明仁
明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である[注釈 1]。現時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い[1]。
昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。
御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)[2]。
日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。
Contents
人物
1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年。1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し浩宮徳仁親王(現・皇太子)・礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)・紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女を儲ける。
1989年(昭和64年)に昭和天皇・崩御[3]に伴い践祚し皇位を継承[4]。
2024年11月(平成30年)現在、90歳である。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度[5])、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している[6]。しかし2015年に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる[7][8]。
科学者として
魚類学者としても知られハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編を同学会誌に発表。1992年(平成4年)には『Science』誌に"Early cultivators of science in Japan"という題で寄稿している[9]。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている[10][11][12]。
魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。
- 1980年(昭和55年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。1986年(昭和61年)、同協会名誉会員。
- オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
- ロンドン動物学会名誉会員。
- アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と[13]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito[14]、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と[15]、彼の名を織り込んだ献名がなされた。
民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている[16]。
発見したハゼ
- キマダラハゼ:Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro[17]
- シマシロクラハゼ:Astrabe fasciata Akihito et Meguro
- ヒメトサカハゼ:Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguro
- コンジキハゼ:Glossogobius aureus Akihito et Meguro
- クロオビハゼ:Myersina nigrivirgata Akihito et Meguro
- ミツボシゴマハゼ:Pandaka trimaculata Akihito et Meguro
来歴
幼少時代
1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)は、父・昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「大教宣布」より「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宜明治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。お印の「榮」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[2]。国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋作詞・中山晋平作曲で奉祝歌「皇太子さまお生まれなつた」まで作られた。
1936年(昭和11年)3月29日、満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[18]。学習院時代は山梨勝之進校長の下で教育を受け、内舎人・信国鉄蔵を師として剣道を練成した。
1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後に帰京。
1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という新しい教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。
青年以降
1952年(昭和27年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。
1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける[19]。
外遊からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[20][21]。
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると分かると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と母・香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。
1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の民間出身・皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。
1960年(昭和35年)2月23日に第1子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
1965年(昭和40年)11月30日、第2子・第二男子礼宮文仁親王が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子・第一女子紀宮清子内親王が誕生。
沖縄県訪問に際して
沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後の1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父・昭和天皇も大正期の皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録される[注釈 2]。
この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などが1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行ったが[22]、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している[23]。
1976年(昭和51年)1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。
1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。
即位以降
1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で即位(現在は皇室典範により、践祚と即位が統合されたため、従前の践祚に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日、元号法に基づき平成に改元した。即位後朝見の儀では国民とともに日本国憲法を守り、「国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」とのおことばを発した[24]。
諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所(京都府京都市上京区)から皇居(東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、関東の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭が執り行われた。
1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する[25]。日中関係史で中国大陸に渡ったのは歴代天皇で初の出来事だったが[26]、当時の中国外交部長(外務大臣)で昭和天皇の大喪の礼にも出席した銭其シンは回顧録で天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあったと明かしている[27]。
1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
1993年(平成5年)には、沖縄県行幸を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも行幸した。2003年(平成15年)までに、47都道府県のすべてを巡幸している。
2009年(平成21年)11月12日、政府主催の御在位二十年記念式典・民間主催の御即位二十年をお祝いする国民祭典が執り行われた。
2009年(平成21年)12月15日、特例で習近平中華人民共和国副主席と会見することとなり、会見を巡る騒動で、羽毛田信吾・宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。
2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対しビデオメッセージを放送した[28]。
2016年(平成28年)7月13日、NHKや毎日新聞が、今上天皇が宮内庁の関係者にその位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位(譲位)」の意向を示したと一斉に報道[29][30]。諸報道によれば天皇は「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、数年内の譲位を望んでいるとされ[29][30]、天皇自身が広く内外に気持ちを表わす方向で、調整が進められているとされた[29][30]。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[31]。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[32][33]。
2017年12月1日、天皇の生前退位の日程が2019年4月30日に決定したと発表された。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定した。
譲位
2017年(平成29年)6月9日の参議院で天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、16日に正式公布された。このため、その地位と職務をすべて皇太子徳仁親王へ譲り、自らは光格天皇以来200年ぶりとなる上皇となる予定である。また退位日については、2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議において、2019年(平成31年)4月30日とすることが決まった[34]。この日限りで平成の元号は終わる。
現在、宮内庁では上皇となった際の新組織の設立等の準備や政府では新しい元号などの検討に入っている。また、この影響で日本のシステム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで分かれる動きもあり、カレンダー業界では印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧している[35][36]。
逸話
青年以降
- 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。
- 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったという。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した[37]。
- 大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した[38]。三島由紀夫も2年前に同船でハワイに向け出帆し世界旅行に出ている[39][注釈 3]。
- イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった[37]。
- 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。聴講生となってからはクラブ活動にも原則として参加できなかった[40]。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。
- 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[注釈 4]が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている[注釈 5]。
- 1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の(自己批判を意味する)発言をしている[41]。
即位後
- 昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた[42]。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている[42]。
- 1991年に雲仙普賢岳噴火の際には被災地を見舞い、床に膝をついて直接被災者と言葉をかわしたが、歴代天皇で言葉をかわす際に床に膝をついたのは初めてであった。これは皇太子時代から行われているものだったが、その後の被災地の見舞いでも続けられ、平成になってからは皇族もこれにならっている。
- 2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折、被害の大きかった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[43]。
- 2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[44]。
- 2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている[45]。
- 2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた[46]。
- 2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后と共に歴訪している[47]。
- 2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事の出席ではない1泊2日の私的旅行として長野県千曲市にある「あんずの里」に出掛けた[48]。同年7月には福島県を訪れた。その後、年2回程度私的旅行が行われている。2014年5月には栃木県渡良瀬遊水地など、2014年9月には青森県八戸市、2015年6月には宮城県蔵王町の北原尾[49]、2015年7月には福島県の復興公営住宅、2016年11月には愛知県入鹿池[50]、2017年9月には埼玉県高麗神社・渋沢栄一生地などに訪れている[51]。
人物に関するもの
- 学生時代のエピソードとして、「銀ブラ事件」が有名である。学習院高等科3年の試験が終わった日、学友の橋本明、千家崇彦と3人だって周りの人間を出し抜き、銀座をぶらついた。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだが、すぐに発覚。連れ出した学友は警察と皇室関係者にこっぴどく叱られた。
- 上述の銀ブラをはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だった藤島泰輔が皇太子に捧げて書いた[52]小説が『孤獨の人』(1956年)である。同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。一方、戦後の日本において、戦争のイメージがなく、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。背景には逆コースと呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、日本社会党の茜ケ久保重光と江田三郎は国会でこの小説を取り上げ、枠に嵌められる皇太子の状況への同情と落胆を語り、宮内庁への批判を展開した[53]。
- 経済学者の関根友彦元ヨーク大学教授は学習院初等科からの同級生で、特に中等科時代に親しく交流したという[54][55]。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている[注釈 6]。
