名古屋電灯
250px 名古屋電灯が建設した長良川発電所旧建屋 | |
種類 | 株式会社 |
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略称 | 名電、名電灯 |
本社所在地 |
日本 名古屋市中区新柳町6丁目4番地 |
設立 | 1887年(明治20年)9月20日 |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
代表者 |
福澤桃介(社長) 下出民義(副社長) |
資本金 |
3375万円 (うち2100万円払込) |
株式数 | 67万5000株(額面50円) |
総資産 | 4423万8千円 |
収入 | 420万6千円 |
支出 | 237万8千円 |
純利益 | 182万7千円 |
配当率 | 年率14.0% |
決算期 | 5月末・11月末(年2回) |
名古屋電灯株式会社(名古屋電燈株式會社、なごやでんとう かぶしきがいしゃ)は、明治から大正にかけて存在した日本の電力会社である。愛知県名古屋市に本社を置き、中京地方で事業を展開した。戦前期の大手電力会社のうち東邦電力の前身および大同電力の母体にあたる。
1889年(明治22年)に日本で5番目の電気事業者として開業。当初は小規模な発電所によって市内へ配電するだけであったが、明治末期以降長良川や木曽川に大型発電所を建設して大規模化した。1920年代より周辺事業者の合併を活発化し、1921年(大正10年)に奈良県の関西水力電気と合併して関西電気となり、翌年九州電灯鉄道と合併して中京・関西・九州にまたがる電力会社東邦電力へと発展した。
東邦電力となる前の1918年(大正7年)、名古屋電灯は水力開発部門を独立させ木曽電気製鉄を設立した。同社は1921年に大同電力へと発展する。また特殊鋼メーカーの大同特殊鋼も名古屋電灯から派生した会社を前身とする。
概要
名古屋電灯は、大正から昭和戦前期にかけての電力業界大手「五大電力」の一つ東邦電力(1922 - 1942年)の前身である。この東邦電力は名古屋市を中心に供給区域を広げた名古屋電灯と、福岡市を中心とする北部九州を主たる供給区域とする九州電灯鉄道が合併し成立した。ただしその成立過程はやや複雑で、奈良市の関西水力電気がまず1921年(大正10年)に名古屋電灯を吸収合併して名古屋へ移転の上「関西電気」と改称し、この関西電気が翌年に九州電灯鉄道を合併して「東邦電力」に改称する、という過程をたどっている[2]。したがっていずれの合併でも存続会社となった関西水力電気が東邦電力の法律上の前身会社という扱いになるが、名古屋電灯の方が歴史が長く、加えて規模も大きかったので、東邦電力自身は発祥を名古屋電灯が設立された1887年(明治20年)と定義していた[2]。
この名古屋電灯は元は旧尾張藩の士族による会社で、1887年設立ののち1889年(明治22年)に開業した。当時すでに東京と関西の3都市には電気事業が開業しており、名古屋電灯はこれに続く日本で5番目、北陸地方を含む中部地方では最初の電気事業者となった。開業当初は小規模な火力発電所によって発電所周辺に配電するという程度の事業規模であったが、徐々に拡大し、特に明治末期に長良川と木曽川に2つの大型水力発電所を完成させてからは大型化した。その過程で、のちに「電力王」と呼ばれる実業家福澤桃介が株式を買収して進出し、1914年(大正3年)から社長に就任。以後関西電気となるまでの7年間、福澤による積極経営が続いた。
福澤時代の名古屋電灯では、社内に「製鋼部」・「製鉄部」・「臨時建設部」という3つの部門が設置された。うち「製鋼部」は特殊鋼の生産を目指すもので、1916年(大正5年)の工場操業を機に電気製鋼所(後の木曽川電力、製鋼事業は大同特殊鋼の前身)として分社化された。「製鉄部」は製鉄事業の事業化を目指した部門、「臨時建設部」は木曽川・矢作川の水力開発にあたった部門で、あわせて1918年(大正7年)に木曽電気製鉄として分社化された。木曽電気製鉄の設立により電源開発は同社が担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった。以後名古屋電灯は周辺事業者の合併を活発化させ1921年までに6社を合併し、岐阜県や静岡県にも供給区域を広げた。
事業統合の過程で1921年10月、名古屋電灯は奈良市の関西水力電気と合併した。上記の通り存続会社は関西水力電気側で手続上名古屋電灯は解散したが、本社や経営陣は名古屋電灯時代のままで、実質的には名古屋電灯による関西水力電気の合併である。合併によって関西電気が成立したが、同年12月福澤桃介が社長を退陣し、松永安左エ門ら九州電灯鉄道の経営陣と交代した。翌1922年(大正11年)5月に関西電気と九州電灯鉄道は合併し、中京・関西・九州の3地域にまたがる大電力会社へと発展する。同年6月、関西電気は東邦電力へと改称した。一方、木曽電気製鉄は関西への送電を志向し大同電力(1921 - 1939年)となった。大同電力は東邦電力への電力供給を継続したが、関西地方への供給を主体とする卸売り会社として以後発展していった。
名古屋電灯の供給区域や発電所は、東邦電力以降の再編を経て基本的に中部電力へと引き継がれたが、木曽川の発電所のみ関西電力が継承している。
沿革
設立
名古屋電灯は士族授産の取り組みから生まれた電力会社で、はじめは旧尾張藩の士族による会社であった。士族授産の活動により設立された電力会社はこの名古屋電灯が唯一である[3]。
明治維新により家禄を失い困窮した士族たちに対し、その救済と殖産興業を目的として明治政府は1879年(明治12年)から1890年(明治23年)まで士族授産事業のための勧業資金を貸し下げていた[4]。愛知県へ割り当てられた勧業資金は「勧業資本金」と称するもので、その額は10万円余りであった[4]。資金の貸下げが決定すると、士族たちはこれを元にいかなる事業を起こすべきか話し合ったが、様々な意見があり容易に一致をみなかった[5]。こうした中、電気事業に関心を持っていた丹羽精五郎が電気事業の起業を提唱する[5]。精五郎の甥で帝国大学工科大学に在籍する丹羽正道による白熱灯・アーク灯の点灯実験と、旧尾張藩士族で工部省技師の宇都宮三郎および開明派として知られた勝間田稔愛知県知事の勧奨によって士族たちの意見はこの電気事業起業で一致をみた[5]。そして勧業資金の7割、7万5000円が電気事業起業資金として士族たちに貸し下げられることとなった[4]。
勝間田県知事が勧業資金以外の資本を集めるとともに実務に明るい人材を募る方策として名古屋市内の有力商人に対し電気事業起業への参加を求めたことから、会社の設立願いは士族たちではなく奥田正香(醤油製造[注釈 1])・滝兵右衛門(呉服商)・滝定助(同)・森本善七(小間物商)ら商人11名によって提出された[5]。1887年(明治20年)9月21日のことで[5]、前日20日に名古屋電灯会社の創立総会が開かれ定款が取り決められていた[6]。会社設立の許可は22日に下りた[5]。
許可を受けた名古屋電灯は開業に向けた準備にとりかかり、1887年10月、丹羽精五郎と工科大学を出たばかりの正道をアメリカ・ドイツへ派遣し、設備の購入契約を結んだ[5]。しかしその一方で、発起人であった商人11名が尾張紡績への出資などの事情で翌1888年(明治21年)8月に撤退しまい、勧業資金7万5000円と士族のみでの経営を余儀なくされた[5]。同年9月、取締役が選出され、士族の三浦恵民が社長に就任した[5]。さらに開業までの間に政府の方針変更に伴う勧業資金の清算があり、資金の一部返納を求められた[7]。資金的な余裕がない会社側は困惑したが、閉鎖された士族就産所に対する勧業資金1万円の転貸を受け、そこから9447円を県に返納した[7]。また就産所の残余金や藩主尾張徳川家・家老成瀬家からの寄付金が名古屋電灯に回ったため、名古屋電灯の資本金は7万8800円となった[7]。出資者は9000名以上に及び、旧尾張藩士族をほとんど網羅していたという[8]。
開業
名古屋電灯では発電所の用地として名古屋市南長島町・入江町(現・中区栄二丁目)にまたがる360坪ほどの土地を購入[5]。ここにアメリカから輸入したボイラー・蒸気機関とドイツから輸入した発電機(総出力100キロワット (kW))を据え付け、「電灯中央局」と名づけた(後の第一発電所)[9]。発電所は1889年(明治22年)11月に竣工し、11月3日の天長節を開業日と定めたが[10]、電球を積んだ第一便の船が沈没してしまい第二便を待ったため、開業は1か月遅れて12月15日となった[9]。最初の電力会社である東京電灯が1886年(明治19年)に東京で開業してから4年目のことで、神戸電灯・大阪電灯・京都電灯に次いで日本で5番目に開業した電力会社である[11]。
開業時は電灯の供給のみを行い、その点灯数は400灯余りであった[9]。以後電灯を積極的に宣伝するなど需要の開拓に努め、供給灯数を伸ばしていった[9]。他方で開業初期には電灯事業が未開業の地域での出張点火も主たる事業であり、一例として1892年(明治25年)には桑名・四日市(三重県)や金沢(石川県)に小型発電機を持ち込んで電灯を取り付けている[9]。1890年(明治23年)7月14日、商法施行に備えて「名古屋電灯株式会社」に改称[12]。経営面では翌1891年(明治24年)1月に役員改選を行い、三浦恵民を専務取締役に選任した[12]。
1891年10月28日、濃尾地震が発生し、名古屋でも多大な被害が出た。名古屋電灯でも発電所建物が損傷する被害を受け2か月間送電を停止したが、震災がきっかけで火災の心配がないという電灯の利点が周知されたことで電灯の需要に繋がった[9]。さらに翌年春に名古屋で相次いだ大火も石油ランプやろうそくが失火の原因と言われたために電灯の普及を後押しした[9]。こうした需要拡大に対処するため、名古屋電灯では1893年(明治26年)に初めての発電所の拡張を実施[9]。さらに翌年には16万円への倍額増資を伴う発電所の第2次拡張を行っている[9]。
競合会社の出現
1892年3月の大須大火に巻き込まれた同地の遊廓「旭廓」(大正時代に大須から転出し中村遊廓となる)の営業主たちは、大火の反省から石油ランプの全廃と電灯の使用を取り決め、名古屋電灯に対し特別割引料金によって供給を受けたいと申し込んでいた[13]。しかし質実な営業方針を採る名古屋電灯は申し込みを拒否する[13]。こうした名古屋電灯の経営は、同社に対して不満を持つ人々を糾合した新会社の進出を招いた[13]。
競合会社の第一号は愛知電灯株式会社であった[13]。同社は愛知県会議長小塚逸夫[注釈 2]を中心に発起され、1894年(明治27年)1月電気事業の許可を取得、3月に資本金7万5000円で発足した[13]。開業は同年11月20日で、旭廓などを供給先とした[14]。愛知電灯の出現に伴い名古屋電灯では翌1895年(明治28年)1月より電灯料金を2割近く値下げるという対抗措置を採ったため、名古屋電灯側にもさらなる需要増加をもたらした[13]。とはいえ日清戦争によって燃料石炭費が上昇している時期であったので、経営面では不利に働いた[14]。
こうした名古屋電灯・愛知電灯の競合について経営・技術両面での危険性を指摘する声は多く、1895年11月より日本電気協会が両社の合併に向けて動き始めた[13]。名古屋電灯社内の意見が一致せず合併交渉は長引いたが、翌1896年(明治29年)1月になってまとまり、名古屋電灯による愛知電灯の吸収合併が決定した[13]。両社は3月に合併契約を締結[14]。その合併条件は対等合併で、存続会社の名古屋電灯の資本金16万円に解散する愛知電灯の資本金15万円を加え、さらに両社の株主に割り当て19万円を増資して新資本金を50万円とする、というものであった[14]。合併は5月13日に成立した[14]。
増資によって得た資金は第三発電所(水主町発電所)の建設に充てられた[15]。同発電所は1901年(明治34年)7月に完成[15]。この時期より従来の電灯供給に加え動力用電力の供給も始まった[16]。
東海電気の合併
愛知電灯に続く競合会社として出現したのが東海電気株式会社である。同社は岡崎電灯の経営者が中心となって三河電力の名で1901年3月に設立[17]。名古屋進出に伴って1905年(明治38年)10月に東海電気へ改称し、翌1906年(明治39年)3月からは本社を名古屋市内に置いていた[17]。
