番付

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番付(ばんづけ)は大相撲における力士の順位表。正式には「番付表」という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉三味線演奏家、遊女、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった拳遊び、落語講談などの寄席芸人歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる。

由来

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江戸時代の力士の似顔絵。谷風(4代横綱)や小野川(5代横綱)が記述されている。

古くは興行の場所に「興行札」という木の掲示板を立て、興行日時と、出場力士の名前と序列を明らかにした。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたために、木版印刷の形式で番付を発行(享保年間(17161735年)に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年頃)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、1757年(宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され[1]2007年(平成19年)は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、1869年(明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した[2]。古番付の記録として最古のものは、1699年(元禄12年)5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は1702年(元禄15年)4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。

構成

中央の帯の最上部に、公的な許可を得た興行であることを宣言する蒙御免(ごめんをこうむりまして)の大文字、その下に興行の日時と場所、各行司と主催者(日本相撲協会)を記載する[3]。これは興行札の体裁の名残である。この帯を境界に、各力士が東西二分して表記され、東方が西方より格上にみなされる。たとえば東大関は西大関より半枚上である。この形式は江戸で生み出されたもので、それ以前の大坂相撲では、東と西との二枚に分けて発行されていた。しかし、初期の江戸相撲は、参加する力士が少なかったため、一枚に収めて東西に分けることにしたために、東西の序列が必要になった。

東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。

特徴

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相撲の番付を模した、温泉のランキング(温泉番付)。

番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。

  • 対象物(力士など)を順位によって並べる。この順位は、最も新しい結果を反映させる。
  • 大きくランクに分ける。いわゆる横綱から序ノ口までのような段階に分けてある。この区分は総合的な評価によって行われ、勝負結果などを単純に反映しない。紙上での表記にその差は反映され、格が上の力士ほど字が大きく、立派に描かれる。
  • 全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。

その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。たとえば万年青では、現存最古として1799年刊のものが確認されている。もっとも、長者番付などは番付と言いながらも、単なる順位表となっている。

大相撲の番付

大相撲の番付には、横綱・大関・関脇・小結前頭・「同」の文字が書かれていて、十両幕下(昔は「二段」と呼称していた)・三段目序二段・序ノ口の文字はなく、横綱・三役以外はすべて「前頭」である。その「前頭」を段の違いと文字の大きさでランク付けしている。五段ある最下段が「前頭」の始めということで序ノ口ということである。序ノ口は番付上は最下位の階級であるが、番付の一番左下には「此外中前相撲東西ニ御座候」(この番付に載っている力士以外にも本中(現在は廃止)・前相撲の力士がいます)の記述があり、番付に四股名が載っていない力士もいる。「前頭」はこの前相撲の頭(上位)を意味する。

江戸の中期から後期には紙番付があったが発行はせいぜい場所ごとに数百枚程度であったとされ、番付自体も厳密な序列表ではなく、地位の変動を知らせるというより力士を宣伝する媒体であった。[3]。同じ理由で、当時対戦表と共に有料で販売されていたと推測される勝負付と呼ばれる勝負結果表も一般の相撲ファンが欲しがるものというよりマニア層向けのアイテムであった[4]。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。

「一枚違えば家来同然」「一段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的な上下関係である。明治時代から番付は序列表としての役割を持つようになり[4]、番付上の地位の区別がより明確になった時期は1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。

東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏1872年(明治5年)7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎1873年(明治6年)7月~1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。

近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化嘉永年間(18451854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。

番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、野球で言う永久欠番に近い形で廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄準年寄は別にして)現在の数(105)に定まった時でもある。

本場所興行の際、東京(1月、5月、9月)場所では国技館の中ほどに、その他の地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付」2014年(平成26年)1月場所[1])が興行する場所に宣伝として掲げられる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた[3]。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。

1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られる[2]1879年(明治12年)~1881年(明治14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある[5]。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるため巡業番付は作られない。

相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札」伊勢ヶ濱部屋の番付札)といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。

番付編成

番付は各場所後に審判部長を議長とする番付編成会議で作成される。編成会議は場所後3日以内に開くことが定められており、通常千秋楽直後の水曜日に開かれる[6]。会議には審判部副部長、審判委員、副理事が出席し、発言権はないが書記として行司も同席する[7]

新横綱、新大関に対しては番付編成会議終了後直ちに昇進伝達式を行い、該当の力士はこれをもって横綱、大関として遇されることになる。十両昇進力士に対しても、あらかじめその旨伝えられ、相撲協会よりプレスリリースがなされるが、これは待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮したもので、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。十両昇進力士の事前発表は1971年(昭和46年)からはじまった。横綱・大関・十両昇進力士を除いて、新番付の内容(昇進・陥落)は正式な発表まで極秘となる。現在の規定では大関で2場所連続で負け越した場合、大関から関脇への陥落が確定することになるが、その場合でもその力士は番付発表まで大関として扱われる。

