久米宏
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久米 宏(くめ ひろし、1944年7月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ、ニュースキャスター。TBSアナウンサー12期生[1][2]。
埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身。オフィス・トゥー・ワン所属。血液型はA型。ドイツ親善大使も務める。
Contents
略歴
生い立ち
- 1944年7月14日 - 両親が疎開していた埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)で5人兄弟(姉4人)の末っ子として誕生。父は国鉄と東芝のエンジニアで留守がちだったため、姉のスカートを縫い直した半ズボンをはいて「女の館に育った」と語っている。幼少時から女性の性を知っていた環境が、久米の感性に影響を与えたことは間違いないという[3]。戦時中は埼玉県児玉郡に疎開。戦後、東京都品川区北品川で幼少時代を過ごす。品川区立城南第二小学校では政治家の丹羽雄哉と同級生だった。
- 1960年 - 武蔵工業大学付属中学校(現:東京都市大学付属中学校)卒業。
- 1963年 - 東京都立大学附属高等学校卒業。高校在学中はアルバイトと勉強に明け暮れる。早稲田大学政治経済学部経済学科入学。一学年下に吉永小百合がいる。
TBSアナウンサーとして
- 1967年4月 - 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、TBSにアナウンサー12期生として入社、同期アナウンサーには青木靖雄、石森勝之、小口勝彦、河野通太郎、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規[4][5]。他職では若林貴世志(現:TBSHD取締役相談役)がいる。アナウンサーの1年先輩には川戸恵子がいる。アナウンサーの1年後輩の小島一慶は同学年の同僚。アナウンサーを志した動機は、自身曰く「学生時代、演劇活動に明け暮れ、成績が悪く、一流企業の推薦が取れなかったから」である。当時の部の仲間に長塚京三や田中真紀子がいる。当時、マスコミ、アナウンサーの就職倍率は高騰しており、「記念受験」程度の志で受かるものではなかった。入社直後、激務と極度のあがり症から体調を崩し、結核を患った。
- 1967年11月15日 - アナウンサー研修室設置に伴いアナウンサー研修室付兼ラジオ局第一制作部勤務となる[6]。
- 1969年 - 麗子と結婚。子供はなし[7]。
- 1970年4月 - 『パックインミュージック』金曜パーソナリティに抜擢されるが、病気により、5週で降板[8]。
- 1970年5月 - この月からスタートした『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』の中継リポーターを務める。
- 1975年10月 - 『料理天国』レギュラー( - 1980年)、『ぴったし カン・カン』司会として、全国的な人気を得る( - 1984年5月)[1]。
- 1978年1月 - 『ザ・ベストテン』司会( - 1985年4月)[1]。
- 同年4月 - 『土曜ワイドラジオTOKYO』パーソナリティ( - 1985年3月)[1]。
- 1979年6月 - TBSを退社[1][2]。
TBSからフリーに
- 1980年4月 - 『おしゃれ』司会( - 1987年3月、日本テレビ)。以降、民放各テレビ局を中心に活躍する。
- 1981年8月16日 - 当時29歳の愛人女性が久米に妻との離婚を迫り、睡眠薬を飲んで手首を切る事件を起こす[9]。このため久米は非難の矢面に立たされ、三週間にわたり番組出演を謹慎[9]。
- 1982年 - 『久米宏のTVスクランブル』(1982年 - 1985年、日本テレビ)司会。
- 1983年 - 『がん戦争シリーズ』(1983年 - 、テレビ朝日)司会。
- 1983年12月 - 『土曜ワイドラジオTOKYO』パーソナリティでゴールデンマイク賞を受賞[10]。
ニュースキャスターとして
- 1985年10月7日 - テレビ朝日の夜の大型ニュースショー番組『ニュースステーション』がスタート。メインキャスターを務める。フランクな司会ぶりは民放の報道番組に変革をもたらし、賛否両論を呼んだ。この間、引き続き『がん戦争シリーズ』など単発番組の司会は務めた他は、ほぼ『ニュースステーション』に専念。『おしゃれ』の終了と同時に、完全にこの番組一本となった。
