尾張藩
尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。
Contents
藩の前史
尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。
藩史
関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。慶長11年(1606年)、家康の直轄領であった知多郡(知多半島)も忠吉に加増される。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。
代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。
藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(渡辺半蔵はじめ16家1党に将軍の朱印状をもって与えられた知行地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在した。中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。また、表高こそ62万石弱であったが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したといわれる。財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。三河(加茂郡)や近江(蒲生郡)、摂津(川辺郡)にあったのは、すべて給人領である。尾張藩は、一般的に、江戸時代を通じて一揆がなかった藩とされている。[1][2]
勝海舟は、氷川清話(明治31年、1898年)の中で「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まず甲州と尾州と小田原との三ヶ所」であるとし、尾張(尾州)については、「租税を軽うし、民力を養った」織田信長の遺徳がいまだ「人民に慕われている」、「当時の善政良法が、今なお歴々として残っている」としている。
義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
第2代藩主・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。
第3代藩主徳川綱誠は、実母の千代姫が3代将軍徳川家光の長女であった。それゆえ、御家門の中でも最も将軍家に近い存在であった。異母兄松平義昌は陸奥梁川藩3万石を得て大久保松平家として独立、同母弟松平義行は美濃高須藩3万石を得て四谷松平家として独立、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田久保松平家を称し、三つの分家御連枝ができあがる。
第4代藩主・徳川吉通は、第6代将軍徳川家宣から高く評価され、家宣の子鍋松(後の徳川家継)が幼く政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者[3]であったが、家宣薨去1年後に突然死する。
第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であった。第6代将軍御台所の天英院の姪の近衛安己を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍家光の長女であり、将軍家に最も近い存在であったからである。しかし、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗が将軍に就任した。その後、尾張徳川家は御三家で唯一、将軍を輩出することなく明治維新を迎えることとなる。第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためである[4]。
歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。宗春は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進した。これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった[5]。享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出す。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開した。幕府より一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまう。ちょうどその頃、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。宗春と御付家老成瀬正泰が参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老竹腰正武が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定していく。そのために尾張藩内は少なからず騒乱状態となる。翌年の元文4年に、大嘗会に使いに出ていた使者が江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまう。そして数日後、吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った[6]。尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」[7]とされていた。朝廷は宗春を高く評価しており[8]、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなった。
宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。