編成された番付は、翌場所前の番付発表をもって発効する。従来初日の8日前の土曜日に発表していたものが1970年(昭和45年)からは、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、番付発表を本場所初日の13日前の月曜日発表に変更した。1月場所の番付発表は、年末年始の繁忙期に配慮して13日前よりも早まる。

なお、地方巡業が現在のように相撲協会主導の「大合併」でなく、一門ごとに別れて行われていた時代には、一門内の最上位力士を大関とした巡業用番付も作成された。引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。

前述の通り、番付は発表をもって発効する。しかし、2011年3月場所は大相撲八百長問題の影響により開催が中止されたことにより番付の発表も行われなかった。番付の編成そのものは完了しており、3月場所で十両への昇進が決定していた力士を初めとする全力士はこの番付に基づいて遇されることになった。これによって決定された地位は2月28日に番付の代わりとなる「順席」として十両以上のみを掲載したものが各相撲部屋に配布され、5月6日に5月技量審査場所用の新地位表が解雇された蒼国来星風の名前を削除して幕下以下も含めて発表された。

「番付は生き物」

現行の番付編成では上位から順に該当力士を決定していくが、各階級には定員が設けられているため、上位の階級に昇進するに充分な成績を挙げながら定員に阻まれて昇進できなかった例も、上位の階級の定員を充足できないために成績が不足している力士を繰り上げで昇進させた例も数多く存在する。降格の場合も同様である。該当力士が複数存在する場合にどの力士を上位の階級に昇進させるか、同階級内でもどの力士をより上位に遇するか、番付編成ごとに編成会議出席者は頭を悩ませる。

成績と翌場所の番付の昇進・降格幅は一定ではなく、他力士の成績や昇進・降格幅に大きく左右される。そのため、同地位・同成績でありながら翌場所の番付に大差がつくこともある。こうした番付編成の状況を表す言葉を「番付は生き物」と言い、この言葉は全ての階級で適用されている。力士自身は決定された番付に異を唱えることはできず、結果として力士にとって昇進・降格に際し多少の誤差や運・不運が含まれることはこの言葉で甘受すべきであると認識されている。

番付を書く

江戸時代中期の元禄年間(16881703年)には、歌舞伎寄席、相撲の看板はいずれも御家流青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(17891800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、バランスをとるために〈木へん〉や〈山へん〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや肉眼で見ることが困難なことから、俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。現在番付を書いているのは戦後7人目となる三役格行司3代木村容堂で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫(後の36代木村庄之助)より受け継いでいる。

戦後の番付を書いてきた行司(番付を書いた時の行司名)

大相撲番付の構成

行司が書く番付(原版)を「元書き」[4] 大きい方の番付)といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)に、鯨尺で「横綱」が幅7分5厘(約2.8cm)、「大関」が6分5厘(約2.5cm)、「関脇」・「小結」が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。書く順序としては、まず線引き(枠書き)をして、最初に書かれるものが枠外左下に「平成○○年○○月○○日発表 不許複製」(以前は印刷日も書かれていた、「不許複製」の文字は昭和40年代頃より書かれる)、序ノ口(最下段)を左から書いて序二段(上から4段目)、年寄ほか(最下段。「千穐万歳大々叶」「此外中前相撲東西ニ御座候」の文字、特等床山(当時)・呼出し(十枚目(十両)格以上のみ掲載)・世話人・若者頭も含む。2012年(平成24年)1月場所より、床山は特等および一等床山を記載し、世話人・若者頭については右側(東方)最下段左端に書かれる)、中軸に、江戸時代に相撲興行は寺社奉行の許可を要した名残である「蒙御免」の文字、開催年月日と開催場所[8]、行司、審判委員、「財団法人日本相撲協會」の文字、および所在地)、三段目(上から3段目)、幕下、十両(幕下と十両は共に上から2段目だが十両の方が文字が大きく太い)、幕内(最上段)、張出があった頃は東の張出を最後に書く。左から右へ、下段から上段へ書いていく。番付では横綱・三役は一つの地位では東西各1名ずつ計2名が本来であるが、3名以上になるときには東西の各1名を「正位」と呼び、それ以外は「張出」(1994年(平成6年)5月場所まで)と呼ばれる。張出の枠は、枠内の地位が書いてある位置から、枠外に張出の枠を設けるので、枠の高さが枠内より若干低くなる。番付の横(幅)の寸法は張出があると、張出がある分だけ枠外の寸法も含まれるため、張出(枠外)がある番付とない番付では、枠内の幅の寸法が変わってくる。張出が多いと、それだけ番付枠内の幅が狭くなるので、張出がない番付より若干文字の幅も狭く書かれるようになる。張出大関や張出関脇が東西にある場合は、枠外に張出の枠、大関・関脇を並べて書く。さらに張出小結などがある場合は、さらに枠を並べて書く場合と、二段目の枠外に書かれることもある。[9]

