1969年の野球
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競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セントラル・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
優勝 | 読売ジャイアンツ | 73 | 51 | 6 | .589 | - |
2位 | 阪神タイガース | 68 | 59 | 6 | .535 | 6.5 |
3位 | 大洋ホエールズ | 61 | 61 | 7 | .500 | 11.0 |
4位 | 中日ドラゴンズ | 59 | 65 | 6 | .476 | 14.0 |
5位 | アトムズ | 58 | 69 | 3 | .457 | 16.5 |
6位 | 広島東洋カープ | 56 | 70 | 4 | .444 | 18.0 |
パシフィック・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 |
優勝 | 阪急ブレーブス | 76 | 50 | 4 | .603 | - |
2位 | 近鉄バファローズ | 73 | 51 | 6 | .589 | 2.0 |
3位 | ロッテオリオンズ | 69 | 54 | 7 | .561 | 5.5 |
4位 | 東映フライヤーズ | 57 | 70 | 3 | .449 | 19.5 |
5位 | 西鉄ライオンズ | 51 | 75 | 4 | .405 | 25.0 |
6位 | 南海ホークス | 50 | 76 | 4 | .397 | 26.0 |
日本シリーズ
個人タイトル
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
タイトル | 選手 | 球団 | 成績 | 選手 | 球団 | 成績 |
最優秀選手 | 王貞治 | 巨人 | 長池徳二 | 阪急 | ||
最優秀新人 | 田淵幸一 | 阪神 | 有藤通世 | ロッテ | ||
首位打者 | 王貞治 | 巨人 | .345 | 永淵洋三 張本勲 |
近鉄 東映 |
.333 |
本塁打王 | 王貞治 | 巨人 | 44本 | 長池徳二 | 阪急 | 41本 |
打点王 | 長嶋茂雄 | 巨人 | 115点 | 長池徳二 | 阪急 | 101点 |
最多安打 | 長嶋茂雄 王貞治 |
巨人 | 156本 | 永淵洋三 | 近鉄 | 162本 |
盗塁王 | 柴田勲 | 巨人 | 35個 | 阪本敏三 | 阪急 | 47個 |
最多出塁数(セ) 最高出塁率(パ) |
王貞治 | 巨人 | 272個 | 張本勲 | 東映 | .421 |
最優秀防御率 | 江夏豊 | 阪神 | 1.81 | 木樽正明 | ロッテ | 1.72 |
最多勝利 | 高橋一三 | 巨人 | 22勝 | 鈴木啓示 | 近鉄 | 24勝 |
最多奪三振 | 江夏豊 | 阪神 | 262個 | 鈴木啓示 | 近鉄 | 286個 |
最高勝率 | 高橋一三 | 巨人 | .815 | 清俊彦 | 近鉄 | .720 |
ベストナイン
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||
---|---|---|---|---|
守備位置 | 選手 | 球団 | 選手 | 球団 |
投手 | 高橋一三 | 巨人 | 鈴木啓示 | 近鉄 |
捕手 | 木俣達彦 | 中日 | 岡村浩二 | 阪急 |
一塁手 | 王貞治 | 巨人 | 大杉勝男 | 東映 |
二塁手 | 土井正三 | 巨人 | 山崎裕之 | ロッテ |
三塁手 | 長嶋茂雄 | 巨人 | 有藤通世 | ロッテ |
遊撃手 | 藤田平 | 阪神 | 阪本敏三 | 阪急 |
外野手 | 高田繁 | 巨人 | 長池徳二 | 阪急 |
D.ロバーツ | アトムズ | 永淵洋三 | 近鉄 | |
山本一義 | 広島 | 張本勲 | 東映 |
オールスターゲーム