- 1989年10月10日 - 『ニュースステーション』の企画「ジャイアンツエイド'89」での公約を守り、プロ野球読売ジャイアンツ優勝を受けて丸坊主になる。さらに11月3日、1989年の日本シリーズを制した時の公約に従い、他局である日本テレビの夕方に放送されていた徳光和夫メインキャスターのニュース番組『NNNニュースプラス1』に出演し『読売ジャイアンツ、バンザイ!』と叫んだ。この一件は翌日の朝のワイドショーでも話題として採り上げられた。さらに、当時リクルート事件などで頻用されていた「ケジメ」という言葉が、この一連の出来事を伝える際にも使われるようになり、その結果、1989年版の現代用語の基礎知識流行語部門で「ケジメ」という言葉が銀賞を獲得した時、その言葉の代表例として、久米の名前が表記された。
- 1990年代前半 - 正確な時期は不明なものの、この頃に左頬の鼻と口のあいだ付近にあったほくろを切除している。これは当時の映像ではっきりとなくなっているのを確認することができる。
- 1990年 - 日本女性放送者懇談会20周年特別賞を受賞する[11]。
- 1990年4月 - TBSラジオの特別番組『大沢悠里のそれ行け!ラジオ天国』に出演。パーソナリティの大沢悠里、永六輔とラジオをテーマに鼎談を行う。
- 1990年5月 - ニュースステーションのキャスターとしての業績に対し、第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[12]。
- 1994年9月24日 - ほぼ5年ぶりの日本テレビ出演となった『スーパースペシャル'94・久米宏の道徳の時間』の司会を務める(視聴率25.3%)。なお、この道徳の時間はその後、1995年6月に第2弾、1996年2月に第3弾が放送された。視聴率の伸び悩みや日本テレビ側からの第4弾出演依頼を固辞したことなどにより、第3弾で、打ち切りになった。
- 1995年2月- TBSラジオの戦後50年特別番組『久米宏のトーク スクランブル』で10年ぶりにパーソナリティを務める。アシスタントには『ニュースステーション』共演者の小宮悦子を迎え、5時間の生放送を行った。
- 1996年10月 - 『ニュースステーション』でのインドのルポの中で、インド人がよどみない日本語で話をする映像を見て、「しかし、外人の日本語は片言の方がいいよね」と発言、直後から有道出人の猛烈な抗議を受ける。ただし大きな問題として表面化はせず。トニー・ラズロが代表を務める、一緒企画からも回答願を出されている。2006年12月1日になって、久米本人から有道に対し、当発言に対する謝罪のメールがあった[13]。
- 1999年2月1日 - 『ニュースステーション』のダイオキシン問題に関する特集で埼玉県所沢市の葉物(実際には煎茶)から多く検出されたと伝えた。これにより、埼玉県所沢市産のホウレンソウなど野菜の価格が風評被害により暴落[14]。その後、2004年6月16日にテレビ朝日が農家側に謝罪。1000万円で和解した。
- 同年10月6日 - 気力、体力の問題により『ニュースステーション』を降板。自身のウェブサイト、著書ではこの期間を「無職」としている。テレビ朝日は「休暇」としていた。
- 2000年1月4日 - 『ニュースステーション』に復帰。ヒゲ姿で登場した。写真入りで「久米ヒゲ復帰」などの見出しが新聞各紙を飾った。番組はリニューアルされ、ロゴがカタカナ表記から英字表記(『NEWS STATION』)に改められる。
- 2004年3月26日 - 『ニュースステーション』の放送最終日。エンディングでは、「今まで頑張った自分へのご褒美」と称してビールを飲みながら「本当にお別れです。さようなら!」と手を振り60歳を目前にして、18年半のメインキャスター生活のピリオドを打った。番組の終了の際、他局でも「ニュースステーション終了」が取り上げられたり、裏番組『筑紫哲也 NEWS23』の筑紫哲也が番組内でコメントするなど、反響が大きかった。『ニュースステーション』終了後はテレビ朝日へは直接の出演を一切行っていない。
『ニュースステーション』終了以降
- 同年9月20日 - 半年間の休養後、ニッポン放送 1日ジャック『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』で復帰。
- 2005年4月13日 - フジテレビ『トリビアの泉』にて、久米の応募したトリビアが採用される。「目標は、1人15へぇ出してくれるとして、トータル75へぇはいきたい」と宣言したが、結果は30へぇに留まった。なお「銀の脳」を獲得している。トリビアの内容は「ルイ・ヴィトンではロゴ入りの箸を作ったことがある」だった。なお、このトリビアは2度目の投稿であり、採用されたトリビアでは「“元”ニュースステーション キャスター」だった。なお、最初に投稿した時の肩書きは「ニュースステーション キャスター」だったが、採用される日を待っているうちに『ニュースステーション』が終了した。
- 同年4月17日 - 日本テレビの日曜20時枠で、1年ぶりのテレビ復帰となるレギュラー番組『A』が鳴り物入りでスタートするものの、低視聴率に伴い、6月19日、1クール(実際には2ヶ月)で打ち切りとなった。