この東海電気は矢作川支流の田代川に出力200kWの小原発電所を建設し、はじめ瀬戸町(現・瀬戸市)への供給を行っていた[17]。次いで名古屋市の東に位置する千種町への供給を1903年(明治36年)12月に開始し、翌1904年(明治37年)1月より名古屋市内での供給に乗り出した[17]。名古屋進出にあたっての東海電気の武器は水力発電による低料金であり、大口需要家である第3師団市内駐屯部隊の一部を名古屋電灯から奪うなど勢力を伸ばした[17]。このため名古屋電灯でも対抗して東海電気進出地域の料金を引き下げたものの、両社の競合する地域とそうでない地域では道を隔てるだけで料金が異なるといういびつな状況が生まれた[17]。また日露戦争に伴う灯油価格の上昇と電灯料金の引き下げに伴って石油ランプから電灯への転換が進んだため、名古屋電灯は新規申し込みの受付を一時中断するほどの深刻な供給力不足に陥った[17]。こうした名古屋電灯の供給力不足も東海電気の進出を招く要因であった[17]。
名古屋市内での需要家争奪戦は、配電線架設などで技術的な危険を生じさせ、経営的にも両社を圧迫したことから、愛知電灯の場合と同様両社の間には次第に合併の機運が醸成された[16]。名古屋電灯よりも先に後述の名古屋電力が合併に動くが、名古屋電灯はより有利な条件を示して1906年12月に東海電気と合併契約を締結した[16]。その合併条件は、存続会社の名古屋電灯の資本金100万円に東海電気の資本金25万円を加え新資本金を125万円とし、東海電気株主には新株とともに別途合併費用計15万円を交付するというものであった[16]。合併は1907年(明治40年)6月1日に成立[16]。名古屋電灯は小原発電所を引き継ぐとともに、工事中の巴川発電所も継承し1908年(明治41年)2月に完成させた[16]。
水力発電への転換
東海電気と合併するまで電源を火力発電に依存していた名古屋電灯は、日露戦争後になって水力発電への進出を計画し、木曽川水系について調査の準備に着手した[18]。しかしこの動きを察知したシーメンス・シュッケルトの関係者から1906年2月に長良川発電所の計画が持ち込まれると、長良川開発の方を優先することとなった[18]。
長良川開発は先に旧岩村藩士の小林重正が構想したもので、岐阜県武儀郡洲原村立花(現・美濃市立花)にて出力3,000kWの発電所建設が計画されていた[18]。小林の計画は水利権を得て1898年(明治31年)に「岐阜水力電気株式会社」の事業許可を得るところまで進んだが、そこから先は実現せず、1904年に事業許可が失効した[18]。こうした中、小林の事業計画に参画していたシーメンス・シュッケルト元社員の野口遵が名古屋電灯に対し計画を引き継ぐよう勧誘したのである[18]。
1907年5月、名古屋電灯は長良川発電所の建設を決定、工事費とシーメンスからの機械購入費に充てるため一挙に400万円増資した[18]。工事中に鶴舞公園における愛知県主催の第10回関西府県連合共進会の開催が決定し、共進会会場内外のイルミネーション点灯を名古屋電灯がすべて請け負うことになった[19]。県は発電所を共進会開催までに完成させるように要請し、県知事や名古屋市長が工事の進捗状況を視察するなど圧力をかけたという[19]。名古屋電灯側も社運を賭して工事を急ぎ、共進会開催前の2日前に工事をすべて終了、開催前日の1910年(明治43年)3月15日に長良川発電所からの送電を開始した[19]。発電所の出力は4,200kWであった[18]。
こうして長良川発電所は完成したが、工事中の資金調達は必ずしも順調ではなかった。日露戦争後の不況で株式の払込金徴収が難航したためで、1908年7月には保険会社からの50万円借り入れを株主総会で決定し、その後も発電所建設の進捗にあわせて借り入れを繰り返した[20]。こうした資金負担の増加の結果、配当率は1906年上期の年率14パーセントから1908年上期には年率12パーセントへと低下し、同様に株価も下落した[20]。業績低下を受けて株主の不満が高まり、「革新会」と称する一部株主から経営陣の責任を追及する動きが生じた[20]。
名古屋電力と名古屋瓦斯
長良川発電所の建設が進むころ、木曽川では八百津発電所の建設工事が進んでいた。ただし事業者は名古屋電灯ではなく、新たに設立された名古屋電力株式会社という電力会社であった。
岐阜県加茂郡八百津町での発電所建設計画の歴史は1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出の衆議院議員兼松煕が1903年に参画してからである[21]。兼松は地元の意見をまとめるとともに東京の岩田作兵衛らを計画に引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた奥田正香の賛同も取り付けた[21]。名古屋からは奥田の他に日本車輌製造の上遠野富之助、三重紡績の斎藤恒三、名古屋電気鉄道の白石半助などが発起人に加わっている[21]。名古屋電灯代表の三浦恵民も、兼松・奥田に招かれたためこの事業に加わって供給力を増強しようと考えたが、社内の意見が一致せず断念した[21]。
名古屋電力は資本金500万円で1906年10月に設立[21]。発起人から奥田・兼松らが役員に選ばれ、奥田が社長となった[22]。さらに事業の万全を期するために渋沢栄一・馬越恭平・雨宮敬次郎という大物実業家の3人を相談役に嘱託している[22]。この新興の名古屋電力と既存の名古屋電灯を比較すると、名古屋電力八百津発電所の発電力は名古屋電灯長良川発電所の約2倍、払込資本金も名古屋電力425万、名古屋電灯265万円と2倍近い差があり、名古屋電力が開業し名古屋方面への送電を始めると名古屋電灯の著しい脅威となると見られた[23]。しかし実際には会社設立後の不況で資金難となり、発電所の着工を1908年1月に遅らせざるを得なかった[21]。
東海電気に続いて名古屋電灯の競合会社となったのは、現実には名古屋電力ではなく、奥田正香がかかわるもう一つの事業名古屋瓦斯(名古屋ガス)であった。同社は名古屋電力に続いて1906年11月に設立、翌1907年10月には都市ガスの供給を開始した[24]。当時のガスの用途は炊事などの熱用ではなく灯火用、すなわちガス灯が中心であり、またガスエンジンの利用もあって照明・動力の供給という意味では電力会社と競合する関係にあった[24]。開業後の名古屋瓦斯は供給を急速に拡大し、開業3年目の1910年には名古屋電灯の電灯数7万6千灯に対し名古屋瓦斯の灯火用孔口数はその3分の1にあたる2万6千口に達した[24]。その後名古屋瓦斯は1914年(大正3年)まで名古屋電灯の電灯数の伸びを上回るペースで灯火用の需要を伸ばしている[24]。
電灯とガス灯の競合は、当時普及していた白熱電球である炭素線電球(発光部分のフィラメントに炭素繊維を用いる電球)に比してガス灯が価格・明るさ両面で有利であったことから生じたが、大正初期にタングステン電球(フィラメントにタングステンを用いる電球)が普及すると電灯が優位に立ち、さらに第一次世界大戦で石炭価格(当時の都市ガスは石炭ガス)が高騰してガス料金が引き上げられるとガス灯は競争力を失って衰退していった[24]。
福澤桃介の経営参加
明治末期の名古屋電灯では、業績の低下に不満を持つ株主によって「革新会」と称する派閥が形成され、反対に経営陣を支持する株主によって「同盟会」と称する派閥が組織されて社内の主導権争いが発生していた[20]。この動きに関連して、1908年8月、長良川発電所建設に向けた借入金50万円を株主総会が承認したことについて、その決議の無効を求める訴訟が株主の一人から起こされた[20]。1909年(明治42年)10月の大審院でようやく名古屋電灯が勝訴するも、訴訟中に従業員による社費横領事件が発覚し、不満をさらに高めた株主らは1908年10月に業務状況などを調査させるよう名古屋地方裁判所に訴えた[20]。訴えは認められ、三井銀行名古屋支店長矢田績、弁護士大喜多寅之助らが検査役に選ばれて同年12月より3か月にわたって帳簿などの精査したが、経営陣による不正は無いと結論付けられた[20]。
こうした混乱の最中、名古屋電灯では東京の実業家福澤桃介による大規模な株式買収が進んでいた[25]。日露戦争後の株式相場で財を成した福澤は、その後各方面に投資を広げており、1907年には名古屋で石炭商を営む友人下出民義に名古屋電灯への投資を勧められていた[26]。このときは下出の誘いを受けなかったものの、慶應義塾の先輩矢田績に検査役となった際の検査書類を見せられ経営しないかと誘われると、福澤は名古屋電灯への投資を決定する[26]。そして1909年2月に名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた[26]。同年3月から福澤は名古屋電灯の株主名簿に登場、以後買収を進め6月末までに5千株余りを持つ株主となり、翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主に躍り出た[26]。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという[27]。
福澤の進出に対し名古屋電灯側では、まず1909年7月矢田の勧めに応じて福澤を顧問とし、次いで10月には新設の相談役に就けた[25]。翌1910年1月の定時株主総会で福澤は取締役に選出され、5月には常務取締役となった(常務には創業者三浦恵民も在職)[25]。この福澤の進出は既存経営陣に批判的な「革新会」側から歓迎された[25]。
名古屋電灯の経営陣に加わった福澤であったが、株式を買収した段階では競合会社の名古屋電力が存在することを知らなかったという[25]。名古屋電力が開業に至れば料金の引き下げを伴う激しい競争となるのは明らかであったため、福澤はすぐさま名古屋電力の合併に動き出す[25]。名古屋電力側も資金難に陥っていたため合併の合意に達するのは容易であったが、反対に、名古屋電灯の株主中の反対論を抑えるのは難航した[25]。反対派の中心となったのは士族や旧愛知電灯の株主で、合併による配当率低下を危惧していた[25]。このため、解散する名古屋電力の資本金500万円に対し名古屋電灯側の増資を250万円に留めて名古屋電力株主への新株交付を持株2株につき1株とし、これによって生ずる差益金から将来の配当に充てる配当補充金を積み立てる、という合併条件をまとめた[25]。
1910年8月26日の臨時株主総会にて名古屋電力の合併は可決されたが、これに続く役員増員にからみ総会は紛糾した[25]。合併に伴う取締役3名・監査役の2名の増員が総会の議題となったが、この賛否をめぐり、福澤の進出を歓迎する革新会改め「電友会」と、福澤系の経営陣を不安視する同盟会改め「愛電会」の両陣営に株主が分裂し収拾がつかなくなったのである[25]。対立は総会の1週間前からあり、矢田績や名古屋市長加藤重三郎らが斡旋に乗り出していたが、当日深夜になっても株主の意見が一致することはなかった[25]。合併については同年10月28日に成立[25]。その後取締役2名・監査役1名増員という折衷案で妥協がなり、11月の臨時株主総会で可決、兼松熙ら旧名古屋電力の役員が新任された[25]。この総会の1週間後、福澤は常務を兼松に譲って辞任し(取締役には留任)、一旦名古屋電灯の経営から退いた[25]。
福澤の社長就任
名古屋電力の合併により八百津発電所の建設工事を引き継いだが、着工当初から難工事が続いていた上、名古屋電灯移行後もトラブル続きで送電を開始したのは1911年12月のことであった[28]。工事中の1911年4月、825万円の増資により資本金を1600万円とし、さらに社業の拡大に伴って常務の上に社長を置くこととして同年7月名古屋市長の加藤重三郎[注釈 3]を迎えた[29]。
出力4,200kWの長良川発電所に出力7,500kWの八百津発電所が加わった名古屋電灯では、大口需要の開拓に努め、主として電力供給を拡大した[29]。しかし両発電所の建設費負担は重く財務状態はかえって悪化し、配当補充金を取り崩して配当を維持するものの1912年(明治45年)には配当率を年率12パーセントから9パーセントに引き下げざるを得なくなった[30]。こうした業績の悪化は株主の経営陣に対する批判を強め、豊橋電気の再建や九州での電気事業で好成績を挙げていた福澤桃介の再登板を期待する声を大きくした[31]。批判の高まりを受けて常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任[31]。次いで大正改元を機に経営を一新すべきという声に押されて同年12月取締役10名と監査役6名全員が一斉に辞任し、直後の株主総会で総改選することになった[31]。
この役員総改選に際しその指名は福澤に一任された[31]。加藤重三郎(社長留任)や兼松煕らが再任されたほか、このとき下出民義も取締役に加わっている[31]。翌1913年(大正2年)1月、福澤は常務に復帰した[31]。こうして経営を握った福澤は九州電灯鉄道支配人の角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、営業活動や集金方法の改善など経営改革に取り組んだ[32]。