"「1969年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」"
高校野球
- 第41回選抜高等学校野球大会優勝 三重(三重県)
- 第51回全国高等学校野球選手権大会優勝 松山商業(愛媛県)
大学野球
- 第18回全日本大学野球選手権大会優勝:東海大
社会人野球
- 第40回都市対抗野球大会優勝:電電関東
- 第19回日本産業対抗野球大会優勝:北海道拓殖銀行
メジャーリーグ
"「1969年のメジャーリーグベースボール」"
- ワールドシリーズ
- ニューヨーク・メッツ(ナ・リーグ) (4勝1敗) ボルチモア・オリオールズ(ア・リーグ)
できごと
1月
- 1月10日 - 巨人は嵯峨健四郎を自由契約とする[1]。
- 1月11日 - 巨人の高倉照幸は球団から要請されていたコーチ補佐兼スカウトへの就任を断り、自由契約にしてほしいと球団に申し入れる[2]。
- 1月13日 - ヤクルトの球団社長の松園尚巳は巨人を自由契約となった高倉照幸に対して入団を要請[3]。
- 1月18日 - 東京オリオンズが株式会社ロッテと業務提携することを正式に契約したことを発表。チーム名は「ロッテオリオンズ」に[4]。
- 1月21日 - 東映は巨人を自由契約となった嵯峨健四郎の入団を発表[5]。
- 1月28日 - 阪急はダリル・スペンサーとロサンゼルス市内で契約交渉を行い、球団はスペンサーに対し20パーセントの減俸を提示したがスペンサーはこれを拒否したため、退団が決定[6]。
2月
3月
- 3月1日 - 【MLB】ニューヨーク・ヤンキースのミッキー・マントルがスプリング・キャンプ地のフォートローデルデールにて現役引退を発表[8]。
- 3月14日 - 西鉄の宇佐美和雄が福岡市内の西鉄ライオンズ百道寮の雨天練習場で練習中にチームメイトの打球が胸に当たり、午後9時頃死去。死因は「胸部打撲によるショック死」[9]。
- 3月24日 - ヤクルトの球団社長の松園尚巳がオーナーも兼任すると発表[10]。
4月
- 4月8日 - サンケイは球団の名称を「サンケイ・アトムズ」から「アトムズ」[11]に変更するとセ・リーグに届け出、リーグも即日了承[12]。
- 4月12日 - 中日の中利夫が広島球場での対広島1回戦の8回表に二盗を決め、プロ通算300盗塁を達成[13]。
- 4月22日 - 東京球場での西鉄対ロッテ1回戦の9回裏、ロッテが無死1塁から前田益穂がバントし、西鉄の捕手の宮寺勝利が二塁へ送球するもこれがセーフの判定となるが、西鉄側が打者の前田の守備妨害をアピールしてこれが認められ、今度はこれにロッテ側が猛抗議し、試合が53分中断[14]。
- 4月26日 - 南海の広瀬叔功が大阪球場での対西鉄1回戦に中堅手として先発出場し、プロ通算1500試合出場達成[15]。
- 4月27日 - 巨人の長島茂雄が広島市民球場での対広島2回戦の七回表に二塁打を放ち、プロ通算3000塁打を達成[16]。
- 4月30日 - 西宮球場で行われた阪急対近鉄4回戦で阪急のゴードン・ウインディが3回裏に1号本塁打を放ち、阪急は開幕13試合連続本塁打を記録し、1950年に大映オリオンズが記録した「12」を抜くパ・リーグ新記録[17]。
5月
- 5月4日 - 巨人の長嶋茂雄が後楽園球場での対大洋5回戦の9回表、一死満塁の場面で右犠飛を放ち、プロ通算1000打点を記録[18]。
- 5月10日 - 中日の中利夫が中日球場での対大洋4回戦7回裏に二塁打を打ち、プロ通算1500安打を達成[19]。
- 5月11日 - 中日の田中勉が中日球場での対大洋6回戦に先発して勝利投手となり、プロ通算100勝を達成[20]。
- 5月13日 - 南海の野村克也が日生球場での対近鉄2回戦の4回表、国貞泰汎の安打で生還し、プロ通算1000得点を記録[21]。
- 5月18日 - 近鉄バファローズのジム・ジェンタイル(登録名はジムタイル)が西宮球場での対近鉄6回戦の2回表に3号本塁打を放つも、一塁ベース手前で左足が肉離れを起こして負傷し、伊勢孝夫がジムタイルの代走としてホームインする[22]。
