衣笠祥雄
衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - 2018年4月23日[1])は、日本のプロ野球選手(内野手)。引退後は野球解説者・野球評論家・タレント。所属事務所はキャスト・プラス。広島東洋カープオーナー付スタッフ。京都府京都市東山区馬町出身[2][3][4]。旧名は衣笠 幸雄。愛称は「鉄人」。国民栄誉賞受賞者。息子は俳優の衣笠友章[5]。
連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代3位、通算安打数歴代5位、通算本塁打数歴代7位(通算504本は張本勲とタイ)の記録保持者。赤ヘル打線の主砲として1970年代後半から1980年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である[6][7]。
Contents
経歴
プロ入り前
進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた[8]。
京都市立洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した[9]。1964年の平安高等学校3年時、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会に捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、植木一智(後に阪神)であった。
現役時代
翌1965年、広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向。
1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着。1974年までの背番号28から、「鉄人(横山光輝の漫画『鉄人28号』より)」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら、正反対に飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで大相撲の幕内力士青葉城と並び称されたこともある。
1975年にはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人の長嶋茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、三塁手にコンバートされる[10](本当はゲイル・ホプキンスが「一塁手がいい」と言ったのがコンバートの原因だった)[11]。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている[10][12]。
1970年10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、1979年はシーズン序盤から極度の不振に陥った。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあり、手当たり次第に物を投げ飛ばしたという[13]。この年は代打、代走、守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた[14]。江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた[14]。
1980年7月29日の対ヤクルト戦は飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、ノーゲームが宣告された。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された[14]。
1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った[14]。
1983年4月9日の開幕戦の対中日戦では堂上照から満塁本塁打を放ち、同年は3本の満塁打を放った。8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成。日本プロ野球名球会会員となる。
1984年には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点の成績を残した。打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。
1986年6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった[14]。
メジャーリーグベースボールのルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった[14]。6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。6月13日の対中日戦で2131試合に到達。この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた[15]。6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞を授与された。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。この試合では2回に新浦寿夫から先制の17号2点本塁打を放ち、3回にも二塁打を叩き、ベンチへ退いた[14]。功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。
同時代のチームメイトに山本浩二という強打者がおり、引退後も鉄人のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長嶋茂雄(ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。
引退後
引退後は、1988年から東京放送(TBS。その後、企業再編によりTBSラジオ&コミュニケーションズ→TBSラジオ[16]とTBSテレビに分立)の野球解説者を務める[17]。一方で、朝日新聞社嘱託(1988年 - 2017年1月)で運動面のコラムを受け持つ他、タレント活動も展開。日本テレビ系『午後は○○おもいッきりテレビ』のコメンテーターとして出演したほか、広範にわたる洋楽の知識を生かし、自らが選曲とパーソナリティを手掛ける音楽番組『鉄人ミュージック』がTBSラジオで不定期に放送された[18]。またソニーのPC・VAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択」でVAIO愛好家としても紹介されている。
現役時代から引退後にかけて、広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めていた。