こうした中の1913年秋、社長の加藤重三郎、取締役の兼松煕らが大須遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された[33]。加藤らは12月の第1審で有罪となった後、翌1914年の第2審で結局無罪となったが[33]、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に福澤を社長代理に指名した[31]。その後加藤が社長を辞任したため、1914年12月、福澤が後任社長となった[31]。福澤の昇任とともに下出も常務代理から常務となっている(1918年2月からは副社長)[31]。福澤は社長就任後も本拠地を東京に置いたため、以後、福澤が人事・金融を担当し、日常の業務のほとんどは下出が代行するという経営体制となった[34]。
木曽川開発
福澤がまだ社長代理だった1914年初頭、社内に「臨時建設部」が設置された[35]。名古屋電灯は当時すでに木曽川の八百津発電所より上流側(長野県側)に2地点の水利権を確保しており、別の地点での水利権出願や、既得水力地点の開発に向けた実施計画に関する調査などを手がけるための部署であった[35]。
臨時建設部が発足した1914年には第一次世界大戦が勃発した。その後日本に大戦景気が訪れると電力需要は急増し、長良川・八百津両発電所の完成以来余剰電力の対策に苦心していた名古屋電灯でも反対に供給力の確保に追われることとなった[30]。まず1915年(大正4年)9月、工期の短い火力発電所(熱田発電所)を新設[30]。次いで1916年(大正5年)5月には八百津発電所の放水落差を活用する放水口発電所を建設している[30]。同年2月、臨時建設部を拡充して水力開発に着手し、1918年(大正7年)4月矢作川に突貫工事で串原仮発電所を完成させ、木曽川では八百津発電所よりも大きな賤母発電所(出力12,600kW)を着工した[35]。
業績について見ると、大戦勃発以降は供給拡大によって大幅な増収が続き、設備投資も好景気を背景に借入金ではなく株式払込金の徴収によって可能となったため、経営状態は改善に向った[32]。大戦前、配当補充金が尽きた1913年下期に配当率を年率9パーセントから7.6パーセントに引き下げていたが[30][36]、1914年以降増配となり、1918年には年率12パーセントの配当に復した[36]。
1918年9月8日、名古屋電灯は木曽川の水利権、建設中の賤母発電所、矢作川の串原仮発電所、それに準備中の電気製鉄事業(後述)に関する資産を現物出資(評価額計200万円)し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した[37]。新会社の社長は福澤桃介が兼任[37]。資本金は1700万円であり、名古屋電灯はこのとき資本金1600万円であったから、母体となった名古屋電灯よりも大きな会社であった[38]。同社の新設で臨時建設部が独立した形となり、以降木曽電気製鉄が一切の電源開発を担い、名古屋電灯は同社より電力の卸売りを受けて配電事業に専念する体制となった[35]。なお長良川・八百津両発電所も新会社に引き継がせる案があったが、名古屋電灯の供給責任上実行されていない[39]。
木曽電気製鉄はその後、木曽電気興業と改称した直後の1919年(大正8年)11月、京阪電気鉄道関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、関西地方への送電を構想する[40]。この大阪送電と木曽電気興業、それに山本条太郎率いる日本水力の3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社が発足している[41]。
鉄鋼業進出
第一次世界大戦による大戦景気を背景に、福澤は余剰電力を利用した工業の起業を計画し、名古屋電灯顧問となっていた技師寒川恒貞にその調査を命じた[42]。これに対して寒川がフェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼などを製造する電気製鋼を提案したことから、名古屋電灯では同事業へ進出することとなった[42]。まず1915年2月より熱田発電所の一角において実用化に向けた試験を開始[42]。同年10月には社内に「製鋼部」を新設し、試験結果を受けて工場を着工した[42]。1916年8月19日、工場の操業開始とともに名古屋電灯は製鋼部を独立させ資本金50万円の「株式会社電気製鋼所」を設立する[42]。操業開始が大戦中の鉄鋼価格高騰期に重なったため、開業早々年率10パーセントの配当をなすなど電気製鋼所の業績は当初から順調であった[43]。
このような電気製鋼所の好調を受けて、名古屋電灯では1917年(大正6年)6月社内に「製鉄部」を設置し、電気で銑鉄を生産するという電気製鉄の研究に着手する[44](電気製鉄についての詳細は木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開参照)。工場は名古屋市内に建設され、この製鉄部と先述の臨時建設部をあわせて独立させた木曽電気製鉄の設立(1918年9月8日)とともに操業を開始した[44]。こうして銑鉄の生産を始めたものの、技術的な問題が発生したため間もなく生産は中止されている[44]。そのため木曽川の水利権を確保するための看板として注目を集めていた新事業電気製鉄が利用されただけとも言われる[44]。その後製鉄部は銑鉄製造から鋳鋼の製造へと転換した[45]。
木曽電気製鉄はその後大同電力となったが、電気事業に対して副業となった製鉄部門は1921年11月に同社から分離され、大同製鋼(初代)となった[45]。翌1922年(大正11年)7月、大同製鋼が電気製鋼所より鉄鋼部門を現物出資の形で引き受け、名古屋電灯を母体とする鉄鋼メーカーは大同製鋼改め大同電気製鋼所に一元化された[46]。この大同電気製鋼所は後の大同製鋼(2代目)で、現在の大同特殊鋼の前身にあたる。一方、鉄鋼部門を分離した電気製鋼所は、長野県木曽地域を供給区域とする木曽川電力として1942年(昭和17年)まで存続した[46]。
相次ぐ合併
木曽電気製鉄設立後、1920年(大正9年)5月から翌1921年8月までの短期間に名古屋電灯は6社の事業者、すなわち一宮電気・岐阜電気・豊橋電気・板取川電気・尾北電気・美濃電化肥料を相次いで合併した[47]。合併前の1919年10月に増資によって資本金を3300万円としていたが[48]、一連の合併後の名古屋電灯の資本金は4848万7250円に拡大している[47]。
- 一宮電気株式会社
- 1912年2月、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)に設立[49]。開業は1913年1月で、一宮町とその周辺や丹羽郡古知野町・布袋町(現・江南市)などへ供給した[49]。発電所を持たず、名古屋電灯から受電し配電に充てていた[47]。資本金は50万円[49]。
- 1919年12月合併契約締結[50]、1920年5月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は75万円[1]。
- 岐阜電気株式会社
- 前身の岐阜電灯は1894年7月開業[51]。1907年に新会社の岐阜電気へと改組した[52]。供給区域は岐阜県のうち岐阜市・大垣市などで、揖斐川支流の粕川に自社の水力発電所を所有していたが[47]、供給力不足のため1918年より名古屋電灯から受電していた[53]。資本金は600万円[54]。
- 1920年9月合併契約締結[55]、1921年2月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は825万円[55]。
- 豊橋電気株式会社
- 豊橋電灯の名で1894年2月設立、同年4月開業[56]。供給区域は豊橋市や豊川町(現・豊川市)、それに静岡県浜名郡西部(現・湖西市)などで、名古屋電灯とは電力需給関係はなかったが福澤桃介が社長を兼ねていた[47]。資本金は240万円[57]。
- 1920年12月合併契約締結[58]、1921年4月合併成立[47]。合併に伴う資本金増加は378万円[58]。
- 板取川電気株式会社
- 1909年7月設立、翌1910年12月開業[59]。供給区域は岐阜県のうち武儀郡美濃町(現・美濃市)・関町(現・関市)などで、電源は自社の水力発電所であった[47]。資本金は100万円[60]。
- 尾北電気・美濃電化肥料とあわせて1921年8月合併成立[47]。3社合併に伴う資本金増加は270万7250円[47]。
- 尾北電気株式会社
- 1918年3月に犬山電灯と可児川電気が合併し設立[61]。供給区域は愛知県丹羽郡犬山町(現・犬山市)や岐阜県可児郡の町村(現・可児市・御嵩町)で、自社の水力発電所や板取川電気・名古屋電灯からの受電を電源とした[47]。資本金は100万円で[62]、株式の4割を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)[63]。
- 美濃電化肥料株式会社
- 1918年6月設立、資本金300万円[64]。全6万株のうちの1万7000株を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)[63]。美濃町に本社を置き、板取川に白谷発電所を建設して炭化カルシウム(カーバイド)を製造するとともに板取川電気へ電力を供給した[47]。
豊橋電気・板取川電気などとの合併がまだ手続き中の段階にあった1921年3月31日、名古屋電灯は関西水力電気との間に合併契約を締結した[65]。この合併はこれまでのものとは異なり名古屋電灯を被合併会社、相手側(関西水力電気)を存続会社とするものであり、合併に伴って名古屋電灯は解散することとなった[65]。
- 関西水力電気株式会社
- 1905年11月29日、奈良県奈良市に設立[66]。先に開業していた奈良電灯から事業を引き継ぎ奈良市に供給したほか、山辺郡丹波市町(現・天理市)、高市郡八木町(現・橿原市)、北葛城郡高田町(現・大和高田市)などにも供給区域を広げた[66]。資本金は450万円で、名古屋電灯の合併に伴い6469万9650円増資[65]。
関西水力電気と名古屋電灯との合併は1921年9月14日に逓信省の認可を得、10月28日の臨時株主総会において同日をもって合併を実行するものとされた[65]。こうして両社の合併が成立し、関西水力電気は「関西電気株式会社」へと改称した[65]。しかしこの合併は、形式上は関西水力電気を存続会社としたが、実質的には規模の大きい名古屋電灯による関西水力電気の吸収であり、その証左に本店は奈良市から名古屋市に変更され(名古屋市新柳町の旧名古屋電灯本社を引き続き使用)、経営陣も社長福澤桃介、副社長下出民義、常務神谷卓男・角田正喬など名古屋電灯側の役員が入ったのに対し関西水力電気時代から留任したのは常務の加納由兵衛のみであった[65]。
この合併で関西電気(関西水力電気)の資本金は合併前の450万円から6914万9650円へと一挙に拡大した[65]。
政争
関西電気(名古屋電灯)が合併路線を採っていた1920年前後の時期は、名古屋市会を舞台に会社を巻き込む政争が発生していた。その発端は名古屋電灯と名古屋市の間に締結されていた報償契約であった。
福澤が名古屋電灯に参入するよりも前の1908年4月、当時の常務三浦恵民は名古屋市との間に報償契約を締結した[67]。その主たる内容は、
- 会社は決算期毎に報償金を市に納付する。その金額は市内における事業にかかる純益金の4パーセント(1917年より5パーセントに改訂)。
- 電気料金の値上げや他事業者の合併は市の承認を必要とする。
- 市は、市が所有もしくは管理する道路・橋梁・営造物・その他市有物件などにおいて会社が電柱・線管を建設することを承認する。その際使用料や特別税を徴収しない。また名古屋電灯・名古屋電力以外の電気事業者にはこの権利を認めない。
- 契約の有効期間は締結から25年間。満期後市は事業を市営化する権利を得る。買収価格は、(1) 名古屋株式取引所における会社株式の3か年平均株価、(2) 3か年の利益・配当の年額平均を20倍したもの、この2つを平均した価格による。
というものであった[67]。