- 同年9月11日 - TBSで放送の第44回衆議院議員総選挙の選挙特別番組『乱!総選挙2005』で、スペシャル アンカーとして参加し、『筑紫哲也 NEWS23』の筑紫哲也と、1991年のプロ野球日本シリーズにゲスト出演して以来、14年ぶりの共演となった。視聴率は関東で15.6%、関西で18.2%と民放トップとなった。
- 同年12月 - USENの動画配信サイト「GyaO」で、レギュラー番組『久米宏のCAR TOUCH!!』がスタート。久米本人が長年やりたかった番組とのことで、企画、構成、司会の3役をこなしている。
- 2006年6月 - 自らドイツへ行って、サッカーワールドカップの取材を行う。この模様は自身のウェブサイトから見ることができる。
- 同年8月、21年振りに、TBSの番組に復帰する事を発表。10月開始のラジオ番組『久米宏 ラジオなんですけど』でパーソナリティを務める。同じ時間帯に、久米がTBSに入社した年と同じ1967年に、文化放送に入社した、みのもんたの番組があり、ニッポン放送が、小倉智昭をパーソナリティに起用。三つ巴の戦いとなった。番組開始後、初の聴取率調査(2006年10月)では、同時間帯トップとなった。
- 2007年5月 - 『久米宏 ラジオなんですけど』の功績が認められ、第44回ギャラクシー賞のDJパーソナリティ賞を受賞する。
- 同年12月10日、17日にフジテレビ系列ドラマ『ガリレオ』に、自身29年ぶりのドラマ出演を果たした。フジの鈴木吉弘プロデューサーによると、久米の起用は福山雅治に相談している中で生まれたという。木島(久米)は湯川(福山)が尊敬し、天才と認める数少ない学者。鈴木が「誰がいいかな」と尋ねると、福山はしばし考えた後、「久米さん」と答えた。「予想外の名前でしたが、久米さんの理知的でスマート、かつユーモアのセンスあふれるところなどが木島のイメージにぴったり」と答え、出演交渉に入った。久米は当初は「無謀」と思ったというが、「断ち切れない好奇心のため」結果的に出演を受けたと説明した。
- 2008年6月1日 - 『久米宏・経済スペシャル “新ニッポン人”現わる!』(テレビ東京)に出演。これにより、民放全局制覇を果たした[15]。なお、VTR出演としては前出の「久米宏と1日まるごと有楽町放送局」が放送された週の「ワールドビジネスサテライト」で特集した企業のVTRで映っていた。
- 2008年10月22日 - 『久米宏のテレビってヤツは!?』放送開始。
- 2009年4月15日 - 『クメピポ! 絶対あいたい1001人』放送開始。
- 2011年3月18日 - 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生により創設された朝日新聞社と朝日新聞厚生文化事業団による「東日本大震災救援募金」に、個人名義で2億円を寄付した[16]。
- 2013年12月25日 - 「テレフォンショッキング」(森田一義アワー 笑っていいとも!)に生出演。『笑っていいとも!』に初出演で、タモリと34年ぶりの再会を果たす。
人物
- 身長は『ニュースステーション』等で長らく、「私の身長は180cmです」と公言してきたが、後に縮んで、178cmになったことを明かしている。
- 自動車愛好家であり[17]、動画配信番組『久米宏のCAR TOUCH!!』も作った[18]。
- 現在はテレビからは距離を置いており、テレビ出演に消極的な発言をしている。
- 久米が入社した年のアナウンサー最終試験は試験官の前に、1台の赤電話が置かれ「赤電話を題材にして、自由にしゃべって下さい」という課題だった。他の志望者は「さぁ、いま私の目の前に赤電話が置かれております」「ここから一体、どの様な人間ドラマが始まるのでしょうか?」という実況型だったが、久米は赤電話を前に暫し、黙考。10円玉を取り出し、その場で、実家に電話をかけた。電話に出た母親と「もしもし母さん? 今、TBSで入社試験を受けているんだけど……」と普通に会話をし、そのまま終了した。みのもんた(久米と同い年)は、同年の試験に落ちて文化放送に入った[19]。
- 久米はあがり症で胃腸も弱く、病弱だったため、入社当初はアナウンサーとしての活動ができず、電話番の仕事が中心だった。病気が回復した1970年4月、「パックインミュージック」のパーソナリティーとして出演する事が決まった。本人は深夜から早朝の番組に、当初は消極的だったが、その後、出演を許諾。放送開始直後に行われた、TBSの社員健康診断で、医者から「結核を患っている」事を告げられ、番組を休養(事実上降板)。5回で降板した。その後を、林美雄が引き継がれた[8]。
- 1991年2月18日放送のテレビ朝日『徹子の部屋』放送開始15周年記念公開録画(会場:有楽町朝日ホール)で出演にした折にて、前述の対人恐怖症(あがり症)を告白した。この中で、「(観客ならば)3人ぐらいが限界」「スタジオの中は静かで、(出来ればカメラマンも)誰もいない状態が一番好きなんです」と答えていた。また、このとき黒柳は、『ザ・ベストテンin長崎』(1983年11月10日放送、300回記念公開放送)にて、このときニューヨークに滞在していた黒柳がこの公開放送のために国際電話で呼びかけた際、大勢の観客が観覧する長崎市の会場が土砂降りとなって大混乱したのも重なり、頭の中が錯乱状態になり、黒柳との会話も粗暴になってしまったと回顧している。ちなみに、この回は久米単独での司会であった。