引退後は球団の監督もコーチもやることはなかった。衣笠は新聞社の取材にてその理由を問われ、自分一人ではどうこうできない人間関係の問題であることを示唆している[19]。
死去
2018年4月23日、上行結腸がんのため死去した[1]。71歳没。
死去4日前の19日にBS-TBSとTBSチャンネル2で生放送された横浜DeNAベイスターズ対読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)で解説を行ったのが最後のメディア出演となった。2017年頃から解説における衣笠の声のかすれが心配されており、この日の放送でも画面に映る衣笠の表情が硬く時折声が聞き取れない部分もあったため[20]、視聴者らが衣笠の声の異変や体調を不安視していた矢先の訃報であった[21]。TBSも衣笠の体調を考慮しこの日の中継は急遽槙原寛己とのダブル解説体制としていた。その槙原もこの日の衣笠は体調が思わしくなくなかなか声が出ない状態だったと語っている[22]。なお本人の希望もあり4月26日にも同局で解説者として出演する予定だったという。
同年4月28日から4月30日まで、広島球団は対阪神タイガースとの3連戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)を衣笠の追悼試合とし、広島の監督・コーチ・選手・スタッフが喪章を着用して試合に臨んだ[23]。28日の試合前には黙祷が捧げられた[24]。
逸話
人物
「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった[25]。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された[10]。
1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという[10][26]。
1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した[10]。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた[27]。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は泣きながら朝まで素振りを続けたが、関根は2008年9月27日のフジテレビ739『プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。
1979年の「江夏の21球」で知られる日本シリーズ(対近鉄バファローズ)第7戦では、9回裏の近鉄の攻撃の際にブルペンでリリーフ投手を用意させていた古葉竹識監督の采配に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた[28][29][30]。BS朝日『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』でこの場面を振り返り、「江夏が怒っているのはよく分かったが、どうしても勝ちたくて、江夏に何を言ったら効果的か、マウンドに行く間、考えていた」と話した[31][32]。広島でチームメイトになった江夏とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた[33]。
極度の偏食で、魚が苦手で肉しか食べられない[34]。下柳剛との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を「野菜は牛が食うとる」と一蹴したという[35][36]。
無類のワイン好きであり、高価なワインを多数所蔵していたが、ドクターストップをかけられていたこともある。
野球
現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面、三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割以上はたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働22年で100三振以上のシーズンが9回あったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。
シーズン打率3割到達経験なしの通算2000安打達成者は柴田勲、田中幸雄の2名のみだが、2000安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズン(1984年)が2000安打達成後のためである。また、打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治とイチローの2人のみ)。
元阪神タイガースの江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠にとっても通算1000個目となる三振であった。
その一方で球史に残る強打者でありながら通算犠打数は88と、本塁打を500本以上を記録した打者の中でも突出して多い[37]。衣笠がチームプレイに徹していた証左でもある。
通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、振る舞いは非常に紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら一塁へ向かっていた。1979年8月1日の対巨人戦で西本聖から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。大島康徳は「ただ一人だけ、僕がそういうとき(死球や危ない球が来たとき)の対応で、すごいな、カッコいいなと思ったのが広島の衣笠祥雄さんです。あの人は危ない球だろうが、当てられようが、ほとんど顔色を変えず、当たったときもその個所を手でサッとはらい、タタタッと一塁に向かった。ダンディでしたね。もちろん、衣笠さんは避け方もうまかった。逃げるのが下手な選手なら、あんなに当てられているうちに何度も大ケガをしてますよ。」と述べている[38]。
連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」という言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日にカル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝の藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。
本人は自分の記録を抜いてくれたことを非常に喜んでいたといい、後々リプケンとは親友にもなった。
