大関
大関(おおぜき)とは、大相撲の力士の地位の一つ。横綱の下、関脇の上。三役の最上位。幕内に属する。
概要
「大関取」が語源とされ、明治中期までは力士の最高位であった。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇・小結」を指し、大関は三役の最上位であるが、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。
江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。その後、大関の上にさらに地位として付け加えられた横綱と共に、その地位(昇進および陥落)を厳密に管理されるようになった(後述)。そのため、実力者が不在のときは大関が1人以下になるが、その場合は横綱が「横綱大関」と名乗って形式上は大関を兼ねる。横綱も含めて1人以下になった場合は関脇以下から補充しなければならないが、そのような事態は出現していない。
大関昇進後の待遇としては、協会から支給される月給が234万7,000円となり、関脇の時よりも大幅に増える。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる(ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止されているため、別に運転手を確保する必要がある)。さらに、海外場所など、協会の公式の移動においては、飛行機はファーストクラス、鉄道(新幹線)では、グリーン席に座ることができる。化粧廻しの馬簾の色に紫を使えるのも、基本的には大関以上の特権である[1]。また師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる(これについては引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される)。
日本国籍を持つ大関力士は、協会が財団法人であった時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、協会が公益法人となったときに廃止された。
大関への昇進
番付編成を所管する審判部が、ある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長は、日本相撲協会理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請する。理事会での審議の結果、当該力士の大関昇進が決定すると、協会から使者が当該力士のもとへ派遣され、昇進伝達式が行われる。当該力士は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われる[2]。よって昇進伝達式の後、翌場所の番付発表までは、大関ではあっても同じ大関の中での順位(東か西か、あるいは正位か2枚目以降(以前の張出)か)がまだ発表されていない状態となる(ただし近年のケースでは、翌場所の番付では新大関は原則同じ大関の中で最下位となる)。大関の推挙は、理事会の賛成を経て満場一致でなければならないとされ[3]、理事会で異議があったとしても昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる[4]。現行制度下では理事会において大関昇進が否決された例はなく、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点でマスコミ報道においては大関昇進が内定していると扱われている。
昇進の目安
大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準は特になく、マスコミが推測するおおよその目安も時代により変化している。もっとも、協会は一貫して目安の存在自体を否定して、勝星数だけでなく相撲内容や印象(特に優勝の有無や直前場所の成績等)、番付編成上のバランス等も含めて総合的に判断される。そのため、勝星数で過去の例を下回りながら大関に昇進した力士、勝星数で目安を満たしながら大関に昇進できなかった力士が少なからず存在する[5]。
年6場所制施行〜昭和50年代半ば
昭和期においては「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が30勝以上」が大関昇進への目安とされてきた[6]。
1961年(昭和36年)5月場所を終えた北葉山の直前3場所は、8勝-9勝-11勝の合計28勝、1966年(昭和41年)7月場所を終えた北の冨士の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の計28勝でそれぞれ大関昇進を果たしている。この両名が年6場所制施行後では大関昇進直前3場所の最少の勝星数である。北の富士の場合では、当時大関は豊山1人という番付上の都合があるとされる。
一方、1957年(昭和32年)11月場所を終えた琴ヶ濱は直前3場所を12勝-11勝-10勝の合計33勝を挙げ、当時の目安を大きく超えた成績であったが直前場所が10勝留まりだった事などが評価を下げ、昇進できなかった。翌1958年(昭和33年)1月場所後を、11勝-10勝-11勝と全て関脇の地位で計32勝としたが再度見送られる。しかし次の3月場所を終え、関脇で直前3場所を10勝-11勝-13勝(優勝同点)の計34勝を挙げ、同場所で優勝決定戦に進出したことが評価されてようやく大関昇進を果たす。
1972年(昭和47年)3月場所を終えた長谷川の直前3場所は、全て関脇で8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝を挙げ、目安を満たしかつ直前場所で優勝したことにより大関昇進が期待されたが、同場所中に大関同士(前の山対琴櫻)の対戦が無気力相撲の指摘を受けたことなどにより大関の資質が問題視され、審判部が長谷川に対し「もう1場所見てから」と判断を慎重にし、昇進できなかった。次の5月場所も長谷川は直前3場所を10勝-12勝(優勝)-8勝の計30勝だったが再度見送られ、その後の長谷川は好成績を挙げられず、結局大関昇進は果たせなかった。
昭和50年代半ば〜平成初期
長谷川の例以降は、大関の資質や目安が昇進の問題にされる事例はしばらくなく、このころは、「30勝以上」からのちの「33勝以上」へと目安が変化する過渡期であるといえる。
1980年(昭和55年)3月場所を終えた増位山(太)は直前3場所を8勝-11勝-12勝の計31勝、1981年(昭和56年)9月場所を終えた琴風は直前3場所を9勝-10勝-12勝(優勝)のこちらも計31勝であるが、増位山の場合は当時大関が貴ノ花1人だけ、琴風の場合は大関不在という番付上の事情が絡み、大関昇進を果たしている。1985年(昭和60年)7月場所を終えた大乃国は、直前3場所を9勝-10勝-12勝の合計31勝であったが、「連続6場所関脇を守った」「横綱・大関とほぼ互角の力がある」ことが評価され、特に異論なく大関昇進を果たしている。
