張本勲
張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家、日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:장훈)[1][注 1]。
日本プロ野球初の3000安打達成者[2]。またNPB唯一の500本塁打300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割の記録保持者。
愛称は「ハリさん」「張さん」[3]、「ハリ」、「ハリやん」。
経歴
生い立ち
両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身[4][5][6]。1939年、母親は身重のまま、3人の子を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ[1][7][8]。一家は六畳一間のトタン屋根のバラックに住んだ[9]。4歳の冬、サツマイモを焼くために、土手でとんど[10]を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失う大火傷を負う[4][11][12]。
1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆[1][13][14]。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した[4][10]。この際、学徒勤労動員で比治山の西側にいた、当時14歳だった長姉の点子は、大火傷を負い数日後に亡くなった[1][14]。点子の最後を看取った張本によれば、担架で運ばれた点子は全身にやけどをしていた。「『熱いよう、熱いよう。』母の懐でうめく点子にブドウを一房もぎ、口元で搾ってあげた。『ありがとう。』消えそうな声が最期だった」と語っている[15]。
終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった[1]。母親は闇市で牛や豚の臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を始めた[7][4][16]。
子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める[17]。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向[17]。利き手を変える大改造を行なった。
水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部[10][17]。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した[5]。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している[18][19]。
この頃、広島カープの当時の本拠地・広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという[1][20][21]。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった[1][10]。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである[8][22]。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」[22]、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった[22][9][注 2]。
高校時代
甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業、広陵高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず[1][8][23]、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であった[24]。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る[8]。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイスし[8]、自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見て、まず京都の平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる[8]。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した[8][25]。
浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。
1957年、2年の初夏に中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される[5][8]。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向[注 3]により、誘いを断る[8]。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。同年は秋季近畿大会で対外試合に初出場、県予選から13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。大会では準決勝に進み、海南高の宗邦夫に完封を喫するが、翌1958年春の選抜への出場を決める。ところが一般生徒が刑事事件を起こし、出場辞退を余儀なくされた。高校同期にエースの池上栄一郎(法大)、捕手の岡本凱孝がいた。
3年時の1958年夏の甲子園府予選は決勝で寝屋川高に辛勝、念願の甲子園出場を果たす。しかし大会直前に部室内での暴力事件が発覚[8]。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた[4]。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)[8]。張本は竹内監督の韓国人嫌いに端を発した差別としている[1]。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、竹内との関係は良くなかったとも回想している[26]。
同事件により、甲子園の夢を絶たれた張本は自殺も考えたと言うが、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集[注 4]が親身になって相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。
この年在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む[5][1]。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した[8]。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した[27]。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる[27]。
プロ野球選手時代
東映・日拓・日本ハム時代
中日ドラゴンズと東映フライヤーズの一騎討ちになったが、東京への憧れもあり、1959年に東映フライヤーズに入団[28]。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め[8][29]、母校である浪商の先輩を多数抱えていた[8][25]。契約金は200万であった(中日は600万を提示していた)[8]。張本はまだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかったため、「わかっていたら中日に入団していたと思う」と話している[8]。なお、この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた[7]。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある[7]。
松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。
大川博オーナーの意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら開幕戦のスタメンに名を連ねた[注 5]。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で二桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して新人王を獲得した。
2年目には打率3割をマークし、3年目の1961年には打率.336で21歳にして首位打者となった。4年目の1962年にはMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。1963年には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録する。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得。1970年には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。
1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修投手から史上7人目となる2000本安打を達成。1974年には通算7回目となる首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。「安打製造機」の異名を取り[2][注 6]、南海ホークスの野村克也らと共に1960年代から1970年代のパ・リーグで活躍した。
日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期[注 7]からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた[30]。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した[31]。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた[32]。1974年には大洋とトレード話がほぼまとまりかけながら、御破算となる。1975年前期リーグ終了後には、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど[33]、張本を無理やり放出しようとし、三原社長と中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった[注 8]。
前年のオフに大杉勝男・白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている[34]。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという[35]。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという[28][36][37]。
巨人時代