1930年(昭和5年)、昭和天皇の誕生日4月29日に行われた天覧相撲のおりに発行された現存する番付には「蒙御免」と書かれるところに「賜天覧(てんらんをたまわる)」と書かれた。

一人横綱の場合は、横綱を東の枠外に張り出して書かれる。このとき大関以下に張出がある場合は、他の張出の枠より若干大きく設け枠内の高さに揃える。「横綱」の文字・出身地・四股名は枠内および他の張出の文字の高さに揃えず、高く大きめに書かれる。横綱が3人以上(東西の正横綱および張出横綱)で大関以下に張出がある場合は、張出横綱の枠を他の張出の枠の高さに揃え、文字も枠内および他の張出の文字の高さに揃えて書かれる[5]。また改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に、縦横それぞれ約半分、面積にして約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に掲出される。

享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている[6])や明治以降には写真番付も製作された。

現存する絵番付としては、1860年(万延元年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。

前述の板番付は総ヒノキ製で高さが約2m、幅が1.5mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4~5日かけて書き上げる(製作中[7][8]、完成[9])。なお板番付では出身地と四股名の間を詰めて書かれるので、改名力士についての「〇〇〇(旧四股名)改」は書かれない。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。

番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」(2008年(平成20年)11月場所より表記を「副理事」に改称)、「役員待遇」、「委員」(年寄のうち期間限定の一代年寄であった栃東琴欧洲(元大関)は委員待遇)、「主任」、「年寄」、「参与[10]に分けられる。以前は「取締」という職階もあった。審判委員(1968年(昭和43年)の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて歴史的観点から右から書かれている(例:「司行」、「事理」)また理事長は理事の筆頭に大きめに書かれ「理事長」と頭書きされる。

若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年(平成6年)7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。このとき、記入スペースを確保するために、それまでの張出の制度を休止して、横綱・大関・三役がそれぞれ3人以上になっても、すべてを枠内に書くこととした。[11]

2004年(平成16年)3月場所より審判委員(職階は主任や年寄・参与であっても〈審判委員〉に一括される)を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年(平成20年)1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。

また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで相談役として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚時津風勝男武蔵川晃偉放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにも関わらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。

2014年(平成26年)1月27日内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、当時の評議員のうち年寄でもあった南忠晃(湊川)、平野兼司(山響)、佐藤忠博(大嶽)の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載された。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」新字体)に改められた。

各力士の上に書かれる出身地は、江戸時代名(お抱え大名の地域)で書かれることもあったが、明治以降は出身国名表記となり、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地名が表記され、1948年(昭和23年)5月場所より出身地名を含む都道府県名の表記、1956年(昭和31年)3月場所より全て都道府県名(外国出身力士の場合は国名)の表記となった。ただし、幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉(江戸時代)または〈東京〉(明治以降)の表示でまとめられることが昭和初期まで多かった。漢字を使わない国名に関しては、アメリカ合衆国は「米国」と漢字表記が用いられたが、その他の国はカタカナ表記である。

なお、中央に「蒙御免」(ごめんこうむる)とある理由は、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興行を行っていた名残である。場所中は会場に「御免札」[10]が掲げられている(これは現在でも変わらない)[3]

「此外中前相撲東西ニ御座候」は、番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され前相撲のみが現在も残っている。江戸時代には前相撲→相中→本中と進み、相中・本中を「中(ちゅう)相撲」といい、明治になって相中がなくなった。1973年(昭和48年)3月場所までは前相撲→本中と進み(1986年(昭和61年)より番付外の取組は全て前相撲として扱う)、新序出世披露を受けると翌場所の番付に四股名が記載される。幕下付け出し及び三段目付け出しも初土俵の場所は記載されないが「番付外」とは呼ばれない。

1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。

特殊事情の場合

番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合(現役力士の解雇・死亡など)は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。

ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。

玉の海とは全く逆のケースとして、1990年(平成2年)1月場所で新入幕を果たし、西前頭10枚目で9勝6敗と勝ち越しながら、同年2月に急死した龍興山の場合は、翌3月場所の新番付は自己最高位の東前頭5枚目に載っていた。これは現役力士が場所後死亡しながらも空位にせず、番付に四股名が掲載されるという珍しい出来事である。この理由には、3月場所は龍興山の出身地である地元大阪で大相撲が開催されるため、「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という相撲協会の配慮により、異例ながらも番付に龍興山の四股名がそのまま残された。

2007年(平成19年)11月場所の番付で西前頭11枚目が空位となった。場所の直前(番付編成後)に時津海が引退して年寄時津風を襲名して時津風として番付に載ることとなり、番付上の重複を避けるために空位とした。これは幕内では1873年(明治6年)11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名した際以来(前述のケースを除いて)で134年ぶりだった。