- 「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答するのが普通である(これは父・昭和天皇も同様であった)。ただし、皇太子時代には好きなテレビ番組として『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を挙げたことがある。他に即位後の園遊会で水木しげるに「『ゲゲゲの女房』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた[56]。
- 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした[57]。計画停電の実施が終了した後も計画停電発表終了まではこの「自主停電」は続けたという[58]。
- 2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった[59]。
乗り物に関すること
- 1953年、皇太子は葉山において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転している。この車は、当時最先端の高性能車であった。このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している[60]。
- 2017年(平成29年)現在、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)[61]。皇居内を移動する際に運転しており、現在は一般公道を走行することはないという[62]。法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新しているが、2016年の更新を最後にする意向である[63]。
- ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた[64]。
日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり
独身時代にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[65]。
- その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した[66]。
発言
- 「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」
- 「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
- 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[69]。
- この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照。
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
- 「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- 人格否定発言を受けて
- 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[71]。
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」
- 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[72]。
- 「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。
- 2006年(平成18年)6月6日、シンガポール・タイ王国訪問前の記者会見にて[73]
- 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
- 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[74]。
- 「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当時食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」
- 2007年(平成19年)第27回全国豊かな海づくり大会にて[41]。
- 「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」
- 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[75]。
- 「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」
- 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
- 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[76]。
- 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
- 「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」
- 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[77]。
- 「(公務の)負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」
- 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[78]。
- 「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
- 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」
- 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[79]
- 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
- 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」
- 2016年(平成28年)8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」にて[80]。
- おことば中では一貫して「日本」を“にほん”と読んでいる(NHKは2016年から「にっぽん」と読むようになった)。
病歴
- 2003年1月に前立腺がんの手術を受けて回復した[81]。
- 2008年12月に不整脈を発症したが回復した[82][83]。
- 2011年11月に気管支炎と肺炎の治療を受けて回復した[84]。
- 2012年3月に心臓冠動脈のバイパス手術を受けて回復した[85]。
栄典
日本
外国
- 50px - レジオンドヌール勲章グランクロワ
- 50px - ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章
系譜
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 今上天皇 | 常陸宮正仁親王 | 寛仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇太子徳仁親王 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明仁(今上天皇) | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
- 高祖父:孝明天皇(第121代天皇)
- 高祖母:中山慶子(典侍、明治天皇生母)
- 曾祖父:明治天皇(第122代天皇)
- 曾祖母:柳原愛子(正二位・典侍、大正天皇生母)
- 祖父:大正天皇(第123代天皇)
- 祖母:貞明皇后(華族・九条道孝公爵第四女子)
- 父:昭和天皇(第124代天皇)
- 母:香淳皇后(久邇宮邦彦王第一王女)
- 伯父:久邇宮朝融王(第3代久邇宮家当主)
- 伯父:久邇邦久(侯爵)
- 叔母:三条西信子(三条西公正伯爵夫人)
- 叔母:大谷智子(大谷光暢伯爵夫人)
- 叔父:東伏見慈洽(伯爵、天台宗青蓮院門跡門主)
后妃
身位 | 名 | 生年月日 | 結婚の儀 | 出身 | 子女 | |
---|---|---|---|---|---|---|
第125代天皇 皇后 |
70px | みちこ 美智子 |
1934年(昭和9年) 10月20日(90歳) |
1959年(昭和34年) 4月10日/ テンプレート:Age in years and days |
正田家 |
皇子孫
皇子女
皇后美智子との間に3子がいる。
諱 | 読み | 生年 | 御称号 | 続柄 | 現在 |