一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。1986年以降は成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年当時、三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。
広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。また、長崎県長崎市布巻町(旧:三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。
NHK特集で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。
田淵幸一(阪神)が1970年8月26日の対広島戦(阪神甲子園球場)で外木場義郎から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負ったことをきっかけとして、安全対策から日本野球機構が耳あて付きヘルメットの導入を決めた際には、衣笠は「視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と反対した。この主張が認められ、プロで一定年数活躍した選手には例外的に耳なしヘルメットが認められた[39]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965 | 広島 | 28 | 46 | 44 | 3 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | .159 | .178 | .250 | .428 |
1966 | 32 | 40 | 34 | 3 | 5 | 3 | 1 | 0 | 10 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 2 | 9 | 1 | .147 | .275 | .294 | .569 | |
1967 | 28 | 52 | 48 | 6 | 12 | 2 | 0 | 2 | 20 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 13 | 2 | .250 | .308 | .417 | .724 | |
1968 | 127 | 463 | 395 | 52 | 109 | 19 | 2 | 21 | 195 | 58 | 11 | 4 | 1 | 2 | 54 | 0 | 11 | 76 | 11 | .276 | .377 | .494 | .872 | |
1969 | 126 | 485 | 428 | 43 | 107 | 12 | 0 | 15 | 164 | 46 | 32 | 15 | 5 | 1 | 40 | 1 | 11 | 73 | 17 | .250 | .330 | .383 | .713 | |
1970 | 126 | 459 | 406 | 44 | 102 | 10 | 3 | 19 | 175 | 57 | 13 | 5 | 2 | 1 | 42 | 3 | 8 | 81 | 14 | .251 | .333 | .431 | .764 | |
1971 | 130 | 543 | 460 | 72 | 131 | 18 | 2 | 27 | 234 | 82 | 12 | 11 | 2 | 2 | 64 | 3 | 15 | 71 | 10 | .285 | .390 | .509 | .898 | |
1972 | 130 | 565 | 498 | 67 | 147 | 18 | 1 | 29 | 254 | 99 | 12 | 7 | 0 | 6 | 49 | 5 | 12 | 77 | 16 | .295 | .372 | .510 | .882 | |
1973 | 130 | 529 | 454 | 52 | 94 | 12 | 1 | 19 | 165 | 53 | 6 | 3 | 4 | 3 | 65 | 6 | 3 | 73 | 17 | .207 | .310 | .363 | .674 | |
1974 | 130 | 529 | 471 | 72 | 119 | 10 | 1 | 32 | 227 | 86 | 7 | 5 | 0 | 4 | 48 | 2 | 6 | 78 | 14 | .253 | .330 | .482 | .811 | |
1975 | 130 | 532 | 479 | 66 | 132 | 22 | 1 | 21 | 219 | 71 | 18 | 4 | 0 | 4 | 44 | 2 | 5 | 61 | 21 | .276 | .343 | .457 | .800 | |
1976 | 130 | 569 | 522 | 82 | 156 | 26 | 2 | 26 | 264 | 69 | 31 | 14 | 5 | 1 | 31 | 2 | 10 | 84 | 19 | .299 | .350 | .506 | .856 | |
1977 | 130 | 582 | 514 | 88 | 136 | 22 | 2 | 25 | 237 | 67 | 28 | 15 | 8 | 1 | 53 | 1 | 6 | 81 | 11 | .265 | .340 | .461 | .801 | |
1978 | 130 | 547 | 461 | 81 | 123 | 18 | 1 | 30 | 233 | 87 | 9 | 13 | 2 | 4 | 69 | 8 | 11 | 83 | 14 | .267 | .375 | .505 | .881 | |
1979 | 130 | 478 | 410 | 82 | 114 | 21 | 2 | 20 | 199 | 57 | 15 | 4 | 4 | 0 | 55 | 4 | 9 | 72 | 9 | .278 | .376 | .485 | .861 | |
1980 | 130 | 549 | 489 | 79 | 144 | 20 | 0 | 31 | 257 | 85 | 16 | 6 | 6 | 2 | 42 | 2 | 10 | 89 | 6 | .294 | .362 | .526 | .888 | |
1981 | 130 | 553 | 495 | 82 | 134 | 23 | 2 | 30 | 251 | 72 | 7 | 7 | 8 | 2 | 40 | 3 | 8 | 83 | 16 | .271 | .335 | .507 | .842 | |
1982 | 130 | 551 | 483 | 74 | 135 | 22 | 0 | 29 | 244 | 74 | 12 | 2 | 12 | 2 | 44 | 0 | 10 | 89 | 10 | .280 | .352 | .505 | .857 | |
