東映
東映株式会社(とうえい)は、日本の映画の製作、配給、興行会社。2013年現在、直営の映画館2館、2つの撮影所(東映東京撮影所と東映京都撮影所)を保有。テレビ朝日ホールディングスの大株主で、同時にテレビ朝日ホールディングスが東映の筆頭株主になっている[1]。
Contents
概要
劇場用映画の制作、配給、興行を行うほか、洋画の買い付けと配給、テレビ番組の制作、広報映画の制作や教育映画の制作販売を行う総合映像企業。子会社を通じ劇場用アニメーション、テレビ用アニメーションほか各種アニメーションの制作、テレビコマーシャルなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売も行う。また、現像所も持っている。
同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた事業多角化は古くから行い、かつてはプロ野球やボウリング、交通事業等を手掛け、現在もホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている。また京都撮影所の一部をテーマパーク化した「東映太秦映画村」なる観光事業も行っている。
沿革
東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映畫(1947年10月15日設立)と、1938年(昭和13年)東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京の渋谷や横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年(昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三が東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った[2]。東横映画には、マキノ光雄と根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる。上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。
1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵・市川右太衛門・月形龍之介・大友柳太朗らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助・東千代之介がデビュー。その後大川橋蔵や市川の息子・北大路欣也が子役で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた。しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉[3][4]。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963〜64年にかけて、東映京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男・松田定次・佐々木康などの時代劇の監督も東映を退社して行った。
現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、中原ひとみ・高倉健・水木襄・佐久間良子・梅宮辰夫・千葉真一ら主演スターを東映ニューフェイスから輩出。1957年(昭和32年)には東映東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画を移転させた。1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける。観客動員No.1となった東映は1960年(昭和35年)に第二東映を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した。同年に第二東映が新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の新東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫[5]。翌1961年に第二東映はニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した。
1963年(昭和38年)からは時代劇に代わって、明治期から昭和初期を舞台にし勧善懲悪の世界の時代劇の変種でもある仁侠映画を[6]、両撮影所で量産し、1965年(昭和40年)から鶴田浩二・高倉健・藤純子らを擁し約10年続く。1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画が実録ものに切り替わる。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[7][8][9][10]。プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した[11][12]。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。
この間、1954年(昭和29年)にはプロ野球の東急フライヤーズの運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)とした。また、1959年(昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、1964年(昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。