1976年、長嶋茂雄監督が「王の前に大砲が欲しい」という希望があり[33]、高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍[38][39]。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。結果同年自己最高の安打数を更新、翌1977年と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の王貞治と組んだOH砲は、第一期長嶋茂雄監督時代の2度の優勝に貢献した。
1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和[40] 生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。翌1979年は77試合の出場に終わり、打率.263、8本塁打と低迷し戦力構想からも外れた。
オリオンズ時代
1980年、オーナーの重光武雄の強い誘いと3000安打達成したかった張本の意向もあり[41]、ロッテ・オリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。9月28日には川崎球場でのダブルヘッダーの第1試合、近鉄との対戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成した[42]。
翌年の1981年に現役引退。現役最後の安打は森繁和から打っている。背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用した。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが、実現はしなかった[43]。
通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は3085本で日本記録である[注 9]。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことをあげている。なお、張本はイチロー自体を認めていないわけではなく、イチローが記録を更新する際などは度々アメリカまで行って祝福している。
引退後
引退後は、1982年より東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)[注 10]野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。また、2000年頃よりTBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』に大沢啓二(2010年10月の大沢死去)と共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演。2006年まではテレビ・ラジオの中継に出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」への出演に絞る。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑[44] では引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑[45] でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている[3]。
2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスに選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放った。もっとも本人は「(投手の)星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。
臨時コーチを何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭の一本足打法を完成させるきっかけを作っている[46]。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している[30]。ロッテのゼネラル・マネージャーだった時期の広岡達朗から、ボビー・バレンタイン監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている[30]。週刊文春の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場した際(2015年10月1日号)は、球団は言えないが3球団から監督の要請があったことを明かしている。
1982年に発足した韓国プロ野球統括団体であるKBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた[47][48][49]。2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章「無窮花章」が授与された[50][51]。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった[4]。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる[50]。日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物となる。
韓国の野球発展にも多大な功績を残し[1]、1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという[52]。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている[52]。
選手としての特徴
打撃
バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法から、右へ左へと自在にボールを打ち分けた[53]。このため上記の「安打製造機」のほか、「広角打法」、「スプレー打法」、「扇打法」という代名詞でも知られた。村田繁(元パ・リーグ事務局長)は張本について、「広角打法の最高峰を極めた打撃王であると認定していい」と評している[54]。通算RCWIN傑出度では王貞治に次ぐ歴代2位の数値を記録するなど、打撃面においては歴代屈指の成績を残した。猛打賞も歴代1位の251回を記録している。
東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回マークした。脚も速く、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算400本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本と秋山幸二の2人のみである。また、通算での「トリプルスリー」(3割300本塁打300盗塁)を達成しており、この記録も日本プロ野球史上で張本ただ一人であり、通算3000本安打以上と合わせれば史上唯一の「クアドラプルスリー」でもある。一方、1シーズンでのトリプルスリーの達成は1度もない。惜しかったのは1963年で、33本塁打、41盗塁を記録したが、最も得意分野のはずの打率で3割に届かず(.280)、達成を逃した。また下記の打点王・本塁打王と同じように盗塁王を獲得したことはなかった。
現役時代は多くのシーズンで首位打者以外のタイトル争いにも絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。特に野村克也にタイトル争いで負けた事が多く、1962年・1963年には本塁打と打点の両方の部門とも2年続けてリーグ2位に終わり、いずれも野村に二冠を許している(1962年はわずか5打点差。張本は前年の1961年も打点でリーグ2位)。1965年も打点で野村に次いでリーグ2位に位置し、1966年に至っては再び野村に本塁打王と打点王を取られるなど、打率・本塁打・打点の部門すべてでリーグ2位だった。キャリアにおいて本塁打でリーグ2位を3回、打点でリーグ2位を5回記録し、打率でもリーグ2位を5回記録している。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。
打席に立っている際、一塁ランナーが盗塁すると激怒した。一塁にランナーがいる場合、一塁手が一塁に張り付いた状態になるため一二塁間が広くなり、安打が出る確率が高くなるからだという。また、打席に入る時には凄んだ表情で相手投手に向けてバットを突き出す仕草を良くしていた。当時は投手を威嚇するためといわれていたが、後に本人は「あくまでも両サイドを見分けるための目安だった」と語っている。
現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。
また、張本はブルームからセーフティーバントのコツも教わった。それは「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」というものだった[55]。これにより、張本自身の述懐によると21回試みたセーフティーバントのうち20回を成功させたという[55]。1970年に当時のシーズン最高打率記録を樹立した際にも、最後の打席でセーフティーバントを決めている。しかし当時のマスコミから「ホームランも打てるバッターがなぜバントで打率を稼ごうとするのか」という批判を受けて、多用はしなかった。そのことについて張本は、2003年のインタビューで「なぜこれ(セーフティーバント)を多用して4割打たなかったのかなぁと後悔してるんです」と述べている[55]。バントの上手さについては王貞治からも認められており[56]、2003年のキャンプでは川崎宗則にセーフティーバントの指導をした。川崎は後年に「張本さんといえば『豪打』のイメージでしたが、あれでセーフティーバントの確率がぐっと上がった。僕のヒットの何本も、張本さんのおかげで打てたようなものです」と語っている[56]。
打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている[57]。キャンプなどでも張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず睡眠不足になり、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」と振り返っている。後年、張本は落合博満が三冠王を獲得した頃に自分の手について「柔らかいでしょう。とてもたくさん素振りしているような手ではないですよね」と語っていることに対して、「あれは落合の謙遜。彼の手は本当にバットを振り込んだ手だ」と述べている。
江本孟紀が入団1年目(1971年)のキャンプのフリーバッティングに登板した際大杉勝男、白仁天に1球もストライクが入らず白には「バカヤロー、プロかお前」と怒鳴られ、投手コーチの土橋正幸も怒っており、次ストライク入らなかったら辞めますと言うつもりで次の打者が張本で江本は足が震えたまま案の上ストライク入らなかったが張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句言わず当ててそのうちに江本はストライク入るようになったという[58]。阿川佐和子が「張本さんは江本さんを助けようとして?」と質問すると、江本は「それは本人には聞いてないです。どんなボールだって打てるぞっていうつもりだったのかも知れない。でも優しいところがある人だから。その件以降、僕はすぐ一軍に上がる事ができました。」と述べ、江本はプロに入ってからの恩人として土橋、野村克也と共に張本の名前を挙げている[58]。
守備
守備では主に、打撃への負担が比較的少ない左翼を守った。打撃や走塁においては傑出した成績を残した張本だったが、守備は得意ではなく、とりわけ守備力が低下した巨人時代にはファンから「守っても安打製造機(=稚拙な守備により相手の安打を量産させている)」と揶揄されるほどお粗末なプレーが目立った。前述の通り、幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦のため、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。障害のため右手が完全に開かなかったため、特注のグラブで守備を行っていた。
このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている[59]。
ただし、1975年にパリーグで導入されたDH制のため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)には、外野部門(100試合以上出場)でRFが2.08(3位)、刺殺数233(4位)、補殺11(2位)、エラー1(2位)と高い数値を記録していたにもかかわらず、巨人に移籍した1976年(36歳時)にはRFが1.37(12位)、刺殺数167(9位)、補殺4(8位)、エラー7(13位)と、数値が大幅に下落している[59]。
阪神との1962年の日本シリーズ第7戦の(1点リードから同点に追い付かれた)10回裏にベンチに下げられ、その後12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている[注 11]。また、巨人時代、レフトにライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の河埜和正がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、守備固めの二宮至と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。
人物
幼少期の負傷と被爆
来歴の節で記したように、幼少期に大火傷を負っている。右手以外は完治したものの、右手のみに後遺症が残り、親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままである。野球を本格的に始めてからは誰にも見せないようにしていた。プロ1年目のオフ後、母親と談笑しているときに「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いたところ、母親が号泣してしまった。まずいことを言ったと反省した張本はそれ以降、家族にも右手を晒さなくなった。
NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたが、川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句していたという[60]。
プロ野球出身者で直接の被爆により被爆者健康手帳を交付されたのは、張本と濃人渉の2人のみである[注 12]。
被爆者であることを、ずっと隠していた[14]。思い出すのが怖くて野球に没頭し、バットを振り続けることで、当時の記憶を心の片隅に追いやってきたという。しかし2005年頃に「原爆の落ちた場所を知らない」とテレビ番組で発言した若者に怒りを覚え、被爆体験を語り始めるようになった[1][14]。2006年8月15日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際には、被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と答えたという。その後は多くのメディアで被爆体験を話している[4][1][10]。
2014年には、原爆で失った長姉の点子の写真を張本が長年探していることを知った点子の同級生から、張本のもとに点子の写真が届いている。張本はこの写真を寝室の枕元に置き、母の遺影と向き合うよう飾っているという[61]。
現役時代
ロッテへ移籍した1980年、当時の監督だった山内一弘や金田正一など多くの評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後、落合は三冠王に3度輝いたが、当時から張本は落合の非凡な才能を見抜いていたことが証明された形となる。
現役時代、毎日午前3時または4時頃に起きてバットを振り、引退するまで子どもとは別の部屋だったという。張本は「スポーツ選手で、豪気・豪快・強気の人が大成功した例は少ないです。やはり臆病で繊細で神経質な人のほうが成功する。イチロー、落合博満、長嶋茂雄、王貞治、金田正一も、みんなそういうタイプ。豪快に見えているだけで、陰では毎日こつこつ練習しています。豪気な人は、すぐできてしまう素質と力があるから『そんなもんすぐできるよ』と安心するし、油断するきらいがあるんですよ」と語っており、「我々みたいに小心者で臆病なやつは、不安だから毎日やる。その積み重ねが結局力になったんだろうと思いますね」と振り返っている。また、野球選手で一番大事なことは「自分を疑う」ことであり、例えその日に4打数4安打を記録したとしても、たまたまだと思って、常に自分を疑うことが大事だという旨のことを述べている[62]。
単打狙いでありながらホームラン数が多いことからもわかるように非常に腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテンを瀕死にさせたことがあり[1][63]、中学時代から高校生を超えてヤクザのチンピラとケンカしたという[63]。現役時代に「野球はルールのあるケンカだ」と話す[64] など、気性が激しい一面があり、以下のような話がある。
- 江本孟紀が阪神に在籍していたとき、対読売ジャイアンツ戦で両軍選手入り混じっての乱闘になった。グラウンドに出た江本のところに張本が近くに来て耳打ちで「おい、〇〇を殴れ」と言ってきたという。江本によると「張本さんは巨人の生え抜きじゃないという事でその選手に虐められていたらしい。外様だから嫌がらせを受けていたみたいで、チームメイトを自分が殴るわけにはいかないから、俺にやれと言ってきたんでしょう。」と話している[58]。江本は新人時代1シーズンだけ東映に在籍し、張本とチームメイトであった。
- 愛甲猛は、ロッテの選手が乗ったバスがヤクザの車に道を塞がれたことがあって、張本が一人でバスを降りて怒ってるヤクザのとこへ行くと、「5〜6分ほどでカタをつけて、何事もなかったかのようにバスに戻って来た」と話している[67]。
- 野村克也が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った[68]。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本はサンデーモーニングで「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。一方、野村は上記のいきさつを否定した上で、張本にささやき戦術をすると、張本が繊細すぎるためにバッターボックスでの立ち位置がなかなか定まらなくなり、結果的に試合時間がかかりすぎてしまうことから、張本へのささやき戦術をやめたとしている[69]。
- かつて、「人気のセ」「実力のパ」と言われ[70]、オールスター戦で、「セ・リーグに負けるな」と本気で闘ったパ・リーグ選手の先頭に立っていたのは、張本であると野村克也は話している[71]。
- 自身の著書の中で私も現役時代11人の監督を仕えていたからわかる確かにヘボ監督はいる。野球ほど監督の采配ひとつで戦況や勝敗が180°変わるのはないだろうと述べ[72]、現役時代名選手だったのに、指揮官になったとたん、動揺して信じられないような采配する監督がいる。本名を出すのは憚れるので「ここではN監督としよう。こちらが一打逆転の場面なのに落ち着いてベンチから見ていられない。ベンチ裏に引っ込んで小窓から覗きながらマネージャーにカウントを確認しここで逆転できないとどうしようと不安でたまらず直視できない。監督がこんな状態ならベンチにいる選手も戦う気になれない。」、「T監督は冷静さを欠いて4回に起用した代打を8回再び起用しようとした」、「O監督は延長戦で右と左のバッターを呼んでじゃんけんさせた。じゃんけんで勝った方を代打で使うと決めていたようだ。たまたま左バッターが勝ってサヨナラヒット 打ったから言いようのものの。何をいわんやである」と名前は伏せているものの3人の監督を例に出している[73]。
トラブル・事件
退場処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の山下健に体当たりした[74]。この行為で足立光宏が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。ダリル・スペンサーが「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事には至らなかった[74]。
日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である[10][75]。この広島での事件は、張本がセ・リーグの巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた[9][76]。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に浴びた[9][76]。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一、二塁から山本功児がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、山本浩二の好返球と水沼四郎の好ブロックで二塁ランナー土井正三が本塁タッチアウトになった[75]。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた[75][76]。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした[75]。これは張本と原田治明、黒江透修コーチらがブロックし事なきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ[75]。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた[75]。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った[10]。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた[9][75]。張本は傷害容疑で事情聴取されたが自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった[10]。母や兄も現場をしっかり見ていたから「やったのは自分じゃないとなぜ言わないのか」と責めたが「私を助けようとした後輩の名前はいえない」と頑なに話さなかった[9]。後に暴漢が槌田誠に頭を叩かれる場面を偶然撮影した写真が出て張本の嫌疑は晴れた[9][77]。しかし疑われたときに出た山のような報道に比べると真実を伝える記事はごく僅かだった。この事件で張本が最もショックを受けたのは民団の幹部が「やったんなら、手錠をかけて刑務所へ連れていけ」と発言したことだったという[9]。
プライベートでは傷害罪で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本がタクシーとぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している[78]。この年、張本はオールスターゲームを辞退している。
交友関係
王貞治との関係
プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代にはともにクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。新人の頃は、張本の広島の実家に王が泊まったこともある[32]。
