喧嘩
喧嘩(けんか、英語 quarrel, dispute)とは、個人的な争いの中でも、裁判に持ち込まれないもののこと[1]。
概説
大辞泉では喧嘩の項目に「言い合ったり殴り合ったりしてあらそうこと」とあり、この定義を採用するならば喧嘩とは、互いに相手に対する怒りの感情を込めた言葉を言い合うことや、腕力をぶつけあうことになる。言葉の応酬で行う喧嘩を「口喧嘩」や「口論」、「言い争い」と言う。
喧嘩は親子・兄弟・夫婦・仲間など親しい者同士がすることがあるが、全く知らない者同士がする事もある。親しい者同士が喧嘩するというパターンは兄弟や夫婦が多い[1]。
親子・兄弟姉妹・夫婦・仲間など家族や親しい者同士でも喧嘩がなされることがある。 兄弟・姉妹間では「兄弟喧嘩」と言い、親子間では「親子喧嘩」と言う。夫婦間では「夫婦喧嘩」と言う。
夫婦喧嘩のきっかけになる話題の1位は「態度・価値観」で27.3%を占める。家事のやりかたや物の置き場所などの些細なことが積み重なって大きな喧嘩になることもある。女性は、言葉が達者なので、無自覚なままに男性に対して《言葉による暴力》をふるっていることが多い。女性が その攻撃的な口を閉じることが 夫婦喧嘩防止の有効策である。→夫婦喧嘩
家族間の喧嘩であっても、暴力が伴えば、喧嘩ではあるが、それは同時に家庭内暴力でもある。
喧嘩の原因は様々である。利害の対立が原因で起きることもある。趣味嗜好の相違などで喧嘩が生じることもある。思想、宗教、人生哲学などの深遠・深刻なテーマに関する意見の相違点が原因となることもある。
手段が暴力であっても言葉であっても相手を心理的に深く傷つけることがある。また生涯にわたり禍根を残すことがある。一般的に言えば、喧嘩をするのではなく、できるならおだやかに対話をしたり、あるいは喧嘩をしないで済むように、様々なコミュニケーションテクニックを早めに用いたほうがよいとされる。
全く知らない者同士が喧嘩をする事もある。一般的に、腕力を用いる喧嘩は特に避けるべきだとされており、やはりできるだけ対話などで解決するほうがよいとされている。腕力を用いる喧嘩は、相手に肉体的な怪我を負わせたり、生命に危険を及ぼすことがある。喧嘩で極端な腕力を用いることは、法的な観点から暴行とされ、違法行為として処罰の対象となる。
祭りなど非日常的な行事などで喧嘩が発生することも多い。特に関西圏の祭りの中には、あえて喧嘩が起きるような状況設定にしているものや、喧嘩が起きることを期待して参加している人が多い祭りもある。ペルーのアンデスの山の中では、普段対立しあっている者同士が、露骨に殴り合うことで決着をつけることを目的とした「喧嘩祭り」がある。
同じようことでも、国家間のそれは「戦争」と呼ばれており[1]、経営者と労働者(従業員)の争いは通常「争議」と言われている[1]。
英語訳ではbrawl(大声で争う)がもっとも語義に近いが使用目的に応じてquarrel(口げんか) fight(殴り合い喧嘩)dispute(仲たがい)などが相当する[2]。女性同士の喧嘩はキャットファイト (en:cat fight) と言うことがある。女性同士の喧嘩を見世物にしていることもある。
歴史(表現・事例)
古代・記紀の時代に争い事は、「忤(さか)ふ」「諍(いさか)ふ」などと表記されていた(「喧嘩」という表現は用いられていなかった)。「喧嘩」という表現は、中世・『吾妻鏡(東鑑)』の頃より利用されはじめたものと見られる。『吾妻鏡』の治承4年(1180年)の項に「小八郎太夫等喧嘩之時、六條廷尉禪」との表記が見られる。
中世ではおもに家人間での殺傷事件や、国人一揆の騒乱などをさし、後期になると村落単位から大名に至るまで自力救済を目的として実力行使が行われる展開が日常的になってくるが、これを指して喧嘩とされた。江戸時代以前では群衆があつまり騒ぐことや、刀剣などを使う私闘全体を指した。語義としてはおおっぴらにやかましく騒ぎ立てることの意義であり、「喧騒」などと同義である。
戦国時代には行軍法度などに喧嘩の禁、喧嘩両成敗などの文脈で使用された。両成敗法は軍事行動のさいの軍内部の騒乱を抑制するための非常事態宣言の要素が強い行軍法度であり、平時の分国法においては騒乱に対して両成敗法を適用されることはめずらしかった。たとえば武家の基本法である御成敗式目には領地争いやそれにともなう殺傷を加害・被害の理非に照らし合わせ裁断する体裁を取っている。仇討ちも禁止されていた(十条)。喧嘩両成敗法は今川仮名目録や甲州法度次第の頃から見られるようになり、織田信長は天正5年(1577年)「定安土山下町中」いわゆる楽市楽座令において喧嘩口論を禁じる制札を発している。