また、2008年(平成20年)9月場所の番付では、前の7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年(平成21年)3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。

また、1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれた際にも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年(昭和56年)9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖千代の富士)が「横綱大関」として番付上大関を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある(後述。横綱大関の項目も参照)。

2008年(平成20年)1月場所、時津風部屋力士暴行死事件に関連して心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付は3月場所において据え置かれた[12]。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことはない[13]。この異例の判断は理事長の北の湖によると「3力士とも捜査に協力しているため、社会通念上決めた」ということだった[14]

2010年(平成22年)1月場所で25回目の優勝を果たした、西横綱朝青龍が同場所中の不祥事により、番付編成会議後の2月4日に突如引退を表明。形式上は自らの意思による通常の引退であったが、番付発表まで約3週間の余裕があったために、敢えて四股名ごと削除することとなった。これに伴い、本来なら西横綱に載るはずだった白鵬の地位は、1月場所と同じく3月場所も東横綱に掲載され、番付編成会議後の引退届提出により番付が変動するという極めて異例の措置となった。[15]

番付に纏わるエピソード

江戸時代

  • 1726年(享保11年)の番付に4代木村庄之助(史実としての初代とされる)の名前が見られる。ちなみに初代式守伊之助の名前は1767年明和4年)の番付に見られる。
  • 江戸相撲の最初期の番付(現存最古の1757年(宝暦7年)10月場所から数場所)には、本中(中)や前相撲(前)の力士も掲載されている。
  • 1767年3月場所、荒熊が西方幕内格番付外で出場(相撲番付の歴史上、宝暦以降では初めて)した。これ以降、幕内格番付外で出場した力士は1932年5月場所の出羽ヶ嶽までのべ70人がいる。この中には1859年(安政6年)1月場所の陣幕、1882年(明治15年)1月場所の初代西ノ海がいる。西ノ海はこの場所が新入幕だった。
  • 1768年(明和5年)11月場所は番付を欠き(番付が未発見のため)、2大関(岩根山大矢嶌?、2人とも看板大関)の他幕内10力士は地位が不明。
  • 1790年(寛政2年)11月場所で、西関脇に付け出された雷電爲右エ門が江戸本場所に初登場したが、東前頭3枚目に雷電灘之助がいたため、東西に“雷電”が相対する珍番付となった。
  • 1794年(寛政6年)11月場所の番付で、当時6歳の大童山が怪童という触れ込みで、西方前頭に張り出された。これ以降、怪童で番付に載ったのは嘉永年間(18481854年)の鬼若鬼勝大童子。安政年間(1854-1860年)には柏嶽大纒舞鶴がいる。他に巨人力士として、1844年天保15年)10月場所の生月1863年文久3年)11月場所の皆瀬川がおり、いずれも前頭に張り出されている。
  • 1798年(寛政10年)3月場所の番付から、二段目以下の地位表示が「同」で一括されるようになった。それまでは二段目(宝暦年間は場所によっては三段目・四段目の一部も)の地位表示は1人ずつ「前頭」と書かれていた。
  • 1819年文政2年)11月場所の番付より、それまで番付上段に書かれていた「東ノ方」「西ノ方」(または「東の方」「西の方」)が、「東」「西」とだけ書かれるようになった。
  • 1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所の関ノ戸がそれぞれ張出の最初である。

明治時代

  • 大坂相撲において1869年(明治2年)3月場所の番付は、横綱(番付上は大関)陣幕以下幕内が22人。そのうち新入幕が17人もおり、その中にはいきなり小結に据えられた初代梅ヶ谷がいた。
  • 1882年6月場所より、成績に応じて番付を編成するようになった。
  • 1888年5月場所、京都相撲より東京相撲に編入した一ノ矢鶴吉は、当時関脇に一ノ矢藤太郎(のち大関)がいたため「達ノ矢」と改名した。
  • 1892年(明治25年)6月場所新入幕の大砲は、番付には「大炮」と書かれた(読み方は同じ「おおづつ」、序二段時代の1888年5月場所に改名)。幕内で「大炮」と書かれたのは、この場所を含め1898年(明治31年)5月場所まで13場所中4場所あった。
  • 1900年(明治33年)1月場所で常陸山が新関脇に昇進以降、1959年(昭和34年)1月場所の横綱千代の山の引退まで、出羽海部屋(常陸山の当時は「出羽ノ海部屋」)は約60年間138場所の間番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。
  • 大坂相撲において1905年(明治38年)6月場所の番付で、前頭6枚目にい助治郎が新入幕。四股名が平仮名一字の「い」で、読み方は「かながしら」と呼ぶが、番付には「い助治郎」と書かれている。東京相撲で初めて「横綱」の文字が載った1890年(明治23年)5月場所の番付で、序ノ口西最下位にも「イ吉三」なる力士の四股名が載っている。1906年(明治39年)5月場所の番付では、前頭10枚目の白川寅太郎が、この場所5日目より四股名を「ステッセル」と改名している。「ステッセル」は場所中の改名だったため、この場所の番付には載らず、翌(場所の)1907年(明治40年)1月場所には、元の四股名「白川」に戻している(四股名#変わった四股名の項参照)。