その一方で、1986年(昭和61年)5月場所を終えた保志(当時・のち北勝海)は直前3場所が8勝-13勝(優勝)-11勝の合計32勝を挙げたが、12日目に北尾(のち双羽黒)に敗れ4敗目を喫し優勝争いから脱落、また当時5人も大関が居た為に大関昇進を見送られる(この時点では前例の無い「6大関」を極力回避したい相撲協会の思惑があった為とも言われた)。だが翌7月場所では終盤迄優勝争いに加わり、保志は12勝を挙げ直前3場所を13勝(優勝)-11勝-12勝の合計36勝の好成績を残し、当場所後に文句無しの大関昇進を果たした(同時に北尾改め双羽黒も大関から横綱へ昇進した為、結果「6大関」は実現しなかった)。
さらに、1987年(昭和62年)3月場所の小錦が直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝を挙げるも、同場所前半戦で4敗し大関昇進は早々に消滅。翌5月場所の小錦は12勝で、直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝の成績により、当場所後ようやく大関昇進を果たす。小錦の場合も当時5大関がおり、昇進に高レベルの成績が求められていた(同じく大関・北勝海も横綱昇進を果たし6大関は成らず)。そして、同年7月場所も旭富士も同様直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝としたが昇進できず、翌9月場所に12勝で直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝とし、同場所後大関昇進を果たした(同時に大関・大乃国も横綱昇進し、次の11月場所は1918年(大正7年)5月場所以来69年振りの「4横綱4大関」の番付となる)。
平成初期の特殊な例として、琴錦は1991年(平成3年)9月場所は前頭5枚目で13勝2敗で優勝、小結に戻った11月場所も終盤まで2敗で優勝を争い、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)は連覇なら関脇を飛び越えての大関昇進を検討することを明言した。当時は横綱の休場、引退が相次ぎ、世代交代の時期に入っていたことが背景にある。結果、琴錦は千秋楽に破れて12勝3敗、優勝を逃して昇進はできなかった。翌7月場所は4勝11敗で負け越し、結局大関昇進は果たせなかった。なお琴錦はその前の1991年(平成3年)1月場所を終えて直前3場所を9勝-10勝-11勝の計30勝とし、旧目安ならば満たしている。ほかにこの時期に旧目安を満たした力士は栃乃和歌がいるが(1992年(平成4年)3月場所を終えて直前3場所を10勝-8勝-12勝(優勝次点)の計30勝)、やはり大関昇進は果たせていない。
平成中期以降
平成中期以降においては、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。
大関に昇進した例では、1999年(平成11年)1月場所を終えた千代大海の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝であったが、直前場所の千秋楽で横綱若乃花相手に本割り・優勝決定戦と連勝、逆転優勝したのを高く評価されて大関に昇進した。
2011年(平成23年)11月場所を終えた稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝であったが、日本人力士が不調(大関以上は前場所昇進の琴奨菊のみ)、直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績、横綱白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが加味された[7]。
2014年(平成26年)7月場所を終えた豪栄道の直前3場所の成績も、12勝-8勝-12勝で合計32勝だったが、それまで史上1位の14場所連続で関脇に在位していた事、また直前場所で鶴竜、白鵬と横綱二人を下し、さらに千秋楽では最後まで白鵬と優勝を争った大関・琴奨菊を倒した事などが評価され、大関昇進が決定した。
また、2015年(平成27年)5月場所を終えた照ノ富士は直前3場所が平幕込みで8勝-13勝-12勝(優勝)の合計33勝だったが、直前場所での幕内初優勝を果たした事が大関に相応しいと判断され、新大関となった[8][9]。なお大関昇進の3場所前が平幕の地位だったのは、1985年(昭和60年)11月場所後の北尾(のち横綱・双羽黒。前頭筆頭で12勝3敗)以来29年ぶりだが、3場所前が平幕で1桁勝ち星となると、1983年(昭和58年)3月場所後の朝潮 (4代)(前頭筆頭で9勝6敗)以来の32年前までさかのぼる[10]。
2018年(平成30年)5月場所を終えた栃ノ心では昇進3場所前は平幕だったが、この場所を含め直前3場所を14勝(優勝)-10勝-13勝の合計37勝を挙げた好成績が高く加味され、文句なしで大関昇進した。大関昇進の直前3場所の起点場所が平幕優勝だったのは、1976年(昭和51年)9月場所の魁傑(1977年1月場所後に大関再昇進)以来で、平成時代以降では栃ノ心が初めてとなる。
但し、逆に昇進できなかった例としては、2002年(平成14年)1月場所を終えた琴光喜は13勝(優勝)-9勝-12勝の合計34勝だったが、昇進を見送られた。理由は、3場所前が前頭2枚目(13勝2敗で平幕優勝)だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降の大関昇進者はほぼ2場所前は10勝以上)、また当時大関が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りが期待された同場所において3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い前頭8枚目の武雄山に敗れた理由もあったといわれる。翌3月場所は直前3場所が9勝-12勝-8勝の計29勝に留まり琴光喜の大関取りは一旦消滅するも、5年後の2007年(平成19年)7月場所後に悲願の大関昇進を達成した。
2006年(平成18年)7月場所を終えた元大関・雅山は直前3場所を10勝-14勝(優勝同点)-10勝の計34勝と、大関再昇進に適う星取であった。しかし、直前の場所が10勝止まりだったことや、当時大関が既に5人いた(白鵬がこの場所綱取りであったが、翌場所に継続となった)ことを理由に昇進を見送られている。翌9月場所は直前3場所を14勝(同点)-10勝-9勝の計33勝としたが再び却下され、結局雅山の大関復活は成らなかった。
