F2002B F2003-GA |
Tipo052 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 8 | 8 | 158 | 1 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2004年 | F2004 | Tipo053 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 15 | 12 | 262 | 1 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2005年 | F2004M F2005 |
Tipo053 Tipo055 3.0L V10 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 1 | 1 | 100 | 3 |
ルーベンス・バリチェロ | ||||||||
2006年 | 248F1 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Bridgestone | ミハエル・シューマッハ | 9 | 8 | 201 | 2 |
フェリペ・マッサ | ||||||||
2007年 | F2007 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Bridgestone | フェリペ・マッサ | 9 | 9 | 204 | 1 |
キミ・ライコネン | ||||||||
2008年 | F2008 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Bridgestone | キミ・ライコネン | 8 | 8 | 172 | 1 |
フェリペ・マッサ | ||||||||
2009年 | F60 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Bridgestone | フェリペ・マッサ | 1 | 0 | 70 | 4 |
ルカ・バドエル | ||||||||
ジャンカルロ・フィジケラ | ||||||||
キミ・ライコネン |
2010年代
2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組んだ。2005・2006年の王者であるアロンソが5勝を挙げ、ランキングトップで最終戦を迎えたが、ピット作戦などのミスが重なり、それまでランキング3位だったセバスチャン・ベッテルに年間王者をさらわれた。
2011年の序盤戦はマシンのパフォーマンスに苦しみ、テクニカルディレクターのアルド・コスタが5月に解任されるに至った[7]。フェラーリの風洞には不備があり、風洞での結果と実際のコース上でのパフォーマンスが一致しないという問題を抱えていた[8]。中盤になるとレッドブルやマクラーレンとほぼ互角に戦えるようになり、イギリスGPではフェラーリのF1初勝利から60周年の節目でアロンソが勝利を飾った。アロンソが最終戦までバトン、ウェバーとランキング2位を争ったが、最終的にはアロンソがランキング4位、マッサがランキング6位、コンストラクターズランキングでは3位となった。
2012年、マシンの競争力が低かったが、アロンソが第2戦で優勝し、マシンの大幅なアップデートが行われた第5戦以降、着実にポイントを積み重ね、第8戦と第10戦で優勝し、ランキングトップとなった。しかし、第12戦、第15戦でスタート直後に他車に接触されてリタイアし、ベッテルに逆転を許し、最終戦までチャンピオンを争ったものの、3ポイント差のランキング2位でシーズンを終えた。
風洞の不備はこの年も解決されず、フェラーリはドイツ・ケルンのトヨタの風洞設備を使用してマシンを改良した[9]。そして、自社の風洞を2013年8月まで閉鎖し、問題の解決にあたることを決めた。2013年型マシンの開発は全てトヨタの風洞設備で行われた[10]。
2013年、アロンソが第3戦と第5戦で優勝したが、レッドブルとのマシンの性能差が大きく、コンストラクターズランキング2位をメルセデスAMGと争うのが精いっぱいだった。