1983 | 130 | 557 | 496 | 86 | 145 | 25 | 1 | 27 | 253 | 84 | 8 | 4 | 6 | 2 | 49 | 4 | 4 | 89 | 10 | .292 | .361 | .510 | .871 | |
1984 | 130 | 542 | 490 | 79 | 161 | 25 | 1 | 31 | 281 | 102 | 11 | 1 | 6 | 7 | 34 | 2 | 5 | 83 | 13 | .329 | .378 | .573 | .952 | |
1985 | 130 | 540 | 480 | 77 | 140 | 16 | 0 | 28 | 240 | 83 | 10 | 5 | 6 | 5 | 46 | 2 | 3 | 77 | 12 | .292 | .354 | .500 | .854 | |
1986 | 130 | 520 | 477 | 42 | 98 | 11 | 0 | 24 | 181 | 59 | 4 | 2 | 4 | 0 | 32 | 2 | 7 | 80 | 10 | .205 | .266 | .379 | .645 | |
1987 | 130 | 403 | 370 | 40 | 92 | 17 | 0 | 17 | 160 | 48 | 2 | 2 | 6 | 1 | 23 | 3 | 3 | 61 | 13 | .249 | .297 | .432 | .730 | |
通算:23年 | 2677 | 10634 | 9404 | 1372 | 2543 | 373 | 23 | 504 | 4474 | 1448 | 266 | 130 | 88 | 50 | 931 | 55 | 161 | 1587 | 267 | .270 | .345 | .476 | .820 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- MVP:1回 (1984年)
- ベストナイン:3回 (1975年、1980年、1984年)
- ゴールデングラブ賞:3回 (1980年、1984年、1986年)
- 月間MVP:4回 (1975年6月、1979年9月、1982年6月、1983年7月)
- 正力松太郎賞:1回 (1984年)
- 日本プロスポーツ大賞
- 大賞:1回 (1984年)
- 殊勲賞:1回 (1987年)
- 国民栄誉賞 (1987年)
- 広島県民栄誉賞 (1987年)
- 京都市市民栄誉賞 (1987年)[40]
- 新語・流行語大賞 特別賞 (1987年、「鉄人」)
- 野球殿堂競技者表彰(1996年)
記録
- 初記録
- 初出場:1965年5月16日、対中日ドラゴンズ7回戦(中日スタヂアム)、9回表に佐々木勝利の代打で出場
- 初先発出場:1965年7月25日、対大洋ホエールズ15回戦(広島市民球場)、8番・捕手で先発出場
- 初安打:同上、3回裏に及川宣士から
- 初得点:同上、3回裏に興津立雄の2点適時二塁打で記録
- 初本塁打・初打点: 1965年8月22日、対阪神タイガース15回戦(広島市民球場)、3回裏に村山実からソロ
- 節目の記録
- 100本塁打:1972年7月18日、対阪神タイガース14回戦(岡山県野球場)、3回裏に江夏豊から左越2ラン ※史上35人目
- 150本塁打:1974年6月9日、対中日ドラゴンズ9回戦(中日スタヂアム)、8回表に三沢淳から左越逆転決勝3ラン ※史上68人目
- 1000試合出場:1975年4月24日、対大洋ホエールズ3回戦(広島市民球場)、5番・三塁手で先発出場 ※史上178人目
- 1000本安打:1976年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、4回表に三沢淳から中前安打 ※史上95人目
- 200本塁打:1976年8月28日、対大洋ホエールズ20回戦(川崎球場)、1回表に根本隆から中越先制ソロ ※史上25人目
- 250本塁打:1978年6月8日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、2回表に田村政雄から先制2ラン ※史上14人目
- 1500試合出場:1978年9月25日、対ヤクルトスワローズ24回戦(広島市民球場)、7番・三塁手で先発出場 ※史上60人目
- 1500本安打:1980年4月9日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、3回裏に野村収から中前安打 ※史上37人目
- 300本塁打:1980年6月1日、対中日ドラゴンズ9回戦(広島市民球場)、1回裏に藤沢公也から左中間へ先制ソロ ※史上13人目
- 1000三振:1980年9月6日、対阪神タイガース18回戦(広島市民球場)、1回裏に江本孟紀から ※史上6人目
- 3000塁打:1981年7月21日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦からソロ ※史上17人目
- 1000打点:1982年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、7回裏に水谷啓昭から2ラン ※史上14人目
- 350本塁打:1982年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、4回裏に野村収から左越3ラン ※史上11人目
- 1000得点:1982年6月4日、対読売ジャイアンツ10回戦(広島市民球場)、5回裏に山本浩二の適時打で生還し記録 ※17人目
- 2000試合出場:1982年8月29日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手で先発出場 ※史上18人目
- 3500塁打:1983年7月10日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦から左中間へ先制ソロ ※史上12人目
- 2000本安打:1983年8月9日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、5回裏に小林繁から左前安打 ※史上16人目
- 300二塁打:1983年9月1日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、4回表に野村収から ※史上24人目
- 400本塁打:1983年9月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、4回表に宮本賢治から左越ソロ ※史上9人目
- 4000塁打:1985年7月5日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に福間納から左中間二塁打 ※史上9人目
- 450本塁打:同上、8回表に山本和行から左越ソロ ※史上8人目
