「村田英雄」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>Allen Wayne
 
(1版 をインポートしました)
 
(相違点なし)

2018/8/17/ (金) 19:36時点における最新版

村田英雄
出生名 梶山勇
別名 京山茶目丸(前々名)
酒井雲坊(前名)
二階堂伸
北くすお
生誕 (1929-01-17) 1929年1月17日
出身地 日本の旗 日本, 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市
死没 (2002-06-13) 2002年6月13日(73歳没)
大阪市都島区
ジャンル 演歌
職業 演歌歌手俳優
担当楽器
活動期間 1958年 - 2002年
レーベル 日本コロムビア(1958 - 1971)
東芝EMI(1971 - 2001)
事務所 新栄プロダクション

村田 英雄(むらた ひでお、公称1929年(昭和4年)1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本演歌歌手俳優佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)である。本名、梶山 勇。血液型はAB型。新栄プロダクションに所属していた。愛称は、ムッチー

生涯

浪曲師から歌手へ

福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、実父・広沢仙遊、実母・矢野ツタ子の子として生まれる。生後まもなくツタ子の姉弟子である出利葉スミ子の養子となる。その後、スミ子が梶山春雄と結婚し、一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。

4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し修行を開始する。64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。

1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した[1]

1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。

1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)前社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。数年後に妻子を呼び寄せる。新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。

1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。

  • 尚、従来、舞台と映画で知られていたこの作品を取り上げたのは、師匠である酒井雲自身が浪曲界でも屈指の読書家であり『文芸浪曲』(文字の読み書きの出来ない人々にも文学に親しんでもらおうと考えだした芸題群の事)という浪曲のジャンルを確立し、この事を見習って、自身も北九州を舞台とした代表的な文学作品であった同作を取り上げた事と、文学界きっての偏屈者と噂された原作者の岩下俊作自身が浪曲ファンで浪曲化を承諾したといわれる。

しかし、同年に三船敏郎&高峰秀子主演によるリメイク版映画の公開があったものの、ヒットに恵まれず(わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。

1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将ミリオンセラーとなり、翌1962年第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。

「王将」は1962年三國連太郎&淡島千景主演(監督:伊藤大輔、脚本:伊藤大輔東映東京)、1973年には勝新太郎&中村玉緒主演 (監督:堀川弘通、脚本:笠原良三、東宝)でそれぞれ、映画化され、村田の代表作の一つとなった。

1973年、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。

1988年、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすお』のペンネームで作詞、作曲もこなしている。

俳優としては1939年新興キネマ京都作品の少年浪曲師としての初出演を皮切に、1974年まで任侠映画等に多数出演。身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。鶴田浩二高倉健北島三郎千葉真一らと多数共演した。

持病の糖尿病が再び悪化した1991年以降も闘病生活を送りながらも「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、話題を集めた。

  • 1993年 芸能生活60周年を記念し、『俺は村田だ!!』を出版。
  • 1997年 半生記『生命あってこそ』を出版。芸能生活65周年記念パーティーを開く。
  • 1999年11月13日 福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)の生家に石柱を建立、翌2000年10月18日に若宮八幡宮に生誕地記念碑が建立される。
  • 2000年 石田須眞子と再婚(但し未入籍)。

闘病

村田の人生は「糖尿病との闘い」でもあった。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであった。こうした生活習慣が影響し、35歳で発症。

発症から約8年後の1972年から1973年にかけて病状悪化のため一時入院。その後1991年、長年連れ添った妻・ユイ子が死去。その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった先輩歌手の春日八郎も死去したことで、心労が重なり再び病状が悪化、見かねた周囲の関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(『全国村田英雄後援会』幹部)で「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(本妻も生前「この人ならば」と半ば公認していた)石田須眞子(2009年11月1日、78歳没)が住む大阪府門真市に身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。また同地で村田の闘病生活の支えとなっていた須眞子と「男としてけじめをつける」と再婚(2000年5月発表)。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。

