沖ノ島
沖ノ島 | |
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座標 | 東経130度6分20.7382秒北緯34.244281639度 東経130.105760611度 |
面積 | 0.97㎢[1] km² |
海岸線長 | 約4 km |
最高標高 | 243.6 m |
所在海域 | 日本海(玄界灘) |
所属国・地域 | 日本(福岡県宗像市) |
沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像市に属する、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの孤島。福岡県最北端の地である[2]。宗像大社の神領(御神体島)で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。
2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界遺産に登録された。
Contents
概要
「神の島」[3]と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日の現地大祭以外は上陸を基本的に認められず(後述)、その数も200人程度に制限されてきた[注釈 1]。世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸は全面禁止とすることを宗像大社が2017年7月に決定した[4]。
山の中腹には宗像大社沖津宮社殿があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ。宗像大社サイト参照)をまつっている。島は時の大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、韓国の釜山までも145キロメートルしかなく、遣隋使や遣唐使も島を目印として大陸に渡海した記録が残る。元寇後の1297年(永仁4年)に編まれた『夫木和歌抄』に「うつ波に 鼓の音をうち添えて 唐人よせぬ 沖ノ島守り」と詠まれており、沖ノ島が神国思想の拠り所として最前線の防波堤の役割を担っていたことがうかがえる。1855年(安政2年)に作成された『皇国総海岸図』には「御号島」と記載される。無人島であるが、現在は沖津宮の神職が10日交代で派遣され、常時滞在している。
エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、九州全土、特に宗像地方を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が行われ、2009年(平成21年)1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(現在の名称は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」)の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年(平成27年)7月28日に文化庁文化審議会により2017年の審査対象として選出。2016年(平成28年)1月28日に正式版推薦書がフランス・パリのユネスコ世界遺産センターに提出し、現地時間27日午後に受理された。9月8日、ユネスコ諮問機関国際記念物遺跡会議(イコモス)から派遣されたニューカレドニアの研究者クリストフ・サンドが上陸を許可され現地調査が行われた。2017年(平成29年) 5月6日に、沖ノ島と構成遺産の小屋島、御門柱、天狗岩のみ登録すべきとのイコモス勧告が出されたが、7月9日にユネスコの世界遺産委員会でイコモスによって除外された残りの構成資産(宗像大社辺津宮・中津宮、沖津宮遥拝所、新原・奴山古墳群)も世界文化遺産に登録されることが決まった。これにより、日本の推薦する全ての構成資産の登録が決定した[5][6]。
領海保持の観点からは、領海及び接続水域に関する法律による特定海域(対馬海峡東水道)の領海を示す基点であり[7]、排他的経済水域及び大陸棚の保全及び利用の促進のための低潮線の保全及び拠点施設の整備等に関する法律に基づく低潮線保全区域に設定もされている[8]。
宗像大社沖津宮
島の南西部、標高75~85メートル付近で巨石群(磐座)が密集する黄金谷と呼ばれる場所に鎮座する。石積み基壇上に木造銅板葺き屋根の神明造社殿が建つ。この社殿は17世紀半ばに建立されたもので、それ以前には社殿がない状態で(自然の聖地)、長らく自然崇拝の形式(古神道)を保っていた。幕末の1851年(嘉永4年)には福岡藩藩士の平野国臣らが沖津宮の社殿普請のため宗像大島に滞在している。何回かの改築・修復で1932年(昭和7年)にほぼ現在の形になった。「宗像神社境内」として文化財保護法により国の史跡に指定されている。
