中外商業新報
中外商業新報(ちゅうがいしょうぎょうしんぽう)は、1889年(明治22年)1月27日創刊の経済新聞である。前身は「中外物価新報」。現在の日本経済新聞である。
沿革
1876年(明治9年)12月2日に創刊した「中外物価新報」を改題して発足した。中外物価新報は、三井物産の創業者・益田孝を中心として創刊された。発行所が三井物産中外物価新報局であったことからも分かるように、同紙は三井物産の機関紙としての性格が濃厚であった。1882年に新たな発行所「商況社」を設立し、1889年(明治22年)には題号を「中外商業新報」に改めたことにより、形式的には三井財閥から独立したが、その後も両者の関係は緊密であった。
1897年(明治30年)9月、匿名組合であった商況社は合資会社に改組した。しかし深刻な経営難に陥り、1905年(明治38年)に主幹の野崎廣太が、個人の名義で事業を承継。1911年(明治44年)に「中外商業新報社」として株式会社に改めた。日本の新聞社で株式会社化したのは、同社が初めてである。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)11月1日に、「日刊工業新聞」及び「経済時事新報」を吸収合併するとともに、業界紙11紙を買収して「日本産業経済」と改題した。これは、内閣情報局の指導方針に沿って行われたもので、中外商業新報社は東京周辺で発行されていた新聞各紙の受け皿となった。
なお、東海以西で発行されていた業界紙や経済専門紙は大阪で前田久吉が創刊した『日本工業新聞』を受け皿として合同し、『産業経済新聞』(現・産経新聞)を創刊した。このため、『日本産業経済』の時代はもちろん、戦後改題して日経になってからも暫くは現在と違って東海以西での印刷・発行は行われなかった。
1946年(昭和21年)3月、社名を「日本経済新聞社」、題号を「日本経済新聞」に、それぞれ改めた。産経新聞は1950年(昭和25年)、一般紙転換とともに東京進出を果たすが、逆に日本経済新聞社が大阪本社を設立し、関西に乗り込むのはそれから10年以上も後の、1961年(昭和36年)のことだった。
主な出身者
- 青木正(1898年 - 1966年) 元国家公安委員長・自治庁長官。中外商業新報整理部長を経て政界入り。
- 石田博英(1914年 - 1993年) 衆議院議員。労働大臣、運輸大臣を歴任
- 小汀利得(1889年 - 1972年) 1945年、中外商業新報社長に就任。国家公安委員会委員などを歴任。TBS「時事放談」に出演していたことで知られる
- 木村清四郎(1861年 - 1934年) 1885年、中外商業新報主幹に就任。日本銀行副総裁や千代田生命取締役を歴任。貴族院議員
- 清沢洌(1890年 - 1945年) 『暗黒日記』の著者。同紙や東京朝日新聞の記者を経て独立
- 斎藤修一郎(1855年 - 1910年) 井上馨の秘書官、農商務次官
- 田中都吉(1877年 - 1961年) 中外商業新報社長、外務次官
- 野崎廣太(1859年 - 1941年) 1898年、中外商業新報主幹兼社長に就任。三越呉服店社長
- 丸山幹治(1880年 - 1955年) 丸山眞男の父。同紙をはじめ、大阪朝日新聞や大阪毎日新聞に在籍
- 原澄治(1878年 - 1968年) 1904年入社(のち経済部長)、後に実業家として活躍する。
年表
- 1882年 - 商況社創業。
- 1889年1月 - 「中外物価新報」を「中外商業新報」に改題。
- 1895年8月 - 本社及び工場を日本橋北島町(現日本橋茅場町)へ移転。
- 1897年9月 - 商況社を合資会社化。
- 1905年 - 野崎廣太が個人経営を開始。
- 1909年 - 商号を中外商業新報社に変更。
- 1911年8月 - 株式会社化。資本金10万円。
- 1924年10月 - 夕刊の発行を開始。
- 1928年 - ニューヨークに特派員事務所を設置。
- 1941年6月 - 社内株主による自主経営に移行。
- 1942年11月 - 「日本産業経済」に改題。
- 1946年3月 - 「日本経済新聞」に改題。
関連書籍
- 日本経済新聞社監修『中外商業新報 復刻版(全12巻)』 柏書房 、2006年、ISBN 4760128891