体調管理を行い小康を得ていたが1995年頃より糖尿病の合併症が深刻となり、同年8月には急性心筋梗塞欝血性心不全で一時意識不明に陥る。翌1996年1月には「三人の会」の仲間・三橋美智也が亡くなり、「この前、私が倒れたとき真っ先に駆けつけて頂いたのが(三橋)先輩だった。まさか先に逝かれるとは」と思いを語っている。

そうした心労が祟り、1996年2月白内障手術のための入院中に倒れ、6時間におよぶ心臓バイパス手術を受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。さらに5月には右下肢閉塞性動脈硬化症壊疽状態に陥り、右膝下12センチで切断。このとき「一切無になりたかった」と剃髪(病の影響で90年代以降、かつらを着用していた)。以後は坊主頭に作務衣がトレードマークになった。

翌97年には大月みやこ公演への特別出演という形で全国公演を実施。回復ぶりを示したものの、同年10月に低血糖発作(今まで呑んだことの無かった白ワインを酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。12月には糖尿病性網膜症のため左目を手術。2000年1月には左足も同様に切断。それまでは義足で歩いていたが完全に車椅子生活となる。さすがの村田も大きなショックを受けるも「足がなくても歌は歌える」と自ら鼓舞をするなど、ますますその存在感を示した。

2001年4月、同じ浪曲師出身で長年のライバルと言われた三波春夫も死去。村田は「もっと歌って欲しかった。非常に寂しい」「これで生き残ってるのは俺一人だけだな…」と憔悴しきった表情でインタビューに答えている。同年6月に「私にはもう時間がない、生きているうちに何としてでも世に出さなければ」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。

2002年5月に体調を崩し入院していたが、6月13日午前9時52分、合併症の肺炎のため、大阪市都島区大阪市立総合医療センターで死去[2][3]。73歳没。戒名は「玉泉院英聲日楽大居士」(ぎょくせんいんえいしょうにちぎょうだいこじ)。没後に勲四等瑞宝章を授与された(勲記は没日の2002年6月13日付)。

共演経験のある室田日出男が3日後に死去、ビートたけしは「村田さんの次は室田さんが…」と故人を悼んだ。

なお死去5日前の6月8日には、スポーツ報知が訃報の誤報を一面に掲載。その情報を受けてテレビ番組「やじうまワイド」、東京スポーツ日刊ゲンダイが同様に報道し、その後訂正・謝罪するという騒動が発生している。

記念館

2004年5月23日に地元の有志により村田の業績を後世に伝えるため故郷の佐賀県相知町(現唐津市)に「村田英雄記念館」がオープンした。旧・佐賀銀行相知支店として使用されていた店舗を改装した館内では、遺品の展示や、楽屋の再現コーナー、出演映画や出演番組を放映する音響コーナーなどがあり、喫茶コーナーでは遺品のカップや食器をそのまま利用して提供しており、BGMのリクエストにも応えている。

年に1回「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。2009年には福岡県うきは市も合同に「生誕祭」を行い、村田英雄を通して両市の交流が深まることとなった。