---|---|---|---|---|---|
徳仁親王 | なるひと | 昭和35年(1960) 2月23日(64歳) |
ひろのみや 浩宮 |
第1皇男子 | 皇太子 |
文仁親王 | ふみひと | 昭和40年(1965) 11月30日(58歳) |
あやのみや 礼宮 |
第2皇男子 | 秋篠宮家当主 |
清子内親王 | さやこ | 昭和44年(1969) 4月18日(55歳) |
のりのみや 紀宮 |
第1皇女 | 黒田家に皇籍離脱 |
皇孫
諱 | 読み | 生年 | 御称号 | 続柄 |
---|---|---|---|---|
愛子内親王 | あいこ | 平成13年(2001) 12月1日(22歳) |
としのみや 敬宮 |
皇太子徳仁親王第1女子 |
眞子内親王 | まこ | 平成3年(1991) 10月23日(33歳) |
秋篠宮文仁親王第1女子 | |
佳子内親王 | かこ | 平成6年(1994) 12月29日(29歳) |
秋篠宮文仁親王第2女子 | |
悠仁親王 | ひさひと | 平成18年(2006) 9月6日(18歳) |
秋篠宮文仁親王第1男子 |
外国訪問歴
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1953 | 3月30日 | 10月12日 | イギリス ( アメリカ合衆国・テンプレート:CAN1921・ フランス帝国・テンプレート:ESP1945・ モナコ・ スイスなど13国に立寄り) | 英女王戴冠式参列、天皇名代 | |
1960 | 9月22日 | 10月7日 | アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 日米修好100年記念 |
11月12日 | 12月9日 | イラン・ エチオピア・ インド・ ネパール ( タイ立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1962 | 1月22日 | 2月10日 | パキスタン・ インドネシア | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
11月5日 | 11月10日 | フィリピン | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1964 | 5月10日 | 5月17日 | メキシコ ( アメリカ合衆国立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
12月14日 | 12月21日 | タイ | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1967 | 5月9日 | 5月31日 | ペルー・ アルゼンチン・テンプレート:BRA1960 | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1970 | 2月19日 | 2月28日 | マレーシア(天皇名代)・ シンガポール | 皇太子妃 | 国際親善 |
1971 | 6月3日 | 6月12日 | アフガニスタン ( イラン・ タイ立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1973 | 5月6日 | 5月23日 | オーストラリア・ ニュージーランド | 皇太子妃 | 国際親善 |
10月11日 | 10月22日 | テンプレート:ESP1945( アメリカ合衆国・ ベルギー立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1975 | 2月20日 | 2月28日 | ネパール ( バングラデシュ・ インド立寄り) | 皇太子妃 | ネパール国王戴冠式参列 |
1976 | 6月8日 | 6月25日 | ヨルダン・テンプレート:YUG1945(名代)・ イギリス ( タイ立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1978 | 6月12日 | 6月27日 | テンプレート:BRA1968・ パラグアイ ( アメリカ合衆国立寄り) | 皇太子妃 | ブラジル移住70周年記念式典参列 |
1979 | 10月5日 | 10月14日 | ルーマニア・ ブルガリア(名代) ( オランダ・ ベルギー立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1981 | 2月27日 | 3月7日 | サウジアラビア・ スリランカ ( タイ・ シンガポール立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
7月26日 | 8月2日 | イギリス ( ベルギー立寄り) | 皇太子妃 | 英皇太子結婚参列 差遣 | |
1983 | 3月10日 | 3月25日 | テンプレート:ZMB・ タンザニア・ ケニア(名代) ( ルクセンブルク・ ベルギー・ タイ立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1984 | 2月25日 | 3月8日 | テンプレート:ZR1967・ セネガル(名代) ( ベルギー・ イギリス立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1985 | 2月23日 | 3月9日 | スペイン・ アイルランド(名代) (テンプレート:POL1952・ イギリス立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
6月1日 | 6月15日 | スウェーデン・ デンマーク・ ノルウェー(名代)・ フィンランド | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1987 | 10月3日 | 10月10日 | アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 国際親善 |
著書
- 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012
- 『道 平成元年〜平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903
- 『道 平成11年〜平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X
- 『天皇陛下科学を語る』宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522
- 『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月
- ISBN 4-486-05053-3(図版)
- ISBN 4-486-05053-3(解説)
- ISBN 4-486-05054-1 (Text)
- 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。
- 『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3
- (チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修
- 『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044
- (ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編
出典・注釈
注釈
- ↑ 代数は皇統譜による。
- ↑ 後者は2006年7月21日、DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(「映像でつづる復帰30周年」)
- ↑ 学習院の先輩であった三島は、皇太子外遊にあたり「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」を書き、同船についても触れている[38]。
- ↑ 『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。
- ↑ 実物と同じものが逓信総合博物館で所蔵されている。
- ↑ 『週刊朝日』2004年12月3日。ただし、南部は「どうやら、久邇さまが陛下にお願いしていたようです」と『週刊朝日』に述べており、天皇の発言は南部を宮司に推挙した久邇邦昭(天皇の従兄)からの依頼によるものとしている。
出典
- ↑ 松本敦 (2014年). “朝日新聞における皇族の呼称および待遇表現の変遷”. 学習院大学大学院日本語日本文学 第10号. 学習院大学大学院人文科学研究科日本語日本文学専攻. . 2017閲覧. 大手新聞三紙では「天皇陛下」を使用
- ↑ 2.0 2.1 “皇室の系図-皇室とっておき”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. . 2016閲覧.
