大相撲
大相撲(おおずもう)は、
公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、日本国内外における相撲興行のなかで最も有名な競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる(見た目が男性であるゲイやトランスジェンダー、あるいは半陰陽に関する規定は無い)。
Contents
歴史
現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。
江戸時代
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた[2]。
ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである[3]。
『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。
しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[4]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。
明治・大正
明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。
東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。
この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。
20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。
1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。
1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制導入などの制度や規則が導入されて相撲の近代スポーツ化がすすめられた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。
1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。
1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった[5]。
1925年、皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。
昭和戦前から戦後初期
1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。
この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために[6]、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。
1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。
69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。
第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
昭和戦後
1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間行われた(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。[7]横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。
1971年に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。
1972年1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。
1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
1985年1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。
平成
平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎、武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が師匠貴ノ花健士の息子である若乃花勝・貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。
2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平、鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀とエストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。
2000年後半から不祥事が相次ぎ、2008年には大麻問題の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。
2014年1月30日、公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける[8]。
興行
大相撲の興行としては、本場所と巡業が大きなウェイトを占める。
本場所
本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。
開催月 | 正式名称 | 通称 | 開催場所 |
---|---|---|---|
1月 | 一月場所 | 初場所 | 両国国技館 |
3月 | 三月場所 | 春場所 | 大阪府立体育会館・第1競技場[注 1] |
5月 | 五月場所 | 夏場所 | 両国国技館 |
7月 | 七月場所 | 名古屋場所 | 愛知県体育館 |
9月 | 九月場所 | 秋場所 | 両国国技館 |
11月 | 十一月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター |
- Ryogoku Great Sumo Hall.jpg
両国国技館
- EDION Arena Osaka.JPG
大阪府立体育会館
- Fukuoka International Center.jpg
福岡国際センター
尚、大阪府立体育会館[注 2]と愛知県体育館[注 3]は、施設命名権が売却されているが、本場所開催にあたっては放送法第83条(大相撲中継を行うNHKにおける広告・宣伝放送禁止規定)に抵触する命名権行使を停止し、正式名称で使用される[注 4]。但し、主催者である日本相撲協会では、FIFA(国際サッカー連盟)及びAFC(アジアサッカー連盟)等のFIFA傘下大陸連盟が主催・主管するサッカー国際試合におけるクリーンスタジアム規定のような施設命名権行使禁止規定は設けていない為、番付表には、正式名称と命名権名称の両方が併記される[注 5]。
地方巡業
