東久邇成子
東久邇 成子(ひがしくに しげこ、1925年(大正14年)12月6日 - 1961年(昭和36年)7月23日)は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第一皇女。今上天皇と常陸宮正仁親王の長姉。お印は紅梅。勲等は勲一等。
旧名は、照宮 成子内親王(てるのみや しげこないしんのう)。皇籍離脱前の名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。
生涯
皇族時代
1925年(大正14年)12月6日午後8時10分、皇太子・裕仁親王と同妃・良子女王(いずれも当時)の第1子として誕生。誕生時の身長は1尺6寸3分(=約49cm)、体重は873匁(=約3270g)[1]。12月12日、命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮 成子」と命名された[2]。
大正天皇・貞明皇后の初孫として国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。特に翌3月30日にはじめて参内し大正天皇・皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った[3]。
皇太子夫妻(昭和天皇、香淳皇后)の意向もあり、里子には出されず両親の元で養育される[4]。当時としては画期的なことであった。しかし、その後、昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育ったという批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年(昭和6年)10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定[5]。翌1932年(昭和7年)4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。その後、学齢を迎えた妹の内親王たちも呉竹寮へ移り、ともに生活するようになる。また選ばれた級友が5-6名ずつ輪番で呉竹寮を訪問した[6]。穂積美代子や前田美意子ら特に親しい学友は、これ以外に招きで呉竹寮や葉山御用邸に「お内緒」で招かれていた[7][8]。また学友たちは、宮内省からの辞令を受けていた[9]。
学習院時代は理科・作文が得意だったといわれる。1937年(昭和12年)頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。天皇の神格化が進む時代にあって、中等科5年生(1942年(昭和17年)頃)のときに次の様な文章を書いた。
「 | 私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう(後略) | 」 |
—光文社「昭和の母 皇太后さま」P161 |
成子内親王は生物学に関心を持ち、父帝の研究所での勤務を希望していたというが、1941年(昭和16年)5月に東久邇宮稔彦王の第一男子・盛厚王との婚約が内定[10]。
1943年(昭和18年)3月に女子学習院中等科卒業。学業成績は極めて優秀だった[11]が、高等科へは進学せず花嫁修業をする[12]。
1943年(昭和18年)10月2日に納采の儀。同年10月12日、結婚を控え勲一等宝冠章を賜り、翌日の10月13日に盛厚王(当時は陸軍少佐)と結婚する。第二次世界大戦中であり、皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われた。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった。姉妹の中では体格が香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后の結婚当時の体型とピタリと一致したという。
成子内親王の意思は考慮されていない結婚であり、後に当時の心境を「悲しみもなく、不安な気持ちも、嬉しい気持ちもありませんでした」と語っている。夫となった盛厚王とは見合いを経ずに結婚したため、夫婦として心を通わせるのに時間がかかったという。そのため妹の内親王たちは形式的とは言え、見合いの場が設けられた。
ただ、盛厚王は真面目な人だったため2年ほどして互いに愛情がわいた、とも語っており、それなりに円満な家庭を築いた。1945年(昭和20年)3月9日、初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産した。盛厚王との間には、信彦王、文子女王、基博(前名、秀彦。壬生家養子)、真彦、優子の5人の子供をもうけた。
結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年(昭和22年)10月14日、東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、新皇室典範第13条の規定により夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れた(昭和22年宮内府告示第16号)。
皇籍離脱後
皇籍離脱後は終戦後のインフレ等のきびしい社会情勢の中、皇族としての身分も経済的特権も失い、厳しい家計を内職をしながら助けたり、都内遠方でも商店街の特売に人目を忍んで並んだりと元皇女とはいえ一般家庭の主婦並の苦労も多かった。特に、ヌートリアの養殖を独学で成功させたという逸話もある[13]。