1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却。その一方で、シティホテルや不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発など新規事業を開拓して事業の再構築を行った。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザ映画で観客動員を保つ一方で、1971年(昭和46年)二代目社長に就任した岡田茂は、テレビに取り込まれない客層を狙い実録ヤクザものやエログロものを量産して興行収入で他社を圧倒した。 渡邊亮徳がテレビ事業部の責任者になってからは、多くのテレビ作品・アニメや仮面ライダー・戦隊シリーズ等の作品制作と同時にメディアミックスを盛んに展開することで、斜陽となった映画部門を支えて行く。 1972年に洋画配給部門を新設し、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[13]、1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[14]。東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して[15]、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。
1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[16][17][18]。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生』[19] を手始めに、角川映画を数多く配給し始める。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った[20]。
東宝は1943年の東宝争議の終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた[21]。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた[21]。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる[21]。
1960年代から始めていた東映まんがまつりは子供向け映画として定期興行をしていたが、1996年(平成8年)からは凋落していった[22]。洋画配給についても1987年の『七福星』をもって中止となった[14]。1980年代は角川映画のおかげで東宝と互角の勝負が出来ていたが、1990年代に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『公園通りの猫たち』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れたことなどにより、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった[23]。
1989年(平成元年)からは東映Vシネマというオリジナルビデオをリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている。
2011年9月の『アジョシ』から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を再開した[14][24]。
社風
東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[25][26][27][28]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[29]。
スター・システムと撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[30]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[30][31][32]。時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画とアウトローによる暴力路線、アクション映画、エログロなど犯罪・暴力をモチーフを中心としたことから「不良性感度」と標榜された[33]。しかし「不良性感度」に限定された路線は女優の受け皿を狭めることとなり、関根恵子は東映に誘われても断っている[34]。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり[35]、対照的に女性客は離れていく[36]。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた[37]。
正社員の採用において学歴や縁故を大変重視しており、中島貞夫の著書によると日芸、早大、東大、慶大、京都撮影所枠で京大、同志社以外の学生は採用に至ることは縁故以外ではなかったという。しかしながら、近年、この傾向は弱くなりつつあり、上記の大学卒以外や専門学校卒からの採用も多くなってきている。また、東京撮影所こそ、佐藤純彌、伊藤俊也、降旗康男(東大)、野田幸男(京大)、内藤誠、鷹森立一(早大)、と、上記の指定校出身監督の活躍が目立つものの(ただし最後の生え抜きエースともいえる澤井信一郎は東京外大卒である)、京都撮影所の主力としては当の中島と山下耕作(京大)、工藤栄一(慶大)ぐらいであり、立命館大学中退の鈴木則文、同志社大学中退の沢島忠、工業高校卒の関本郁夫が彼らに伍してエース級となっている。このように大卒でない採用社員を監督として活躍させた例は、戦後の大手他社ではほとんど見られない。東映採用ではないが新東宝から移籍した石井輝男(早稲田実業学校中退)は東西の撮影所で大活躍した。また、日芸出身者は文芸学科卒の深作欣二、法文学部芸術学科時代の小沢茂弘が突出しているだけで、映画学科卒は倉田準二(京都)ぐらいしか目立たない。特に監督昇進後の活躍度に基準を置くと、東映はむしろ学閥や学歴主義を排した社風となっている。2010年代でも高卒の京都撮影所長(岡田茂はこの地位を離れてわずか3年後に社長就任し、その後任の高岩淡社長も輩出した重職である)が就任した。
俳優の専属制度も大手では最も維持された。千葉真一、松方弘樹、梅宮辰夫ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから渥美清、ハナ肇、ザ・ドリフターズ、石坂浩二ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。
大川親子、岡田親子ともに最初はサラリーマン的立場であった経営者が実質上のオーナーに近い立場で居座り事実上乗っ取り経営(大川家は最終的には社長の世襲までは至っていない)が続いており、背任罪すれすれで強烈な指揮権によってもっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている。これは、実質的親会社となる東映不動産の実権を握る事により乗っ取っていこうとする体質が、大川親子・岡田親子へと未だに引き継がれ私物化され続けている、ある意味非常に稀有な企業である。
おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり、早々に自社製作を事実上中止した東宝とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。
オープニング
東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった[38]。現在使われているものは4代目になり、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。
第二東映やニュー東映のオープニングは活火山の噴火口をズームアップし、三角形のロゴマークが飛びだすシーンで、海と山を対極にしたものとなっている。
基本的に同時代に公開された作品は、全て共通のオープニングの映像が用いられている。例えば、深作欣二の『火宅の人』で作品内容に沿うように木村大作が日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとしたところ、岡田茂社長から「会社の顔を変えるとは何事だ」と一喝されて、却下された[39]。例外として、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、当時スタンダード・サイズのオープニングが紛失していたため、銚子の灯台で撮り直されている[40]。
1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄され、アニメ・ゲームやバラエティでしばしばパロディにされる事もある。
テレビ
歴史
映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品である。
映画会社の中では東映がテレビに最も積極的であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の設立にあたっては資本参加をし、1958年(昭和33年)5月にテレビ課を設けた。さらに1958年(昭和33年)7月に東映テレビ・プロダクションを設立して、東京撮影所と京都撮影所でテレビ映画の制作を開始した。1959年(昭和34年)2月から放送開始の『風小僧』がその第1弾である。初期においては制作したテレビ映画は放送の3ヶ月後に劇場向けの添え物として再編集し、東映特別娯楽版として配給も行う再利用も行っていた。そして1961年(昭和36年)にNETとテレビ映画制作の業務提携を結び、1969年(昭和44年)には年に35シリーズ、826本を制作した。[41][42]
株式会社東映テレビ・プロダクションは、放送したテレビ映画を劇場向けに配給するために1959年(昭和34年)2月に東映テレビ映画株式会社と商号を変更し、さらに5月に第二東映株式会社となったため、1959年(昭和34年)11月に新たにテレビ映画制作業務を行う法人としてかつての社名と同名の株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[43]。1964年には、東映京都撮影所の敷地内に東映京都テレビ・プロダクションが発足[44]。
東西の東映テレビ・プロは、NETが50%資本参加したために原則として筆頭株主であるNET専門の制作であった[45]。東映本体も、1960年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていた(実際には東映の方が大株主)と、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後年、雑誌『宇宙船』で回顧している。逆にNETの側は基本的に外注は東映が独占するという取り決めがあった[46]。NET以外の他局には、東映東京撮影所内に新たに設けられた東映東京制作所と、京都では京都撮影所とは別機構として設けられた東映京都制作所の両制作所が制作を請け負うことになった。京都制作所は後に東映太秦映像と改称された[47]。
東映京都テレビ・プロは時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を、東映太秦映像は別会社の制作下請けを、東映東京制作所(大泉および生田スタジオ)は主に特撮キャラクターもの等子供向けの作品を、東映テレビプロ(大泉)は主に刑事ドラマ等大人向けの作品を、それぞれ鎬を削りながら量産を続けた。劇場映画においても早くから、時代劇をはじめ、『警視庁物語シリーズ』、『少年探偵団シリーズ』など、のちテレビで主流になるような娯楽分野で多くのノウハウを積んでいたことも大きな強みとなった。ライバルの東宝のサラリーマン物や喜劇、特撮物、松竹のホームドラマやメロドラマが、そのままテレビにスムーズに活用できているわけでない点と比較しても、同社のテレビ展開の速度は群を抜いていた。
テレビ参入当初からテレビ時代劇は、1959年(昭和34年)のNETの開局からレギュラー枠として制作が続けられて一時は大きな柱だったが、時代劇の減少に伴い、東映京都撮影所の本編スタッフが時代劇も手がけるようになり、1988年(昭和63年)の『名奉行 遠山の金さん』の第1シリーズが終了した時点で時代劇を主としてきた京都の東映京都テレビ・プロは解散[48]。さらに2007年(平成19年)9月をもってテレビ朝日の東映制作のレギュラー時代劇は消滅している[49]。
1964年(昭和39年)から映画館で上映されていたプログラム「東映まんがまつり」では子供向けのアニメや特撮などのテレビ作品はテレビからのエピソードがそのまま上映されていたが、1980年代頃からは新作が増えてテレビの再利用はなくなっていった。
放送枠
ここでは実写番組のみを記載し、アニメ枠は除く。
- レギュラー枠
- 現行放送枠
- テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ
- テレビ朝日日曜時代劇→テレビ朝日木曜時代劇→木曜ミステリー
- スーパーヒーロータイム
- スーパー戦隊シリーズ(日曜9:30枠)
- メタルヒーローシリーズ→平成仮面ライダーシリーズ(日曜9:00枠)
- かつての放送枠
- テレビ朝日土曜時代劇→木曜19時枠時代劇→月曜時代劇→火曜時代劇(2007年9月で廃枠、以後年6回の特番として時代劇を放送)