実績を残し始め、やや慢心が見えていた1963年のオールスターゲームでの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心したという[11]。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃん(王貞治)を馬鹿にしてきた奴は、皆坊主になって謝れ」と言い放った。また、雑誌の企画などで「プロ野球最強打者は?」という質問には、いつも王を挙げる程彼の実力を認めている。
1979年オフ、網膜の病気で視野が狭くなり成績が落ちたため[注 13]、ロッテへの放出が内定していた。ところが巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見したことのなかった王が、当時オーナーの正力亨に「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげてください」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の発言に正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたが、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は思いがけない展開に感動のあまり、泣きながらそれを止めたという。後年「それ以降、ワンちゃん(王貞治)に対しては、どんなことがあっても絶対服従と誓った」と語っている。さらに、2009年のワールド・ベースボール・クラシック監督には王しかいない、と主張し[注 14]、王に対しても「(胃癌手術を終えた王に)何かあったら、私があんたの面倒を一生見るから」とまで伝えたという。
メジャーリーグベースボールやギネス・ワールド・レコーズに対し、王が放った868本の本塁打記録を正式な世界記録として認定するようにテレビ出演時に度々訴えている。
弟分・大杉勝男との関係
東映時代に大杉勝男とクリーンナップを組んだ。大杉は境遇が似て、出身も近かったこともありよくかわいがった[79]。張本はテスト生だった大杉の打撃を見て、「こいつは三冠王を取る」と断言し、後日「大杉に感じた才能は、後の落合博満にも感じたものと共通した」と打ち明けるほど、当時の打撃コーチ・藤村富美男と同じく、いち早く大杉の才能を見出した一人でもある[79][80]。
東映時代、宿舎でメンバーがプロレスごっこで遊んでいる時、目付け役の張本が「お前ら何をしとる! 全員そこに並べ!」と整列させ、鉄拳を見舞ったが、大杉だけは「お前はあっちにいっとれ」と制裁を避けたほど、大杉を可愛がっていた[81]。張本は大杉の死後、「永い付き合いだった。もう兄弟のように。これほど純粋で素朴なホームランバッターは過去にいませんでしたね。それと、新聞記者泣かせなんですよね。だいたい8回裏9回表は勝負が決まるんですよね、だから流れをみて原稿を書いちゃうんですよね。そこへ同点2ラン逆転3ランばっかり彼(大杉)はやるもんですから、原稿を洗いざらいしなくちゃならない。だから新聞記者泣かせの勝負強いバッターだったですね。」と振り返っている[82]。
大豊泰昭との関係
大豊は1992年秋から打法改造に取り込んだが、それを勧めたのが張本だった。大豊には尊敬する王貞治と同じように体が突っ込む癖があったので、それを修正するのに一本足打法が向くと判断したからだった。当初、大豊は張本のことを信用していなかったが、張本は大豊と共に悩み、行き詰ったら王に電話してアドバイスを求めるなどして信頼関係を作り、打法改造に取り組んだ。そして大豊は打法改造に成功し、1994年には本塁打王と打点王の二冠王獲得として結実した[83][84]。
在日韓国人として
張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を隠さずに名乗っており、引退後も日本に帰化していない。そればかりでなく、帰化ならびに日本国籍取得の意思のないことを公言している(国籍は大韓民国)。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいためであった[85]。しかし当人は日本語を話し、且つ日本語名を名乗っているため、張本が日本の人間だと思う日本人も多い。現代では、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である[9]。その一方で、2004年のアテネオリンピックに出場する野球日本代表の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。
民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、韓国語にも堪能である。1991年に日本で行われた第1回日韓野球スーパーゲームの中継では、韓国テレビ局側の野球解説者として出演した。
同胞のプロレスラー・力道山は張本を可愛がり[64]、力道山が東京にいる時はいつもついて回った[86]。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳ほどある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰してドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山から韓国人[注 15]だと告げられると、張本は「噂は本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えば良いじゃないですか」と口に出した[86]。すると力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ! 生意気なこと言うな!」と激怒して張本の肩を突き飛ばした[85][86]。その後、2人の間で民族の話が出ることは2度となかったという[87]。
張本は力道山が好んで使った「闘魂」という言葉が好きで、一時は色紙に書いていたが、野球選手に「闘魂」は似合わないと思い、止めたという[64]。また、日本橋人形町にあった日本プロレス(力道山の所属団体)の道場で、バーベルを使った筋力トレーニングをしていた。当時はアントニオ猪木がまだモヤシのような体であったため、ジャイアント馬場が野球を辞めて数年の頃までは、張本が一番力が強かった[88]。力道山の課す練習は過酷で、金田正一も呼ばれてジムへ行ったが、3日で止めたという[88]。
韓国プロ野球コミッショナー特別補佐官として[47][48]、KBO発足に先立ち、当時の日本プロ野球コミッショナー・下田武三に「日本球団の韓国籍選手を新発足の韓国プロ野球にまわして欲しい」と協力を要請した。これに対する日本側の好意的反応を確かめたのち、KBOは、日米両国との間に選手協定の締結交渉を行い、まず野球の先進国たるアメリカとの間で最初の選手協定を結び、次に日本との間で日韓協定を1983年に締結させた[48]。また韓国野球界との太いパイプを生かして、日本のプロ野球でプレーした在日選手を数多く母国に紹介した[9]。「先輩!自分のおじいちゃん、おばあちゃんの国でやってみたいんです」と言われ「そうか、やってくれるか」と送り出し、在日の選手は韓国で大歓迎されると思っていたら、母国で「パンチョッパリ(半分だけ日本人)」などと疎んじられ「我々の国籍は日本海ですか」と訴えられた[9]。
来歴に記したように、韓国の野球界にも多くの支援を行った[4]。長嶋茂雄は「ぼくは張が韓国プロ野球実現のために努力していることに対して、陰ながら拍手を送っていたんです」と韓国政府の要請を受けて[89]張本の仲介で1982年1月、韓国ソウルで野球セミナーを行った[89]。韓国球界の至宝・重鎮と言われ、中日ドラゴンズで活躍した宣銅烈も、張本の前では直立不動だったという。
その一方、韓国球界に渡った在日韓国人が、通過儀礼である兵役の義務を果たしていないことなどを理由に、差別を受けてしまう負の問題にも切り込み、(韓国プロ野球の)シーズンオフの関係者会議に「同じ韓国人で韓国の言葉が分からないと誰が言ったのか。日本で生まれ教育されて、習う機会がどこにある?それをパンチョッパリ、半日本人だといった人の顔が見たい。『お前たち、よく帰ってきたな。随分苦労したな』と応援してくれるのが普通なのに『日本でのうのうと暮らしやがって、我々は苦しい思いをしたんだ』なんぞと冗談じゃない。あなた方は小さな国ひとつ守れなかったじゃないか、しかもまっぷたつに切られて」と怒鳴り込んだことがある[90]。
2018年の日大アメフト部の悪質タックル問題には「この国(日本)、大和民族がやるようなことじゃないです。この国は裏切りとかを非常に嫌う。正義とか筋とか、義理とかを重んじる民族じゃないですか」と張本個人の全体的な日本人評価を述べている[91]。
サンデーモーニング
TBS系列のテレビ番組『サンデーモーニング』のスポーツコーナー、「週刊御意見番」では、憤りを感じるネタには「喝!」、素晴らしいネタには「あっぱれ」を与えるご意見番の役でレギュラー出演している(2010年に大沢啓二が亡くなるまでは、大沢と2人で出演していた)。歯に衣着せぬ物言いで常に高視聴率を叩き出している一方で、大沢に比べると論評に偏りがあり、配慮にも欠けるとして批判を受けることも多い。
野村克也は「朝の番組でいろいろ言ってるけど、彼に選手を批判する資格はないですよ。張本はバッティングだけしか興味がない。守備はいないも同然。"おまえ、人のこと言えるのか?"とテレビに向かって文句言ってるよ[92]」「(張本が)ピッチャーゴロをカーンと打つだろ。あいつは一歩も走らない。ベンチ帰っちゃう。日曜日に喝とかやってるじゃない。お前にそんなことを言う権利はあるか[93]」と批判している。
- 江川紹子との対立
2010年5月23日放送分で、途中降板した岩隈久志へ「エースとしてマウンドを守るべきである!」と「喝!」を入れた。この際、出演者である江川紹子は「えーっ」と驚き、「途中降板もありなのではないでしょうか」という意見を述べた。放映中には口論にならなかったものの、両者の関係がこじれたため、後日TBS側は何度か両者も交えた話し合いを行った。しかし解決に至らず、江川は6月20日放送分への出演自粛をTBSから求められたとツイッターで明らかにした[94]。江川はこの中で「5月23日の放送での私の言動について、張本勲氏が立腹し、江川を番組に出さないようにTBSに求めたためです」と記し、7月も同様の理由で出演できないとしていた。
その後、江川はツイッター閲覧者からの「復帰しないのか」という質問に、「張本さんがお出になっている間、私の復帰はない、とのことです。数日前、正式に通告がありました」と回答。番組関係者は、デイリースポーツの取材に「江川さんとは年間契約などをしているわけではない。コメンテーターとしての出演をお願いしないということです」と説明した[95]。この件について、張本は「いろいろな意見があることは当たり前であり、江川についてわだかまりは無い」と述べている[96]。
- 三浦知良への引退勧告
2015年4月12日放送分では、J2リーグ・横浜FCの三浦知良に「カズファンには悪いけども、もうお辞めなさい。J2はプロ野球でいうと二軍だから話題性がない」と引退を促す発言をし[97]、その直後司会の関口宏から「今カズファンから(TBSテレビに)わぁと電話きてますよ」と苦笑されるも、張本は「(電話が)鳴ってもいいんですよ」と自身の発言を訂正する事はなかった[98]。これに対し、J2を「野球で言えば二軍」と表現した点などについて、ネット上では張本に対する批判の声が相次いだ[97]。