- 『ニュースステーション』は今日のニュース番組としては珍しく、一切プロンプターを使用せず、原稿を机の上に置いて読み上げる方式を終始一貫して行った。久米は自著で「視聴者の側を向いた、ニュースショー番組にしたかったから」と記している。番組の衣装選びは、妻であるスタイリストの麗子が担当した[20][21]。1987年にはベストドレッサー賞(スポーツ・芸能部門)、2004年には日本メガネベストドレッサー賞(文化界部門)を受賞もした。
- 『ニュースステーション』担当時の夏季休暇(夏休み)は最大で3週間取っていた。
- その休暇中に、重大ニュースが起こる事があった。アメリカ同時多発テロ事件も、久米の夏休み中に起こり、サブキャスターの渡辺真理が第一報を取り上げた。久米はその2日後に夏休みを切り上げて、復帰している。
- 休暇中は人間ドックを受けた後、『ニュースステーション』を放送していない山陰地方の温泉を旅行する事が度々あったが、とりわけ『ニュースステーション』の視聴率が高かった近畿地方からの旅行者が多く、「番組を見られていないところに行ったはずなのに、『ニュースステーション観てます』と声をかけられて困った」と語っている。また、同じく放送がなかった宮崎県では、休暇中にゴルフを楽しんでいたところ、他のプレー客から「あなた最近テレビで見ないけど、仕事ないの?」と言われ、苦笑いした経験があるとも語っている。
- 「僕は、社会党が政権を取ったら、アンチ社会党になりますから。これは間違いないです。共産党が政権取れば、アンチ共産党です。だいたいマスコミが政権と同じ所に立ったらめちゃくちゃですから、その国は。なぜ反自民かというと、政権を取っているからです。それ以外には、理由はないですね」[22]と語っているように、自身のスタンスは「反自民」ではなく「反政権与党」である旨を表明している。『ニュースステーション』キャスター当時、現政権を徹底的に糾弾するスタンスを曲げることはなかった。
- 『ニュースステーション』での発言が賛否両論になったことに関しては「僕は思いつきの失言はしないんですよ。失言は予定通りです」とし、失言によって問題が起きることは「想定内」であったと「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ系)で述べているが、直後に田中裕二に「まさかここまで(大ごとになるとは)ってのはあったでしょ?」聞かれた際には、一例として前述の所沢ダイオキシン問題を挙げている[23]。
- NHKのことを嫌いと話し、『NHK紅白歌合戦』の司会を打診されたとしても断るとしている[24]。長らくNHKへの出演歴自体もなかったが、2016年11月23日放送のNHK BSプレミアム『結成50周年!コント55号 笑いの祭典』にゲスト出演、同局初出演を果たす[25]。
- 吉本隆明は、ニュースキャスターの筑紫や久米は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している[26]。
スポーツ
- 広島東洋カープのファン[27]。広島カープファンになった切っ掛けは、TBS入社同期の林美雄がカープの魅力を熱心に話すので影響されたと話している[28]。「林君も筑紫哲也さんも「反中央」「反権力」という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている[28]。1989年に広島が優勝を逃して、巨人が優勝した際、ライバル局・日本テレビの『NNNニュースプラス1』に坊主頭で生出演し、巨人ファンの徳光和夫に半ば強制的に「巨人軍優勝、ばんざーい!」と言わされた[29][30]。
- 福岡ソフトバンクホークスのファンで、2000年、福岡ダイエーホークスの始球式に出た事がある。その時の背番号は「9:54」。これは、当時のフライングスタートを開始した『ニュースステーション』の開始時刻「9時54分」にちなんでいる。なお、始球式に至る練習風景や当日の様子は『ニュースステーション』で「久米さん、始球式ですよ!」として放送(当時のテレビ朝日のキャッチコピー「○○さん、テレビ朝日ですよ!」のパロディ)。
- 2020年の東京オリンピック開催に、石原都知事が立候補表明した時点から反対し続けている(2017年6月時点も)[31]。「東京でやることの理由がわからない」などの思いから[32]。
対人関係
- 明るい性格で、外国人と、すぐに打ち解けられる人物である。
- 『土曜ワイドラジオTOKYO』は前身『永六輔の土曜ワイド』時代から長年に渡り担当している。パーソナリティを務めた永六輔は久米にとって、放送業界での師匠格にあたる。