2014年、長年在籍したマッサがウィリアムズに移籍し、後任としてロータスよりライコネンが復帰した。4月にチーム代表のドメニカリが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリ北米部門のCEOを務めるマルコ・マティアッチが就任した[11]。シーズンを通して苦戦し、このシーズンは結局1993年以来の未勝利シーズンとなってしまった。シーズン終了後、マティアッチが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリのスポンサーでもあるフィリップモリスの前副社長マウリツィオ・アリバベーネがジェスティオーネ・スポルティーバのディレクターに即時就任すると発表した。これに伴い、チーフデザイナーのニコラス・トンバジスをはじめ、パット・フライや浜島裕英らがチーム離脱となるなど人事も大幅に刷新されることになった。また、レッドブル・レーシングのマシンデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの引き抜きを巨額のサラリーを提示した上で狙ったが、最終的にニューウェイが辞退したことで実現には至らなかった[12]。
2015年、アロンソがマクラーレンへ去り、レッドブルよりセバスチャン・ベッテルを迎える。マレーシアGPで、ベッテルが約2年ぶりの勝利を果たすとハンガリーGPではスタートで2台ともロケットスタートを決めフロントローにいた2台のメルセデスを抜き去り、ライコネンがトラブルでリタイアするまでワンツー体制でレースを進めベッテルが優勝。また、シンガポールGPにおいて、ベッテルが自身約2年ぶり、フェラーリとして約3年ぶりのポールポジションを記録した。ライコネンも第4戦バーレーングランプリでフェラーリ復帰後初表彰台となる2位表彰台を獲得。トラブルなどの不運に見舞われることが多くベッテルに差はつけられているものの前年と比較するとパフォーマンスは大きく向上している。最終的にベッテルはランキング3位、ライコネンはランキング4位。コンストラクターズランキングは2位でシーズンを終えた。メルセデスに敗れはしたものの時折、メルセデスを脅かすレースも何度かあり来シーズン以降に期待がかかるシーズンとなった。
2016年、ドライバーはベッテルとライコネンが残留。前年の活躍からシーズン当初はメルセデスにもっとも対抗できると期待された。開幕戦オーストラリアGPでは、2人が前年のハンガリーGPの再現のようなスタートを見せ1-2体制でレースを進めていたが、クラッシュによるレッドフラッグにより、レース再開後の戦略でメルセデス勢に逆転を許した。第2戦,第3戦ではライコネン、ベッテルがそれぞれ2位に入るなど出だしはまずまずであった。しかしメルセデス勢がオープニングラップで同士討ちでリタイアしたスペインGPではレッドブルのマックス・フェルスタッペンに優勝をさらわれ、さらにレッドブルが翌戦のモナコGPからアップグレードされたルノーエンジンを手に入れた後は、レッドブルの後塵を拝するレースが続く。この不振の最中の7月27日、テクニカルディレクターのジェームズ・アリソンがチームから離脱することを発表した[13]。その直後のドイツGPでコンストラクターズポイントでもレッドブルに抜かれ3位に後退した。地元イタリアGPを前にセルジオ・マルキオンネ会長は2016年のマシン開発に「失敗」したと認めた[14]。このイタリアGPでベッテルが6戦ぶりに表彰台に立ちティフォシからの歓声を浴びたが、以後は4位,5位が定位置で、表彰台は基本的にメルセデスの両者とレッドブルの片方のドライバーという構図が固まってしまい、コンスタントラクターズランキングも最終戦を待たずして3位が確定した。最終戦アブダビGPでベッテルがファステストラップを記録し3位表彰台に立ったが、最終的に未勝利のままシーズンを終えた。
2017年もベッテルとライコネンの両名が残留。2017年型マシンのSF70Hは冬季テストから好タイムを出し、期待が持たれるシーズンとなった。開幕戦オーストラリアGPでベッテルが優勝し、チームとして7年ぶりの開幕戦優勝を果たした。バーレーンGPでもベッテルが優勝、ロシアGPではベッテルがポールポジション、ライコネンが2番グリッドを獲得し、2008年フランスGP以来、実に9年ぶりのフロントロー独占を果たした。モナコGPでもライコネンがこれまた2008年フランスGP以来となるポールポジションを獲得、フェラーリのモナコグランプリでのポールポジションも2008年以来のフェリペ・マッサ以来、9年ぶりである。さらにベッテルも予選2位に入りフロントローを独占した。決勝でもベッテルが優勝、ライコネン2位となりフェラーリにとっても2001年以来、16年ぶりにモナコGPを制した。その後の4戦はパワーに勝るメルセデスの後塵を拝したが、ハンガリーGPではモナコGPに続いてフロントロー独占とワン・ツー・フィニッシュを達成し、ベッテルがポール・トゥ・ウィンを飾った。しかし、後半戦に入るとそれまでの躍進が嘘のように失速傾向となり、特にアジアラウンドの3連戦でアクシデントやマシントラブルが頻発する事態に陥ってしまい、メルセデス及びハミルトンの独走を許したどころか、レッドブル勢にも迫られることにまでなってしまった。最終的にブラジルGPでベッテルが8戦ぶりに優勝、またライコネンが終盤5戦で着実にポイントを獲得しレッドブル勢がトラブル続きで失速するなどしてコンストラクターズランキング2位の座は守ったが、終盤のトラブルが惜しい1年となった。