- 昭和仮面ライダーシリーズ(毎日放送時代)※アマゾンまで
- 東映不思議コメディーシリーズ(1981年10月〜1993年10月)
- 朝日放送・テレビ朝日金曜9時枠の連続ドラマ(1975年4月〜1976年9月のみ)
- フジテレビ木曜夜10時枠時代劇(1984年4〜9月)
- 現行放送枠
- 準レギュラー枠
- 現行放送枠
- かつての放送枠
- 月曜ワイド劇場→火曜スーパーワイド→火曜ミステリー劇場(現在は廃枠)
- 火曜サスペンス劇場→DRAMA COMPLEX→火曜ドラマゴールド(現在は廃枠)
- 月曜ドラマランド(現在は廃枠)
- 時代劇スペシャル(現在は廃枠)
- フジテレビ水曜夜8時枠時代劇→火曜時代劇(現在は廃枠)
- 世にも奇妙な物語(現在は撤退)
- ライオン奥様劇場(現在は廃枠)
- 妻たちの劇場(現在は廃枠)
- 関西テレビ火曜夜10時枠時代劇→関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜7時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜8時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日火曜夜8時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日火曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日水曜夜9時枠時代劇(現在は廃枠)
- 木曜ドラマ(現在は撤退)
- テレビ朝日木曜夜10時枠(現在は廃枠)
- テレビ朝日金曜夜7時30分枠(1974年10月〜1981年9月など(現在は撤退))
- テレビ朝日土曜夜8時枠(現在は撤退)
- タケダアワー(現在は廃枠)
- ブラザー劇場(現在は廃枠)
- TBS系列土曜夜9時枠(現在は撤退)
- 毎日放送制作金曜夜7時枠(現在は撤退)
- 毎日放送制作土曜夜10時枠(現在は廃枠)
- テレビ東京系列月曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ東京金曜夜8時枠時代劇(現在は廃枠)
- 日本テレビ日曜夜9時枠時代劇(現在は廃枠)
興行成績
1999年以前
1999年までは、映画の興行成績は配給収入で発表されていた。
年度 | 年間配給収入 | 前年対比 | 配給収入トップ番組 | 出典 | |
---|---|---|---|---|---|
映画タイトル | 配給収入 | ||||
1975 | 86億6082万円 | 104.0% | トラック野郎・御意見無用 | 4.2億円 | [50][51] |
1976 | 91億6405万円 | 105.8% | トラック野郎・爆走一番星 | 7.8億円 | [52][53] |
1977 | 80億4190万円 | 87.8% | 人間の証明 | 22.5億円 | [54][55] |
1978 | 84億7860万円 | 105.4% | さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち | 21.0億円 | [56][57][† 1] |
1979 | 80億0250万円 | 94.7% | 銀河鉄道999 | 16.5億円 | [58] |
1980 | 77億9284万円 | 97.1% | 二百三高地 | 18.0億円 | [59][60] |
1981 | 71億8707万円 | 92.3% | さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅 | 11.5億円 | [61][62] |
1982 | 110億0954万円 | 153.2% | セーラー服と機関銃/燃える勇者 | 23.0億円 | [63][64] |
1983 | 127億1428万円 | 115.5% | 探偵物語/時をかける少女 | 28.0億円 | [65][66] |
1984 | 132億7359万円 | 104.4% | 里見八犬伝 | 23.2億円 | [67][68] |
1985 | 99億5733万円 | 75.0% | Wの悲劇/天国にいちばん近い島 | 15.5億円 | [69][70] |
1986 | 108億2512万円 | 108.7% | 野蛮人のように/ビー・バップ・ハイスクール | 14.5億円 | [71][72] |
1987 | 90億7607万円 | 83.8% | ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲 | 10.1億円 | [73][74] |
1988 | 90億7800万円 | 100.0% | あぶない刑事 | 15.0億円 | [75][76] |
1989 | 99億7941万円 | 109.9% | 魔女の宅急便 | 21.5億円 | [77][78] |
1990 | 109億9106万円 | 110.1% | 天と地と | 50.5億円 | [79][80] |
1991 | 85億3432万円 | 77.6% | '91夏東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ とびっきりの最強対最強』ほか) | 14.0億円 | [81][82] |
1992 | 65億9035万円 | 77.2% | '92春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち』ほか) | 16.0億円 | [83][84] |
1993 | 63億8512万円 | 96.9% | '93春東映アニメフェア 鳥山明 THE WORLD 2(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!!熱戦・烈戦・超激戦』ほか) | 13.7億円 | [85][86] |
1994 | 70億2628万円 | 110.0% | '94春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 危険なふたり!超戦士はねむれない』ほか) | 14.5億円 | [87][88] |
1995 | 64億0496万円 | 91.2% | '95春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ』ほか) | 12.7億円 | [89][90] |
