皇室
皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称[1]。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。
皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。
一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。
Contents
神話と伝説
720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ヒコホノニニギの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[2]。
王家の始祖が神(神々)や神話と結びつく事例(現人神)は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在するが、現存する国連加盟国の君主制国家の中では、2018年(平成30年)現在、唯一[3]の事例となっている。
ギネス世界記録においても、エチオピア帝国の皇統(紀元前10世紀のメネリク1世を始祖とする)に続いては世界第2位の古い皇統として記録されている。なお、エチオピア帝国の皇統は1974年、軍事クーデターにより廃絶している。[4]
2018年(平成30年)現在まで続いている皇統としては世界最古である。
皇室の構成
内廷
天皇は皇居内に御所を構える。宮内庁には同庁の内部部局として侍従職が天皇・皇后とその未婚の子女に関する事務を扱う機関として置かれている。
天皇
皇后
東宮家[5]
皇太子および皇太子妃、その子女は内廷皇族でありながら、天皇とは独立した生活を営む。また、皇太子は、東宮(とうぐう)または春宮(はるのみや)とも呼ばれ、皇太子妃は、東宮妃(とうぐうひ)または春宮妃(はるのみやひ)。また宮内庁には内部部局である東宮職が皇太子一家(東宮一家)の事務を扱う機関として置かれている。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の東宮御所。
身位 | 御名 | 読み | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今上天皇から 見た続柄 |
皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
97x97ピクセル | 皇太子 | 徳仁 | なるひと | 男性 | 1960年(昭和35年) 2月23日 |
64歳 | 第一皇男子 | 第1位 |
97x97ピクセル | 皇太子妃 | 雅子 | まさこ | 女性 | 1963年(昭和38年) 12月9日 |
60歳 | ||
97x97ピクセル | 内親王 | 愛子 | あいこ | 女性 | 2001年(平成13年) 12月1日 |
22歳 | 皇孫 / 徳仁親王第一王女子 |
秋篠宮家[6]
今上天皇所生の直宮家、筆頭宮家。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内に所在。1997年(平成9年)3月からは旧秩父宮・宮邸を使用している。
御名 | 読み | 身位 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今上天皇から 見た続柄 |
皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
118x118ピクセル | 文仁 | ふみひと | 親王 | 男性 | 1965年(昭和40年) 11月30日 |
58歳 | 第二皇男子 | 第2位 |
125x125ピクセル | 紀子 | きこ | 親王妃 (秋篠宮妃) |
女性 | 1966年(昭和41年) 9月11日 |
58歳 | ||
120x120ピクセル | 眞子 | まこ | 内親王 | 女性 | 1991年(平成3年) 10月23日 |
32歳 | 皇孫 / 文仁親王第一王女子 |
|
111x111ピクセル | 佳子 | かこ | 内親王 | 女性 | 1994年(平成6年) 12月29日 |
29歳 | 皇孫 / 文仁親王第二王女子 |
|
悠仁 | ひさひと | 親王 | 男性 | 2006年(平成18年) 9月6日 |
18歳 | 皇孫 / 文仁親王第一王男子 |
第3位 |
常陸宮家[7]
昭和天皇所生の直宮家。宮邸は東京都渋谷区東(旧・常磐松町)の常盤松御用邸。
御名 | 読み | 身位 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今上天皇から見た続柄 | 皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