- 5月22日 - 巨人の長嶋茂雄が神宮球場での対ヤクルト9回戦の1回表に6号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[23]。
- 5月23日 - 西鉄の監督の中西太は福岡市内の球団事務所を訪ね、病気のために休養したいと申し入れ、球団もこれを了承、監督代行としてコーチの鬼頭政一が務めることに[24]。
- 5月25日 - 中日の江藤慎一が中日球場での対巨人6回戦の3回裏に7号3ラン本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[25]。
- 5月27日 - アトムズのルー・ジャクソンが脾臓壊死のため死去。享年33。
- 5月31日 - 中日の中利夫が中日球場での対広島10回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[26]。
6月
- 6月1日 - 近鉄対東映のダブルヘッダーが西京極球場で行われ第一試合の10回戦で近鉄が9-0で勝利、第二試合も近鉄が6-1で勝利し、近鉄は球団新記録となる12連勝となる[27]。
- 6月3日 - 広島の山本一義が広島球場での対大洋5回戦の二回裏に10号本塁打を放ち、プロ通算100号本塁打を達成[28]。
- 6月4日 - 広島の水谷実雄がウエスタン・リーグの対阪急6回戦でウエスタン新記録となる1試合4本塁打を放つ[29]。
- 6月13日 - 西鉄は休養中の監督の中西太が14日の対南海戦から復帰すると発表[30]。
- 6月15日 - 中日の小川健太郎が後楽園球場での対巨人9回戦に先発し、王貞治に対し三回裏と六回裏に背面投げの変則投球[31]。
- 6月20日 - 南海対ロッテの10回戦が東京スタジアムで行われ、南海はロッテに0-6で敗れ球団新記録となる12連敗となる[32]。
7月
- 7月13日 - 阪神の権藤正利が甲子園での対中日12回戦に先発して1失点の完投勝利で4勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[33]。
- 7月22日 - 平和台球場でのオールスターゲーム第3戦、13回表の午後10時6分に球場の照明灯が全て停電し、試合が約53分中断[34]。
8月
- 8月1日 - 阪神の村山実が甲子園球場での対巨人14回戦の1回表に巨人の長嶋茂雄から三振を奪い、プロ通算2000奪三振を記録[35]。
- 8月6日 - 東映の毒島章一が西京極球場での対阪急18回戦の3回表に三塁打を放ち、金田正泰と並ぶ通算103三塁打のプロ野球タイ記録[36]。
- 8月16日 - ロッテの成田文男が西宮球場での対阪急14回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成[37]。
- 8月17日 - 巨人の長嶋茂雄が後楽園球場での対大洋16回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成。
- 8月18日 - 第51回全国高等学校野球選手権大会決勝で、三沢高校と松山商が延長18回の上引き分け再試合[38][39]。
- 8月19日 - 甲子園球場にて第51回全国高等学校野球選手権大会決勝の再試合が行われ、松山商業が三沢高校を4対2と破って優勝を決める[40]。
- 8月27日 - 中日の高木守道が中日球場での対大洋20回戦の9回裏に19号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[41]。
- 8月31日 - 東映の張本勲が対ロッテ19回戦の2回表にバント安打を放ち、プロ通算1500安打を達成[42]。
9月
- 9月4日 - 阪急は西宮球場での対近鉄18回戦で、1回裏から4回裏まで4イニング連続で本塁打を記録し、パ・リーグ記録を作る[43]。
- 9月6日 - ロッテの前田益穂が日生球場での対近鉄23回戦の6回表に安打を放ち、プロ通算1000安打を達成[44]。
