松坂屋
松坂屋(まつざかや、英称:Matsuzakaya)は、J.フロント リテイリング傘下の株式会社大丸松坂屋百貨店が運営する百貨店の屋号である。
現在の運営会社である大丸松坂屋百貨店は、2010年3月1日に株式会社松坂屋が株式会社大丸を吸収合併して発足したもの。
「松阪屋」は誤表記(屋号について参照)。
Contents
概要
東海地方を本拠点とし、とりわけ地元である名古屋市など中京圏では今なお最有力の百貨店である。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。
三越や高島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。現在の三菱UFJ銀行(旧東海銀行)の前身の一つである伊藤銀行や「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれた名古屋観光ホテル、名古屋商工会議所など各企業・団体の設立にも関連した、近代の名古屋における有名企業である。
業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。
地元市民の高齢層では松坂屋のことを「伊藤様」と呼ぶ人もいるほど、愛知県では他店よりも松坂屋が格上の百貨店であるという認識が非常に強く、松坂屋の外商部と取引があることが一種のステイタスとみなされる場合もある。
2010年に百貨店開業から数えて100周年、2011年に「いとう呉服店」創業から数えて400周年を迎えた。
沿革
- 1659年(万治2年)- 祐道の遺児・伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開。
- 1736年(元文元年)- 呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。
- 1740年(元文5年)- 尾張藩の呉服御用となる。
- 1745年(延亨2年)- 京都室町錦小路に仕入店を開設。1749年(寛延2年)新町通六角町に移転。
- 1768年(明和5年)4月5日(5月20日) - 江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。
- 1805年(文化2年)- 江戸大伝馬町に木綿問屋 亀店(かめだな)を開設。問屋兼業により価格の引き下げを図った。同店の開設に伴いいとう松坂屋は鶴店と呼称した。
- 1854年 - 当主治朗左右衛門の婚礼。その祝儀曲として地歌曲の『花の縁』が吉沢検校により作曲される。
- 1875年(明治8年)- 大阪進出。高麗橋の呉服店「恵比須屋」を買収の上、新町通に「ゑびす屋いとう呉服店」を開店。
- 1881年(明治14年)- 名古屋茶屋町角に伊藤銀行(現.三菱UFJ銀行)を開業。
- 1907年(明治40年)- 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。3月14日、「いとう呉服店裁縫所」(常磐女学院の前身)を設立[1][2]。
- 1910年(明治43年)2月1日 - 伊藤祐民が「株式会社いとう呉服店」を設立(資本金50万円)[3]。名古屋・栄町に百貨店を開業。
- 1911年(明治44年)- いとう 少年音楽隊結成。後に東京フィルハーモニー交響楽団へと発展。
- 1924年(大正13年) - 銀座店開店。全館土足入場可能な百貨店となった。
- 1925年(大正14年)- 全店の名称を「松坂屋」に統一。この頃からビルマ独立運動家を支援する。
- 1957年(昭和32年)- カトレヤをシンボルフラワーに制定。
- 1961年(昭和36年)- ニナ・リッチ(フランスのオートクチュール)と独占契約[4]。※現在は 伊藤忠商事。
- 1964年(昭和39年)- ヘンリー・プール社(イギリス紳士服テイラー)と提携
- 1972年(昭和47年)- 名古屋店北館を増築(リビンザ)。大丸CBSグループに参加し共同配送等業務提携。
- 1973年(昭和48年)- 「マツザカヤ友の会」発足。
- 1985年(昭和60年)1月、16代 伊藤次郎左衞門会長の死去により鈴木正雄が会長に就任。同年4月、臨時取締役会で創業者一族の当時の17代 伊藤次郎左衞門(鈴三郎)社長を会長に退かせて鈴木正雄が社長に就任する。その後 1991年に再度会長就任。
- 1991年(平成3年) - 名古屋店南館を増築。「松坂屋美術館」を開設。
- 1997年(平成10年) 11月、鈴木正雄、総会屋への利益供与事件で相談役を辞任する。
- 2003年(平成15年)- 名古屋店南館拡張。東武百貨店池袋店を抜き日本最大の百貨店となった。
- 2005年(平成17年)- 豊富な含み資産に目を付けた村上ファンドに株式の約10%を買い占められ、経営混乱。