宗像三宮(沖津宮及び中津宮辺津宮)は、記紀に於いて御神名と鎮座地が明確に記述された最も古い社(創祀)であり、古事記には神代上巻、『故其先生神、多紀理毘売命胸形奥津宮坐、次市寸島比売命胸形中津宮坐、次田寸津比売命胸形辺津宮坐、此三柱神胸形君等以三前大神也』とあり。これは大和国大神神社の三諸山伝承の記述より先に出てきている。 日本書紀では第六段、アマテラスとスサノオの誓約で初出、天孫降臨より以前のアマテラスの神勅により、海北道中に降臨し天孫を祀り天孫にいつかれよと玄界灘の島々に鎮座された。
前述の通り古事記には「胸形之奥津宮」とあり宗像大社の奥宮とするのは長年の旧慣であるが、近代的土地登記制度上では社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律(国有境内地処分法)により1952年(昭和27年)に宗像大社の所有地(神領)となったもので、それ以前は大蔵省所管名義であった。地籍登記上の住所は、福岡県宗像市大島沖ノ島2988番。
島に常駐する神職が寝泊りする社務所は御前浜(沖ノ島漁港)と呼ばれる港に設けられており[注釈 2]、真水の湧水があり、太陽光発電装置や船舶無線などが完備されている。以前は浜より上段の高台に社務所があり、小さな畑が作られ耕作も行われていた[9]。神職は毎朝、神饌を供える「日供祭」を日課としている[10]。
2018年(平成30年)2月より社殿の修繕が行われ、10月に落慶した[11]。
海の正倉院
旧社務所跡地での発掘調査で出土した土器や石器から、縄文時代前期には漁民らが上陸し、ミチ(ニホンアシカ)猟の漁業基地として使用していたことが確認された。出土した土器などの特徴から、北部九州、瀬戸内海、山口の広範囲から、漁民たちが訪れていた事が分かっている。第二次大戦中には、旧社務所から北西にのびる軍用道路のかたわらから細形銅矛が出土しており、弥生時代の在地祭祀で奉献されたものとみられる。
沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、4世紀後半頃と推測される。391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている。祭祀の終了は9世紀末頃とみられ、894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されたことや神道・神社の形式が確立したこと、仏教による鎮護国家の比重が増えたことなどとされる[12]。
第二次世界大戦後、宗像大社復興期成会(発起人と初代会長は出光佐三)により1954年(昭和29年)- 1971年(昭和46年)にかけて三次にわたる発掘調査が行われ、沖津宮社殿周辺の巨石に寄り添う23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代・弥生時代の遺物が出土)した。これらのうち第一次・第二次調査出土品は1962年(昭和37年)に国宝に指定、第三次調査出土品は1978年(昭和53年)に重要文化財に指定された。2003年(平成15年)には上述の国宝と重要文化財を統合、さらに同年と2008年(平成20年)に未指定物件が追加指定され、関連遺物全てが国宝に指定されている(約8万点とされる)。しかし学術調査されたのは祭祀遺構全体の3割に過ぎず、多くは手付かずの状態で残っている。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される[13]。
祭祀遺構
沖ノ島の祭祀遺構の特徴は考古遺跡ながら一部は埋蔵文化財化しておらず、遺構や遺物が千年以上も地表に露出したまま荒らされずに残されている点にある。沖津宮が建つ黄金谷という奥行約100mの小谷地形に12個の巨石(A~L号と呼称)と無数の岩が散乱する中に点在する。正倉院にも収められているシルクロードを介してもたらされたペルシア産ガラス盃など地方豪族では入手困難なものが多数含まれていることから、ヤマト政権による国家的な祭祀が行われていたと推測され、古代における沖ノ島の重要性を物語っている。位置関係と遺物編年から四つの時期に区分される[14]。
- 4世紀後半から5世紀にかけての岩上祭祀/巨石の上で祭祀を行ったもので、三角縁神獣鏡などの銅鏡が見つかっており、宗像氏と関連がある津屋崎古墳群の副葬品と共通するものも多い:16・17・18・19・21号遺構
- 5世紀後半から7世紀にかけての岩陰祭祀/巨石の岩陰で祭祀を行ったもので、新羅の都・慶州の大陵苑王墓(世界遺産慶州歴史地域)から出土したものと同じ金製指輪など朝鮮半島由来の遺物が多い:4・6・7・8・9・10・11・12・13・15・22・23号遺構(22号は黄金谷外)、4号は洞穴状を成し「御金蔵」とも呼ばれてきた
- 7世紀後半から8世紀前半にかけての半岩陰・半露天祭祀/岩陰に接する平場で祭祀を行ったもので、唐三彩など中国由来の遺物がみられる:5・14・20号遺構、第三次調査で14号は20号から流出したものの群体と判明し現在では欠番扱い
- 8世紀から9世紀末にかけての露天祭祀/岩場から離れた平地で祭祀を行ったもので、遺物は滑石製形代類と呼ばれる人や馬に似せた祭祀専用の石製品(雛形製品)になり、国内生産品が主体になる。:1・2・3号遺構、3号は沖津宮のすぐ脇に位置する(上部社殿写真の右下面)
