1978年の野球
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競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セントラル・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
優勝 | ヤクルトスワローズ | 68 | 46 | 16 | .596 | - |
2位 | 読売ジャイアンツ | 65 | 49 | 16 | .570 | 3.0 |
3位 | 広島東洋カープ | 62 | 50 | 18 | .554 | 5.0 |
4位 | 横浜大洋ホエールズ | 64 | 57 | 9 | .529 | 7.5 |
5位 | 中日ドラゴンズ | 53 | 71 | 6 | .427 | 20.0 |
6位 | 阪神タイガース | 41 | 80 | 9 | .339 | 30.5 |
パシフィック・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 前・後 |
優勝 | 阪急ブレーブス | 82 | 39 | 9 | .678 | 1・1 |
2位 | 近鉄バファローズ | 71 | 46 | 13 | .607 | 2・2 |
3位 | 日本ハムファイターズ | 55 | 63 | 12 | .466 | 3・4 |
4位 | ロッテオリオンズ | 53 | 62 | 15 | .461 | 5・3 |
5位 | クラウンライターライオンズ | 51 | 67 | 12 | .432 | 4・5 |
6位 | 南海ホークス | 42 | 77 | 11 | .353 | 6・6 |
- 阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝となった。
日本シリーズ
個人タイトル
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
タイトル | 選手 | 球団 | 成績 | 選手 | 球団 | 成績 |
最優秀選手 | 若松勉 | ヤクルト | 山田久志 | 阪急 | ||
最優秀新人 | 角三男 | 巨人 | 村上之宏 | 南海 | ||
首位打者 | 水谷実雄 | 広島 | .348 | 佐々木恭介 | 近鉄 | .354 |
本塁打王 | 山本浩二 | 広島 | 44本 | B.ミッチェル | 日本ハム | 36本 |
打点王 | 王貞治 | 巨人 | 118点 | B.マルカーノ | 阪急 | 94点 |
最多安打 | 松原誠 | 大洋 | 164本 | 福本豊 | 阪急 | 171本 |
盗塁王 | 柴田勲 | 巨人 | 34個 | 福本豊 | 阪急 | 70個 |
最多出塁数(セ) 最高出塁率(パ) |
王貞治 | 巨人 | 247個 | 佐々木恭介 | 近鉄 | .407 |
最優秀防御率 | 新浦寿夫 | 巨人 | 2.81 | 鈴木啓示 | 近鉄 | 2.02 |
最多勝利 | 野村収 | 大洋 | 17勝 | 鈴木啓示 | 近鉄 | 25勝 |
最多奪三振 | 斉藤明雄 | 大洋 | 162個 | 鈴木啓示 | 近鉄 | 178個 |
最高勝率 | 鈴木康二朗 | ヤクルト | .813 | 山田久志 | 阪急 | .818 |
最優秀救援投手 | 新浦寿夫 | 巨人 | 25SP | 山口高志 | 阪急 | 26SP |
ベストナイン
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||
---|---|---|---|---|
守備位置 | 選手 | 球団 | 選手 | 球団 |
投手 | 新浦寿夫 | 巨人 | 鈴木啓示 | 近鉄 |
捕手 | 大矢明彦 | ヤクルト | 中沢伸二 | 阪急 |
一塁手 | 王貞治 | 巨人 | 柏原純一 | 日本ハム |