一方、この件をネット上で知った三浦は「そういう人に言われるのは光栄ですよ。激励と思って頑張ります」「もっと活躍しろと言われているんだと。引退しなくていいと言わせてみろという思いで言ってくれたと思ってやります」と好意的にとらえ、また少年時代張本の姿をテレビで見て「独特の構え方で王さんと組んですごく活躍したのを覚えています」と振り返った[99]。この本人の反応に対し、張本は翌週の放送で「あっぱれ!あげてください」と叫び、「会ったことも話したこともないけど、どこかで会えば、食事はごちそうするから」と褒め称えた。この張本の発言を試合直後に報道陣から伝え聞いた三浦は「食事?ぜひ」と笑顔で大歓迎し、「厳しいことを言ってくれる人がいるのは選手として幸せ。プレッシャーがなくなったら、現状に甘えてしまうこともあるかもしれないからね」とコメントした[100]。
- 安倍首相への称賛
2016年5月29日放送分で、放送2日前のバラク・オバマの広島訪問の話題を振った。張本は「良かったねぇ。ホッとしましたよ」と語り、原爆投下を決して許すことはできないとしつつも、オバマ大統領の広島訪問を前向きに受け止める主旨の話をした。そして、「個人的にはね、安倍ちゃんが総理で良かったね。あぁ、この国を守ってくれるから」と述べ、続けて笑いながら「悪いけどね。私個人の問題だから」と断りを入れつつ、「(安倍首相がオバマ大統領と)並んでいても遜色ないもんね。良かったと思いますよ」と称賛した[101]。
のちに保守論壇雑誌である「WiLL」2017年12月号[102]および「Hanada」2017年12月号[103]のインタビューを受け、再び安倍を称える発言をしている。
- 水谷隼のガッツポーズをめぐる騒動
2016年8月14日放送分で、リオ五輪の卓球男子シングルスで3位決定戦に勝利した水谷隼が、試合直後にガッツポーズし床に仰向けになり大の字のポーズで銅メダル獲得の喜びを表現する映像が流れた後、張本が厳しい表情で「スポーツ選手の先輩として、卓球の水谷にね」と切り出し、「あんなガッツポーズはダメだよ。いけない」と喝を入れた。「手はね、肩から上に上げちゃダメなのよ。『やっつけた!』っていう態度、とっちゃダメ」「この国(日本)は礼に始まって礼に終わる。やっぱりガッツポーズは肩の下まで」とコメントした。しかし、関口が「だけど、どこまでって…、うれしい時はこう(手を高く上げてガッツポーズを)やりますよ」と話すと、張本は「ワンちゃん(王貞治)なんか、(ホームランの)世界記録達成した時も、相手のことを思って、決してやらなかった。これはエチケットだから」と例を挙げ、「一つ注意をしておきます」と結んだ[104]。一方で、水谷は現地にて「話題になっているし、もちろん知っています。ビックリしました」「遊びじゃなくて、命を懸けてるので。相手も命を懸けて来る。戦場ですからね」と理解を求めた[105]。
- 中央大学の箱根駅伝予選敗退
2016年10月16日放送分で、前日の10月15日開催の第93回箱根駅伝・予選会で中央大学が11位に終わり、箱根駅伝本戦連続出場が87回で途切れた中央大に対して、張本は「あの歴史ある中大は一体どうしました?歴史ある名門校がね、話になりませんよね」等と『喝』を与えた[106]。その上で張本は「情報によると内紛もあるそうだから、よく考えて立て直した方が良い」と中大に苦言を呈していた。
この張本の忠告に対し、中大法科大学院教授で当大学陸上部・部長担当の野村修也は「事実無根」とTBSテレビに対し、訂正と謝罪を要求したことを自身のTwitterで表明。また野村は「それが敗因のように伝えましたが、全く根拠の無い話です。精一杯頑張った選手と大学の名誉を著しく傷つけるもので到底看過できません」等とツイート。「我々中大陸上部は、直前の部員会で短距離選手も交え円陣を組み健闘を誓い合いました。当日朝も選手や監督とコーチ、前監督も一緒に円陣を組んで出陣しました。一体どこに内紛があったのでしょう?」と一丸となって予選会に臨んだ様子も紹介。さらに野村は「(張本氏の)発言直後サンデーモーニングに電話し訂正を求めましたが、叶いませんでした」と生放送中に抗議したが、撤回しなかったという[107]。そして一部のツイッターユーザーから、野村が本件に関しコメントするのはおかしい、との指摘にも「大学側の責任者として訂正を求めてるからです。私が学生の名誉を守らず、一体誰が守るのですか??」と怒りを顕わにしている[108]。
それから4日後の10月20日、TBSは番組公式サイトで張本の発言に関し「中央大学から事実と異なると指摘を受けました。この表現により誤解を招きました事を、視聴者及び選手を始めとする関係者の方々にお詫び申し上げます」との謝罪文を掲載したが、本人からの謝罪は一切なかった[109]。
- 浦和レッズの選手の態度を批判
2017年5月31日のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の済州ユナイテッド対浦和レッズ戦で、韓国人選手が日本人選手に対して、試合中から試合後に到るまで暴力行為を繰り返す事件が起こり、アジアサッカー連盟は暴行を行った3選手(クォン・ハンジン、チョ・ヨンヒョン、ペク・ドンギュ)に資格停止と制裁金を科し、済州ユナイテッドに対しても4万ドル(約440万円)の制裁金が科した。この事件はイタリア[110]、フランス[111]、イギリス[112]など、世界各地のスポーツメディアから済州ユナイテッドに対する厳しい非難が行われたが、張本は勝利した浦和の態度に問題があったとする韓国側の主張を支持し、1点差でリードしている状況で浦和が時間稼ぎをした作戦を「これはありがちなことだけど、態度が良くない。やっぱり韓国の選手からみたらね、何だというような態度をとっちゃいけないんです」と浦和を批判し、「日本人はエチケット、マナーを教えるじゃないの。だから世界中どこへ行っても礼儀正しい民族だと…。今はそんなことないな。昔はダメなら親が教えたり、ダメなら先輩が教えたりしたんですよ」と日本人の若い世代についても苦言を呈した[113][114][115]。
俳優
プロ野球選手時代から、俳優として何度か映画に出演した。東映フライヤーズ在籍中の1966年に親会社[注 16]の東映配給で公開された『地獄の野良犬』では、監督の水原茂やエースピッチャーの尾崎行雄とともに特別出演を果たしている。現役引退した1981年に東映時代から「兄貴」と慕った萬屋錦之介に口説かれて[43][116]、萬屋主演の「新春ワイド時代劇」『竜馬がゆく』(東京12チャンネル、1982年1月2日放送)に新選組局長・近藤勇役で友情出演した[43][116]。
その後もヤクザ映画に複数出演したほか、名球会の協力により制作された野球映画『ドリームスタジアム』にも同会員のひとりとして出演した。また東映つながりで菅原文太と付き合いがあり、『仁義なき戦い』の菅原の広島弁セリフを指導したと話している[117]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 東映 日拓 日本ハム |
125 | 454 | 418 | 48 | 115 | 18 | 5 | 13 | 182 | 57 | 10 | 5 | 0 | 2 | 29 | 6 | 5 | 54 | 2 | .275 | .328 | .435 | .765 |
1960 | 106 | 414 | 384 | 49 | 116 | 25 | 3 | 16 | 195 | 56 | 15 | 4 | 0 | 1 | 26 | 6 | 3 | 56 | 1 | .302 | .351 | .508 | .859 | |
1961 | 129 | 526 | 473 | 77 | 159 | 31 | 10 | 24 | 282 | 95 | 18 | 2 | 0 | 2 | 46 | 16 | 5 | 42 | 10 | .336 | .401 | .596 | .997 | |
1962 | 133 | 568 | 472 | 89 | 157 | 24 | 4 | 31 | 282 | 99 | 23 | 8 | 0 | 6 | 86 | 18 | 4 | 46 | 7 | .333 | .440 | .597 | 1.037 | |
1963 | 150 | 626 | 529 | 90 | 148 | 16 | 7 | 33 | 277 | 96 | 41 | 12 | 0 | 2 | 92 | 22 | 3 | 47 | 6 | .280 | .389 | .524 | .913 | |
1964 | 129 | 547 | 461 | 85 | 151 | 21 | 6 | 21 | 247 | 72 | 31 | 10 | 0 | 7 | 78 | 13 | 1 | 42 | 4 | .328 | .426 | .536 | .962 | |
1965 | 132 | 538 | 455 | 61 | 133 | 13 | 3 | 23 | 221 | 88 | 29 | 13 | 0 | 7 | 72 | 10 | 4 | 37 | 7 | .292 | .394 | .486 | .879 | |
1966 | 122 | 493 | 443 | 67 | 146 | 13 | 2 | 28 | 247 | 90 | 10 | 6 | 0 | 5 | 43 | 12 | 2 | 31 | 4 | .330 | .391 | .558 | .949 | |
1967 | 120 | 499 | 414 | 72 | 139 | 18 | 3 | 28 | 247 | 88 | 18 | 7 | 0 | 9 | 66 | 15 | 10 | 30 | 5 | .336 | .439 | .597 | 1.035 | |
1968 | 114 | 432 | 363 | 70 | 122 | 12 | 2 | 24 | 210 | 65 | 13 | 3 | 0 | 3 | 61 | 15 | 4 | 20 | 5 | .336 | .437 | .579 | 1.015 | |
1969 | 129 | 557 | 480 | 77 | 160 | 27 | 1 | 20 | 249 | 67 | 20 | 1 | 0 | 4 | 71 | 21 | 2 | 33 | 5 | .333 | .421 | .519 | .940 | |
1970 | 125 | 537 | 459 | 92 | 176 | 16 | 2 | 34 | 298 | 100 | 16 | 4 | 0 | 5 | 64 | 8 | 8 | 36 | 3 | .383 | .467 | .649 | 1.116 | |
1971 | 128 | 546 | 480 | 73 | 150 | 21 | 3 | 26 | 255 | 78 | 18 | 7 | 0 | 5 | 59 | 6 | 2 | 32 | 14 | .313 | .390 | .531 | .921 | |
1972 | 127 | 548 | 472 | 93 | 169 | 25 | 4 | 31 | 295 | 89 | 10 | 5 | 0 | 4 | 69 | 12 | 3 | 37 | 4 | .358 | .443 | .625 | 1.068 | |
1973 | 128 | 550 | 441 | 77 | 143 | 18 | 0 | 33 | 260 | 93 | 12 | 6 | 1 | 5 | 93 | 19 | 6 | 32 | 4 | .324 | .448 | .590 | 1.038 | |
1974 | 120 | 491 | 406 | 64 | 138 | 20 | 3 | 14 | 206 | 62 | 14 | 6 | 0 | 2 | 82 | 13 | 1 | 28 | 3 | .340 | .452 | .507 | .959 | |
1975 | 119 | 473 | 410 | 45 | 113 | 12 | 2 | 15 | 174 | 46 | 6 | 6 | 0 | 3 | 58 | 9 | 1 | 26 | 13 | .276 | .367 | .424 | .791 | |
1976 | 巨人 | 130 | 574 | 513 | 89 | 182 | 35 | 5 | 22 | 293 | 93 | 8 | 5 | 1 | 3 | 51 | 0 | 4 | 44 | 9 | .355 | .417 | .571 | .988 |