98x98ピクセル | 正仁 | まさひと | 親王 | 男性 | 1935年(昭和10年) 11月28日 |
88歳 | 皇弟 / 昭和天皇の第二皇男子 |
第4位 |
102x102ピクセル | 華子 | はなこ | 親王妃 (常陸宮妃) |
女性 | 1940年(昭和15年) 7月19日 |
84歳 |
三笠宮家[8]
大正天皇所生の直宮家。寛仁親王妃信子とその子女は寛仁親王家として皇室経済法で宮家としての扱いを受けていたが、寛仁親王の薨去に伴い合流となった[9][10]。当主であった崇仁親王はすでに薨去している。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の三笠宮・宮邸。
御名 | 読み | 身位 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今上天皇から見た続柄 | 皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
93x93ピクセル | 百合子 | ゆりこ | 親王妃(三笠宮妃) | 女性 | 1923年(大正12年) 6月4日 |
101歳 | ||
信子 | のぶこ | 親王妃(寛仁親王妃) | 女性 | 1955年(昭和30年) 4月9日 |
69歳 | |||
93x93ピクセル | 彬子 | あきこ | 女王 | 女性 | 1981年(昭和56年) 12月20日 |
42歳 | 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 /寬仁親王第一王女子 |
|
93x93ピクセル | 瑤子 | ようこ | 女王 | 女性 | 1983年(昭和58年) 10月25日 |
40歳 | 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 /寬仁親王第二王女子 |
高円宮家[11]
三笠宮崇仁親王の第三王子の高円宮憲仁親王が創設した宮家。憲仁親王は既に薨去しており、男子の後継者がいないため、妃の憲仁親王妃久子が宮家の当主を務める。2014年(平成26年)に典子女王が婚姻により皇籍を離脱した。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の高松宮・宮邸。
御名 | 読み | 身位 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今上天皇から見た続柄 | 皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
120x120ピクセル | 久子 | ひさこ | 親王妃(高円宮妃) | 女性 | 1953年(昭和28年) 7月10日 |
71歳 | ||
102x102ピクセル | 承子 | つぐこ | 女王 | 女性 | 1986年(昭和61年) 3月8日 |
38歳 | 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 /憲仁親王第一王女子 |
|
113x113ピクセル | 絢子 | あやこ | 女王 | 女性 | 1990年(平成2年) 9月15日 |
34歳 | 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 /憲仁親王第三女子 |
戦後断絶した宮家
戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下での11宮家の皇籍離脱後(=旧皇族)、大正天皇の男系子孫とその家族のみが皇族として残った。このうち、秩父宮、高松宮、桂宮の三家は、宮家成員の全員が薨去したことにより断絶し、消滅した。
読み | 現当主 | 備考 | |
---|---|---|---|
秩父宮家 | ちちぶ | 秩父宮雍仁親王 | 光宮宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承するため、 最後の有栖川宮威仁親王の薨去直後に創設した宮家。 |
高松宮家 | たかまつ | 高松宮宣仁親王 | 伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のひとつ。 有栖川宮家の祭祀や資産を継承しており、 妃喜久子は同じ弟宮家である常陸宮家の妃華子に有栖川流を伝授している。 |
桂宮家 | かつら | 桂宮宜仁親王 | 桂宮宜仁親王が独身で創設した、最初で最後の宮家。 |
皇室の構成図
最近誕生した皇室の子女
- 1948年(昭和23年)以降
誕生 | 年齢 | 性別 | 続柄 | 皇位継承順位 | |