二塁手 | D.ヒルトン | ヤクルト | B.マルカーノ | 阪急 |
三塁手 | 掛布雅之 | 阪神 | 島谷金二 | 阪急 |
遊撃手 | 高橋慶彦 | 広島 | 真弓明信 | クラウン |
外野手 | 山本浩二 | 広島 | 福本豊 | 阪急 |
若松勉 | ヤクルト | 佐々木恭介 | 近鉄 | |
C.マニエル | ヤクルト | 簑田浩二 | 阪急 | |
指名打者 | 土井正博 | クラウン |
ダイヤモンドグラブ賞
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||
---|---|---|---|---|
守備位置 | 選手 | 球団 | 選手 | 球団 |
投手 | 堀内恒夫 | 巨人 | 山田久志 | 阪急 |
捕手 | 大矢明彦 | ヤクルト | 中沢伸二 | 阪急 |
一塁手 | 王貞治 | 巨人 | 柏原純一 | 日本ハム |
二塁手 | 土井正三 | 巨人 | B.マルカーノ | 阪急 |
三塁手 | 掛布雅之 | 阪神 | 島谷金二 | 阪急 |
遊撃手 | 山下大輔 | 大洋 | 大橋穣 | 阪急 |
外野手 | 山本浩二 | 広島 | 福本豊 | 阪急 |
若松勉 | ヤクルト | 簑田浩二 | 阪急 | |
J.ライトル | 広島 | B.ウイリアムス | 阪急 |
オールスターゲーム
"「1978年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」"
高校野球
- 第50回選抜高等学校野球大会優勝:浜松商(静岡県)
- 第60回全国高等学校野球選手権大会優勝:PL学園(大阪府)
大学野球
- 第27回全日本大学野球選手権大会優勝 : 明治大
- 第9回明治神宮野球大会優勝 : 同志社大
社会人野球
メジャーリーグ
"「1978年のメジャーリーグベースボール」"
- ワールドシリーズ
- ニューヨーク・ヤンキース(ア・リーグ) (4勝2敗) ロサンゼルス・ドジャース(ナ・リーグ)
できごと
1月
- 1月14日 - 南海は柏原純一を大阪市の球団事務所に呼び、日本ハムへのトレード移籍を改め通告するも柏原は拒否、南海は柏原に対し日本ハムへ保有権を譲渡すると通告[1]。
- 1月25日 - 柏原純一が日本ハムへのトレードに応じると表明[2]。
- 1月27日 - 日本ハムは柏原純一と東京・六本木の球団事務所にてトレードの手続きを行い、午後3時より記者会見を行い入団を正式に発表[3]。
- 1月30日 - クラウンは福岡市の西鉄グランドホテルにて前中日のウィリー・デービスの入団を発表。また、テスト生として採用した中学生2名の入団を発表[4]。
2月
3月
- 3月20日 - 巨人が大洋のジョン・シピンを金銭トレードで獲得。巨人はシピンに大洋時代と同じ背番号11を用意したため、それまで11を着けていた新人の角三男の背番号が45に変更される。
- 3月30日 - 第50回選抜高等学校野球大会の第4日の第3試合・前橋高校対比叡山高校の試合で、前橋の松本稔が大会史上初の完全試合を達成[5]。
4月
- 4月1日
- 4月2日 - 大洋の高橋重行がナゴヤ球場での対中日2回戦に3番手として登板し、プロ通算500試合登板達成[8]。
- 4月4日 - 横浜スタジアムの開場試合となる大洋対巨人1回戦が行われ、大洋が巨人に4-1で勝利する[9]。
- 4月6日
- 4月8日 - ヤクルトの福富邦夫が広島球場での対広島4回戦の4回表に1号本塁打を放ち、プロ通算1000本安打を達成[13]。
- 4月9日 - 日本ハムの高橋直樹が後楽園球場での対阪急3回戦で1勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[14]。
- 4月14日 - ヤクルトの若松勉が神宮球場での対中日1回戦の1回裏に1号本塁打を打ち、プロ通算100号本塁打を達成[15]。