本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを巡業という。かつては各部屋や一門別に巡業を行っていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。
地方巡業は、各地の興行の希望者(「勧進元」)が協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形で長年行われてきた(売り興行)。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。
地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。
花相撲
海外公演
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
回数 | 開催年月 | 名 称 | 都 市 | 備 考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1965年7月-8月 | ソ連公演 | モスクワ、ハバロフスク | 日ソ復交調印10周年記念 |
第2回 | 1973年4月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中国交正常化記念 |
第3回 | 1981年6月 | メキシコ公演 | メキシコシティ | |
第4回 | 1985年6月 | アメリカ公演 | ニューヨーク | 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念 |
第5回 | 1986年10月 | パリ公演 | パリ | 東京パリ友好都市提携5周年記念 |
第6回 | 1990年6月 | ブラジル公演 | サンパウロ | |
第7回 | 1991年10月 | ロンドン公演 | ロンドン | ロンドン日本協会設立100周年記念 |
第8回 | 1995年10月 | ヨーロッパ公演 | ウィーン、パリ | |
第9回 | 1997年6月 | オーストラリア公演 | メルボルン、シドニー | 日豪外交100周年記念 |
第10回 | 1998年6月 | カナダ公演 | バンクーバー | |
第11回 | 2004年2月 | 韓国公演 | ソウル、釜山 | 日韓共同未来プロジェクト |
第12回 | 2004年6月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中定期航空路線開設30周年記念 |
第13回 | 2005年10月 | ラスベガス公演 | ラスベガス | ラスベガス市制100周年記念 |
第14回 | 2009年10月(中止) | ロンドン公演 | ロンドン | 世界的な不況により中止 |
第15回 | 2013年6月(延期) | モスクワ公演 | モスクワ |
海外巡業
協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、高見山大五郎もここでスカウトされた。
回数 | 開催年月 | 名称 | 都市 | 備考 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1962年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第2回 | 1964年2月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | 角界拳銃密輸事件が起こる |
第3回 | 1966年 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第4回 | 1970年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第5回 | 1972年2月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第6回 | 1974年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
第7回 | 1976年6月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | |
第8回 | 1981年6月 | アメリカ巡業 | サンノゼ、ロサンゼルス | |
第9回 | 1992年6月 | スペイン、 ドイツ巡業 | マドリード、デュッセルドルフ | |
第10回 | 1993年2月 | 香港巡業 | 香港 | |
第11回 | 1993年6月 | アメリカ巡業 | ホノルル、サンノゼ | |
第12回 | 2006年8月 | 台湾巡業 | 台北 | 13年ぶりに海外巡業が復活 |
第13回 | 2007年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | 14年ぶりのハワイ巡業 |
第14回 | 2008年6月 | ロサンゼルス巡業 | ロサンゼルス | |
第15回 | 2008年8月 | モンゴル巡業 | ウランバートル | |
第16回 | 2013年8月 | ジャカルタ巡業 | ジャカルタ |
横綱
横綱(よこづな)は、大相撲の力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。
現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。
横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。
代位 | 四股名 | 生年(年齢) | 初土俵 | 横綱昇進 | 優勝 | 所属 | 出身 | |
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69代 | 65px | はくほう しょう 白鵬翔 |
1985年3月11日(39歳) | 2001年 3月 | 2007年7月 | 41回 | 宮城野部屋 | モンゴル |
71代 | 65px | かくりゅう りきさぶろう 鶴竜力三郎 |
1985年8月10日(38歳) | 2001年11月 | 2014年5月 | 5回 | 井筒部屋 | モンゴル |
72代 | 65px | きせのさと ゆたか 稀勢の里寛 |
1986年7月3日(37歳) | 2002年3月 | 2017年3月 | 2回 | 田子ノ浦部屋 | 茨城県 |
番付
大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で表される。
大相撲は幕内を最上位に、以下十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成りたつ。その中で最上位の幕内も上位から横綱・大関・関脇・小結・前頭の5つに分けられている。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われ、それら全ての順位を一場所ごとに表した物を番付と呼ぶ。
番付とは別に、幕内と十両の上位2階層は関取と呼ばれ下位の4階層と区別される場合が多く、幕内の大関・関脇・小結は三役と呼ばれ、前頭は「平幕」と呼ぶ場合が多い。
昇進と降格
ただし、同じ地位で同じ成績をあげても運不運が生じる場合がある。これは他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来る物である。
それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたり都度昇進条件が検討されることとなっている[10]。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[11]。
取組
本場所の取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。関取は15日間すべて、取的は2日に1番の割合で7番とる。取組の進行は9:00頃から前相撲を開始、大相撲中継にあわせて、結びの一番と弓取式が18:00直前に終了するように時間調整が行われている(千秋楽は表彰式のため30分繰り上げ)。
本割では、同部屋の力士および4親等以内の親族同士の取組は組まれない。
優勝制度
幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、勝ち越し点(勝ち-負け)で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。
優勝制度の不公平
同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり[12]、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで、優勝の価値の公平化を図っている。
所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。
伝統とそれによる問題点
閉鎖性
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。
またその閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行している状況であり、下位力士を竹刀で叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が芝田山親方(大乃国康)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。
また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。
出身地による参加機会の不均等
理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。また年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者ももう珍しくはないが、元高見山の12代東関や元武蔵丸の当代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる一方、元朝青龍や元把瑠都のように横綱大関まで登り詰めながら引退時に帰化しておらず、その特権を利用できずに退職を選択する力士も現れている。
女人禁制
日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。
- 2000年に大阪府知事に就任した日本初の女性都道府県知事である太田房江は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。
- 2007年9月19日(秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている[13]。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている[14]。
- 2018年4月4日、巡業先の舞鶴市で多々見良三市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した[15]。これについて八角理事長は「人命にかかわる状況には不適切な対応でした」と謝罪している[16]。
この女人禁制の風習は明治期の「違式註違条例」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる[17]。日本の相撲の歴史においては、室町時代から女相撲も存在した[17]。
1957年には四国巡業において女相撲の大関若緑の引退セレモニーが行われ、この際、若緑は大相撲の土俵に上がっている[18][19]。
志願者の減少と意識の変容
近年の日本では力士になりたいと思う少年の数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査での受検者数はゼロであった。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。
その他
- 相撲茶屋問題
本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。
- 観客席での喫煙
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。
- 座布団投げ
金星などの番狂わせがあったとき、観客が座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。
他国からの表彰
1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。
「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。
大相撲を主題とした作品
テレビゲーム
- 大相撲(データイースト、1984年)
- 出世大相撲(テクノスジャパン(後のミリオン(著作権保有)、アークシステムワークス(発売))、1984年)
- つっぱり大相撲(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1987年)
- 寺尾のどすこい大相撲(ジャレコ、1989年)
- SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所(バンプレスト(後のバンダイナムコゲームス)、1990年)
- 千代の富士の大銀杏(FACE、1990年)
- スーパー大相撲熱戦大一番(ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)、1992年)
- 大相撲魂(タカラ(後のタカラトミー)、1992年)
- つっぱり大相撲 立身出世編(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1993年)
- 若貴大相撲 夢の兄弟対決(イマジニア、1993年)
- 横綱物語(KSS(後のソフトガレージ)、1994年)
- 64大相撲(ボトムアップ、1997年)
- 64大相撲2(ボトムアップ、1998年)
- 日本相撲協會公認 日本大相撲(コナミ、2000年)
- 日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編(コナミ、2001年)
- 日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編(コナミ、2002年)
モバイルゲーム
- みんなで大相撲(Japan Internet Technologies、2011年)
- 大相撲カード決戦(HINATA、2013年)