1996 | 47億4639万円 | 74.1% | 劇場版美少女戦士セーラームーンSuperS
'96春東映アニメフェア(『ドラゴンボール 最強への道』ほか) '96夏東映アニメフェア(『(超)劇場版!地獄先生ぬ〜べ〜』ほか) |
6.0億円 | [91] |
1997 | 80億1184万円 | 168.9% | 失楽園 | 23.0億円 | [92][93] |
1998 | 56億7181万円 | 70.8% | 不夜城
|
11.0億円 | [94][95] |
1999 | 52億6345万円 | 92.8% | 鉄道員(ぽっぽや) | 20.5億円 | [96][97] |
2000年以降
2000年からは、映画の興行成績は興行収入で発表されている。
主要映画
- 参照: [[東映の映画作品の一覧]]
主要テレビ作品
1950年代
1960年代
- アラーの使者(1960年)
- 白馬童子(1960年)
- ナショナルキッド(1960年 - 1961年)
- 特別機動捜査隊(1961年 - 1977年)
- 鉄道公安36号(1963年 - 1967年)
- くらやみ五段(1965年 - 1966年)
- スパイキャッチャーJ3(1965年 - 1966年)
- 素浪人 月影兵庫-素浪人シリーズ(1965年 - 1968年)
- 銭形平次 (大川橋蔵)(1966年 - 1984年)
- 俺は用心棒-用心棒シリーズ(1967年 - 1969年)
- 忍者ハットリくん(1966年)
- 悪魔くん(1966年 - 1967年)
- 丸出だめ夫(1966年 - 1967年)
- 仮面の忍者 赤影(1967年 - 1968年)
- ジャイアントロボ(1967年 - 1968年)
- 白い巨塔 (1967年のテレビドラマ)
- キャプテンウルトラ(1967年)
- 大奥(1968年)
- キイハンター(1968年 - 1973年)
- 柔道一直線(1969年 - 1971年)
- プレイガール(1969年 - 1974年)
1970年代
- 遠山の金さんシリーズ(テレビ朝日木曜時代劇、1970年 - 1979年)
- 仮面ライダーシリーズ(1971年 - )
- 超人バロム1(1972年)
- 人造人間キカイダー(1972年 - 1973年)
- 刑事くんシリーズ(1972年 - 1973年)
- キカイダー01(1973年 - 1974年)
- イナズマン(1973年 - 1974年)
- 非情のライセンスシリーズ(1973年 - 1980年)
- ザ・ボディガード(1974年)
- がんばれ!!ロボコン(1974年 - 1977年)
- ザ★ゴリラ7(1975年)
- 燃える捜査網(1975年 - 1976年)
- 影同心(1975年 - 1976年)
- スーパー戦隊シリーズ(1975年 - 1977年、1979年 - )
- Gメン'75 (1975年 - 1982年)
- 大非常線 (1976年)
- ザ・カゲスター(1976年)
- 長浜ロマンロボシリーズ(1976年 - 1979年、アニメーション制作:創映社→日本サンライズ[134])
- 桃太郎侍(1976年 - 1981年)
- 氷河戦士ガイスラッガー(1977年、アニメーション制作:東京ムービー、オカスタジオ)
- とびだせ!マシーン飛竜(1977年 - 1978年、アニメーション制作:タツノコプロ)
- 激走!ルーベンカイザー(1977年 - 1978年、アニメーション制作:和光プロ)
- 特捜最前線(1977年 - 1987年)
- 柳生一族の陰謀(1978年 - 1979年)
- 魔女っ子チックル(1978年 - 1979年)
- スパイダーマン(1978年 - 1979年)
- レッドビッキーズシリーズ(1978年 - 1982年)
- 暴れん坊将軍(1978年 - 2004年)
- サイボーグ009(1979年 - 1980年、アニメーション制作:日本サンライズ)
- 探偵物語(1979年 - 1980年)
1980年代
- 影の軍団シリーズ
- 柳生あばれ旅シリーズ
- 大激闘マッドポリス'80(1980年)
- 特命刑事(1980年)
- 東映不思議コメディーシリーズ(1981年 - 1993年)
- 土曜ワイド劇場 西村京太郎トラベルミステリー(1981年 - )
- メタルヒーローシリーズ(1982年 - 1999年)
- スケバン刑事シリーズ(1985年 - 1987年)
- 少女コマンドーIZUMI(1987年 - 1988年)
- フジテレビ・浜木綿子おふくろシリーズ(1985年 - 2003年)
- 火曜サスペンス劇場 弁護士・高林鮎子(1986年 - 2005年)
- 火曜サスペンス劇場 監察医・室生亜季子(1986年 - 2007年)
- 三匹が斬る!シリーズ(1987年 - 1995年)
- 花のあすか組!(1988年)
- はぐれ刑事純情派シリーズ(1988年 - 2005年)
- さすらい刑事旅情編シリーズ(1988年 - 1995年)
- 名奉行 遠山の金さんシリーズ(1988年 - 1996年)
1990年代
- 銭形平次 (北大路欣也)
- しゃぼん玉
- 世にも奇妙な物語
- 土曜ワイド劇場・探偵事務所シリーズ
- 風の刑事・東京発!
- 超光戦士シャンゼリオン
- 味いちもんめ
- はみだし刑事情熱系
- 隠密奉行朝比奈
- 京都迷宮案内シリーズ
- 燃えろ!!ロボコン
- 科捜研の女シリーズ
2000年代
2010年代
- 853〜刑事・加茂伸之介
- フェイク 京都美術事件絵巻
- ホンボシ〜心理特捜事件簿〜
- 遺留捜査
- 非公認戦隊アキバレンジャーシリーズ
- answer〜警視庁検証捜査官
- 警部補・杉山真太郎〜吉祥寺署事件ファイル
- スペシャリスト (テレビドラマ)
海外作品
- 東星電影(台湾)との合作
- 閃電騎士大戦地獄軍団
- 閃電騎士V3
- 閃電五騎士
- サバン(アメリカ合衆国)との合作
- Masked Rider(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
- パワーレンジャーシリーズ(サバン・ブランドとの共同制作。以前はサバン・エンターテイメント(1993年 - 2001年)、ウォルト・ディズニー・カンパニー(2002年 - 2009年)との共同制作)