大正時代

1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。

  • 1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山千葉ヶ嵜伊勢ノ濱2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている
  • 大坂相撲において1917年1月場所、大関昇進を果たした朝日松は、前年暮れにトラブルを起こし師匠から破門され、晴れ姿は幻に終わった。この場所の番付には西大関朝日松清治郎の箇所に、「朝日松清治郎ハ昨冬除名仕候」という張り紙がされた。朝日松は以前にも東京相撲において1913年(大正2年)5月場所初日、控え力士として物言いをつけたものの受け入れられず、相撲を取らずに退場し破門され大坂相撲に復帰したことがあった。朝日松は翌6月場所に復帰を許され、前頭筆頭格として番付外で出場し、その後関脇まで番付を上げたが、再び大関にはなれなかった。
  • 1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱-2代西ノ海、鳳、大関-伊勢ノ濱、関脇-両國、小結-黒瀬川、前頭-鶴渡)が設けられた番付が発行された。
  • 大坂相撲において1923年(大正12年)5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山大木戸の両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。
  • 1924年(大正13年)5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東西制だったので東西が入れ替わって、西の正横綱は3代西ノ海、東の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年(大正14年)1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は東西正横綱の常ノ花、3代西ノ海よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。
  • 大坂相撲最後の本場所となった1926年1月場所は、当時日本の領土となっていた台湾台北市で興行したが、番付には興行地は記載されなかった。