2010年(平成22年)1月場所を終えた把瑠都は直前3場所を12勝-9勝-12勝の計33勝としたが、2場所前が1桁勝ち星だった事や、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。翌3月場所は14勝(優勝次点)の好成績により、異論無しの大関昇進を果たした。
大関昇進前3場所成績(平成以降)
- 関:関脇、小:小結、前:前頭
- 四股名は、それぞれ大関昇進時に名乗っていた当時のもの。
昇進場所 | 四股名 | 3場所前 | 2場所前 | 直前場所 | 3場所合計 |
---|---|---|---|---|---|
1990年(平成2年)5月場所 | 霧島一博 | 小10勝5敗 | 小11勝4敗△ | 関13勝2敗○ | 34勝11敗 |
1992年(平成4年)7月場所 | 曙太郎☆ | 小13勝2敗△ | 関8勝7敗 | 関13勝2敗◎ | 34勝11敗 |
1993年(平成5年)3月場所 | 貴ノ花光司☆ | 小14勝1敗◎ | 関10勝5敗 | 関11勝4敗 | 35勝10敗 |
1993年(平成5年)9月場所 | 若ノ花勝☆ | 小14勝1敗◎ | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◯ | 37勝8敗 |
1994年(平成6年)3月場所 | 貴ノ浪貞博 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗 | 関13勝2敗△ | 35勝10敗 |
武蔵丸光洋☆ | 関8勝7敗 | 関13勝2敗◯ | 関12勝3敗 | 33勝12敗 | |
1999年(平成11年)3月場所 | 千代大海龍二 | 関9勝6敗 | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◎ | 32勝13敗 |
1999年(平成11年)9月場所 | 出島武春 | 小9勝6敗 | 関11勝4敗 | 関13勝2敗◎ | 33勝12敗 |
2000年(平成12年)5月場所 | 武双山正士 | 小10勝5敗 | 関13勝2敗◎ | 関12勝3敗△ | 35勝10敗 |
2000年(平成12年)7月場所 | 雅山哲士 | 小12勝3敗△ | 関11勝4敗 | 関11勝4敗 | 34勝11敗 |
2000年(平成12年)9月場所 | 魁皇博之 | 小8勝7敗 | 小14勝1敗◎ | 関11勝4敗 | 33勝12敗 |
2002年(平成14年)1月場所 | 栃東大裕 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関12勝3敗△ | 34勝11敗 |
2002年(平成14年)9月場所 | 朝青龍明徳☆ | 関11勝4敗 | 関11勝4敗△ | 関12勝3敗△ | 34勝11敗 |
2006年(平成18年)1月場所 | 琴欧州勝紀 | 小12勝3敗△ | 関13勝2敗◯ | 関11勝4敗△ | 36勝9敗 |
2006年(平成18年)5月場所 | 白鵬翔☆ | 小9勝6敗 | 関13勝2敗△ | 関13勝2敗◯ | 35勝10敗 |
2007年(平成19年)9月場所 | 琴光喜啓司 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関13勝2敗△ | 35勝10敗 |
2009年(平成21年)1月場所 | 日馬富士公平☆ | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関13勝2敗◯ | 35勝10敗 |
2010年(平成22年)5月場所 | 把瑠都凱斗 | 関9勝6敗 | 関12勝3敗△ | 関14勝1敗△ | 35勝10敗 |
2011年(平成23年)11月場所 | 琴奨菊和弘 | 関10勝5敗 | 関11勝4敗 | 関12勝3敗△ | 33勝12敗 |
2012年(平成24年)1月場所 | 稀勢の里寛☆ | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関10勝5敗 | 32勝13敗 |
2012年(平成24年)5月場所 | 鶴竜力三郎☆ | 関10勝5敗 | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◯ | 33勝12敗 |
2014年(平成26年)9月場所 | 豪栄道豪太郎 | 関12勝3敗△ | 関8勝7敗 | 関12勝3敗△ | 32勝13敗 |
2015年(平成27年)7月場所 | 照ノ富士春雄 | 前2・8勝7敗 | 関13勝2敗△ | 関12勝3敗◎ | 33勝12敗 |
2017年(平成29年)7月場所 | 高安晃 | 小11勝4敗 | 関12勝3敗 | 関11勝4敗 | 34勝11敗 |
2018年(平成30年)7月場所 | 栃ノ心剛史 | 前3・14勝1敗◎ | 関10勝5敗 | 関13勝2敗△ | 37勝8敗 |
陥落・大関特例復帰
江戸時代には大関からいきなり平幕や二段目に落ちた例もあるが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのためより大関にふさわしいと思われる者が見つかれば地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも明治時代までは大関から平幕への降格が存在する(最も新しい例は1900年(明治33年)5月場所の鳳凰馬五郎)。明治時代もまだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎や大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、特に地位を保証されてはいなかったため、関脇以下の力士との兼ね合いでは大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった[11]。
1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で大関の地位が確立し、「2場所連続負け越しで陥落」の基準が定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。また昭和以降大関の力士で陥落したのちに、大関へ復活を果たしたのは、汐ノ海が最初のケースとなった。1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施されたときには、2場所では厳しすぎるということで、3場所連続の負け越しで関脇に陥落とした。ところが、それでは甘すぎるという批判の声もあって、1969年(昭和44年)7月場所より現行の規定となり、2場所連続負け越しで関脇に陥落に改められると共に、直後の場所で(取り組み日数による現行の規定で)10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できるようになった[12]。既に2場所連続で負け越して関脇への陥落が確定している場合でも、翌場所の番付発表の前日までは大関として扱われる。