- 生放送音楽番組『ザ・ベストテン』では、黒柳徹子との安定感ある早口[34]コンビで人気を博していた。その最中、テレビ朝日から『ニュースステーション』のキャスターの打診があった。テレビ朝日の社運を賭けた番組で、久米もキャスター業をしたいと思っていたため引き受けるが、スタッフから番組が決まるまで、絶対に口外しない事を告げられる。そのため、司会パートナーの黒柳やスタッフに本当の降板理由を告げられず、黒柳からは自身の自宅に久米を呼び、降板の理由を問い詰めたことがある。結果的には遺恨を残すような形での降板となる。後年、アナウンサーの2年後輩で[35]『ザ・ベストテン』のプロデューサーだった山田修爾が亡くなった際、降板の顛末をキチンと謝罪できなかったことを悔やむ発言をしている(『ザ・ベストテン』関係者では黒柳のみ謝罪している)。加えて『ザ・ベストテン』がなければフリー転身もその後の『ニュースステーション』もなかったと話している[36]。
- 「タマネギ頭」と呼ばれる黒柳徹子の髪型だが、この「タマネギ頭」の名称を考えたのは久米である[37]。
- 『ニュースステーション』と『NEWS23』のキャスター対決と注目された、筑紫哲也との関係は決して悪くなく、『ニュースステーション』の最終回終了直後の『NEWS23』では筑紫が賛辞を送った(上記参照)他、2人ともカープファンという共通性があり、1991年の日本シリーズ(西武ライオンズ-広島東洋カープ)の対戦で、一緒に球場で観戦した[28]。
- 山口百恵の熱狂的ファンを公言しており、『ザ・ベストテン』時代は百恵の体に軽くタッチしたり、百恵が歌い終わった後、絶叫するなどし、同じく司会者である黒柳徹子に窘められるという場面が数多く見受けられた[38]。百恵が三浦友和との「恋人宣言」(後に結婚)発表した後の1980年にTBSで放送された、百恵の引退コンサート番組の司会を久米が務めている。
- 阪神大震災の取材の際、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者で、脳性麻痺の後遺症を抱える男性と偶然知り合い、現在も交流を続けている。彼との出会い以来、森永グループの製品を口にできなくなった。
- 『ニュースステーション』の降板表明会見において、「後を受け継ぐ古舘(後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター)さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し古舘伊知郎は『AERA』(2014年七月十四日号)のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べている。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った[39]。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[40][41]。
- また、久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[42]。
- 2015年3月27日放送分の『報道ステーション』で発生し、問題視された古舘と古賀茂明のやり取りについて、古舘に対する批判とも取られる発言を行った[43]。
現在の出演番組
ラジオ
- 久米宏 ラジオなんですけど(TBSラジオ / 毎週土曜 13:00 - 15:00)
テレビ
- 久米宏のTOKYO空の下(BS朝日、不定期放送)
- 久米宏 経済スペシャル(テレビ東京、年一回放送)
- みんな子どもだった(BS-TBS)2014年12月度月間ゲスト
- 久米書店midnight〜夜の本の虫〜(2016年10月7日 - 2017年3月31日、BS日テレ)
過去の出演番組
テレビ
TBS
- モーニングジャンボ(1971年)[2]
- みんなで歌おう(1975年)[2]
- ラストohダー(1976年)[2]
- 料理天国(1975年 - 1980年)[2]
- ぎんざ11:00(1975年)[2]
- ぴったし カン・カン(1975年 - 1984年) - 第4回アノンシスト賞グランダ・プレミオ賞受賞。[2]
- トップスターショー・歌ある限り(1977年)[2]
- チャーミングおくさま(1977年)[2]
- ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空(1977年)
- 日本レコード大賞(1977年 - 1978年)
- ザ・ベストテン(1978年 - 1985年)[2]
- 水曜劇場・ムー一族30話(1978年)レポーターの久米宏 役 - 局アナ時代に出演。
- 七人の刑事(1978年版)
- 第4話「ひとりぼっちのビートルズ」 - 局アナ時代に出演。
- 第32話「殺人容疑者・久米宏」
- 乱!総選挙2005
- 久米宏から日本人へ!仰天!こんな昭和史もあったのかスペシャル
- 久米宏のテレビってヤツは!?(2008年10月 - 2009年3月)
- クメピポ! 絶対あいたい1001人(毎日放送)(2009年4月 - 2009年7月)
日本テレビ