---|---|---|---|---|---|
1948年(昭和23年) | 2月11日宜仁親王 | (故人) | 男子 | 三笠宮崇仁親王第2王男子 | - |
1951年(昭和26年)10月23日 | 容子内親王 | 72歳 | 女子 | 三笠宮崇仁親王第2王女子 | - |
1954年(昭和29年)12月29日 | 高円宮憲仁親王 | (故人) | 男子 | 三笠宮崇仁親王第3王男子 | - |
1960年(昭和35年) | 2月23日皇太子徳仁親王 | 64歳 | 男子 | 今上天皇第1皇男子 | 第1位(法定推定相続人) |
1965年(昭和40年)11月30日 | 秋篠宮文仁親王 | 58歳 | 男子 | 今上天皇の第2皇男子 | 第2位 |
1969年(昭和44年) | 4月18日紀宮清子内親王 | 55歳 | 女子 | 今上天皇第1皇女子 | - |
1981年(昭和56年)12月20日 | 彬子女王 | 42歳 | 女子 | 寬仁親王第1女子 | - |
1983年(昭和58年)10月25日 | 瑶子女王 | 40歳 | 女子 | 寬仁親王第2王女子 | - |
1986年(昭和61年) | 3月 8日承子女王 | 38歳 | 女子 | 高円宮憲仁親王第1王女子 | - |
1988年(昭和63年) | 7月22日典子女王 | 36歳 | 女子 | 高円宮憲仁親王第2王女子 | - |
1990年(平成 | 2年) 9月15日絢子女王 | 34歳 | 女子 | 高円宮憲仁親王第3王女子 | - |
1991年(平成 | 3年)10月23日眞子内親王 | 32歳 | 女子 | 秋篠宮文仁親王第1王女子 | - |
1994年(平成 | 6年)12月29日佳子内親王 | 29歳 | 女子 | 秋篠宮文仁親王第2王女子 | - |
2001年(平成13年)12月 | 1日敬宮愛子内親王 | 22歳 | 女子 | 皇太子徳仁親王第1王女子 | - |
2006年(平成18年) | 9月 6日悠仁親王 | 18歳 | 男子 | 秋篠宮文仁親王第1王子 | 第3位 |
皇室旗
宮家
宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。
宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。
当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。 テンプレート:宮家
皇室の儀式
皇室の儀式は皇室令で細かく規定され、現日本国憲法下で廃止された現在でも基本的には概ねこれに従って行われる。皇室の儀式には日本国憲法第7条で定めている国事行為の儀式と皇室の私事で行われる私的行為の儀式に区別される。
皇室の活動
天皇が行幸等する場合は国外であっても三種の神器である八尺瓊勾玉を携帯する。戦後の人間宣言後に昭和天皇による地方巡幸が行われたが、この様な大規模な巡幸はあまり行われることはない。
宮中の公務
- 新年祝賀と天皇誕生日祝賀に際し、皇居において一般参賀を行う。天皇と皇族が皇居長和殿のベランダに出て祝賀を受ける。なお三権の長を招いて行う「新年祝賀の儀」は国事行為に該当する儀式だが、この「新年一般参賀」は国事行為以外の公務とされている。
- 園遊会
- 天皇・皇后主催の社交の会。毎年、春と秋の 2回、赤坂御苑において催される。
宮中祭祀
- 参照: 宮中祭祀
五穀豊穣や国家国民の安寧を祈るものである。代表的なものは主に現在の祝日(春分の日の春季皇霊祭など)にあたる日に行われている。
行幸・行啓
- 参照: 行幸
急遽、戦災(東京大空襲)や被災した地域に行幸することがしばしばあるが、一般にかねてより計画されたものとなる。
国際親善
各国君主制国家の王室との関係は親密である。取り決めによってそれぞれの王室に不幸があった場合、半旗を掲げることと、服喪することが慣例になっている。
天皇の国事行為の「外国の外交官の接受」の一環である「信任状奉呈式」に際しては、皇室の馬車での送迎を認めている。馬車を使用した場合、東京駅から皇居宮殿御車寄までの道のりになる。自動車での送迎も可能であるが、馬車を希望する大使が多いと言われる。皇室の馬車による送迎は各国親善に役立っているという(宮内庁ホームページ)。2007年(平成19年)8月、馬インフルエンザの影響により馬車による送迎が見送られた事がある。
国民との関わり
皇室行事
明治天皇及び過去の天皇の巡行にならい、昭和天皇以降も全国への「巡幸」が行われている。 主に式典の主賓としての列席及び祝辞、弔辞、開会または閉会の「おことば」として挨拶をするなどが代表的な活動といえる。更に、医療・社会福祉施設・児童施設への訪問や戦没者などへの慰霊碑などへの参拝も積極的にこなしている。
一般参賀