- 4月15日 - 中日の井上弘昭がナゴヤ球場での対阪神戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[16]。
- 4月21日 - 平和台球場でのクラウン対阪急4回戦が行われ、阪急の島谷金二が1回表に5号満塁本塁打を放ち、球団通算3000本塁打を記録[17]。
- 4月25日 - 阪神の藤田平が広島市民球場での対広島9回表に二塁打を放ち、プロ通算1500本安打を達成[18]。
5月
- 5月6日 - 大洋の山下大輔が横浜スタジアムでの対ヤクルト7回戦の7回表にヤクルトの打者山下慶徳の遊ゴロを一塁へ悪投し、1977年8月28日対広島19回戦より続いていた連続無失策の記録が322で途絶える[19]。
- 5月14日 - 西宮球場での阪急対近鉄7回戦で近鉄が16-9プロと勝利、プロ野球史上初の全員打点を、パ・リーグ史上5度目の全員得点を記録[20]。
- 5月20日 - 大洋の長崎慶一が横浜スタジアムでの対阪神10回戦においてサイクル安打を達成[21]。
- 5月21日 - 阪急の島谷金二が大阪球場での対南海9回戦の5回表に6号本塁打、9回表に安打を放ち、プロ通算1000本安打を達成[22]。
- 5月23日 - 阪急の加藤秀司が西宮球場での対日本ハム7回戦の3回裏に安打を放ち、プロ通算1000本安打を達成[23]。
- 5月27日 - ロッテの山崎裕之が後楽園球場での対日本ハム9回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[24]。
6月
- 6月3日
- 6月5日 - 阪神の田淵幸一が神宮球場での対ヤクルト8回戦の3回に17号本塁打、5回に18号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[27]。
- 6月6日 - クラウンの土井正博が西京極球場での対阪急9回戦の4回表に12号本塁打を放ち、プロ通算400本塁打を達成[28]。
- 6月7日 - 阪急の福本豊が西京極球場での対クラウン10回戦1回裏に二盗を成功させ、プロ通算650盗塁を達成[29]。
- 6月8日
- 6月18日 - 藤井寺球場で近鉄対クラウンのダブルヘッダー第12、13回戦で近鉄が連破し、川崎球場でロッテ対阪急9回戦で阪急がロッテを5-2で下したことで阪急が前期優勝を決める[31]。
- 6月21日 - ヤクルトの若松勉が広島球場での対広島14回戦の5回表に安打を放ち、プロ通算1000本安打を達成[32]。
- 6月25日 - 広島の水谷実雄が広島球場での対巨人13回戦の4回裏に6号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[33]。
- 6月28日 - ロッテは西宮球場での対阪急13回戦に6-7で敗れ、パ・リーグタイ記録の15連敗となる[34]。
7月
- 7月6日
- 7月10日 - 神宮球場でのヤクルト対巨人16回戦の1回表に、巨人のジョン・シピンがヤクルトの鈴木康二朗から死球を受けた後、鈴木に暴行を働き退場、さらに巨人先発のクライド・ライトも3回に降板を命じられたことに激昂し、カメラマンのカメラを取り上げて放り投げる行為に及ぶ[37][38]。
- 7月14日 - オールスター運営委員会はファン投票の最終結果を発表。パ・リーグは日本ハムの選手が8つのポジションを占め、日本ハムは三塁手で選出された古屋英夫、遊撃手で選出された菅野光夫の出場辞退をコミッショナーに申し出て受理される。代わりに島谷金二、大橋穣が選出される[39]。
- 7月18日 - 阪急の監督の上田利治が高熱で入院、22日からのオールスターのパ・リーグ監督を辞退[40]。
- 7月19日 - オールスター運営委員会は全パ監督を務める予定だった阪急の監督の上田利治の辞退を認め、上田の代わりに南海監督の広瀬叔功が全パ監督を務めると発表[41]。
