大坂相撲
大坂相撲(おおさかずもう、大阪相撲)は、江戸時代から大正の末まで存在した相撲の興行組織。
歴史
江戸時代
江戸時代初期、相撲興行は観客同士の暴力沙汰が絶えず禁止状態が続き、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の堀江で元禄15年(1702年)に解禁され、以後力士らが勧進元となり全国の力士を大坂へ招いて試合を行うようになった。
公の許可で相撲興行ができることと大坂商人の後援とを背景に、18世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。しかし、寛政年間に江戸相撲が谷風、雷電らの活躍で盛り返すと、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が抱え力士を江戸相撲に出場させることを好む様になり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった。
東西の力士の往来はかなり自由で、例えば谷風の好敵手で彼とともに実質最初の横綱になった小野川も、大坂で本場所をつとめている。それもあって当初は力量の差は東西でさほどでもなかったが、やがて有力力士の流出によって、幕末の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になった。
文久3年(1863年)6月3日 (旧暦)に大坂北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大坂相撲で、中頭の熊川熊次郎(肥後出身)が死亡し多数の負傷者をだしたが、和解し、手打ちとして京都での相撲興行では壬生浪士組と親しい京都相撲、大坂相撲が共同で行われた。[1]
明治時代
明治には、大阪相撲協会ができた。この頃には、大阪で大関だった初代梅ヶ谷(のち横綱)が、東京相撲に移籍した際、本中から取り進むことを余儀なくされるほど、東西の格差は広がっていた。ただ、このケースは例外で、一般的には、東京と大阪との移動については、実力相応のところに付け出されることが普通である。また、東京相撲の横綱常陸山谷右エ門は1896年(明治29年)に名古屋相撲から大阪相撲へ。後広島相撲から東京相撲へと移籍を繰り返している。このように東京から大阪に移った者としては、横綱になった宮城山福松が有名である。
1910年(明治43年)、大木戸森右エ門を独自に横綱に推挙したことから、吉田司家から破門、東京相撲からも絶縁される。2年後に和解、大木戸も後に司家免許を受け、現在では公認の横綱一覧に名を残している。
大正時代
東京相撲との合同興行も大正期まで恒例として行われたが、戦力差はいかんともしがたく、そのため出身地別対抗戦などの苦肉の策も考案された。また龍神事件など内紛が続き、運営に侠客が関与するようにもなり、多くの関係者が廃業したこともあったために、さらに力が落ちることになった。
両国国技館の落成など、東京相撲が隆盛を極めると、対抗して1919年(大正8年)、新世界(スパワールド北側の階段付近)に両国に匹敵する規模の「大阪国技館」を建設したり、東京にならって東西制の団体優勝制度や個人優勝掲額を発足させたりしたが、協会内部の内紛は続き実力は低下の一途をたどった。1923年(大正12年)には、幕内力士の半分近くが廃業する紛擾(龍神事件)がおき、幕内を片番付で発行したこともあった。東西の合併が議論されるようになったが、大阪側が東京に吸収される形になるのを嫌い、東京側も既得権益について譲らず、条件面での妥協点がなかなか見出せずにいた。
1925年(大正14年)、当時の皇太子(後の昭和天皇)が東京相撲を台覧、奨励金を下賜したことは大きな転機になった。下賜金から摂政宮賜杯(現在の天皇賜杯)を作成した東京相撲側は、大坂相撲側に対して大きなイニシアティブを握ることになり、公式に「摂政宮賜杯を東京相撲の力士だけで独占するのは忍びない、ぜひ大坂相撲の力士にも持つ機会を与えたい」と大坂に告知し、東西合併を強力に推し進めた。[2][3]
1925年(大正14年)に東西合同に関しての原則合意がとりかわされ、同年11月から1926年にかけて、番付を統合すべく技量審査のための東西合同の興行が都合3度行われ、それを参考にして1927年(昭和2年)1月の番付は編成された。また、この合同興行で、不戦勝の制度が初めて試みられた。
1926年(大正15年)1月に台湾の台北で大坂相撲最後の本場所が開催された。
解散へ
1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会は解散し、大日本相撲協会が発足した。この時、横綱宮城山福松は、司家の本免許を持っていたためにそのまま横綱として位置を保障されたが、それ以外の力士は合併興行の結果で、それにふさわしい地位に配属された。そのため、関取として加入した大坂力士は少なく幕内6名、十両5名にとどまり、大坂大関も、荒熊谷五郎は前頭9枚目、錦城山勇吉は同10枚目、若木戸鶴五郎は幕下3枚目に組み込まれた。荒熊と錦城山は結局三役に上がれないまま引退しており、実力審査自体は公平であったとされている。元大関の関脇真竜榮太郎は合併興行には参加したが東京加入を断念する等、大坂相撲解散に際して廃業し東京に加入しなかった力士や親方も多かった。その中で、若手の真鶴秀五郎はよく健闘し、小結から幕内上位で活躍した。また、幕下に組み込まれた磐石熊太郎はまもなく十両に昇進し、その後関脇まで昇進した。
大阪相撲の名残
大阪相撲の歴史はこうして幕を閉じることになったが、現在でも時津風、三保ヶ関などの名跡や、後援者を指す「タニマチ」などの隠語にその名残を残している。また、本場所のポスターに大坂相撲の錦絵が使用されたこともあった。
大関初代増位山(9代三保ヶ関)の師匠が大坂相撲出身の滝ノ海調太郎で、初代増位山の弟子に二代目増位山(10代三保ヶ関)、北天佑(13代二十山)の2大関、そしてのちに日本相撲協会理事長となる横綱北の湖がいる。現役の関取経験者では臥牙丸勝・北太樹明義・鳰の湖真二などが、師匠の系譜をたどれば大坂相撲に遡ることができる。
大阪由来の部屋として現存している相撲部屋は山響部屋・尾上部屋・木瀬部屋の3部屋でいずれも元は三保ヶ関部屋から独立した部屋である。朝日山部屋は17代朝日山の若二瀬唯之(部屋の師匠としては7代目)まで直系の弟子で相続されていて、東西合同以前から存続してきた最後の部屋だったが2015年1月末に閉鎖された(2016年に再興されたが師匠は佐渡ヶ嶽部屋出身の元琴錦で大坂相撲の系統ではない)。
なお、時津風部屋は名跡は大坂相撲に由来するが東京相撲系の双葉山(12代時津風)が興した部屋で系譜上のつながりはない。双葉山が名跡を取得した際に「それは大坂相撲の評判の悪い親方の名跡だから」と諫める者があったが「年寄名跡は皆同じ」と答えたという逸話がある。