池永正明
池永 正明(いけなが まさあき、1946年8月18日 - )は、山口県豊浦郡豊北町(現:下関市)生まれの元プロ野球選手。
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経歴
高校時代・西鉄入団
下関商業では、投手として3期連続で甲子園に出場し、2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝、夏は準優勝だった。3年夏は県大会で亀井進を擁する早鞆高校に敗れた[1]。1965年、後にプロゴルファーとなる尾崎正司(のち将司)らと共に、西鉄ライオンズに入団する。
西鉄入団後1年目から20勝を挙げ、新人王。故障しリリーフにまわった稲尾和久の跡を継ぎエースとして台頭。同期入団の尾崎は後に「あんな凄い奴が同期にいたんじゃおれが野球で成功するのは無理だと思った。」と語っている。新人王受賞時の池永も「自分は野球選手以外の職業になる事は考えたことがないしこれが天職だ。」と述べている。
1967年には23勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。また新人から5年連続でオールスターゲームに出場し、セ・リーグを無失点に抑えている。このほか入団5年間で99勝を挙げ、このペースで進むと通算300勝の記録は十分射程圏内であった。また当時のパ・リーグはDH制度が導入される前であり、投手も打者として打席に入っていたが、通算13本の本塁打を放っている。才能あふれる投手としてだけでなく、打撃も期待できる投手として稲尾とタイプ的にも似ていたため名実共に稲尾の後継者として期待されており、その期待通りの活躍を続けていた。
黒い霧事件・永久追放処分
しかし、1969年のシーズンオフに黒い霧事件が明るみに出る。チームメイトの永易将之が八百長(敗退行為)をした疑いのある西鉄の6人の選手を挙げ、その中に池永が入っていた。
当初は金銭授受による八百長を否定していたが、田中勉から金銭に絡む詳細な証言が出てくると金銭授受を認めた上で「絶対に八百長などしていない。先輩である田中から『預かってくれ』と言われた金を押入れにしまっていただけだ」と主張。刑事事件としては池永は不起訴処分となった。だが日本野球機構側は、1970年5月25日に池永を永久追放処分とした。理由は池永が依頼金を受け取り返さなかった事、誘われた事実を機構事務局に通報するのを怠った事、実際に1969年シーズン終盤に短いイニングでKOされた試合が2試合あったことをあげられた。同じく永久追放処分となった益田昭雄や与田順欣は「池永が自分たちと同じ処分なんて球界の損失だ。あのような投手はもう出てこない」と涙ながらに訴えたが、処分は変わらなかった。同時に疑いをかけられていたチームメイトの基満男は厳重戒告処分で終わっており、当時から地元新聞を中心に「見せしめの為に永久追放になった悲運のエース」という言葉が躍っていた。
永久追放後は福岡市博多区の繁華街・東中洲でバー「ドーベル」を営んでいた(2007年まで)。店を訪れる現役時代のファンが、店内のトイレに池永への激励コメントをマジックで書いたことが発端となり、トイレは池永へのコメントで埋められた。
その後も、西鉄の先輩である稲尾和久や豊田泰光、同期入団の尾崎将司、親交のある小野ヤスシ、なべおさみ、大橋巨泉らが中心となり、処分取り消しを求める署名活動等の運動が幾たびにも渡って行われる。国会でも取り上げられるなど、広範囲に渡る支援が行なわれるようになる。2001年には読売巨人軍オーナー・渡邉恒雄も「機構はいつまで彼(池永)を永久追放にしてるんだ」と問題提起するなど、21世紀に入ると次第に「池永復権運動」が大きくなっていく。
2001年12月25日、プロ野球マスターズリーグが発足。福岡ドンタクズの監督に稲尾が就任。稲尾は「もう一回池永をマウンドに立たせてやりたいし、またファンの人にも見て欲しいから」と池永に投手として参加を要請。マスターズリーグは全国野球振興会(プロ野球OBクラブ)が運営に絡んでおり、出場することに問題は無かった。参加の記者会見で抱負を語る一方、「もういい加減、許していただけないだろうか」と切実な気持ちを語った。同年12月には、福岡ドームにて31年ぶりにファンの前で投球を披露した。
復権
2005年3月16日にオーナー会議で永久追放処分者他に対する復権について野球協約が改正されたことから野球界復帰の路が開かれることになり、同年4月25日に日本野球機構(NPB)は池永に対する処分を解除し、池永は35年ぶりに復権した。これにより池永はプロ野球指導者・野球解説者・評論家としての活動が可能になり、2008年からRFラジオ日本の解説者として『週刊ベースボール』の解説者名鑑に記載されたが、実際には出演がなかった。