- 7月24日 - プロ野球のセ・パ合同選手会が東京・品川のパシフィックホテルにて午後2時から行われ、選手会を法人化して独自に運営することを正式に決定[42]。
- 7月31日 - パ・リーグ理事会にてパ・リーグ会長の岡野祐の辞任を了承。クラウンの球団代表の坂井保之が会長代行を務める[43]。
8月
- 8月3日 - 広島の衣笠祥雄が中日戦において、日本プロ野球史上3人目の1000試合連続出場を記録。
- 8月8日 - 第49回都市対抗野球大会の決勝戦が後楽園球場にて行われ、共に川崎市の東芝対日本鋼管の試合は東芝が日本鋼管を4-0で下して優勝[44]。
- 8月9日 - 中日のジーン・マーチンがナゴヤ球場での対巨人20回戦の4回裏に22号本塁打を放ち、150本塁打を達成[45]。
- 8月10日 - パ・リーグ会長の岡野祐が10日付で辞任し、パ・リーグ事務所で記者会見[46]。
- 8月13日 - 巨人の柴田勲が後楽園球場での対大洋21回戦の3回裏に二盗を成功させ、プロ通算550盗塁を達成[47]。
- 8月15日
- 8月20日 - 全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が甲子園において行われ、大阪府のPL学園が高知県の高知商に3-2でサヨナラ勝ちし初優勝[50]。PL学園は準決勝、決勝を逆転で勝利し「逆転のPL」とよばれる。
- 8月30日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対23回戦の6回裏に34号本塁打を放ち、プロ野球史上初の通算800号本塁打を達成[51]。
- 8月31日 - 阪急の今井雄太郎が県営宮城球場での対ロッテ8回戦で完全試合を達成、プロ野球史上14人目[52]。
9月
- 9月5日 - 巨人対阪神21回戦の試合が甲子園球場で行われ、巨人は公式戦5000試合を記録[53]。
- 9月6日
- 9月9日
- 9月11日 - 近鉄の鈴木啓示が西宮球場での対阪急後期9回戦に先発して5失点で敗戦投手となり、連続完投勝利の記録は10でストップ[58]。
- 9月14日
- 9月22日 - 巨人の王貞治がナゴヤ球場での対中日24回戦の8回表に38号ソロ本塁打を放ち、プロ通算2000打点を達成。
- 9月23日
- 近鉄対阪急の13回戦が藤井寺球場にて行われ、この試合が後期最終戦となる近鉄は勝てば後期優勝が決まったが、阪急が近鉄を4-2と下し、優勝決定は持ち越しとなる。阪急の先発・山田久志が子の試合で勝利投手となり、プロ通算150勝を達成[61]。
- パ・リーグの後期優勝は、阪急が残り2試合の勝敗次第となり、阪急が1勝か2引き分けで阪急優勝、2敗か1敗1引き分けで近鉄優勝となる。
- 9月26日 - パ・リーグの新会長に工藤信一良が就任することが決定し、東京・九段下のホテル・グランドパレスにて記者会見を行う[62]。
- 9月27日 - 阪急が川崎球場でのロッテ12回戦でロッテを4-1で下して勝利し、パ・リーグの後期優勝が決定、阪急は前期も優勝しているため4年連続9回目のリーグ優勝が決定[63]。
- 9月28日 - 巨人の張本勲が後楽園球場での対広島26回戦に出場し、プロ通算2500試合出場を達成[64]。
- 9月30日 - パ・リーグは全日程が終了[65]。
10月
- 10月2日 - ロッテは東京・西新宿の本社で球団役員会を開き、監督の金田正一の辞表を受理し、辞任が決定。この後ロッテ本社にて金田が記者会見し辞任を正式に表明[66]。
- 10月4日 - 神宮球場にてヤクルト対中日24回戦が行われ、ヤクルトが9-0で勝利し、球団創立29年目で初優勝。
- 10月9日
- 10月11日
- 10月12日 - クラウンはオーナーの中村長芳と国土計画の社長の堤義明が東京・原宿の国土計画本社にて記者会見し、クラウン球団を国土計画に譲渡しフランチャイズを福岡県から埼玉県に移転し来シーズンからチーム名を「西武ライオンズ」とすることを発表。これに先立ちパ・リーグは中村の要請で午前11時より緊急のオーナー会議を開き、中村が球団の譲渡を報告、その後の12球団合同のオーナー、代表者会議で承認される[71]。