- 350二塁打:1986年5月11日、対読売ジャイアンツ7回戦(広島市民球場)、4回裏に西本聖から右翼線二塁打 ※史上16人目
- 2500試合出場:1986年8月10日、対中日ドラゴンズ15回戦(広島市民球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上4人目
- 1500三振:同上、7回裏に都裕次郎から ※史上初
- 2500本安打:1987年6月14日、対中日ドラゴンズ11回戦(徳山市野球場)、4回裏に江本晃一から左越ソロ ※史上4人目
- 500本塁打:1987年8月11日、対ヤクルトスワローズ15回戦(広島市民球場)、4回裏に尾花高夫から左越ソロ ※史上5人目
- その他の記録
- 2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録[41]
- 678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位
- サイクル安打:1976年7月7日、対読売ジャイアンツ16回戦(札幌市円山球場) ※史上28人目、初回先頭打者本塁打でのサイクル安打達成はNPB史上初[42]
- 22年連続シーズン盗塁(1966年~1987年)※広瀬叔功と並んで日本タイ記録
- 20年連続シーズン2桁本塁打(1968年 - 1987年)※歴代4位タイ
- 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ
- 5試合連続本塁打(1971年6月6日 - 6月10日)
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1977年10月4日 - 10月5日)
- 1イニング2死球:1976年8月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、3回表に青山久人・金井正幸から ※日本記録
- 代打の代打で満塁本塁打:1973年10月10日、対ヤクルトスワローズ戦 ※NPB史上初[43]
- オールスターゲーム出場:13回 (1971年、1974年 - 1977年、1980年 - 1987年)
背番号
- 28 (1965年 - 1974年)
- 3 (1975年 - 1987年)(永久欠番)
関連情報
CM
- ますやみそ
- アートネイチャー(現役時代末期)
出演番組
- プロ野球中継(解説)
- SAMURAI BASEBALL(TBSテレビ系列・BS-TBS。1988年より担当。タイトルは2016年以降のもの)
- TBSラジオ エキサイトベースボール(TBSラジオ。1988年から担当。タイトルは2006年以降のもの)
- RCCカープナイター(RCCラジオ)
- サンデーTOKYO(1989年4月16日 - 1990年9月30日、日曜13:00 - 14:55。TBSラジオ)[44]
- 衣笠祥雄のほっとひといき(1991年10月7日 - 1992年4月3日、平日18:00 - 19:00のワイド番組内で放送[45]。TBSラジオ)
- 鉄人ミュージック(2007年開始、不定期。プロ野球中継が無い日に放送されるTBSラジオ『プロ野球ネットワーク』内の1コーナー)
- 午後は○○おもいッきりテレビ(日本テレビ。コメンテーター)
- 秘密のケンミンSHOW(読売テレビ)
- 幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(TBSテレビ、1985年) - 野球に魅せられた男 役
- サンデーモーニング(TBSテレビ、コメンテーターとして)
- RCC開局65年記念特別番組「発掘!スクープ映像 広島はここから始まった~よみがえる昭和の記憶~」(2017年12月27日、RCCテレビ)
連載
- コラム
- カープモバイルサイトRCC広島カープ『衣笠祥雄の鉄人の流儀』 - 6年に渡り連載された。
著書
- 『限りなき挑戦―鉄人と呼ばれるオレの野球人生』(旺文社・1984/12) ISBN 4-01-009824-4
- 『自分とどう闘いつづけるか―継続こそ力なり!』(PHP研究所・1985/04) ISBN 4-569-21554-8
- 『ルー・ケーリッグを超えて―忍耐野球の軌跡』(ベースボール・マガジン社・1987/09) ISBN 4-583-02646-3
- 『お父さんからきみたちへ―明日(あす)を信じて』(講談社・1988/10) ISBN 4-06-203834-X
- 『人生、フルスイング 』(佼成出版社・1993/04) ISBN 4-333-01633-9
- 『野球の夢一途に』(日本放送出版協会・1998/03) ISBN 4-14-080357-6
- 衣笠祥雄監修、野球と野球人を考える会編 『野球道とは何か』(KKロングセラーズ・2008/1) ISBN 9784845408030
- 『野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡』(ベースボール・マガジン社・2008/12) ISBN 978-4583101293
- 『水は岩をも砕く(男のVシリーズ)』(KKロングセラーズ・2008/12) ISBN 978-4-8454-2136-7
- 『カープ愛。広島はなぜ「人作り」が優れているのか――76の思考』(青志社・2015/4) ISBN 978-4865900040
- 『鉄人のひとり言』(青志社・2016/7) ISBN 978-4865900309
- 共著
関連書籍
- 立木義浩撮影『親と子の情景(2) 立木義浩写真集』(1998年9月)ISBN 9784620605463
- 祥雄・友章親子の写真が掲載。
絵本
- 文・絵 関屋敏隆 『鉄人衣笠』(1992年6月、くもんの創作絵本)
- 文・絵 関屋敏隆 『鉄人衣笠』(2018年6月25、小学館)復刻版
関連映像作品
- 『17年間休まなかった男〜衣笠祥雄の野球人生〜』(『NHK特集』No.980。1986年6月6日、NHK総合テレビジョン放送。放送時間:45分) ※NHKアーカイブスでも一般公開されている[46]。2018年4月30日に追悼番組『"鉄人"の闘志 永遠に〜追悼・衣笠祥雄さん〜』(17:10 - 18:00)として放送された[47]。
- 『追悼 衣笠祥雄さん』(2018年4月23日、RCCテレビ)[48]
- 『追悼特別番組 ありがとう 鉄人 衣笠祥雄さん』(2018年4月28日、広島テレビ)
- 『限りなき挑戦―鉄人・衣笠 栄光の軌跡』(1987年発売。東京放送、パック・イン・ビデオ)
漫画・アニメ
- 野球狂の詩 水原勇気とドリームボール対決をしている。
所属事務所
脚注
- ↑ 1.0 1.1 ““鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事”. 日刊スポーツ (2018年4月24日). . 2018閲覧.