- 2006年(平成18年)9月1日 - 純粋持株会社「株式会社松坂屋ホールディングス」設立。株式移転方式で持ち株会社体制に移行した。
- 2007年(平成19年)9月3日 - 大丸との共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立し株式移転。松坂屋ホールディングスは上場廃止。11月1日 J.フロント リテイリングが松坂屋ホールディングスを吸収合併。松坂屋はJ.フロント リテイリングの直接子会社となる。
- 2010年(平成22年)3月1日 - 株式会社大丸を吸収合併し、「株式会社大丸松坂屋百貨店」に商号変更。高槻店が、大丸京都店の分店扱いとなる。
屋号について
三重県にある「松阪市」と混同して、しばしば松阪屋と誤表記される(坂と阪の違い)。また、マークが松阪商人の三井家の家紋と酷似していることも一因である。
もともとこの百貨店の屋号は創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。「いとう丸」と呼ばれるマークは、丸の中に「井桁」と「藤」を描いたもので、「井」+「藤」で「いとう」を表している[5]。
「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年に伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもの。当時の松坂は木綿(松阪木綿)の主要な供給地で、呉服の原料として縁があった訳である。
1767年、いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである(同様の例に、横浜発祥の松屋がある)。大阪進出の際も同様の理由により買収した「ゑびす屋」をそのまま使用したが、全店舗で屋号を統一する事となった際に全国チェーンを睨んだ結果、東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となり、現在に至る。
松坂屋お家騒動
第二次世界大戦後会社の命運を分ける二つのお家騒動が勃発した。
最初のお家騒動は1980年に当時社長であった伊藤鈴三郎が兄に当たる16代伊藤次郎左衞門会長と鈴木正雄の共謀により解任させられた宮廷革命と称されるものである。
これは伊藤鈴三郎体制下による拡大路線の反動で発生した札幌松坂屋の失敗や業績が芳しくなかった横浜野沢屋の救済で本体の悪影響を及ぼしたという点が表向きの理由ではあるが、16代次郎佐衛門会長が息子の伊藤洋太郎にいち早く後継者としたい意図に鈴木正雄が乗ったことが定説である。
第二のお家騒動は宮廷革命と同様に鈴木正雄によるものであった。1985年4月、名古屋の松坂屋本店で開かれた臨時取締役会で、16代伊藤次郎左衞門会長の死去によりわずか3カ月前に副社長から会長に就任したばかりの鈴木正雄が社長に収まり、松坂屋創業以来370年余りの歴史の中で起こりえなかった創業家の伊藤洋太郎(17代伊藤次郎左衞門)社長が代表権のない会長に棚上げされる人事が電撃的に決まる。鈴木本人は「私は工作などしていない。皆に推された」と否定したが、腹心の役員らと連携し自らが実権を握る事実上のクーデターであり、松坂屋のお家騒動として全国的に注目された。その後も1991年に再度会長就任、1993年から相談役と鈴木は実権を握り続けるが、1997年11月総会屋への利益供与事件で辞任する [6][7][8][9]。
松坂屋ホールディングス設立〜経営統合
2005年から2006年にかけて、優良資産に目を付けた村上ファンドが松坂屋の大株主となり、一時経営を揺さぶられた。そのため、機動的かつ柔軟な経営判断ができる体制を構築するとともに、グループ各社の採算性と事業責任の明確化を図ることを目的として、株式移転により「株式会社松坂屋ホールディングス」(松坂屋HD)を設立し、純粋持株会社体制へ移行した。
しかし、移行してから1年も経たないうちに大丸との経営統合を発表。そして松坂屋HD発足からちょうど1年後の2007年に共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」 (JFR) が設立されると、松坂屋HDはJFRに吸収合併され、役目を終えることとなった。
店舗
- 名古屋店
- 1611年「いとう呉服店」創業(本町)。
- 1659年 呉服小間物問屋を開業(茶屋町 中区丸の内二丁目5番10号 現.アイリス愛知)。
- 1910年「株式会社いとう呉服店」を創立。栄町に進出(中区栄三丁目4番5号 現.スカイルの位置)。ルネサンス風の3階建て洋館。
- 1925年 名古屋 南大津町(現在地)へ移転。
- 1945年 名古屋大空襲による戦災で、四階以上内部を焼失。
- 名古屋市中区栄三丁目16番1号[3]