この失われた4世紀と呼ばれる時代からの沖ノ島祭祀遺構は、日本の国家祭祀の起源、神道考古学における原始神道の源流であると國學院大學の岡田莊司、笹生衛教授や九州大学の西谷正教授などが指摘している。根拠は伊勢神宮で最も古い9世紀の「皇太神宮儀式帳」に祭祀の方法などが酷似していること、または奉献品が同一であることなどが挙げられている。祭祀空間が時代とともに遷移したのは、徐々に大人数が参加する大規模なものへと発展したことでより広い場所を確保する必要性が生じたためと考えられている。
8世紀後半から9世紀には神仏習合が起こり、宗像大社にも神宮寺として鎮国寺が併設されたが、沖ノ島祭祀に関しては仏教的要素はみられず、露天祭祀遺構での雛形製品は神祇官による律令祭祀の表れとされる[15]。
発掘調査での遺物回収は岩上および地表に露出していたものの表層回収(一部)とトレンチ調査で掘削した範囲内で行われたのみのため、岩陰および露天祭祀遺物の多くは現在でもそのまま島内に残されており、その後腐植土に埋もれたものや風雨で表土が流され新たに地表に露出した遺物もある。回収された遺物の多くは宗像大社(辺津宮)に併設された神宝館で見ることができるほか、東京の出光美術館も一部収蔵し不定期だが陳列することがあり、千葉県の国立歴史民俗博物館には祭祀遺跡や奉献品のレプリカが展示されている。
世界遺産登録審査が行われた第41回世界遺産委員会では、韓国が「沖ノ島の考古遺物の多くが古代の中国や朝鮮半島で作られたものであり、その分析を進めなければ価値は完全には証明できない」と共同研究の条件を付けて了承した[16]。
- 福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品
- 金属製品一括、土師器3点(以上正三位社前遺跡出土)
- 金属製品一括、滑石製品一括、三彩陶器23点、土師器・須恵器一括(以上第1号遺跡出土)
- 鉄環2点、滑石製品7点分、土師器・須恵器一括(以上第3号遺跡出土)
- 金属製品一括、玉類一括、滑石製品63点、貝製品7点、土師器・須恵器一括(以上第4号遺跡出土)
- 金属製品一括、玉類3点、滑石・碧玉製品一括、貝製品4点、三彩陶器残欠一括、土師器・須恵器一括(以上第5号遺跡出土)
- 金属製品一括、玉類・滑石製品一括、貝製品2点、土師器・須恵器一括(以上第6号遺跡出土)
- 金属製品一括、玉類・滑石製品一括、真珠・貝製品5点、三彩陶器残欠1点(以上第7号遺跡出土)
- 金属製品一括、玉類・滑石製品一括、ガラス碗残欠1点、貝製品9点(以上第8号遺跡出土)
- 金属製品14点、貝製品5点(以上第9号遺跡出土)
- 須恵器2点(以上第10号遺跡出土)
- 乳文鏡1面(以上第15号遺跡出土)
- 銅鏡4面、金属製品一括、玉類・滑石・碧玉製品一括(以上第16号遺跡出土)
- 銅鏡21面分、金属製品39点、碧玉釧3点、玉類・滑石製品28点(以上第17号遺跡出土)
- 銅鏡残欠共14点、碧玉釧1点、玉類一括、鉄刀子4点(以上第18号遺跡出土)
- 銅鏡1面、金属製品48点、玉類・滑石製品一括(以上第19号遺跡出土)
- 刀剣類5点、金属製品6点、玉類一括、滑石製品1点、土師器・須恵器6点(以上第20号遺跡出土)
- 銅鏡残欠共32点、金属製品一括、玉類・滑石製品一括、ガラス小玉一括、貝製品11点、土師器一括(以上第21号遺跡出土)
- 金属製品一括、滑石臼玉一括、貝製品1点、土師器・須恵器11点(以上第22号遺跡出土)
- 珠文鏡1面、金属製品一括、玉類一括、貝製品25点(以上第23号遺跡出土)
- 伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品
- 金銅高機1基、銅鏡残欠共36点、金属製品一括、玉類・滑石製品一括、貝製品一括、石製品8点
- (指定経歴)
- 1959年6月27日、1954年から1958年にかけて実施された第一次・第二次調査の出土品が「筑前国宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」として重要文化財に指定。(昭和34年文化財保護委員会告示第45号)
- 1961年6月30日、上記「筑前国宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」に未指定の出土品を追加指定。(昭和36年文化財保護委員会告示第48号)
- 1961年6月30日、学術調査以前の出土品一括が、「伝筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」として、別個に重要文化財に指定。(昭和36年文化財保護委員会告示第45号)
- 1962年6月21日、重要文化財「筑前国宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」が国宝に指定。(昭和37年文化財保護委員会告示第32号)