1949年(昭和24年)夏、創刊間もない雑誌『美しい暮しの手帖』第5号に大橋鎭子からの強い依頼を受けて「やりくりの記」を寄稿する。物資不足に悩みながらも「やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来る」[14]とした成子の手記は大きな反響を呼び、『暮らしの手帖』の部数拡大のきっかけとなった[15]。
1958年(昭和33年)1月2日、NHKの『私の秘密』に生出演。宮中でのカルタ会を中座しての出演であり、皇族たちもカルタそっちのけでTVに見入ったという[16]。
1959年(昭和34年)4月、弟である皇太子・明仁親王と正田美智子の結婚に際しては、二人を祝福するとともに「新しい仕事」を応援するメッセージを新聞に寄せている[17]。成子自身も、同年6月3日に天皇、皇后、皇太子夫妻をはじめ弟妹らを自宅へ招いてホームパーティーを開き、家庭的な皇室のあり方を実践して見せた[18]。
しかし、1960年(昭和35年)11月に病に倒れ、結腸癒着と腹壁腫瘍と表向きは診断されるが、実際には末期がんであった。1961年(昭和36年)4月より宮内庁病院に入院し、両親である天皇・皇后も頻繁に見舞いに訪れる。特に皇后はほぼ毎日訪問していた。5月7日、昭和天皇の還暦祝いのため皇居を訪れたのが最後の外出となったが、すでに衰弱し、宴の最中も後方のソファに横たわりながらの状態であった[19]。7月19日夕方から容体が悪化し、7月23日午前3時15分、家族のほか、両親である天皇・皇后、皇太子夫妻ら弟妹の見守る中息を引き取った。当時16歳の長男東久邇信彦を筆頭に5人のまだ小さい子供を残しての死だった。まだ35歳であり、天皇・皇后とも大きな衝撃を受けた。
7月26日に葬儀が青山葬儀所で執り行われた後、遺体は火葬された。8月4日に斂葬の儀が行われ、文京区の豊島岡墓地に埋葬された。彼女の墓所の左右には、香淳皇后の指示によって紅梅が植えられた。没後40年にあたる2001年(平成13年)7月23日には、弟である今上天皇と皇后が拝礼した。
なお盛厚は、1964年(昭和39年)10月3日寺尾佳子と再婚し、厚彦(寺尾家養子)、盛彦の2男をもうけたが、1969年(昭和44年)に死去している。
年譜
- 1925年(大正14年)12月6日 - 誕生
- 1929年(昭和4年)12月6日 - (満4歳、数え年5歳)、着袴の儀
- 1943年(昭和18年)10月2日 - (満17歳、数え年19歳)、納采の儀
- 1947年(昭和22年)10月14日 - (満21歳)、新皇室典範第13条に基づき皇籍離脱
- 1961年(昭和36年)7月23日 - (満35歳)、死去
栄典
系譜
成子内親王 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
子女
- 信彦王(のぶひこ、1945年 - )
- 文子女王(ふみこ、1946年 - )
- 東久邇秀彦(ひでひこ、1949年-) - のち壬生家養子
- 東久邇真彦(なおひこ、1953年-)
- 東久邇優子(ゆうこ、1954年-)
脚注
- ↑ 1925年12月7日 東京朝日新聞「内親王の御体重 おみ大きく拝せらる」
- ↑ 1925年12月13日 東京朝日新聞「けふお七夜の佳き日 皇孫御命名の儀」
- ↑ 1926年3月30日 東京朝日新聞(夕刊)「照宮殿下 初めての御参内 暖かき沿道に拝観者の群」
- ↑ 1925年12月17日 読売新聞「照宮の御養育は妃宮御手づから 御養育係長は置かぬ事に決定 」
- ↑ 1931年10月31日 東京朝日新聞「照宮様の御殿を宮城内へ御造営」
- ↑ 酒井美意子の回想によれば、体温測定を行い訪問専用の制服に着替えた上で御所に上がっていたという(酒井美意子『元華族たちの戦後史』主婦と生活社、P160)
- ↑ 岩佐美代子『古典ライブラリー 宮廷に生きる』笠間書院、P3
- ↑ 酒井美意子『元華族たちの戦後史』主婦と生活社、P160-161
- ↑ 岩佐美代子『古典ライブラリー 宮廷に生きる』笠間書院、P4
- ↑ 1941年5月6日 読売新聞「照宮成子内親王殿下 御配偶に東久邇宮盛厚王殿下 御めでたき御内約」
- ↑ 1943年3月29日 読売新聞「照宮成子内親王殿下 女子学習院中等科を けふ御卒業」
なお、当時の報道だけでなく、後年になって岩佐美代子や酒井美意子も著書の中で、照宮が優れた女性であったという回想を記している - ↑ 1943年5月16日 朝日新聞「お慶びの照宮様・盛厚王殿下 拝すも畏し御二方の御日常」
- ↑ 酒井美意子『元華族たちの戦後史』主婦と生活社、P39
- ↑ 1949年10月「美しい暮らしの手帖」5号 ※原文は旧漢字
- ↑ 2016年3月10日発行 有鄰第543号「大橋鎭子と暮しの手帖」
- ↑ この番組はフィルムに録画されており、『私の秘密』では4本現存している中の1本となっている。後年「NHKアーカイブス」で再放送された。
- ↑ 1959年4月10日 読売新聞「末長いご幸福を」
- ↑ 1959年6月3日 読売新聞「両陛下、東久邇家ご訪問 12畳で17人の夕食 型破り“天皇ご一家”のつどい」
- ↑ 1961年7月23日 読売新聞(夕刊)「東久邇成子さん死去」
- ↑ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
- ↑ 『官報』第5027号、「叙任及辞令」1943年10月13日。p.299