- 大相撲ごっつぁんバトル(HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年)
落語
雑誌
現在刊行中
- 相撲(ベースボール・マガジン社) - 日本相撲協会機関誌扱い。
- NHK G-Media 大相撲中継(毎日新聞出版)
- スポーツ報知 大相撲ジャーナル(報知新聞社)
かつて刊行していた雑誌
- 大相撲(読売新聞社) - 2010年9月号をもって休刊。
- VANVAN相撲界(ベースボール・マガジン社) - 1998年終刊。
- 別冊グラフNHK大相撲特集号→NHK大相撲中継(NHKサービスセンター)
- NHK G-Media 大相撲ジャーナル(イースト・プレス)
小説
漫画作品
- ああ播磨灘(さだやす圭)
- 両国花錦闘士(岡野玲子)
- のたり松太郎(ちばてつや)
- おかみさん(一丸)
- やぐら嵐(ビッグ錠)
- やぐら太鼓の詩(琴剣)
- ちゃんこ屋虎太郎(琴剣)
- はっけよい(前川たけし)
- 巴戦、待ったなし(岸本景子)
- おっとと、お相撲くん(コンタロウ)
- どす恋ジゴロ(平松伸二)
- 嗚呼どす恋ジゴロ(平松伸二)
- よりきり君(平ひさし)
- 大相撲刑事(ガチョン太朗)
- 力人伝説 -鬼を継ぐもの-(原作:宮崎まさる、作画:小畑健)
- ももたろう(小山ゆう)
- バチバチ(佐藤タカヒロ)
- 達磨(木村えいじ)
- 火ノ丸相撲(川田)
- りきじょ(歌麿)
- ガチンコッ!(山下てつお)
- どすこーい!勝五郎(柴山みのる)
映画作品
- 名寄岩 涙の敢闘賞(小杉勇監督、1956年)
- 若ノ花物語 土俵の鬼(森永健次郎監督、1956年)
テレビドラマ
その他
- 「鬼無双シリーズ」「世界最強の国技 SUMOU」
大相撲ファンの著名人
- 好角家を参照
脚注
注釈
- ↑ 大阪府立体育会館は、第1と第2に施設が分かれており、大相撲は第1を使用、プロレスやボクシングの興行等は主に第2を使用する。
- ↑ 2012年4月から2015年3月まで3年間の契約で、BB-SPORTS社が本体育館の命名権を取得したため、2013年から3か年の場所については「ボディメーカーコロシアム」という愛称が付随していた。その後、2015年9月からはエディオンが3年間の契約で命名権を取得したことにより、2016年からは「エディオンアリーナ大阪」に名称が変更されている。
- ↑ 2018年4月から3年間の契約で、本拠地として利用しているバスケットボールB.LEAGUE・名古屋ダイヤモンドドルフィンズが命名権を取得した為、「ドルフィンズアリーナ」の名称に変更されている。
- ↑ 両国及び福岡が命名権を売却していないことや、従来からの知名度も理由。他の競技(サッカー国際試合等を除く)では抑制的ながら命名権による名称を使用する場合もあり、放送法第83条が必ずしも厳格に適用されていないため、NHKの自主的判断と思われる。
- ↑ 番付表は2013年3月については従来の大阪府立体育会館の表記だったが、2014年3月以降のの番付表には命名権名称が表記されている。
出典
- ↑ 歌川国貞画:大判錦絵:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)
- ↑ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p103
- ↑ 「大相撲の歴史と深川(4)」 (PDF) 深川江戸資料館 資料館ノート106号、2014年11月16日発行、2016年1月5日閲覧。
- ↑ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって
- ↑ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p40
- ↑ 大相撲- NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- ↑ リー・トンプソン著、中久郎編『スポーツの近代化から見た相撲』91頁 現代社会学の諸理論 世界思想社(1990年)
- ↑ 新相撲協会スタート 北の湖理事長「公益法人の責務果たす」Sponichi Annex 2014年1月30日 18:50
- ↑ 日本相撲協会 力士情報成績
- ↑ 条件は「13勝以上の優勝」=稀勢の里の綱とり-大相撲横審|2013/11/25-19:41|時事ドットコム
- ↑ 稀勢綱取りに外国人力士猛反発|2013年07月08日 16時00分|東スポWeb
- ↑ 幕内は、白鵬ら上位総当たりとそれ以外とで相撲の質が異なる。歪な構造が生み出す、大相撲の魅力|2013年10月07日|Sportsnavi
- ↑ 女性乱入ハプニング/過去の女人禁制問題 - 日刊スポーツ、2018年4月5日
- ↑ 大相撲 土俵に女性乱入で伝統は崩壊か? - AFPBB、2007年9月20日
- ↑ 救命女性に「土俵から降りて」 大相撲巡業、市長倒れ」京都新聞 2018年04月04日 19時59分
- ↑ 八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス - スポーツ報知 2018年4月5日0時2分
- ↑ 17.0 17.1 吉崎祥司、稲野一彦、相撲における「女人禁制の伝統」について 北海道教育大学紀要 2008年8月 第59巻 第1号 人文科学・社会科学編, ISSN 1344-2562{{#invoke:check isxn|check_issn|1344-2562|error={{#invoke:Error|error|{{issn}}のエラー: 無効なISSNです。|tag=span}}}}
- ↑ 約60年前に土俵に上がった“女大関”の息子が巡業騒動に言及…「バンキシャ!」が特集 - 2018年4月8日19時8分 スポーツ報知
- ↑ 遠藤泰夫『女大関 若緑』朝日新聞社、2004年。ISBN 978-4021000843
- ↑ RIKISHIが真の力を解放「ニコニコ超会議」大相撲超会議場所が大盛況 マイナビニュース 2015年4月26日
- ↑ ニコニコ超会議2015「リアルSUMOU」55th ACC CM FESTIVAL・インタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞 株式会社ドワンゴ 2015年10月28日
関連書
- 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。
関連項目
- 用語・名鑑
- 概論・制度・伝統
外部リンク
- 日本相撲協会公式サイト
- 日本相撲史概略
- 大相撲 記録の玉手箱(2009年2月20日時点のアーカイブ)
- 江戸時代のお相撲さん - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という江戸時代の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ)
- スポーツ文化情報館(2012年2月22日時点のアーカイブ)
- 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―(2010年2月5日時点のアーカイブ)
- 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って
- 大相撲 - スポナビライブ