新年の一般参賀は正月に皇居において天皇はじめ皇族が5回程度、長和殿に「お出まし」として姿を現し、国民の参賀を受ける。又、天皇誕生日にも同様、一般参賀が行われる。ちなみに、宮内庁の発表によれば、2008年(平成20年)度は過去最高の2万2655人が参賀した。この一般参賀の参列者の多くは日章旗の小旗を片手に振りながら拍手で出迎えるのが恒例となっている。
歌会始
皇室の行事の一つで新年を賀するために宮中で行われる和歌の会。一定の題にしたがって国民からの詠進歌を募集している。
勤労奉仕
宮内庁では、国民の自主的な意思に基づく奉仕による皇居の清掃活動への参加を受け付けている。主に希望者は複数名からなる団体として申し込みをし、国民の祝日が重ならない平日の連続する4日間(月・火・水・木曜日または火・水・木・金曜日)で清掃活動を行うことができる。多数応募がある場合は抽選となる。基本的には4日間のうち、3日間は皇居、1日間は赤坂御用地で作業する。主な内容は除草、清掃、庭園作業などである。毎年、学校関係の団体、地域の婦人会など多くの申し込みがある。
1945年(昭和20年)の敗戦直後に宮城県民の有志「皇国奉仕団(みくにほうしだん)」が皇居の荒れ様に心を痛めて始めたのが興りといわれる。
勤労参加者には、公務に差し支えがなく非常事態などになったりしない限り、天皇・皇后及び皇太子・皇太子妃より「ご会釈」を賜る(面会と挨拶伝達)ことができ、以前は恩賜のたばこが授与されたが、2016年(平成28年)現在では菓子が授与されている。
皇居参観
宮内庁では、事前の予約に基づき、皇居はじめ京都御所、仙洞御所、桂離宮などの参観を許可している。
年間主要祭儀
詳細は「宮中祭祀」及び各項を参照
月 | 日 | 祭儀[15] | |
---|---|---|---|
1月 | 1日 | 四方拝 | |
歳旦祭 | |||
新年祝賀の儀 | |||
2日 | 新年一般参賀 | ||
3日 | 元始祭 | ||
4日 | 奏事始 | ||
7日 | 先帝祭(昭和天皇祭) | ||
30日 | 孝明天皇例祭 | ||
2月 | 17日 | 祈年祭 | |
3月 | 春分の日 | 春季皇霊祭 | |
春季神殿祭 | |||
4月 | 3日 | 神武天皇祭 | |
皇霊殿御神楽 | |||
6月 | 16日 | 香淳皇后例祭 | |
30日 | 節折 | ||
大祓 | |||
7月 | 30日 | 明治天皇例祭 | |
9月 | 秋分の日 | 秋季皇霊祭 | |
秋季神殿祭 | |||
10月 | 17日 | 神嘗祭 | |
11月 | 23日 | 新嘗祭 | |
12月 | 中旬 | 賢所御神楽 | |
23日 | 天長祭(天長節祭) | ||
25日 | 大正天皇祭 | ||
31日 | 節折 | ||
大祓 |
皇室用財産
皇室用財産とは国において皇室の用に供し,又は供するものと決定したもののこと(国有財産法第3条第2項第3号)[16]
名称 | 主な施設 | 土地 (千m2) |
建物[17] (千m2) |
所在地 | 位置 |
---|---|---|---|---|---|
皇居 | 宮殿・御所・吹上大宮御所・宮中三殿など | 1150 | 107 | 東京都千代田区千代田 | 地図 |
赤坂御用地 | 東宮御所・秋篠宮邸・三笠宮邸・高円宮邸 ・赤坂東邸・赤坂御苑など | 508 | 22 | 東京都港区元赤坂 | 地図 |
京都御所 | 紫宸殿・清涼殿・小御所・御学問所・御常御殿など | 201 | 16 | 京都府京都市上京区京都御苑 | 地図 |
常盤松御用邸 | 常陸宮邸 | 19 | 1 | 東京都渋谷区東 | 地図 |
須崎御用邸 | 384 | 6 | 静岡県下田市 | 地図 | |
御料牧場 | 高根沢御料牧場 | 2518 | 20 | 栃木県塩谷郡高根沢町 | 地図 |
葉山御用邸 | 95 | 3 | 神奈川県三浦郡葉山町 | 地図 | |
新浜鴨場 | 195 | 1 | 千葉県市川市 | 地図 | |
埼玉鴨場 | 116 | 1 | 埼玉県越谷市 | 地図 | |
那須御用邸 | 6625 | 5 | 栃木県那須郡那須町 | 地図 | |
高輪皇族邸 | 高松宮邸 | 19 | 3 | 東京都港区高輪 | 地図 |
修学院離宮 | 上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋など | 544 | 1 | 京都府京都市左京区 | 地図 |
桂離宮 | 古書院・中書院・楽器の間・新御殿・松琴亭など | 69 | 2 | 京都府京都市西京区 | 地図 |
正倉院 | 88 | 5 | 奈良県奈良市 | 地図 | |
陵墓 | 武蔵野陵・伏見桃山陵・大仙陵古墳など計459箇所[18][19] | 6516 | 6 | 東京都八王子市 京都市伏見区 大阪府堺市 ほか |
武蔵野 伏見 大仙 |