1977 | 122 | 493 | 440 | 67 | 153 | 16 | 6 | 24 | 253 | 82 | 3 | 4 | 0 | 6 | 40 | 2 | 6 | 37 | 14 | .348 | .409 | .575 | .984 | |
1978 | 115 | 456 | 424 | 53 | 131 | 17 | 1 | 21 | 213 | 73 | 1 | 3 | 0 | 4 | 27 | 2 | 1 | 39 | 11 | .309 | .352 | .502 | .854 | |
1979 | 77 | 255 | 228 | 26 | 60 | 7 | 0 | 8 | 91 | 32 | 1 | 0 | 0 | 3 | 23 | 1 | 1 | 21 | 5 | .263 | .333 | .399 | .732 | |
1980 | ロッテ | 102 | 370 | 341 | 50 | 89 | 9 | 0 | 12 | 134 | 39 | 0 | 0 | 1 | 0 | 26 | 0 | 2 | 31 | 6 | .261 | .317 | .393 | .710 |
1981 | 70 | 175 | 160 | 9 | 35 | 6 | 0 | 3 | 50 | 16 | 2 | 1 | 1 | 2 | 12 | 2 | 0 | 14 | 3 | .219 | .273 | .313 | .586 | |
通算:23年 | 2752 | 11122 | 9666 | 1523 | 3085 | 420 | 72 | 504 | 5161 | 1676 | 319 | 118 | 4 | 90 | 1274 | 228 | 78 | 815 | 145 | .319 | .399 | .534 | .933 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
タイトル
- 首位打者:7回 (1961年、1967年 - 1970年、1972年、1974年)※7回は日本タイ記録、4年連続は歴代2位。
- 最高出塁率:9回 (1962年、1964年、1967年 - 1970年、1972年 - 1974年)※歴代最多、タイトル設立は1962年。
- 最多安打:3回 (1970年、1972年、1976年)※当時連盟表彰なし。
表彰
- 新人王 (1959年)
- MVP:1回 (1962年)
- ベストナイン:16回 (1960年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年、1977年)
- 月間MVP:1回 (1976年6月)
- 日本シリーズ技能賞:1回 (1962年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回 (1977年)
- オールスターゲームMVP:3回 (1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦)
- 野球殿堂競技者表彰(1990年)
記録
- 通算3085安打 ※日本記録。
- 通算500本塁打300盗塁 ※史上唯一。
- 通算3割300本塁打300盗塁(生涯トリプルスリー)※史上唯一。
- シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年)※史上唯一。
- シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※日本記録。
- 9年連続シーズン打率3割以上(1966年 - 1974年)※日本記録。
- シーズン打率.330以上:11回(1961年、1962年、1966年 - 1970年、1972年、1974年、1976年、1977年)※日本記録。
- シーズン150安打以上:9回(1961年、1962年、1964年、1969年 - 1972年、1976年、1977年)※歴代2位タイ。
- シーズン100安打以上:20回(1959年 - 1978年)※歴代2位。
- シーズン20本塁打以上:16回(1961年 - 1973年、1976年 - 1978年)※歴代3位タイ。
- 打撃ベストテン入り:17回(1960年 - 1974年、1976年、1977年)※日本タイ記録。
- 15年連続打撃ベストテン入り(1960年 - 1974年)※パ・リーグ記録。
- 20年連続シーズン100安打以上(1959年 - 1978年)※20年以上連続でシーズン100安打を記録しているのは王貞治と張本のみ。プロ野球とメジャーリーグを跨ればイチローも含まれる。入団1年目からに限れば、張本のみ。
- 20年連続シーズン2桁本塁打(1959年 - 1978年)※歴代4位タイ。
- 13年連続シーズン20本塁打以上(1961年 - 1973年)※歴代3位タイ。
- 16年連続シーズン2桁盗塁(1959年 - 1974年)
- 9打数連続安打(1974年5月23日 - 5月26日)
- 30試合連続安打(1976年5月13日 - 6月20日)
- 13打席連続出塁(1974年5月23日 - 5月26日)
- 1イニング2二塁打(1961年5月6日)※日本タイ記録。
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1959年4月10日、対阪急ブレーブス1回戦(駒澤野球場)、6番・左翼手で先発出場
- 初打席:同上、1回裏に米田哲也の前に三振
- 初安打・初打点:1959年4月11日、対阪急ブレーブス2回戦(駒澤野球場)、1回裏に秋本祐作から適時二塁打
- 初本塁打:同上、3回裏に石井茂雄から右越2ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1963年7月7日、対西鉄ライオンズ15回戦(後楽園球場)、1回裏に杉町攻から右越2ラン ※史上31人目
- 150本塁打:1965年8月8日、対西鉄ライオンズ15回戦(平和台球場)、4回表に池永正明から2ラン ※史上20人目
- 1000安打:1966年5月10日、対近鉄バファローズ2回戦(後楽園球場)、2回裏に佐々木宏一郎から ※史上57人目
- 1000試合出場:1966年8月26日、対南海ホークス19回戦(明治神宮野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上117人目
- 200本塁打:1967年5月31日、対近鉄バファローズ7回戦(日生球場)、2回表に徳久利明から中越ソロ ※史上11人目
- 250本塁打:1969年6月5日、対阪急ブレーブス8回戦(後楽園球場)、6回裏に佐々木誠吾から左越ソロ ※史上8人目
- 1500安打:1969年8月31日、対ロッテオリオンズ19回戦(東京スタジアム)、2回表に金田留広から三塁前バントヒット ※史上25人目
- 1500試合出場:1970年9月24日、対阪急ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、3番・左翼手で先発出場 ※史上35人目
- 300本塁打:1971年4月24日、対南海ホークス2回戦(後楽園球場)、1回裏に皆川睦雄から右越ソロ ※史上5人目
- 3000塁打:1971年5月12日、対南海ホークス5回戦(大阪スタヂアム)、6回表に三浦清弘から右越ソロ ※史上8人目
- 1000打点:1971年6月8日、対西鉄ライオンズ7回戦(平和台球場)、2回表に河原明から右前適時打 ※史上8人目
- 1000得点:1972年7月16日、対ロッテオリオンズ16回戦(東京スタジアム)、8回表に池田重喜から右越場外3ラン ※史上9人目
- 2000安打:1972年8月19日、対西鉄ライオンズ20回戦(平和台球場)、4回表に東尾修から左前安打 ※史上7人目(32歳2か月での到達は歴代2位の若さ、1733試合目での到達は歴代4位の速さ)
- 350本塁打:1972年9月8日、対ロッテオリオンズ24回戦(後楽園球場)、8回裏に成田文男から左中間へ2ラン ※史上5人目
- 3500塁打:1973年4月22日、対近鉄バファローズ1回戦(日生球場)、9回表に板東里視から右越ソロ ※史上7人目
- 300二塁打:1974年4月24日、対近鉄バファローズ前期2回戦(後楽園球場)、1回裏に太田幸司から右中間二塁打 ※史上12人目
- 2000試合出場:1974年8月29日、対太平洋クラブライオンズ後期8回戦(明治神宮野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上9人目
- 400本塁打:1975年4月20日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(川崎球場)、7回表に村田兆治から右越逆転決勝3ラン ※史上4人目
- 300盗塁:1975年4月27日、対阪急ブレーブス前期7回戦(阪急西宮球場)、6回表に二盗(投手:大石弥太郎、捕手:中沢伸二) ※史上15人目
- 4000塁打:1975年5月18日、対阪急ブレーブス前期9回戦(徳島県鳴門総合運動公園野球場)、8回裏に山田久志から左中間二塁打 ※史上5人目
- 2500安打:1976年6月10日、対阪神タイガース8回戦(後楽園球場)、5回裏に上田卓三から中前安打 ※史上2人目(2185試合目での達成は最速記録)
- 350二塁打:1976年7月6日、対広島東洋カープ15回戦(後楽園球場)、4回裏に池谷公二郎から右前二塁打 ※史上9人目
- 4500塁打:1977年5月29日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場)、4回表に谷村智啓から一塁前バントヒット ※史上3人目
- 450本塁打:1977年7月20日、対中日ドラゴンズ13回戦(後楽園球場)、2回裏に星野仙一から右越ソロ ※史上3人目
- 1500打点:1977年9月3日、対ヤクルトスワローズ23回戦(後楽園球場)、8回裏に佐藤博から右越ソロ ※史上4人目
- 2500試合出場:1978年9月28日、対広島東洋カープ26回戦(後楽園球場)、5番・左翼手で先発出場 ※史上3人目
- 400二塁打:1979年5月25日、対横浜大洋ホエールズ8回戦(横浜スタジアム)、8回表に佐藤政夫から左翼線二塁打 ※史上5人目
- 5000塁打:1980年4月30日、対西武ライオンズ前期6回戦(宮城球場)、1回裏に東尾修から右前安打 ※史上3人目
- 3000安打:1980年5月28日、対阪急ブレーブス前期11回戦(川崎球場)、6回裏に山口高志から右越2ラン ※史上初
- 1500得点:1980年9月5日、対阪急ブレーブス後期8回戦(阪急西宮球場)、5回表にレオン・リーの適時二塁打で生還 ※史上3人目
- 500本塁打:1980年9月28日、対近鉄バファローズ後期10回戦(川崎球場)、1回裏に偵察要員・安木祥二の代打で出場、久保康生から右越2ラン ※史上3人目
- その他の記録
- サイクルヒット:1961年5月7日、対近鉄バファロー7回戦(駒沢野球場) ※史上19人目
- 通算猛打賞:251回 ※日本記録(日米通算ではイチローが上回る)
- 通算1676打点 ※打点王を獲得していない選手の中では史上最多
- 通算1523得点 ※最多得点を記録していない選手の中では史上最多
- 通算打率3割・3000本安打以上・500本塁打・300盗塁 ※史上唯一(世界史上ではウィリー・メイズと張本の2人のみ)
- オールスターゲーム出場:18回(1960年 - 1964年、1966年 - 1978年) ※1965年にも選出されているが、前述のトラブルにより出場を辞退。
- 日本シリーズ通算打率:.370(73打数27安打)※70打数以上では歴代1位
背番号
- 10 (1959年 - 1981年)
関連情報
著書
- 『バット一筋:張本勲自伝』(講談社、1976年)
- 『張本勲の実戦打撃論』(スポーツニッポン出版、1982年1月)ISBN 4-79-031004-3