2016年1月17日に地元の寄付を募り.JR相知駅構内に記念碑が建立される。

NHK紅白歌合戦出場歴

NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、73年の第24回紅白は糖尿病治療のため入院中だったため事前に出場辞退を表明。70年代はヒットが出ず紅白でも過去のヒットを歌う形が長く続いていたが79年に12年前に発売した「夫婦春秋」が有線リクエストで人気を得て、それに相乗し当時の新曲「人生峠」が20万枚を超えるヒット。続けて「夫婦酒」もヒットしレコード歌手の第一線に返り咲く。1980年代に入っても、発売する曲はほとんどオリコンランキングにチャートインするなど根強い人気を見せ、1989年までに通算27回の出場を果たした。しかし、コロムビアに所属していた女性歌手がトリになることが多かった事情もあり、他の常連歌手と異なりコロムビアの村田は結局白組トリを一度も務めておらず、トリ未経験の歌手としては最多出場回数となっている[4]1962年第13回1979年第30回1982年第33回では村田が白組トリの候補として挙がっていた。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1961年(昭和36年)/第12回 王将 06/25 松山恵子(1)
1962年(昭和37年)/第13回 2 王将(2回目) 23/25 松山恵子(2)
1963年(昭和38年)/第14回 3 柔道一代 14/25 畠山みどり
1964年(昭和39年)/第15回 4 皆の衆 13/25 島倉千代子(1)
1965年(昭和40年)/第16回 5 柔道水滸伝 20/25 水前寺清子(1)
1966年(昭和41年)/第17回 6 祝い節 20/25 水前寺清子(2)
1967年(昭和42年)/第18回 7 浪花の勝負師 08/23 越路吹雪
1968年(昭和43年)/第19回 8 竜馬がゆく 19/23 扇ひろ子
1969年(昭和44年)/第20回 9 王将(3回目) 15/23 西田佐知子
1970年(昭和45年)/第21回 10 闘魂 01/24 水前寺清子(3) トップバッター
1971年(昭和46年)/第22回 11 人生劇場 16/25 いしだあゆみ
1972年(昭和47年)/第23回 12 ここで一番 07/23 佐良直美
1974年(昭和49年)/第25回 13 皆の衆(2回目) 16/25 ペドロ&カプリシャス
1975年(昭和50年)/第26回 14 無法松の一生 10/24 水前寺清子(4)
1976年(昭和51年)/第27回 15 男の土俵 16/24 水前寺清子(5)
1977年(昭和52年)/第28回 16 男だけの唄 15/24 由紀さおり
1978年(昭和53年)/第29回 17 人生劇場(2回目) 22/24 島倉千代子(2)
1979年(昭和54年)/第30回 18 人生峠 21/23 青江三奈(1)
1980年(昭和55年)/第31回 19 夫婦酒 21/23 青江三奈(2)
1981年(昭和56年)/第32回 20 なみだ坂 15/22 青江三奈(3)
1982年(昭和57年)/第33回 21 夫婦春秋 19/22 石川さゆり(1)
1983年(昭和58年)/第34回 22 空手一代 14/21 都はるみ
1984年(昭和59年)/第35回 23 冬の海 11/20 牧村三枝子
1985年(昭和60年)/第36回 24 男の一生 18/20 石川さゆり(2)
1986年(昭和61年)/第37回 25 男吉良常 18/20 島倉千代子(3)
1987年(昭和62年)/第38回 26 男の花吹雪 14/20 神野美伽
1989年(平成元年)/第40回 27 王将(4回目) 第1部に出演 (対戦相手なし)

テンプレート:注

人物・エピソード

ギャグとムッチーブーム

1980年代に入るとテレビの露出は減り、いわゆる「大御所」的なポジションになっていたが、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。

そもそもの発端は、1981年に始まった『ビートたけしのオールナイトニッポン』内の「デカ頭コーナー」だった。芸能界では有名な三波春夫とのエピソードから派生し、「村田先生の頭はデカい」という話になり、どの位デカいかのネタを投稿するコーナーが出来た。「セーターを試着しようとしたら、頭が出なかった」等の「頭がデカい」ネタから徐々にトンチンカンな村田の言動や行動をネタにする内容に転じて行き、リスナーの間でブームになる。その噂を聞きつけた村田本人からニッポン放送に電話があり、急遽番組に出演して行ったトークが好評で、任侠物のラジオドラマを作るなど、同番組に度々出演するようになる。当時いわゆる「業界聴取率」が高かった同番組がテレビ番組などへも影響を与え、従来は出演しなかったバラエティー番組コント番組などへも出演の幅が広がり、「ムッチーブーム」と言われるまでになったものである。