(名古屋市営地下鉄名城線矢場町駅5・6番出口)
- 店舗面積86,758m2[注 2]。
- 旧本店。松坂屋の旗艦店で、大丸との経営統合後は「本店」の呼称は使われなくなった(ただし大丸との経営統合後も常連の買い物客からは、以前同様に「本店」と呼ばれる)。本館・南館・北館の3館で構成され、北館はかつて阪急東宝グループの映画館エンゼル東宝が入っていた共同ビルのため、現在でも店舗設置者に阪急阪神東宝グループが含まれる。
- 2003年の南館増床以降は、2014年に近鉄百貨店あべのハルカス本店(100,000m2)が開店するまで店舗面積が日本一であった[10]。
- 2011年春から大規模改装工事が行われ、翌2012年4月28日に第1期分が完了した[11][12]。南館では2011年9月14日、4階に「松坂屋写真室」がオープンし、証明写真や出張撮影を含む各種記念写真を取り扱っている。さらに、翌2012年3月2日に、銀座店と大丸各店で展開されているヤングレディスファッション売場「ufufu girls(うふふガールズ)」を2階に開設、また4月21日にH&Mが「国内最大の店舗面積」を唱って、1階と地下1階に出店した。なお、本館・南館・北館の外観はそれぞれ異なっており、南館はさらに、先にオープンした久屋大通沿いと、増床による大津通沿い(新・南館)で外観が全く異なっている(新・南館の外観は本館・大津通沿いの外観に似せてデザインされた)。
- 2013年3月20日にはオアシス21にあったポケモンセンターが本館5階に移転オープンしている。
- 名古屋市内の主要百貨店として、名鉄百貨店本店・丸栄・名古屋三越(栄店、星ヶ丘店)・ジェイアール名古屋タカシマヤと共に4M1Tと並び称される。長年にわたって市内の百貨店で最も売上の多い店舗として君臨したが、2011年3月の月間売上高において初めてJR名古屋髙島屋に逆転を許すとともに、さらに、2015年2月期における年間の売上高も約4億円の差を付けられて、後塵を拝することになった。
- 名古屋パルコが隣接しており、パルコがJ.フロント リテイリングの子会社となって以降は、名古屋パルコとクリアランスセールのコラボレーションを全国に先行して行っている。
- ヨドバシカメラが南館4~6階に出店することが発表され[注 3][13]、2015年10月29日[14]にオープンした。
- 北館は紳士服・紳士用品フロアを集約し、2016年4月21日に「GENTA(ジェンタ)」にリニューアルした[15]。
(名鉄三河線豊田市駅・愛知環状鉄道新豊田駅間)店舗面積18,220m2。
- 豊田そごうの後継として開業。
- 上野店
- 1768年 松坂屋買収。「いとう松坂屋」
東京において江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、日本橋三越と当店のみである。
また、大丸松坂屋百貨店の直営店舗も、東京且つ関東地区では現在、当店と大丸東京店の2店のみとなっている。
- 1830年 「東都名所上野広小路之図」に記載される。
- 1855年 安政の大地震 直ちに再建。
- 1868年 彰義隊と官軍による上野戦争 官軍の本営になった。
- 1907年 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。座売りを陳列式建売りに改め、呉服に加え、雑貨、家庭用品なども扱い始めた。
- 1917年[注 4] 新本館(6,600m2)完成。
- 1923年 関東大震災により全焼。1か月後に仮営業所、2か月後には仮店舗を立ち上げた。
- 1929年 本館再建。エレベーター10基設置。わが国初のエレベーターガールを配置。民間初の自動交換式電話を設置。
- 1930年1月1日 地下鉄広小路駅と地下売場が直結。
- 1931年 お子様ランチが登場。
- 1957年 南館(地下3階、地上7階)を増築。売場面積は本館と合わせて、35,213m2に達した。
- 2014年3月11日 南館の営業終了[17]。南館は取り壊した上で23階建の複合ビルに建て替え、メインテナントとしてパルコとTOHOシネマズが入居[18]。
- 2017年11月4日 新南館「上野フロンティアタワー」開業。上野店は地下1階のみ入居。
- 静岡店
- 1932年開店:静岡市葵区御幸町10番地の2[3]
- JR静岡駅前 静岡駅北口から横断地下道で直結
- 店舗面積25,452m2。本館と北館で構成。
- 1971年 本館全面建替え完成
- 1996年9月には北館が完成し、同市最大の百貨店になった。売上高は1997年度は、347億円を計上したが、近年は長引く消費不振により減少傾向にあり、2011年度は229億円まで落ち込んでいる。
- ギフトショップ
- 富士ギフトショップ 富士市永田町二丁目51番地の2
- 高槻店
- 1979年開店:大阪府高槻市紺屋町2番1号
