広島東洋カープ
チーム名 | 広島東洋カープ |
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会社名 | 株式会社広島東洋カープ |
加盟団体 | セントラル・リーグ |
創設年度 | 1950年 |
チーム名の遍歴 | |
本拠地 |
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場) (広島県広島市南区) |
収容人員 |
33,000人 (MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島) |
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英語: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。
広島県を保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
Contents
- 1 概要
- 2 球団の歴史
- 3 所属選手・監督・コーチ
- 4 チーム成績・記録
- 5 永久欠番
- 6 歴代監督
- 7 歴代オーナー
- 8 歴代本拠地
- 9 球団施設
- 10 チームの特徴
- 11 チームの戦いぶり
- 12 ユニフォームの変遷
- 13 ユニフォームのスポンサー
- 14 球団旗の変遷
- 15 マスコット
- 16 キーワード
- 16.1 ピースナイター
- 16.2 経営事情
- 16.3 スカウティングと育成
- 16.4 FA宣言選手への対応
- 16.5 初の地方遠征
- 16.6 8人の侍
- 16.7 疑惑の本塁打
- 16.8 幻の本塁打
- 16.9 沖縄県出身初のプロ野球選手
- 16.10 「カープを優勝させる会」
- 16.11 日本シリーズMVPの自動車
- 16.12 日本球界初のアカデミー
- 16.13 背番号0の男
- 16.14 クモ男
- 16.15 ベースボールドッグ
- 16.16 応援方法の先駆者
- 16.17 多様なカープグッズと記念Tシャツ
- 16.18 広島県内におけるカープの影響
- 16.19 広島県外のカープファンの増加
- 16.20 カープ本
- 17 主な歴代の球団歌・応援歌
- 18 主なキャンプ地
- 19 チームスローガン
- 20 放送
- 21 取り扱う雑誌
- 22 脚注
- 23 参考文献
- 24 関連項目
- 25 外部リンク
概要
特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注 1]、他球団と比較して特異な歴史を有する[2][3][4][5][6][7][8]。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[9] 親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない[10]。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する[11]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する[12][13][14][15][16]。
球団の歴史
球団創設から1974年まで
- 1949年
- 正力松太郎の二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[7][8][17]。広島は戦前から広島商や広陵高、呉港高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手が輩出した野球どころという下地があった[5][7][18][19][20]。
- 正力の二リーグ構想が公に出た4月から[7][21][22]、4ヶ月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[23]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[23][24]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 2]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員・谷川昇と金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[24]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[8]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[7]、山口に助力を要請され[25]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[8][26]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[23]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[23]。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[23]。
- 9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[23]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[22][23]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 3]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[22][27][23]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 4]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[17]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンスの監督・石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[17][23]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代カープ監督に石本の就任が決定した[7][23][28]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[23]、チーム作りは石本に一任した[29]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[23]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[5]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[5]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[29]。本拠地は広島総合球場とした。
- 核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 5]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹と改称して松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[23]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した[23]。
- 1月15日、寒風吹きすさび、砂塵が舞い上がる西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)のただの野原でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた[2][24]。カープ選手紹介の前に、カープ創設に努力したお偉方の祝辞が3時間以上続いた[23]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着していなかったので石本監督が一番有名であった[23]。選手は総勢20人にも満たない。当初遠目にながめていた人たちも選手がお披露目のキャッチボールを始めるとその周囲をグルリと取り囲んだ。続いてトスバッティングを演じたところ、大受け。こうして熱烈歓迎を受けて、空前絶後の"貧乏チーム"が誕生した[23]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[31]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[4]。16日から合宿に入り合宿所は、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を借りた[17][24]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[24]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[24]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[8]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[7][24][26]。
- 3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている[27]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど
惨憺 たるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[32]。さらに勝率3割に到達できなかったチームは両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。 - この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[31]。そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[29]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[17]。
- こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[33]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[17]。
- 6月25日、セリーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 6]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。セリーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[17]。
- 12月7日、カープ選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
- 年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"一年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[33]。
- 球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたが「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[35]。
- こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[17]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[32]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[7][32]。「ついにその瞬間がきた」、合宿所でこのニュースを聞いたカープ選手の中には涙を流す者さえいた[32]。しかし役員会に遅れて参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。何とか3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に無事出発。しかし今度は旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[17]。
- 石本監督は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[32][36][37]、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表、広島県民の心を動かした[32][38]。こうした動きに連盟も折れ、3月23日、鈴木竜二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定し[27]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[32]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった[27]。
- 石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[5][32]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[4][26][28]。また石本や白石は試合後に選手を連れてあっちの町内、こっちの町内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[8][29][31][39][40]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地広島総合球場前での酒樽の中にカンパする「樽募金」も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[40]。カープはこの年130万円の黒字を計上し、球界のみならず日本中を驚かせた[32]。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[7]。
- しかし、シーズン途中に前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめ、巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[41]。
- 12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する。これは当時、12月15日までに球団は選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に里帰りしていた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する。だが翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[27]。