- バーチャル戦士トゥルーパーズ(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
- Big Bad Beetlebogs(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
主な俳優(男性)
時代劇
- 大友柳太朗
- 市川右太衛門
- 片岡千恵蔵
- 東千代之介
- 近衛十四郎
- 月形龍之介
- 加賀邦男
- 西村晃
- 鶴田浩二
- 大川橋蔵
- 若山富三郎
- 高倉健
- 中村錦之助
- 菅原文太
- 片岡栄二郎
- 里見浩太郎
- 大河内傳次郎
- 津島進
- 志村喬
- 柳永二郎
- 岡田英次
- 進藤英太郎
- 黒川弥太郎
- 坂東好太郎
- 古石孝明
- 大里健太郎
- 河原崎長一郎
- 山城新伍
- 松方弘樹
- 北大路欣也
- 有川正治
- 伏見扇太郎
現代劇
- 三國連太郎
- 梅宮辰夫
- 千葉真一
- 南原宏治(南原伸二)
- 谷隼人
- 南廣
- 宇佐美淳
- 高木二朗
- 船山汎(船山裕二)
- 三原浩
- 舟橋元
- 沼田曜一
- 波島進
- 水木襄
- 小川守
- 水原一郎
- 小野透
- 江原真二郎
- 曽根晴美
- 堀田眞三
- 倉田保昭
- 石橋雅史
- 矢吹二朗(千葉治郎)
- 真田広之
- 仲村トオル
- 清水宏次朗
- 鶴賀二郎
任侠
- 佐分利信
- 池部良
- 鶴田浩二
- 若山富三郎
- 高倉健
- 小池朝雄
- 田中邦衛
- 菅原文太
- 北島三郎
- 河津清三郎
- 水島道太郎
- 大木実
- 安部徹
- 由利徹
- 天津敏
- 山本麟一
- 汐路章
- 潮健児
- 村田英雄
- 渡辺文雄
- 待田京介
- 林彰太郎
- 藤山浩二(藤山浩一)
実録
- 高倉健
- 小池朝雄
- 田中邦衛
- 菅原文太
- 安藤昇
- 小林旭
- 渡瀬恒彦
- 金子信雄
- 名和宏
- 高宮敬二
- 室田日出男
- 内田朝雄
- 八名信夫
- 三上真一郎
- 野口貴史
- 志賀勝
- 岩尾正隆
- 大前均
- 西田良
- 小林稔侍
- 福本清三
- 川谷拓三
- 伊吹吾郎
- 北斗学
- 司裕介
- 桜木健一
- 片桐竜次
- 成瀬正孝
特撮
主な俳優(女性)
- 美空ひばり
- 丘さとみ
- 長谷川裕見子
- 入江若葉
- 木暮実千代
- 桜町弘子
- 高千穂ひづる
- 花柳小菊
- 千原しのぶ
- 瑳峨三智子
- 阿井美千子(阿井三千子、百ちとせ)
- 宇治みさ子
- 久保菜穂子
- 三条美紀(三條美紀)
- 風見章子
- 大川恵子
- 田代百合子
- 雪代敬子
- 中原ひとみ
- 青山京子
- 花園ひろみ
- 浦里はる美
- 故里やよい
- 月丘千秋
- 植木千恵
- 中村雅子
- 円山栄子
- 春丘典子
- 光岡早苗
- 高島淳子
- 小林裕子
- 中里阿津子
- 小宮光江
- 三原有美子
- 御影京子
- 佐久間良子
- 星美智子
- 新井茂子
- 岡田敏子
- 園ゆき子
- 三田佳子
- 藤田佳子
- 山東昭子
- 三島ゆり子
- 喜多川千鶴
- 二階堂有希子
- 三原葉子
- 木村俊恵
- 宮園純子
- 大原麗子
- 藤純子
- 小川知子
- 浜木綿子
- 中原早苗
- 渚まゆみ
- 野川由美子
- 工藤明子
- 藤浩子(藤宏子)
- 中村英子
- 梶芽衣子
- 池玲子
- 杉本美樹
- 橘真紀
- 小泉洋子(沢野火子)
- 山内えみ子(山内恵美子、山内絵美子)
- 松平純子
- 多岐川裕美
- 堀越陽子(堀越光恵)
- 中島ゆたか
- 志穂美悦子
- 松田英子
- 若原瞳
主なプロデューサー
映画
テレビ
チームで活動し、一人の業績に出来ない場合は「八手三郎」。
主な監督
- 内田吐夢
- 竹本弘一
- 渡辺邦男
- 松田定次
- 今井正
- 佐々木康
- マキノ雅弘
- 佐伯清
- 萩原遼
- 内出好吉
- 河野寿一
- 深田金之助
- 小沢茂弘
- 加藤泰
- 石井輝男
- 山下耕作
- 工藤栄一
- 深作欣二
- 佐藤純彌
- 中島貞夫
- 鈴木則文
- 降旗康男
- 村山新治
- 倉田準二
- 橋本一
- 野田幸男
- 内藤誠
- 山口和彦
- 和泉聖治
- 関本郁夫
主な脚本家
主な音楽家
主なカメラマン
- 飯村雅彦
- 出先哲也
- 仲沢半次郎
- わし尾元也
- 中島芳男
- 吉田貞次
- 坪井誠
その他の作品
その他
- 千葉商科大学サービス創造学部の公式サポーター企業
- 東京ドーム看板広告 2009年から
- 東映ホテル - 2012年10月現在、福岡・湯沢・新潟の3店舗を運営。2011年から2012年にかけて天王寺・松山を閉鎖した。
映画興行
子会社のティ・ジョイがシネマコンプレックスを運営しているほか、直営で以下の2館を営業している。
系列会社
- 東映アニメーション(旧東映動画。テレビ朝日も出資)
- タバック
- アカデミー製作→東京動画(子会社ではないが、『宇宙大帝ゴッドシグマ』、『百獣王ゴライオン』の下請けを行った製作会社)
- 創映社(子会社ではないが、長浜ロマンロボシリーズの下請けを行った製作会社)
- 東映ビデオ
- 東映チャンネル
- 東映太秦映画村
- 東映セントラルフィルム(1988年解散。セントラル・アーツのみ存続)
- 東映エージエンシー
- 東映ラボ・テック(旧東映化学工業。映像効果関連子会社(東映化学デジタルテック)と合併)
- 東映アニメーションフィリピン(TAP。旧EEI-TOEI)
- 東映京都映画
- 東映化学デジタルテック
- 東映シーエム(CM制作)
- 東映貿易
- テレビ朝日(朝日新聞グループ)
- 衛星チャンネル(朝日新聞グループ)
- ティ・ジョイ
- 東映興業(プロ野球球団・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の運営会社。球団は1973年に日拓ホームに売却、会社自体も1985年に東映不動産と合併)
- 東映不動産(1985年に東映興業と合併して東映興業不動産となり、2006年に東映本社に吸収)
- 日本電波塔(東京タワー運営会社。筆頭株主)
- 東映俳優センター
- コヨーテ(東映アニメーション音楽出版、ディー・エル・イーとの合弁)
ほか数社
脚注
注釈
出典
- ↑ 2013年現在、東映は朝日新聞社に次いで第2位のテレビ朝日株の16%を保有し、テレビ朝日は東映株の11%を保有。また系列局の朝日放送も2006年に東映が売却した自社保有株を0.5%取得している。