- 『暴れん坊の人間学:個性を伸ばすリーダーの器量』(実業之日本社、1982年9月)
- 『勇気をもってぶつかれ:生きる技術・闘う技術とは』(日本経営指導センター、1983年7月)
- 『闘魂のバット:3000本安打への道』(ベースボール・マガジン社、1991年7月)ISBN 4-58-3029276
- 『最強打撃力:バットマンは数字で人格が決まる』(ベースボール・マガジン社、2008年9月)
- 『イチロー論:一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』(青志社、2009年9月) ISBN 4-90-385370-5
- 『プロ野球への伝言:野球愛 野球の誇り ベースボールの奢り』(日之出出版、2009年12月)ISBN 978-4-89198-132-7 C0075
- 『ON論:リーダーの器量』(青志社、2010年)ISBN 4-90-385386-1
- 『張本勲 もう一つの人生:被爆者として、人として』(新日本出版社、2010年5月)
- 『原辰徳と落合博満の監督力』(青志社、2011年1月)
- 『斎藤佑樹 脳内力』(青志社、2011年3月)
- 『プロフェッショナル: 真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55』(日之出出版、2013年10月 ISBN 978-4-89198-142-6 C0034
関連書籍
- 『張本勲:不屈の闘魂』(大島幸夫著、スポーツニッポン新聞社出版局、1976年)
- 『鉄人バットマン:張本勲物語』(半田威生原作、林ひさお画、地産出版、1976年)
- 『ネバー・ギブアップ:負けてたまるか!張本勲物語』(許英万著、鈴木福男訳、みくに書房、1990年2月、ISBN 4943850308)
- 『張本勲』(永島直樹原作、中島昌利画、ぎょうせい(名球会comics)、1992年12月、ISBN 4324026483)
- 『誇り:人間張本勲』(山本徹美著、講談社、1995年5月、ISBN 4-06-206796-X)
新聞連載
- スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(2008年11月11日 - 11月28日)
- 読売新聞連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(2009年1月21日 - 2月24日)
- 中日新聞・東京新聞連載『この道』(2009年7月1日 - 8月29日)
出演番組
- サンデーモーニング(TBSテレビ) - 「週刊 御意見番」コメンテーター
- ザ・プロ野球(TBSテレビ…1982年 - 2006年) - 解説者
- オールスター感謝祭(TBSテレビ)
- TBSラジオ エキサイトベースボール(TBSラジオ…1982年 - 2006年) - 解説者
- 伊集院光 日曜日の秘密基地(TBSラジオ)
- わたしが子どもだったころ(NHK BShi…2008年9月3日、NHK総合テレビ…2008年10月6日)
- スタジオパークからこんにちは(NHK総合テレビ…2011年2月3日)
- 竜馬がゆく(テレビ東京…1982年1月2日) - 近藤勇役
出演映画
- 地獄の野良犬(1966年) - 特演
- 修羅の群れ(1984年) - 山村修道役
- ドリームスタジアム(1997年) - 本人役
- 極道・高山登久太郎の軌跡 鉄 KUROGANE(2004年)
その他
- 巨人の星 (1967年)、新巨人の星(1978年) - 本人役でマンガに登場。テレビ放送されたアニメ版にも登場している。
- ロッテ(韓国法人)オレンジジュース(1980年ごろ)
- オロナミンCドリンク
- サントリーモルツ(モルツ球団)
脚注
注釈
- ↑ 『プロ野球人名事典2003』に「本名・張勲」と表記。読みがな・ハングル表記については明記されず。
- ↑ 張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた(『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』より)。
- ↑ 幼い頃に父を亡くした張本に取っては兄は絶対的な存在であり、また浪商に転校する際にも、収入の半分の一万円を毎日もらうなど、経済的にも多大な援助を受けていた。
- ↑ Vシネマにもなった山本の自伝的著書『浪商のヤマモトじゃ!』(南風社、2002年)では、張本に関する数々のエピソードがフィクションも交えて紹介されている。
- ↑ 同年、王貞治も新人で開幕スタメン出場。NPBで18歳の高卒新人の開幕スタメンは以後1965年の飯田幸夫、1988年の立浪和義、2006年の炭谷銀仁朗、2011年の駿太、2013年の大谷翔平しかいない。高卒新人外野手としては駿太まで以後52年間出なかった。
- ↑ 「安打製造機」の異名は、張本以前には榎本喜八が取っており、1990年代以降ではイチローがそう呼ばれることがある。
- ↑ 1973年から1982年まで、パ・リーグでは前後期制を採用していた。
- ↑ 大沢は著書『球道無頼』(集英社、1996年)の中で、三原から張本が巨人に行きたがっていると聞かされて、チーム改革のために「迷わず、ふたつ返事でOKした」と記している(同書144頁)。
- ↑ 2009年にシアトル・マリナーズのイチローが日米通算3086安打を記録し、日本メディアは「日本記録更新」と報道したが、NPBでは日本記録と認められておらず、NPBの最高責任者である加藤良三プロ野球コミッショナーも張本の3085安打が日本記録だと明言している(『週刊現代』2009年5月9日号、講談社)。
- ↑ 2001年9月まで、ラジオ・テレビ兼営放送局であったが、10月にラジオを子会社として分離、2009年4月には持株会社化(東京放送ホールディングスへの社名変更)に伴いテレビも子会社として分離(TBSの略称もTBSテレビに継承)された。
- ↑ 水原茂監督曰く「点を取るゲームではなく点を取らせないゲームにしたいため、守備のうまい選手が必要だった」という。
- ↑ 原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では岩本義行も交付を受けている。
- ↑ 当時は年齢による衰えと思われていた。後に視野は回復した。
- ↑ 実際は読売ジャイアンツの原辰徳が監督に就任し、日本代表を連覇に導いている。
- ↑ ただし、力道山が生まれ育ったのはのちの朝鮮民主主義人民共和国である。
- ↑ 厳密には、所有権を持つ東急ベースボール倶楽部株式会社(東京急行電鉄の子会社)から運営権を受託された東映興業株式会社。
出典
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 西本雅実 (2011年1月4日). “人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~”. 中国新聞 (ヒロシマ平和メディアセンター). オリジナルの2015年10月29日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 張本 勲 - フォトヒストリー - NPB
- ↑ 3.0 3.1 『週刊 御意見番』コーナーのページ - TBS『サンデーモーニング』公式サイト内
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 “「戦後70年 あの夏」<8>熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). (2015年8月9日). オリジナルの2015年10月29日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 「シリーズ劇的人間 張本勲とその母 『中傷のヤジは許さない!』 復活ジャイアンツの目 被爆選手36年の汗と涙」『サンデー毎日』1976年6月20日号、毎日新聞出版、p114-121
- ↑ 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p90
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 “忘れられない味 第10回 張本勲『おふくろがつくる屑肉入り味噌汁と味噌汁とキムチ』”. こおらす. ニチレイ (2014年3月20日). . 2017閲覧.
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 8.11 8.12 8.13 8.14 8.15 「新・家の履歴書 張本勲」『週刊文春』2009年3月26日号、文藝春秋、p90-93
- ↑ 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 康煕奉『在日はなぜスポーツに強いのか』KKベストセラーズ、2001年、ISBN 4584120099 p16-31
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 歌代幸子「私と母(1) 張本勲」『新潮45』2009年1月号、新潮社、p148-154
- ↑ 11.0 11.1 『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』
- ↑ 澤宮優『プロ野球残侠伝―サムライ達のいる風景』パロル舎、2009年、p25-26
- ↑ 核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 毎日新聞、2008年8月2日、13頁。読売新聞、2007年8月4日、21頁。
- ↑ ヒバクシャ’14秋 千の証言によせて/6止 張本勲さん 「姉さんが帰ってきた」毎日新聞、2014年11月18日[1]
- ↑ 平川哲也 (2016年2月9日). “ヒバクシャ 16冬/1 張本勲さん(その2止) 忘れ得ぬ母の赤い手足 人は幸せへ切磋琢磨を”. 毎日新聞 (毎日新聞社) . 2017閲覧.
- ↑ 17.0 17.1 17.2 スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(3)、2008年11月13日
- ↑ 『クメピポ! 絶対あいたい1001人』、毎日放送、2009年7月15日
- ↑ 張本勲氏 壮絶半生語る!NHK・BSハイビジョン9・3放送 ― スポニチ (Internet Archive)
- ↑ 読売新聞連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(5)、2009年1月27日
- ↑ 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p105-106
- ↑ 22.0 22.1 22.2 スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(4)、2008年11月14日
- ↑ スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(5)、2008年11月15日
- ↑ 『男気万字固め』p97-98
- ↑ 25.0 25.1 スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(6)、2008年11月16日
- ↑ 自著「最強打撃力 バットマンは数字で人格が決まる」
- ↑ 27.0 27.1 大島裕史著 『韓国野球の源流』 新幹社、2006年、p154頁
- ↑ 28.0 28.1 “張本 勲|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2”. 2015年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2012閲覧.