  • 代表的なネタ
    • ホテルフロントに「村田だ!!キー出せ!!」と言った後、売店で「村田だ!!ガムくれ!!」と言った。
    • NHKのディレクターに、「ずぶの素人」と言おうとして「バカ野郎!俺は、ブスの素人じゃねえんだぞ!」と言った。
    • バーに行ったとき、キープボトルを出してもらおうとして、「村田だ!ボルト出せ!」と言った。
    • 村田に乗っている車の名を尋ねると「キャデラック」と言おうとして「俺のは…デラックスだ!」と答えた。
    • 海外旅行の際、必要書類の“sex”(性別)の欄に“週2回”と書いた。
    • 飛行機に乗っている時、エコノミークラスを通りかかり揺れた際に「2等なんか乗るから揺れるんだ」。
    • ステーキの焼き具合を聞かれて「しょうが焼き」、「カルビ」と答えた(「ガスで焼け!」とも)。
    • 若手を説教していた時に「人という字はお互いに支え合って」と言いながら「入」と書いた。
    • 舞台の上手・下手(かみて・しもて)を「じょうず・へた」と読んだ(後述)。
    • ラスベガススロットマシンをやり、オレンジの横一線に「みかんなんて貰ったってしょうがねえな」。
    • 出されたコーヒーに砂糖を大量に入れて「うーん、やっぱりコーヒーはブラックに限るな」と言った。
    • ラジオ番組にゲスト出演した際、ヒットチャートを見て「このサウンドトラックと言う歌手はすごいですね、ベスト10に6曲も入ってる!」。
    • 司会者から「この歌は村田さんの『十八番』(ここでは「おはこ」ではなく「じゅうはちばん」)ですね」と尋ねられ、「この歌は3番までしかないですよ。そんなにある訳ないじゃないですか」と答えた。
    • 付き人に向かって「ベートーベンって奴は偉いじゃねえか。俺の歌を作ってるぞ」と、交響曲第3番『英雄(えいゆう)』を指しながら言った。
    • コーヒー専門店で注文の際、コーヒーの銘柄を聞かれ『ネスカフェ』と答えた。
    • リップクリームと間違えて唇にソックタッチを塗っていた。
  • その他にも「(朝食は)和食にしますか?洋食にしますか?」と聞かれ、「バカ野郎!!朝食だ。」と答えたというものや、力うどん(ちからうどん)「かうどんをくれ」と注文した、ABCDE「ABCDヨ」と言った、など数多い逸話があるが、これらの大半は、たけし自身やたけし軍団、高田文夫らたけしのブレーン、或いは当時のハガキ職人、ラジオリスナーらが考えた作り話が広がったものである。
  • ビートたけしと所ジョージが司会を務めるTBS系列の番組「たけし・所のドラキュラが狙ってる」で、清水アキラと共演したことがある。

1983年、ビートたけしのオールナイトニッポンのゲストとして満を持して番組に登場、トーク中心の構成となったが、途中、紹介されるネタを怒るどころか、豪快に笑い飛ばしながら事実を解説し、「いやあ、たけちゃんや聴いてくれている皆さんが、こうしていじってくれるということは芸人冥利に尽きるよ!!!」と終始嬉しそうに語っていた。

この事が機縁となり、後にビートたけしとテレビCM(サントリー「バイオミンX」)で共演を果たした。CMは、バス停にスーツ姿のたけしとなぜかステージ衣装とメイクで書類封筒を持つ村田が並んでおり、村田がたけしに「お勤めですか?」と尋ね、「役所関係に・・・ちょっと」答えるたけしにバイオミンXを勧める。今度はたけしが「お勤めですか?」と尋ねると、村田が「芸能関係に・・・ちょっと」と答える、というコント仕立てのもので、決め台詞は「新しく新発売!」というものだった[5]。ビートたけしが発した「村田だ!」のフレーズは人気となり、清水アキラが'86年頃から始めた村田のものまねでさらに広く浸透した。こうした人気を受け、1989年には村田自身がシングル『あゝ万次郎』のカップリングとして『俺が村田だ』という曲を収録している。たけしがコメンテーターを務める『情報7days ニュースキャスター』(TBS)でも一時、オールナイトニッポン当時のネタを紹介していた。

2014年7月15日に放送された『ニッポン放送開局60周年記念 ラジオで聴いた「忘れられぬミュージック」』で高田文夫は、当時余りにもネタにされ過ぎたことに不満を感じた村田が若い衆に「自分の所に連れてこい」と命じて、たけしと高田を呼びつけ、説教した時の逸話を語っている。この時村田は「いいか、たけちゃん。いや、たけし。お前は漫才師だ。俺は歌手だ。高田、お前は作家だ。お互い仕事のジャングルが違うんだ。俺のジャングル入って来るな。」それを聞いた高田とたけしは「俺らターザンじゃねえ」と小声で呟いた言う。しかし、この話も作り話である可能性は高く、番組パーソナリティーの上柳昌彦からは「それ本当なんですか ?」と突っ込まれているが、高田はあくまで「本当なんだって !」と主張している。