過去に存在した店舗
直営店
- 銀座店
- 1924年開店。2013年6月30日閉店。
- 東京都中央区銀座6-10-1[3] 店舗面積25,352m2。本館と別館で構成。
- 銀座地区最古参で、初めて土足入店を試みた百貨店だった。
- 「J.フロント リテイリング」の登記上の本店だが、事務所は八重洲二丁目。
- 閉店理由は建物の老朽化による建て替え(赤字閉店ではない)で、隣接するビルなどと一緒に再開発を実施。地上13階、地下6階建てのオフィスと商業施設が入居する複合ビルを開発する事になり、2014年4月2日に工事着工した[19]。商業エリアについては、土地を森ビルや住友商事に売却し、専門店を主体とする施設を運営させるとしている[20]。竣工は2016年11月の予定。
- 公式ホームページでは「一旦営業を終了しました」と記載されており、あくまでも完全閉店ではなく、テナントとして再出店する予定だった。しかし、2015年にJ.フロント リテイリングは新商業施設に百貨店の直営売場は設けない方針である事を正式に決定した[21]ため「松坂屋 銀座店」として復活することは無くなった。
- 2017年(平成29年)4月20日に、GINZA SIXとして開業。
- 市川店(上野店分店)
- 1977年 開店[3]。1999年8月22日 閉店。
- 千葉県市川市市川1-5-17 道口ビル(JR総武線市川駅北口 千葉街道沿い)
- 同ビルには2000年3月1日 オリンピック市川店が開店。
- 閉店後隣地の市川グランドホテルに「市川ギフトショップ」を開設するも2008年閉店。現在は「外商市川出張所」及び「市川学生服プラザ」として営業。
市川市市川1-3-18 明治安田生命市川ビル2階。
- 名古屋駅店
- 1974年 開店。2010年8月29日 閉店。
- 名古屋市中村区名駅1-1-2 名古屋ターミナルビル。店舗面積16,521m2。
- 呼称は「ナゴヤエキ店」。地元では「駅店」「名駅店」とも呼ばれた。
- JR東海による同ビル建替え構想の浮上に伴い、新ビルへの再出店に向けJR東海と交渉を続けたものの売り場面積などの条件が折り合わず、ターミナルビル解体工事の着手に合わせるため、2010年に撤退した。当初、新ビルが開業する2017年前後の経営環境によっては再出店の可能性も残すとしていたが、バブル崩壊後のJRセントラルタワーズの百貨店誘致問題をめぐりJR東海との間に軋轢が生じた経緯もあるためか、最終的に今回も両者が手を組むことはなかった。同時に、同地区への再出店もしないことを正式に決定した。
- なお、松坂屋の再出店計画の断念を受けて、新ビルの百貨店部分としてジェイアール名古屋タカシマヤが増床オープンされた。詳細はJRゲートタワーを参照の事。
- 1971年4月10日 開店-2010年1月31日 閉店。
愛知県岡崎市康生通西3-15-4[3] 岡崎ショッピングセンター クレオ - 跡地は、アオキスーパー岡崎康生店が2015年4月21日にオープンした。
- 四日市店
- 1991年 開店-2001年5月31日 閉店[22]。
三重県四日市市安島1-3-31 アムスクエア 近鉄四日市駅西口。 - 松坂屋撤退後暫くアムスクエア単独で営業していたが、2002年7月-2004年11月は空きビルとなっていた。
- 2005年3月12日 三井不動産グループにより「ララスクエア四日市」が開業。アピタ四日市店、109シネマズなどが入居。
- 大阪店
- 1875年 第1大区高麗橋1丁目(現・中央区高麗橋1丁目)の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目(現・西区新町3丁目)に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。
- 1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。
- 1923年 南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。
- 1938年 大阪店増改築工事竣工(現・高島屋東別館)。
- 1960年代前半、市電の廃止と引き換えに地下鉄整備が進むようになったものの、堺筋の市電路線が廃止されたことに加え近辺に地下鉄駅も開設されないなど大阪店周辺の交通環境の悪化で業績を好転させるのは不可能と判断[23]。新大阪店の候補地を大阪城の北西部に当たる京阪天満橋駅の地下化および駅ビル建設に伴う鉄道利用客の需要を見込み、移転することとした。
- 1964年4月 京阪電鉄、松坂屋、竹中工務店の3社の出資による京阪ビル(株)を設立、京阪天満橋駅の上部と隣接地に地下4階、地上8階の京阪ビルディングの建設を発表[24]。