- おしゃれ
- 久米宏のびっくり発明大賞
- 久米宏のTVスクランブル
- 久米宏の道徳の時間
- A
- テージセー 〜1461日の記憶〜
- 久米書店 〜ヨクわかる!話題の一冊〜(BS日テレ)
フジテレビ
- チャレンジ・ザ・ギネス
- たけしの日本教育白書
- ガリレオ 第9・10話(2007年12月)木島征志郎 役
- ボクらの時代 第531回(2018年1月14日)久米宏×市川紗椰×デーモン閣下
テレビ朝日
- ニュースステーション
- 選挙ステーション
- シリーズ男の決断 ザ・ディーラー マネー戦士の愛と野望(1988年)為替市場の説明 役
- 久米宏のがん戦争
テレビ東京
- 久米宏 経済スペシャル
- 「酒を飲まない、車に興味の無い、消費しない若者たち」(2008年6月1日)
- 「1秒でも早く結婚したい女たち」(2008年12月28日)
- 「激変するニッポンの食卓」(2010年11月14日)
- 「東京って幸せですか?」(2011年12月18日)
- 「実は日本人はデフレが大好きだった!?」(2013年1月16日)
BS民放5局共同キャンペーン
- 久米宏のニッポン百年物語(2013年 - 2014年)
- 「久米宏のニッポン百年物語 食の100年 おいしいは力だった」(BS日テレ)
- 「久米宏のニッポン百年物語 医学の100年 日本人はなぜ長寿になったのか」(BSフジ)
- 「久米宏のニッポン百年物語 流行歌の100年 未来に残すべきニッポンの歌」(BS-TBS)
- 「久米宏のニッポン百年物語 鉄道の100年 日本人は鉄道がつくった?」(BS朝日)
- 「久米宏のニッポン百年物語 家族の100年 人生相談にみる日本人」(BSジャパン)
パソコンテレビGyaO
ラジオ
TBS[44]
- パックインミュージック(1970年4月 - 1970年5月)[2]
- 永六輔の土曜ワイドラジオTokyo[2]
- 三國一朗の土曜ワイド(1975年3月 - 1978年3月)[2]
- TBS それ行け!歌謡曲 ミュージック・キャラバン(1970年) [2]
- TBS今週のベストテン(1972年10月 - 1975年9月)[2]
- 久米宏の朝ですよ(1973年10月 - 1977年3月)[2]
- ミュージック・イン・ザ・スカイ(1973年)[2]
- ミュージックガイ(1974年)[2]
- 東京赤坂歌謡曲(1974年)[2]
- TBS歌謡新人戦(1975年)[2]
- 歌のグランド・ステージ(1976年)[2]
- 三菱ふそう全国縦断 ひろし・あきらの朝ですよ〜!(石川顕と交代で担当)(1977年4月 - 1978年3月)[1][2]
- 久米宏のラジオでデート(1977年)[2]
- 久米宏のクッキーデート(1978年)[2]
- 土曜ワイドラジオTOKYO(1978年4月 - 1985年3月)3代目パーソナリティ[2]
- ゆく年くる年(1978年12月31日23:30 - 1979年1月1日1:00、「若い言葉はエイトビートで」)
ニッポン放送
- 久米宏と1日まるごと有楽町放送局 - 同社の有楽町再移転を記念して、2004年9月20日放送の朝 - 夕方放送の各番組に出演。
- Jam the WORLD(2003年12月19日) - 『ニュースステーション』年末スペシャルとのコラボレーション
- すっぴん! (2017年11月17日) すっぴんインタビュー
著書
- 『知的センスおしゃれ会話入門』(1979年4月、青春出版社〈プレイブックス〉)
- 『久米宏の新・素朴な疑問 ひまつぶしに笑ってみようか』(1981年4月、TBSラジオ編、ベストセラーズ〈ワニの本〉)
- 『テーブルマナーなんか怖くない 食べ方でわかる女の魅力』(1981年7月、ベストセラーズ〈ワニの本〉)
- 『シズルはいかが』(1984年7月、ケイブンシャブックス)
- 『こんにちは、久米宏です』(1989年12月、ケイブンシャ文庫)
- 『もう一度読む「おしゃれ会話入門」 好印象と知性の隠し味をサラリ、のコツ』(1997年9月、青春出版社)
- 『最後の晩餐 久米宏対話集』(1999年4月、集英社)
- 『ミステリアスな結婚』(2001年3月、久米麗子共著、世界文化社、のち講談社文庫)
- 『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(2017年9月25日、世界文化社)、ISBN 978-4-418-17506-2
関連人物
- 黒柳徹子(『ザ・ベストテン』で共演。その後も『ニュースステーション』にユニセフ親善大使、『久米宏ラジオなんですけど』にゲストとして数多く出演)
- 永六輔(『土曜ワイド』で共演。久米の放送界における「師匠」ともいえる人物)
- 小宮悦子
- 白木清か
- 渡辺真理
- 西野朗 サッカー日本代表監督。「遠いが親戚関係である」と、久米がラジオで公表した。
- 鈴木史朗(5期先輩にあたるTBS時代の直属の上司。元TBSアナウンサー)
- みのもんた(久米のライバル的存在としてよく引き合いに出される。元文化放送アナウンサー)