昭和時代

  • 1927年(昭和2年)の東西合併から春秋園事件が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。
  • 東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「イロハ順」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。
  • 1928年(昭和3年)10月、広島に於いて晴天11日間興行されたが、今後関西本場所は番付を発表せず、直前の東京場所番付をもってすることとなった(1932年10月、関西本場所廃止まで)。
  • 1931年(昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明し、次に編成された5月場所の番付は、1890年5月場所に『横綱』の地位記載を始めて以来初めて横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
  • 1931年5月場所の番付は、西方幕内に出羽海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽海部屋所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は立浪部屋の3人が最多だった。
  • 1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した、錦洋一派の大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
  • 1933年2月、天竜一派の新興力士団が「大日本関西角力協会」を結成。大阪で第一回本場所開催のおり発行された番付(東西制はなく片番付様式)には大関天竜、関脇大ノ里、小結錦洋以下力士41人。行司(番付には行司ではなく「審判員」と書かれている)7人(この中にのちの24代木村庄之助(当時は初代式守伊三郎)がいる)。他に「事務員」「拡声係」「桟敷係」「世話人」が書かれている。
  • 1934年(昭和9年)5月場所の番付より、幕下以下の力士全員の出身地名が記載された。
  • 相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年(昭和12年)暮れに関西角力協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
  • 1939年1月場所、日中戦争支那事変)の激化で応召入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
  • 1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭3枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。
  • 1941年(昭和16年)1月場所で安藝ノ海、五ツ嶌の同時大関昇進で、前田山を含めて番付の東方に3大関が並んだ(西方は羽黒山1人)。これは1919年(大正8年)1月場所(西方に2代朝潮、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱。東方は九州山1人)以来22年ぶりの変則番付となった。
  • 1942年(昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
  • 1944年(昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所(1945年(昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
  • 戦後初の1945年11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。
  • 1948年5月場所で、横綱・大関・関脇各3人の番付ながら張出を設けず、すべて枠内に四股名が記載された番付となった。翌10月場所も横綱・大関各3人がすべて枠内に書かれた。このときはこの2場所のみだったが、1994年(平成6年)7月場所に張出制度が休止されて以降、張出のない番付は現在に至っている。
  • 1951年(昭和26年)5月場所の番付編成で、三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助)を新設された副立行司に昇格させ、立行司の13代木村玉之助が同じ副立行司に格下げとなった。同年9月場所にも三役格行司2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇格となった。
  • 1955年1月場所と3月場所の番付で、いずれも4横綱の番付ではあるが、両場所とも東方は正横綱(1月、3月場所=千代の山)、張出横綱(1月場所=鏡里、3月場所=吉葉山)各1人、西方は2人とも正横綱(1月場所=栃錦、吉葉山、3月場所=栃錦、鏡里)という珍しい番付となった。これは二場所とも東方に大関が三根山1人で西方には大関が不在のためである。
  • 1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱-栃錦、千代の山、大関-松登、関脇-羽嶋山、小結-鶴ヶ嶺、前頭-星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱-鏡里、千代の山、大関-松登、関脇-出羽錦、小結-羽嶋山、前頭-二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。
  • 1957年3月場所の番付で、平幕が東西23枚と史上最多(同年9月場所も)となった。ちなみに、戦後において一場所最多の幕内力士数は、同場所より11月場所まで4場所続いた58人。また十両もこの4場所は東西23枚46人(十両は1958年(昭和33年)のみ6場所連続、東西24枚48人が最多)おり、関取が実に104人という時代であった。同じく一場所最多の横綱及び三役の力士数は1961年(昭和36年)9月場所と翌11月場所の15人。逆に一場所最少の幕内力士数は、1967年5月場所から1971年11月場所の34人。
  • 1959年5月場所は、東横綱栃錦と東張出横綱初代若乃花がともに14勝1敗で優勝決定戦となり、若乃花が優勝したが、翌7月場所の番付では優勝同点の栃錦が東横綱にとどまり、若乃花は西横綱だった。「優勝決定戦での勝敗それ自体は番付に影響しない」原則がはじめて明確に示された形であり、その後も同様のケース(1971年1月場所の大鵬-玉の海1988年3月場所の大乃国-北勝海など)のたびに、優勝力士が同点力士の下位に留めおかれるのは不合理ではないかとの議論を呼んだ。1997年9月場所後の理事会での改定により、現在では同地位の力士同士の決定戦で下位の力士が優勝した場合、翌場所の番付では優勝力士を上位にまわすことになっている。
  • 1960年1月場所、これまでの番付を改め「取締」「理事」を東方の最下段に、「勝負を司る者を中央に」という考察で「勝負検査役」を中央部の「行司」の欄の下部に配した。「若者頭」については51年ぶり、「世話人」「呼出」については11年ぶりに削除した。また協会の所在地を番付に初めて記載した。
  • 1960年1月場所の番付で、1959年10月3日春日野(元横綱栃木山)が亡くなり、弟子の横綱栃錦が現役のまま春日野を襲名することになり、1958年に廃止された二枚鑑札を特例として認められ、現役引退する5月場所まで年寄の欄にも「春日野清隆」と記載された。
  • 1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。
  • 1961年11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花大鵬柏戸、3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。
  • 1972年5月場所、前場所直前に25代木村庄之助が廃業、協会は11月場所まで庄之助を空位にすると発表したため立行司が22代式守伊之助1人となった。1960年1月場所以降立行司(2人)と三役格行司(3人)は二段に分けて書かれていたが、バランスをとるため伊之助の横に三役格3人を並べて書いた。その後庄之助と伊之助が揃っても5人並べて書かれていたが、1985年1月場所から再び立行司と三役格行司は二段に分けて書かれるようになった。
  • 1972年9月場所、十両で初の公傷制度が適用され、大潮鷲羽山が前場所の番付と同地位で張り出された(大潮は東5枚目、鷲羽山は西10枚目)。その後、1976年(昭和51年)5月場所に十両の公傷休場力士の張出扱いを休止した。
  • 1972年11月場所の番付で東前頭14枚目福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
  • 1975年3月場所の番付は、1948年10月場所以来27年ぶりに張出のない番付となったが、横綱から小結まで2名ずつという純粋に人数ぎりぎりになったのは昭和以降初めてであった。
  • 1980年9月場所5日目より幕内格行司木村筆之助糖尿病により長期の病気休場となった。取組中力士と接触したり、勝負が決まる前に転倒するなど失態が多かった。晩年の1984年(昭和59年)1月場所より“別格扱い”となり、番付の行司欄最下位に記載されるようになり、土俵に復帰することなく同年5月場所前に亡くなった。
  • 1981年9月場所の番付は大関不在のため東西の正横綱、北の湖と千代の富士が「横綱大関」となる。大関不在の変則番付は1905年(明治38年)1月場所(2代梅ヶ谷、常陸山の東西正横綱が「横綱大関」となる)以来76年ぶり。
  • 1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮が横綱隆の里戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。
  • 1984年1月場所の番付で、西方序ノ口に張出(公傷扱いによる)が書かれた番付が発行された。最下段の「千穐万歳大々叶」と書いてある左側(西方)欄外にごく小さく「小岩井昭和[16]」と書かれてあった。当時は番付に公傷制度による張出が幕下以下にも度々見られたが、序ノ口の張出はごく稀なケースである。
  • 1985年(昭和60年)1月場所より新国技館で開催されたが、番付には「両国國技館」ではなく「國技館」と、「両国」の文字は入らなかった(蔵前国技館時代の番付には「藏前國技館」と書かれていた)。