- 1966年10月1日、東区京橋2丁目(現・中央区天満橋京町)に移転。「桜の通り抜け」や天神祭でも有名な大川沿いに位置し、ガラス張りの休憩室や飲食店からの展望を売りとし、結婚式場をはじめ海外旅行サロン・文化催事場・スポーツ用品センターなどを導入しながら他店との差別化を図った[注 5]。
- しかし梅田を中心とするキタ、心斎橋・なんばを中心としたミナミの大阪市内二大商業地域に人口が集中していた上、天満橋周辺が商業地域というよりもオフィス街という性格上、周辺に人をよびこむことができなかった[注 6]。総面積も市内の主要百貨店と比べ狭く[注 7]、川沿いの立地が災いし売場の増床も事実上不可能だった[25]。
- 1973年、1976年にそれぞれ、ファッション部門を強化。1986年から1988年にかけても全館を改装、食品フロア「グルメ館」として再編。[注 8][26]。
- 1996年、長堀鶴見緑地線の京橋 - 心斎橋間の開通により、多くの人が心斎橋に流れた。
- 1997年から1999年にかけ食料品フロアを「食彩館」として展開。全館のうち5フロアを女性ファッションフロアに特化して改装、1998年4月8日に新装開店[27][28]。若者向けの改装のほか人気テナントの導入や業態転換[注 9]などの方針がとられたが、失敗に終わったとされる[注 10]。
- 以前より松坂屋より京阪側に撤退を含めて検討したいとの要望が出されていたのをきっかけに、岡田邦彦社長(当時)が「競合店が次々とでき、今後、商圏を大きく奪われる。投資しても回収が見込めない状況だ」と述べ[29]、閉店が正式に決定。
- 2004年5月5日 閉店[22]。移転後ただの一度も黒字化を果たせない店舗となった[22]。移転後には幾多の改装などを行うなどの努力をしてきたにも関わらず、実を結ぶことはできなかった。
- 閉店後、この京阪ビルディングのうち松坂屋が所有している土地、建物を京阪側に売却[30]。京阪による大規模な改装工事が行われたのち、2004年11月25日に地下2階の食品売り場である「デリスタ」が先行オープンし、その後2005年5月27日に「京阪シティモール」がオープンした。
- くずは店
- 1974年 開店-2004年3月31日 閉店[22]。
大阪府枚方市楠葉花園町15-1[3] くずはモール街。モール街のオープン(1972年)より2年遅れて開店した。 - 閉店後、建物はくずはモール西館となっていたが、くずはモールの増床リニューアルに伴い2012年6月末で閉鎖され、解体された。
- ギフトショップ
- せんげん台ギフトショップ(埼玉県越谷市): 上野店の運営。
- 清水ギフトショップ(静岡市清水区): 静岡店の運営。
- 焼津ギフトショップ(静岡県焼津市): 静岡店の運営。2014年1月31日閉店[31]。
- 豊橋ギフトショップ(愛知県豊橋市): 名古屋店の運営。現在の建物はコインランドリー「てるてるぼうず」。
- 小牧ギフトショップ(愛知県小牧市): 名古屋店の運営。現在の建物は「やまや小牧店」。
- 多治見ギフトショップ(岐阜県多治見市): 名古屋店の運営。
- 大垣ギフトショップ(岐阜県大垣市): 名古屋店の運営。
- 高山ギフトショップ(岐阜県高山市): 名古屋店の運営。
- 各務原ギフトショップ(岐阜県各務原市): 名古屋店の運営。
- 京都仕入店
- 1745年、室町姉小路に開設。1749年、現在の新町六角通下ル(京都市中京区)に移転。この界隈が呉服の問屋街であることから、呉服を仕入れるために設けられた店舗であるといえる。1902年に建てられた建物は、昔ながらのたたずまいを見ることができた。染織デザインの研究所(京都事業所)となった後2010年8月末で閉鎖され、2012年に解体。
- 跡地には三井ガーデンホテル京都新町 別邸が2014年3月25日にオープンした。このホテルでは京都仕入店のファサードイメージを再生させたデザインを外観に、旧建物の梁を内装に、それぞれ取り入れている[32]。
提携店
- 株式会社札幌松坂屋
- 1974年6月8日 開店。内外緑地開発(株)(本社 釧路市)(100%出資子会社) 札幌市中央区南4条西4丁目1。
- アカシアの花白くいま開く松坂屋というキャッチフレーズのもと、道内一の歓楽街すすきのに出店し、すすきのを夜の街から昼の街へと変えるとして話題となったが 目論見ははずれ大幅な赤字が続いた。
- 1979年4月 イトーヨーカ堂と合弁により「ヨークマツザカヤ」に社名変更。
- 1994年3月 松坂屋グループを離脱。「ロビンソン百貨店」札幌店となる。
- 2009年3月26日 全館ファッションビル「ススキノラフィラ」としてリニューアル。
- 地下食料品売り場はイトーヨーカ堂が入居している。
- 山形松坂屋
- 1956年2月、地元商店街の共同組合方式で「丸久」として開業[33]。山形市七日町2-7-2(現:セブンプラザ。同施設は再開発によって解体を予定)