- ↑ 東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に百貨店やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった。
- ↑ 関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.
- ↑ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71
- ↑ 鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235
- ↑ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154
- ↑ Variety、1974年12月18日付。
- ↑ 「本家ブルース・リーをしのぐ千葉真一」 報知新聞、1974年12月27日付朝刊。
- ↑ 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、 32頁。
- ↑ 中村カタブツ 『極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜』 ぴいぷる社、1999年、172 - 186。ISBN 4893741373。
- ↑ 大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.
- ↑ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.
- ↑ 文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.144
- ↑ 14.0 14.1 14.2 「東映が新レーベル発足 外国映画の配給を復活」『キネマ旬報』2011年9月上旬号、p.135
- ↑ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 東映会長・岡田茂』財界研究所、2001年、p.183
- ↑ 梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131
- ↑ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357
- ↑ 高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95
- ↑ 「あなたは魔界を信じますか? 角川春樹 山田風太郎 特別対談」、『パンフレット : 魔界転生』、角川春樹事務所 / 東映、1981年6月6日、 21頁。
- ↑ 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 pp.62-64
- ↑ 21.0 21.1 21.2 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 p.88
- ↑ 大高宏雄『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75
- ↑ 『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.
- ↑ “東映:新レーベル「東映トライアングル」発足 ジャッキーの大作など30年ぶりに外国映画配給へ”. 毎日新聞デジタル. (2011年8月11日). オリジナルの2011年8月14日時点によるアーカイブ。 . 2011閲覧.
- ↑ 星野直樹「映画に賭ける男」『真剣勝負に生きる』大川博士、ダイヤモンド社、1967年、pp.153-156.
- ↑ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102
- ↑ 『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.70
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- ↑ 工藤栄一、ダーティ工藤『光と影 映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p.108
- ↑ 30.0 30.1 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153
- ↑ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.291.
- ↑ 『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.72
- ↑ 佐藤忠男『日本映画史3 1960-1995』岩波書店、1995年、p.135
- ↑ 高橋惠子 (2012年12月7日). “引退撤回、そして大映が倒産”. 東スポWeb (東京スポーツ) . 2013閲覧.
- ↑ 山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1989年、p.17.
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- ↑ 大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、p.159.
- ↑ 日本雑学研究会『誰かについしゃべりたくなる話のネタ・雑学の本』幻冬舎、2000年、p.53
- ↑ 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、p.158
- ↑ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p.130
- ↑ 古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、pp.82-84.
- ↑ 田中純一郎『日本映画発達史IV 史上最高の映画時代』中央公論社、1980年、pp.272-273.
- ↑ 『東映十年史』東映株式会社、1962年、pp.254-261.
- ↑ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.148.
- ↑ 能村庸一『テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年、p.194.
