佐田の山晋松
佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日[1])は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身の元大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。
Contents
来歴
誕生~入門前
1938年に長崎県南松浦郡有川町で船大工を営む家に生まれる。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされた上に土地相撲に連れて行かれる内に大相撲に憧れを抱き、次第に角界入りを希望するようになるが、母親から猛反対された。長崎県立上五島高等学校へ進学後は相撲部に所属したところ、3年生で長崎県の相撲大会に参加するよう勧誘された。最初は辞退したものの強引な説得で補欠として出場させられたが、いざ対戦するとほとんど負けなかったために自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年に千代の山雅信・栃錦清隆の一行が地元・五島へ巡業に来た際に高校の教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、五ツ島が所属していた出羽海部屋へ入門した。翌日からは洗面道具と下着だけを持参して巡業に参加したが、高校の卒業証書は高校の教諭の計らいでようやくもらえた。
幕内昇進~横綱へ
1956年1月場所で初土俵を踏む。序ノ口から幕下まで優勝は無いものの、地道な努力で少しずつ番付を上げていき、1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。下積み時代の稽古では部屋の前の電信柱で鉄砲を撃ち込み、後に佐田の山は「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」と振り返っている[2]。新入幕で10勝5敗の好成績を上げ、次の場所では西前頭4枚目の地位を与えられたが、場所前に右足首を捻挫。「横綱、大関ってどんなだろう、と内心ワクワクしていた」そうであったが師匠から「まだ若いんだ、無理するな。それよりも足首をしっかり治せ、慢性になるとまずいぞ」と言われて全休[3]。それによって一度は番付が降格するも、休場中に体重が急激に増加し、力を増した。同年5月場所では前頭13枚目で12勝3敗の好成績を残して初優勝を果たす[4]が、成績もさることながら対戦した三役力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森と対戦して敗れているため、「最高優勝は十両ではないか」との意見まで飛び出た。このことから、平幕下位の力士でも成績次第で三役力士・横綱と対戦させるように取り組みを編成するきっかけとなった[5]。
佐田の山は平幕優勝を果たしたことで一気に平幕上位へ番付を上げ、翌7月場所は東前頭2枚目に昇進[3]。朝潮、若乃花からの2金星を含む11勝を挙げて殊勲賞を獲得[3]。続く9月場所は小結を通り越して関脇へ昇進、1962年3月場所はその関脇で13勝2敗の好成績を収めた[3]。この場所は過去に5度対戦して全敗している横綱・大鵬との優勝決定戦に臨み、見事勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に、場所後の大関昇進を決定的にした[4]。同年5月場所では初めて本割で大鵬を撃破し、13勝2敗の好成績を収めた。出羽海部屋の大先輩である出羽錦は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったら、ワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言って佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが間に合わず、1964年9月場所で引退した。大先輩の引退を受けてより早期の横綱昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を達成して横綱に推挙された[4]。長年に渡って「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた[6]。
現役引退
横綱昇進後は1965年5月場所で14勝1敗で4度目の優勝を果たしてからは持病の高血圧や胃腸炎などから2年以上に渡って優勝から遠のいていた[3]。それでもひたむきに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たした。ところが、同年3月場所で序盤に3敗を喫するとあっさり現役引退を発表した[4][7]。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を達成した直後だったことから周囲に激震が走り、「高見山大五郎(前頭4枚目)に金星を献上したことが悔しかったのではないか[8]」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭(大関)に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で(引退を)考えていた」という。戦前に栃木山守也・常ノ花寛市といった出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われた。