2018年も引き続き、ベッテルとライコネンの両名が残留。メルセデス勢のスタートダッシュの失敗に付け入ったベッテルが開幕連勝を果たしたほか、第7戦カナダGP、第10戦イギリスGPでも優勝し、ドライバーズランキングではベッテルがハミルトンと、コンストラクターズランキングでもメルセデスと、それぞれ接戦に持ち込んでいる。
シーズン | マシン | エンジン | タイヤ | ドライバー | 勝利数 | PP | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010年 | F10 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Bridgestone | フェリペ・マッサ | 5 | 2 | 396 | 3 |
フェルナンド・アロンソ | ||||||||
2011年 | 150° イタリア | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Pirelli | フェルナンド・アロンソ | 1 | 0 | 375 | 3 |
フェリペ・マッサ | ||||||||
2012年 | F2012 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Pirelli | フェルナンド・アロンソ | 3 | 2 | 400 | 2 |
フェリペ・マッサ | ||||||||
2013年 | F138 | Tipo056 2.4L V8 |
テンプレート:Pirelli | フェルナンド・アロンソ | 2 | 0 | 354 | 3 |
フェリペ・マッサ | ||||||||
2014年 | F14 T | Tipo059/3 1.6L V6ターボ |
テンプレート:Pirelli | フェルナンド・アロンソ | 0 | 0 | 216 | 4 |
キミ・ライコネン | ||||||||
2015年 | SF15-T | Tipo059/4 1.6L V6ターボ |
テンプレート:Pirelli | セバスチャン・ベッテル | 3 | 1 | 428 | 2 |
キミ・ライコネン | ||||||||
2016年 | SF16-H | Tipo061 1.6L V6ターボ |
テンプレート:Pirelli | セバスチャン・ベッテル | 0 | 0 | 398 | 3 |
キミ・ライコネン | ||||||||
2017年 | SF70H | Tipo062 1.6L V6ターボ |
テンプレート:Pirelli | セバスチャン・ベッテル | 5 | 5 | 522 | 2 |
キミ・ライコネン | ||||||||
2018年 | SF71H | Tipo062 EVO 1.6L V6ターボ |
テンプレート:Pirelli | セバスチャン・ベッテル | ||||
キミ・ライコネン |
ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー
- アルベルト・アスカリ(1952年 - 1953年)
- ファン・マヌエル・ファンジオ(1956年)
- マイク・ホーソーン(1958年)
- フィル・ヒル(1961年)
- ジョン・サーティース(1964年)
- ニキ・ラウダ(1975年、1977年)
- ジョディー・シェクター(1979年)
- ミハエル・シューマッハ(2000年 - 2004年)
- キミ・ライコネン(2007年)
シャシー・エンジン供給
1960年代まではイタリア、イギリス、ベルギーのプライベーターチームにもマシンを供給しており、1951年にはブリティッシュ・グリーンに塗られたマシン(シンウォール・スペシャル)がF1に出走した。1961年フランスGPではFISA(Federazione Italiana Scuderie Automobilistiche)チームのジャンカルロ・バゲッティが優勝した。フェラーリのF1コンストラクターとしての通算勝利数には、非ワークスチームが獲得したこの1勝が含まれる。
1990年代以降は再びプライベーターチームにエンジンを供給している。2008年イタリアGPではトロ・ロッソのセバスチャン・ベッテルが、フェラーリのカスタマーエンジンユーザーとして初優勝した。2011年以降はKERSやギアボックスもセットで供給している。
- フェラーリエンジン使用チーム
- 太字は2018年に使用するチーム。
また、A1グランプリではF2004をベースにしたワンメイクマシンが2008 - 2009シーズンに使用された。
F1クリエンティ
正規販売代理店で販売されたフェラーリの市販車のオーナーで、かつフェラーリに承認された一部の顧客に限り、フェラーリまたは各国の拠点や正規輸入元を通じて数年落ちのF1マシンを購入することが可能である。