- 1978年6月15日、1969年から1971年にかけての第三次調査による出土品一括が、「筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」として重要文化財に指定。(昭和53年文部省告示第131号)
- 1979年6月6日、重要文化財「伝筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」(1961年指定分)に未指定文化財(金銅高機、金銅香炉状製品)を追加指定する。(昭和54年文部省告示第114号)
- 2003年5月29日、国宝「筑前国宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」と重要文化財「筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」(1978年指定分)を統合し、これに未指定の出土品を追加指定したうえで、あらためて「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」として国宝に指定。(平成15年文部科学省告示第102号)
- 2003年5月29日、重要文化財「伝筑前宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品」(1961年指定分)に未指定文化財を追加指定し、名称を「伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」に改める。(平成15年文部科学省告示第105号)
- 2006年6月9日、国宝「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」と重要文化財「伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」(1961年指定分)を統合し、これに未指定の文化財を追加指定したうえで、あらためて「福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品」として国宝に指定。(平成18年文部科学省告示第75号)
日本海海戦
1905年(明治38年)5月27日、沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎(1889~1974)が、樹上から日露戦争の日本海海戦の始終を目撃している[17]。彼は両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人であり[注釈 3]、その子細は創建以来書き継がれている『沖津宮日誌』に記されている[17]。
戦跡遺構
沖ノ島は対馬海峡東水道に面する位置にある。このため1939年(昭和14年)、陸軍は沖ノ島に試製十五糎連装加農砲を2基4門設置し[18]、下関要塞重砲兵連隊が配備され、敵艦船・潜水艦の撃退を任務とした。海軍も艦船を探査する防備衛所を置き、戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士が駐屯していた。白岳(標高162m)近くの藪の中に弾薬庫、島西部の高台には砲台跡など、戦争遺跡が残されている。一方、記事の写真などで同じく多くの戦争遺跡の残る千葉県館山市の沖ノ島と混同している場合が多々見受けられる。
これら軍事施設を築き、炊事のために神木である原始林を伐採し、オオミズナギドリとその卵を食糧とした[19]。
島への上陸
立入制限
島は全域が宗像大社の私有地であるため、まず大前提として宗像大社の許可が無ければ(公権力の行使を除いては)島に上陸、立ち入ることはできない。また、島は重要な宗教施設であるとともに「沖ノ島原始林」として国の天然記念物にも指定されている。
2017年までは一般人の上陸が許可されていたが、これは通常毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭の時に限られていた。上陸できるのは事前に申し込みを行った中から抽選で選ばれた200人程の男性のみであった。
特別な立入許可に関しては、地元青年団(玄海未来塾など)による清掃奉仕、宗像系神社(厳島神社や弁財天)の神主・禰宜引率による正式参拝、政財界の有力者が代表を務める参詣団、灯台と携帯電話アンテナの保守点検や文化財・自然保全状況の確認作業員など、必要な場合の工事関係者等が事前に許可を得て上陸が認められる。ほか、2012年(平成24年)11月1日に宗像大社が招聘した世界遺産登録専門家会議の韓国人・中国人・スリランカ人・イギリス人研究者ら外国人が上陸、2015年(平成27年)10月24日に福岡で開催された国際記念物遺跡会議(イコモス)総会に伴いグスタボ・アローズ会長ら役員が上陸を認められている。
2015年11月17日には近年では初となる報道陣の一斉上陸を認めている。また、報道関係の一貫としてテレビ番組等の取材も特別に許可される場合がある。なお、芸能人など有名人枠と言う物は存在せず、2017年までの一般人枠の中に入れてもらうか、報道番組取材の一環として参加するに止まる。