第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間におよんだ。一時期は財政が好転したこともあったが、宝暦治水にも関わらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化した。市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出た。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくこととなる。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定した。更にこの作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させた。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。宗睦の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶した。
代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。斉朝は、尾張藩第4代藩主徳川吉通の外孫である二条宗基の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいた。しかし、ここで尾張の男系血統は藩祖義直から断絶する[9]。第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった(いずれも紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の血統の一橋家の血筋)。彼らは寿命や在任期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。慶臧の継承により、尾張藩は幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されている。
このため、藩内では幕府迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派に反対して、幕府からの藩政介入に反発し独立志向の金鉄党(尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成)を中心に藩主擁立運動が起こった。結局、将軍家御三卿系の養子は阻止された。支藩美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。しかし直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。
大政奉還後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっている。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いによって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は青松葉事件によって弾圧された。鳥羽・伏見の戦いの後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にした。
明治3年(1870年)には財政難に陥った支藩の高須藩を吸収。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩し、名古屋県となった。その後、犬山県との統合、愛知県への改称、額田県との統合を経て、現在の愛知県となった。
廃藩置県後の、尾張徳川家の家政機関については、尾張徳川家#尾張徳川侯爵家を参照のこと。
歴代藩主一覧
徳川家(尾張徳川家)
代 | 名 | よみ | 極位極官 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 義直 | よしなお | 従二位行権大納言 | 慶長12年-慶安3年 1607年 - 1650年 |
徳川家康 9男 | |
2 | 光友 | みつとも | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 慶安3年 - 元禄6年 1650年 - 1693年 |
先代の長男 |
3 | 綱誠 | つななり | 権中納言従三位 | 家督相続 | 元禄6年 - 元禄12年 1693年 - 1699年 |
先代の長男 |
4 | 吉通 | よしみち | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 元禄12年 - 正徳3年 1699年 - 1713年 |
先代の9男 |
5 | 五郎太 | ごろうた | 無位無官 (死後、従三位参議追贈) |
遺領相続 | 正徳3年(7月 - 10月) 1713年 |
先代の長男 |
6 | 継友 | つぐとも | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 正徳3年 - 享保15年 1713年 - 1730年 |
先代の叔父 (3代綱誠の11男) 養子 |
7 | 宗春 | むねはる | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 享保15年 - 元文4年 1730年 - 1739年 |
先代の弟 (3代綱誠の19男) 養子 |
8 | 宗勝 | むねかつ | 権中納言従三位 | 遺領相続(正式な相続ではなく、先代宗春謹慎に伴い没収の後、改めて藩主として指名する形式) | 元文4年 - 宝暦11年 1739年 - 1761年 |
2代光友の孫 (はじめ支藩の高須藩主) 養子 |
9 | 宗睦 | むねちか | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 宝暦11年 - 寛政11年 1761年 - 1799年 |
先代の2男 |
10 | 斉朝 | なりとも | 正二位行権大納言 | 遺領相続 | 寛政11年 - 文政10年 1799年 - 1827年 |
将軍家斉の甥 養子 |
11 | 斉温 | なりはる | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 文政10年 - 天保10年 1827年 - 1839年 |