これらのマシンは「コルセ・クリエンティ」部門率いる「F1クリエンティ」プログラムにより管理され、マルク・ジェネなどのテストドライバーやリザーブドライバーの指導の下、走行プログラムが開催される「フェラーリ・レーシングデイズ」や「フィナーリ・モンディアーリ」などの世界各国で開催されるサーキットイベントや、年間数回ヨーロッパのサーキットで開催されるテストドライブセッションで走行させることができる。
さらに、オーナーが指定したサーキットに「F1クリエンティ」のメカニックを呼んで走行させることも可能である。なお、2014年シーズン以降のマシンについては、ERSの管理上の問題により販売を中止することが決定された。
この様な、組織化された中古F1マシンの販売及び管理システムを主催し、営業及びマーケティングに活用しているコンストラクターは、2017年現在フェラーリのみである。
特色
マシン
他チームに比べると、マシンの命名法に一貫性がない。ロードカーと同様のエンジン型式(総排気量・気筒数・1気筒あたりの排気量)にちなんだネーミングや、開発年度(西暦)にちなんだネーミングを基本としているが、639 - 643系(1988年 - 1991年、社内開発コード)、F60(2009年、F1参戦60周年)、150°イタリア(2011年、イタリア建国150周年)、SF70H(2017年、モータースポーツ参戦70周年[15])など、時折イレギュラーな名前が出現する。
フェラーリ製エンジンといえば、甲高いエキゾーストノートを放つV型12気筒 (V12) が有名であるが、スポーツカーレースで華々しい成績を残す一方、F1ではタイトルを獲得したことがない[※ 3]。F1チームの中では最後(1995年)までV12エンジンを使用したが、その後は主流派のV10へとスイッチした。なお、F1レギュレーションにおいて気筒制限が進んだ結果、自然吸気エンジン最後の年になった2013年の段階でV8までに制限されていた。
カラーリングとスポンサー
フェラーリ社のコーポーレートカラーは黄色 (giallo modena) だが、ワークスのカラーリングはイタリアのナショナルレーシングカラーである赤色 (rosso corsa) が定番である。創設期はアルファ・ロメオに似た暗色(海老茶)系の赤色だったが、年代とともに紅色の混じった濃い赤色へと変化していった[16]。1970年代以降、F1にスポンサーカラーが普及しても、フェラーリは伝統を守り、マシンにサプライヤー以外のスポンサーロゴを付けないという姿勢を貫いた。
しかし、1984年、マールボロがドライバーの報酬を支払う形 (Marlboro World Championship Team) で、マシンにマールボロのロゴが描かれるようになった。1997年にはチーム初のメインスポンサーに就任し、チーム名は「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」、マシンカラーも蛍光色系の明るい赤色になった(映像メディアのデジタル化に対応したという説もある[16])。2007年後半から2008年にかけては、マシンがメタリックレッドにペイントされた[16]。
タバコ広告への規制が厳格化されたことにより、2006年には他のタバコスポンサーがF1から撤退、2010年にはエンジンカバーのバーコード模様がサブリミナル効果があると批判されて廃止[17]、2011年にはチーム名からも「マールボロ」が外された[18]が、フェラーリへの支援を継続している(2012年の年間スポンサー料は推定63億円[19])。またすべての広告スペースをマールボロが買い取り、他のスポンサーに転売している。(ロイヤル・ダッチ・シェルを除く)
カヴァッリーノ・ランパンテ
フェラーリの社章は、イタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」(Cavallino Rampante )と呼ばれる。紋章の形状は長方形と盾形の2種類があり、盾型(スクデット)の紋章は本来はF1マシンをはじめとする、フェラーリの公認の元でモータースポーツに参戦、およびF1クリエンティとXXプログラムに参加しているマシンと、モータースポーツに携わるゲスティオーネ・スポルティーバ部門とコルセ・クリエンティ部門、そして両部門に関連した業務に携わるフェラーリ社員とスタッフ、そしてドライバーのみが使用できるものである。
しかし、現在は普通のロードユースの車輌のフェンダー部に盾形の紋章がオプションとして用意されている他、一般向けに販売されているウェアや各種グッズにも盾形の紋章が使われている。
人事