- 古舘伊知郎(テレ朝「ステーション」シリーズ2代目キャスター、久米とは犬猿の仲とされている。元テレビ朝日アナウンサー)
- 富川悠太(テレ朝「ステーション」シリーズ3代目キャスター。久米と直接の面識はないが、古舘とは違い富川へはラジオで多々エールを送っている)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。OCLC 166924883。「久米宏[1979.6退社]R「土曜ワイドラジオTokyo」「全国縦断ひろし・あきらの朝ですよ〜」TV「料理天国(1975)」「ぴったしカンカン(1975)」「ザ・ベストテン(1978)」」
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01。「久米宏…[79.6 退社]R「土曜ワイド・ラジオTokyo(70)〈78年4月から、永六輔、三国一郎に次いで三代目のパーソナリティーとなる〉」「それ行け歌謡曲(70)」「パック・イン・ミュージック(70)」「TBS今週のベストテン(72)」「久米宏の朝ですよ〜!(73)」「ミュージック・イン・ザ・スカイ(73)」「ミュージックガイ(74)」「東京赤坂歌謡曲(74)」「TBS歌謡新人戦(75)」「歌のグランド・ステージ(76)」「全国縦断ひろし・あきらの朝ですよ〜(77)」「久米宏のラジオでデート(77)」「久米宏のクッキーデート(78)」TV「モーニングジャンボ(71)」「みんなで歌おう(75)」「料理天国(75)」「ぎんざ11:00(75)」「ぴったしカンカン(75)」「トップスターショウ〜歌ある限り〜(77)」「チャーミングおくさま(77)」「ザ・ベストテン(78)」★「ぴったしカンカン」〈第4回アノンシスト賞 グランダ・プレミオ賞受賞〉」
- ↑ 神山典士「(自殺)松宮一彦と(降板)久米宏を結ぶ「運命の糸」」、『現代』第33巻第12号、講談社、1999年12月、 98頁。
- ↑ 「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。OCLC 166924883。「1967.4〈12期生〉8人入社(男8)青木靖雄、石森勝之、河野通太郎、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規」
- ↑ 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01、21-22。「67.4〈12期生〉8人入社、青木靖雄、石森勝之、河野通太郎、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規」
- ↑ 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01、22。「1967年11月15日『アナウンサー研修室』設置〈アナウンサー研修室付兼ラジオ局第一制作部勤務者〉今村稔、小川哲哉、車尾具昭、五味陸仁、桐本幸子、手塚俊子、本田綾子、岩崎直子、遠藤泰子、藤田恒美、堀川恵子、堀川友子、青木靖雄、石森勝之、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規、河野通太郎」
- ↑ 「子供を持たなかった夫婦の”決断” 久米宏「73歳の終活」 私、生前墓を建てました」、『FLASH』(1437)、光文社 p. 10
- ↑ 8.0 8.1 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(柳澤健・著、集英社 2016年5月31日)p.97 - 99
- ↑ 9.0 9.1 『文藝春秋』2003年、第81巻、266ページ
- ↑ 「VIII. 各種表彰 2.TBS主催の外部表彰 2.ゴールデンマイク賞」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。「贈呈日 1983.12 贈呈者 久米宏 石井和子 担当番組名 土曜ワイドラジオTokyo」
- ↑ “歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. . 2016閲覧.
- ↑ “第27回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
- ↑ “「外人の日本語は片言の方が」久米さん10年後の謝罪”. asahi.com (asahi.com). (2006年12月21日) . 2013閲覧.
- ↑ ニュースステーション#所沢ダイオキシン訴訟
- ↑ “『久米宏・経済スペシャル“新ニッポン人”現わる!』放送決定!”. 新着情報プラス. テレビ東京. . 2013-5-13閲覧.
- ↑ “久米宏さん、2億円を寄付……東日本大震災救援募金”. asahi.com. 朝日新聞社 (2011年3月19日). . 2013-5-13閲覧.