同年6月に行われた引退相撲では、直近の5月場所に大鵬と柏戸剛の両横綱が休場したことも受けて、同部屋の福の花孝一を露払いに、海乃山勇を太刀持ちに従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例(2003年の貴乃花光司以降、大関以下の現役力士が務める場合も増えた)だった当時としては異例の組合せだった。
引退~理事長就任へ
現役引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、横綱時代で既に部屋の土地・建物が佐田の山名義となっていた[3]。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰から見ても明白だったが、佐田の山が引退すると出羽海は即座に部屋を継承させ、過去に襲名していた「武蔵川」に戻っていた。これには「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と発言していたという。1969年12月の14代時津風との対談でも、実際「現役のときには苦しいこともあったけれでも、相撲を取って自分本位に一生懸命働いていれば、自分のためになると同時に部屋のためになる。それを若い者も見習ってくれるし、非常によかったんだけれども、今度は反対ですからね。人のことでも世話していかなきゃならんし、指導せんといかんしね」と苦労を語っている。部屋継承時点で自分を含めて11人の年寄が部屋に在籍していたが、年寄が先輩格ばかりであったため部屋を継いでいても名実が伴わない面が多かったと、1969年の時点では話していた[9]。
出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった[10]が、現役時代からかわいがっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていると聞くとこれを許可、1919年の栃木山守也(春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。出羽海は「私は"不文律"にはこだわらない。優秀な親方であれば、どんどん弟子を養成させたい。協会運営も、部屋の運営も、これからますます複雑になってくる。活発に動き回らないとダメなんです」と独立に関して話していた[11]。それ以降は不文律自体が事実上消滅したため、1980年代以降は出羽海一門でも分家独立が相次ぎ、2014年3月現在では最も部屋数が多い一門が出羽海一門となっている。朝5時には稽古場に下り、土俵に鋭い視線を送り続けた出羽海の厳しさは11代出羽海の元小城ノ花が「親方が入って来ると、稽古場がピリッと引き締まった。少しでも気を抜くと怒られ、出稽古に来る他の部屋の力士から『出羽海部屋は入りにくい』と言われたほど」と語るほどであった。下の力士は部屋にいると暇になってどこへ行くともなくフラフラとし出すので、午後になると四股を踏ませた。特に相撲を知らない序二段力士は無暗に稽古土俵に上げて申し合いをやらせても稽古にならないため、当番的に幕下、三段目の胸を貸すのが上手い力士を土俵に上げ、入門1年足らずの新弟子をぶつからせた[9]。厳しい一方で、弟子の龍興山が急逝した時は、龍興山の地元大阪に、名前だけでも凱旋させてあげたいと尽力し、東前頭5枚目で死亡したまま番付に名前が載った[12]。相撲の基礎を徹底して教え込み、元小結・大錦の山科は「立ち合いで逃げたら、バーンと雷を落とされたこともある」と振り返る[13]。
出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海を横綱へ育てたほか、子飼いの弟子からも関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの幕内上位力士を多数育成した。師匠・出羽海以外でも、日本相撲協会の監事(1972年から1期)・理事(1974年から)を務め、指導普及部長や事業部長を歴任、そして二子山理事長が停年(定年)を迎えた1992年からは日本相撲協会理事長を3期・6年に渡って務めた。1996年には元関脇・鷲羽山佳和の境川と名跡を交換し、出羽海智敬から「境川尚」となった。理事長時代の6年間では
などの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。 しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の撤回に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を守旧派と呼んで批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。
- 年寄名跡の協会一括管理という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること
- 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済み[14]という既得権益を得る立場にあること
こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣と高田川が1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初となる理事選挙が実施された[15]。結果としてこの反主流派2人が理事に当選したため、境川はこの混乱の責任を取る形で4期目の理事長続行を断念した。直後に60歳の還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退している(ただし、還暦土俵入りで通常使用する赤い綱は受け取っている)。
また、理事長時代の1992年(平成4年)秋場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に訂正の場内アナウンスがなされたこともあった。
理事長退任後~晩年
理事長の続行を断念した後も理事職には留まり、1998年から相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長[3]を歴任するが、理事長経験者の現場復帰は異例であり、自身も1976年以来24年ぶりの着任だった。審判部長時代には昇進目安を満たしていた琴光喜の大関昇進を見送ったことで話題となった。
2002年からは日本相撲協会の相談役に就任、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡を交換して年寄・中立を襲名し、同年2月17日を最後に停年退職した。退職後はスポーツ報知専属の相撲評論家、年間最優秀力士賞選考委員を務めた。
舞の海のコラムによると、死去する10年ほど前、地元・五島列島で開催された少年相撲大会に顔を出していたが、これが生涯最後となる帰郷であった。舞の海は「当時から病を患っていたのかもしれない」とこの時を推測している[7]。
2009年の報知年間最優秀力士賞の選考会が行われた際にはすでに病魔に襲われていて、会場で記帳する時も自分の名前を書くことができなかった。後日「これ以上、皆様にご迷惑を掛けたくないので、選考委員を辞退させていただきたい」と報知新聞社の関係者へ連絡が来ており、報知新聞社の記者が佐田の山に会ったのはこれで最後であった[2]。
2010年9月1日に初代若乃花の没後は、横綱経験者として最年長の人物であったが、2017年4月27日午前3時15分、肺炎により死去していたことが同年5月1日に公表された。79歳だった[1]。故人の遺志により、葬儀は親族で行った[16][17]。2017年に入ってからは心筋梗塞で入退院を繰り返していたという[3]。
人物
6度の幕内最高優勝は横綱として悪くない数字だが(5回の柏戸より多い[18])、全勝優勝は一度も無かった。大鵬との合口が悪く、通算で5勝27敗(そのうち不戦勝・不戦敗が1回ずつ、他に優勝決定戦で1勝1敗)に終わり、大鵬に本割で勝利しての優勝は一度もなかった[19]。特に大関2場所目の1962年7月場所から横綱3場所目の1965年7月場所までは15連敗[20]を喫し、横綱昇進の最大の障壁となった。体格差が仇となって、右でも左でもがっぷりになると勝負にならず、長びくと勝機は無かった。活路は得意の突っ張りで先手を取って大鵬に上手を許す前の決着と言われたが、そうはさせまいとする強さ・巧さが大鵬にはあり、正攻法の佐田の山に攻め手が無かったのが原因である。
毎場所に渡って同じような相撲で敗退を繰り返し、大鵬との対戦で「勝利すれば優勝」という場面での対戦が最も多い力士(大鵬に勝利していれば優勝または優勝決定戦へ進むケースが8度もある)であることから、もう少し勝利すれば優勝回数を2桁にすることも可能だったといわれている。それでも大鵬より格下に見られることを極端に嫌っており、1965年11月場所に大鵬を破った際にある記者から「おめでとうございます」と言われると「ワシは横綱だぞ」と一蹴したほどである[3][21]。
大鵬も闘志むき出しで向かってくる佐田の山には「ライバル」とされた柏戸とは異質の激しい闘志を燃やしたという。一方で、大鵬は自身が何度も壁として立ちはだかりながら、それを跳ね除けてついに横綱昇進を勝ち取った佐田の山に「相撲道の『忍』を地で行った敬服すべき横綱」、「佐田の山関の横綱昇進ほど、清々しいものを感じたことはない」という賛辞を送っている[22]。また、佐田の山の引退時には深い哀惜の念を感じたという[23]。
素質の面でさほど優れているわけでは無かったが、猛稽古と激しい闘志、名門である出羽海一門を背負って立つ責任感で横綱に登りつめたとも評価されている。本人も引退後のインタビューで「闘魂が無くなったらどうにもならない」と語っていた[24]。
いわゆる「海の男」であったため酒や船に強かった。現役時代のある時巡業のため船で沖縄に向かった際、他の力士は鹿児島で名物料理を腹いっぱい食べて乗船、強烈な船酔いに襲われて嘔吐する力士が続出した中で、佐田の山はもがき苦しむ仲間を尻目に、黙々と一升瓶で飲み続けたという。[2]。
1967年には、映画・007シリーズ第5作「007は二度死ぬ」に本人役(蔵前国技館で稽古中にジェームス・ボンドに升席の券を渡す役)でカメオ出演し、ジェームス・ボンド役のショーン・コネリーと共演を果たしている[17]。