- ↑ 衣笠祥雄さん死去 平安高出身 府内惜別の声「子供たちに夢与えた」/京都 毎日新聞、2018年4月25日
- ↑ 『データバンクにっぽん人』、佐藤正弥編、現代書林、1982年、13頁
- ↑ 『限りなき挑戦』より、リポーターの山際淳司が出身地として馬町を取材するシーンを見ることができる(テロップでも馬町の名が表示されている)。馬町は京都女子大学付近に位置している。
- ↑ 『テレビ・タレント人名事典』第6版(2004年、日外アソシエーツ編・発行/紀伊國屋書店発売)ISBN 9784816918520
- ↑ 「鉄人」衣笠祥雄さん死去 赤ヘル黄金期支えたレジェンド スポニチアネックス、2018年4月25日。
- ↑ 山本浩二、古葉竹織らが語る“鉄人”衣笠祥雄の真実「監督をしなかったことが残念」 AERA、2018年4月28日。
- ↑ プロ野球を創った名選手・異色選手400人194p、新宮正春、米田厚彦、1999年、講談社、ISBN 978-4062645218
- ↑ 『限りなき挑戦』
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 偉業 2215試合連続出場 衣笠祥雄さん死去 骨折中も休まず 東京新聞、2018年4月25日。
- ↑ ナンバー豪打列伝2 P.95~96
- ↑ 【掛布雅之氏特別観戦記】広島・菊池に若き日の衣笠さんの野性味を見た スポーツ報知、2018年4月29日。
- ↑ 江夏豊左腕の誇り P.292
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 宇佐美徹也プロ野球データブック P.118~121
- ↑ ついに2131試合 衣笠祥雄 世界記録に自ら祝砲 - スポニチアネックス 日めくりプロ野球 2010年6月配信
- ↑ 2016年4月1日に商号変更。
- ↑ 『TBS50年史』資料編P234掲載の「主なスポーツ番組解説者」においても、1988年から2001年現在のプロ野球解説者としてリスト内に明記されている。
- ↑ “衣笠さん 球界一の洋楽通だった 絶妙センス“ブルーノ・マーズ+江夏の21球””. スポーツニッポン. (2018年4月25日) . 2018閲覧.
- ↑ “衣笠氏、監督もコーチもしない「理由」 ぎりぎりの本音に感謝”. スポーツニッポン. (2018年4月25日) . 2018閲覧.
- ↑ “衣笠祥雄さん死去 今月19日に解説したばかり 声かすれ ネット上では心配の声も”. スポニチアネックス (スポーツニッポン) . 2018閲覧.