イタリアを代表するチームであるが、ドライバー選考に関してはイタリア人を優遇していない。1950年代から1960年代にかけて、チームに在籍したイタリア人ドライバーが死亡した際、国内のマスコミから糾弾されたことが原因とも言われる[20]。スポット参戦は数名いるものの、1992年のイヴァン・カペリを最後にイタリア人のレギュラードライバーは存在しない。2005年以降、2輪MotoGP王者のバレンティーノ・ロッシを招いて何度かテスト走行を行ったが、フェラーリ加入は実現しなかった。
F1ドライバーならば1度は乗ってみたいと憧れるチームであるが、成績が悪いと内紛(お家騒動)が起こり、ドライバーやチーム幹部の更迭を繰り返した歴史を持つ。過去にはファン・マヌエル・ファンジオ、ジョン・サーティース、ニキ・ラウダ、アラン・プロストといった名立たるチャンピオンがチームと喧嘩別れした。またフェルナンド・アロンソも移籍した当初は「フェラーリが最後の所属になる」と語っていたが、徐々にレッドブルなどに差をつけられつつあった状況に不満が爆発し、2016年までの契約を破棄して2014年末にフェラーリを去っている。また前述のとおり、不振にあえいだ2014年はチーム代表が2度変わる事態も発生している。
基本的に実績のあるドライバーを採用する方針だが、2010年より若手育成プログラムとしてフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) を運営し、セルジオ・ペレス、ジュール・ビアンキ、シャルル・ルクレールを輩出した。ペレスは2011年にフェラーリエンジンを搭載したザウバーよりF1にデビュー。2012年には2度の2位を獲得するなど次期フェラーリドライバー候補と目されたが、ライバルチームのマクラーレン入りを選択した。2018年現在はフォース・インディアに在籍している。ビアンキは2013年よりマルシャよりF1にデビュー。2014年のモナコGPで初ポイントを獲得。たびたびフェラーリ移籍説が流れるなど、将来のフェラーリドライバーの候補として期待されていたが、同年の日本GPの大事故により帰らぬ人となってしまった。そのビアンキと幼馴染でもあったルクレールは、2017年にF2で圧倒的な成績でチャンピオンを獲得すると、翌2018年からフェラーリエンジンを供給したアルファロメオ・ザウバーからF1デビュー、下位チーム在籍のルーキーにして結果を残し続け、早くも翌年のフェラーリドライバー候補としてその名が挙がるほどである。また2017年よりウィリアムズでF1に参戦するランス・ストロールも元々はFDAの出身であり、2015年までFDAに在籍していた。なお2018年現在では、FDA出身のフェラーリドライバーはまだ誕生していない。
政治
レースの興行的価値という点でフェラーリの参戦は重要であり、フェラーリ側もその立場を認めて、運営団体に対して政治的駆け引きを行ってきた。
1964年には、スポーツカー世界選手権で250LMがGTカーとして公認されなかったことに抗議してイタリア自動車協会を一時脱退し、同年のF1シリーズ終盤戦にはノース・アメリカン・レーシング・チーム (NART) からエントリーした。
1985年には、F1のレギュレーション改定案に抗議して、北米のCARTシリーズへの転向を示唆し、実際にプロトタイプのインディカー (開発コード637) を製作した。
2001年には、F1に参戦する他の自動車メーカーと共にGPWCを設立し、独立シリーズ構想の旗振り役となったが、コンコルド協定の更改に同意して2005年1月にGPWCを離脱した[21]。この裏切り行為は他メーカーの反感を買い、フェラーリ以外のチームが団結してGPMAを結成した[22]。
2008年には、F1チームの連合体であるFOTAの設立を主導し、興行主のFOMに対して分配金の増額を訴えた[23]。FOM会長のバーニー・エクレストンはこれに反撃し、フェラーリのGPWC離脱に関して「我々はフェラーリを契約で買収した」と暴露し、この取引によってフェラーリは他チームよりも8000万ドル多く受け取っていると述べた[24]。FOTA副会長(当時)のジョン・ハウェットは「フェラーリの歴史的立場は誰もが知っており、たいした意味はない」と受け流した[25]。
2009年には予算制限規定(バジェットキャップ)に反対してF1撤退を示唆し[26]、その後もモンテゼモロ会長はF1撤退というカードをちらつかせて改革を要求した[27][28]。F1チームの中で唯一、FIAや統括団体の提案に対する拒否権を有しており[29]、2015年にはパワーユニットの最高価格を設定するというFIAの提案に拒否権を発動した[30]。
イベントや広告への露出
オフィシャルスポンサーやサプライヤーの広告やイベント、モーターショーの展示にF1マシン(もしくはレプリカ)が露出、または貸し出されることが多い。なおF1マシンは、エンジンや補機類などが搭載されない展示用のレプリカも毎年数台製作され、世界各国の正規販売店やフェラーリ・ストアの店頭へのディスプレイに使用される。なおこれらのレプリカは、「F1クリエンティ」の顧客や正規販売店に販売されることもある。