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- ↑ 『テレビ時代劇史』p.106
- ↑ 『テレビ時代劇史』p.324
- ↑ テレビ朝日 火曜時代劇を9月で打ち切り J-CASTニュース 2007年2月2日
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- ↑ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』 キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012-05。ISBN 978-4873767550。
- ↑ 「1976年度日本映画/外国映画業界総決算」、『キネマ旬報』1977年(昭和52年)2月下旬号、キネマ旬報社、1977年、 109 - 123頁。
- ↑ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』 キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012-05。ISBN 978-4873767550。
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- ↑ 「1981年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1982年(昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社、1982年、 118 - 125頁。
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- ↑ 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1983年(昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社、1983年、 112 - 118頁。
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- ↑ 「1983年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、 110 - 116頁。
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- ↑ 「1984年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1985年(昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社、1985年、 114 - 120頁。
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- ↑ 「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、 122 - 128頁。
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- ↑ 「1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1987年(昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社、1987年、 124 - 131頁。
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- ↑ 「1987年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1988年(昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社、1988年、 191 - 192頁。
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- ↑ 「1988年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1989年(平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社、1989年、 167 - 172頁。
- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
- ↑ 「1989年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1990年(平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、 175 - 176頁。
- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
- ↑ 「1990年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1991年(平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社、1991年、 143 - 144頁。
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- ↑ 「1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、 143頁。
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- ↑ 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1993年(平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社、1993年、 148頁。
- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
- ↑ 「1993年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1994年(平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社、1994年、 155 - 156頁。
- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
- ↑ 「1994年度日本映画・外国映画業界総決算--経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』1995年(平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社、1995年、 155頁。
- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
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- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
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- ↑ 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
- ↑ 「1998年日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報』1999年(平成11年)2月下旬号、キネマ旬報社、1999年、 175 - 176頁。
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- ↑ 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2001年(平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社、2001年、 150 - 151頁。
- ↑ テンプレート:映連興行収入
- ↑ 「2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2002年(平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、 138 - 139頁。
- ↑ テンプレート:映連興行収入
- ↑ 「2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2003年(平成15年)2月下旬号、キネマ旬報社、2003年、 140 - 141頁。
- ↑ テンプレート:映連興行収入
- ↑ 「2003年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2004年(平成16年)2月下旬号、キネマ旬報社、2004年、 161 - 162頁。
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- ↑ 「2004年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2005年(平成17年)2月下旬号、キネマ旬報社、2005年、 153頁。
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- ↑ 「2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2006年(平成18年)2月下旬号、キネマ旬報社、2006年、 178頁。
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- ↑ 「2006年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2007年(平成19年)2月下旬号、キネマ旬報社、2007年、 185 - 186頁。
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- ↑ 「2007年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2008年(平成20年)2月下旬号、キネマ旬報社、2008年、 165 - 166頁。
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- ↑ 「2008年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2009年(平成21年)2月下旬号、キネマ旬報社、2009年、 173 - 174頁。
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- ↑ 「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2010年(平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社、2010年、 172 - 174頁。
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- ↑ 「2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報』2011年(平成23年)2月下旬号、キネマ旬報社、2011年、 188 - 189頁。
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- ↑ 「2011年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報』2012年(平成24年)2月下旬号、キネマ旬報社、2012年、 202 - 203頁。
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- ↑ 「2012年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報』2013年(平成25年)2月下旬号、キネマ旬報社、2013年、 205 - 206頁。
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- ↑ 「2013年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報』2014年(平成26年)2月下旬号、キネマ旬報社、2014年、 199頁。
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- ↑ 「各社2014年の動向を見る」、『キネマ旬報』2015年(平成27年)3月下旬号、キネマ旬報社、2015年、 88 - 92頁。
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- ↑ 「各社2015年の動向を見る」、『キネマ旬報』2016年(平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社、2016年、 74頁。
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- ↑ 「各社2016年の動向を見る」、『キネマ旬報』2017年(平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社、2017年、 70頁。
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- ↑ 「各社2017年の動向を見る」、『キネマ旬報』2018年(平成30年)3月下旬号、キネマ旬報社、2018年、 50頁。
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- ↑ ダルタニアスを除き東北新社とともに制作協力
外部リンク
- 東映オフィシャルサイト
- 東映国際部による海外用タイトル・リスト(2013年10月29日時点のアーカイブ)
- 東映配給映画一覧 - 日本映画製作者連盟
- 東映製作映画一覧 - 日本映画製作者連盟
- 東映制作 連続テレビドラマ・アニメ全番組リスト - 個人運営によるデータベース
- 東映映画DVDリスト - 個人運営によるデータベース(2008年8月28日時点のアーカイブ)