なお、かつて大関の地位を務めた力士が関脇以下へ陥落してからは、幕内から十両の地位への転落が必至になったことを機に慣例的に引退するケースが殆どで、昭和時代には大受が元大関として現役中に十両陥落を経験した唯一の例だった。しかし平成時代以降は雅山・把瑠都・照ノ富士の3人が十両に陥落し、合計4人となっている。
- 大受は陥落直後の1977年5月場所(西十両筆頭)で幕内復帰を目指したが、初日から3連敗(4敗目は不戦敗)を喫して途中休場、その後同5月場所中年寄名跡を取得したのを理由に現役引退を表明。
- 雅山は大関経験者では史上初となる2度の十両陥落を喫した。雅山の1度目転落時の2010年9月場所(東十両2枚目)は、前7月場所(西前頭5枚目)に「大相撲野球賭博問題」の処分で同場所全休処分を下された結果だったが、12勝3敗の好成績を挙げ一場所で翌9月場所に幕内復帰を果たす。2度目転落時の2013年3月場所(東十両9枚目)は、前1月場所で幕尻(東前頭16枚目)の地位で3勝12敗と大敗したが、これは明らかな体力の衰えからだった。十両に下がった3月場所は又しても3勝12敗の大敗を喫して幕下陥落が濃厚となり、引退した[13]。
- 把瑠都は2013年9月場所(東十両3枚目)の番付発表後、左膝など怪我が完治しないことを理由に、同9月場所初日直前に引退を発表した。
- 照ノ富士は2018年3月場所、西十両5枚目となった当場所は6勝9敗と負け越し。東十両8枚目で迎えた翌5月場所は勝ち星ゼロ(0勝9敗6休[14])に終わり、幕下転落が決定的と成ってしまう。だが同場所の千秋楽後、本人・師匠揃って引退を否定、幕下の地位でも現役続行する事を示唆し、次の7月場所では番付で東幕下6枚目となったため、1925年に日本相撲協会が発足して以降では史上初の大関経験者の幕下陥落となった。なお、照ノ富士は7月場所も6月に両膝の手術を受けて入院加療中であることから、全休した[15]。
引退後
現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、2007年5月場所前に引退から3年以内の玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用し、それから約7年後となる2014年3月場所中に琴欧洲が2例目として利用した)。
委員待遇の3年を経過すると主任になるか(貴ノ浪、栃東など。番付上は昇格となるが、収入は減る。ただし、短期間で委員に昇格する)、3年以内に審判委員に起用される(魁傑、武双山、出島、千代大海、魁皇など)ことがほとんどである。
なお、最高位が大関で引退後相撲協会にとどまらず即退職(廃業)した力士は、戦後では若羽黒朋明(1965年1月場所限り)、琴光喜啓司(2010年5月場所限り、大相撲野球賭博問題で解雇処分)、把瑠都凱斗(2013年7月場所限り)がいる(若羽黒は借金で年寄名跡を取得できず、琴光喜は野球賭博で解雇、把瑠都は日本国籍を取得しなかったため)。
代数
横綱のそれほど知られてはいないが、大関の地位でも江戸勧進相撲で初めて木版刷りの縦一枚番付が発行された1757年(宝暦7年)10月場所の東大関である雪見山堅太夫を初代、西大関の白川関右衛門を2代目として、昇進順に代数が与えられている。最も新しい大関の栃ノ心剛史は248代大関となる。
しかし、この中には、後に横綱に昇進した者や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。元々相撲興行の中心は大坂・京都であり、宝暦7年以前の番付についても元禄年間の頃からの番付が写本や板番付の形で50場所分近く残されている。たとえば、両國梶之助 (初代)、源氏山住右衛門、谷風梶之助 (初代)、丸山権太左衛門、阿蘇ヶ嶽桐右衛門、鞍馬山鬼市、相引浦之助など、宝暦7年以前にも大関は存在しているが、名大関と云われる彼らは歴代大関には含まれていない。
なお、大関が同時昇進した場合は、昇進場所でより上位だった力士を先代としている。前述の雪見山と白川の他、最初期は興行用の看板大関が東西に付け出されることが多かったが、すべて東方が先代、西方が次代となっている(ただし、番付で東方を上位とする認識が定着したのは後の時代のことである)。また、1人の力士が大関から陥落した後に再昇進した場合でも、代数を改めて与えられることは無く、あくまで再昇進という形で新大関の際に与えられた代数が採用される。
記録
大関在位記録
順位 | 四股名 | 在位数 | 在位期間 | 在位期間成績 |
---|---|---|---|---|
1位 | 千代大海龍二 | 65場所 | 1999年(平成11年)3月場所-2009年(平成21年)11月場所↓ | 515勝345敗115休 優勝2回 |
魁皇博之 | 2000年(平成12年)9月場所-2011年(平成23年)7月場所 | 524勝328敗119休 優勝4回 | ||
3位 | 貴ノ花利彰 | 50場所 | 1972年(昭和47年)11月場所-1981年(昭和56年)1月場所 | 422勝285敗49休 優勝2回 |
4位 | 琴欧洲勝紀 | 47場所 | 2006年(平成18年)1月場所-2013年(平成25年)11月場所↓ | 378勝264敗63休 優勝1回 |
5位 | 北天佑勝彦 | 44場所 | 1983年(昭和58年)7月場所-1990年(平成2年)9月場所 | 378勝245敗29休 優勝2回 |
6位 | 小錦八十吉 (6代) | 39場所 | 1987年(昭和62年)7月場所-1993年(平成5年)11月場所↓ | 345勝197敗43休 優勝3回 |
7位 | 貴ノ浪貞博 | 37場所 | 1994年(平成6年)3月場所-1999年(平成11年)11月場所(35場所)↓ | 340勝177敗8休 優勝2回 |
2000年(平成12年)3月場所-2000年(平成12年)5月場所(2場所)↓ | 13勝17敗0休 優勝なし | |||
8位 | 朝潮太郎 (4代) | 36場所 | 1983年(昭和58年)5月場所-1989年(平成元年)3月場所 | 294勝203敗33休 優勝1回 |
9位 | 豊山勝男 | 34場所 | 1963年(昭和38年)3月場所-1968年(昭和43年)9月場所 | 301勝201敗8休 優勝なし |
10位 | 琴櫻傑將 | 32場所 | 1967年(昭和42年)11月場所-1973年(昭和48年)1月場所↑ | 287勝159敗34休 優勝4回 |
武蔵丸光洋 | 1994年(平成6年)3月場所-1999年(平成11年)5月場所↑ | 353勝127敗0休 優勝5回 | ||
琴奨菊和弘 | 2011年(平成23年)11月場所-2017年(平成29年)1月場所↓ | 256勝192敗32休 優勝1回 |
- 在位期間の↓は関脇に陥落、↑は横綱に昇進。無印は大関の地位で引退。