1981年には、ジル・ヴィルヌーヴが運転する126CKとジェット戦闘機F-104スターファイターが滑走路で競走するというイベントを開催した。静止状態から並んで同時にスタートし1,000m走るというこのレースは、126CKが勝利している。2003年12月11日にもイタリアのバッカリーニ空港にて、ミハエル・シューマッハが乗るF2003-GAとジェット戦闘機ユーロファイター・タイフーンの競争を開催した。600mではF2003-GAが勝利したが、900mと1,200mではユーロファイターが勝利。雨天もありユーロファイターの2勝1敗という結果になった。
1998年には、オフィシャルスポンサーであるロイヤル・ダッチ・シェルグループのCMとして、「走行中のF1マシンが空中給油機から給油を受ける」という実写CMを世界各国で放送し話題になる。
2006年のトリノオリンピック開会式では、リアウィングに五輪マークが描かれたF2005をリザーブ兼テストドライバーのルカ・バドエルがステージ上でドライブし、ドーナツターンを披露した。
例年、10月の末から11月の初めにムジェロ・サーキットなどのサーキットにおいて「ファン感謝デー」ともいうべき「フィナーリ・モンディアーリ」、1月にはフィリップモリス主催により、ドゥカティと合同でマスコミ向けのスキーイベント「Wrooom」を開催している。1月のイベントは新シーズンの体制発表も兼ねている。また、シーズン前の新車の発表会は必ず、マラネッロのプレスルームで行い、全ての進行をイタリア語のみで行うのも伝統である。(かつて、イタリア語を話せなかったミハエル・シューマッハにカンニング・ペーパーを渡して読ませたこともある)。
ティフォシ
熱狂的なフェラーリファンのことをティフォシ (tifosi) と呼ぶ。これはイタリア語で「熱狂的スポーツファン」「チフス患者」の意味を持つ「ティフォーゾ(tifoso)」の複数形であるが、元々はフェラーリファンを特定するものではなく、その熱狂振りに対する侮蔑表現を含んでいるため、彼らは自らのことを通常フェラリスタと呼ぶ。
なお、イタリア各地にフェラーリ公認の「スクーデリア・フェラーリ」のファンクラブがあり、イタリアグランプリや「フィナーリ・モンディアーリ」では会員のファンが終結する姿を見ることができる。
地元開催に当たるイタリアGPでは、来場したティフォシによってモンツァ・サーキットの観客席が赤く染められる。レース後の表彰式ではコースに乱入し、ホームストレート上で応援旗を広げるのが名物になっている。彼らはフェラーリがリタイアするとレース途中でもさっさと帰ってしまう(テレビ視聴者はテレビを消してしまう)。逆にフェラーリとタイトルを争っているチームやドライバーのマシンにトラブルが発生したりリタイアすると大歓声をあげる。また1989年イタリアグランプリでは、このレース直前に翌年のフェラーリ加入が決定したアラン・プロストが乗るマクラーレンに大歓声が送られた事もある。
フェラーリF1クラブ
イタリアグランプリや日本グランプリ、モナコグランプリをはじめとするF1各戦における「Formula One Paddock Club」のフェラーリ・シャレーや各スポンサーのシャレーでの観戦パスをフェラーリオーナーとその家族、招待者限定で販売している。通常フェラーリ・シャレーにはドライバーやチーム首脳陣が訪れ、挨拶や記念撮影などを行う。
関連人物・企業
人物
現在のF1ドライバー
- セバスチャン・ベッテル - 正ドライバー
- キミ・ライコネン - 正ドライバー
- アントニオ・ジョヴィナッツィ - リザーブドライバー[31](ザウバーのリザーブドライバーも兼任する[32])
- ダニール・クビアト - 開発ドライバー[33]
- マルク・ジェネ - テストドライバー[34]
- ダビデ・リゴン - テストドライバー[35]
現在の主要関係者
- セルジオ・マルキオンネ - フェラーリ会長
- マウリツィオ・アリバベーネ - チーム代表マネージングディレクター
- マリオ・アルモンド - オペレーション・ディレクター
- マッティア・ビノット[36] - チーフテクニカルオフィサー
- シモーネ・レスタ[37] - チーフデザイナー
- ロリー・バーン - テクニカルアドバイザー
フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)
フェラーリの若手ドライバー育成プログラムであり、2018年7月時点で以下のドライバーが所属している[38]。フェラーリの正ドライバーとなった時点で「卒業」扱いである。
- シャルル・ルクレール(2018年からザウバーよりデビュー)
- アントニオ・フォッコ