1920年になって、名古屋電灯は会社にとって不利なこの報償契約の破棄ないし改訂を目指して運動を始めた[68]。その契機は4月の道路法施行で、報償契約の効力に疑義が生じた[注釈 4]と主張していた[68]。会社と市は折衝を続けたが意見は一致をみず、1920年12月、新しい協定に向けて手続きに至急着手するとともにその間は報償金納付と合併承認については従来通り履行する、という旨の覚書きを交わした[69]。
このころの名古屋市会について見ると、議会の多数派は立憲政友会系議員であった[70]。この政友会系の議員には、名古屋電灯副社長の下出民義をはじめ、前社長加藤重三郎、法律顧問青山鉞四郎など同社の関係者が多くいたことから、「電政派」とも呼ばれていた(ただし監査役の磯貝浩は憲政会系)[71]。1921年4月、名古屋電灯は関西水力電気との合併について報償契約に基づく承認を市に対して求めた[71]。6月になり合併承認の件が市会に上程されることとなったが、その当日になって青山鉞四郎の緊急動議によって佐藤孝三郎市長の後任選挙に差し替えらた[72]。この結果政友会系の議員で議長を務める大喜多寅之助が市長に就任し、青山が後任議長となった[72]。名古屋電灯は報償契約改訂・破棄に向けて運動中であったため、電政派市長の擁立は大きな社会的反響を呼んだ[68]。
合併承認の件は9月に市会で審議され、そこで非電政派(憲政会系)は、会社が合併を繰り返すのは買収価格を吊上げて市営化を断念させるため策略であり、また先に木曽電気製鉄を独立させたのは水利権を報償契約の範囲外に置くための措置であったなどと電政派および名古屋電灯を激しく批判した[71]。しかし結局多数を占める電政派の意見が通って委員会付託となり、委員会の結果報償契約を関西水力電気に継承させるなどの条件付での合併承認が決まった[71]。
10月の市会議員選挙では電政派の市政運営に対する市民の批判が高まり、非電政派が多くの支持を集めた[73]。非電政派の演説会に参加した市民がその終了後に名古屋電灯の施設や大喜多の邸宅、政友会系の新愛知新聞社を包囲・襲撃するという事件も発生したという[74]。この選挙の結果は加藤重三郎が落選するなど政友会系(電政派)の敗退、憲政会系(非電政派)の勝利であった[73]。11月には大喜多の市長不信任案が可決され、翌年川崎卓吉に交代した[73]。大喜多の退陣によって名古屋電灯(関西電気)の報償契約改訂・破棄運動も失敗に終わった[注釈 5][68]。
東邦電力発足
市会における政争以外にもこの時期の名古屋電灯(関西電気)を取り巻く内外の環境は悪化していた。事業について見ると、関西電気が発足するころになると名古屋では市街地の膨張に対して供給施設が追いついておらず、供給力不足(水力発電が主電源のため渇水期には特に電力不足であった)や送変電・配電設備の不備から停電が頻発しており[75]、地元の不満が高まっていた[69]。また経理面では、事業資金調達の必要性から株価の上昇を狙って1921年上期の配当率を年率20パーセントに引き上げるという高配当策を採ったことで行き詰まりつつあった[69]。その上、この高配当は1921年上期末時点で全体の6.4パーセントの株式を持つ筆頭株主である社長の福澤自身を利するものとして非難の的にもなった[68]。
1921年12月23日、関西電気成立後最初の定時株主総会において社長の福澤桃介、副社長の下出民義がそろって辞任し、新たに九州電灯鉄道社長の伊丹弥太郎が新社長に、同社常務の松永安左エ門が新副社長にそれぞれ就任した[76]。伊丹は佐賀の財界人[77]、松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、当時は福岡を拠点に電気事業の経営にあたっていた[78]。経営陣交代の時点で関西電気と九州電灯鉄道の合併は内定しており[76]、25日に両社の間で合併契約が締結された[79]。合併条件は、存続会社の関西電気が九州電灯鉄道の資本金と同額の5000万円を増資して同社株主に対し持株1株につき新株1株を交付する、というものであった[79]。
経営陣交代の経緯は、福澤から引き継いだ松永の回想によると、周囲との対立で行き詰った福澤が状況を打開するために名古屋電灯を関西水力電気と合併させたが、そのようなことでは解決しないところまで事態が悪化していたため、さらなる打開策として九州電灯鉄道と合併させて松永を「ピンチヒッター」としたのだという[80]。福澤自身は後年、伊藤次郎左衛門(松坂屋経営)など名古屋の財界人や憲政会の小山松寿(名古屋新聞社経営)から排斥されたことに対する反抗心から関西への進出を企て、木曽川開発つまり大同電力の方に集中するために名古屋電灯を九州電灯鉄道に合併してしまったと語っている[81]。また同時代の実業家青木鎌太郎は、福澤らの退陣は、市会の政友会系議員と組んで市政を壟断していると批判を受けた電政派問題の責任をとったことが有力な理由であったようだと述べている[82]。
関西電気と九州電灯鉄道の合併は翌1922年(大正11年)5月31日付で成立した[79]。資本金は1億円超となり[83]、供給区域は九州地方を含む12府県に及んだ[84]。このように関西電気は社名の「関西」を超えて営業範囲が広がったため、新社名を公募し同年6月26日の定時株主総会にて社名を変更、「東邦電力株式会社」となった[85]。同時に定款記載の本店を名古屋市から東京市へと変更し、本社を東京海上ビルへと移している[85]。
こうして名古屋電灯から関西電気を経て発展した東邦電力は、以後戦前期の大手電力会社「五大電力」の一角として1942年(昭和17年)に解散するまで活動することとなる。
業績推移表
1904年(明治37年)から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回である。
年度 | 公称資本金 | 払込資本金 | 収入 | 支出 | 純利益 | 配当率 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1904上 | 500 | 500 | 81 | 41 | 40 | 14.0% | [86] |
1904下 | 500 | 500 | 83 | 44 | 38 | 14.0% | |
1905上 | 1,000 | 625 | 98 | 52 | 46 | 14.0% | |
1905下 | 1,000 | 700 | 116 | 68 | 47 | 14.0% | |
1906上 | 1,000 | 700 | 142 | 88 | 53 | 14.0% | |
1906下 | 1,000 | 850 | 173 | 108 | 64 | 16.0% | |
1907上 | 1,250 | 1,250 | 242 | 140 | 102 | 14.0% | |
1907下 | 5,250 | 2,250 | 274 | 142 | 131 | 12.0% | |
1908上 | 5,250 | 2,250 | 281 | 135 | 146 | 12.0% | |
1908下 | 5,250 | 2,250 | 304 | 157 | 146 | 12.0% | |
1909上 | 5,250 | 2,250 | 338 | 196 | 141 | 12.0% | |
1909下 | 5,250 | 2,650 | 352 | 183 | 170 | 12.0% | |
1910上 | 5,250 | 3,250 | 342 | 167 | 175 | 12.0% | |
1910下 | 7,750 | 6,116 | 207 | 12.0% | |||
1911上 | 7,750 | 7,750 | 461 | 180 | 280 | 12.0% | |
1911下 | 7,750 | 7,750 | 499 | 253 | 246 | 12.0% | |
1912上 | 16,000 | 9,812 | 562 | 306 | 255 | 9.2% | |
1912下 | 16,000 | 9,812 | 655 | 350 | 305 | 9.2% | |
1913上 | 16,000 | 9,812 | 762 | 431 | 331 | 9.2% | |
1913下 | 16,000 | 10,637 | 824 | 413 | 410 | 7.6% | |
1914上 | 16,000 | 10,637 | 937 | 491 | 446 | 8.0% | [1] |
1914下 | 16,000 | 10,637 | 930 | 471 | 459 | 8.0% | |
1915上 | 16,000 | 10,637 | 994 | 500 | 494 | 8.5% | |
1915下 | 16,000 | 10,637 | 1,004 | 507 | 497 | 8.5% | |
1916上 | 16,000 | 11,875 | 1,081 | 536 | 545 | 9.0% | |
1916下 | 16,000 | 11,875 | 654 | 9.0% | |||
1917上 | 16,000 | 11,875 | 1,413 | 628 | 785 | 10.0% | |
1917下 | 16,000 | 12,700 | 1,603 | 717 | 885 | 11.0% | |
1918上 | 16,000 | 13,525 | 2,111 | 1,246 | 865 | 12.0% | |
1918下 | 16,000 | 13,525 | 2,133 | 1,230 | 902 | 12.0% | |
1919上 | 16,000 | 13,525 | 2,557 | 1,609 | 948 | 12.0% | |
1919下 | 16,000 | 16,000 | 3,023 | 1,717 | 1,305 | 18.0% | |
1920上 | 33,750 | 21,000 | 3,646 | 2,325 | 1,320 | 12.0% | |
1920下 | 33,750 | 21,000 | 4,206 | 2,378 | 1,827 | 14.0% | |
1921上 | 45,780 | 28,881 | 7,379 | 4,188 | 3,190 | 20.0% | [87] |
供給の推移
以下、沿革のうち供給の推移について詳述する。
1880・90年代
開業前の1889年(明治22年)6月に名古屋電灯が作成した広告によると、名古屋市南長島町(現・栄二丁目)の発電所を起点に北は本町、東は栄町、西は堀川を渡った先(船入町・東柳町など)、南は大須方面の門前町・橘町へとまず送電するとされた[88]。同年12月15日に開業した際、配電線の延長は14キロメートル余りで、需要家数は241戸、電灯の点灯数は400灯余りであった[9]。
開業時、電灯の点灯時間は日没から3時間であり、「3時間灯」と称した[88]。翌1890年(明治23年)2月には日没から23時まで点灯する「5時間灯」を新設し、その後0時までの「半夜灯」、翌日2時までの「2時灯」と徐々に供給時間を拡大していき、同年4月から「終夜灯」を設定している[88]。料金は最も需要の多かった10燭半夜灯を例にとると月額80銭であった(終夜灯の場合1円20銭)[88]。
供給面では1890年11月より陸軍第三師団の市内各隊への供給を開始し、引き続き官庁や銀行、会社などへ新規の供給を開始すると、これが一般民家の需要も喚起して開業1年間で電灯取付数は3倍に達した[89]。しかし1891年(明治24年)1月に帝国議会仮議事堂火災が発生しその原因が漏電によるものと伝えられたため、点灯の取り消しが相次いで需要の伸びは一旦停滞した[12]。その対策として名古屋電灯では2月になって官公吏や需要家を招待して安全性をアピールする実地実験を実施している[12]。続いて10月28日に濃尾地震が発生。名古屋電灯も被災して12月28日まで送電停止を余儀なくされた[12]。
しかしこの震災は、電灯の安全性を市民に周知させる好機となった[12]。それに加えて震災を期に興行場での石油ランプの使用が制限されたため、震災後は電灯の需要が急増した[12]。さらに翌1892年(明治25年)3月に大須大火が発生し、その後も大小の火災が続いた際に、出火原因が石油ランプやろうそくであると伝えられたために、電灯の需要増加に拍車がかかった[12]。需要増加の結果、1893年(明治26年)2月に名古屋電灯は初めての発電所増設を行っている[12]。