- ↑ 昭和64年1月7日内閣告示第1号 天皇陛下崩御に関する件
- ↑ 昭和64年1月7日内閣告示第2号 皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件
- ↑ 宮内庁. “天皇皇后両陛下のご活動” (日本語). . 2012-6-11閲覧.
- ↑ 宮内庁. “宮中祭祀” (日本語). . 2009-6-11閲覧.
- ↑ “秋篠宮ご夫妻、日赤で高齢者とご交流 両陛下の施設ご訪問を初めて引き継がれる”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2015年9月15日) . 2015閲覧.
- ↑ “秋篠宮さま、50歳誕生日で質問とご回答”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社): p. 2. (2015年11月30日) . 2015閲覧.
- ↑ “Early Cultivators of Science in Japan”. Science 258 (5082): 578. (October 1992). doi:10.1126/science.1411568. PMID 1411568.
- ↑ “Evolutionary aspects of gobioid fishes based upon a phylogenetic analysis of mitochondrial cytochrome B genes”. Gene 259 (1-2): 5-15. (December 2000). doi:10.1016/S0378-1119(00)00488-1. PMID 11163956.※所属はImperial Residence=「皇居」となっている。なお、共著者に山階鳥類研究所総裁の秋篠宮文仁親王の名前もある。
- ↑ “Evolution of Pacific Ocean and the Sea of Japan populations of the gobiid species, Pterogobius elapoides and Pterogobius zonoleucus, based on molecular and morphological analyses”. Gene 427 (1-2): 7-18. (December 2008). doi:10.1016/j.gene.2008.09.026. PMID 18848978.文仁親王の所属は総合研究大学院大学となっている。
- ↑ “Speciation of two gobioid species, Pterogobius elapoides and Pterogobius zonoleucus revealed by multi-locus nuclear and mitochondrial DNA analyses”. Gene 576 (2-1): 593–602. (February 2016). doi:10.1016/j.gene.2015.10.014. PMID 26475939.文仁親王の所属は東京大学総合研究博物館および東京農業大学となっている。
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- ↑ Akihito vanuatu Watson, Keith & Marquet, 2007 FishBase
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- ↑ Meguro=目黒勝介
- ↑ 河原敏明 『良子皇太后』 ネスコ、1993年。ISBN 978-4890368464。
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- ↑ 38.0 38.1 三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」(発表誌未詳 1953年3月10日)。『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月)、28巻 2003-03, pp. 56-58
- ↑ 三島由紀夫『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月)。27巻 2003-02, pp. 507-641
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- ↑ 42.0 42.1 紀宮さまの婚約によりにわかに関心を集めている 皇室の家計はどうなってるの? 北川邦弘 All About、2004年12月28日
- ↑ MSN産経 (2008年9月8日). “両陛下が旧・山古志村をご視察”. . 2008閲覧.
- ↑ 読売新聞・2002年2月21日ほか
- ↑ 日刊ベリタ2005年06月28日掲載 天皇、韓国・朝鮮人戦没者慰霊碑にも立ち寄り(追加)
- ↑ 慶應義塾創立150年、天皇陛下お言葉全文
- ↑ 両陛下、避難所訪問…膝つきながら被災者励ます 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
- ↑ “宮内庁主導「両陛下初の私的なご旅行」 ご健康を考え苦心の企画”. 産経新聞. (2013年4月15日) . 2013閲覧.