- 魁皇と琴欧洲は本場所開催が中止された2011年(平成23年)3月場所を数えない。また本場所ではないが公式記録が残される同年5月の技量審査場所は数える。
- 貴ノ花には大関在位中に「貴乃花」等への改名歴がある。
- 琴欧洲は大関在位中に「琴欧州」からの改名歴がある。
- 貴ノ浪は在位35場所目の1999年(平成11年)11月場所で1度目の陥落、翌2000年(平成12年)1月場所に関脇で10勝を挙げ大関特例復帰を果たす。復帰後在位2場所目の2000年5月場所で2度目の陥落、大関在位合計は37場所。
- 豊山の大関在位中と琴櫻の大関昇進時は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969年(昭和44年)7月から現行制度。
- 斜字の琴奨菊は2017年時点で関脇以下の地位で現役中。
短命大関
年6場所制以降は下記の通りである。横綱に昇進した力士の大関通過場所数についてはこちらを参照。
順位 | 四股名 | 在位数 | 在位期間 | 在位期間成績 |
---|---|---|---|---|
1位 | 大受久晃 | 5場所 | 1973年(昭和48年)9月場所-1974年(昭和49年)5月場所↓ | 30勝32敗13休 |
2位 | 増位山太志郎 | 7場所 | 1980年(昭和55年)3月場所-1981年(昭和56年)3月場所 | 44勝44敗7休 |
3位 | 雅山哲士 | 8場所 | 2000年(平成12年)7月場所-2001年(平成13年)9月場所↓ | 57勝58敗5休 |
4位 | 魁傑將晃 | 9場所 | 1975年(昭和50年)3月場所-1975年(昭和50年)11月場所(5場所)↓ | 43勝32敗0休 |
1977年(昭和52年)3月場所-1977年(昭和52年)9月場所(4場所)↓ | 27勝33敗0休 | |||
5位 | 前の山太郎 | 10場所 | 1970年(昭和45年)9月場所-1972年(昭和47年)3月場所↓ | 67勝56敗27休 |
6位 | 出島武春 | 12場所 | 1999年(平成11年)9月場所-2001年(平成13年)7月場所↓ | 100勝71敗9休 |
7位 | 若羽黒朋明 | 13場所 | 1959年(昭和34年)11月場所-1961年(昭和36年)11月場所↓ | 102勝78敗15休 優勝1回 |
8位 | 照ノ富士春雄 | 14場所 | 2015年(平成27年)7月場所-2017年(平成29年)9月場所↓ | 96勝87敗27休 |
9位 | 把瑠都凱斗 | 15場所 | 2010年(平成22年)5月場所-2012年(平成24年)11月場所↓ | 133勝69敗23休 優勝1回 |
10位 | 霧島一博 | 16場所 | 1990年(平成2年)5月場所-1992年(平成4年)11月場所↓ | 139勝76敗25休 優勝1回 |
- 年6場所制の1958年(昭和33年)以降の記録(現役大関を除く)。それ以前では、五ツ嶋奈良男の2場所(12勝13敗5休、関脇陥落)が昭和以降での最短記録であった。
- 在位期間の↓は関脇の地位に陥落。無印の増位山は大関の地位で引退。
- 魁傑は在位5場所目の1975年(昭和50年)11月場所で1度目の陥落。その後1977年(昭和52年)1月場所後に再昇進が決定。復帰後在位4場所目の1977年9月場所で2度目の陥落、大関在位合計は9場所。
- 前の山には大関在位中に「前乃山」からの改名歴がある。
- 若羽黒の昇進・在位中は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969年(昭和44年)7月から現行制度。
- 斜字の照ノ富士は2017年時点で関脇以下の地位で現役中。
- 把瑠都は本場所開催が中止された2011年(平成23年)3月場所を数えず、又本場所ではないが公式記録が残された同年5月の技量審査場所は数える。
なお、「連続大関在位場所数」での見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東の3人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。貴ノ浪は大関復活後に再陥落、武双山は陥落後直ぐに返り咲き、栃東は再大関で陥落するも直ぐ再々昇進を果たし、通算大関在位場所数ではそれぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)となっている。なお貴ノ浪は、連続大関在位場所数の長期(35場所)でも短期(2場所)でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。
その次に3場所で関脇陥落したのは三重ノ海だが、その関脇の地位で10勝を挙げ1場所で大関特例復帰を果たす。三重ノ海はその後大関通算在位21場所(降下直後の関脇も含めると合計22場所)で横綱昇進を果たしたが、大関転落者がのちに横綱となったのは三重ノ海ただ一人である。
大関(最高位)力士の通算幕内優勝回数記録
順位 | 四股名 | 優勝回数 | 大関在位中 |
---|---|---|---|
1位 | 魁皇博之 | 5回 | 4回 |
2位 | 清水川元吉* | 3回 | 2回 |
小錦八十吉 | 3回 | ||
千代大海龍二 | 2回 | ||
栃東大裕 | 3回 | ||
6位 | 豊國福馬* | 2回 | 2回 |
増位山大志郎* | 1回 | ||
貴ノ花健士 | 2回 | ||
魁傑将晃 | なし | ||
琴風豪規 | 1回 | ||
若嶋津六夫 | 2回 | ||
北天佑勝彦 | 1回 | ||
貴ノ浪貞博 | 2回 |
- 2017年(平成29年)現在
- *は年6場所制定着以前の力士。また清水川には2回、豊國には1回、番付下位による優勝同点がある。
魁皇の幕内優勝5回は、最高位が大関以下の力士の中では史上1位である。なお一昔前であれば優勝を5回も経験すれば、皆全員横綱に昇進していた(中には照國や北尾(のち双羽黒)など、優勝無しで横綱昇進した力士もいる)。しかし、当時の横綱昇進基準では「大関の地位で2場所連続優勝」が絶対条件だったため、魁皇は大関時代に連続優勝を果たせず、横綱にはなれなかった。
また若嶋津の優勝2回の内、1回は全勝優勝である。最高位大関以下の力士で全勝優勝を達成は、15日制のもとでは、他に時津山と玉乃海(共に最高位は関脇)。
横綱に昇進した力士で大関以下での優勝が多かった力士は貴乃花で7回、うち5回が大関での優勝。他に武蔵丸が大関で5回優勝の最多タイ。彼ら以前では、玉錦が大関以下で5回、大関で4回の優勝、現在と番付編成の制度が違ったことなどにもよるが、大関で3連覇でも横綱を見送られるなど、約60年に渡って「大関以下」「大関」ともに最多記録保持者だった(大関での優勝については琴櫻に並ばれ、のちに3代若乃花と魁皇がこれに続く)。
同時最多在籍大関
6大関
2012年(平成24年)5月場所において、大相撲史上初めての6大関が在籍となる。四股名は開始場所時点のものである[16]。