1894年(明治27年)11月に競合する愛知電灯が開業したのに伴い、名古屋電灯では対抗上翌1895年(明治28年)1月より電灯料金を値下げした[14]。値下げの結果さらなる需要を喚起したために同年12月第2次の発電所増設に踏み切っている[14]。しかしこの競争は日清戦争戦中・戦後の燃料(石炭)価格高騰と重なったため、愛知電灯との合併が成立(1896年5月)した後の1896年(明治29年)12月に開業以来初めてとなる料金の値上げを行った[14]。以降も1897年(明治30年)3月、翌1898年(明治31年)3月と料金を値上げた[14]。
開業10周年を迎えた1899年(明治32年)の取付電灯数は8,854灯であった[90]。
1900年代
1901年(明治34年)7月、交流高圧送電方式を採用する水主町発電所が完成した[14]。翌1902年(明治35年)の下期より名古屋電灯では動力用電力の供給を開始する[16]。当初の需要は電動機1台のみで、しかも夜間送電のみであったが、その後日露戦争勃発に伴う軍需品製造などで需要は徐々に増加し、1904年(明治34年)10月には昼間の送電も始まった[16]。
1904年1月、瀬戸町(現・瀬戸市)に供給していた三河電力、後の東海電気が名古屋市内でも電気の供給を開始した[16]。同社の進出は1906年(明治39年)3月になって特に激しくなり、市内における名古屋電灯の未開業地域に電線を延長するとともに、名古屋電灯既開業地域では道路外の民有地に電柱を建設し電線を架設して供給地域の拡張を図った[16]。同社の市内における電灯供給数は1906年末時点で465戸・1,877灯に及んだが、急速に拡大した要因は水力発電による低廉な料金であった[16]。名古屋電灯は1906年2月に電灯料金の値下げを実施し、10燭の終夜灯では月額85銭としていたが、東海電気ではこれを月額65銭で供給していたのである[16]。したがって名古屋電灯は東海電気が配電する地域では同社の料金水準に割引して供給せざるを得なくなった[16]。
東海電灯との競争の傍ら、日露戦争後の好況で電灯・電力ともに需要が増加したため、供給力不足に陥った名古屋電灯は1906年11月から水主町発電所の増設が完成する12月まで、供給の新規申し込みの受付を一時中止する措置をとった[16]。翌1907年(明治40年)7月、東海電気の合併が成立し、名古屋電灯は瀬戸町などを供給区域に追加している[16]。東海電気から引き継いだ電灯数は3,388灯、電力供給馬力数は178馬力である[16]。
開業20周年を迎えた1909年(明治42年)の取付電灯数は5万4,937灯であり、開業時に比して100倍以上、10年前と比べても6倍強に増加していた[90]。また電力供給は1,145馬力であった[90]。
1910年代以降
1910年(明治43年)に竣工した長良川発電所と1912年(大正元年)に運転を開始した八百津発電所という2つの大規模水力発電所の建設により、名古屋電灯では創業以来初めて販売電力に余剰が生じた[91]。このことから1910年代以降は余剰電力の消化を目的に大口の電力供給に注力し、工場、電気鉄道、他の電気供給事業者など新規需要を開拓、電気の供給地域を名古屋市とその周辺のみならず愛知県外にも拡大した[91]。
大口供給を具体的に見ると、長良川発電所建設以前の大口需要家は瀬戸電気鉄道(1907年3月供給契約締結)をはじめごく少数であったが、同発電所完成後の1911年(明治44年)に名古屋電気鉄道と愛知織物・帝国撚糸を加え、その後1913年(大正2年)にかけて愛知電気鉄道・尾張電気軌道・一宮電気・尾北電気・稲沢電気・岐阜電気・知多瓦斯(後の知多電気)・日英水電・日本車輌製造・三重紡績(後の東洋紡績)半田工場といった大口需要家への供給を開始した[91]。1913年に電力供給実績は1万馬力を越え[36]、同年以降は消費電力量(キロワット時)ベースで電力供給が電灯供給を上回るようになった[32]。
電力需要はその後、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発するとさらに増加し、特に大戦中の後期から戦後にかけては著しい増加を示した[36]。この時期には、石炭価格の高騰や大戦景気を背景とする事業拡大に伴い動力を蒸気機関から電動機に転換した紡績工場が相次いで新規の大口需要家となったほか、社長の福澤桃介が創立にかかわった電気製鋼所やソーダ会社の東海曹達(桃介の長男福澤駒吉が経営)などへも供給を開始している[92]。電力供給実績は1917年(大正6年)に2万馬力を越え、1919年(大正8年)には3万6千馬力に達した[36]。
一方電灯供給については、1911年(明治44年)に電灯数が10万灯を越えたが、1914年までは名古屋瓦斯(1907年開業)が供給するガス灯の方が数では劣るものの電灯数の増加率を越えるペースで普及していた[24]。ガス灯との対抗上1912年1月に電灯料金を引き下げ(一例として10燭灯は月額85銭から80銭へ)、2月には電灯勧誘規定を制定して外交員を置き電灯販売に努めた[32]。翌1913年9月には創立25周年を記念し増設希望者に福引券を配布するとともに、支配人以下の職員に責任灯数を割り当てて勧誘にあたらせる、という拡販策を実施し、販売促進の努力を続けた[32]。
1914年9月、名古屋市内の路面電車を運転する名古屋電気鉄道に対し、運賃値下げ問題が発端となって電車焼き討ち事件が発生した[69]。この時期、名古屋電灯に対しても電車運賃と同様に電気料金の値下げ要求があり、対策として1914年2月・1916年2月・1917年2月の3回にわたって電灯料金・電力料金を引き下げた[69]。1917年2月の改訂では定額の8燭灯では月額50銭、16燭灯では65銭、24燭灯では80銭などと電灯料金が定められ、以後東邦電力時代の初期までその料金制度が維持された[93]。この間、電灯数は1916年に20万灯を越え、1919年には30万灯を突破している[36]。
1921年(大正10年)10月に名古屋電灯と関西水力電気が合併し関西電気が発足した際、新会社の電灯数は旧名古屋電灯区域の87万4,429灯と旧関西水力電気の10万7,990灯をあわせて98万2,419灯となり、電力供給は6万6,285.5馬力と2,237馬力をあわせて6万8,522.5馬力に達した[65]。
供給実績推移表
1904年から関西水力電気と合併する直前の1921年上期までの期別業績の推移は以下の通り。決算期は毎年5月(上期)・11月(下期)の2回で、供給実績の数値は各期末のものである。また「電灯数」は1912年までは取付灯数により計算したものだが、1913年以降は実際の点灯数に基づく。
年度 | 電灯数 (単位:灯) |
販売電力 (単位:馬力) |
出典 |
---|---|---|---|
1904上 | 14千 | - | [86] |
1904下 | 16千 | 40 | |
1905上 | 17千 | 178 | |
1905下 | 19千 | 308 | |
1906上 | 25千 | 502 | |
1906下 | 30千 | 617 | |
1907上 | 35千 | 1,159 | |
1907下 | 36千 | 1,184 | |
1908上 | 39千 | 1,120 | |
1908下 | 44千 | 1,222 | |
1909上 | 47千 | 1,148 | |
1909下 | 54千 | 1,145 | |
1910上 | 93千 | 1,255 | |
1910下 | 76千 | 1,435 | |
1911上 | 86,802 | 1,780 | [36] |
1911下 | 100,514 | 2,951 | |
1912上 | 120,939 | 4,290 | |
1912下 | 141,396 | 6,996 | |
1913上 | 141,432 | 10,184 | |
1913下 | 161,359 | 10,932 | |
1914上 | 184,695 | 13,485 | |
1914下 | 188,950 | 13,789 | |
1915上 | 186,539 | 14,404 | |
1915下 | 192,863 | 14,543 | |
1916上 | 203,046 | 15,865 | |
1916下 | 212,156 | 19,273 | |
1917上 | 228,998 | 22,149 | |
1917下 | 251,728 | 25,138 | |
1918上 | 266,763 | 28,255 | |
1918下 | 284,075 | 29,909 | |
1919上 | 307,971 | 29,828 | |
1919下 | 334,076 | 36,403 | |
1920上 | 407,715 | 41,927 | [1] |
1920下 | 434,692 | 44,998 | |
1921上 | 660千 | 60,204 | [87] |
供給区域一覧
1919年
岐阜電気や豊橋電気を合併する前にあたる1919年(大正8年)12月末時点における名古屋電灯の供給区域は以下の通り[94]。特記のない限り電灯・電力供給区域である。
愛知県 | 市部 (1市) |
名古屋市 |
---|---|---|
愛知郡 (4町7村) |
千種町・呼続町・愛知町・下之一色町・御器所村・東山村・中村・常磐村・八幡村・荒子村・小碓村(現・名古屋市) | |
西春日井郡 (5町10村) |
枇杷島町・清水町・杉村・金城村・六郷村・萩野村・山田村・庄内村・川中村・楠村(現・名古屋市)、 西枇杷島町・新川町・清洲町(現・清須市)、 北里村(現・北名古屋市・小牧市)、 豊山村(現・豊山町) | |
東春日井郡 (4町7村) |
瀬戸町・品野村・赤津村・水野村(現・瀬戸市)、 守山町(現・名古屋市)、 旭村(現・尾張旭市)、 勝川町・鳥居松村・篠木村(現・春日井市)、 小牧町・味岡村(現・小牧市) | |
海部郡 (1町4村) |
蟹江町、 甚目寺村(現・あま市)、 大治村(現・大治町)、 富田村・南陽村(現・名古屋市) | |
丹羽郡 (1町3村) |
岩倉町(現・岩倉市)、 大口村(現・大口町)、 西成村(一部)・千秋村(現・一宮市) | |
岐阜県 | 市部 | 【電力供給区域】岐阜市 |
稲葉郡 | 【電力供給区域】加納町(現・岐阜市) |
1921年
名古屋電灯時代の末期、1921年(大正10年)6月末時点の電灯・電力供給区域は以下の通り。この時点では合併していない尾北電気・板取川電気の供給区域もあわせて記す[95]。
名古屋電灯 電灯・電力供給区域 | ||
---|---|---|
愛知県 | 市部 (2市) |
名古屋市、豊橋市 |
愛知郡 (4町7村) |
千種町・呼続町・愛知町・下之一色町・御器所村・東山村・八幡村・中村・常磐村・荒子村・小碓村(現・名古屋市) | |
西春日井郡 (5町10村) |
枇杷島町・清水町・杉村・金城村・六郷村・萩野村・山田村・庄内村・川中村・楠村(現・名古屋市)、 西枇杷島町・新川町・清洲町(現・清須市)、 北里村(現・北名古屋市・小牧市)、 豊山村(現・豊山町) | |
東春日井郡 (4町7村) |
瀬戸町・品野村・赤津村・水野村(現・瀬戸市)、 守山町(現・名古屋市)、 旭村(現・尾張旭市)、 勝川町・鳥居松村・篠木村(現・春日井市)、 小牧町・味岡村(現・小牧市) | |
海部郡 (1町4村) |
蟹江町、 甚目寺村(現・あま市)、 大治村(現・大治町)、 富田村・南陽村(現・名古屋市) | |
丹羽郡 (3町3村) |
岩倉町(現・岩倉市)、 布袋町・古知野町(一部)(現・江南市)、 大口村(現・大口町)、 西成村・千秋村(現・一宮市) | |
中島郡 (4町3村) |
一宮町・奥町・起町・萩原町・今伊勢村・大和村・朝日村(現・一宮市) | |
葉栗郡 (2町3村) |
浅井町・木曽川町・北方村・葉栗村(現・一宮市)、 宮田村(現・江南市) | |
東加茂郡 | 【電力供給区域】盛岡村(一部)(現・豊田市) | |
宝飯郡 (6町7村) |
豊川町・牛久保町・八幡村・国府町・御油町・赤坂町・長沢村・萩村・小坂井村・御津村(現・豊川市)、大塚村(現・豊川市・蒲郡市)、 下地町・前芝村(現・豊橋市) | |
渥美郡 (1町4村) |
二川町・高師村・牟呂吉田村・老津村(現・豊橋市)、杉山村(現・豊橋市・田原市) | |
八名郡 (2村) |
三上村(現・豊川市)、 下川村(現・豊橋市) | |
静岡県 | 浜名郡 (2町4村) |
新居町(一部)・白須賀町・吉津村・新所村・入出村・知波田村(現・湖西市) |
岐阜県 | 市部 (2市) |
岐阜市、大垣市 |
稲葉郡 (1町15村) |
本荘村・長良村・島村・三里村・加納町・北長森村(一部)・南長森村・木田村・市橋村・茜部村・鶉村・黒野村・厚見村・鏡島村・佐波村(現・岐阜市)、 更木村(現・各務原市) | |
安八郡 (1町6村) |