- ↑ 両陛下、「北のパラオ」訪問 宮城・北原尾
- ↑ (皇族方の素顔)両陛下、7回目の私的旅行
- ↑ 両陛下、私的旅行で埼玉へ 渡来人ゆかりの神社を初参拝
- ↑ 序文前の献辞。藤島, 泰輔 『孤獨の人』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2012年。ISBN 978-4-00-602201-3。
- ↑ この段落の出典。河西秀哉「解説」、藤島, 泰輔 『孤獨の人』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2012年、235-241。ISBN 978-4-00-602201-3。
- ↑ 「関根 友彦先生 の 退職記念号に 寄せ て」愛知学院大学
- ↑ 「天皇陛下「退位」意向 驚きと共感と 公務多忙極め(その2止)」毎日新聞2016年7月14日
- ↑ “【皇室ウイークリー】 (201)ゲゲゲの水木さん「天皇家はお化け好き」 愛子さまの俊足はクラス3位”. 産経ニュース (産業経済新聞社): p. 1. (2011年10月15日) . 2015閲覧.
- ↑ “両陛下、「自主停電」お続けに” (日本語). 産経新聞. (2011年3月24日). オリジナルの2011年3月26日時点によるアーカイブ。 . 2011閲覧.
- ↑ 女性セブン2012年2月23日号
- ↑ “日本人の7割強が「中国嫌い」 在日米軍基地「必要」が増えて6割に迫る”. J-CASTニュース. (2011年9月6日)
- ↑ 小林彰太郞 『天皇の御料車』 89、90、91頁より。
- ↑ “天皇陛下が免許更新。愛車のホンダ・インテグラで高齢者講習”. ハフィントン・ポスト (2016年1月8日). . 2016閲覧.
- ↑ “天皇陛下の愛車は「キャブ車」だった!? いまなおご愛用される陛下の愛車に迫る”. ベストカー. 講談社ビーシー (2017年11月9日). . 2017閲覧.
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- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成15年)”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成16年)- 宮内記者会の質問に対する文書ご回答”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成17年)”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “シンガポール・タイご訪問に際し(平成18年) - 宮内庁”. . 2009年12月5日閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成18年)”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成20年) - 宮内庁”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年)- 天皇皇后両陛下の記者会見”. . 2009閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年) - 宮内庁”. . 2009年12月5日閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成24年) - 宮内庁”. . 2014年1月5日閲覧.
- ↑ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成25年) - 宮内庁”. . 2014年1月5日閲覧.
- ↑ * 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日) - 宮内庁(動画閲覧可。メッセージを文字で読むこともできる)
- ↑ の中の皇室のご活動の中の天皇皇后両陛下のご日程の中の平成15年(1月~3月)の中の天皇陛下のご入院・ご手術・ご退院について
- ↑ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の今後の御公務及び宮中祭祀の進め方について
- ↑ *宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご体調と天皇皇后両陛下のご日程について
- ↑ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご体調について
- ↑ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご検査の結果と今後の治療方針について
- ↑ “Media Centre > Buckingham Palace press releases > Appointment of a new Garter Knight”. Royal. 2008年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
- ↑ 君塚(2008) p.274
- ↑ 君塚(2008) p.275
- ↑ 男女関係なく直系優先・兄弟姉妹間長子優先
- ↑ 『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011
参考文献
- 君塚直隆 『女王陛下の外交戦略――エリザベス二世と「三つのサークル」』 講談社、2008年3月。ISBN 978-4062145664。
- 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2』 新潮社、2003年2月。ISBN 978-4106425677。
- 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』 新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684。
- 小林彰太郞 『天皇の御料車』 二玄社、1993年。(別冊CG)
関連項目
外部リンク
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