- 開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた[17][42]。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており[注 7]、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった[17][42]。
- こうして迎えた1952年シーズン、開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた[注 8]。長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。
- なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
- 10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)[43]。
- 松竹から赤嶺昌志一派(小鶴誠・金山次郎・三村勲)が集団で移籍した。小鶴は3月1日の午前2時48分に広島駅に到着したが、既に200人のファンが待ち構えており、小鶴をトランペットで盛大に祝っている。小鶴・金山に続いて外国人選手を獲得するため、後援会は更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉が入団した。6月19日に銭村らは広島入りしたが、その際に盛大なパレードが挙行され、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。
- さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
- なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。
- また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
- この頃になると、給料の遅配はなくなったように球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[注 9]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[44]。
- 新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在[45][46]。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し[45]、広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問[47][48]。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビーブラウン、フランク・オドールが広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った[4][45][46][47][49]。
- シーズンは、開幕試合の4月3日中日戦から7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
- この年から、助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。
- 2月28日、カープ産みの親、谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら、脳出血のため急逝する。
- 3月11日、入団したばかりの日系2世平山智が広島入りし、市内パレードに10万人が押し寄せる。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
- また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場 (初代)の設計図を公表している。
- その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
- なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」、「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。
- 開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。
- 5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。
- 7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。
- 1月14日、地元10社が広島市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。
- 7月22日、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前にして、緊張のため選手が皆固くなってしまい1-15で大敗している。
- シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。
- 広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅、森永勝治、小坂佳隆、鵜狩道夫、拝藤宣雄、大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。
- また、1950年の灰島元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一、藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。
- シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。
- この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。
- 2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。
- 5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成[50]。
- シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。
- 1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。
- この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。
- 6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
- 1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。
- 東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった[51]。
- 阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。外木場義郎・安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録[注 10]。なおシーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。
- 前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄と山本浩二のYK砲に水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。
- シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から上田利治コーチが退団している。
- 開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。
- 別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。
- チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。
- 1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。
ルーツ、古葉監督時代
- 球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。
- しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任[53]。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした[53]。
- 中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民)では乱闘事件があったものの[4][54]、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷[55]。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した[56]。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている[57]。
- 経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。
- 5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、江夏豊が南海ホークスより移籍[58]。南海の監督だった野村克也(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「「江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという[59]。高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。
- カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した[60]。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年から1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。
- 開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)[61]。
- この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた[61]。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。
- この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。
- 山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)。オフにテコ入れとして福士敬章、内田順三、金田留広らに戦力外通告、水沼四郎を中日へトレード、水谷実雄と阪急ブレーブス・加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。
- 7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。
- 4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは、阪急ブレーブスと対戦。4勝3敗で3度目の日本一。
- サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を勇退。同年、松田元がオーナー代行に就任している。
阿南監督時代
- 阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが[62]、就任1年目にリーグ優勝を果たす[注 11]。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。
- 前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。またこの年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。
- 6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得するも3位に終わる。
- 1988年
- 2年連続の3位。正田が2年連続の首位打者。大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞。阿南が監督を退任。同年オフ、山本浩二が監督に就任。
第1次山本監督時代
- 新外国人のロッド・アレン、ウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成。津田恒実が最優秀救援投手。優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。
- 野村謙二郎がトップバッターに定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング、高沢秀昭が奮わず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。
- この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを
牽引 。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中、勝負強い西田真二や山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡真司がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、2016年まで優勝から遠ざかることとなる。
- この年は、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位[注 12] となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。
- 7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、その後急降下した。江藤智が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。9月には25年ぶりの12連敗を喫しチームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任した。
三村監督時代