平成時代

  • 1989年1月場所の番付において、前場所序二段東114枚目で7戦全勝だった二子桜(のちの幕内力櫻)は、内規により三段目に昇進できるはずだったが、発表された番付では序二段東44枚目に据え置かれていた。これに師匠の二子山理事長(元横綱初代若乃花)が抗議し、二子桜は1月場所を三段目最下位格扱いで相撲をとった。審判部が、前場所の序二段の優勝決定戦での二子桜の敗戦を本場所でのそれと勘違いしていたことによるミスであった。
  • 1992年5月場所の番付より、立行司の代数が記載されるようになった。当時木村庄之助は28代、式守伊之助は26代であった。
  • 1994年(平成6年)5月場所の番付で、同じ四股名の力士が記載されるミスがあった。序二段西101枚目と序ノ口東30枚目の力士はいずれも「小谷」。二人は兵庫県出身の兄弟で、序二段が兄で二子山部屋、序ノ口が大鵬部屋の力士。弟は3月場所初土俵で、5月場所初めて番付に四股名が載った。弟は「大小谷」で四股名を届けたはず、と首をかしげたが、結局急遽改めて改名届を提出し、5月場所は「大小谷」で土俵に上がった。またこの場所の番付に掲載された力士は934人となり史上最多となった。
  • 1994年7月場所の番付で、前場所までの「審判委員」(1968年1月に「勝負検査役」より改称)が、1887年(明治20年)1月場所の番付に初めて「勝負検査役」を記載以来番付から消え、1959年11月場所以来、「若者頭」「世話人」「呼出」が番付上に復活した。同時に、「委員」「年寄」は就任年月日順に番付に記載されるようになった。なお、「呼出」は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない。
  • 1994年10月20日、2日前に停年退職した若者頭・伊勢錦の後任として同年9月場所、西幕下15枚目で1勝6敗に終わった花ノ国が若者頭に就任する事が承認され同年11月場所は現役力士と若者頭の同一人物の番付面での重複を避けるため、幕下は東方が従来の60枚目まであったのに対し、西方は花ノ国の名が抜かれ1枚減らされ、59枚になっている。
  • 2000年9月場所後、序二段力士持丸は四股名を「挑持丸(ちょうじまる)」と改名する旨届け出たが、番付には「持丸」と誤記され(読みはちょうじまる)、それを正式名として一場所を勤めた。翌11月場所終了後に再び改名届けを出し2001年1月場所から改めて「挑持丸」となった。この一場所限りの改名は誤記によるものとはいえ正式に協会の記録として残っている[17]
  • 2008年9月場所の番付より前場所までの「呼出」の表記を、1950年代に記載された頃の「呼出し」と改めた。
  • 2009年3月場所の番付より、三段目格行司を幕下格行司と同列にして文字の大きさも前場所より若干大きく書き、序二段格行司以下にスペースが広くなったため、同様に序二段、序ノ口格行司も前場所よりやや大きめに書かれるようになった。
  • 2010年7月場所の番付は、一連の野球賭博問題で1週間遅れの7月5日発表(番付には「平成22年6月28日発表」と書かれてある)。新番付に掲載されたまま解雇となった大関琴光喜以下、謹慎となった幕内力士7人、十両・幕下力士7人が休場。大嶽(元関脇貴闘力)親方は解雇、時津風(元前頭時津海)・阿武松(元関脇益荒雄)両親方は降格の懲戒処分、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)以下11人の親方は当面の間謹慎という異常事態の場所となった。この際「謹慎処分を受けた力士の名前が番付に残ったままになる異例の事態」などという誤った報道が全ての民放キー局[18]でなされた。これらの報道について訂正等は一切なかった。
  • 2012年1月場所の番付で、「若者頭」・「世話人」が右側(東方)左下に記載されるようになり、「呼出し」・「床山」は枠が拡大され、「床山」については前場所までは特等床山2名のみの記載だったが、この場所より一等床山13名が追加記載されるようになった。
  • 2015年4月、グルジア政府からの要請を受けて通常国会で審議・可決された在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の改正法が公布・施行され、同国の日本語での呼称がロシア語読みの「グルジア」から英語読みの「ジョージア」に改められることになった。同年5月場所の番付はすでに作成済で、西前頭筆頭栃ノ心剛や東6枚目臥牙丸勝ら同国出身力士の出身地は「グルジア」のままだったが、相撲協会公式サイトや本場所の場内アナウンスなどでは「ジョージア」に改められ、7月場所からは番付表記も「ジョージア」となった。
  • 2016年11月場所番付から年寄欄に「参与」が復活、停年後の再雇用者が記載された。なお、再雇用者の中でも、勝負審判をつとめている桐山(元黒瀬川)は、審判委員のところに名前が記載されている。
  • 2017年3月場所千秋楽、西山-翠富士戦で取組中に西山のまわしの前袋が土俵につき、勝負審判の指摘により反則負けとされたが、相撲規則の勝負規定上では前袋が土俵についても負けにならないとされていた。 審判部長の二所ノ関(元若嶋津)は誤審を認め謝罪、担当の勝負審判5人は厳重注意となった[19]。この勝敗が覆ることはなく、西山は西三段目17枚目で4勝3敗と通常では幕下に昇進できない成績となったが、翌5月場所の番付では西幕下60枚目に置かれた[20]
  • 2018年3月の役員改選で、評議員のなかの力士経験者が現役年寄ではなく協会員のOBにすべて交代した結果、5月場所番付には「評議員」の記載がなくなった。