- 10月22日 - 日本シリーズ第7戦が後楽園で行われ、ヤクルトが阪急に4-0で勝利し、初の日本一を達成[72]。この試合の6回裏、ヤクルトの大杉勝男のシリーズ第3号本塁打の判定に対し、阪急の上田利治監督がファウルだと抗議、試合が1時間19分中断[73]。
- 10月23日
11月
- 11月1日 - ヤクルトは監督の広岡達朗と新たに3年契約を結んだと発表[76]。
- 11月15日 - 阪神の球団社長の小津正次郎と西武の監督の根本陸夫が大阪市梅田のホテル阪神にて午後6時半から記者会見し、阪神・両球団の間で田淵幸一を含むトレードが決定したと発表。一方田淵は態度を保留[77]。
- 11月18日 - 平和台球場で福岡のライオンズとして最後の試合を行う(シンシナティ・レッズ対クラウン・巨人連合)。
- 11月20日
- 11月21日
- 11月22日 - 第14回プロ野球ドラフト会議が午前11時5分より東京・九段下のホテル・グランドパレスにて開催される。巨人は裁定を不服として欠席し、11球団での開催となる。江川は4球団競合の末、阪神が交渉権を獲得[82]。
- 11月27日
12月
- 12月1日 - 西武は野村克也の入団を発表[85]。
- 12月6日 - 阪神と西武はさる11月に成立した田淵幸一・古沢憲司と真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史・竹田和史の2対4のトレードを正式に発表[86]。
- 12月21日 - コミッショナーの金子鋭は、巨人と江川卓との契約を無効としたセ・リーグ会長の鈴木竜二の裁定を不服とした巨人からの提訴を却下したと発表[87]。
- 12月22日
誕生
1月
- 1月4日 - クリストファー・ギッセル
- 1月6日 - 山北茂利
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
- 1月3日 - 三宅大輔(大日本東京野球倶楽部・阪急軍他の元監督、*1893年)
- 1月13日 - ジョー・マッカーシー(シカゴ・カブス・ニューヨーク・ヤンキース他の元監督、*1887年)
- 1月28日 - ラリー・レインズ(阪急ブレーブス他の元内野手、*1930年)
- 2月11日 - 江田孝(松竹ロビンス他の元投手、クラウンライターライオンズ投手コーチ、*1923年)
- 5月10日 - 鈴木芳太郎(南海ホークス元投手、*1913年)
- 5月20日 - バッキー・ハリス(名古屋軍・後楽園イーグルスの元捕手、*1908年)
- 10月8日 - ジム・ギリアム(ブルックリン→ロサンゼルス・ドジャースの元内野手・コーチ、*1928年)
脚注
- ↑ 読売新聞1978年1月15日17面「柏原の保有権、ハムに譲渡 南海が最後通牒」読売新聞縮刷版1978年1月p443
- ↑ 読売新聞1978年1月26日17面「柏原、ハム入りを表明」読売新聞縮刷版1978年1月p807
- ↑ 読売新聞1978年1月28日19面「『お騒がせしました』柏原、日ハムと入団契約」読売新聞縮刷版1978年1月p879
- ↑ 読売新聞1978年1月31日17面「クラウン⑥デービス」読売新聞縮刷版1978年1月p977
- ↑ 毎日新聞1978年3月31日1面「センバツ 松本(前橋)が完全試合 春夏通じ初の快挙 対比叡山戦」毎日新聞縮刷版1978年3月p923
- ↑ 読売新聞1978年4月1日夕刊11面「フレッシュ4月 後楽園に"本番の熱気"」読売新聞縮刷版1978年4月p35
- ↑ 読売新聞1978年4月2日18面「近鉄・鈴木投手が通算500試合登板」読売新聞縮刷版1978年4月p54
- ↑ 毎日新聞1978年4月3日16面「高橋500試合登板」毎日新聞縮刷版1978年4月p74