- ジュリアーノ・アレジ - 元F1ドライバーでフェラーリにも在籍していたジャン・アレジの息子
- 周冠宇(チョウ・グアンユー)
- エンツォ・フィッティパルディ - 元F1ドライバーで1974年チャンピオンのエマーソン・フィッティパルディの孫[39]
- マーカス・アームストロング
- カラム・アイロット[40]
- ロバート・シュワルツマン[41]
- ジャンルカ・ペテコフ[38]
- 主な元在籍者
パートナー
スポンサー
- フィリップ・モリス(マールボロ) - 1980年代よりドライバーを支援し、1997年以降はメインスポンサーだが、F1におけるたばこ広告の禁止を受けて商品ロゴの掲出は行わない。
- フィアット - アルファロメオブランド
- シェル - ガソリンおよび各種オイルを供給(1950年 - 1973年,1996年 - )
- レノボ(2018年 - )
- カスペルスキー・ラボ(2010年 - )
- ウブロ(2012年 - )
- TNT(2012年 - )
- ウェイチャイ・パワー(2013年 - )
- ユナイテッド・パーセル・サービス(2013年 - )
- レイバン(2016年 - )[42]
- シンハー(2018年 - )
- 過去の主要スポンサー
-
- アスプレイ
- フェレロ - 菓子商品「tic tac」ブランド
- フェデックス
- ボーダフォン - 2002年から2006年の5年間スポンサーを務めた。2007年からライバルチームであるマクラーレンのタイトルスポンサー
- マルティニ・レーシング - 2006年から2008年にかけてチームを支援。ノーズにマーキングが施された。
- アリーチェ(テレコム・イタリア) - 1995年から2001年(テレコムイタリア名義)と2007年から2009年(アリーチェ名義)にかけてチームを支援。ウイング翼端板などにマーキングが施された。
- エティハド航空(2008年 - 2010年)
- ムバダラ・ディベロプメント・カンパニー - UAEの政府系投資ファンド。アブダビにフェラーリ・ワールドを建設(2006年 - 2010年)
- サンタンデール銀行(2010年 - 2017年)
サプライヤー
- 公式サプライヤー
- サプライヤー
-
- OZ - (2012年 - ) - ホイール
- シューベルトヘルメット(2001年 - )
- テクノジム
- 過去のサプライヤー
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- アジップ - ガソリンおよび各種オイルを供給(1974年 - 1995年)
- パイオニア - 無線機器を供給(1991年 - 1997年)
- ブリヂストン - タイヤを供給(1999年 - 2010年)
- グッドイヤー - タイヤを供給
- BBS - ホイールを供給(1992年 - 2011年)
- エイサー - IT機器を供給(2003年 - 2012年)
- タタ・コンサルタンシー・サービシズ
- ヨーロップカー
- ダイキン(現・エクセディ) - クラッチ(? - 1996年)
脚注
注釈
- ↑ イタリア語発音: [skudeˈria ferˈrari] スクデリーア・フェ(ッ)ラーリ
- ↑ ただし、ハンガリーGP分の剥奪ポイントも含めた両ドライバーの単純合計では、マクラーレンは218ポイントとなる
- ↑ 1970年代のボクサーエンジンは、厳密には「180度V12」であるが。
出典
- ↑ “Ges Racing Depertment” (英語). Ferrari.com. . 2012閲覧.
- ↑ "The Scuderia Ferrari". Museo Casa Enzo Ferrari. 2013年2月13日閲覧。
- ↑ その後2013年にセバスチャン・ベッテルが個人9連勝を記録している
- ↑ 312BのBの由来でもあるボクサーという通称だが、そのエンジンは実際にはいわゆる「180度V型」であり、スバルやポルシェのボクサー水平対向とは異なる。
- ↑ ソニー・マガジンズ刊 F1グランプリ特集 2005年6月号、他
- ↑ 『Sports Graphic Number』 688号、文藝春秋、45頁。
- ↑ “フェラーリ、アルド・コスタのテクニカルディレクター辞任を発表”. F1-Gate. (2011年5月25日) . 2011閲覧.
- ↑ “フェラーリ、風洞データに問題。トルコも間に合わず”. オートスポーツweb. (2011年4月19日) . 2014閲覧.
- ↑ “「F2012では根本的な間違いを犯した」とフライ”. オートスポーツweb. (2013年1月21日) . 2014閲覧.
- ↑ “フェラーリ、新車の風洞作業はすべてトヨタで”. オートスポーツweb. (2012年12月27日) . 2014閲覧.