回数 | 開始場所 | 四股名(太字新昇進) | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 2012年(平成24年)5月場所 | 鶴竜力三郎 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)9月場所 | 3 | 日馬富士が横綱昇進 |
5大関
6大関に次ぐ5大関は、現在まで17例がある。四股名は開始場所時点のもの。
回数 | 開始場所 | 四股名(太字新・斜字再昇進) | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1947年(昭和22年)6月場所 | 汐ノ海忠夫 東富士謹一 佐賀ノ花勝巳 名寄岩静男 前田山英五郎 |
1947年(昭和22年)6月場所 | 1 | 前田山が横綱昇進 |
2 | 1961年(昭和36年)7月場所 | 北葉山英俊 大鵬幸喜 柏戸剛 若羽黒朋明 琴ヶ濱貞雄 |
1961年(昭和36年)9月場所 | 2 | 柏戸と大鵬が横綱同時昇進 |
3 | 1962年(昭和37年)7月場所 | 栃光正之 栃ノ海晃嘉 佐田の山晋松 北葉山英俊 琴ヶ濱貞雄 |
1962年(昭和37年)11月場所 | 3 | 琴ヶ濱が引退 |
4 | 1963年(昭和38年)3月場所 | 豊山勝男 栃光正之 栃ノ海晃嘉 佐田の山晋松 北葉山英俊 |
1964年(昭和39年)1月場所 | 6 | 栃ノ海が横綱昇進 |
5 | 1972年(昭和47年)11月場所 | 貴ノ花満 輪島大士 大麒麟將能 清國勝雄 琴櫻傑將 |
1973年(昭和48年)1月場所 | 2 | 琴櫻が横綱昇進 |
6 | 1977年(昭和52年)3月場所 | 若三杉壽人 魁傑將晃 旭國斗雄 三重ノ海剛司 貴ノ花健士 |
1977年(昭和52年)9月場所 | 4 | 魁傑が関脇再陥落 |
7 | 1983年(昭和58年)7月場所 | 北天佑勝彦 朝潮太郎 (4代) 若島津六男 隆の里俊英 琴風豪規 |
1983年(昭和58年)7月場所 | 1 | 隆の里が横綱昇進 |
8 | 1986年(昭和61年)1月場所 | 北尾光司 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1986年(昭和61年)7月場所 | 4 | 北尾が横綱昇進 |
9 | 1986年(昭和61年)9月場所 | 北勝海信芳 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1987年(昭和62年)5月場所 | 5 | 北勝海が横綱昇進 |
10 | 1987年(昭和62年)7月場所 | 小錦八十吉 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1987年(昭和62年)7月場所 | 1 | 若嶋津が引退 |
11 | 2000年(平成12年)11月場所 | 武双山正士 魁皇博之 雅山哲士 出島武春 千代大海龍二 |
2001年(平成13年)7月場所 | 5 | 出島が関脇陥落 |
12 | 2002年(平成14年)9月場所 | 朝青龍明徳 栃東大裕 武双山正士 魁皇博之 千代大海龍二 |
2003年(平成15年)1月場所 | 3 | 朝青龍が横綱昇進 |
13 | 2006年(平成18年)5月場所 | 白鵬翔 琴欧州勝紀 栃東大裕 魁皇博之 千代大海龍二 |
2007年(平成19年)5月場所 (相撲番付上) |
6(7) | 栃東が場所前に引退 白鵬が横綱昇進 |
14 | 2009年(平成21年)1月場所 | 日馬富士公平 琴光喜啓司 琴欧洲勝紀 魁皇博之 千代大海龍二 |
2009年(平成21年)11月場所 | 6 | 千代大海が関脇陥落 |
15 | 2010年(平成22年)5月場所 | 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴光喜啓司 琴欧洲勝紀 魁皇博之 |
2010年(平成22年)7月場所 (相撲番付上) |
1(2) | 琴光喜が場所前に解雇 |
16 | 2012年(平成24年)1月場所 | 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)3月場所 | 2 | 鶴竜が大関昇進 |
17 | 2012年(平成24年)11月場所 | 鶴竜力三郎 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)11月場所 | 1 | 把瑠都が関脇陥落 |
- 大坂相撲では1896年(明治29年)9月場所で5大関のいる番付がつくられている。(八陣、平野川、釈迦ヶ嶽、嵐山、緋縅)運営をめぐる対立から大坂相撲協会を離れて独自興行していた一派がこの場所から復帰、その体面を保つための措置で一場所限りで解消された。また1901年(明治34年)5月場所では1横綱5大関が出現している。(横綱八陣、大関秀の海、若嶋、平野川、琴の浦、一の濱)
- 1947年(昭和22年)6月場所、汐ノ海の昇進で、前田山、名寄岩、佐賀ノ花、東富士とともに、現在の大相撲で初めての5大関が実現した。小結で8勝2敗、関脇で11勝2敗と続けての昇進だったので、甘い昇進だったとは言えないが、過去の例に倣えば関脇に据え置かれたと思われる。優勝決定戦や三賞制度等が導入された場所でもあり、戦後の荒廃期にどうにか客を呼ぼうとした興行政策であった一面は否めない。
- 3例目の栃ノ海と栃光、5例目の輪島と貴ノ花、6例目の若三杉と魁傑(再)は同時昇進。
- 4例目は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が昭和時代で最も長い6場所。
- 6例目の魁傑と11例目の武双山は関脇陥落後の再昇進。
- 8、9、10例目は連続しており、1986年(昭和61年)1月場所から1987年(昭和62年)7月場所まで若嶋津、朝潮、北天佑、大乃国、北尾、北勝海、小錦という7人によって、10場所にわたって5大関時代が続いた。この間、「6大関」が誕生する可能性もあったが、北勝海(昇進前は保志)が大関になると同時に北尾が横綱へ(横綱昇進後は双羽黒)、小錦が大関になると同時に北勝海が横綱へ、というように、結果的にところてん式の同時昇進が続いたこともあって「6大関」は実現しなかった。ここに名を連ねた7人のうち3人が横綱に昇進、残る4人も大関在位中に優勝を経験し、横綱寸前まで行った力士である(ただし、5大関時代には引退間近で、成績が芳しくなかった力士もいる)。「大関の大安売り」と揶揄されることも多い5大関時代ではあるが、この7人はいずれも大関の名にふさわしい成績を残している。
- 13例目は番付上は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が最も長い7場所であるが栃東が番付発表後、本場所開催前に引退したため、実質的には6場所。