先代の従兄弟 (将軍家斉の19男) 養子 |
12 | 斉荘 | なりたか | 従二位行権大納言 |
家督相続 | 天保10年 - 弘化2年 1839年 - 1845年 |
先代の兄 (将軍家斉の12男) 養子 |
13 | 慶臧 | よしつぐ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 弘化2年 - 嘉永2年 1845年 - 1849年 |
御三卿田安斉匡の7男 養子 |
14 | 慶恕 | よしくみ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 嘉永2年 - 安政5年 1849年 - 1858年 |
支藩高須藩松平義建2男 養子 |
15 | 茂徳 | もちなが | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 安政5年 - 文久3年 1858年 - 1863年 |
先代の弟 (支藩高須藩松平義建5男) 養子 |
16 | 義宜 | よしのり | 従三位行左近衛権中将 | 家督相続 | 文久3年 - 明治2年 1863年 - 1869年 |
先代の甥 (14代慶恕の3男) 養子 |
17 | 慶勝 | よしかつ | 正二位行権大納言 | 家督相続 | 明治2年 - 1869年 - |
14代藩主慶恕が再承 |
藩校
- 明倫堂 - 寛延2年(1749年)創立、現・愛知県立明和高等学校
- 洋学校 - 明治3年(1870年)創立、現・愛知県立旭丘高等学校
支藩
梁川松平家(大久保松平家)[10]
- 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川右衛門督光友の子
- 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
- 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
- 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川右衛門督綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる
高須松平家(四谷松平家)[11]
- 高須藩(たかすはん)3万石(岐阜県海津郡、1700年 - 1870年) - 1870年に尾張本藩と合併された。なお、10代藩主義建の男子は合わせて6人が高須藩を含めた諸藩の藩主の地位に就いた(尾張藩主・徳川慶勝(2男)、浜田藩主・松平武成(3男)、尾張藩主・徳川茂徳(5男、最初は11代高須藩主松平義比)会津藩主・松平容保(7男)、桑名藩主・松平定敬(9男)、13代高須藩主松平義勇(10男))。
- 義行(よしゆき)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川光友の子・母は3代将軍徳川家光の長女千代姫
- 義孝(よしたか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川綱誠の子。叔父義行の養子となる
- 義淳(よしあつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。 川田久保松平友著の嫡男。義孝の養子となり、後に尾張藩8代藩主となる。
- 義敏(よしとし)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
- 義柄(よしとも)〔従四位下、侍従兼摂津守〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
- 義裕(よしひろ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 勝当(かつまさ)〔従四位上、左近衛権少将兼弾正大弼〕
- 義居(よしすえ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 義和(よしより)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
- 義建(よしたつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 義比(よしちか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
- 義端(よしまさ)〔早世のため無位無官〕
- 義勇(よしたけ)〔従五位〕
- 義生(よしなり)〔従五位〕
川田久保松平家[12]
- 徳川光友の11男松平友著が元禄6(1693)年、5,000石を内分される。翌元禄7(1694)年にはさらに1万石を内分され、正徳元(1711)年に分家独立する。享保17(1732)年、子の松平友淳が高須松平家を継ぎ断絶する。
家臣団
江戸下屋敷 尾張藩の家臣団は、幕府より附属された者、甚太郎衆や忍新参衆などの松平忠吉の遺臣、甲斐時代に義直に仕えた者、尾張藩成立後に取り立てられた者、平岩親吉の遺臣らで構成された。幕下御附属衆の6氏(成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村)は将軍徳川家康または将軍徳川秀忠の命によって尾張藩に附属され、代々将軍に拝謁する資格を所持した家柄だった。御附属列衆も幕臣から尾張藩に附属された者で大身・高禄であるが、こちらは将軍への拝謁資格はなかった。
幕下御附属衆
このうち成瀬・竹腰の2氏が狭義の御附家老で、「両家年寄」と称する。
- (渡辺綱~)渡辺守綱-重綱-治綱-宣綱=定綱(重綱の七男長綱の二男)-直綱=綱保(定綱の三男)-綱通=綱光(奥殿藩主・松平乗穏の二男)=規綱(奥殿藩主・松平乗友の二男、綱光の甥)-寧綱-綱倫-綱聡-修二
- 渡辺氏(渡辺半十郎(新左衛門)家、藩内2000石・国老中、名古屋城代、江戸家老、年寄等)
- 渡辺氏(渡辺半九郎(源太左衛門)家、藩内1500石・城代並、年寄等)
- 渡辺顕綱(守綱二男宗綱の二男綱久の嫡子)-富綱-年綱=豊綱(成瀬織部正恕二男、年綱婿養子)-愷綱-壽綱-半九郎