- ↑ 毎日新聞1978年4月5日16面「『ハマ』の大洋 初戦飾る 巨人に逆転勝ち」毎日新聞縮刷版1978年4月p138
- ↑ 毎日新聞1978年4月6日1面「センバツ 浜松商が初優勝 2-0 福井商を振り切る 50回大会」毎日新聞縮刷版1978年4月p155
- ↑ 毎日新聞1978年4月6日16面「2000本安打」毎日新聞縮刷版1978年4月p74
- ↑ 毎日新聞1978年4月6日16面「江川渡米」毎日新聞縮刷版1978年4月p172
- ↑ 毎日新聞1978年4月9日17面「福富1000本安打」毎日新聞縮刷版1978年4月p271
- ↑ 毎日新聞1978年4月10日19面「ハム、両目あいた 高橋直が完投、100勝」毎日新聞縮刷版1978年4月p295
- ↑ 読売新聞1978年4月15日17面「ヤクルト・若松が通算100号本塁打」読売新聞縮刷版1978年4月p531
- ↑ 毎日新聞1978年4月16日17面「井上、1000試合出場」毎日新聞縮刷版1978年4月p483
- ↑ 毎日新聞1978年4月22日15面「島谷が満塁アーチ パ今季初 3000号の祝砲」毎日新聞縮刷版1978年4月p673
- ↑ 毎日新聞1978年4月26日17面「阪神藤田が千五百本安打」毎日新聞縮刷版1978年4月p791
- ↑ 毎日新聞1978年5月7日17面「山下の連続無失策『322』でストップ」毎日新聞縮刷版1978年5月p153
- ↑ 毎日新聞1978年5月15日19面「『超特急』にガタ 阪急、今度は大敗 『火消』山口、火勢をあおる 近鉄は全員打点」毎日新聞縮刷版1978年5月p389
- ↑ 毎日新聞1978年5月21日15面「長崎、サイクル安打」毎日新聞縮刷版1978年5月p571
- ↑ 毎日新聞1978年5月21日15面「島谷が通算1000本安打」毎日新聞縮刷版1978年5月p599
- ↑ 毎日新聞1978年5月24日15面「加藤、1000本安打」毎日新聞縮刷版1978年5月p659
- ↑ 毎日新聞1978年5月28日19面「1500試合出場」毎日新聞縮刷版1978年5月p793
- ↑ 毎日新聞1978年6月4日19面「やはり平松、連敗阻止」毎日新聞縮刷版1978年6月p117
- ↑ 毎日新聞1978年6月4日19面「島谷150本塁打」毎日新聞縮刷版1978年6月p117
- ↑ 毎日新聞1978年6月6日19面「田淵は通算300号」毎日新聞縮刷版1978年6月p117
- ↑ 毎日新聞1978年6月7日19面「土井、愛の401号」毎日新聞縮刷版1978年6月p201
- ↑ 毎日新聞1978年6月8日19面「福本 輝く650盗塁」毎日新聞縮刷版1978年6月p233
- ↑ 毎日新聞1978年6月9日19面「250本塁打」毎日新聞縮刷版1978年6月p267
- ↑ 毎日新聞1978年6月19日19面「阪急、ぶっちぎり優勝 前期・五年連続 リーグ最短、57試合目で」毎日新聞縮刷版1978年6月p565
- ↑ 毎日新聞1978年6月22日19面「1000本安打」毎日新聞縮刷版1978年6月p667
- ↑ 毎日新聞1978年6月9日19面「100本塁打」毎日新聞縮刷版1978年6月p803
- ↑ 毎日新聞1978年6月29日19面「ロッテ15連敗 パ・タイ」毎日新聞縮刷版1978年6月p903
- ↑ 毎日新聞1978年7月7日19面「巨人、一番暑い夏 一イニング10与四球 不名誉日本新」毎日新聞縮刷版1978年7月p207
- ↑ 毎日新聞1978年7月7日19面「松原300号」毎日新聞縮刷版1978年7月p207
- ↑ 毎日新聞1978年7月11日19面「これでいいのか シピン、ライト」毎日新聞縮刷版1978年7月p311
- ↑ “【7月10日】1978年(昭53) 乱闘、退場、暴言…暴走した助っ人シピン、ライト”. 日めくりプロ野球. スポーツニッポン新聞社 (2009年7月1日). . 2015閲覧.