- 1971年1月、松坂屋と業務提携を締結。
- 1973年1月、「丸久松坂屋」に商号を変更。同年3月、隣地(山形市七日町2-7-10)へ移転。
- 当時のイメージキャラクターは江原真二郎・中原ひとみ一家。山形市内では江原ファミリーの印刷されたはがきが販促品として配布された。キャッチコピーは「ちょっとおしゃれな丸久松坂屋」、イメージCMは市内平清水からの撮影。
- 1980年3月、「山形松坂屋」に社名変更。キャッチコピーは「ふれあい山形松坂屋」
- 山形松坂屋は1973年度以降は当期赤字を計上しており、1975年8月期からは債務超過の状態が続いていた。こうした中、松坂屋から人材の派遣や婦人服売り場の強化など売り場の見直しに取り組んだが、功を奏さず、2000年2月にグループ企業の整理を進める松坂屋からこれ以上経営を続けても損失の回復が望めないと最後通牒を通告され、会社解散を決定した[33]。
- 2000年8月20日閉店[22][34]。
- 2002年6月29日、旧山形松坂屋が入居していたビルを川崎市に本社を置く東邦エンタープライズが取得の上、改装し「ナナビーンズ」として開業。1 - 3階は民間フロア、4 - 8階は公共フロア、ビジネスホテル「ステイ・イン七日町」を併設した[35]。
- 2017年3月、七日町通り沿いの3 - 7階に入居していた公的施設が同年3月末で撤退するため、東邦エンタープライズは3 - 6階部分をビジネスホテルに改装し、残りの部分はオフィススペースとして貸し出す方針を明らかにした[36]。
- 横浜松坂屋
- 1864年「野澤屋呉服店」創業。横浜市中区弁天通。
- 1910年11月1日 「野澤屋」百貨店開業。横浜市中区伊勢佐木町1-5。
- 1968年 松坂屋と共同配送を開始。商品券の交換など、元来松坂屋とは友好関係を築いていた。
- 1974年(昭和49年)資本提携により「ノザワ松坂屋」に社名変更。
- 横浜駅西口の繁栄と伊勢佐木町の地盤沈下が重なり、業績は年々低迷。遂に、グリーンメーラーとして知られた横井英樹が株式買い占めを行い、乗っ取り騒動となる。この時松坂屋がホワイトナイトとして防戦買いに協力した結果、松坂屋が筆頭株主となった。
- 1977年 松屋横浜店の撤退に伴い、松屋の土地建物を買収して西館として運営し、野澤屋以来の店舗(本館)との間に連絡橋を架設。「横浜松坂屋」に社名変更。
- 2008年(平成20年)10月26日 閉店。2010年(平成22年)店舗解体。
- 2012年(平成24年)2月8日 大丸コム開発運営の「カトレヤプラザ伊勢佐木」としてオープン。
- プロ野球・横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズを長年応援し、1998年の日本シリーズ優勝時には大型のクジラの模型が飾られた。また、店頭では異例ともいえる「神奈川新聞」優勝号外の再発行・再配布が行われた。
- フォークソングデュオの「ゆず」が無名時代、長年店頭で路上ライブを行っていた。2003年の第54回NHK紅白歌合戦に出場した時は、横浜松坂屋本館前より生中継を行った。
- 2004年本館建物が横浜市の横浜市認定歴史的建造物に認定。エスカレーターの装飾やエレベーターのアナログ時計式階数表示機、食堂の窓などが昔のまま残され、横浜に唯一現存した戦前に建設されたデパート建築であったものの、建物の老朽化が著しくなったのに加え、売り上げの減少が続いていたことから、2008年10月26日をもって閉店(百貨店事業の終了)、解体。跡地には、大丸コム開発が運営する新たな商業施設カトレヤプラザ伊勢佐木として、2012年2月8日開業した[37]。
- 戦後、野澤屋のシンボルフラワーにはチューリップが用いられ、包装紙等にもチューリップをモチーフにした意匠が用いられた。
- 2009年の開国博Y150期間中には、1階玄関付近の一部が観光案内所として使用された。
- その他
海外店舗
松坂屋百貨公司(香港)
- 銅鑼灣(コーズウェイベイ)店
- 百德新街(パターソン・ストリート)恒隆中心(ハンルン・センター)内 1975年4月開店。1998年8月31日閉店。6,200m2。
- 香港返還前後の家賃高騰により1998年全面撤退。
パリ松坂屋
- Galeries Lafayette, 40 boulevard Haussmann Paris France
- パリ オスマン地区 ギャラリー・ラファイエット百貨店内(65m2)
- 1978年3月 日本人観光客向け「免税書類作成手続き委託契約」によりカウンター開設。
- 2005年8月31日 契約満了により撤退[40]。
ロサンゼルス松坂屋
松坂屋美術館
松坂屋名古屋店南館7階にある美術館(地図)。1991年、南館のオープンに伴い開館した[41]。所蔵品は保有していないが[42]、国内外の様々なジャンルの展覧会を開催している。