- 9月17日 - 阪神の吉田義男が甲子園球場での対ヤクルト22回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[45]。
- 9月18日 - アトムズのデーヴ・ロバーツが甲子園球場での対阪神23回戦の3回表にこの日2本目となる32号本塁打を放ち、プロ野球通算100号本塁打を達成[46]。
- 9月23日 - 東映の大杉勝男が大阪球場での対南海17回戦の2回表に30号本塁打を放ち、プロ通算100号本塁打を達成[47]。
10月
- 10月5日 - 巨人の柴田勲が川崎球場での対大洋ダブルヘッダー第2試合の第25回戦の八回表に二盗を決め、プロ通算300盗塁を達成[48]。
- 10月6日 - 巨人の王貞治が川崎球場での対大洋25回戦の8回表に適時打を放ち、プロ通算1000打点を達成[49]。
- 10月8日 - 西鉄の永易将之が公式戦で八百長を演じていたと読売新聞と報知新聞が報道[50]。
- 10月9日
- 10月10日 - 巨人の金田正一が後楽園球場での対中日戦の5回表に登板して勝利投手となり通算400勝を達成[54]。
- 10月12日 - ロッテの榎本喜八が大阪球場での対南海26回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[55]。
- 10月16日 - 【MLB】1969年度ワールドシリーズの第5戦がシェイ・スタジアムで行われ、ニューヨーク・メッツがボルチモア・オリオールズを5-3で破り対戦成績を4勝1敗としてワールド・チャンピオンの座を獲得。MVPはメッツの一塁手のドン・クレンデノン[56]。
- 10月18日 - 巨人の王貞治が中日球場での対中日25回戦にて1回表に44号本塁打を放ち、野村克也に次いでプロ野球史上2人目の通算400号本塁打達成[57]。
- 10月19日 - 阪急対近鉄戦の25回戦が午後1時より藤井寺球場で行われ、阪急が近鉄に3-2で勝ち、3年連続3度目のリーグ優勝を達成[58][59]。
- 10月21日 - 沢村賞の選考が東京・有楽町の交通大飯店にて東京運動記者クラブ加盟社の各部長が出席して行い、巨人の高橋一三を選出[60]。
- 10月22日
- 10月30日 - 巨人対阪急の日本シリーズ第4戦が後楽園球場で行われ、4回裏巨人は無死一・三塁で重盗、三塁走者の土井が本塁へ突入し阪急捕手の岡村浩二にブロックされたに見えるも判定はセーフ。判定に怒った岡村が主審の岡田功を突き飛ばし、日本シリーズ史上初の退場処分を受ける[63]。
11月
- 11月2日 - 日本シリーズの第6戦が西宮球場にて行われ、巨人が阪急に9-2で勝利し5年連続日本一を達成[64]。
- 11月3日 - 中日は打撃コーチの田宮謙次郎の退団を発表[65]。
- 11月4日
- 11月5日 - 南海は午後5時より南海電鉄本社で記者会見し、野村克也の兼任監督就任を発表[68]。
- 11月8日 - プロ野球東西対抗戦が10年ぶりに開催され、午後1時3分より西京極球場にて第一戦が行われ、水原茂が監督の東軍が三原脩が監督の西軍を6-2で破る[69]。
- 11月17日 - 阪神は午後3時半より大阪市北区の阪神電鉄本社にて選手兼投手コーチの村山実が監督に昇格したと正式に発表[70]。
- 11月20日 - プロ野球新人選択会議が午前11時より銀座・日生会館にて行われ、三沢高校の太田幸司は近鉄が、早稲田大学の谷沢健一は中日が独占交渉権を獲得[71]。
- 11月24日 - 広島の古葉竹識と南海の国貞泰汎のトレードが発表される。
- 11月25日 - 野球博物館内に表彰、掲載される人物を選出する競技者表彰委員会は1969年度の記者投票の開票を行い、苅田久徳を選出[72]。
- 11月28日 - コミッショナー委員会とセ・リーグ会長の鈴木竜二、パ・リーグ会長の岡野祐が東京・西銀座のコミッショナー事務局にて委員会を開き、午後4時に永易将之を永久追放処分とする裁決を発表[73]。
- 11月30日 - 巨人の金田正一が神宮球場にて記者会見し、現役引退を表明[74]。
12月
- 12月1日 - 西鉄を退団した前コーチの仰木彬が、近鉄監督の三原脩から誘われ、近鉄に守備コーチとして入団が決定[75]。