神戸町(一部)、北平野村(現・神戸町・揖斐郡池田町)、 北杭瀬村・南杭瀬村・安井村・中川村・三城村(現・大垣市) | |
羽島郡 (2町11村) |
笠松町、松枝村(一部)・下羽栗村(現・笠松町)、 竹ヶ鼻町・駒塚村・江吉良村(一部)・正木村・足近村(現・羽島市)、 上羽栗村・八剣村(現・岐南町)、 柳津村(現・岐阜市)、 中屋村・川島村(現・各務原市) | |
養老郡 (1町6村) |
高田町・多芸村・養老村・笠郷村・上多度村・広幡村(現・養老町)、池辺村(現・海津市・養老町) | |
揖斐郡 (1町9村) |
揖斐町(一部)・大和村・清水村・春日村(現・揖斐川町)、 池田村(一部)・本郷村・八幡村(一部)(現・池田町)、養基村(現・池田町・揖斐川町)、 大野村・豊木村(現・大野町) | |
本巣郡 (1町7村) |
北方町、生津村(現・北方町・瑞穂市)、席田村(現・北方町・本巣市)、 穂積村・本田村・牛牧村・船木村(現・瑞穂市)、 合渡村(岐阜市) | |
不破郡 (2町6村) |
赤坂町・青墓村・静里村(現・大垣市)、 垂井町、宮代村・表佐村(現・垂井町)、 関ケ原村・玉村(現・関ケ原町) | |
山県郡 (1町2村) |
高富町・富岡村(現・山県市)、 岩野田村(現・岐阜市) | |
海津郡 (2町3村) |
今尾町・高須町・城山村・石津村・吉里村(現・海津市) | |
尾北電気 電灯・電力供給区域 | ||
愛知県 | 丹羽郡 (2町5村) |
犬山町(一部)・城東村・池野村・羽黒村・楽田村(現・犬山市)、 扶桑村(現・扶桑町)、 古知野町(一部)(現・江南市) |
葉栗郡 (1村) |
草井村(現・江南市) | |
岐阜県 | 可児郡 (3町11村) |
御嵩町・上之郷村・中村・伏見村(現・御嵩町)、 錦津村(現・八百津町)、 今渡町・広見村・平牧村・久々利村・土田村・春里村・帷子村・兼山町(現・可児市)、姫治村・(現・可児市・多治見市) |
加茂郡 (2村) |
和知村(現・美濃加茂市・八百津町)、 上米田村(現・川辺町) | |
武儀郡 (1村) |
上麻生村(一部)(現・加茂郡七宗町) | |
板取川電気 電灯・電力供給区域 | ||
岐阜県 | 武儀郡 (2町15村) |
美濃町・安曽野村・下牧村・上牧村・中有知村(一部)・藍見村・大矢田村(現・美濃市)、 関町・吉田村・倉知村・瀬尻村・下有知村・南武芸村・東武芸村・洞戸村・板取村(現・関市)、 西武芸村(現・山県市) |
加茂郡 (3町7村) |
太田町・古井村・下米田村・加茂野村(現・美濃加茂市)、 富田村(現・富加町)、富岡村(現・富加町・関市)、田原村(現・関市)、 坂祝村(現・坂祝町)、 川辺町、下麻生町(現・川辺町・七宗町) | |
山県郡 (4村) |
保戸島村(現・関市)、 山県郡・春近村・厳美村(現・岐阜市) |
これらの地域は東邦電力ののち1942年(昭和17年)の配電統制に伴って中部配電の供給区域とされ[96][97]、さらに第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)からは中部電力の供給区域になっている[97]。
電源の推移
以下、沿革のうち電源の推移について詳述する。
第一発電所
名古屋電灯最初の発電所は火力発電所の第一発電所である。愛知電灯を合併して同社の発電所(第二発電所)を引き継ぐまでは社内唯一の電源で、その当時は「電灯中央局」と称した[14]。場所は名古屋市南長島町・入江町(現・中区栄二丁目)で[5]、跡地には中部電力の電気文化会館が建つ[98]。
1889年(明治22年)12月に開業した時点での電灯中央局の設備は、米国A・P・ハンプソン製ボイラー3台、米国アーミングトン・アンド・シムス製蒸気機関2台、ドイツAEG製エジソン型直流発電機(出力25kW)4台であり、直流250ボルトにて配電した[9]。開業以来の需要増加に対応するため、1893年(明治26年)2月、京都電灯から譲り受けた設備一式(米国製ボイラー・蒸気機関各1台、三吉工場製25kWエジソン型発電機2台[99])を増設[9]。さらに翌1894年(明治27年)7月、岡谷商店製ボイラー1台・米国製蒸気機関1台とAEG製25kW発電機2台を増設し[100]、1895年(明治28年)12月には川崎造船所製ボイラー・米国製蒸気機関とAEG製25kW発電機2台を増設している[101]。
こうして第一発電所は最大で出力250kWの発電所となったが[102]、後述の水主町発電所において1904年(明治37年)6月に第2期工事が完成すると発電を休止した[14]。その後は予備発電所として残され、一部が試験室として用いられたが、1911年(明治44年)9月27日に試験室の失火が原因で全焼した[103]。
第二発電所
1896年(明治29年)5月に愛知電灯の合併によって継承した同社の火力発電所を、名古屋電灯では第二発電所と称した[14]。所在地は名古屋市下広井町3丁目[14](現・中村区名駅南)。
第二発電所の設備は、ボイラー2台、蒸気機関4台、エジソン式直流発電機30kW・25kW各2台、ホプキンソン型600-800灯用交流発電機1台であった[104]。特筆すべきは交流発電機の存在で、直流発電機しか導入していなかった名古屋電灯では小規模ながら初めての交流発電機となった[14]。この交流発電機を用いて名古屋電灯では熱田町方面への長距離送電を試行し、試験結果を受け直流送電の全廃を決定して水主町発電所の建設に取り掛かった[14]。1901年(明治34年)7月、同発電所の運転開始とともに第二発電所は廃止された[14]。
水主町発電所
交流・高圧送電の採用を目的に建設された火力発電所が第三発電所で、名古屋市水主町3丁目(現・中村区名駅南、中部電力水主町変電所の位置[105])にて1900年(明治33年)6月に着工、翌年1901年7月22日より運転を開始した[14]。その後1904年6月4日に第2期工事[14]、同年12月27日に第3期工事、1906年(明治39年)12月27日に第4期工事がそれぞれ終了して運転を開始している[16]。この間の1904年7月、第3発電所から水主町発電所へと改称した[16]。
第1期・第2期工事の際の発電所設備は英国製ボイラー・米国製蒸気機関と米国ゼネラル・エレクトリック (GE) 製300kW交流発電機(各1台)という組み合わせ[106]、第3期・第4期工事の際の増設設備は米国バブコック・アンド・ウィルコックス (B&W) 製ボイラー・米国GE製蒸気タービンとGE製500kW交流発電機(各1台)という組み合わせであり[107]、発電所出力は最終的に1,600kWとなった[102]。発電機の発生電力は4台とも同じで二相交流・電圧2,300ボルト・周波数60ヘルツ[106][107]。
長良川発電所の運転開始に伴い1910年(明治43年)6月14日より運転を休止した[108]。このため臨時的に水主町発電所から送電する以外は名古屋電灯の電源はすべて水力発電となったが、その後渇水時その他の予備発電所とすることが決まり、1913年(大正2年)5月に発電機が三相交流発電機に改造された[108]。しかし旧式化して石炭費が高くつき用水供給も不十分な点があるため、熱田発電所拡張にあわせて撤去が決まり、名古屋電灯は1917年(大正6年)12月22日に廃止許可を得て翌年3月に発電所を撤去した[108]。
小原発電所
名古屋電灯最初の水力発電所は小原発電所といい、元は東海電気(旧・三河電力)が建設したものである[16]。矢作川の支流田代川を利用する発電所で、1901年3月着工、1902年(明治35年)7月に竣工、9月より瀬戸町(現・瀬戸市)への送電を始めた[16]。所在地は愛知県西加茂郡小原村大字川下[109](現・豊田市川下町)。
発電所出力は200kWで[102]、設備はペルトン水車会社製ペルトン水車・明電舎製100kW交流発電機(三相交流3,450ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせであった[110]。1914年(大正3年)8月より瀬戸へも八百津発電所から送電するようになったため発電を休止[111]。その後の需要増加で一時再稼働するも1917年上期には発電を再停止し、そのまま1919年(大正8年)12月に6万9000円で岡崎電灯へ売却された[111]。現・中部電力川下発電所[102](地図)。
巴川発電所
小原発電所に続く水力発電所である巴川発電所は、東海電気が着工して名古屋電灯が工事を引き継いだもので、1908年(明治41年)2月11日に運転を開始した[16]。矢作川の支流巴川を利用する発電所で[16]、所在地は愛知県東加茂郡盛岡村大字戸中[109](現・豊田市戸中町)。
発電所出力は750kW[102]。設備はエッシャーウイス製フランシス水車と芝浦製作所製750kW三相交流発電機(電圧3,300ボルト・周波数60ヘルツ)各1台の組み合わせで、11キロボルト (kV) への昇圧用変圧器も設置する[112]。発生電力は初め愛知郡千種町(現・名古屋市千種区)の千種変電所へと送電したが[113]、1913年12月1日より出力全部を日英水電へと供給するようになった[91]。その後関西電気成立時点では、途中で熱田発電所と連絡しつつ22kV送電線にて知多半島方面へと送電していた[114]。
長良川発電所
大型水力発電所のうち名古屋電灯が着工し完成させたのが長良川発電所である[18]。長良川を利用する発電所で、所在地は岐阜県武儀郡洲原村立花[109](現・美濃市立花)。発電所出力は4,200kW[115]。
設備はフォイト製フランシス水車とシーメンス製2,500kW三相交流発電機(電圧2,300ボルト・周波数60ヘルツ)各2台の組み合わせで、33kVへの昇圧用変圧器も備える[112]。1910年3月15日、水車・発電機各2台(1・2号機)の竣工に伴って発電所は運転を開始した[116]。さらに同年4月27日に3号機も竣工して水車・発電機は3台となり、3台中1台を予備として運用する体制となったが、2号機は1918年(大正7年)2月になって取り外され、矢作川の臨時建設部串原仮発電所へと転用された[116]。
長良川発電所からの送電を受ける名古屋方面の変電所は児玉変電所といい、愛知県西春日井郡金城村大字児玉(現・名古屋市西区)に発電所とともに設置された[116]。長良川発電所から児玉変電所までは33kV送電線にて送電されたほか[117]、関西電気成立時点ではこの長良川送電線から分岐して岐阜へ至る33kV線と小木・一宮へ至る33kV線が存在していた[118]。
八百津発電所
大型水力発電所のうち名古屋電灯ではなく名古屋電力が着工したのが八百津発電所である[21]。木曽川を利用する発電所で、所在地は岐阜県加茂郡八百津町字諸田[109]。発電所名は1917年6月1日に改称するまでは河川名をとって「木曽川発電所」と称した[119]。発電所出力は7,500kW[115]。
設備はモルガン・スミス製水車とGE製2,500kW三相交流発電機(電圧6,600ボルト・周波数60ヘルツ)各4台の組み合わせで、66kVへの昇圧用変圧器も備える[112]。水車・発電機2台の完成に伴い1911年12月10日より運転を開始し、残りも翌年7月までに完成した[120]。八百津発電所の電力を受ける名古屋方面の変電所は萩野変電所(西春日井郡萩野村大字安井=現・名古屋市北区)と南武平町変電所(名古屋市南武平町)の2か所で、発電所と同時に建設[120]。八百津変電所から萩野変電所までを66kV送電線でつなぎ[117]、萩野変電所で降圧した上で市内配電をつかさどる南武平町変電所へ送電した[120]。
八百津発電所は古い時代の設計に基いて洪水時の水位上昇に配慮し放水口を過度に高い位置に置いたため、洪水時以外はその分の落差を利用していなかった[121]。このため残留落差を利用した小発電所(放水口発電所)を増設することとなり[121]、1917年5月25日に竣工させた[122]。発電所出力は1,200kW[115]。水車・発電機は日立製作所製で、4台1組のフランシス水車で1台の発電機を駆動[121]。発生電力は八百津発電所へ送られた[121]。
関西電気発足時点では、八百津発電所の発生電力は66kV送電線にて萩野変電所と同所から先三重県北部の富田変電所にも送電された[114]。また長良川発電所の系統との連絡用に萩野・児玉両変電所をつなぐ11kV線が存在していた[114]。
なお八百津発電所の工事用発電所として名古屋電力が設置した旅足川(たびそこがわ)発電所があった[123]。同発電所1907年(明治40年)11月に使用認可[123]。木曽川支流の旅足川にあり、設備としては水車・75kW発電機各1台があった[123]。地元八百津町の希望があったため、名古屋電灯は工事終了後の1912年(明治45年)4月5日に水利権もあわせて2500円で町へ売却した[123]。八百津町は同発電所を元に以後町営電気事業を経営している[123]。