前述のとおり2018年以降、大社の特別な許可がない限り、現地大祭などの一般人の上陸許可を出さない方針とした。
以上の場合いずれも女人禁制と禊は守られている(後述)。
女人禁制について
世界遺産登録前、葦津宮司は「世界遺産になっても沖ノ島は開示するものではない」と明言しており、一般開放はもとより、女人禁制の伝統的禁忌も継承される。このことについて女性権利団体などから抗議の声が上がり、観光業界でも懸念が広がった。
これに対しユネスコ指針「ジェンダーと世界遺産」[20]では、「個々の宗教観や文化性は尊重する」「因習を話し合う場があるべき」とし、女人禁制が世界遺産登録審査の障害にはならないことを示唆していた[注釈 4]。
国内法的には、宗像大社の私有地内であり、所有者が立ち入りを拒否する権利があり、女性差別などの違憲(日本国憲法第14条への抵触)には当たらないとの見解がある[21]。世界遺産条約でも「当該国内法令に定める財産権は害さない」とし、所有権とその権利の行使を認めている。
不法上陸
沖ノ島は無人島で監視員も少ないため不法侵入が複数回起きている。
国際関係的には、1998年(平成10年)に対馬海流にのり北朝鮮からの脱北者が潜入し海上保安部に身柄を拘束される事件が起きており[22]、遡れば1963年(昭和38年)には韓国から大挙34人もの密入国もあった[23]。これらの場合、出入国管理及び難民認定法により退去強制することになる。領海は壱岐島(辰ノ島北西端の岩礁)、沖ノ島と見島との間で直線基線が引かれており、沖ノ島の領海12海里(約22.2km)に入る外国の船舶、艦船は元より、不法侵入を試みようとして沖ノ島の接続水域24海里(約44.4km)に進入した不法目的の船舶、艦船は国際法により拿捕、強制退去等の対象となる[注釈 5][24]。なお居住離島とは考えられておらず、特定有人国境離島地域を構成する離島には指定されていない。
一方で日本人や在留資格者が無断上陸した場合、刑法130条の住居侵入罪が適用され、また刑法188条の礼拝所不敬罪にも問われる可能性がある。不法侵入対策として、島の港湾部に監視カメラが設置されることになった[25]。
なお、島周囲の岩礁(実質的に島本体の地磯を含む)への磯釣り目的の上陸は容認されてきたが[注釈 6]、2016年より福岡県と宗像市、宗像大社、漁業者が協議を重ね、その結果、島への接近は2kmまでとすることでほぼ合意した。しかし、2km以内の海域に入った日本籍船を取り締まる法律や条例はない[26]。
上陸について
宗像大社に許可されたものの上陸はすべて神事の一環として行われ、現地大祭の前日に筑前大島の中津宮に参拝し、沖津宮奉賛会費(事実上の船代)2万円を支払い[注釈 7]、島内に分宿。大祭当日は早朝より筑前大島船籍の釣り船などに分乗[注釈 8]、2時間弱で島に到着する。現地に着いたあとは御前浜でまず全裸で海に入って禊(垢離)をしなくてはならない。
島全体が国の天然記念物であるため、島内の植物や岩石の収集は禁止されている。ただし、島内の湧き水(ご神水)のみは例外とされている。島での滞在は2時間程の制限時間がある。
大祭日、女性は大島にある沖津宮遥拝所から沖ノ島を遥拝する[注釈 9]。
沖ノ島は第4種避難港指定を受けていることから[27]、荒天時などに付近を航行中の船が避難できるよう港湾設備が整備されている。そうした際に寄港して上陸する場合には、社務所に許可を取って禊をすることが必要である[注釈 10]。
前述のように2018年から、現地大祭時であっても一般人の入島は原則禁止される。2018年2月17日に開催されたシンポジウム(於 イイノホール)において、葦津敬之宮司は「人が入らなくなった環境を数年毎に報道関係者に上陸してもらい広く伝えてもらうことを考えている」との方針を表明した。
宗像市は九州本土側の市内にある「海の道むなかた館」で沖ノ島の3次元映像を放映し、実際の上陸に代えて島の様子を見られる体験を提供している[28]。
神聖性と世俗面
島全体が御神体であるとされ、年一回のみの上陸・女人禁制・禊などの禁忌から神聖性が強調される沖ノ島だが、江戸時代を通して福岡藩が防人をおいていた。これは神域を守る目的ではなく、江戸幕府の鎖国政策に伴う外国船の監視任務であった。
島での見聞については、島の別称でもある「不言様(おいわずさま)」として一切口外が許されないとされるが、江戸時代に入り貝原益軒は防人を務めた者からの聞き取りを行っており、『筑前国続風土記』に島の詳細な様子を記している。ただし江戸時代より以前は文書への記述すら憚りが有ったとの説もある。なお、現代でも「不言様」の範囲は鳥居(実物)から先の境内であり、船着き港周辺や島の外貌は特に公開など止められてはいない。
島内の「一草一木一石」たりとも持ち帰ることも許されないが、筑前の大名黒田長政は祭祀遺物の金銅製織機などを家臣に命じ取り寄せさせており、その後黒田家で不幸が相次いだのはこの件に関わるとして遺物は島に戻された。また、防人は嶋土産と称し山中から薬草を持ち帰っている。
島内での殺生は禁じられているが、防人や水夫らは魚介を食し、直会の後は酒盛りも行われていた。当然ながら防人は多数の武具を持ち込んでいた。