- 新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴、近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲、緒方孝市、音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。
- この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。
- チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。
- 野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々けがでリタイア。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤崎俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの、順位は3位ながら貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。
- 新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は9戦全敗に終わった[63]。
- シーズン後に三村監督が退任、後任は達川晃豊が就任した。この年限りで大野、正田が引退した。
達川監督時代
- 伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年は6月になるも13連敗その後も連敗を繰り返し、佐々岡以外全滅状態の投手陣、金本が自己最多本塁打を記録するも全体的に低調の打線[64]、5位に終わり、チーム防御率は3年連続リーグ最下位だった。99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野投手コーチと正田守備走塁コーチ、8年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチも1年限りで辞任した。00年も5位に終わり達川監督はわずか2年で辞任した。
第2次山本監督時代
- 2001年 - 2005年
- 山本が8年ぶりに監督として復帰した。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった[注 13]。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年から2004年まで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。
- 2005年に、投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘、新井が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。この年のシーズン終了後に山本監督は辞任、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退した。
ブラウン監督時代
- ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。
- 開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。
- キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。
- 課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
- 投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。
- 苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった[注 14]。
- 延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
- この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。
- オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
- シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した[65]。この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任は野村謙二郎。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団。
野村監督時代
- シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。
- 東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日にはBクラスが確定。結果は、3年連続の5位。
中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で、4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健太がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点[67] もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原健太が離脱するなど故障者が続出し、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す[68]。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し[69]、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している[70]。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。
- 3月、オーナー代行に松田一宏が就任[71]。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め[72]、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく[73]。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど[74] 必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位[75]。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す[76]。後半戦は、8月13日に3位に浮上[77] してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて4年ぶりの7連勝を記録[78] し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位中日の自力CSの可能性が消滅した[79]。9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2[80] として迎えた翌9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定[81]、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した[82]。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた[83] が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定[84] した。前田智徳、菊地原毅が現役を引退[85][86]。
- 前年に続き巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した[87]。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した[88](なお貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された[89]。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定[90]。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された[91]。11月14日に阪神から自由契約となった新井貴浩[92]、12月27日にヤンキースからFAとなった黒田博樹[93] が広島に復帰した。
緒方監督時代
- 序盤は一時最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。
- 6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成[94]、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった[95]。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの[96]、その後も貯金を作ることはできず9月24日の対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した[97]。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、10月7日、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した[98]。尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後[99]、ポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースへ移籍[100]。今期加入した外国人はクリス・ジョンソンの他はパッとせず全員が退団。このうちマイク・ザガースキーは、2016年途中にDeNAに移籍している。中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得した[101]。
- リーグ序盤から首位を走る。交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し[102]。6月以降は首位を独走し、9月10日の対巨人戦に勝利して25年ぶりのリーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。しかし、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し2勝4敗で破れ、32年ぶりの日本一はならなかった。黒田博樹、廣瀬純、倉義和が現役を引退。
- 前々年の2015年がBクラス(4位)であったため当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。その開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)[103]。5月6日の阪神戦で9点リードした状態からの逆転負けを喫した[104]。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより2位。公式戦は5月に2位となるものの6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、2軍も9月26日に鳴尾浜球場で阪神に勝利しウ・リーグ優勝を決めた[105]。
- 2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ含む)で敗退し日本シリーズ進出はならなかった。
所属選手・監督・コーチ
チーム成績・記録
- リーグ優勝 8回
- (1975年、1979年 - 1980年、1984年、1986年、1991年、2016年 - 2017年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回
- (2016年)
- 日本一 3回
- (1979年、1980年、1984年)
- Aクラス 24回
- (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年、2013年 - 2014年、2016年 - 2017年)
- Bクラス 44回
- (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2012年、2015年)
- 最下位回数 10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年)
- 最多勝 89勝(2016年)
- 最多敗 96敗(1950年)
- 最多引分 18分(1978年)
- 最高勝率 .633(2017年)
- 最低勝率 .299(1950年)
- チーム最多連敗 13(1950年11月3日 - 11月14日、1999年6月25日 - 7月13日)
- 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
- 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークスにおける1978年 - 1997年の20年に次ぐ日本プロ野球史上第2位)
その他の記録
- 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
- 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 205本(1978年)
- 最少本塁打 29本(1952年)
- 最高打率 .284(1978年)
- 最低打率 .213(1956年)
- 最高防御率 2.62(1959年)
- 最低防御率 5.20(1950年)
- 1イニング最多四死球10四球(1978年7月6日、対読売ジャイアンツ戦2回表に記録)内訳:山本浩二、エイドリアン・ギャレット、衣笠祥雄各2四球、水沼四郎、北別府学、正垣泰祐、水谷実雄各1四球
- 50イニング連続無得点(2011年5月26日、対埼玉西武ライオンズの5回 - 6月3日、対オリックス・バファローズの6回)セ・リーグ記録[注 15]
- 1イニング最多失点 15得点 (2009年6月11日対千葉ロッテマリーンズ6回裏)プロ野球記録
永久欠番
永久預かり
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
- 20(1995年 - 2002年) 前任者は北別府学。永川勝浩に与えられた。
- 9(2010年 - 2013年) 前任者は緒方孝市。丸佳浩に与えられた。
- 7(2006年 - 2012年) 前任者は野村謙二郎。堂林翔太に与えられた。なお野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。
現在使用者が不在の番号
- 1(2014年 - )前任者は前田智徳。引退時、背番号1の後継者はいるかと尋ねられ、「しばらくはこの背番号を休ませてやってほしい」と語った。
- 18(2016年 - )前任者は前田健太。黒田の「背番号15」とは状況が異なり、付けるに相応しい投手が台頭してきた、もしくはドラフトにて獲得出来た場合は与えるとのこと。
歴代監督
- 1950年 - 1953年 : 石本秀一[※ 1]