熱田発電所
老朽化した水主町発電所にかわる渇水時に備えた予備火力発電所として新設されたのが熱田発電所である[124]。名古屋市南区熱田東町(現・熱田区)の土地を買収し、1914年6月に設置認可を得て直ちに着工、翌1915年(大正4年)9月25日に竣工させた[125]。
主要設備はB&W製ボイラー5台、GE製または三菱造船所製蒸気タービン・発電機各3台(GE製2台・三菱製1台)[126]。運転開始当初は3,000kW発電機1台にて運転[124]。その後第一次世界大戦中の需要増加に対処するために増設が重ねられ[127]、1917年11月に第2期工事として4,000kW発電機1台、1918年6月に第3期工事として3,000kW発電機1台が竣工し、出力10,000kW(常用7,000kW・予備3,000kW[125])の発電所となった[124]。
大同電力からの受電
1918年4月、名古屋電灯臨時建設部が工事を進めていた串原仮発電所(出力2,000kW)が竣工した[35]。この発電所は、矢作川での串原発電所中、大戦景気による需要急増に伴い設備納入を待つ余裕がなくなったため長良川発電所の予備設備一式を転用して急設された仮設発電所である[128]。名古屋への送電設備として六郷村(現・名古屋市東区)に六郷変電所を、発電所から六郷変電所へ77kV送電線を架設し、どちらも同年6月に竣工させた[129]。同年9月、前述の通り臨時建設部は名古屋電灯から分離されて木曽電気製鉄(後の大同電力)となった[35]。
翌1919年7月、木曽川の賤母発電所が一部竣工し出力4,200kWで運転を始め、同年11月には全面竣工して出力1万2,600kWにより運転開始した[130]。一部運転開始と同時に先の串原・六郷間77kV送電線の途中に接続する送電線が架設されており、発生電力は六郷変電所へと送電された[129]。さらに1921年8月には上流側にて大桑発電所(出力11,000kW)が運転を開始[131]。同時に賤母・六郷間送電線との連絡線も設けられた[129]。
矢作川の串原発電所(出力6,000kW)は1921年2月に完成し仮発電所は廃止された[128]。本発電所建設を機に、木曽川の系統とは別経路で名古屋方面へと輸送する送電線が整備され、呼続町(現・昭和区)に瑞穂変電所が新設されている[129]。
発電所一覧
最後に、名古屋電灯が運転した発電所のうち関西電気(東邦電力)へと継承されたものを一覧表として纏めた。表には合併した各社から引き継いだものも含まれる。
愛知県所在 | |||||
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発電所名 | 種別 | 出力[102] (kW) |
所在地[132] | 運転開始[102] | 備考 |
巴川 | 水力 | 750 | 東加茂郡盛岡村(現・豊田市) (河川名:矢作川水系巴川) |
1908年2月 | 現・中電盛岡発電所(地図) |
布里 | 水力 | 500 | 南設楽郡鳳来寺村(現・新城市) (河川名:豊川) |
(1919年7月) | 前所有者:豊橋電気[102] 現・中電布里発電所(地図) |
長篠 | 水力 | 750 | 南設楽郡長篠村(現・新城市) (河川名:豊川) |
(1912年3月) | 前所有者:豊橋電気[102] 現・中電長篠発電所(地図) |
熱田 | 火力 | 10,000 | 名古屋市南区熱田東町(現・熱田区) | 1915年9月 | 1944年3月廃止[102] |
岐阜県所在 | |||||
発電所名 | 種別 | 出力[115] (kW) |
所在地[132] | 運転開始[115] | 備考 |
八百津 | 水力 | 7,500 放1,200 |
加茂郡八百津町 (河川名:木曽川) |
1911年12月 | 1917年5月放水口発電所増設[115] 1974年11月廃止[133] |
美佐野 | 水力 | 60 | 可児郡上之郷村(現・御嵩町) (河川名:木曽川水系可児川) |
(1913年4月) | 前所有者:尾北電気[115] 1935年7月廃止許可[134] |
神淵川 | 水力 | 160 | 武儀郡上麻生村(現・七宗町) (河川名:木曽川水系神淵川) |
(1920年8月) | 前所有者:尾北電気[115] 1969年3月廃止[115] |
長良川 | 水力 | 4,200 | 武儀郡洲原村(現・美濃市) (河川名:木曽川水系長良川) |
1910年3月 | 現・中電長良川発電所(地図) |
抜戸 | 水力 | 113 | 武儀郡安曽野村(現・美濃市) (河川名:木曽川水系板取川) |
(1910年12月) | 前所有者:板取川電気[115] 1935年6月廃止[115] |
井ノ面 | 水力 | 300 | 武儀郡安曽野村(現・美濃市) (河川名:木曽川水系板取川) |
(1914年1月) | 前所有者:板取川電気[115] 現・中電井ノ面発電所(地図) |
白谷 | 水力 | 1,235 | 武儀郡板取村(現・関市) (河川名:木曽川水系板取川) |
(1919年10月) | 前所有者:美濃電化肥料[115] 現・中電白谷発電所(地図) |
小宮神 | 水力 | 350 | 揖斐郡春日村(現・揖斐川町) (河川名:木曽川水系粕川) |
(1908年12月) | 前所有者:岐阜電気[115] 現・中電小宮神発電所(地図) |
河合 | 水力 | 800 | 揖斐郡春日村(現・揖斐川町) (河川名:木曽川水系粕川) |
(1913年5月) | 前所有者:岐阜電気[115] 現・中電河合発電所(地図) |
春日 | 水力 | 1,800 | 揖斐郡春日村(現・揖斐川町) (河川名:木曽川水系粕川) |
(1920年1月) | 前所有者:岐阜電気[115] 現・中電春日発電所(地図) |
これらの発電所のうち、東邦電力時代に廃止されたものを除いて第二次世界大戦中の電力国家管理期は原則中部配電に帰属したが、八百津発電所(放水口発電所を含む)のみ日本発送電へ引き継がれた[102][115]。さらに戦後1951年(昭和26年)の電気事業再編成では中部配電の発電所は中部電力(中電)に継承されたが、八百津発電所は日本発送電から関西電力(関電)へと渡っている[102][115]。
附帯事業の推移
名古屋電灯は電気供給事業以外にも電気機器の製造も手がけていた。創業時期は不明だが、逓信省の資料『電気事業要覧』記載の1918年時点における電機工場一覧には名古屋電灯の名がある[135]。工場(「工作所」と称す)の所在地は名古屋市中区下広井町3丁目(現・中村区名駅南)、生産品目は変圧器・扇風機などであった[136]。
工作所は関西電気成立後、東邦電力と改称した1922年6月26日付で株式会社東邦電機工作所へと分離された[137]。しかし同社は昭和恐慌下の事業整理で1930年(昭和5年)2月に解散している[138]。
年表
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)
- 1894年(明治27年)
- 1896年(明治29年)
- 1901年(明治34年)
- 1904年(明治37年)
- 1月 - 三河電力(1901年3月設立、後の東海電気)が名古屋市内への供給を開始[17]。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 9月8日 - 製鉄部と臨時建設部(水力開発部門)を独立させ木曽電気製鉄株式会社(後の大同電力)を設立[44]。
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
本社・営業所・出張所所在地
1921年1月時点における本社および営業所・出張所の所在地は以下の通り[140]。
- 本社 : 名古屋市中区新柳町六丁目
- 中区営業所 : 名古屋市中区門前町
- 東区営業所 : 名古屋市東区鍋屋町
- 西区営業所 : 名古屋市西区奉公人町
- 南区営業所 : 名古屋市南区熱田神戸町
- 一宮営業所 : 愛知県中島郡一宮町
- 瀬戸営業所 : 愛知県東春日井郡瀬戸町
- 小牧営業所 : 愛知県東春日井郡小牧町
- 東京出張所 : 東京市麹町区永楽町(東京海上ビル)
本社ははじめ名古屋市南長島町にあり(1888年11月設置)、第一発電所と同一敷地内にあった[141]。その後発電の主力が水主町三丁目の水主町発電所に移ったことから同発電所構内に本社社屋を新築し1904年7月移転する[142]。さらに水主町発電所が廃止されると再び市街地へ本社を移すことになり、1911年6月旧名古屋電力本社(南武平町3丁目)へ仮移転の後、翌1912年5月新柳町に新本社を新築した[143]。本社本館は木造4階建てで、水主町の旧社屋も同時に移転して別館とし、追って南武平町の社屋も移築の上別館とされた[143]。
旧名古屋電灯本社は東邦電力発足により同社名古屋支店となった[144]。支店が西松枝町へ移転した後、建物は1929年(昭和4年)1月より「電気普及館」(後に「電気百貨店」と改称)として活用されたが、1945年(昭和20年)3月の空襲で焼失している[144]。跡地は電気文化会館(第一発電所跡)の広小路通側公開空地付近にあたる[145]。
歴代役員一覧
- 三浦恵民 : 1888年8月 - 1891年1月
- この間専務制
- 三浦恵民 : 1891年1月 - 1907年1月
- 加藤重三郎 : 1911年7月 - 1913年12月
- 福澤桃介 : 1914年12月 - 1921年10月
また歴代の常務取締役・副社長は以下の通り[139]。
- 三浦恵民 : 1907年1月 - 1912年6月
- 佐治儀助 : 1910年1月 - 同年6月
- 福澤桃介 : 1910年6月 - 同年11月、1913年1月 - 1914年12月
- 兼松煕 : 1910年11月 - 1912年6月
- 下出民義 : 1914年12月 - 1918年2月副社長就任(1921年10月まで)
- 角田正喬 : 1919年10月 - 1921年10月
- 神谷卓男 : 1919年10月 - 1921年10月
歴代役員のうち、上記社長・副社長・専務・常務経験者以外の主な人物は以下の通り[139]。
- 上遠野富之助(取締役・監査役)
- 藍川清成(取締役・監査役)
- 伊藤由太郎(取締役)
- 斎藤恒三(取締役)
- 富田重助(取締役)
- 草郷清四郎(取締役)
- 後藤幸三(取締役・監査役)
- 下郷伝平(取締役・監査役)
- 鈴木善六(監査役)
- 磯貝浩(監査役)
- 神野金之助(監査役)
- 桂二郎(監査役、桂太郎弟)
社史
- 『名古屋電燈株式會社史』 - 稿本。1928年4月、東邦電力社内の「名古屋電燈株式會社史」編纂員によって纏められる。1913年ごろまでの名古屋電灯の歴史を記すが未完で、出版もされなかったが、名古屋電灯開業100年・中部電力能力開発センター設立20周年を記念して1989年6月同所より復刻刊行された。
脚注
注釈
- ↑ 奥田も旧尾張藩士族であるが、明治初期に実業家に転身してすでに成功していた(『明治の名古屋人』455-457頁)
- ↑ 中島郡(現・一宮市)出身。愛知電灯のほか名古屋電気鉄道の設立にも参加し同社の初代社長となっている(『名古屋鉄道社史』11-13頁)。
- ↑ 加藤は市長時代、商業会議所会頭の奥田正香と深い繋がりのあったことで知られた。なお常務の兼松煕も奥田の腹心と言われた人物である(『明治の名古屋人』455-457頁)
- ↑ 道路法では国道・都道府県道などが規定され、道路に対する市の管理権が縮小されたため、市の道路管理を前提とする報償契約は無効になる、として各地でトラブルがあった(「道路法の影響 報償契約破棄」『中外商業新報』1920年4月25日付。神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)
- ↑ この報償契約はその後も維持され1933年(昭和8年)4月に満期となり更新されず自然消滅した。契約中にあった、名古屋市による事業買収も実施されていない(『東邦電力史』226頁)。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 『株式年鑑』大正10年度310-311頁。NDLJP:975423/209
- ↑ 2.0 2.1 『東邦電力史』1頁ほか
- ↑ 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」59頁