江戸期には「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた[1]。こう表現したのは、当時 喧嘩は派手な騒ぎになったからだともいい[1]、また喧嘩は仲直りするのに飲食がつきもので飲食店が儲かったからだとも言う[1]。当時、江戸で働く人の中心は職人で、彼らは気性がはげしくて、喧嘩が多かったという[1]。(明治・大正・昭和初期の職人が多かった時代も喧嘩が多かったという[1])
江戸期には赤穂事件では両成敗法を根拠に高家吉良(吉良義央)を成敗すべしとした浅野家家臣らに対して幕府首脳や荻生徂徠ら儒学者がこれを認めない処置を下している。これは後に戯曲化した『忠臣蔵』の興行などにより「喧嘩両成敗」なる表現とともに庶民のあいだに定着した。
文政五年(1822年)に上演された歌舞伎「御摂曽我閏正月」では文化二年(1805年)におきた江戸の鳶火消し「め組」の喧嘩を題材に、庶民の私闘に対する美意識を芸能に昇華している。
江戸時代から明治末くらいまでは、少年や青年がレクリエーションとして喧嘩をする風習があった[1]。「退屈だから隣町へ行って喧嘩でもしてくる」などということが行われていたのである[1]。勝海舟の『夢酔独言』にもそうした回想のくだりがあるという[1]。 個人間の喧嘩に限らず、木刀や長竿、印地で武装した敵味方50人前後の子供が町同士で争う大喧嘩が頻発し、多数の負傷者が発生したことから文政4年(1821年)以来何度も禁止令が出された[3]。松浦静山が「闘戦」と呼んだこの種の子供の喧嘩は「古時の戦争もかくあらんや」と言わしめる激しいもので、杉田玄白は随筆『野叟独語』の中で天変地妖の一現象に数えている[3]。
ヨーロッパに眼を向けると、フランスでもパリの市民は喧嘩好きだったという。ゴーギャンは喧嘩で足を怪我したのがきっかけでタヒチに行ったのだし、エミール・ゾラの小説『居酒屋』でもパリの女たちの喧嘩好きの様子を描いている[1]。
子どもの喧嘩
子供に喧嘩はつきものであり、子供はけんかによって自己主張し、他者と交わり、集団をつくる[1]。子供の喧嘩というのは、3歳ころには始まり、10歳前後にもっとも激しくなり、13歳くらいまで続く[1]。
子供の喧嘩が多いのは、その <<自己中心性>> による[1]。子供は、その場・そのときの自分を強く主張したり、他の人々のことまで自己本位に解釈して、結果として争いを起こす。子供は喧嘩をすることによって、他者を知り集団を知り、自分自身を理解する中で、自分と他者を対等に扱うことを学び、正しく関係づけることを学び、集団を統制することも学ぶ。つまりは、子供は喧嘩をすることによって自己中心性から抜け出してゆくのであり、その意味では喧嘩は発達の糧なのである[1]。
だが、現代社会では幼いころから喧嘩を抑制するため、かえって子供の自己中心性からの脱却を遅らせ、かえって自己中心性を肥大化させてしまっている、と竹内常一は指摘した[1]。
しかし、法的に判断すれば暴行、傷害、器物損壊、強制わいせつ、恐喝としか分類できないような悪質な暴力行為を、日本の学校では「喧嘩」として処理したり隠蔽してしまっていたことが多く、子どもたちのいじめや犯罪行為を助長・エスカレートさせる結果を生んでいた。最近になり、それの問題点が指摘されるようになり、学校内の出来事であれ、犯罪に該当する行為は法律にもとづいて警察が介入することが増えてきている。
夫婦喧嘩
株式会社結婚情報センター(Nozze)が、2008年に、20〜60代の既婚男女660人(男女比1:1)を対象に、夫婦喧嘩に関するアンケート調査を行ったことがある[4]。それによると「夫婦喧嘩の頻度」は「月1〜2回」が 27.0%[4]、「年1〜2回」が 25.3%[4]であった。また「配偶者と喧嘩する頻度が最も高い話題」は1位が「態度・価値観」27.3 %[4]、 2位が「子供関係(学校・教育方針など)」15.3%[4]、3位が「家事関係(掃除 洗濯・整理整頓など)」 13.5 %[4]、という結果であった。
動物の喧嘩
動物にも、食物の取りあいによる喧嘩、縄張り争いの喧嘩 等々がある。
脚注
参考文献
- 清水克行 『喧嘩両成敗の誕生』 講談社選書メチエ、講談社、ISBN 4062583534