- ↑ 毎日新聞1978年7月15日19面「オールスター やっぱり、日ハムから八人 異例!球団が二人辞退」毎日新聞縮刷版1978年7月p443
- ↑ 毎日新聞1978年7月19日19面「上田監督が高熱のためオールスター戦辞退」毎日新聞縮刷版1978年7月p559
- ↑ 毎日新聞1978年7月20日19面「パ監督は広瀬 オールスター」毎日新聞縮刷版1978年7月p593
- ↑ 読売新聞1978年7月25日19面「セ・パ選手会、法人化へ きょう申し入れ 『福祉向上』を課題に」読売新聞縮刷版1978年7月p875
- ↑ 読売新聞1978年7月31日19面「岡野会長の辞任承認」
- ↑ 毎日新聞1978年8月9日1面「東芝に初の黒獅子旗 川崎市同士の対決 日本鋼管を破る 都市対抗野球」毎日新聞縮刷版1978年8月p217
- ↑ 毎日新聞1978年8月10日14面「中日・マーチン150本塁打」毎日新聞縮刷版1978年8月p260
- ↑ 読売新聞1978年8月11日17面「『勇気をもって新しいものを』岡野パ会長が正式辞任」読売新聞縮刷1978年8月p339
- ↑ 読売新聞1978年8月14日14面[巨人・柴田勲外野手(三四)がプロ入り通算550盗塁」読売新聞縮刷1978年8月p493
- ↑ 読売新聞1978年8月16日17面「中日・木俣達彦選手(三四)が1500本安打」読売新聞縮刷1978年8月p493
- ↑ 毎日新聞1978年8月16日14面「上田監督25日から復帰」毎日新聞縮刷版1978年8月p424
- ↑ 朝日新聞1978年8月21日1面「PL学園が初優勝 高知商に逆転サヨナラ 全国高校野球 二日続き”9回の奇跡”」朝日新聞縮刷版1978年8月p627
- ↑ 読売新聞1978年8月31日1面「王、栄光の800号」読売新聞縮刷1978年8月p1017
- ↑ 読売新聞1978年9月1日17面「今井雄(阪急)が完全試合 ロッテを100球 14人目、5年ぶり」読売新聞縮刷1978年9月p17
- ↑ 読売新聞1978年9月6日17面「巨人5千試合目飾れず」読売新聞縮刷1978年9月p205
- ↑ 読売新聞1978年9月7日17面「鈴木 日本新10連続完投勝ち」読売新聞縮刷1978年9月p241
- ↑ 読売新聞1978年9月7日17面「広島・山本浩二外野手(三一)が通算250本塁打」読売新聞縮刷1978年9月p241
- ↑ 読売新聞1978年9月10日17面「大洋・平松政次投手(三〇)が通算1500奪三振」読売新聞縮刷1978年9月p357
- ↑ 読売新聞1978年9月10日17面「阪神・藤田平内野手(三〇)が1500試合出場」読売新聞縮刷1978年9月p357
- ↑ 読売新聞1978年9月12日17面「代打長池、満塁逆転アーチ 阪急"天王山"に先勝 稲葉、鈴木に投げ勝つ」読売新聞縮刷版1978年9月p431
- ↑ 読売新聞1978年9月15日16面「近鉄3連勝、首位に立つ 鈴木お返し完封 通算64のリーグ新」読売新聞縮刷1978年9月p538
- ↑ 読売新聞1978年9月15日17面「阪神大敗で最下位決定」読売新聞縮刷1978年9月p539
- ↑ 読売新聞1978年9月24日17面「阪急 近鉄を破り"逆王手"マルカーノ2ラン 鈴木KO ”傷だらけの勇者”山田完投」読売新聞縮刷1978年9月p865
- ↑ 読売新聞1978年9月27日17面「『活気ある野球を』パ会長に就任の工藤氏」読売新聞縮刷1978年9月p949
- ↑ 読売新聞1978年9月28日1面「パ・リーグ 阪急が4連覇」読売新聞縮刷1978年9月p969
- ↑ 売新聞1978年9月29日17面「巨人・張本勲外野手(三八)が2500試合出場」読売新聞縮刷版1978年9月p1025