- 12月10日 - 中日の板東英二が名古屋市中区の球団事務所を訪れ、球団社長の小山武夫に対し現役引退を申し入れて了承される[76]。
- 12月13日 - 巨人の宮田征典が体力の限界を理由に球団に現役引退を申し入れ受理され、任意引退となる[77]。
- 12月15日
- 12月19日
- 中日は田中勉に対し、「トレード先が見つからないため自由契約にする」と通告。
- 田中勉は、『週刊ポスト』10月24日号で「田中勉も一役?」と田中も八百長に絡んだという記事を掲載した件に関し、同誌を名誉棄損罪で東京地検に告訴。
- 12月24日 - 阪神の吉田義男が大阪市北区の阪神電鉄本社にて球団社長の戸沢一隆と午後4時より会談し、6時に退団を表明[79]。
- 12月26日 - 中日の江藤慎一は球団からのトレードを拒否し、名古屋市内の江藤慎一事務所にて任意引退同意書にサイン。セ・リーグは即日任意引退選手として公示[80]。
誕生
1月
2月
3月
- 3月4日 - 白井康勝
- 3月8日 - 森廣二
- 3月15日 - 武藤潤一郎
- 3月18日 - 小池秀郎
- 3月24日 - 郭李建夫
- 3月25日 - 瀬戸輝信
- 3月25日 - エリック・シュールストロム
- 3月25日 - スコット・サンダース
- 3月27日 - 中嶋聡
- 3月29日 - 吉原孝介
4月
- 4月1日 - 関川浩一
- 4月2日 - 堀幸一
- 4月6日 - ブレット・ブーン
- 4月8日 - ピート・ウォーカー
- 4月9日 - 新井潔
- 4月13日 - 増田政行
- 4月16日 - 高橋建
- 4月16日 - 鈴木健
- 4月17日 - ジェフ・ボール
- 4月19日 - 久慈照嘉
- 4月22日 - ポール・ゴンザレス
- 4月24日 - 加世田美智久
- 4月29日 - 加藤博人
- 4月30日 - 金田政彦
- 4月30日 - 城友博
- 4月30日 - 上田浩明
5月
- 5月1日 - 吉永幸一郎
- 5月1日 - フィル・ハイアット
- 5月5日 - 伊良部秀輝(+ 2011年)
- 5月7日 - 小桧山雅仁
- 5月9日 - デジ・ウィルソン
- 5月13日 - ライル・ムートン
- 5月14日 - 後藤孝志
- 5月15日 - 江口孝義
- 5月16日 - 上原晃
- 5月22日 - 橋本清
- 5月23日 - 清原雄一
- 5月23日 - 松久保新吾
- 5月23日 - 金杞泰
- 5月26日 - 梁埈赫
- 5月28日 - 柳田聖人
- 5月29日 - 諸積兼司
- 5月31日 - 大村巌
6月
- 6月4日 - 作山和英
- 6月4日 - ロベルト・ペレス
- 6月5日 - 石貫宏臣
- 6月21日 - コーリー・ポール
- 6月22日 - 日月鉄二
- 6月26日 - ロドニー・マイヤーズ
- 6月27日 - 片岡篤史
- 6月30日 - 野村弘樹
7月
- 7月1日 - 桧山進次郎
- 7月2日 - 亀山努
- 7月2日 - 田口壮
- 7月2日 - 山田勝彦
- 7月3日 - 大久保秀昭
- 7月8日 - アーニー・ヤング
- 7月12日 - 竹下潤
- 7月16日 - 上中吉成
- 7月20日 - 川島堅
- 7月25日 - 落合英二
8月
- 8月1日 - ケビン・ジャービス
- 8月2日 - 具臺晟
- 8月5日 - 若田部健一
- 8月9日 - 小原沢重頼
- 8月18日 - 芝草宇宙
- 8月19日 - マット・フランコ
- 8月19日 - タイロン・ウッズ
- 8月19日 - 立浪和義
- 8月20日 - マーク・ホージマー
- 8月21日 - 村上竜太郎
- 8月23日 - 五十嵐英樹
- 8月31日 - ネイサン・ミンチー
9月
- 9月2日 - 高村祐
- 9月3日 - 杉山直樹
- 9月9日 - 野林大樹
- 9月11日 - エドゥアルド・ペレス
- 9月13日 - 伊藤博康
- 9月18日 - 村田勝喜
- 9月19日 - 島田一輝
- 9月22日 - ジェフ・バリー
- 9月24日 - 有働克也
- 9月27日 - 西岡洋