- 15例目は琴光喜が番付発表後、本場所開催前に野球賭博問題によって解雇されたため、実質的には1場所。
- 16例目は史上初の6人目の大関昇進者により5大関状態が解消された。
- 17例目は日馬富士の横綱昇進により、史上初の6大関状態から1人減り5大関状態となった。
大関以上(横綱・大関)の同時最多在位
2017年現在では、4横綱6大関の大関以上10人も前例に照らしてありえるが、これまでの最多は8人で4横綱4大関が2例、3横綱5大関が2例となっている。
開始場所 | 横綱・四股名 | 大関・四股名 | 終了場所 | 場所数 | 終了理由 | |
---|---|---|---|---|---|---|
4横綱4大関* | 1918年5月場所 | 鳳谷五郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦大五郎 栃木山守也 |
伊勢ノ濱慶太郎 朝潮太郎 (2代) 九州山十郎 千葉ヶ嵜俊治 |
1918年5月場所 | 1 | 西ノ海が引退 |
3横綱5大関 | 1987年7月場所 | 千代の富士貢 双羽黒光司 北勝海信芳 |
若嶋津六夫 朝潮太郎 (4代) 北天佑勝彦 大乃国康 小錦八十吉 (6代) |
1987年7月場所 | 1 | 若嶋津が引退 |
4横綱4大関 | 1987年11月場所 | 千代の富士貢 双羽黒光司 北勝海信芳 大乃国康 |
朝潮太郎 (4代) 北天佑勝彦 小錦八十吉 (6代) 旭富士正也 |
1988年1月場所 | 1(2) * | 双羽黒が廃業 |
3横綱5大関 | 2000年11月場所 | 曙太郎 貴乃花光司 武蔵丸光洋 |
千代大海龍二 出島武春 武双山正士 雅山哲士 魁皇博之 |
2001年1月場所 | 2 | 曙が引退 |
- 太字・四股名は横綱・大関の新昇進、斜字・四股名の武双山は大関再昇進。
- 1918年当時は東西制の時代で、東方に3横綱(大錦・栃木山・西ノ海)1大関(九州山)、西方に1横綱(鳳)3大関(千葉ヶ嵜・伊勢ノ濱・朝潮)という編成だった。
- 双羽黒は1987年の12月末に廃業した為、翌1988年1月場所の番付上は四股名が残ったのみで、実質的には1場所である。
一人大関
昭和以降で大関が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに11例ある。
例 | 開始場所 | 開始場所前の動向 | 一人大関 | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1936年(昭和11年)5月場所 | 男女ノ川が横綱昇進 | 清水川元吉 | 1936年(昭和11年)5月場所 | 1 | 双葉山と鏡岩が同時昇進 |
2 | 1938年(昭和13年)1月場所 | 双葉山が横綱昇進 清水川が引退 |
鏡岩善四郎 | 1938年(昭和13年)5月場所 | 1 | 前田山が昇進* |
3 | 1944年(昭和19年)5月場所 | 名寄岩が関脇陥落 | 前田山英五郎 | 1944年(昭和19年)10月場所 | 1 | 佐賀ノ花が昇進 |
4 | 1955年(昭和30年)1月場所 | 栃錦が横綱昇進 | 三根山隆司 | 1955年(昭和30年)5月場所 | 2 | 大内山が昇進 |
5 | 1955年(昭和30年)9月場所 | 三根山が関脇陥落 | 大内山平吉 | 1955年(昭和31年)9月場所 | 1 | 松登と若ノ花が同時昇進 |
6 | 1959年(昭和34年)3月場所 | 朝汐が横綱昇進 | 琴ヶ濱貞雄 | 1959年(昭和34年)9月場所 | 4 | 若羽黒が昇進 |
7 | 1966年(昭和41年)7月場所 | 北葉山が引退 | 豊山勝男 | 1966年(昭和42年)7月場所 | 1 | 北の冨士が昇進 |
8 | 1975年(昭和50年)1月場所 | 大麒麟が引退 | 貴ノ花健士 | 1975年(昭和50年)1月場所 | 1 | 魁傑が昇進 |
9 | 1979年(昭和54年)11月場所 | 旭國が引退 | 貴ノ花利彰 | 1980年(昭和55年)1月場所 | 2 | 増位山が昇進 |
10 | 1981年(昭和56年)5月場所 | 増位山が引退 | 千代の富士貢 | 1981年(昭和56年)7月場所 | 2 | 千代の富士が横綱昇進 (大関空位) |
11 | 1981年(昭和56年)11月場所 | (大関空位) 琴風が昇進 |
琴風豪規 | 1982年(昭和57年)1月場所 | 2 | 隆の里が昇進 |
このうち4例目と5例目においては、横綱力士が大関の地位を兼ねる「横綱大関」も置かれず、厳密な意味での「一人大関」となった。
- 前田山は小結から関脇を飛び越えて大関昇進。
- 若ノ花は横綱昇進に合わせて若乃花に改名。
- 朝汐は横綱昇進後に朝潮に改名。
- 北の冨士は大関在位中北の富士に改名。
- 貴ノ花は大関在位中貴乃花への改名がある。
大関空位(不在)
番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関空位(不在)」となったことが2例ある。
例 | 開始場所 | 開始場所前の動向 | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1904年(明治37年)1月場所 | 常陸山と2代目梅ヶ谷が横綱同時昇進 | 1905年(明治38年)1月場所 | 3 | 国見山と荒岩が同時昇進 |
2 | 1981年(昭和56年)9月場所 | 千代の富士が横綱昇進 | 1981年(昭和56年)9月場所 | 1 | 琴風が昇進 |
- ただし、上記2例のどちらも横綱力士が大関の地位も兼ねる「横綱大関」が置かれたため、厳密な意味で「大関」の地位が番付から消えたことはこれまで皆無。
新大関の優勝
四股名 | 新大関場所 | 成 績 | 備 考 |
---|---|---|---|
鳳谷五郎☆ | 1913年(大正2年)1月場所 | 7勝1分1預1休 | 1休は相手力士休場 |
栃木山守也☆ | 1917年(大正6年)5月場所 | 9勝1預(大潮) | ()は優勝同点者(決定戦制度なし) |
双葉山定次☆ | 1937年(昭和12年)1月場所 | 11戦全勝 | 当時は1場所11日制 |
千代の山雅信☆ | 1949年(昭和24年)10月場所 | 13勝2敗 | |
若羽黒朋明 | 1959年(昭和34年)11月場所 | 13勝2敗 | |
清國勝雄 | 1969年(昭和44年)7月場所 | 12勝3敗(○藤ノ川) | ()は優勝決定戦 |
栃東大裕 | 2002年(平成14年)1月場所 | 13勝2敗(○千代大海) | ()は優勝決定戦 |
白鵬翔☆ | 2006年(平成18年)5月場所 | 14勝1敗(○雅山) | ()は優勝決定戦 |
- ☆はのちに横綱。
昇進
大関同時昇進(昭和以降)
昇進場所 | 代位 | 四股名 | 代位 | 四股名 |
---|---|---|---|---|