脚注

  1. 1761年(宝暦11年)10月場所より、それまでの「勧進相撲」を「勧進大相撲」と記す。なお大坂、京都は横番付。
  2. 一時、1871年(明治4年)4月場所から1877年(明治10年)9月場所まで元の横二枚番付に戻る。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 大空出版『相撲ファン』vol.4 25頁
  4. 4.0 4.1 大空出版『相撲ファン』vol.4 28頁
  5. また東西の最下段の左側に、「初切」(「行司」、「年寄」の文字は右から書かれているにもかかわらず、「初切」の文字は誤って左から書かれている。「番付を書く」の項参照)とあり、巡業の余興で行われる初切をする力士の名がある。
  6. 1957年11月12日に協会は番付編成や巡業について、1.引退の横綱は5年間、大関は2年間検査役待遇とすること。2.番付編成会議は千秋楽の3日後と定める。3.合同巡業の実施。4.次年度1年間の本場所開催日程と番付発表日を11月場所中に発表すること。5.参与制を設け、理事監事(現在は副理事)、勝負検査役(現在は審判委員)を10年以上勤続し退任した者を選考する。以上5項目を実施することに決定した。
  7. ただし、何らかの理由で審判部長、審判部副部長、審判委員の一人が本場所(一部、または全日)を欠場した場合はその人は会議に参加できない場合がある。
  8. 両国国技館の場合は「国技館」と記載。大阪府立体育会館(3月場所)の場合は、2013年までは正式名称を記載。2014年以降は施設命名権の名称「BODYMAKERコロシアム(2015年まで)」または「エディオンアリーナ大阪(2016年以降)」と記載している。同様に、2018年以降の愛知県体育館(7月・名古屋場所)においても、「ドルフィンズアリーナ」と記載している。NHKにおける報道では、放送法第83条(広告放送禁止規定)を適用し、いずれも正式名称を使用しているが、FIFA(国際サッカー連盟)主催・主管サッカー国際試合におけるクリーンスタジアム規定(施設命名権行使禁止規定)のように、命名権行使そのものを日本相撲協会が禁止している訳ではない為、2014年以降、番付と報道との整合性が取れていない状態にある。
  9. 張出が合計3人以上の場合に、1950年代までは、二段目にもよく書かれていた。最近の番付では1972年(昭和47年)9月場所に三役として張出小結富士櫻が東方の欄外二段目に書かれた。
  10. 2014年11月に以前あった名称が復活する形で制度が創設され、当初は掲載されていなかったが2016年11月場所から記載されるようになり、審判委員の欄に記載された1名を除いた4名が記載された。
  11. しかし、当時一人横綱の曙に関しては同年11月場所まで東の枠外へ張り出された。また、2004年(平成16年)1月場所から2007年(平成19年)5月場所まで一人横綱だった朝青龍2010年(平成22年)3月場所から2012年(平成24年)9月場所まで一人横綱だった白鵬は張出はされず枠内に書かれている。
  12. 力士急死:時津風部屋の兄弟子3人の番付据え置き 2008年1月30日
  13. 昭和の戦中期、軍隊に徴用された力士について、ただし書きとともに番付外に張り出して、地位を留保した例はある。やがて軍部から「軍機に触れる」の咎めがあって、1942年(昭和17年)1月場所から廃止され、兵役についた力士は番付から名前を消し、復帰時に元の成績相当の地位で出場させることにした。
  14. 兄弟子3人、全休なのに番付据え置き…序ノ口力士死亡事件 2008年1月30日
  15. 白鵬、重責の1人横綱 新番付から朝青龍の名前消える スポーツ-ZAKZAK 2010年3月1日
  16. 後の幕内・小城ノ花で、現在の年寄・出羽海。当時は本名を四股名としていた。
  17. 飛天龍 貴信日本相撲協会大相撲名鑑
  18. 情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ・日本テレビ)、ANNニュース(テレビ朝日)、FNNスーパーニュース(フジテレビ)、NEWS FINE(テレビ東京)(いずれも2010年7月5日放送分)、みのもんたの朝ズバッ!(TBS、2010年7月6日放送分)など
  19. 三段目取組で誤審=勝負結果は変わらず-大相撲春場所 - 時事ドットコム(時事通信社、2017年3月26日)
  20. 3月場所において西山より番付上位の西15~東17枚目で4勝3敗だった力士はいずれも5月場所では三段目に留め置かれている。

関連項目