計 | 19507 | 205 |
省庁
宮内省
宮内省(英語: Ministry of the Imperial Household)は、かつて明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐべく設置された、皇室関連の業務を行う省庁。1943年(昭和18年)には、職員が総勢6000人を上回っていた。また、親任官という、天皇が叙任し、内閣総理大臣の副署を必要とした高級官僚が9人いた。戦後、連合国軍占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求により縮小され、職員は1500人まで削減された。これにともない大部分の業務は他部局に移管された。所在地は東京府東京市・麹町区であった。
宮内省について、学術的に体系的に述べた本に、アメリカの日本研究家であるデイビッド・タイタスが書いた『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』(原題は、『Palace and Politics in Prewar Japan/戦前の宮殿と政治』)
幹部
内部部局(大臣官房・外局)
宮内庁
宮内庁[20](英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。
なお、宮内庁はかつて総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)[21]。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
1947年には宮内府となり、さらに1949年に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。
幹部
内部部局
皇室の予算
皇室費は平成28年度予算案で約61億円。皇室費は内廷費・宮廷費・皇族費の三つに分かれている。(皇室経済法第3条)。また、宮内庁費は109億3,979万円。皇宮警察本部人件費は72億4500万円。[22]
- 内廷費
- 天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成28年度は,3億2,400万円です。内廷費として支出されたものは,御手元金となる。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。この内、約3分の1が人件費(内廷で私的に雇われる職員)に、3分の2が物件費に使われる。[23]
- 皇族費
- 皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。平成28年度の皇族費の総額は,2億2,997万円。皇族費として支出されたものは,各皇族の御手元金となる。なお,皇族費には,皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金として支出されるものと皇族がその身分を離れる際に一時金として支出されるものもある(皇室経済法第6条)。
- 宮廷費
- 儀式,国賓・公賓等の接遇,行幸啓,外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設の整備に必要な経費などで,平成28年度は,55億4,558万円。宮廷費は,宮内庁の経理する公金である(皇室経済法第5条)。
皇室経済会議
皇室経済に関する重要な事項の審議に当たるため、合議体の皇室経済会議が設置される。同会議の議員は、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長並びに会計検査院の長の8人。議長は内閣総理大臣。
皇室経済会議の主要な職務は次のとおり。
- 皇族が独立の生計を営むことの認定
- 皇族がその身分を離れる際に支出する一時金額による皇族費の金額決定
- 内廷費・皇族費の定額の変更の必要を認める旨の意見の提出
現在の議員
御服
天皇と皇族が着る被服(御服)は、皇室令「天皇ノ御服ニ関スル件」と同「皇族服装令」に規定があるが、戦前の各皇族男子はほとんど軍務にあったのでそれぞれの陸海軍の服制によった。また、祭儀用の御服については、その儀式において一々に規定されており、現在も慣習としてこれを踏襲している。なお、皇族女子の御服は、朝議、祭儀用ともその祭儀に一々にして規定はあるが、それ以外は別段の規定はない。
天皇の御服
下記の二種は、1945年(昭和20年)までの天皇の被服に関して記す。
- 陸軍式
- 正装(フロック形式正衣に前立を附する正帽)、礼服(フロック形式正衣に前立を附さない正帽)、通常礼服(軍衣、軍帽)、軍装、略装。
- 海軍式