- 1953年 - 1960年 : 白石勝巳 (第1次)
- 1961年 - 1962年 : 門前眞佐人
- 1963年 - 1965年 : 白石勝巳 (第2次)[※ 2]
- 1966年 - 1967年 : 長谷川良平
- 1968年 - 1972年 : 根本陸夫 [※ 3][※ 4]
- 1973年 : 別当薫
- 1974年 : 森永勝也
- 1975年 : ジョー・ルーツ [※ 5]
- 1975年 - 1985年 : 古葉竹識
- 1986年 - 1988年 : 阿南準郎
- 1989年 - 1993年 : 山本浩二 (第1次)
- 1994年 - 1998年 : 三村敏之
- 1999年 - 2000年 : 達川光男 [※ 6]
- 2001年 - 2005年 : 山本浩二 (第2次)
- 2006年 - 2009年 : マーティ・ブラウン [※ 7]
- 2010年 - 2014年 : 野村謙二郎 [※ 8]
- 2015年 - :緒方孝市
※太字は優勝達成監督
歴代オーナー
- オーナー
世代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 松田恒次 | 1967年(昭和42年)12月17日[106] - 1970年(昭和45年)11月15日[107] | 同時期に東洋工業(現・マツダ)社長を兼任 |
2代目 | 松田耕平 | 1970年(昭和45年)11月18日[107] - 2002年(平成14年)7月10日[108] | 1977年まで東洋工業(現・マツダ)社長を兼任 恒次の息子 |
3代目 | 松田元 | 2002年(平成14年)7月15日[108] - | 耕平の長男。 |
- オーナー代行
氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|
松田耕平 | 1967年(昭和42年)12月17日[106] - 1970年(昭和45年)11月17日[107] | |
松田元 | 1985年(昭和60年)[109] - 2002年(平成14年)7月14日[108] | |
松田一宏 | 2013年(平成25年)3月25日[71] - | 松田元の弟・松田弘(広島エフエム放送社長およびアンフィニ広島社長)の長男。 |
歴代本拠地
球場名 | 所在地 | 使用期間 |
---|---|---|
広島総合球場(現:Coca-Cola West野球場) | 広島市西区観音新町二丁目 | 1950年 - 1957年 |
広島市民球場 | 広島市中区基町 | 1957年7月 - 2009年3月 |
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(新広島市民球場) | 広島市南区南蟹屋二丁目 | 2009年4月 - 現在 |
球団施設
- 広島東洋カープ由宇練習場(山口県岩国市由宇町) - 二軍本拠地球場、練習施設
- 広島東洋カープ屋内練習場(広島市南区南蟹屋三丁目) - マツダスタジアムに隣接する屋内練習場
- 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(広島県廿日市市宮島口西1丁目) - 屋内練習場・若手選手専用合宿所
- 大州寮(広島市南区大州五丁目)- レギュラー選手専用合宿所
- 1958年から2011年まで独身選手用の寮「三省寮」(広島市西区三篠町3丁目)が存在した[110][111]。二軍選手寮の「大野寮」がまだないため、独身選手は主力選手でもここに入る決まりだった[111]。この大野の施設が出来るまで、二軍は専用グラウンドがなく、施設の整った広陵高校のグラウンドを借りた[112]。放課後は広陵の野球部がグラウンドを使うため、生徒が授業を受けている間で、大下剛史が二軍守備・走塁コーチだった時期には、大下の怒声が広陵のグラウンドに響いた[112]。老朽化のため大州寮に機能を移し解体。跡地ではMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島用の補修用芝を栽培している。
- 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1か所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。三篠寮は一軍選手専用となった。この大野の施設が出来る[112]。
- カープベースボールギャラリー(カルピオ・広島市中区八丁堀)- 入場券販売所・ギャラリー
- カープアカデミー(ドミニカ共和国) - MLBのアカデミーを参考に作られた施設。
本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。
- MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima facade(2014).jpg
MAZDA_Zoom-Zoom_スタジアム広島
- 由宇練習場全景(3塁側から).jpg
広島東洋カープ由宇練習場
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広島東洋カープ屋内練習場
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広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮
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カープベースボールギャラリー(カルピオ)
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大州寮
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三省寮跡
チームの特徴
- ニックネームの「カープ」は「鯉」の英語「Carp」に由来。名付け親は政治家の谷川昇(公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り
- 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
- 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと[7][23][24]。
- 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(広島市西区の地名)は鯉から転化したものであり、恋にも通ずる」から
- 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした[8][113]。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった[17]。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また「アトムズ」はその後1966年から1973年にサンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ『鉄腕アトム』に由来する名称として採用していた。なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである[22]。
- チームをイメージさせるカラーとして赤が知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時のジョー・ルーツ監督のアイディア[注 17] で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は1967年以来紺地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザイン(5代目)であり、赤が用いられたのは創設期の「CARP」の文字(1955年まで)と1958年の鯉の絵(3代目)のみである。
- 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。基本的に広島の監督・コーチは生え抜きか、外様でも広島での選手経験者を優先し、純粋な外様(広島での選手経験無し)は少ないが[注 18]、2001年には松原誠(一軍チーフ兼打撃コーチ)が、2012年オフには新井宏昌(一軍打撃コーチ)が純粋な外様として入団している。
- 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日韓国・朝鮮人の他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーン、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ルイス・ロペス、エディ・ディアス、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツ、コルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年にロッテに移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、アンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→オリックス)などの例が見られる。
- 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が巨人からキャンプのオファーを受けたこともあり、巨人キャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島のキャンプ地として知られる。
- 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。このため資金が豊富ではないこともあって、フリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。また、2008年オフに相川亮二がFA宣言し横浜からヤクルトに移籍したことにより、セリーグでは唯一FA宣言した選手を獲得したことのないチームとなった。ただし2010年オフに横浜からFAを宣言した内川聖一の獲得に乗り出したことがある(結果的に内川はソフトバンクへ移籍)[115]。
- 1958年以降、シーズン前に広島護国神社へチーム全員が参拝必勝祈願することが恒例となっている。旧広島市民球場が開場した1957年、カープはオールスター戦まで32勝26敗と健闘したが、オールスター戦後は、7月22日に球場が開場したにも関わらず22勝49敗と大幅に負け越してしまった。これについて当時の球団代表の河口豪が、知り合いの神職から「この球場の左翼あたりは原爆により多数の市民が爆死した場所だから、その霊を慰めるよう神に祈願をかけなさい」とアドバイスされたことに由来する[116]。
- かつては他球団に比べ地方球場での主催試合が多かった。上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場、米子市民球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等、中国・四国地方の球場で主催ゲームが開催される。なお2005年、松山では主催試合を開催していないが、ビジターでヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつが編成されている。またビジター球団が地域保護権を有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、1989年には群馬県前橋市の群馬県立敷島公園野球場と新潟県新潟市の鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を、1990年から1997年にかけては岐阜市の長良川球場で対中日戦を開催しており、さらに近年は北陸地方(福井県営球場、石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアム、ハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催している。また他球団の地方主催試合の相手となることも多かった。
- ただし近年は交流戦の影響や新本拠地の開場もあってか、地方試合は年々減少傾向にある(2003年頃までは地方での試合が大体10 - 13試合程度あったものの、2010年は4試合、2013年度は僅か2試合にまで減りセ・リーグで最小の開催数となっている)。詳細は広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧を参照の事。
- 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場、宮城球場、岩手県営野球場、秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。バブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。
- 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。広島県内では1993年に呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催した他、2009年には竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟でそれぞれ球場開きを飾った他、2000年8月21日に長野オリンピックスタジアム初のセ・リーグ公式戦(ヤクルト戦)を開催している[注 19]。
- 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込むなどの方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、15時から試合を行う。
- 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから私設応援団が多数存在していたため、公式ファンクラブが結成されたのは2007年からと12球団で最後の結成となっている。
- 巨人(1990年 - 1992年)、西武(1992年)が撤退して以降、三軍という区分けを公式に用いたチームとしては、1996年に設立されて以降2010年まで唯一だった。ただしカープの三軍は、若手選手の基礎体力の育成を中心とした1992年までの巨人や西武と異なり、2013年までは故障者のリハビリが専門で、2014年以降はそれに成績不振選手の強化部門が加わったもの[117]。後から設置された他球団の三軍[注 20]と異なり、三軍単体での試合(社会人野球や独立リーグチームが相手)は基本的に行なっていない[119]。
- 2012年6月21日にテレビ朝日系『アメトーーク!』で「広島カープ芸人」が放送され[120]、深夜枠ながら高視聴率を記録し大きな反響を呼んだ[121]。以降マスメディアで取り上げられる機会が増えて、カープの特集本が多数刊行された[122]。
- 広島に所属した日本人選手がメジャーリーグへ移籍してプレーしたのは高橋建・黒田博樹・前田健太の3名である(2016年終了時点)。
チームの戦いぶり