- ↑ 衣笠祥雄、異様な「かすれ声」に心配続出 テレビ局・事務所に聞くと... J-CASTニュース、2018年4月20日、2018年4月24日閲覧
- ↑ 衣笠氏と最後に解説の槙原氏「本当に声が出なかった、喋りたくても喋れない…」 デイリースポーツ、2018年4月24日
- ↑ 4月28日(土)~30日(休) 阪神戦について 広島東洋カープ公式サイト
- ↑ プロ野球:背番号「3」で黙とう 衣笠さん追悼試合 広島 毎日新聞、2018年4月28日
- ↑ 安仁屋宗八氏 衣笠氏訃報に「鉄人なんだから元気でいてほしかった」 デイリースポーツ、2018年4月25日。
- ↑ 衣笠氏 思い知った野球できる幸せ…ベトナム戦争時、死覚悟の米兵に「目覚めた」 スポニチアネックス、2018年4月25日。
- ↑ 衣笠さん、豪快すぎる鉄人伝説 深夜2時に泥酔パンツ一丁で素振り… (2/3ページ) ZAKZAK、2018年4月25日。
- ↑ 衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった スポーツ報知、2018年4月25日。
- ↑ 【急逝・衣笠氏追悼秘話】「江夏の21球」生んだ鉄人の気配り 東京スポーツ、2018年4月25日。
- ↑ 名作ノンフィクション 「江夏の21球」はこうして生まれた 【連載第2回】 Sports Graphic Number、2009年4月2日。
- ↑ 『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』バックナンバー10月10日(土) ゲスト:衣笠祥雄(野球解説者)
- ↑ 【『江夏の21球』対談 衣笠祥雄 後編】 | カドブン カドブン、2017年7月21日。
- ↑ 江夏氏、衣笠氏の一言で生まれた「21球」…訃報に沈痛「宝物だった」 スポニチアネックス、2018年4月25日。
- ↑ 【追悼 衣笠祥雄氏】華麗なる文化人との交流 文壇バーの常連だった 東京スポーツ、2018年4月25日。
- ↑ ガンバレ日本プロ野球!?(J SPORTS)2011-2012シーズン・第6回放送での下柳の発言。
- ↑ 村田修一も『ズームイン!!サタデー』(「プロ野球熱ケツ情報」2017年6月24日放送分)にて同様の発言をしている。
- ↑ 2位は山本浩二の49であり、他の打者は軒並み10以下である
- ↑ 週刊ベースボール2018年9月10日号大島流『危険球に負けない方法』【大島康徳の負くっか魂!!第75回】、78-79頁
- ↑ 二宮清純「田淵幸一、“頭部死球”の産物」 現代ビジネス 2013年6月7日付
- ↑ “京都市市民栄誉賞”. 京都市. . 2017閲覧.
- ↑ 達成当時は世界記録だったが1996年6月12日にMLBのカル・リプケンによって塗り替えられた
- ↑ 週刊ベースボール2014年9月22日号109ページ
- ↑ 週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ
- ↑ 『TBS50年史』資料編P198掲載ラジオ番組一覧表または『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』収録ラジオ番組リストより、『サンデーTOKYO』を参照。
- ↑ 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録のラジオ番組リストより、『衣笠祥雄のほっとひといき』を参照。
- ↑ NHK特集 17年間休まなかった男~衣笠祥雄の野球人生~ NHK名作選(動画・静止画)_NHKアーカイブス
- ↑ “衣笠さん追悼し「NHK特集」32年ぶり放送”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2018年4月26日)
- ↑ 広島地元局RCC 衣笠祥雄さん追悼特番を緊急編成 安仁屋宗八氏と山崎隆造氏が出演 スポニチアネックス、2018年4月24日
参考資料
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 資料編
- DVD-ROM『ハイブリッド検索編』
- 限りなき挑戦―鉄人・衣笠 栄光の軌跡(#関連映像作品を参照)
- 各種外部リンク
関連項目
外部リンク
※インターネットアーカイブの保存キャッシュも含む。
- キャスト・プラス(所属事務所)のプロフィール
- 衣笠祥雄プロフィール(日本プロ野球名球会公式サイト)
- 衣笠の打撃フォームを撮影した動画(名球会公式サイト。movファイル) - リンク先は、インターネットアーカイブ2012年4月29日付保存キャッシュ
- 衣笠祥雄コラム(名球会公式サイト。原典:財団法人産業雇用安定センター刊『かけはし』2000年5月号) - リンク先は、インターネットアーカイブ2008年10月14日付保存キャッシュ
- SMS所属当時のプロフィールの保存キャッシュ一覧(1999年 - 2000年) - インターネットアーカイブより
- 2001年7月当時のプロフィール(CMAサイト内) - インターネットアーカイブ2001年7月11日付保存キャッシュ
- 2003年 - 2007年のプロフィール(CMAサイト内) - インターネットアーカイブの保存キャッシュ一覧
- 2009年2月当時のプロフィール(CMAサイト内) - インターネットアーカイブ2009年2月24日付保存キャッシュ
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