1937年1月場所 | 168代 | 双葉山定次☆ | 169代 | 鏡岩善四郎 |
1941年1月場所 | 172代 | 安藝ノ海節男☆ | 173代 | 五ツ嶋奈良男 |
1951年5月場所 | 181代 | 吉葉山潤之輔☆ | 182代 | 鏡里喜代治☆ |
1956年1月場所 | 186代 | 松登晟郎 | 187代 | 若ノ花勝治☆ |
1962年7月場所 | 195代 | 栃ノ海晃嘉☆ | 196代 | 栃光正之 |
1972年11月場所 | 204代 | 輪島大士☆ | 205代 | 貴ノ花満 |
1977年3月場所 | 208代 | 魁傑將晃 | 211代 | 若三杉壽人☆ |
1994年3月場所 | 228代 | 貴ノ浪貞博 | 229代 | 武蔵丸光洋☆ |
- ☆はのちに横綱。斜字の魁傑は再昇進。
- 若ノ花はのち初代若乃花に改名。
- 若三杉はのち2代若乃花に改名。
横綱・大関の同時昇進(昭和以降)
昇進場所 | 横綱代位 | 横綱昇進者 | 大関代位 | 大関昇進者 |
---|---|---|---|---|
1937年1月場所 | 34代 | 男女ノ川登三 | 168代 | 双葉山定次 |
169代 | 鏡岩善四郎 | |||
1942年1月場所 | 36代 | 羽黒山政司 | 174代 | 照國萬藏 |
1943年1月場所 | 37代 | 安藝ノ海節男 | 175代 | 名寄岩静男 |
38代 | 照國萬藏 | |||
1949年1月場所 | 44代 | 東富士欽壹 | 179代 | 増位山大志郎 |
1986年9月場所 | 60代 | 双羽黒光司 | 221代 | 北勝海信芳 |
1987年5月場所 | 61代 | 北勝海信芳 | 222代 | 小錦八十吉 (6代) |
1987年11月場所 | 62代 | 大乃国康 | 223代 | 旭富士正也 |
1993年3月場所 | 64代 | 曙太郎 | 226代 | 貴ノ花光司 |
- 貴ノ花はのち貴乃花に改名。
一人の大関に対して無敗かつ連勝だった力士
- 栃木山守也(千葉ヶ嵜俊治に1918年5月場所から1922年1月場所まで1分を挟んで7連勝、通算でも9勝2分で無敗)
- 金城興福(再大関時代の魁傑に1977年春場所より魁傑の二度目の大関陥落が決定した同年秋場所まで4戦4勝かつ4連勝)
- 千代の富士貢(二代目増位山に1980年春場所より自身が幕内初優勝によって場所後に大関昇進を果たした1981年初場所まで6戦6勝かつ6連勝)
- 益荒雄広生(若嶋津に1987年初場所より若嶋津が場所中に引退をした同年名古屋場所まで4戦4勝かつ4連勝)
- 貴乃花光司(雅山哲士が大関に昇進した2000年11月場所から2001年5月場所まで4連勝、通算でも11戦全勝)
- 北勝富士大輝(照ノ富士に2017年7月場所より照ノ富士の大関陥落が決定した同年9月場所まで2連勝、通算でも3戦全勝)
関連項目
脚注
- ↑ ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使えるし、大関を陥落した者も引き続き使える。
- ↑ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第12条
- ↑ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第5条
- ↑ 雅山の場合、所属する武蔵川部屋は当時横綱・武蔵丸、大関・出島と武双山がいた。この三力士と対戦しないことから、大関昇進を決める番付編成会議の段階では相当慎重な意見が出ていた。これまで唯一話し合いでは結論が出ず、多数決(賛成7名・反対3名)により大関昇進が決定した。
- ↑ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)
- ↑ 「相撲」2012年1月号
- ↑ 稀勢の里が大関へ!基準満たさずとも大関昇進の裏事情(リアルライブ)
- ↑ 照ノ富士が白鵬自滅でたなぼたの優勝 またも“時期尚早”の大関誕生へ(リアルライブ)
- ↑ 照ノ富士の大関昇進に賛否も関脇優勝なら「妥当」大相撲裏話(日刊スポーツ)2015年5月29日1時5分
- ↑ ただし、北尾(東前頭筆頭・12勝(優勝次点)-西関脇・11勝-東関脇・12勝(次点))・朝潮(東前頭筆頭・9勝-西関脇・14勝(優勝同点)-東関脇・12勝(優勝次点))共に、直前3場所の成績は合計35勝。
- ↑ 初代國技館完成後の東西制やそれ以前の東西対戦の時代には勝ち越せば番付が上がるというものではなく、同じ側にいる他の力士との比較、あるいは東西を配置換えになる者がいる場合はその者の成績も加味して総合的に決めるものであった。
- ↑ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第9条
- ↑ 生き残りかける名2力士 幕内最下位・雅山と十両尻・高見盛
- ↑ 照ノ富士の2018年5月場所は左膝の怪我により4日目から途中休場、11日目から再出場。
- ↑ 幕下転落の照ノ富士が全休、6月に膝手術し現在入院 - 日刊スポーツ 2018年7月8日
- ↑ 『相撲』2012年5月号37頁には「さすがに協会も『7大関』は作らないだろう」と記述されており、現在の感覚では番付編成上「大関は最多でも6人が限界」という見解が示されていると言える。
大相撲関取一覧 - 平成30年七月場所 | ||||||
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東 | 番付 | 西 | ||||
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横綱 |
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三役 | ||||||
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大関 |
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逸ノ城 | 関脇 | 御嶽海 | ||||
玉鷲 | 小結 | 松鳳山 | ||||
平幕 | ||||||
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幕内前頭 |
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十両 | ||||||
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十枚目 |
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関取経験がある幕下以下の現役力士 | ||||||
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