また、同フロアには松坂屋史料室があり、こちらは松坂屋の歴史に関する展覧会を開催している。
参考文献
- 『尾張名所図会』 第一巻 伊藤呉服店、1844年
関連項目
- 吉沢検校- 幕末、名古屋京都で活躍した音楽家、作曲家。安政元年、松坂屋当主伊藤治朗左右衛門の婚礼に際し、祝儀曲「花の縁」を作曲。
- 松坂屋ストア
- 矢場町駅
- 東京フィルハーモニー交響楽団 - いとう呉服店少年音楽隊がルーツ。
- 西郷隆盛 - 上野店で、彰義隊攻略の軍議を行ったとの説がある。
- 土方歳三 - 11歳の時に上野店で丁稚奉公をしていたという説がある。
- カトレヤ - 松坂屋のイメージ花。
- デイリーヤマザキ - ギフトで連携している。
- さくらパンダ - 元は上野店のマスコットキャラクター。大丸松坂屋百貨店の発足後は、大丸京都店のマスコットであった「デッチーくん」とともに、同社のイメージキャラクターになった。また、同百貨店の提携クレジットカードのデザインにも採用されている。
- 中日ドラゴンズ - セ・リーグ優勝および日本一時に名古屋店などで優勝セールを行うほか、ドラゴンズファンの社員で作る組織「マツザカヤ ドラゴンズを優勝させる会」[43][44][45]があるなど関係が深い。
- 松坂大輔 - 中日ドラゴンズ投手。2018年5月、中日移籍後の初勝利(こちらを参照)を記念して、名古屋店が「平成の書」の純金製小判(30万円)を贈呈した(同じ「松坂」に奇縁するところもある)[43][44][45]。
提供番組
- 0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです - 1966年から2008年までCBCラジオで放送されていた松坂屋1社提供の音楽番組。かつて名古屋店南館に存在したオルガン広場から公開生放送を行っていた。
- 健太君の探偵 - 1957年から1962年までCBCテレビで放送されていた、松坂屋提供の子供向け推理探偵番組。
- アーノルド坊やは人気者(CBCテレビ制作、海外ドラマ、中京ローカル)
- CBCニュースワイド(CBCテレビ、土曜日)
- FNN東海テレビスーパータイム(東海テレビ)
- イッポウ(CBCテレビ、月曜日)
- キャッチ!(中京テレビ、火曜日)
- 目方でドーン!(日本テレビ、関東ローカル・1社提供)
- NNN昼のニュース(日本テレビ、平日・関東ローカル)
- やじうま寄席(日本テレビ)
- お笑いスター誕生!!(日本テレビ)
- FNNニュースレポート11:30→FNNスピーク(フジテレビ)
脚注
注釈
- ↑ この曲はTBSラジオ森本毅郎・スタンバイ!のスタンバイトークファイルのCMで使用されており、かつてはCBCラジオの提供番組「カトレヤミュージック」(放送終了)でインストゥルメンタルで聴くことができ、関東でも日本テレビの目方でドーン!、NNN昼のニュース、NNNライブオンネットワーク、NNNニュースプラス1、皇室日記に提供していて、これらの番組でも聴くことができた
- ↑ 「ハロー名古屋」の語呂合わせでもある。
- ↑ 当初は名古屋駅近傍に新しく建設されていた高層ビル「JRゲートタワー」に出店する予定だったが、同ビルの工期に遅れが出たため出店場所がこちらに変更された。なお、ヨドバシカメラの出店取り止めで空いた同ビルのフロアにはビックカメラが出店することが発表されている。
- ↑ 1916年開店という説もある[16]。
- ↑ 新聞広告には、「創業360年。新幹線をネットで結ぶマツザカヤがいよいよ躍進-きょう10時天満橋に新大阪店がオープン、全フロアに若さあふれる魅力商品と新感覚のたのしい売り場設備をととのえました。大阪へお出かけの節は、ぜひお立ち寄り下さい」というふれこみであった。
- ↑ そもそも淀屋橋延伸のための地下化であったなど、すでに移転時に天満橋のターミナル性は低下し始めた後だった。都心から外れた落ち着きのある店という評判もあったものの、いわゆる展望スポットとしての集客力には欠けた。
- ↑ 1966年開店時の20564㎡から1967年5月に25864㎡、1969年12月に30750㎡と開店3年目にして1万坪(33000㎡)に近い規模になったものの当時の市内百貨店業界における規模では第6位にとどまっていた
- ↑ ゆっくり歩きながら個性的な品々を選べるようになったことから噴水効果が大きくなり全館の売上増大に貢献、のちに名古屋店などにも導入された
- ↑ 有力テナントとしてジュンク堂書店・HMVを導入
- ↑ 来店客数も1995年度の725万人から2002年度には670万人まで落ち込むなど集客力の低下に歯止めをかけられなかった。
出典
- ↑ “(株)松坂屋『松坂屋百年史』(2010.02)”. 渋沢社史データベース. p. 13. . 2017閲覧.