- 石河氏(中石河家、1500石)
- 石河宗直(石川光忠次男)-宗令-宗幸-邦命-直澄-直秩-好生-賢綱
- 石河氏(西石河家、1000石)
- 石川忠昌(石川光忠三男)-正相-興利-正茂-祥昌-祥久-當厚-當頭-當博-正基
重臣
上記の成瀬・竹腰・渡辺(半蔵)・石河の4家に、志水を加えた5家を「万石以上」の格式とし、渡辺(半蔵)・石河・志水の3家が年寄(家老)に就任した場合は、「万石以上年寄」と称する。
- 滝川氏(藩内6000石・家老、御附属列衆)
- 山澄氏(藩内5000石・城代家老、瑞公御部屋新参衆)
- 伊勢国司北畠支流 川方氏の末裔
- 山澄英龍-英重=英貞=龍豊-龍明-豊尚=龍騰
- 源義家六男、源義隆の末裔。「家柄に付代々無役」とされ、藩の役職には就かなかった。尾張藩主から所領安堵の黒印状を与えられたことはなく、寛延3年(1750年)以降に[13]幕府から預地の支配も任されていることから、尾張藩士と同時に幕臣でもあったとされる。[14]1.美濃国中島郡を本領とし、2.土岐氏・斎藤氏・信長・秀吉・家康に仕えた後に、家康の命で徳川義直に附属した、3.松平忠吉の家臣であったことはない源姓毛利氏が尾張衆に分類されていることについては、疑問視する見解もある。[15]
- 毛利広盛-広義-広豊-広尚-広説-頼容-広直-広吉-広居-広賢-広貫
- 横井氏(尾張赤目4000石、尾張衆)
- 澤井氏(2500石、尾張衆)
- 澤井元慶-元重-元智-元旭-元倚-元照-元矩-元算-元寛-元俊-繁蔵-馬次郎
- 阿部正興(阿部正勝三男)-正致-正治-正寛-正恭-正茂-正嘉-正長-正信-正直-正傷
- 肥田氏(藩内2000石、城代家老、駿河新参衆)
- 間宮氏(3000石、駿河新参衆)
- 初代正等は旗本間宮之等の子。
- 間宮正等-之政-之峯-之惟-正業-正統-正萬
- 織田氏(藩内4000石・国家老 慶安以後新参衆)
- 荒川氏(1200石、忍新参衆)
- 荒川義広-家義-弘秋=吉政-義任-頼廉-頼資-頼標-頼忠-頼敏-頼重-蔵主-鑯弥
幕末の領地
- 尾張国
- 三河国
- 加茂郡のうち - 20村
- 美濃国
- 厚見郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入)
- 各務郡のうち - 6村
- 羽栗郡のうち - 27村(うち2村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 中島郡のうち - 15村(うち6村が笠松県に編入)
- 石津郡のうち - 10村(うち3村が笠松県に編入)
- 多芸郡のうち - 5村(うち1村が笠松県と相給となる)
- 不破郡のうち - 8村
- 安八郡のうち - 24村(うち2村が笠松県に編入)
- 池田郡のうち - 7村(うち6村が笠松県に編入)
- 大野郡のうち - 10村(うち9村が笠松県に編入)
- 本巣郡のうち - 5村(うち1村が笠松県に編入)
- 方県郡のうち - 7村(うち3村が笠松県に編入)
- 山県郡のうち - 4村(うち2村が笠松県に編入)
- 武儀郡のうち - 115村
- 加茂郡のうち - 44村(うち22村が笠松県に編入)
- 可児郡のうち - 55村(うち18村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 土岐郡のうち - 15村(うち8村が笠松県に編入)
- 恵那郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入、4村が同県と相給となる)
- 信濃国
- 筑摩郡のうち - 32村
明治維新後に、美濃国中島郡2村(八神城主・毛利源内預所の旧幕府領)、北見国網走郡、斜里郡が加わった。
脚注
- ↑ 尾張藩角川日本地名大辞典(旧地名編)
- ↑ ただし明治維新後に、稲葉騒動が起きている
- ↑ 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
- ↑ 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
- ↑ 吉宗から三か条の詰問を受けたにも関わらず、宗春は無視して政策を推し進めたとする説もあるが、吉宗から咎めを受けたという公式記録は存在していない。
- ↑ 『徳川実紀』
- ↑ 『軍書合鑑』徳川義直著
- ↑ 『一条兼香公記』には、紀州藩を批判し、尾張藩を持ち上げる記述が散見される。
- ↑ 第4代藩主吉通の長女信受院千姫は、五摂家の九条家に嫁ぎ、その血筋は多くの家に繋がっていった。現在の皇室にも繋がっている。また、御附家老竹腰家にも第2代藩主光友の血筋は伝わっている。
- ↑ 江戸上屋敷が四谷大窪にあったのに由来する
- ↑ 江戸屋敷の所在地に由来する
- ↑ 市ヶ谷川田窪に江戸屋敷を構えたことに由来する。定府。
- ↑ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(後編)」(金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇、18号、1998年)P.44
- ↑ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(前編)」(金沢大学文学部論集 史学科篇、10号、1990年)P.44
- ↑ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」(金沢大学文学部 地理学報告, No.8,1997年)P.40、P.50
関連項目
- 名古屋市(市章は藩主の合印)
- 江戸藩邸(跡地の多くは公共施設となった)
- 藩の一覧
- 吉田生風庵 - 尾張徳川茶会、名古屋の茶家
- 新陰流
- 円明流
- 猪谷流
- 夢想流(尾張藩では「家流」と呼ばれた)
- 和新心流(尾張藩では「関口流」と呼ばれ、大関口流と小関口流の2派があった)
- 福沢流
- 貫流
- 一条不二流
- 日守流
- 柳生の大太刀
- 伝馬銀
- 鸚鵡籠中記
- 青松葉事件
- 田中不二麿
先代: (尾張国) 高須藩 |
行政区の変遷 1610年 - 1871年 (尾張藩→名古屋藩→名古屋県) |
次代: 名古屋県 |