- 2015年シーズン終了時点では1984年に挙げた75勝が球団史上シーズン最多勝記録であり、消滅した近鉄(2001年の78勝が最多)と共にシーズン80勝に到達したことがなく、これは現存する12球団では唯一であったが、2016年9月1日の対DeNA戦で76勝目を挙げ、32年ぶりに球団史上シーズン最多勝記録を更新。そして、2016年9月7日の対中日戦に勝利したことで球団初の80勝に到達したため、この未到達記録に終止符を打った。結果的に当シーズンは従来の最多勝記録を大幅に更新する89勝を挙げ、勝率でもそれまでの最高記録だった1984年の.625を上回る.631となったため、チームの最高勝率記録も更新した[123]。また、2017年には88勝52敗4引き分けと前年度より勝利数は落としたものの、勝率では、.633を記録し球団最高勝率を更新した。
- 球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。これは1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまで日本プロ野球ワースト記録であった。
- 2016年時点で最後の日本一は1984年であり、現存する12球団では最も遠ざかっている。
- 2016年に札幌ドームで北海道日本ハムファイターズと対戦するまでは日本シリーズでナイトゲームを行った経験がなく[注 21]、名称に「ドーム」と付く球場で日本シリーズを戦ったことがなかった[注 22]。
ユニフォームの変遷
- 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
- 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
- 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を南十字星がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。
- 1958年 - 1962年 当時のボストン・レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
- 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる。日本のプロ野球チームで自治体の名前を入れた唯一の例ともいわれた[124]。Hマークは現在の球団旗にも使われている。
- ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。
- 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズと同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
- 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。また、ズボンの縦ラインが紺・赤・紺のストライプから赤・紺・赤のストライプに変更。
- 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=赤が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。
- 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。当時のシンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
- 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。
- 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを花文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
- この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。
- 2009年 - 本拠地のマツダスタジアム移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子のCマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。
- ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。
- ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。
- 2013年公式戦よりヘルメットに、マツダが日本ペイントと共同開発した自動車塗装色「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別な赤色を採用[125]。これは3代目マツダ・アテンザの発表会を訪れた松田オーナーが展示車に使用されていた「ソウルレッドプレミアムメタリック」に興味を示し、居合わせたマツダ副社長から提案を受けて実現したもの。ちなみにヘルメットの色の配合などはマツダの車両担当が行っている[126]。
- 2017年 - 前年度セントラルリーグ優勝を記念し、左袖にチャンピオン・エンブレムが付けられる[127]。
スパイク
期間限定ユニフォーム
復刻ユニフォーム
- 2008年9月23日 - 25日の3日間の対巨人戦で、1977年 - 1988年のホーム用の復刻モデルを使用。背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年モデルを採用。ただしヘルメットは通常デザインのものを使用。
- 2010年8月に行われたセ・リーグ主催の「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では1989年 - 1995年のホーム用の復刻モデルを使用。
- 2011年8月23日 - 25日の対横浜戦と同月26日 - 28日の対巨人戦で、1977年 - 1988年のビジター用の復刻モデルを使用し、背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年のビジター用の復刻モデルを採用。2008年と異なりヘルメットも当時のものを復刻。
- 2012年8月 - 9月に行われたセ・リーグ主催の「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」では球団史上初のリーグ優勝を飾った1975年のビジター用の復刻モデルを使用[注 24]。
※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。
その他
- 2013年、「デニムデザインユニフォーム」を発表。ユニホーム上下及び帽子にデニム柄を採用。デニムのさわやかなブルーに、チームカラーである「赤」のステッチを施しアクセントにすることで、強さと勝利への執念を表現。8月23日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)で着用する[128]。背ネームはオミットされている。ヘルメットは通常デザインのものを使用。
- 2014年、「赤道直火ユニフォーム」を発表。全身を赤色のユニフォームとしたが、通常ビジター用と若干違う「モロッコの赤」をモチーフにしている[129] 。キャップの鍔やマーク、チームロゴ、アンダーシャツ、ベルト、ストッキングは黒。
- 2015年の「ピースナイター」(後述)試合限定で、監督、コーチ、選手全員が8月6日にちなんだ背番号「86」のユニホームを着用。セ・リーグ公式戦でチーム全員が統一した背番号のユニホームで戦うのは初めて。デザインは、胸に「Carp」ではなく「PEACE」(平和)、背中に個々の名前ではなく「HIROSHIMA」のロゴが入り、背番号・胸番号は監督、コーチ、選手全員が「86」。左袖のワッペンには原爆で犠牲になった29万2325人(昨年8月6日時点)の数字を、帽子の右側頭部には平和を象徴する「白いハト」のデザインをあしらった[130]。
- 2015年、8月25日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、赤と紺のチームカラーをメインに白のストライプ柄の「常昇魂ユニホーム」を着用することを発表。今季のキャッチフレーズ「常昇魂」をモチーフに、頂点へ上り詰めるイメージとした。赤と紺色のチームカラーに、「セ界の頂点へ昇る」という意味を込めたストライプが特徴。なお、広島のユニホームにストライプ柄が採用されるのは、2008年までのホーム用ユニホーム以来[131]。
- 赤地に白のストライプが入ったデザインで、アンダーシャツは紺色。
- 2016年、8月30日からのDeNA3連戦限定で、今季のデザインはキャッチフレーズ「真赤激」にかけて、赤地に緑色でチーム名が入り、左胸付近には唐辛子の刺しゅうが施されている「真赤激ユニフォーム」を着用[132]。
- 2017年3月18日の日本ハムとのオープン戦(マツダスタジアム)は黒田博樹の引退特別試合となり、この試合限定で「黒田博樹特別ユニホーム」が使用される。デザイン自体は黒田がカープに入団した1997年当時のものがベースで、文字に金色の縁取りが入り、左胸にはメモリアルマークが付けられる。試合ではカープナイン全員が黒田の背番号「15」を付けてプレーする[133]。なおこの試合の始球式を務めた黒田はユニフォームを着用せず、スーツでこれに臨んだ。
ユニフォームのスポンサー
- 球団の歴史、ユニフォームの変遷の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる[注 25]。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。(当初はマツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更されていたが、2015年以降はスローガンの「Be Driver」に固定されている)
- この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「トップス広島」のロゴマークを掲示するスペースがない(他競技のチームはロゴを掲出している)。
球団旗の変遷
- 1950年 - 1955年:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。
- 1956年 - 1957年:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。
- 1958年:紫地に白文字でCARP。Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。
- 1959年 - 1966年:白地と紫地を斜めで分け、前のデザインの鯉のイラストを大きなピンク色のCの文字で再現。
- 1967年 - :紺色地に白文字でH。
マスコット
球団マスコットは以下の2人。詳細はその項を参照。
球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された海と島の博覧会の公式マスコットのアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。
キーワード
ピースナイター
2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた[注 26]。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった[注 27]。
2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され[135]、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている[136]。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された[137]。
経営事情
カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた[20]。
しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している[138]。
1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。
1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。
現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており[139]、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。
経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている[140]。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した[141]。
ただしこの売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して[142]、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した[140]。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化[143]、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど[144]、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。
2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて[145]、2010年は1軍寮の建設(2億円)[146]、2012年はクリーニング工場の建設[147]、2014年は2軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)[148] 等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。
その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。
これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただしマツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8585万円となった。
このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。
スカウティングと育成
広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である[5][6][149][150]。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には[149]、広島を中心とした中国地方選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた[149]。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した[149]。1979年~1980年シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる[149]。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた根本陸夫が、その後チーム作りに関わった西武ライオンズや福岡ソフトバンクホークスでも同様のプロセスで球団の改革を行っている[151]。またホークスが1993年に導入された新ドラフト制度(逆指名制度)やFA制度をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある[151]。またオリックス・ブルーウェーブが1995年の阪神・淡路大震災という負の遺産を背景として、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる[152]。