同年11月、山本譲二が総監督を務める社会人野球チーム「山口きららマウントG」の監督に就任することが発表された。マスターズリーグ福岡ドンタクズの第2代監督にも就任した。
2011年8月16日には、TVQ九州放送『TVQスーパースタジアム』にゲスト出演、初めて解説を担当する。
選手としての特徴
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 西鉄のトレーナーが試合後に池永の筋肉を触って「まるでつきたての餅だ」と発したことがある。連投しても好投した背景にはこの柔らかい筋肉があった。
抜群の身体能力に加えて、頭脳的な投球もできるクレバーさをも持ち合わせており、この点でも「稲尾の後継者」の呼び声をさらに確かなものとしていた。張本勲(池永は張本を「あの人だけは別格だった」と評している)は「ピッチャーの投球パターンは、過去のデータを見て決める、その試合の前までの打席の状況から決める、その場のひらめきで決める、の3通りあるが、池永はそれが全部できた。力と技を併せ持ったすごいピッチャーだった」と池永を絶賛している[2]。
投球だけでなく、打撃、守備も優れていた。中西太監督は投手ながら抜群の打撃センスがある池永を6番で起用するという策を取ったこともある。中西はまた「池永は20勝確実だから投手をやらせているが、15勝クラスの投手なら打者に転向させる」と言ったほど池永の野球センスを評価していた。また、バント処理も群を抜くうまさで、時計で測ったように間一髪で刺すシーンは下関商時代からスカウトの目にもとまるものだった。俊足でもあり、走者となると盗塁を見せることもあった。
詳細情報
年度別投手成績
1965 | 西鉄 | 47 | 30 | 14 | 3 | 0 | 20 | 10 | -- | -- | .667 | 980 | 253.2 | 174 | 12 | 59 | 2 | 5 | 156 | 2 | 1 | 76 | 64 | 2.27 | 0.92 |
1966 | 47 | 36 | 13 | 4 | 3 | 15 | 14 | -- | -- | .517 | 1060 | 267.2 | 207 | 14 | 61 | 1 | 9 | 139 | 1 | 0 | 81 | 65 | 2.18 | 1.00 | |
1967 | 54 | 40 | 19 | 6 | 2 | 23 | 14 | -- | -- | .622 | 1359 | 335.1 | 300 | 16 | 81 | 6 | 16 | 203 | 3 | 0 | 102 | 86 | 2.31 | 1.14 | |
1968 | 47 | 36 | 22 | 6 | 4 | 23 | 13 | -- | -- | .639 | 1231 | 305.0 | 251 | 20 | 90 | 9 | 8 | 161 | 4 | 0 | 95 | 83 | 2.45 | 1.12 | |
1969 | 34 | 32 | 21 | 4 | 4 | 18 | 11 | -- | -- | .621 | 1065 | 263.1 | 232 | 22 | 58 | 3 | 14 | 105 | 1 | 0 | 87 | 75 | 2.57 | 1.10 | |
1970 | 9 | 5 | 3 | 1 | 0 | 4 | 3 | -- | -- | .571 | 204 | 52.1 | 38 | 4 | 13 | 4 | 2 | 29 | 0 | 0 | 17 | 15 | 2.60 | 0.97 | |
通算:6年 | 238 | 179 | 92 | 24 | 13 | 103 | 65 | -- | -- | .613 | 5899 | 1477.1 | 1202 | 88 | 362 | 25 | 54 | 793 | 11 | 1 | 458 | 388 | 2.36 | 1.06 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多勝:1回 (1967年)
表彰
- 新人王 (1965年)
記録
- 初記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:5回 (1965年 - 1969年)
背番号
- 20 (1965年 - 1970年)
脚注
関連書籍
- 笹倉明「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」文藝春秋
- 蕪木和夫「幻の300勝投手・池永正明 〜永久追放は正しかったか〜」銀星出版社
- スポーツニッポン西部本社編「記者たちの平和台」葦書房
関連項目
外部リンク
業績 |
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