三波春夫との仲

村田と同じ浪曲出身の演歌歌手、三波春夫とは互いにライバル同士という位置付けであり歌番組での競演も多かった。有名であった三波と村田の不仲説は実際のところ、周囲の関係者やマスコミ、世論が作り出した先入観と偏見に近いものがある。村田は三波を先輩歌手として慕い、ゴルフや食事を共にする仲だった。「上手・下手事件」[6]など、半ば面白おかしく伝えられているが、実際はほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度であり、犬猿の仲というほどのものではなかった。

村田が1996年に右脚を切断した際、三波は励ましの電話をかけるなど、晩年まで親交は続いた。村田は基本的に「男の演歌」を保守的なまで一筋に歌い続けたが、三波は後年、自分の持ち歌にハウスサウンドラップを融合させるなど革新的な新しいものにも挑戦しており、仕事に対する考え方や取り組む姿勢、そのスタイルは全く対照的だった。

その他

また作詞家でフランス文学者だった西條八十は当初、王将の作詞を拒み続けたという(将棋を指したこともなかった)。だが、村田が西條の自宅に何度も断られても足を運ぶことでついに了承した。

NHK紅白歌合戦で『王将』を歌った際には、村田本人が3番の歌詞の『何が何でも勝たねばならぬ』の一節を好んでいたこともあり、また『絶対に白組が勝つ』という心意気を込めて必ず1番と3番を歌ったという[7]

また、自ら作詞・作曲を手掛けた曲もあり、作品の中で『二階堂伸』(作詞者名義)、『北くすお』(作曲者名義)というペンネームを用いていた。

東映任侠映画を中心に映画出演が続いたため、「村田は歌をやめたのか」と皮肉られ、その後は一切出演しなかった。

女に手を出すのが早かったという。テレビ番組『たけし・所のドラキュラが狙ってる』で女千人斬りの伝説を認めた。番組内で「千人ぐらいは斬ってるだろうな」と述べている。若き日は『ハヤブサのヒデ』と呼ばれたという。