10月
- 10月2日 - 高井一
- 10月2日 - アラン・ニューマン
- 10月3日 - 藤島誠剛
- 10月11日 - 五十嵐明
- 10月11日 - オーランド・ヘルナンデス
- 10月21日 - 辻本弘樹
- 10月22日 - ヘクター・カラスコ
- 10月28日 - 大道典嘉
11月
- 11月11日 - 浜名千広
- 11月13日 - リゴ・ベルトラン
- 11月21日 - 盛田幸妃(+ 2015年)
- 11月21日 - ケン・グリフィー・ジュニア
- 11月22日 - 吉本亮
- 11月26日 - 土井善和
- 11月29日 - マリアーノ・リベラ
12月
- 12月1日 - 三輪隆
- 12月10日 - ジョン・ズーバー
- 12月11日 - 町田公二郎
- 12月12日 - デリック・ホワイト
- 12月12日 - ラファエル・ディアス
- 12月14日 - デービッド・ニルソン
- 12月17日 - ルディ・ペンバートン
- 12月28日 - ロドニー・ペドラザ
死去
- 2月19日 - ドク・ホワイト(* 1879年)
- 3月14日 - ヘイニー・ジマーマン(* 1887年)
- 3月14日 - 宇佐美和雄(* 1950年)
- 5月5日 - エディ・シーコット(* 1884年)
- 5月27日 - ルー・ジャクソン(* 1935年)
- 6月1日 - 小島利男(* 1913年)
- 7月23日 - 平井三郎(* 1923年)
- 8月22日 - 赤根谷飛雄太郎(* 1916年)
- 9月30日 - ハンク・トンプソン(* 1925年)
- 11月15日 - ビリー・サウスワース(* 1893年)
- 12月7日 - レフティ・オドール(* 1897年)
- 12月30日 - 岡本利之(* 1916年)
脚注
- ↑ 読売新聞1969年1月11日11面「プロ野球短信」読売新聞縮刷版1969年1月p255
- ↑ 読売新聞1969年1月12日11面「プロ野球短信」読売新聞縮刷版1969年1月p276
- ↑ 読売新聞1969年1月13日11面「プロ野球短信」読売新聞縮刷版1969年1月p302
- ↑ 日刊スポーツ1969年1月19日1面「ロッテオリオンズ誕生 副会長・オーナーに中村氏 岸元首相の秘書」
- ↑ 読売新聞1969年1月22日11面「プロ野球短信」読売新聞縮刷版1969年1月p555
- ↑ 読売新聞1969年1月31日11面「スペンサー、阪急退団」読売新聞縮刷版1969年1月p817
- ↑ 読売新聞1969年2月16日8面「14選手が契約 米の新プロ野球組織参加チーム」読売新聞縮刷版1969年2月p432
- ↑ AP通信「ヤンキースのマントル引退」読売新聞縮刷版1969年3月p63
- ↑ 読売新聞1969年3月15日15面「打球胸に浮け死ぬ 練習中の西鉄新人選手」読売新聞縮刷版1969年3月p441
- ↑ 読売新聞1969年3月25日11面「告知板」読売新聞縮刷版1969年3月p705
- ↑ ニックネーム名のみを正式な球団名にする。産経新聞社とヤクルト本社の共同経営体制に移行したことによる。
- ↑ 朝日新聞1969年4月9日13面「アトムズを正式名称に サンケイ・アトムズ」朝日新聞縮刷版1969年4月p281
- ↑ 読売新聞1969年4月13日9面「中は三百盗塁」読売新聞縮刷版1969年4月p389
- ↑ 読売新聞1969年4月23日9面「打球の判定めぐり53分中断 ロッテ・西鉄引き分け」読売新聞縮刷版1969年4月p689
- ↑ 読売新聞1969年4月27日9面「広瀬、千五百試合出場」読売新聞縮刷版1969年4月p817
- ↑ 読売新聞1969年4月28日9面「長島が三千塁打」読売新聞縮刷版1969年4月p841
- ↑ 読売新聞1969年5月1日9面「阪急、開幕13試合連続ホーマー」読売新聞縮刷版1969年5月p9
- ↑ 読売新聞1969年5月5日9面「長島、6人目の千打点」読売新聞縮刷版1969年5月p133
- ↑ 読売新聞1969年5月11日9面「中が千五百本安打」読売新聞縮刷版1969年5月p281