沖ノ島には筑前大島の漁師も訪れ、禊をして上陸していた。山中では「唾を吐かない」「用を足さない」「忌言葉を口にしない」といった不浄を避ける行いをするが、山と磯とには聖俗の境界があり、島全体を神聖化していた訳ではない[注釈 11]。地籍図には島の東岸に2989番と2990番がふられ、漁業協同組合名義になっており、係留設備や船小屋が設けられていた(この工事の際には島の岩壁を爆破している)。レジャーとしての釣りが盛んになった現代では、沖ノ島周辺の海に漁礁を設けるため、多くの廃船を沈めている。なお、古くから地元漁民による漁業や釣りは海洋神である宗像神からの授かり物(賜物)という考え方により行われ、漁師は魚を宗像社へ奉納していた。また、頂上には沖ノ島灯台(後述)があり灯台に携帯電話のアンテナも併設されている。もっとも、神社以外の人工物は灯台と避難港としての船着き場の岸壁や擁壁護岸、係留施設、神職を含む関係者の居住家屋(太陽光パネルもある)など限定的である。
1888年(明治21年)には宗像大社自身が男性氏子を対象にした沖津宮参詣旅行を企画し、博多で参加者を募集して催行された(日程は6月24~27日)。
日露戦争時には陸軍の防衛基地が設置されたことで駐屯した兵士の口から島の様子が語られ(箝口令はなかった)、1936年(昭和11年)に宗像高等女学校(現宗像高校)の教師だった田中幸夫(1901~1982)が『宗像の旅』を上梓しその存在が全国に知れ渡り、歴史学・民俗学・宗教学などの学術論議が盛んになり、個人的に渡島する者も多かったという。
これらのことから沖ノ島の神聖性が強調され文化的空間が形成されるようになったのは明治時代、国家神道の成立過程と関わる向きもあり[9]、イコモスの勧告でも「自然崇拝に基づく古代の沖ノ島信仰と現在の宗像大社信仰に継続性は確認できない」「女人禁制など沖ノ島の禁忌の由来は17世紀までしか記録をさかのぼれない」と指摘した[29]。
参考文献:「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議(福岡県人づくり・県民生活部文化振興課世界遺産登録推進室 - 福岡県) [1]
自然
島は新生代新第三紀中新世の地殻変動に伴い海底岩盤が隆起したものが原形とされ、中核部は主として石英斑岩からなる。第四紀更新世の最終氷期に日本列島がユーラシア大陸と陸続きであった時期、島の原形も陸地の一部(山)となり土壌が堆積。完新世に氷河期が終わり海面上昇で対馬海峡や日本海が形成されたことで玄界灘の孤島が形成され、造山運動で海底に堆積していた対州層が周辺海域での火山活動で噴出し島の表面に露出する泥岩となった[30]。 島を上空から見ると北東から南西に向かって紡錘形をなし、北部に主峰一ノ岳(標高243.6m)がある。
沖ノ島は亜熱帯性植物の北限でビロウやオオタニワタリ等の亜熱帯性植物が生育し、森林域はタブノキやヤブニッケイ等を中心とした原生林であるため1926年(大正15年)10月20日に「沖の島原始林」として国の天然記念物に指定されている。また、ヒメクロウミツバメ、カンムリウミスズメ及びオオミズナギドリなどの海鳥の集団繁殖地となっており、1978年(昭和59年)3月31日に国指定沖ノ島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定され(面積97ha、うち特別保護地区94ha)、玄海国定公園の自然環境保全地域でもある[31]。
その他の動物相としては、爬虫類でヘビが生息しておらず、天敵がいないことで海鳥が繁殖している点が上げられる。また、九州大学によって行われた昆虫調査では、99科448種が確認されている[32]。
世界遺産推薦に際し掲げられたテーマに「宗像信仰の根幹となる海神(海洋)崇拝を表現する海(玄界灘)」があり、沖ノ島周辺海域の自然環境は重視される。1980年代に九州大学が実施した海洋調査では64科168種を確認したが、近年の調査では南洋系の熱帯魚などが増えており[33]、海藻が育たなくなる磯焼けも発生し漁獲量が減少するなど地球温暖化(海水温上昇)を指摘する見方もある[34]。
近年は、韓国や中国において海洋投棄された漂流・漂着ごみの着岸が確認されており、聖域を汚すのみならず、景観や生態系を損なう恐れもある。
周辺の小島や岩礁
沖ノ島の周囲には小島や岩礁、瀬が複数ある。島の南側約1キロにある小屋島と御門柱・天狗岩が沖ノ島の鳥居の役割を果たしているとし付帯施設として世界遺産候補の構成資産となり、世界遺産に求められる完全性(インテグリティ)としての法的保護根拠を満たすため史跡の追加指定を目指しているが、小屋島(標高29m)は瀬渡しの釣り船に紛れ込んで上陸したネズミがカンムリウミスズメを捕食し、生態系を脅かしている[注釈 12]。
沖ノ島の北岸から20~30mにあるノリ瀬(地図)は、「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」(総合海洋政策本部決定)に基づき排他的経済水域の外縁を根拠付ける離島として2011年(平成23年)に行政財産化され、翌年にノリ瀬が正式な名称として地図・海図に記載されることになった[35]。