作品

日本コロムビア在籍時代の歌

1958年 - 1971年

  • 1958年
  • 1959年
    • 1月 よさこい三度笠/江戸の残月
    • 2月 一本木仙太郎節/逢いに来たのか
    • 3月 流れる雲/海の悪太郎
    • 4月 つばくろ一座/人生劇場 作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 - 小説「人生劇場」の原作者である尾崎士郎ゆかりの早稲田大学では第2校歌となっている。校歌版は歌詞が5番まで存在する。もともとは楠木繁夫の曲であったが、楠木繁夫は早世したため知名度が低く、今では村田がオリジナル歌手だと認識されがちである。
    • 6月 人情寄席/徳利と殿様
    • 7月 男沓掛時次郎/流転太鼓
    • 8月 蟹工船/ソーランしぶき 作詞:星野哲郎 作曲:遠藤実
    • 9月 黒田武士/田原坂の美少年 作詞:島田磐也 作曲:不詳
    • 12月 達者でいなよってさ/山っ子故郷
    • 12月 由良さんこちら/赤い夕日の金州城
  • 1960年
    • 2月 日本よいとこ
    • 4月 鼻唄がらす/赤城の三人男
    • 5月 国定忠治/吉良の仁吉
    • 6月 黄門道中参上/すいすい道中
    • 8月 追分三度笠/多助馬子唄 ジャコ萬と鉄/北海の女
    • 9月 船唄三度笠/信濃路無宿
    • 11月 酒造りの唄/庫男の唄 俺は陽気な渡り鳥/船足ぁ軽いぞ
    • 12月 お染半九郎
  • 1961年
    • 2月 新豪傑節/おいどん節 日本晴れだよ
    • 3月 竜馬の恋
    • 3月 侍ニッポン/江戸の白梅 作詞:西條八十 作曲:松平信博 
    • 4月 さのさ太鼓/月の大漁船 ホレホレ音頭
    • 6月 見よまい聞こまいしょべろまい/俺ら深山の木挽でござる 雪磨一本刀/関の弥太っぺ
    • 7月 流転街道
    • 7月 山にかかる夕日
    • 8月 木遣りの兄貴/お江戸勇み肌 海の鴉/勤王ヨサコイくずし
    • 11月 王将/小春月夜 作詞:西條八十 作曲:船村徹 - 当時としては破格の売り上げ150万枚を記録した。戦後初のミリオンセラー曲という説がある(一方では春日八郎の「お富さん」説もある)。この曲が村田の人気を不動のものにした。最終的には300万枚の売り上げ。
  • 1962年
    • 12月 殺陣師段平/浪花の花 作詞:野村俊夫 作曲:船村徹
  • 1963年
  • 1964年
    • 1月 男の土俵/相撲小唄 作詞:二階堂伸 作曲:北くすお - 村田はこの当時大相撲大関であった北葉山英俊と親交があり、北葉山をモデルに自ら作詞・作曲、ヒットさせた。
    • 7月 皆の衆/男関東綱五郎 作詞:関沢新一 作曲:市川昭介 
    • 9月 花と竜 作詞:二階堂伸 作曲:北くすお - 日本テレビドラマ「村田英雄の花と龍」主題歌。
    • 10月 お手を拝借/佐渡の朝吉 作詞:石本美由起 作曲:上原げんと
  • 1965年
    • 8月 宮本武蔵 作詞:有吉伸 作曲:古賀政男
    • 8月 鶺鴒の舞 作詞:南葉二 作曲:古賀政男
    • 9月 柔道水滸伝 作詞:関沢新一 作曲:安藤実親 - フジ系TVドラマ「柔道水滸伝」主題歌。
  • 1966年
    • 4月 独航船の男 作詞:西沢爽 作曲:船村徹
    • 6月 祝い節 作詞:大矢弘子 作曲:和田香苗 - NHK「きょうのうた」用に作成された。
    • 8月 銭形おどり 作詞:石本美由起 作曲:市川昭介 - 香川県観音寺市「銭形まつり」用に作成された。
  • 1967年
    • 4月 「男の城」  作詞:関沢新一 作曲:市川昭介
    • 7月 「夫婦春秋」  作詞:関沢新一 作曲:市川昭介 - 歌手生活10周年記念曲。1979年頃に有線放送でヒットし、オリコンチャート52位。オリコンで約17万枚の売り上げ。同年に日本作詩大賞特別賞受賞。最終的に市川昭介6作目のミリオンセラーとなる。
    • 10月 「浪花の勝負師」  作詞:三浦康照 作曲:山本丈晴 
  • 1968年
    • 1月 「捨てて勝つ」  作詞:赤城慧 作曲:山本丈晴
    • 1月 「太陽に祈ろう」  作詞:赤城慧 作曲:山本丈晴 - 「グループ・サウンズ歌謡」を思わせるアレンジで、村田作品としては異色作である。2006年には『村田英雄おはこ集』のボーナストラックとして初CD化。
    • 8月 「竜馬がゆく」  作詞:赤城慧 作曲:土橋啓二 - 司馬遼太郎原作「竜馬がゆく」より。
  • 1970年5月 「闘魂」  作詞:川内康範 作曲:猪俣公章

