三河島事件
三河島事件(みかわしまじけん)とは、1923年におきた、東京大相撲の騒擾事件である。
経緯
1月9日、力士会の総会で力士養老金(いわゆる退職金)の倍増の要求が出た。大日本相撲協会側がそれを却下したので、横綱・大関を除く力士たちは東京・三河島の工場にたてこもり、春場所の開催をボイコットしたのである。
1月12日、協会側は残留力士で春場所を開催しようとした。しかし、協会側に残っていた関取は、横綱の大錦卯一郎・栃木山守也以下7名だけだったので、この場所は関脇以下の関取衆は不出場、横綱・大関は土俵入りのみの出場という体制でひとまず強行されたがすぐに行き詰まり、横綱・大関と立行司の木村庄之助・式守伊之助の7名による調停も不調に終わった。因みに、力士側の代表は、関脇太刀光電右エ門ほか7名があたった。
結局、警視総監赤池濃が調停に乗り出し、警視総監一任という形で、ともかくも春場所を開催することで仲裁が成立し、1月18日深夜、警視庁で手打ち式が行われた。しかし、その和解の宴で、横綱大錦は無事円満におさまったので責任を取って自分の身を処するとして髷を切り廃業を表明してしまった[1]。春場所は帰参した力士の稽古のために1週間の稽古日を取り、1月26日を「返り初日」として開催された。
場所後の3月6日、ようやく妥結し、養老金の増額の原資には、本場所を一日延長して11日制として、その増収分をあてることとした。
この場所の初日の土俵入りでは騒動の影響で横綱土俵入りの従者に横綱・常ノ花、栃木山が宛がわれる前代未聞の事態となっていた。1923年1月12日付の報知新聞は、初日前日に年寄の浅香山と千賀ノ浦の二人が幕下力士に「明日の相撲は本場所であるか花相撲であるか」と質問されたのに対して「花相撲ではない。立派な本場所で諸君たちは大事な中堅力士である」と答えた、というやり取りを報じている。
参考資料
- 『相撲部屋物語』(能見正比古著、講談社刊行)
- 『大相撲ジャーナル』2015年6月号98頁から99頁(NHK G-Media)
脚注
- ↑ 荒井太郎『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』(2008年5月大空出版)28頁