FA宣言選手への対応
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島はFA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めず、また他球団のFA宣言選手の獲得も見送っていた。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。
そんな中、2006年オフにエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定成績の投手である黒田の流出はチームの死活問題となるので、今回ばかりは一転してFA残留を認める方針を掲げた(結局、黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフにロサンゼルス・ドジャーズにFA移籍した後、2015年より広島に復帰)。この一件を経た現在では、球団はFA残留を認めていないわけではない[153]。2007年オフに新井貴浩が、2008年オフに東出輝裕がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井はFA移籍で阪神へ移籍後2015年に広島に復帰、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留が認められた実例は未だに無く、中には2015年オフの木村昇吾のように、FA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため[153]、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)[154]。
他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し[155]、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得に参入していた。しかし、いずれも他球団へ入団したため(藤井は巨人、内川はソフトバンク)未だに獲得の実例はなく、2008年に東京ヤクルトスワローズと東北楽天ゴールデンイーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。
初の地方遠征
カープ初の地方遠征は1950年3月16日に福山三菱球場で行われた対中日一回戦だった。6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム・大洋対広島六回戦が現在三次市の十日市町営野球場で行われた。開催地はこの数日前に草競馬が催された河川敷。馬糞が所々落ちている雑草茂る原っぱである[156]。客席は三塁側が川の堤で傾斜面がスタンド。平坦な一塁側は馬車や荷車を並べて観客席を作った。座布団代わりに一束二十銭で麦の藁束を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。両軍ベンチは馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、消防団員が手押しポンプのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。スコアボードは小学校の黒板。一枚では数字が読みにくいと二枚並べた。外野柵は、所々に青竹を立てて荒縄一本を腰の高さに張り巡らせた。両翼のポールがないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いてぶっ立てた。この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回にはツーアウトから四球一つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中でスタメン全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング三本塁打を記録[156]。カープがこの試合で記録した28安打は、2016年終了時点でもセリーグ記録である。22得点は球団記録。この試合を現地で取材したプレスは、朝日新聞、共同通信社、読売新聞の三社のみで、野球担当になって間もない記者はスコアブックの記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打と取り決めた[156]。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である(#疑惑の本塁打)[156][157]。
8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
疑惑の本塁打
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた洋松ロビンス三回戦で[156]、4回広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した[8][158]。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた[156]。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった[8][156]。この日、第一試合は2–4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の荒川昇治が走者二人を置いて、大田垣喜夫の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその左翼ポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた[8][156][20]。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのジェスチャーをし、荒川が二塁を回るころ、改めてホームランのサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした[20]。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『週刊朝日』や『アサヒグラフ』も大きく取り上げた[156]。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった[8]。
尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、大竹市の自衛隊演習場で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた[156]。
幻の本塁打
2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・田中広輔の打球が左中間スタンドで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議で三塁打と判定。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。
試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送りNPBは誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島は当年の最終戦を69勝71敗3分の4位で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差でクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。
なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。
沖縄県出身初のプロ野球選手
1964年入団の安仁屋宗八は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
「カープを優勝させる会」
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した[159]。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった[160]。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。
日本シリーズMVPの自動車
カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:阪急 1986年, 1991年:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。
なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。
日本球界初のアカデミー
MLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
背番号0の男
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった[注 28]。
クモ男
1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現[4]。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。
約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者で、この日の中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件について「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが、読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。
この男は2001年頃のテレビ番組『あの人は今!?』で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ、最初にこの事件を挙げた。後に、この男と居酒屋で飲んでいたことも語った。
2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5メートルほど登って観客に手を振ったあと、球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[161][162]。
ベースボールドッグ
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた[4]。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(プロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[注 29] ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。
応援方法の先駆者
広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている[163][164][165]。豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている[166]。ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている[167]。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている[168]。
- トランペット応援・選手別応援歌
- 鳴り物などを使用した騒がしい応援スタイルは、一高三高定期戦など、戦前から学生野球やアマチュア野球ではあった[169]。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られたが[注 30]、戦後は手拍子や声援(野次)を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援は比較的騒がしくはなかった[169]。1950年代にテレビ放送が始まると都市対抗野球が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ[163][165][170][注 31]。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称"コージコール")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている[164][167]。最初は声を合わせて「コージ」を繰り返すだけのものだったが、やがてトランペットのマーチに乗って、「かっとばせ! コージ」に変わり、トランペットは他の選手たち、そして他チームへも広がっていった[167]。1979年には「花咲かじいさん」のテーマがコンバットマーチとともにトランペット応援で使用されるようになった。その内に、個々人のマーチに歌詞がつき、応援団だけでなく、球場に詰め掛けたファンが声をそろえて、声援を送るようになる[167]。プロ野球の応援に鳴り物が使われるようになったのは"コージコール"からで、この応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した[169]。
- ジェット風船
- 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、甲子園球場でジェット風船を飛ばしたのが起源という説[163][164][165][173][174] と1984年、甲子園を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、大阪・松屋町の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある[167]。以後広島だけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。
- 広島ファンの飛ばすジェット風船の色について、以前は統一せず、カラフルであった。後に基本は赤一色となり、鯉のマークが入っている。なお7回だけでなく、勝利時にも飛ばす(勝利時も同じく赤一色)。
- スクワット応援
- 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった[163][164][175][176]。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった[164]。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められることもあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(『ズームイン!!朝!』の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