- ↑ スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(9)、2008年11月19日
- ↑ 30.0 30.1 30.2 『イチロー論 一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』青志社、2009年
- ↑ 張本氏「寂しいよ。あんちゃん」昭和の侍が、また1人消えた…
- ↑ 32.0 32.1 「ワンちゃんは『静』ぼくは『動』来年のHO砲に期待してくれ 張本勲」『週刊朝日』1975年12月12日号、朝日新聞出版、p26-27
- ↑ 33.0 33.1 サンデー毎日、毎日新聞社、1975年12月14号、153頁
- ↑ 日本ハム70年史 上巻―東映フライヤーズ全史、2015年、ベースボールマガジン社、P19
- ↑ [2]
- ↑ 週刊ベースボール2009年6月8日号17頁
- ↑ 【あの時・長嶋巨人 最下位からV】(2)人脈駆使し逆転張本獲り(Internet Archive)
- ↑ ビッグトレードの当事者が語る「1975」 | 週刊ベースボール速報
- ↑ スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(14)、2008年11月24日
- ↑ 1940年=昭和15年
- ↑ 張本著、プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、日之出出版、2013年、P99
- ↑ 読売新聞1980年9月29日17面「張本また勲章500本塁打」読売新聞縮刷版1980年9月p1097
- ↑ 43.0 43.1 43.2 「オレは新選組"特注"局長だ」『週刊文春』1981年12月3日号、文藝春秋、p16-19
- ↑ 参考:
- 『プロ野球選手カラー名鑑2007』
- 『週刊ベースボール』プロ野球全選手写真名鑑(2009年版のみ解説者・評論家名鑑は未掲載)
- 『12球団全選手カラー百科名鑑』(2011年版まで)
- 『別冊宝島 プロ野球選手データ名鑑』(2010年版以降にテレビ・ラジオ解説者一覧を掲載)
- 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』
- ↑ 『12球団全選手カラー百科名鑑2012』(2012年、廣済堂出版)ISBN 4331801934
- ↑ 東京スポーツ、2009年1月14日、3頁
- ↑ 47.0 47.1 記 念 講 演 誇り~胸を張って歩んだ道のり~
- ↑ 48.0 48.1 48.2 下田武三『プロ野球回顧録』ベースボール・マガジン社、1988年、p121-124、165-168
- ↑ スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(18)、2008年11月28日
- ↑ 50.0 50.1 張本氏祝賀会でONと豪華3ショット - スポニチ Sponichi Annex(Internet Archive)
- ↑ 無窮花章受勲張勲氏を祝う 都内のホテルで - mindan
- ↑ 52.0 52.1 スポーツニッポン、2009年3月25日、5頁
- ↑ もう一人の天才、張本勲 時事ドットコム
- ↑ 『20世紀のプロ野球名選手100人』日本スポーツ出版社、2000年、102頁
- ↑ 55.0 55.1 55.2 高橋安幸『伝説のプロ野球選手に会いに行く2』白夜書房、2009年、P106 - 107
- ↑ 56.0 56.1 ムネリン “バントの師”張本氏と対談「米国に骨埋めるなんて…」
- ↑ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝」文藝春秋社
- ↑ 58.0 58.1 58.2 週刊文春2018年6月28日号『阿川佐和子のこの人に会いたい』第1216回、プロ野球解説者、江本孟紀、134-138頁
- ↑ 59.0 59.1 http://baseballstats2011.jp/archives/36039976.html
- ↑ 朝日新聞2013年10月7日夕刊『人生の贈りもの―張本勲』
- ↑ ヒバクシャ’14秋 千の証言によせて/6止 張本勲さん 「姉さんが帰ってきた」毎日新聞、2014年11月18日[3]
- ↑ 貧乏と差別の少年時代 張本勲「喝!」の背景 ダイヤモンド・オンライン 2015年5月25日配信
- ↑ 63.0 63.1 『男気万字固め』p96-97
- ↑ 64.0 64.1 64.2 『男気万字固め』p92
- ↑ 『闘技場の人』佐山一郎、河出書房新社、1992年12月、205頁
- ↑ スポーツニッポン、村田兆治の我が道、2017年7月16日
- ↑ 週刊アサヒ芸能 2012年9月6日号、76頁
- ↑ 張本氏、東尾氏が現役時代裏話 バットでノムさん叩いた!? - スポニチ
- ↑ 野村克也『プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”』 (2012/02 角川書店)
- ↑ 実力のパ? 野球入魂 - Digital PENTA
- ↑ 『S☆1』、TBS、2014年5月19日放送
- ↑ プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、P99
- ↑ プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、P180-P182
- ↑ 74.0 74.1 日本プロ野球事件史―1934-2013、2013年、ベースボール・マガジン社、P86
- ↑ 75.0 75.1 75.2 75.3 75.4 75.5 75.6 東京スポーツ・2008年1月17日付 3面「加藤初・鉄仮面の告白」第7回
- ↑ 76.0 76.1 76.2 「ジャイアンツ"張本暴行事件"にみる現代版"藪の中"」『週刊朝日』1975年5月7日号、朝日新聞出版、p22-23
- ↑ スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(15)、2008年11月25日
- ↑ 『男気万字固め』p120-121
- ↑ 79.0 79.1 読売新聞連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(16)、2009年2月12日
- ↑ 『別冊宝島 珠玉の好敵手』
- ↑ 『大杉勝男のバット人生』
- ↑ 1996年放送『知ってるつもり!?』の番組内より
- ↑ 「編集長が行く vol.4 大豊追悼編」、『月刊ドラゴンズ』第383号、中日新聞社、愛知県名古屋市中区三の丸一丁目6番1号、2015年2月21日、 32-33頁、 ISSN 4910135810350、. 2015閲覧.
- ↑ 東京スポーツ・2009年1月14日付 3面「大豊泰昭・八転び七起き」第37回
- ↑ 85.0 85.1 在日二世の記憶 001 張本勲集英社新書
- ↑ 86.0 86.1 86.2 スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(13)、2008年11月23日
- ↑ 『力道山がいた』、朝日新聞社、村松友視、2000年3月、306-308頁
- ↑ 88.0 88.1 『男気万字固め』p112-113
- ↑ 89.0 89.1 「張本勲がゆく番外篇 聞きにくいことばかり聞いてみた 長嶋茂雄の『わが胸中』 人生はトータル。一年二年がなんだ!」『週刊文春』1982年2月11日号、文藝春秋、p136-139
- ↑ 船戸与一対談集「諸士乱想」p16
- ↑ “張本勲氏、日大悪質タックルに「大和民族がやることじゃない。男らしくない」”. . 2018年5月20日閲覧.
- ↑ 御意見番の舌戦!野村克也VS張本勲 プロ野球「猛毒トーク」バチバチ対決
- ↑ “ノムさん、巨人・阿部の走塁に「張本になっちゃったな」”. BASEBALL KING (2017年4月17日). . 2017閲覧.
- ↑ 張本氏と衝突? 江川紹子氏が出演見合わせ TBS「サンデーモーニング」 産経新聞2010年6月18日(リンク先は、インターネットアーカイブ2010年6月21日付保存キャッシュ)
- ↑ デイリースポーツ2010年8月2日
- ↑ 張本vs江川「サンデーモーニング降板騒動」 - 『東スポWEB』2010年5月19日付(『東京スポーツ』2010年5月20日付)
- ↑ 97.0 97.1 張本氏がカズに「もうお辞めなさい」発言 ネットで炎上 - サンケイスポーツ 2015年4月12日付
- ↑ 張本氏がカズに“引退勧告” ネットで批判が続出 - 『日刊スポーツ』2015年4月12日付
- ↑ カズ 張本氏の勧告に「光栄です」『デイリースポーツ』2015年4月14日付
- ↑ カズ、張本氏との食事「ぜひ」『デイリースポーツ』2015年4月19日付
- ↑ 張本勲氏が番組で安倍晋三首相を称賛するも関口宏はコメントせずlivedoor news 2016年5月29日
- ↑ ワック・マガジンズ
- ↑ 2017年10月25日のツイート
- ↑ 張本氏 卓球・水谷に喝「あんなガッツポーズはダメ」デイリースポーツ 8月14日
- ↑ 水谷隼、張本氏の喝に「戦場なので」 ガッツポーズに理解求めるデイリースポーツ 8月16日
- ↑ 張本氏、箱根連続出場途切れた中大に“喝”「話になりません」スポーツ報知 10月16日
- ↑ 張本氏「内紛あるらしい」発言に中大陸上部部長が訂正と謝罪求めるスポーツ報知 10月16日
- ↑ 張本氏の“内紛発言”が波紋 箱根出場途切れた中大関係者が反論サンスポ 10月16日
- ↑ サンデーモーニング、張本氏発言を謝罪スポーツ報知 10月20日
- ↑ フットボールゾーン 2017.06.01 伊メディアもACL浦和戦の乱闘騒ぎ糾弾 「アンチ・スポーツ的な韓国チームの振る舞い」[3]
- ↑ フットボールゾーン 2017.06.03 済州の蛮行、仏メディアも特記事項として批判 「言い訳の余地もない無様なものだった」 [4]
- ↑ フットボールゾーン 2017.06.01「正気を失った」 ACL浦和戦で韓国クラブが晒した醜態、英メディアが一刀両断 [5]
- ↑ ザ・ワールド 2017年06月07日 張本氏の“浦和批判”を韓国メディアが紹介! 「日本の球界レジェンドもTV番組で厳しく叱りつけた」[6]
- ↑ フットボールゾーン 2017.06.07 ACLでの浦和と済州の乱闘騒動に、元プロ野球選手の張本氏が“喝”[7]
- ↑ 産経新聞 2017/6/4 サンデーモーニングで張本勲氏「(浦和の)態度が良くない」 両チームに「喝」出すも、済州選手の暴行には触れず…ネットで議論沸騰[4]
- ↑ 116.0 116.1 「必殺の白刃はバットに通ず 張本の扇流剣法」『サンデー毎日』1981年12月6日号、毎日新聞出版、p193-195
- ↑ 張本勲氏 東映つながりで親交 「広島弁指導させてもらった」
参考資料
- プロ野球人名事典2003(2003年4月25日、日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売。編著者:森岡浩。コード:ISBN 4816917713)
- 別冊宝島(宝島社発行)
- 別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本(2006年7月発売・9月1日発行、宝島社。ISBN 4796653953)
- 別冊宝島 プロ野球選手データ名鑑(各年度版)
- 週刊ベースボール プロ野球全選手写真名鑑(各年度版。ベースボール・マガジン社発行)
- プロ野球選手カラー名鑑2007(2007年4月6日、日刊スポーツ出版社発行)ISBN 9784817253262
- 12球団全選手カラー百科名鑑(各年度版。日本スポーツ出版社→廣済堂出版発行)
- 2011プロ野球オール写真選手名鑑(Slugger特別編集。日本スポーツ企画出版社発行。ISBN 9784930942982)
関連項目
外部リンク
- 野球殿堂 張本勲 - 公益財団法人野球殿堂博物館