1969年12月の時点では弟子集めに比較的苦労しており、自身の若手時代は弟子など勧誘しなくとも自分から志願して来てくれたもので、自ら弟子集めのために足を使った親方などほとんどいなかった、と話していた。対談相手の14代時津風も、以前の相撲部屋は将来性など考えずにどんどん弟子を採用したが、現在では見込みのない力士に苦労させても仕方がないと考えて、自分の方から断るケースもあると返していた。元来大相撲というのは意地悪されても負けん気を発揮して向かって行くぐらいの強さが無いと大成しない世界なのであって、近頃の若者は楽をすることばかり考えていて自分に甘いと苦言を呈しつつも、脅かすように頭ごなしに叱るだけでは弟子が付いて行かないと苦慮するところを語っている。そんな中でもやる気のない力士には部屋を去ってもらって結構だという考えの下で、褌担ぎにもある程度厳しい稽古を課していた[9]。
理事長時代にはテレビのインタビューであるにも関わらず、公然と一人称を「オレ」と称して答えたこともあるなど、組織のリーダーとして疑問を持たれるような言動も見られた[25]。
舞の海との関係
舞の海に対しては「立合いに頭で当たらず、技は何をやってもいい」と角界では異例の指導で、愛称「技のデパート」を開花させたことはとても有名である。しかし当初は舞の海の入門を不可解に思っており、舞の海が2001年10月30日に東海村文化センターで行った講演では、出羽海が「山形の内定が決まり、あまりにも身長が小さいので本当に入門する気なのか確認したかった。」と考えていた様子が明らかになり、身長の目溢しを期待して当時角界No.2の出羽海を師匠に選んだ舞の海は1度目の検査で入門できなかったことに対してその真意を知るまで不信感を抱いていたことも本人によって語られた。
1991年3月場所、舞の海は交通渋滞により土俵入りに参加できず、後で雷を落とされるか、それとも破門されるかと恐れていた。しかし出羽海は「お前は昨日どうして勝ったかわかるか?土俵入りに遅れたから、緊張しないで相撲が取れたんだ。今日も遅刻してみろ」と豪快に笑った。[26][7]
部屋の力士が稽古中に歯を折ったとき、差し歯には高額な費用が必要だったが、舞の海は持ち合わせがなく意を決して出羽海に借りた。後日、返しに行くと「何のことだ。お前に貸した覚えはない。そんなことより相撲を頑張れ」と突っぱねられた。[26]
取り口など
一門内に限っては素質に恵まれた部類であったことから本人は入門当初より横綱になるという使命を与えられたという。そのため当初は徹底した横綱相撲が取れるように大きな体を手に入れることを要求され、太りにくい佐田の山のために一門総出で増量を手伝ったという逸話がある。その一環として不調を抱えてもいない盲腸を摘出する、胃薬や漢方薬などを多量に服用させるといった度を越した手段が試されたが、ついに増量は不首尾に終わった。体格の不利を克服できなかったことに加えて元来足腰が固かった佐田の山はその内突き押しに徹する必要に追われ、出足が十分でない点を少しずつ突っ張って後退させる取り口を操ることで補ったという。この取り口は慎重さだけでなく持久力や根気が必要であり、前述の猛稽古や使命感で培うことでこの取り口を完成させた。突っ張り主体であったものの前述の経緯から寄りや上手投げなど四つ相撲の攻め手がある程度備わっており、大関・横綱となってからも副次的な手段として活きていた。
理事長時代の施策のその後
理事長時代の施策についてのその後の評価は様々である。
- 「外国人力士の入門規制」は次代の時津風理事長が、『従来の総数40人』から『1部屋1人まで』[27]とする方針に変更し(2002年1月)、後に放駒理事長により帰化者も含む外国出身力士の制限に強化されている(2011年1月)。
- 「巡業の勧進元興行」は北の湖理事長によって復活している(2006年より)。
- 「新規入門規制」は八角理事長により、各種競技で実績のある者に限り従来の23歳未満から25歳未満に緩和されている(2016年9月)。
- 「幕下付出の基準設定」は時津風理事長によって基準が強化され(2000年9月)、さらに北の湖理事長によって「三段目付出制度の創設」(2015年5月)にまで拡充されている。
また、理事長としての失脚の原因となった年寄名跡の問題は次代の時津風理事長の下で改めて審議され、1998年5月に以下のような施策が実施された。 第1は 「大関経験者の時限付年寄襲名の許可」と「準年寄制度の創設」である。これは引退時に年寄名跡を取得していない場合、現役時の四股名のまま時限付きで年寄名として名乗ることを認めるものである(大関は3年、関脇以下は2年)。それまで横綱に限り5年時限の一代年寄として名乗ることが許されていた制度を門戸開放する意味があった。第2は 「年寄名跡の複数所有・貸借禁止」である。これは高額取引されている年寄名跡を取得することができない者が、本来の所有者から借り受けて襲名するという不透明さが慣習化していたため、これを解消する狙いがあった。
その後、「大関経験者の時限付年寄襲名許可」は定着し、2代栃東(2007年5月)と琴欧洲(2014年3月)に適用された。また「年寄名跡の複数所有の禁止」は定着したが、「年寄名跡の貸借」は禁止措置後も表面上の名義のみ変更して貸借する例が後を絶たず有名無実化したことにより、この禁止措置は解除された(2002年9月)。さらに「準年寄制度」も、短い任期(創設時は2年、2002年9月以降は1年)で年寄名跡を取得することが困難であり、むしろ任期切れを境に年寄名跡を借りて襲名する例が多くなったことで制度としての意義を失い、廃止された(2007年11月)。