この他、島の港湾施設目前にケーソンの防波堤があり、釣り目的で女性でも上陸が可能であったが、世界遺産登録に伴う島周辺域への接近制限により男性も含め上陸できなくなった。
また、島北東部の海底岩礁では人工的な階段や道らしい遺跡のような構造も見つかっている。一般に海底遺跡と呼ばれているが、学術的検証は行われておらず正式な遺跡として確定しているわけではない[注釈 13]。
沖ノ島灯台
テンプレート:灯台 沖ノ島灯台(おきのしまとうだい)は、島の主峰一ノ岳の頂上に建つ白塔形の灯台である。灯火標高は253mで、日本では6番目の高さである[36]。
灯台が設置されたのは、日本海海戦直前の1905年4月のこと。1921年(大正10年)に改修された際、国産初のフレネルレンズが設置され、2007年(平成19年)まで使われ続けていた[注釈 14][37]。現在は無人化されている。
2002年(平成14年)、灯台にNTTドコモのアンテナが設置され、約20キロ四方の洋上で携帯電話(3G(FOMA)のみ)の通話が可能になった[注釈 15]。なお、2017年7月までにLTE(Xi)への対応が予定されている。
沖ノ島が登場する作品
小説
- 『ST 警視庁科学特捜班 沖ノ島伝説殺人ファイル』今野敏 講談社 - 沖ノ島の港湾工事現場で発生した水死事件を巡り、特殊能力を持つ刑事たちが捜査にあたる。島で見聞きしたことを誰にも話してはいけない「御言わず様(不言様)」の掟などを紹介している。
漫画
- 『海の民宗像 玄界灘の守り神』太神美香(画) 梓書院 - 世界遺産登録を目指す沖ノ島を紹介する宗像市世界遺産登録推進室編著による学習漫画。
絵本
- 『みあれ祭の日に』『また逢えたなら』宗像未来ガールズ(文・絵) アリエス・ブックス - 宗像市の中学生で構成された「宗像未来ガールズ」が沖ノ島のことや宗像大社のことに関して考えた物語。
脚注
- ↑ 宗像市市勢要覧資料編(2008年版) (PDF) による。 6.8ヘクタール
- ↑ “福岡県 市区町村の役所・役場及び東西南北端点の経度緯度(世界測地系)”. 国土地理院. . 2019/03/25閲覧.
- ↑ 藤原新也、安部龍太郎『神の島 沖ノ島』(小学館2013年)
- ↑ 沖ノ島、一般人の上陸全面禁止へ 世界遺産登録 - 『日本経済新聞』ネット速報2017年7月15日
- ↑ ユネスコ世界遺産に「沖ノ島」日本推薦の構成資産すべて登録NHKオンライン
- ↑ “沖ノ島 勧告覆し全て世界遺産”. Yahoo!ニュース (2017/7/9(日) 18:01). . 2017-7-10閲覧.
- ↑ 領海及び接続水域に関する法律施行令
- ↑ 排他的経済水域等の基礎となる 低潮線を有する離島に関する調査報告書(PDF)首相官邸
- ↑ 9.0 9.1 『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告』Ⅰ~Ⅲ(PDF)
- ↑ 『Pen』2017年7月15日号「特集 神々の宿る島へ。」(CCCメディアハウス)
- ↑ 沖ノ島・沖津宮の修復過程の写真を公開(毎日新聞)2018年10月12日(2015年8月16日閲覧)
- ↑ 『宗像大社・古代祭祀の原風景』正木晃(NHKブックス)
- ↑ 沖ノ島 海の正倉院(福岡県保健環境研究所)
- ↑ 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議パンフレットより
- ↑ 『月刊出光』(出光興産社内報)2014年8月号「出光美術館-神の島・沖ノ島と宗像大社」(出光美術館にて閲覧)
- ↑ 41st World Heritage Committee 9 July 2017 AM PM 2017年7月9日 UNESCOライブ配信録画(Youtube)
- ↑ 17.0 17.1 児玉克哉『宗像市大島で日露戦争の慰霊祭~日本とロシアの新たな友好と平和の懸け橋を!』2013/11/3(日) 15:35 2018年1月16日閲覧
- ↑ 佐山二郎 『日本陸軍の火砲 要塞砲』 光人社NF文庫、2011年、428頁。
- ↑ 沖ノ島、今も戦争の跡 世界遺産候補「神の島」に砲台・弾薬庫…古木も伐採 元軍人「祭神にお詫びしたい」 withnews(朝日新聞)2015年8月15日(2015年8月15日閲覧)
- ↑ How does gender affect visiting a World Heritage Site? (PDF) UNESCO
- ↑ 女人禁制「沖ノ島」が世界遺産候補に 「島に入りたい」女性の主張は認められるか? 弁護士ドットコムニュース(法律事務所オーセンス)2015年8月9日
- ↑ 金 龍華 『ある北朝鮮難民の告白 韓国と日本を生き抜いた、たった1人の叛乱』 扇社、2003年。ISBN 978-4896250503。
- ↑ 『ひととき』(東海道新幹線車内誌)2008年8月号 特集「蒼茫の海、孤高の灯台」
- ↑ “特定海域” (日本語). www1.kaiho.mlit.go.jp. . 2018閲覧.