東芝EMI在籍時代の歌

1971年 - 2002年

  • 1971年
    • 10月 俺は生きる/男の意地
    • 10月 拝啓 故郷のおふくろさん/ここで一番
  • 1972年
    • 7月 人生の歌/男の酒
    • 7月 鯛網音頭/男ぶし
    • 11月 心意気だよ/傷だらけの狼
  • 1973年
    • 石松ひとり旅/一本刀土俵入り
  • 1974年
    • 1月 めおと雲/ダンチョネ黒田節
    • 10月 息子よ/昭和旅
  • 1975年
  • 1976年
    • 3月 夫婦舟/恋太鼓
    • 5月 風と雲と虹と/ひとり笛
    • 11月 父帰る/俺とお前  
  • 1977年
    • 7月 男だけの唄/兄弟櫻 
  • 1978年
    • 2月 九州鴉/女無法太鼓 
    • 10月 こっちゃこい酒場/もらい泣き
  • 1979年
    • 5月 新田節
    • 6月 花と竜/男の土俵
    • 8月 人生峠/いのちの旅路
  • 1980年
    • 2月 にっぽん音頭/あすなろ囃子
    • 6月 昭和自叙伝/夫婦酒
    • 12月 黒田節(詩吟入り)/炭鉱節
    • 12月 釣舟の宿/ひとり行く道
  • 1981年
    • 3月 大昭和音頭/青空音頭 
    • 3月 飛車角の唄/恋太鼓
    • 8月 なみだ坂/ふたりで生きる
  • 1982年
    • 6月 母の道/場末人情 
    • 8月 女房どの/演歌船
  • 1983年
    • 3月 一年音頭/科学つくば'85 万博音頭
    • 6月 空手一代/人生まったなし
  • 1984年
    • 2月 死ぬまで一緒だよ/夢割り酒
    • 6月 冬の海/夫婦灯り
    • 12月 男の一生/駒師一代
  • 1985年
    • 8月 マイト野郎/ふるさと 
    • 8月 夫婦雨/お父っぁんおっ母さん
    • 8月 ふたり道/おとこ酒
    • 8月 男の暦/将軍
    • 8月 君盃をあげたまえ/おとこ道
    • 12月 男侠(おとこぎ)/法印遊侠伝 
  • 1986年
    • 2月 祝い節/日本の踊り
    • 4月 男吉良常/男ぶし
  • 1987年
    • 1月 男三代/おとこの傷
    • 5月 男の花吹雪/俺は男
    • 9月 男のしるべ/花がくる
    • 12月 嫁ぐ日よ/自立(た)ってみろ
  • 1988年
    • 11月 二代目無法松/夫婦みち 
  • 1989年
    • 2月 あゝ万次郎/俺が村田だ
    • 6月 平成5・5(ゴーゴー)音頭/おまえと生きる 
  • 1990年
    • 2月 男伊達/男のまつり
    • 7月 影をしのびて/歌ひとすじに/泣くなギターよ/生きてこそ
    • 9月 山頭火/伜
  • 1991年
    • 4月 父子船/男酒  
    • 12月 人生太鼓/浪花人情 
  • 1993年
    • 7月 男の祈り/花の宴
  • 1994年
    • 10月 昭和ひと桁人生噺/古い奴
  • 1995年
    • 9月 心機一天/武士の譜 
  • 1997年
    • 1月 男の友情/新築祝い 
    • 6月 天下の夢/男節  
  • 1998年
    • 8月 忍耐/人生舞台  
  • 1999年 
    • 6月 男朝吉/しぐれ太鼓
  • 2000年
    • 6月 男の門出/あんたの女房 - オリジナルとしては生前最後のシングル
  • 2002年
    • 7月 人生二万七千五百日/芝居小屋 - 追悼作品。1991年に録音された。
  • 三人の会のライブ作品
    • 哀愁 作詞:村田英雄 作曲:三橋美智也  歌:村田英雄、春日八郎、三橋美智也 - 東芝EMIより発売。
    • 男のふるさと 作詞:村田英雄 作曲:三橋美智也  歌:村田英雄、春日八郎、三橋美智也 - キングレコードより発売。