- 正装(燕尾形式衣に黒色天鵞絨反り形帽子、大元帥佩刀)、礼装(フロック式礼衣に黒色天鵞絨反り形帽子、佩刀)、通常礼装(フロック形礼衣に軍帽、短剣)、軍装(第一種及び第二種)であり、略装は存在しない。
神事服
- 御祭服(束帯、袍)
- 御祭服(ごさいふく)は、宮中祭祀の神事の中で、最も清浄にして神聖な御服であり、練らない白生絹で製作されたもので、大嘗祭の「悠紀主基(ゆきすき)両殿親祭」、年中降霊の神事では新嘗祭の時にだけ召される。冠は幘製の御幘の冠(おさくのかんむり)で、これらは天皇が未成年の場合には一切召すことができない。
- 帛御服(束帯、縫腋袍)
- 帛御服(はくのごふく)は、前者に次ぐ祭儀服で、純白無文、冠は立纓(冠の纓が前方に立っているもの)である。ただし、未成年時はこれらを召さず「空頂黒幘」を召す。即位の礼の一部と、大嘗祭の渡御のときにしか召されず、通常は用いられることはない。
- 黄櫨染御袍(束帯、縫腋袍)
- 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)は、年中の神事を通じて最も多く用いられる。桐、竹、鳳凰、麒麟の地紋が表されている。黄櫨染であり、嵯峨天皇以来明治天皇までの御服であり袞衣が廃止されてからは、重要儀式でのみ用いられる。
- 御直衣
- 御直衣(おのうし)は、皇室または国家の大事に際し、御奉告のため臨時に行う神宮、山陵への勅使発遣の儀、紀元節祭及び先帝祭の御神楽の儀等に用いられる。また毎月(一月一日を除く)の旬祭に御親拝の節もこの御服を召される。
- 御引直衣
- 御引直衣(おひきのうし)は、御袍の丈が長く、裾を三尺以上(1メートル以上)も長く引く。即位礼後神宮の礼、神武天皇山陵と前帝四代の山陵へ勅使発遣の儀に用いられる。
- 御小直衣
- 御小直衣(おこのうし)は、年中恒例行事の御祭儀では、六月、十二月の節折の儀式等に用いられる。
皇后・皇太后の御服
御洋装と御儀服(御装束)の二種に分けられる。下記の二種は、1945年(昭和20年)までの皇后および皇太后の被服に関して記す。
- 御大礼服 - マント・ド・クール(manteau de cour)
- フランス語で宮廷礼服を意味する。戦前までの宮中新年儀式(現・新年祝賀の儀)においてのみ用いられるた、18世紀のフランス・ルイ王朝時代の礼服。明治19年(1886年)6月23日、宮内大臣内達宮内大臣内達によって宮中における皇族女性の礼服として定められた。
- 御中礼服 - ローブ・デコルテ(robe décolletée)
- 御通常服 - ローブ・モンタント(robe montante)
氏・姓・名字
日本の皇室は現在の日本国につながる国家が始まって以来ずっと続いているため、天皇や皇族は氏姓および名字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったとされる。このことは、東アジア世界において非常に独特なものである。また、このことは古代より現在に至るまで日本で王朝が変わったことがないことを示しているとされる。延久4年(1072年)に日本の仏教僧である成尋は北宋の神宗への謁見で「本国の王は何というか」と尋ねられた際に「本国の王に姓なし」と答えた文献がある。
しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとされる。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[24][25]。
また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[24](ただし、中国にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[24]。
吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[24]。
最高敬語
- 御写真
- 写真。旧字体では「御寫眞」。官衙(役所・官庁)、学校等に下賜された天皇・皇后の写真ではなく、それ以前の天皇皇后である明治天皇・昭憲皇太后、大正天皇・貞明皇后、昭和天皇・香淳皇后の写真をいう。また、各皇族の場合にも用いる。戦前、宮内省では「御寫眞」と発表していたが、巷間の「御真影」という名称も使用可である。
- 御影
- 天皇・皇后の写真。「ぎょえい」とよむ。明治43年以降、文部省の調査委員会で定め各学校に発布した。
- 御尊影、御尊像、御肖像
- 天皇、皇后、皇太后の写真。主として、新聞・雑誌に奉載したものをいう。
- 自尊敬語
- 天皇が一人称を使うときは「朕」を使う。
皇室会議
皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経る」または「議に拠る」こととされ、諮問機関とは一線を画する[26]。
- 皇位継承の順序変更(皇室典範第3条)