- ↑ 読売新聞1969年5月12日9面「田中(中日)が百勝」読売新聞縮刷版1969年5月p305
- ↑ 読売新聞1969年5月14日8面「野村が千得点記録」読売新聞縮刷版1969年5月p372
- ↑ 読売新聞1969年5月19日9面「史上初の代走本塁打」読売新聞縮刷版1969年5月p529
- ↑ 読売新聞1969年5月23日9面「長島、三百号を達成」読売新聞縮刷版1969年5月p649
- ↑ 読売新聞1969年5月24日9面「中西西鉄監督が休養 不振の責任とって 鬼頭コーチが代行」読売新聞縮刷版1969年5月p691
- ↑ 読売新聞1969年5月26日9面「江藤兄、通算250号」読売新聞縮刷版1969年5月p741
- ↑ 読売新聞1969年6月1日11面「中が千五百試合出場」読売新聞縮刷版1969年6月p11
- ↑ 読売新聞1969年6月2日11面「近鉄、球団初の12連勝 第一 東映を封じ9勝」読売新聞縮刷版1969年6月p35
- ↑ 読売新聞1969年6月4日11面「山本一(広島)通算百号」読売新聞縮刷版1969年6月p95
- ↑ 読売新聞1969年6月5日10面「水谷(広島)1試合に4本塁打 ウエスタン新」読売新聞縮刷版1969年6月p126
- ↑ 読売新聞1969年6月14日11面「中西監督 きょう復帰」読売新聞縮刷版1969年6月p407
- ↑ 読売新聞1969年6月16日11面「小川、王に”背面投げ”」読売新聞縮刷版1969年6月p463
- ↑ 読売新聞1969年6月21日11面「南海、球団初の12連敗 成田(ロッテ)が3安打完封」読売新聞縮刷版1969年6月p623
- ↑ 読売新聞1969年7月14日11面「権藤が通算百勝」読売新聞縮刷版1969年7月p435
- ↑ 読売新聞1969年7月23日15面「"夢の球宴"ハプニング いいところで真っ暗け 停電、ファン三万騒然」読売新聞縮刷版1969年7月p715
- ↑ 読売新聞1969年8月2日11面「村山が奪三振通算二千個」読売新聞縮刷版1969年8月p45
- ↑ 読売新聞1969年8月7日10面「毒島、三塁打のタイ」読売新聞縮刷版1969年8月p178
- ↑ 読売新聞1969年8月17日11面「成田(ロッテ)ノーヒットノーラン 阪急を3四球に 今季初」読売新聞縮刷版1969年8月p483
- ↑ 朝日新聞1969年8月19日1面「決勝きょう再試合 全国高校野球三沢ー松山商戦 延長18回で初の引分け」朝日新聞縮刷版1969年8月p543
- ↑ 読売新聞1969年8月19日11面「白熱の攻防18回、引き分け 太田、井上力投また力投」読売新聞縮刷版1969年8月p535
- ↑ 朝日新聞1969年8月19日夕刊1面「松山商 四度目の優勝 健闘三沢、涙のむ 全国高校野球 熱戦二日間、4-2」朝日新聞縮刷版1969年8月p569
- ↑ 読売新聞1969年8月27日11面「高木守、プロ入り百号本塁打」読売新聞縮刷版1969年8月p775
- ↑ 読売新聞1969年9月1日11面「張本が千五百本安打」読売新聞縮刷版1969年9月p11
- ↑ 読売新聞1969年9月5日11面「阪急、四イニング連続ホーマー パ・リーグ新」読売新聞縮刷版1969年9月p133
- ↑ 読売新聞1969年9月7日11面「前田(ロッテ)が千本安打」読売新聞縮刷版1969年9月p201
- ↑ 読売新聞1969年9月18日11面「吉田(阪神)が二千試合出場 山内についで2人目」読売新聞縮刷版1969年9月p537
- ↑ 読売新聞1969年9月19日11面「ロバーツ プロ入り百号」読売新聞縮刷版1969年9月p569
- ↑ 読売新聞1969年9月24日夕刊8面、読売新聞縮刷版1969年9月p710
- ↑ 読売新聞1969年10月6日11面「柴田は300盗塁」読売新聞縮刷版1969年10月p171
- ↑ 読売新聞1969年10月7日11面「王、通算千打点」読売新聞縮刷版1969年10月p203
- ↑ 読売新聞1969年10月8日15面「西鉄 永易投手が八百長」読売新聞縮刷版1969年10月p243