- ↑ F1=不振のフェラーリ、ドメニカリ代表が辞任 - ロイター・2014年4月15日
- ↑ ニューウェイ、“あり得ないほど巨額のオファー”を提示したフェラーリF1よりレッドブルを選ぶ auto sport web 2018年1月12日、同6月15日閲覧。
- ↑ GP topic:アリソン離脱で、現実味を帯びる「ベッテルのフェラーリ離脱説」. AUTOSPORTweb(2016年7月27日).
- ↑ “フェラーリ会長 「2016年のF1マシン開発は“失敗”」”. F1-Gate.com. (2016年9月4日) . 2016閲覧.
- ↑ “タイトル奪還目指すフェラーリ、新車「SF70H」を発表”. AFP. (2017年2月25日) . 2017閲覧.
- ↑ 16.0 16.1 16.2 「フェラーリF1 Q&A」『モデルアート 2010年3月号』 モデルアート、2010年、pp.10 - 12。
- ↑ "スクーデリア・フェラーリ・マールボロのバーコードに終止符". オートスポーツ.(2010年5月7日)2013年2月13日閲覧。
- ↑ "フェラーリのチーム名からマールボロが消える". オートスポーツ.(2011年7月9日)2013年2月13日閲覧
- ↑ 『F1速報PLUS Vol.26』 イデア、2012年、p.50。
- ↑ 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニー・マガジンズ、1997年、72頁。
- ↑ "【新グランプリ設立か】F1とGPWCの動き---総括". レスポンス.(2005年5月5日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ 田中詔一『F1ビジネス-もう一つの自動車戦争』 角川Oneテーマ21、2006年、pp.136-139。
- ↑ "FOTA、分配金の増額を要求". F1-Gate.com.(2008年12月8日)2017年4月7日閲覧。
- ↑ "バーニー・エクレストン、フェラーリとの特別契約を暴露". F1-Gate.com.(2008年12月22日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ "ジョン・ハウエット 「フェラーリの歴史的立場は承知の上」". F1-Gate.com.(2008年12月24日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ "フェラーリ、2010年のF1撤退を示唆". F1-Gate.com.(2009年5月13日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ "モンテゼモロ、F1の名を捨てる覚悟も。分裂に再び言及". オートスポーツ.(2010年12月20日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ "フェラーリ、撤退をちらつかせF1の改革を求める". オートスポーツ.(2011年11月7日)2013年2月6日閲覧。
- ↑ "唯一の拒否権を持つフェラーリ". ESPN F1.(2013年12月5日)2016年1月21日閲覧。
- ↑ "フェラーリの「拒否権」に対抗し、独立系エンジンメーカー参入実現を目指すFIA". Topnews.(2015年10月28日)2016年1月21日閲覧。
- ↑ “フェラーリ、アントニオ・ジョビナッツィをリザーブドライバーに起用”. F1-Gate.com (2016年12月20日). . 2016閲覧.
- ↑ “ザウバー、2018年はエリクソンとルクレールのコンビ”. ESPN F1 (2017年12月2日). . 2017閲覧.
- ↑ “ダニール・クビアト、フェラーリF1チームの開発ドライバーに就任”. F1-Gate.com (2018年1月10日). . 2018閲覧.
- ↑ “Marc Gené”. Scuderia Ferrari. . 2017閲覧.
- ↑ “Davide Rigon”. Scuderia Ferrari. . 2017閲覧.
- ↑ ジェームス・アリソン、フェラーリ離脱はマルキオンネ会長との不和?. F1-Gate.com(2016年7月28日).
- ↑ "フェラーリ、フライとトンバジスの離脱を発表". STINGER.(2014年12月17日)2015年2月4日閲覧。
- ↑ 38.0 38.1 “フェラーリ、15歳のジャンルカ・ペテコフと育成ドライバー契約”. F1-Gate.com (2017年12月6日). . 2017閲覧.
- ↑ “エマーソン・フィッティパルディの孫がフェラーリのアカデミーに加入”. F1-Gate.com (2016年12月25日). . 2016閲覧.
- ↑ “フェラーリ・ドライバー・アカデミーにヨーロピアンF3の若手、アイロットが加入”. AUTOSPORTweb (2017年10月24日). . 2017閲覧.
- ↑ “フェラーリ・ドライバー・アカデミーにFルノー参戦中のシュワルツマンが加入”. AUTOSPORTweb (2017年10月25日). . 2017閲覧.
- ↑ フェラーリ、レイバンとのスポンサー契約を発表. F1-Gate.com(2016年7月8日).