- ↑ “「常磐女子裁縫学園」について知りたい。”. レファレンス協同データベース (2011年9月8日). . 2017閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 引用エラー: 無効な
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タグです。 「nikkei-commerce-yearbook-1978
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 中小企業基盤整備機構 p.155
- ↑ 『本間之英 有名企業 社名とまーくの秘密』株式会社学習研究所、2008年4月22日。ISBN 978-4-05-403709-0)
- ↑ 「元松坂屋社長」『四国新聞社』2007年12月12日号[1]
- ↑ 「創業家を棚上げした剛腕」総合情報誌 『ザ・ファクタ』2008年2月号[2]
- ↑ 「松坂屋元社長、創業家排除」『四国新聞社』2007年12月12日号[3]
- ↑ 「松坂屋元社長、創業家排除」『47NEWS』2007年12月12日号[4]
- ↑ 産経ニュース- 日本最大級の売り場が開業 ハルカスの近鉄百貨店本店2014年2月22日、2014年4月9日閲覧
- ↑ 2009年12月23日 日本経済新聞 中部経済面(大規模改装について記載)
- ↑ 2010年1月14日 中日新聞(同上)
- ↑ お買い物がますます楽しくなる空間へ 「松坂屋名古屋店 2015秋 ヨドバシカメラオープン」、大丸松坂屋百貨店・2015年6月9日
- ↑ ヨドバシカメラ中部・東海エリア初出店! マルチメディア名古屋松坂屋店 2015年10月29日(木)開店!、ヨドバシカメラ・2015年10月16日
- ↑ GENTA公式サイト
- ↑ 読売新聞2013年10月29日 夕刊15面広告
- ↑ 第8期定時株主総会招集ご通知 - J・フロント・リテイリング(2015年。p.8の注記に閉店日の記載がある)
- ↑ 株式会社大丸松坂屋百貨店 松坂屋上野店南館の建替えについて - J.フロント リテイリング・2013年8月26日
- ↑ “2つの街区を一体開発『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』着工 ~銀座エリア最大級となる大規模複合施設、2016年11月竣工目指す~”. 銀座六丁目10地区市街地再開発組合(森ビル) (2014年4月2日). . 2014-4-9閲覧.
- ↑ “『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』2016年11月、ワールドクラスクオリティの商業施設が誕生 ~銀座エリア最大級の商業施設を4社で一体運営~”. J.フロント リテイリング、森ビル、L Real Estate、住友商事 (2014年4月2日). . 2014-4-9閲覧.
- ↑ 『週刊東洋経済』2014年4月26日号71ページ。
- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 “松坂屋 大阪の2店舗閉鎖”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 15(朝刊・企業2). (2003年10月22日)
- ↑ 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 121ページ
- ↑ 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 121ページ
- ↑ 松坂屋70年史 132ページ
- ↑ 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 188‐189ページ
- ↑ 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 255ページ
- ↑ 読売新聞大阪版 朝刊1998年3月11日 10ページ
- ↑ 読売新聞 大阪版 朝刊2003年10月22日9ページ
- ↑ 読売新聞大阪版 朝刊2004年5月27日 8ページ
- ↑ “焼津ギフトショップ閉店のお知らせ”. 松坂屋. . 2014-4-9閲覧.
- ↑ “伝統・継承・再生をテーマにした新しいホテル「三井ガーデンホテル京都新町 別邸」2014年3月25日(火)グランドオープン”. 三井不動産ホテルマネジメント (2014年3月14日). . 2014-4-9閲覧.
- ↑ 33.0 33.1 「山形松坂屋が8月閉店 累積赤字50億円に 再建困難、親会社が支援撤退」『毎日新聞山形版』2000年2月29日
- ↑ 「山形松坂屋、最後の営業 44年の歴史に幕 市街地の空洞化に懸念も」『毎日新聞山形版』2000年8月21日
- ↑ “《おしえて!編集長》 くわしく知りたい! ナナ・ビーンズ”. 山形コミュニティ新聞. (2007年3月9日) . 2017-7-7閲覧.
- ↑ “山形)「ナナ・ビーンズ」がホテル運営中心に”. 朝日新聞デジタル. (2017年3月23日) . 2017-7-7閲覧.
- ↑ ヨコハマ経済新聞(2012年2月8日閲覧)松坂屋跡の新商業施設「カトレヤプラザ伊勢佐木」開店で長蛇の列
- ↑ 横浜松坂屋の百貨店事業終了について (PDF)
- ↑ 日興リサーチセンター「香港―経済・産業・主贅企業の概要」1993年12月 http://www.wako.ac.jp/souken/touzai95/tz9504hyo2.html
- ↑ 川端基夫「日本小売業の多国籍化プロセス」2005
- ↑
- ↑ “松坂屋美術館”. ミュージャム. . 2013閲覧.
- ↑ 43.0 43.1 “松坂大輔に純金小判のプレゼント 「次は大判」おねだり”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. (2017年5月17日) . 2017閲覧.
- ↑ 44.0 44.1 “中日松坂に松坂屋から小判、2桁なら大判100万円”. 日刊スポーツコム. 日刊スポーツ新聞社. (2017年5月17日) . 2017閲覧.
- ↑ 45.0 45.1 “中日・松坂が「松坂屋」から純金小判を授与される「本物は初めてです」”. 産業経済新聞社. サンケイスポーツ. (2017年5月17日) . 2017閲覧.
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- J. フロント リテイリング
- 終戦直後の松坂屋本店『モージャー氏撮影写真資料』, 1946年、国立国会図書館