- 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(『伊集院光 深夜の馬鹿力』豆知識予備校より)。
- 選手の応援歌を全く知らない人でも気軽に応援に参加することが可能で、新規ファンが増えやすい要因となっている。
- しゃもじ応援
- メガホン応援
多様なカープグッズと記念Tシャツ
数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだグッズを生み出し続けているのはカープであると言われている[13][140][178][179][180]。かつては「文鎮にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが[178]、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時のマーティ・ブラウン監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には山崎浩司内野手が対戦相手を隠し球でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した[181][182]。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している[140][179][183]。
この他にも、ブライアン・バリントン愛用の爪磨きや、キラ・カアイフエなどの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、iPhoneケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い[184]。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラホームランを打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている[185]。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、九里亜蓮や大瀬良大地の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、堂林翔太の今季初ホームランによるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した[186]。
球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである[187]。球団によってはグッズを売ってもロイヤルティーしか入らないところもあるが[188]、カープは製作から販売まで自前[188]。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し[188]、十数年で15倍に伸ばした[189]。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した[189]。
広島県内におけるカープの影響
「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど[190] 広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される。
- ローソン
- カープ電車
- 広島電鉄およびJR西日本が、カープのロゴやカープ坊や、スライリーなどを利用したラッピング電車を運行している。広島電鉄のカープ電車[193] は、選手による車内アナウンスや、ファンによるメッセージが車内に掲示されている。
- なお、カープ電車ではないが2015年にJR西日本が広島地区に導入した「227系」は赤を基調としたデザインであり、この色について公式プレスには厳島神社の大鳥居、広島県木のもみじと並んで「広島東洋カープをイメージした」との記載がある[194]。ちなみにJR西日本の近郊型電車車両(225系や521系)にはデザインにJR西日本のコーポレートカラーである青のラインが入っているが227系には入っていない。また、2016年のリーグ優勝時には227系の種別表示機にカープ坊やを表示させて運用している[195][196]。
- 教育・労働現場
広島県外のカープファンの増加
広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが、特に北海道にある北広島市は広島県人が開拓した街であるので、その流れでカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である日本ハムを応援する人も増えている)[198]。他にも、広島とは縁はなくとも周りのカープファンに影響されカープファンとなった久米宏[199] などの例もある。
1993年に球界はフリーエージェント、ドラフトでの逆指名の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成してクライマックスシリーズに初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した[200]。
カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという[201]。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ[201]、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた[201]。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、東京ドームでの巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの神宮球場でのヤクルト戦を中心に[202]、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった[140][203]。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている[204]。
2013年、阪神とのクライマックスシリーズにおいては甲子園球場のレフトスタンドから三塁塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った[205]。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため[202]、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる[206][207]。
このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している。
カープ女子
2013年、特に首都圏でのカープファンの急増と共にマスメディアに取り上げられたのが「カープ女子」である[208][209]。ネーミングの発祥は不明であるが、2014年にもチームが開幕から好調なこともあって、さらにメディアへの露出を増やし[210]、2014年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた[211]。
カープに女性ファンが増えていることは2011年頃から一部のメディアには取り上げられており、その頃は「カープガール」と呼ばれていた[207][212]。その後2013年9月30日のNHK『ニュースウオッチ9』内で放送された「なぜ首都圏で急増? カープファン」という特集の中で「カープ女子」という言葉が使われ、一気にそのネーミングが拡散し、CSに進出が決まった頃は「カープ女子」という単語はすっかり一般化したといわれる[202][208][209][213]。2013年から2016年度の4年間の推移では、広島カープを応援する人の割合が、カープ女子が話題となった影響などで、プロ野球チームの中で唯一増加しているといわれる[214]。女性ファンを取り込むという戦略は他球団、他スポーツにも波及している[207][209][215]。
2014年5月10日、カープ球団が首都圏を中心に増え続ける女性ファン向けに「新幹線でマツダスタジアムへGO!『関東カープ女子 野球観戦ツアー』」を開催し大きなニュースになった[210][216][217]。女性スタッフの発案を松田元オーナーらが採用して、西日本旅客鉄道(JR西日本)、資生堂などが企画に賛同したことで実現した[218]。関東在住の女性を対象に、球団が東京 - 広島の往復の新幹線代約500万円を負担するという太っ腹ツアーで、募集人員148人に対し2305人の応募があり、倍率は15倍超という脅威的な競争率だった[217][219]。この日の試合はカープが中日ドラゴンズ相手に13対5で圧勝し、勝利投手となったエース前田健太がヒーローインタビューで「関東から新幹線でカープ女子の方が来てくれたということで、勝てて良かったです。応援ありがとうございました」と感謝の言葉を述べた[220]。このツアーの模様は後日、日本テレビ『NEWS ZERO』で特集が組まれて全国放送された(後述)。
2014年は全国で増加するカープファンやカープ女子に注目するテレビ番組が相次いでいる。2014年5月7日のテレビ朝日の『マツコ&有吉の怒り新党』では、収録スタジオがあらゆるカープグッズで埋め尽くされた上、番組内でさまざまなグッズと選手が紹介された[221]。翌5月8日の日本テレビの『ZIP!』では、快進撃を続けるカープの「ユニークな客席が魅力のマツダスタジアム」「次々と生まれるユニークなグッズ」「超体育会系の応援スタイル」「強さ」が特集された。5月13日にも同局の『NEWS ZERO』で、増え続けるカープ女子に関する特集が組まれた(先述)。さらにその翌日の5月14日、同じく同局の『ZIP!』の料理コーナーである「MOCO'Sキッチン」にて、野村謙二郎監督がこの番組のファンであることが紹介された。5月22日にはフジテレビの『めざましテレビ』の「ココ調」でカープファンの特集が組まれ、「広島県外のカープファンの増加」「可愛いグッズ」「記念Tシャツ」「若い生え抜き選手」「分かりやすく楽しい応援」などが紹介された。特に読売新聞のグループで巨人のお膝元である日本テレビが情報番組で連日広島東洋カープに関するニュースを放送するのは極めて異例であった。
なお、このようにカープ女子がブームになっているものの、その一方でカープにはNPB12球団で唯一、公式の女性チアリーディングチームが存在していない。似た組織としては、一般人3名で構成されたホームランガールが存在しており、ホームランを打った広島の選手に「ホームラン人形」を贈呈している。また、5回裏の応援「CCダンス」の際には、ビールの売り子がタンクを脇においてスタンド通路でパフォーマンスする。
カープ本
カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された[222][223][224]。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『球場ラヴァーズ』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて隙間産業では、と笑われた」と作者の石田敦子は話している[211]。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た[224]。"カープ本"という言葉も定着し、広島県立図書館では時折、カープ本特集の展示がある[225]。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田勇人が内閣総理大臣に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)1冊のみといわれる[226]。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』(古葉竹識著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。
主な歴代の球団歌・応援歌
- 「カープの歌」(歌・RCC合唱団)
- 「勝て勝てカープ」(歌・塩見大治郎) - 初代球団歌「広島カープの歌」より改題。
- 「それ行けカープ 〜若き鯉たち〜」(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND) - 現球団歌。
- 「燃える赤ヘル僕らのカープ」(歌・事崎正司=現・加納ひろし)ホームでビジターチーム先発ピッチャー交代時や9回裏に流れる(ビジターチームにリードされているゲーム)。
- 「勝鯉の女神」(歌・セレナ)球団公認
- 「宮島さん」(歌・加納ひろし)
- 「痛快! 赤ヘル音頭」(歌・柏村武昭)
- 「ゴーゴーカープ」(歌・富永一朗)
- 「Red 〜僕らの広島カープ〜」(歌・石田匠)
- 「わしを市民球場に連れてって。」(歌・堂珍嘉邦〈CHEMISTRY〉)
- 「勝利を我らに!〜Let's win!〜」(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
- 「カープロード」(歌・矢野昌大) 球団公認
宮島さん
得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」[注 32] と歌われる通称「宮島さん」は[18][227] [228][229]、1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、この時代に宮島の対岸である当時の地御前村(現在の廿日市市地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖[230]。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれる[230]。広島ではその後、広島高等師範学校や[18]、広島商業の応援歌に取り入れられ、広島商業など広島代表が甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじを「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが、1988年夏の甲子園での広島商業6度目の全国制覇にあやかり、1989年からカープの応援歌として取り入れられた[231]。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の加納ひろしのアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている。
主なキャンプ地
チームスローガン
- 1953年 闘志なき者は去れ
- 1973年 スピードとスリルある野球
- 1974年 HOTTER BASEBALL!
- 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
- 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
- 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
- 1978年 ALL MEN DASH!
- 1979年 LET'S SPARK!