- ↑ 4.0 4.1 4.2 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」64-69頁
- ↑ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 『中部地方電気事業史』上巻9-15頁
- ↑ 6.0 6.1 『東邦電力史』8-9頁
- ↑ 7.0 7.1 7.2 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」104-106頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』34頁
- ↑ 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 9.11 9.12 9.13 『中部地方電気事業史』上巻17-19頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』28-29頁
- ↑ 『中部地方電気事業史』上巻23頁
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 12.6 12.7 12.8 12.9 『東邦電力史』15-18・602頁
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 13.6 13.7 『中部地方電気事業史』上巻19-20頁
- ↑ 14.00 14.01 14.02 14.03 14.04 14.05 14.06 14.07 14.08 14.09 14.10 14.11 14.12 14.13 14.14 14.15 14.16 14.17 14.18 14.19 14.20 14.21 『東邦電力史』18-20・603-605頁
- ↑ 15.0 15.1 『中部地方電気事業史』上巻20-22頁
- ↑ 16.00 16.01 16.02 16.03 16.04 16.05 16.06 16.07 16.08 16.09 16.10 16.11 16.12 16.13 16.14 16.15 16.16 16.17 16.18 16.19 16.20 16.21 16.22 16.23 『東邦電力史』20-26・605-606頁
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 17.8 『中部地方電気事業史』上巻61-63頁
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 18.7 『中部地方電気事業史』上巻67-70頁
- ↑ 19.0 19.1 19.2 『名古屋電燈株式會社史』119-121頁
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 20.6 『中部地方電気事業史』上巻70-74頁
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 21.6 『中部地方電気事業史』上巻63-64頁
- ↑ 22.0 22.1 『名古屋電燈株式會社史』182頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』168頁
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 24.5 『中部地方電気事業史』上巻64-67頁
- ↑ 25.00 25.01 25.02 25.03 25.04 25.05 25.06 25.07 25.08 25.09 25.10 25.11 25.12 25.13 25.14 25.15 『中部地方電気事業史』上巻74-77頁
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 『福澤桃介翁伝』254-255・262-266頁
- ↑ 『下出民義自伝』32頁
- ↑ 『東邦電力史』31-34頁
- ↑ 29.0 29.1 『東邦電力史』34-35頁
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 30.4 浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」18-20頁
- ↑ 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 31.6 31.7 31.8 『名古屋電燈株式會社史』190-194頁
- ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 『中部地方電気事業史』上巻123-129頁
- ↑ 33.0 33.1 『中京財界史』241-244頁
- ↑ 『中京財界史』259・262頁
- ↑ 35.0 35.1 35.2 35.3 35.4 35.5 『大同電力株式会社沿革史』73-76頁
- ↑ 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 36.6 『東邦電力史』35-36頁
- ↑ 37.0 37.1 『大同電力株式会社沿革史』25-31頁
- ↑ 『大同製鋼50年史』71頁
- ↑ 『東邦電力史』37-39頁
- ↑ 『大同電力株式会社沿革史』35-38頁
- ↑ 『大同電力株式会社沿革史』45・54頁
- ↑ 42.0 42.1 42.2 42.3 42.4 42.5 42.6 『大同製鋼50年史』42-51頁
- ↑ 『大同製鋼50年史』52-55頁
- ↑ 44.0 44.1 44.2 44.3 44.4 44.5 『大同製鋼50年史』66-73頁
- ↑ 45.0 45.1 『大同製鋼50年史』74-79頁
- ↑ 46.0 46.1 『大同製鋼50年史』82-84頁
- ↑ 47.00 47.01 47.02 47.03 47.04 47.05 47.06 47.07 47.08 47.09 47.10 47.11 47.12 47.13 47.14 47.15 47.16 『東邦電力史』39-42頁
- ↑ 『東邦電力史』608頁
- ↑ 49.0 49.1 49.2 『一宮市史』下巻181-183頁
- ↑ 『名古屋市会史』第4巻435-436頁
- ↑ 『岐阜市史』通史編近代280頁
- ↑ 『中部地方電気事業史』上巻97-98頁
- ↑ 『岐阜市史』通史編近代511-512頁
- ↑ 『電気年鑑』大正9年65頁、NDLJP:948316/83
- ↑ 55.0 55.1 『名古屋市会史』第4巻431-433頁
- ↑ 『豊橋市史』第3巻708-710頁
- ↑ 『電気年鑑』大正9年54頁、NDLJP:948316/78
- ↑ 58.0 58.1 『名古屋市会史』第4巻583-586頁
- ↑ 横山悦生「板取川水力電気と武藤助右衛門」
- ↑ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編256頁、NDLJP:936470/602
- ↑ 『可児市史』第3巻274-275頁
- ↑ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編169頁、NDLJP:936470/558
- ↑ 63.0 63.1 『名古屋市会史』第4巻586-589頁
- ↑ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編269頁、NDLJP:936470/608
- ↑ 65.0 65.1 65.2 65.3 65.4 65.5 65.6 65.7 65.8 65.9 『東邦電力史』82-86頁
- ↑ 66.0 66.1 『東邦電力史』3-7頁
- ↑ 67.0 67.1 『東邦電力史』26-29頁
- ↑ 68.0 68.1 68.2 68.3 68.4 『中部地方電気事業史』上巻176-177頁
- ↑ 69.0 69.1 69.2 69.3 69.4 『東邦電力史』42-44頁
- ↑ 『名古屋市会政争史』26-28頁
- ↑ 71.0 71.1 71.2 71.3 『名古屋市会政争史』41-47頁
- ↑ 72.0 72.1 『名古屋市会政争史』31-36頁
- ↑ 73.0 73.1 73.2 『名古屋市会政争史』48-56頁
- ↑ 『中京財界史』347-351頁
- ↑ 『東邦電力史』111-112頁
- ↑ 76.0 76.1 76.2 『東邦電力史』86-89頁
- ↑ 『九州地方電気事業史』78-79頁
- ↑ 『私の履歴書』第21集松永安左エ門3・4章
- ↑ 79.0 79.1 79.2 79.3 『東邦電力史』93-95頁
- ↑ 『私の履歴書』第21集松永安左エ門第7章
- ↑ 『福澤桃介翁伝』逸話篇176-179・184頁
- ↑ 青木鎌太郎 『中京財界五十年』110-114頁
- ↑ 『東邦電力史』105・109頁
- ↑ 『東邦電力史』97-99頁
- ↑ 85.0 85.1 85.2 『東邦電力史』103-104頁
- ↑ 86.0 86.1 『株式年鑑』大正3年度286-287頁、NDLJP:975418/160
- ↑ 87.0 87.1 『株式年鑑』大正11年度280-281頁、NDLJP:975424/198
- ↑ 88.0 88.1 88.2 88.3 『東邦電力史』11-15頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』39頁
- ↑ 90.0 90.1 90.2 『東邦電力史』29-31頁
- ↑ 91.0 91.1 91.2 91.3 『名古屋電燈株式會社史』186-187頁
- ↑ 浅野伸一「水力発電の発達と名古屋地域産業の近代化」23-27頁
- ↑ 『東邦電力史』427頁
- ↑ 『電気事業要覧』第12回52-53頁。NDLJP:975005/51
- ↑ 『電気事業要覧』第13回62-64頁。NDLJP:975006/61
- ↑ 「配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令に関する公告」『官報』第4413号、1941年9月20日付。NDLJP:2960911/17
- ↑ 97.0 97.1 『電気事業要覧』第35回17・26頁
- ↑ 『中部電力火力発電史』28頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』51頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』52-53頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』65頁
- ↑ 102.00 102.01 102.02 102.03 102.04 102.05 102.06 102.07 102.08 102.09 102.10 102.11 『中部地方電気事業史』下巻330-331頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』84-85頁
- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』74頁
- ↑ 『中部電力火力発電史』29頁
- ↑ 106.0 106.1 『名古屋電燈株式會社史』81・85頁
- ↑ 107.0 107.1 『名古屋電燈株式會社史』86・92頁
- ↑ 108.0 108.1 108.2 『名古屋電燈株式會社史』125-127頁
- ↑ 109.0 109.1 109.2 109.3 『電気事業要覧』第12回52-53頁。NDLJP:975005/51
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- ↑ 『名古屋電燈株式會社史』114-116頁
- ↑ 114.0 114.1 114.2 『東邦電力技術史』5-7頁
- ↑ 115.00 115.01 115.02 115.03 115.04 115.05 115.06 115.07 115.08 115.09 115.10 115.11 115.12 115.13 115.14 115.15 115.16 115.17 『中部地方電気事業史』下巻334-338・345-346頁
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