出演

映画

  • 阿波狸合戦 1939年 (新興キネマ) 配役:茶坊主
  • 後藤又兵衛 乳呑三千石 1939年 (新興キネマ) 配役:少年浪曲師
  • 旗本退屈男 謎の七色御殿 1961年 (東映) 配役:民吉
  • 恋しぐれ・秩父の夜祭 1961年 (大映) 配役:信次
  • 新・人生劇場 1961年 (大映) 配役:村上
  • 仲よし音頭・日本一だよ 1962年 (大映) 配役:村田英雄 
  • 王将 1962年 (東映) 配役:榊原
  • 柔道一代 1963年 (東映) 配役:大村竜作
  • 浅草の侠客 1963年 (東映) 配役:雷門千吉
  • 関東遊侠伝 1963年 (日活) 配役:村田親分
  • 人生劇場 飛車角 1963年 (東映) 配役:寺兼
  • 男の嵐 1963年 (松竹) 配役:乱菊松二郎
  • やくざの歌 1963年 (東映) 配役:村尾
  • 東海遊侠伝 1964年 (日活) 配役:村田
  • 任侠男一匹 1965年 (東映) 配役:阿波登喜蔵
  • 関東流れ者 1965年 (東映) 配役:高島伯太郎
  • 日本侠客伝 浪花編 1965年 (東映) 配役:和田島義雄
  • 関東やくざ者 1965年 (東映) 配役:高島伯太郎
  • 兄弟仁義 1966年 (東映) 配役:鳴子治三郎
  • 続兄弟仁義 1966年 (東映) 配役:藤ヶ谷初太郎
  • 男の勝負 1966年 (東映) 配役:藤岡重助  
  • 北海遊侠伝 1967年 (東映) 配役:立花伊之助
  • 兄弟仁義 関東命知らず 1967年
  • 兄弟仁義 関東兄貴分 1967年
  • さくら盃 義兄弟 1969年
  • さくら盃 仁義 1969年
  • 関東義兄弟 1970年
  • 関東兄弟仁義 任侠 1971年
  • 王将 1973年 (東宝) 配役:審判係野田
  • 三婆 1974年 (東宝) 配役:田中

ラジオ

テレビ

CM

関連人物

野茂英雄
実父が村田英雄のファンだったことから、英雄と付けられた。
三波春夫
元・浪曲師という共通の出自から互いにライバルという位置付けであった。
春日八郎
三橋美智也
三人の会のメンバー、芸歴はトータルすると村田の方が長いが、レコード歌手として先にデビューし、年長という事で二人を兄事していた。
北島三郎
新栄プロの後輩。兄弟仁義シリーズ等で共演。村田のことを最も慕っていたひとり。
鶴田浩二
東映仁侠映画で多数競演。
ビートたけし
清水アキラ
ムッチーブームに火を付けた。
神野美伽
「無法松の一生」を伝授され、『歌謡浪曲 無法松の一生』を歌う。

脚註

  1. 「証言 十五ビルで遺体搬出」『火の雨が降った 6・19福岡大空襲』福岡空襲を記録する会 1986年 P.95-96
  2. “村田英雄さん亡くなる、73歳”. ZAKZAK. (2002年6月13日). オリジナル2002年10月18日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20021018003401/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_06/g2002061307.html . 2014閲覧. 
  3. “訃報・村田英雄さん”. 日刊スポーツ. (2002年6月13日). オリジナル2002年10月16日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20021016002424/http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020613.html . 2014閲覧. 
  4. 当時同じレコード会社の歌手同士がトリをつとめることは暗黙のタブーとされていた。村田が白組トリを取れなかった経緯の詳細については、『第28回NHK紅白歌合戦』の項を参照。
  5. この撮影中にも村田が付き人に「おい!喉乾いたから、オロナミンC買ってこい!」と叫び、撮影スタッフがひっくり返った・・・との、嘘とも本当ともつかないエピソードが紹介されている。ちなみに「バイオミンX」はサントリーが初めて手掛けた“炭酸入りドリンク飲料”で、大塚製薬のオロナミンCは競合商品の急先鋒だった。
  6. 村田と三波春夫が舞台で共演した際、台本に「三波上手(かみて)、村田下手(しもて)」と、立ち位置について書いてあり、村田が「何で三波が上手(じょうず)で俺が下手(へた)なんだ!」と激怒したという逸話。その真偽の程は不明。
  7. 『ドキュメンタリー紅白歌合戦 あの時あの歌』(日本放送協会出版刊 1984年)より

外部リンク