- ↑ 沖ノ島に防犯カメラ 無断上陸監視へ2カ所設置 西日本新聞2016年5月10日
- ↑ 「何キロまで近づいていいか」手付かずの国宝 沖ノ島 接近・上陸懸念 西日本新聞(Yahoo!ニュース)2017年5月6日
- ↑ 沖ノ島漁港 福岡海上保安部
- ↑ “海の道むなかた館”. 海の道むなかた館ホームページ. . 2017-8-17閲覧.
- ↑ ユネスコ諮問機関 信仰の継続性に疑義 世界遺産へ大きな壁 半数除外の理由 産経新聞2017年5月25日
- ↑ 重要な地形・地質 (PDF)
- ↑ 国指定沖ノ島鳥獣保護区沖ノ島特別保護地区 指定計画書 環境省、平成15年8月27日 (PDF)
- ↑ 御神体の島・福岡県沖ノ島の昆虫相 (PDF) 『昆虫と自然』2011年7月号(ニュー・サイエンス社)
- ↑ 九州北部対馬暖流岩礁域における磯魚群集の季節的動態(PDF)『魚類学雑誌』
- ↑ 神宿る島、観光だけじゃない 朝日新聞デジタル 2016年1月18日
- ↑ 排他的経済水域(EEZ)外縁を根拠付ける離島の地図・海図に記載する名称の決定について 首相官邸
- ↑ “灯台豆知識”. 敦賀海上保安部. . 2013閲覧.
- ↑ 国産初の灯台レンズが回転 高さ2.53メートル、重さ2.65トン 銚子・犬吠埼資料展示館 千葉日報2013年3月28日
注釈
- ↑ 渡島用に借り出される筑前大島船籍の船への分乗の上限。また、この内の半数強が地元の氏子優先で、筑前大島の宿泊キャパシティからも一般人の参加は実質100人を切る
- ↑ 御前浜には社務所以外に灯台保守点検作業用の海上保安庁詰所と宗像漁業協同組合の避難小屋がある
- ↑ 他に対馬北東部でも目撃者が複数人いた
- ↑ 世界遺産にはギリシアのアトス山や紀伊山地の霊場と参詣道の大峯山寺など女人禁制を堅持している場所がある
- ↑ なお、領海については無害通航に当たる場合はこの限りでない。また接続水域については、領土・領海に対する通関、財政、出入国管理、衛生に関する法令の違反について防止や処罰を目的とした措置を除き、沿岸国の権限は及ばない。
- ↑ 磯場から沖ノ島内部へ入り込むのは自然保護の法的制限から不法行為である。実際には切り立った断崖でよじ登れない。また漁業にはあたらないため、渡船は筑前大島以外の港からも出航できる
- ↑ 荒天で渡島が中止になっても返金されない
- ↑ 沖ノ島の地先権(操業の優先権)が筑前大島(宗像漁協大島支所)にあるため
- ↑ 荒天で渡島が中止になった場合には、大祭参加者の男性もここを訪れる
- ↑ 港に投錨し船内で過ごすだけであるなら禊は不要
- ↑ 現在も用を足すのであれば海でと指示される
- ↑ 殺生を禁じる神域であるため害獣や外来生物であっても駆除が難しい
- ↑ 自然科学では中新世の島形成時の柱状節理、あるいは更新世に島が陸地であった際の風化部分が、完新世になり水没したものとされる。島が陸地であったのは約3万年前頃とされ旧石器時代であり、大規模な人工的土木構築物は造られなかったとするのが考古学の定説である
- ↑ 撤去されたレンズは現在犬吠埼灯台に併設された資料展示館で公開されている
- ↑ アンテナ設置に際し工事関係者は海保詰所で寝泊りし、毎朝禊をしてから灯台へ向かった
関連項目
- 宗像大社、宗像三女神、女人禁制、みあれ祭
- 日露戦争、日本海海戦
- 日本の地理
- 日本の島の一覧
- 島の宝100景
- 沖島 (海防艦)…沖ノ島から命名したとされる旧海軍の海防艦
- 麻生渡…福岡県知事時代に視察に訪れて体調不良を訴え、ドクターヘリで救急搬送された。
- 三笠宮崇仁親王…1969年の第三次調査に立ち会い、沖津宮本殿横に槙を植樹。1975年の歌会始で「沖ノ島 森のしげみの岩かげに 千歳ふりにし神祭りのあと」と詠んでいる。
- 大成洞古墳群
- 竹幕洞祭祀遺跡