- 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
- 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
- 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
- 1983年 START FROM ZERO
- 1984年 BLAZING BASEBALL
- 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
- 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
- 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
- 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
- 1989年 WINNING SMILE
- 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
- 1991年 WILL TO VICTORY
- 1992年 VALUE OF VICTORY
- 1993年 RED CHARGE
- 1994年 TOTAL BASEBALL
- 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
- 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
- 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
- 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
- 1999年 YES, WE CAN
- 2000年 START FROM ZERO ZERO
- 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
- 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
- 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
- 2004年 WILL TO VICTORY
- 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」
- 2006年・2007年 ALL-IN
- 2008年 ALL-IN激
- 2009年 ALL-IN烈
- 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ
- 2011年 STRIKIN'BACK 逆襲
- 2012年 GROUND BREAKERS 破天荒
- 2013年 RALLYING TO ATTACK!剣砥挑来
- 2014年 赤道直火 RED ALL THE WAY 赤く、熱く、真直ぐに
- 2015年 常昇魂 RED RISING
- 2016年 真赤激! Burn it up!
- 2017年 カ舞吼!−Kabuku−
- 2018年 ℃℃℃ ドドドォー
放送
試合中継
- テレビ
- NHKプロ野球(NHK広島放送局制作)
- カープナイター/カープデーゲーム中継(RCCテレビ)
- Fun!BASEBALL!!(広島テレビ)
- カープ応援中継 "勝ちグセ。"(広島ホームテレビ)
- TSS全力応援!Carp中継(テレビ新広島)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS)
- ラジオ
応援番組
- テレビ
- E TOWN・SPORTS(RCCテレビ)
- 進め!スポーツ元気丸(広島テレビ)
- ひろしま深掘りライブ フロントドア(広島ホームテレビ)
- 全力応援 スポーツLOVERS(テレビ新広島)
- ラジオ
- それ聴け!Veryカープ!(RCCラジオ)
- MONDAY CARP STUDIO "M"(広島エフエム放送)
取り扱う雑誌
- 広島アスリートマガジン - 選手が表紙に起用されている月刊誌、株式会社サンフィールド
脚注
注釈
- ↑ 球団設立の際に終戦からの復興という名目で公的資金が投入された。自治体がプロスポーツという私企業に資本援助を行った例はカープ設立以外に他になかったが、1996年Jリーグのアルビレックス新潟が設立される際に、同様に自治体が資本金援助を行った[1]。
- ↑ 終戦直後、プロ野球を地方で行う場合、連絡先を務めた団体に「木曜会」というものがあり、これは共同通信社に本部を置く主な地方新聞社が集まり結成したもので、地方試合は、その土地の有力新聞社に興行の全てを一任した。これはヤクザ関係興行団体の入る隙を与えないようにすることが狙いで、プロ野球が戦後、比較的健全な発達を遂げた理由の一つともいわれる。河口は「木曜会」の幹事で、カープ誕生以前の広島でのプロ野球開催は「木曜会」主催によるもの。広島大学設立資金の一部もここから拠出された[17][18][23]。
- ↑ 発起人代表。
- ↑ 当初はパ・リーグに加盟申請したが、2リーグ分裂の混乱と、当時パ・リーグの中心であった毎日が阪神のパ・リーグ加盟に注力していた(プロ野球再編問題 (1949年)参照)ことで、広島の加盟申請は放置されてしまった。そのためセ・リーグに加盟申請したところ、すぐに受理されたものであった[25]。
- ↑ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという[30]。
- ↑ 後に二軍選手達は労働基準監督署に訴えたが、「プロ野球選手は労働者に該当せず」と受け入れてもらえなかった。球団からは音沙汰なく、彼らはそのまま解雇となった[34]。
- ↑ 具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
- ↑ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288(34勝84敗2分)。規定通りロビンスは、旧・大洋ホエールズとの合併を余儀なくされた[42]。セリーグのお荷物カープを意識して作った規定がほかの球団に適用された[17]。
- ↑ 白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた大和田明を獲得している。
- ↑ 現在の日本記録は1978年から1997年にかけて南海ホークス→福岡ダイエーホークスが記録した19年連続。
- ↑ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
- ↑ この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。
- ↑ 2001年は勝率ではなく勝利数で順位を決定していた。
- ↑ 8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウンが母親の葬儀に参列するため一時帰国し、ジェフ・リブジー監督代行の3試合目、退場後は小早川毅彦コーチが監督代行代理に。
- ↑ プロ野球記録は1953年に大映スターズが記録した59イニング。
- ↑ スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。
- ↑ ユニフォームを赤に代えようとしたが、経費の都合でヘルメットと帽子のみになった。「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より。
- ↑ 純粋な外様は監督では日本人では別当薫が、外国人を含めるとジョー・ルーツが最後。コーチ・二軍監督では芦沢真矢・中利夫(登志雄)・伊勢孝夫・片岡新之介らが在籍した。
- ↑ パ・リーグ初の公式戦は、2000年5月20日・21日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ。
- ↑ 福岡ソフトバンクホークス(2011年 - )、読売ジャイアンツ(2016年 - )[118]。
- ↑ 日本シリーズのナイター開催は、東京オリンピックとの兼ね合いで例外として開催された1964年を除き、1994年から導入。2016年に出場する以前は、最初の出場が1975年で最後の出場が1991年であり、全試合がデーゲーム開催であった。
- ↑ 2016年以前の対戦相手は、阪急、近鉄、西武であるが、対戦当時の本拠地はいずれもオープン球場であった
- ↑ 現に中畑清(当時・日本テレビ野球解説者)が日本テレビの特番『刑務所24時』の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
- ↑ 当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。
- ↑ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
- ↑ 旧市民球場が開業した1957年と1958年には同球場での広島主管試合が開催された例。
- ↑ 京セラドーム大阪で対阪神戦を開催している[134]。
- ↑ 北海道日本ハムファイターズでは2006年以降使用休止となり、2009年から永久欠番になった。"「野球の背番号#00 - 09、0番」"
- ↑ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
- ↑ 大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
- ↑ トランペット応援の発祥がカープにあるという指摘は『プロ野球ヤジ講座』(おかひろみ編・自由国民社)[171]、『巨人がプロ野球をダメにした』(海老沢泰久著・講談社)[172] にも記述されている。
- ↑ 試合途中で結果が出ていないときは「…今日のカープは…」と歌われることもある。
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関連項目
- トップス広島 - P3 HIROSHIMA
- 中国新聞社
- 球場ラヴァーズ - 広島ファンが主人公の広島にまつわる物語の漫画。
- 広島東洋カープの応援団
- 同族経営
外部リンク
- [{{#property:P856}} 公式ウェブサイト]