理事長として1996年9月に打ち出した「年寄名跡の協会帰属・売買禁止」私案は、公益法人の評議員資格の高額売買という問題にメスを入れる、ドラスティックな改革案だった。しかし、1990年代の相撲人気の余波もあって改革の機運には程遠く、同時に親方衆の反発と理事長自身の問題への批判を生んだ[3][28]。一方で、2010年代の公益財団法人認定をめぐる議論では、名跡の取得に絡む金銭授受の禁止や罰則規定案が盛り込まれ、その意味でこの私案はこれらを先取りするものだった。この公益財団法人移行に伴い2013年12月に年寄名跡証書の協会への返還、管理がようやく実現した。しかし、年寄名跡の襲名に際しての金銭等の授受が禁止されたものの、親方衆の負債問題への対応や、協会の名跡買い取りが困難なこともあり、前任者への「顧問料」名義での支払いは容認されている。
主な成績
通算成績
- 通算成績:591勝251敗61休 勝率.702
- 幕内成績:435勝164敗61休 勝率.726
- 横綱成績:188勝64敗33休 勝率.746
- 大関成績:176勝66敗13休 勝率.727
- 幕内成績:435勝164敗61休 勝率.726
- 現役在位:71場所
- 幕内在位:44場所
- 横綱在位:19場所
- 大関在位:17場所
- 三役在位:4場所(関脇4場所、小結なし)
- 幕内在位:44場所
- 連勝記録:25(1965年5月場所2日目 - 1965年7月場所11日目)
- 年間最多勝:1965年(74勝16敗)
- 連続6場所勝利:77勝(1964年9月場所 - 1965年7月場所)
- 通算連続勝ち越し記録:16場所(1963年5月場所 - 1965年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:8場所(1964年9場所 - 1965年11月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利記録:7場所(当時2位タイ・現在歴代7位タイ、1964年9月場所 - 1965年9月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:6回(1961年5月場所、1962年3月場所、1965年1月場所、1965年5月場所、1967年11月場所、1968年1月場所)
三賞・金星
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1956年 (昭和31年) |
(前相撲) | 西序ノ口10枚目 5–3 |
東序二段88枚目 6–2 |
x | 西序二段34枚目 7–1 |
x |
1957年 (昭和32年) |
東三段目85枚目 4–4 |
東三段目82枚目 4–4 |
東三段目72枚目 5–3 |
x | 西三段目42枚目 7–1 |
東三段目13枚目 5–3 |
1958年 (昭和33年) |
西三段目3枚目 5–3 |
西幕下72枚目 5–3 |
東幕下66枚目 5–3 |
東幕下56枚目 6–2 |
東幕下43枚目 5–3 |
西幕下32枚目 4–4 |
1959年 (昭和34年) |
西幕下31枚目 5–3 |
東幕下28枚目 5–3 |
西幕下23枚目 6–2 |
西幕下10枚目 5–3 |
東幕下9枚目 4–4 |
西幕下6枚目 5–3 |
1960年 (昭和35年) |
西幕下4枚目 6–2 |
東十両16枚目 11–4 |
西十両9枚目 10–5 |
西十両3枚目 7–8 |
西十両4枚目 8–7 |
東十両2枚目 11–4 |
1961年 (昭和36年) |
東前頭12枚目 10–5 |
西前頭4枚目 休場 0–0–15 |
西前頭13枚目 12–3 敢 |
東前頭2枚目 11–4 殊★★ |
東張出関脇 8–7 |
東張出関脇 8–7 |
1962年 (昭和37年) |
西関脇 9–6 |
東張出関脇 13–2[29] 技 |
西大関 13–2 |
東大関 9–6 |
東張出大関 13–2[29] |
東大関 11–4 |
1963年 (昭和38年) |
東大関 12–3 |
東大関 0–5–10[30] |
東張出大関2 11–4 |
西大関 13–2[31] |
東大関 10–5 |
東張出大関 8–7 |
1964年 (昭和39年) |
東張出大関 9–3–3[32] |
東大関 9–6 |
東張出大関 11–4 |
西大関 8–7 |
西張出大関 13–2 |
東大関 13–2 |
1965年 (昭和40年) |
東大関 13–2 |
西横綱 12–3 |
西横綱 14–1 |
東横綱 12–3 |
西横綱 12–3[33] |
東横綱 11–4 |
1966年 (昭和41年) |
西横綱 5–6–4[34] |
西横綱 5–5–5[35] |
西張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 11–4 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 10–5 |
1967年 (昭和42年) |
東張出横綱 14–1 |
西横綱 9–6 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 10–5 |
西横綱 12–3 |
西横綱 12–3 |
1968年 (昭和43年) |
東横綱 13–2 |