- ↑ #161 2時間SP!久米宏が愛した日本の名車たち! BS日テレ - おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR,NO LIFE!
- ↑ カータッチサイドストーリー - 久米宏 プライベートサイト
- ↑ ノーベル賞受賞者もみのもんたも就活で第一志望に落ちていた SAPIO 2011年3月9日号
- ↑ 第22回 久米麗子さん - イーウーマン 佐々木かをり対談 win-win
- ↑ (人生の贈りもの)わたしの半生 放送人・久米宏:8 72歳 - 朝日新聞、2016年10月26日
- ↑ 久米宏『アサヒ芸能』1992年5月14日号、徳間書店、1992年。
- ↑ 「所沢の方には迷惑かけた(笑)」 久米宏が「ダイオキシン騒動」振り返るJ-castニュース
- ↑ 2004年9月28日に東京都内で行った記者会見で発言。
- ↑ [1],日刊スポーツ,2016年10月21日
- ↑ 吉本隆明『私の「戦争論」』 ぶんか社、1999年8月。ISBN 978-4821106844。75頁
- ↑ “「金満球団と違う貧乏球団、奇跡の化学反応」久米宏さん”. asahi.com. 朝日新聞社 (2016年9月10日). 2016年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013-5-13閲覧.、野球はカープ、司会は久米宏???|TBSラジオAM954+FM90.5、広島は物価が安いから?! 広島愛に溢れた久米宏がカープ選手の年俸の安さを解説- Book Bang、2016年9月23日
- ↑ 28.0 28.1 28.2 中国新聞 日刊 2016年10月9日28面『V7 私の鯉心(6) 久米宏さん』
- ↑ “巨人優勝で丸刈りになった久米宏(3/3)”. 日刊ゲンダイ (2014年1月16日). . 2016閲覧.
- ↑ 久米宏:「Nステ」坊主頭騒動を振り返る カツラ疑惑も…、MANTANWEB、2014-09-07
- ↑ 東京オリンピックでリスナー国民投票8割のリスナーが「返上」を支持! - 久米宏 ラジオなんですけど 2017年6月17日放送
- ↑ (人生の贈りもの)わたしの半生 放送人・久米宏:10 72歳 - 朝日新聞、2016年10月28日
- ↑ プロアナウンサーの「伝える技術」 石川顕
- ↑ TBSの同僚アナ・石川顯によると、久米は一分間に760字から800字ほど喋る時期もあったという[33]。
- ↑ “黒柳徹子が涙、山田修爾さんとの出会い「宝物」”. サンケイスポーツ. オリジナルの2014年2月9日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
- ↑ “中居正広の金曜日のスマたちへ”. TVでた蔵(TV DATA ZOO) (2013年9月27日). . 2013年9月28日閲覧.
- ↑ [2],goo
- ↑ “百恵さんのおしりを…久米宏らが語るベストテン秘話”. 夕刊フジ (2009年4月21日). . 2016閲覧.
- ↑ 古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”,LITERA,2014年7月15日
- ↑ 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言。
- ↑ 久米宏過激に復帰 渡辺前オーナー口撃,Sponichi Aneex,2004年9月21日
- ↑ [3],スポーツニッポン,2016年4月23日
- ↑ 久米宏氏、報ステに苦言 古賀氏降板問題「僕が司会なら最後まで聞いた」,ZAKZAK,2015年5月30日
- ↑ ラジオ東京スピリッツ〜TBSラジオ開局60周年〜過去のラジオ番組表
- ↑ 2018年6月3日1:00 - 3:30(2日深夜)にNHK総合テレビで『秋元康の超プレミアム対談[4]』と題した特別番組が放送。テレビ向けに再編成され、予告篇で「総合テレビ初出演!」とテロップが入る。
参考文献
- 久米宏 『知的センスおしゃれ会話入門』〈プレイブックス〉、1979-04。全国書誌番号:79015245。
- 三輪和雄 『偏なテレビの直し方―日本をダメにした久米宏と筑紫哲也』、1997-06。全国書誌番号:98066757。ISBN 4-7938-0145-5。
- 神山典士「(自殺)松宮一彦と(降板)久米宏を結ぶ「運命の糸」」、『現代』第33巻第12号、講談社、1999年12月。
- 『ミステリアスな結婚』、2001-03。全国書誌番号:20166668。ISBN 4-418-01204-4。 - 夫人との共著による自伝。
- 『TBS50年史』 東京放送、東京放送、東京、2002-01。全国書誌番号:20288703。OCLC 58532591。
- 資料編
- 上杉隆「久米宏 ニュースショーの孤独な道化師」、『文藝春秋』第81巻第10号、文藝春秋、2003年8月。
外部リンク
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