- ↑ 読売新聞1969年10月9日夕刊1面「正力松太郎読売新聞社主死去 言論と政治に大きな足跡」読売新聞縮刷版1969年10月p281
- ↑ 読売新聞1969年10月10日1面「巨人が五年連続優勝 セ・リーグ」読売新聞縮刷版1969年10月p293
- ↑ 毎日新聞1969年10月10日15面「巨人が5年連続優勝 長島、痛烈な先制29号 7試合残し、中日に快勝」毎日新聞縮刷版1969年10月p295
- ↑ 読売新聞1969年10月11日11面「金田、史上初の400勝 城之内を救援、5回投げ切る プロ20年目で達成」読売新聞縮刷版1969年10月p339
- ↑ 読売新聞1969年10月13日11面「榎本、二千試合出場」読売新聞縮刷版1969年10月p394
- ↑ 日刊スポーツ1969年10月18日2面「メッツ初優勝ついに奇跡呼ぶ ワールドシリーズ最終戦」
- ↑ 毎日新聞1969年10月19日15面「王が400号ホーマー」毎日新聞縮刷版1969年10月p583
- ↑ 読売新聞1969年10月20日1面「阪急、3年連続優勝 パ・リーグ」読売新聞縮刷版1969年10月p609
- ↑ 毎日新聞1969年10月20日13面「阪急、不屈の三年連続優勝」毎日新聞縮刷版1969年10月p609
- ↑ 読売新聞1969年10月22日11面「高橋一に『沢村賞』」読売新聞縮刷版1969年10月p687
- ↑ 朝日新聞1969年10月23日13面「中西退団本決まり 西鉄」朝日新聞縮刷版1969年10月p737
- ↑ 読売新聞1969年10月23日11面「上田コーチ(広島)退団」読売新聞縮刷版1969年10月p719
- ↑ 読売新聞1969年10月31日11面「岡村浩、シリーズ史上初の退場」読売新聞縮刷版1969年10月p983
- ↑ 読売新聞1969年11月3日1面「巨人、初の5年連続優勝 日本シリーズ」読売新聞縮刷版1969年11月p57
- ↑ 読売新聞1969年11月4日11面「田宮コーチ退団発表」読売新聞縮刷版1969年11月p103
- ↑ 読売新聞1969年11月3日夕刊6面「稲尾の監督昇格 西鉄オーナー」読売新聞縮刷版1969年11月p130
- ↑ 67.0 67.1 朝日新聞1969年11月5日13面「最優秀選手に王・長池 新人王は田淵・有藤」
- ↑ 朝日新聞1969年11月6日13面「"マスクかぶりさい配" 昇格の野村新南海監督」朝日新聞縮刷版1969年11月p169
- ↑ 読売新聞1969年11月9日11面「東軍、西軍に打ち勝つ 6回、一気に清を攻略 衣笠、田淵の連続ホーマーフイ」読売新聞縮刷版1969年11月p279
- ↑ 読売新聞1969年11月18日11面「阪神、村山の監督就任を発表」読売新聞縮刷版1969年11月p567
- ↑ 読売新聞1969年11月20日夕刊10面「中日、矢沢、大洋・荒川 ドラフト会議 太田は近鉄に交渉権」読売新聞縮刷版1969年11月p654
- ↑ 読売新聞1969年11月9日11面「苅田氏"野球殿堂"入り 競技者では七人目」読売新聞縮刷版1969年11月p827
- ↑ 毎日新聞1969年11月29日15面「永易をプロ球界から永久追放」毎日新聞縮刷版1969年10月p905
- ↑ 朝日新聞1969年12月1日13面「金田 引退を表明 数々の記録を残し」縮刷版p13
- ↑ 読売新聞1969年12月2日11面「球界ルポ 仰木が近鉄入り」読売新聞縮刷版1969年12月p39
- ↑ 読売新聞1969年12月10日11面「球界ルポ 板東(中日)も引退決定」読売新聞縮刷版1969年12月p307
- ↑ 読売新聞1969年12月14日11面「宮田(巨人)が引退」読売新聞縮刷版1969年12月p443
- ↑ 読売新聞1969年12月16日11面「プロ野球短信」読売新聞縮刷版1969年12月p495
- ↑ 毎日新聞1969年12月25日15面「吉田、阪神を退団 任意引退へ 米国へ野球留学」毎日新聞縮刷版1969年12月p771
- ↑ 読売新聞1969年12月27日11面「江藤兄の"引退"公示」読売新聞縮刷版1969年12月p937