- 立后と皇族男子のご婚姻(同第10条)
- 皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条)
- 摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)
- 摂政の順序の変更(同第18条)
議員
皇宮警察本部
皇宮警察本部[27](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[28]。天皇及び皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[28]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。
本部長は、皇宮警視監の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。
本部の紋章は五三桐[29]である。桐紋は菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(東宮御所・各宮邸等)及び常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。東京以外では、京都府には京都御所・仙洞御所・京都大宮御所・桂離宮・修学院離宮及び正倉院の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸、栃木県の那須御用邸、御料牧場、静岡県の須崎御用邸、奈良県の正倉院には、皇宮護衛官派出所が置かれている[30][31]。
関連項目
皇室を扱うメディア
脚注
- ↑ 三省堂『大辞林 第三版』 皇室
- ↑ 岡田英弘「第五章 最初の王朝」(『倭国』中央公論社,1977, pp.147-183)、「神話が作った大和朝廷」(『日本史の誕生』筑摩書房,2008)pp.245-267。
- ↑ 中西輝政 『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』 PHP研究所、2006年。ISBN 4569648444。
- ↑ “エチオピア帝国 - Wikipedia” (日本語). . 2018閲覧.
- ↑ “皇太子同妃両殿下-宮内庁”. 宮内庁. . 2018/4/21閲覧.
- ↑ “秋篠宮家-宮内庁”. 宮内庁. . 2018/4/21閲覧.
- ↑ “常陸宮家-宮内庁”. 宮内庁. . 2018/4/21閲覧.
- ↑ “三笠宮家-宮内庁”. 宮内庁. . 2018/4/21閲覧.
- ↑ “寛仁親王家廃止、5宮家に=1年前にさかのぼり-ご一家、三笠宮家でお世話・宮内庁”. 時事ドットコム (時事通信社). (2013年6月10日) . 2013閲覧.
- ↑ “寛仁親王家廃し三笠宮家に合流 逝去1年、当主決まらず”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年6月10日) . 2013閲覧.
- ↑ “高円宮家-宮内庁”. 宮内庁. . 2018/4/21閲覧.
- ↑ “皇室の構成図”. . 16 October 2012閲覧.
- ↑ 東久邇成子・久宮祐子内親王・鷹司和子・池田厚子・島津貴子
- ↑ 近衛やす子・千容子
- ↑ 宮内庁 主要祭儀一覧
- ↑ 宮内庁 皇室用財産
- ↑ 延べ面積
- ↑ 兆域の重複を勘案
- ↑ 陵墓地形図集成 縮小版 2014年, pp. 5-6.
- ↑ 宮内庁公式ホームページ
- ↑ 山本淳, 小幡純子 & 橋本博之 2003, p. 23-24.
- ↑ 宮内庁 予算
- ↑ 『週刊ダイアモンド 2016 9/17 36号』 ダイヤモンド社
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101
- ↑ 吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店<角川選書>、2005、ISBN 4047033731
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「kousitsukaigi
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 皇宮警察本部
- ↑ 28.0 28.1 警察法 第29条
- ↑ 内閣紋章は七五桐
- ↑ 皇宮警察本部とは
- ↑ http://www.npa.go.jp/hakusyo/h25/pdf/pdf/11_dai6syo.pdf 平成25年警察白書 P201「皇宮警察本部の活動」
外部リンク
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