東横綱 引退 2–4–0 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 佐々田 晋松(ささだ しんまつ):1956年1月場所 - 1959年3月場所
- 佐田ノ山 晋松(さだのやま - ):1959年5月場所
- 佐田の山 晋松(さだのやま - ):1959年7月場所 - 1963年3月場所
- 佐田乃山 照也(さだのやま てるや):1963年5月場所 - 1963年11月場所
- 佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ):1964年1月場所 - 1968年3月場所
年寄変遷
- 出羽海 晋松(でわのうみ しんまつ):1968年3月 - 1968年5月
- 出羽海 智敬(でわのうみ ともたか):1968年5月 - 1996年1月
- 境川 尚(さかいがわ しょう):1996年1月 - 2003年1月
- 中立 尚(なかだち しょう):2003年1月 - 2003年2月17日
脚注
- ↑ 1.0 1.1 “第50代横綱・佐田の山、肺炎のため死去 79歳”. スポーツ報知. (2017年5月1日12時14分) . 2017閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 2.2 部屋前の電柱逸話や酒豪伝説と「フルーツパフェ」注文のギャップ…元横綱・佐田の山悼む 2017年5月2日5時45分 スポーツ報知
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p94-96
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p22
- ↑ ただし、この場所の佐田の山以降も、富士錦の他に若浪が横綱・大関との対戦無くして平幕優勝を果たしている。
- ↑ 後に平幕優勝した力士では琴光喜が大関へ、貴乃花が横綱に昇進したほか、魁傑は大関陥落後に平幕優勝を果たしたことで大関に返り咲いた。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 ぶれなかった潔さ(2/3) 産経ニュース 2017.6.1 14:46
- ↑ 当時、高見山は幕内2場所目でこの佐田の山からの金星が自身の初金星でもあった。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p60-63
- ↑ 武隈と九重は一門を破門されたため数えない。破門の経緯はそれぞれの項目を参照。
- ↑ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK) p11
- ↑ 「死去の弟子を番付で凱旋させた/元横綱佐田の山悼む」2017年5月2日日刊スポーツ
- ↑ 2017/6/7付日本経済新聞 夕刊
- ↑ 境川が婿に入った市川家は相撲茶屋で最大の「四ツ万」のオーナー。
- ↑ 1968年の機構改革以降、同年の監事(現在の副理事)選挙を除いて役員改選はずっと無投票当選が続き、10人の理事枠にしても改選前に5つの一門がそれぞれ候補者を2人に絞ることが慣習化していた。
- ↑ “「元横綱・佐田の山の市川晋松さん死去「柏鵬時代」に6度優勝”. スポーツ報知. (2017年5月2日6時0分) . 2017閲覧.
- ↑ 17.0 17.1 “「007は二度死ぬ」でショーン・コネリーと共演した佐田の山、その真相は”. スポーツ報知. (2017年5月2日5時0分) . 2017閲覧.
- ↑ 現役晩年期の相撲誌には「連覇を成し遂げたことで柏戸を越えた」など書かれた記事もあり、当時としては柏戸より評価が高かった。
- ↑ 6度の優勝のうち4度は大鵬の休場もしくは番付の関係で対戦がなく(うち1度は不戦勝)、残り2度はいずれも本割で大鵬に敗れている。
- ↑ 途中、不戦勝1、不戦敗1あり。
- ↑ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p77
- ↑ 『大鵬自伝』(大鵬幸喜著、ベースボールマガジン社刊、1971年)P132-135
- ↑ 『大鵬自伝』、P199
- ↑ NHKビデオ「大相撲大全集・昭和の名力士」
- ↑ 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』
- ↑ 26.0 26.1 ぶれなかった潔さ(1/3) 産経ニュース 2017.6.1 14:46
- ↑ この時点での相撲部屋数は53であり、総数としては拡充されている。その後の部屋数も常に40を上回る数で推移している。
- ↑ “第50代横綱・佐田の山死去 理事長時代に改革案次々”. スポニチアネックス. (2017年5月2日5時30分) . 2017閲覧.
- ↑ 29.0 29.1 大鵬と優勝決定戦。
- ↑ 腰部捻挫により5日目から途中休場
- ↑ 北葉山と優勝決定戦
- ↑ 胸部剣状突起軟骨骨折により12日目から途中休場
- ↑ 柏戸・明武谷と優勝決定戦
- ↑ アレルギー性胃腸症・本態性高血圧・感冒により11日目から途中休場
- ↑ アレルギー性胃腸症により10日目から途中休場
参考文献
- 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p84-85
関連項目
外部リンク
- 佐田の山 晋松 - 日本相撲協会