- ↑ 読売新聞1978年10月1日17面「鈴木『投二冠』 首位打者佐々木 どっと初顔、パ全日程終了」読売新聞縮刷1978年10月p17
- ↑ 読売新聞1978年10月3日17面「金田監督(ロッテ)の辞任決定 "優勝できぬ責任とる"記者会見」読売新聞縮刷1978年10月p91
- ↑ 読売新聞1978年10月10日19面「松岡が初の『沢村賞』ヤクルトV1に貢献」読売新聞縮刷版1978年10月p361
- ↑ 売新聞1978年10月10日19面「ヤクルトついに無得点 『全試合』の大記録 最終戦で逸す」読売新聞縮刷版1978年10月p361
- ↑ 読売新聞1978年10月12日17面「山本浩(本塁打王)水谷(首位打者)が初 セも全日程終了」読売新聞縮刷版1978年10月p395
- ↑ 日刊スポーツ1978年10月12日3面「刷新阪神スタート 球団新社長に小津氏就任」
- ↑ 読売新聞1978年10月12日夕刊1面「ライオンズ(クラウンライター)身売り 西武系企業に10億円で譲渡」読売新聞縮刷版1978年9月p407
- ↑ 毎日新聞1978年10月23日1面「ヤクルト初優勝 日本シリーズ大荒れ最終戦 阪急のV4阻む」毎日新聞縮刷版1978年10月p663
- ↑ 毎日新聞1978年10月23日22面「大もめV1 中断1時間19分 日本シリーズ ホームランかファウルか」毎日新聞縮刷版1978年10月p684
- ↑ 毎日新聞1978年10月24日19面「セ若松 MVP 山田パ 新人王は角(巨人)村上(南海)両投手」毎日新聞縮刷版1978年10月p715
- ↑ 毎日新聞1978年10月24日19面「阪急監督に梶本昇格 上田、健康上の理由で辞任」毎日新聞縮刷版1978年10月p715
- ↑ 読売新聞1978年11月2日17面「広岡ヤクルト 3年契約で」読売新聞縮刷版1978年10月p53
- ↑ 読売新聞1978年11月16日17面「田淵の『西武放出』決定 本人は態度保留」読売新聞縮刷版1978年11月p549
- ↑ 読売新聞1978年11月21日17面「タイムアップ 西武、江川を断念」読売新聞縮刷版1978年11月p751
- ↑ 読売新聞1978年11月21日17面「江川"貝"になって帰国 『今さら話すことも……』あす注目のドラフト」読売新聞縮刷版1978年11月p751
- ↑ 読売新聞1978年11月21日夕刊1面「江川投手、巨人と契約 ドラフト前日『期限切れでフリー』」読売新聞縮刷版1978年11月p759
- ↑ 朝日新聞1978年11月22日1面「巨人と江川の契約無効 セ会長 実行委に諮り却下」朝日新聞縮刷版1978年11月p779
- ↑ 朝日新聞1978年11月22日夕刊1面「江川、阪神に交渉権 注目の中 ドラフト会議」朝日新聞縮刷版1978年11月p809
- ↑ 読売新聞1978年11月28日17面「金田留投手、広島へ」読売新聞縮刷版1978年11月p1021
- ↑ 読売新聞1978年11月28日17面「広島大下、コーチ専任」読売新聞縮刷版1978年11月p1021
- ↑ 読売新聞1978年12月2日17面「ノムさんまたまた一卒兵へ 『奥義極める』- 西武の捕手に」読売新聞縮刷版1978年12月p61
- ↑ 読売新聞1978年12月7日17面「『西武田淵』誕生」読売新聞縮刷版1978年12月p247
- ↑ 朝日新聞1978年12月22日1面「『巨人江川』は認めぬ コミッショナーが提訴却下 ドラフト有効 阪神に交渉権」朝日新聞縮刷版1978年12月p763
- ↑ 朝日新聞1978年12月23日1面「一転『巨人江川』を指令 来月中に阪神と交換を 金子コミッショナー」朝日新聞縮刷版1978年12月p793
- ↑ 朝日新聞1978年12月23日15面「ヤクルト、近鉄で交換トレード」朝日新聞縮刷版1978年12月p807