野茂英雄
オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1988 | 野球 |
野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、NPBとMLBで活躍した。2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任[1][2][3]。長男は北海道日本ハムファイターズの球団通訳の野茂貴裕[4][5][6]。
経歴
プロ入り前
小・中学校時代は全くの無名選手であったが、この若さで「体を捻って投げると直球の威力が増す」と理解し、後のトルネード投法の原型となるフォームで投げていた。高校時代の監督はその投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。近大附など名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格となり、大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学する。高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦で完全試合を達成。3年時はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。
高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社(勤務先は子会社の新日鐵化学)。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。2年目にはチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出される。1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。
名実共にアマチュアNo.1投手となった進路が注目される中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選の結果近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。
近鉄時代
1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げた。同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。
1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった)。
1991年のオールスターゲームでは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手としてマウンドに上がり、先頭打者の立浪和義をはじめ奪三振6を記録(1990年代の球宴では最多)する。第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打で出場。結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。この時オリックスの中嶋聡のヘルメットを被って打席に立った。
1994年は開幕戦の西武戦で4回までに11奪三振、8回まで無安打に抑えたが、リリーフした赤堀元之が伊東勤に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦。7月1日の西武戦では1試合16与四球の日本記録を作ったが、191球を投げて3失点完投勝利を挙げた。右肩痛のためシーズン途中で戦線を離脱し、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れた。
近鉄退団
球団との確執
1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放ったとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に仰木彬監督時代から球団に対して様々な不満があったことを語っている。
- 先発日に自分の車を藤井寺球場の駐車場に停めると、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された。
- 観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。
球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。
監督との確執
もう1つの理由は、同じ投手出身の監督・鈴木啓示との確執だった。[7]野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督の仰木彬はこれを快諾し、[8]調整方法も本人に任せたため、仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買った。
監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。
こうした指導法が元で鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時のチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。
交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には、「全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し、「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在では日本のみならずメジャー球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。
ドジャース新人投手時代から移籍
1995年2月8日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。背番号16は、親交のあったとんねるずの石橋貴明が、映画『メジャーリーグ2』で日本人選手役として付けていた背番号であることから選んだ。野茂が渡米した当時のMLBは前年(1994年)からの長期ストライキで1995年シーズンの開始が1ヶ月近く遅れていたものの、5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月はピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。8月10日には自身が先発した試合が没収試合になりメジャーリーグで没収試合を経験した初の日本人ともなった。 後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。また、実況はあまりにも野茂が三振を取ってしまうことから、彼が三振を取るたびに日本語で「SANSHIN」と発言していた。シンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。
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16px 1996年9月17日 1度目のノーヒットノーラン 達成の試合(MLB.comによる動画) |
1996年のスプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球でNPB/MLB通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、途中3回からトルネードを封印しセットポジションに終始した投球でノーヒッターを達成した。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られるクアーズ・フィールド(野茂自身も、同球場では過去僅か2回の登板経験ながら防御率11.17と相性が悪かった)での達成者は、2017年時点で野茂のみであり、「完全試合に匹敵する」と報道したメディアもあった[9][10]。また、現在クアーズ・フィールドではボールを湿らせることで打球を飛びづらくしているが、これは野茂の記録達成時に雨でボールが湿っていたことにヒントを得たという。この月には自身二度目となるピッチャー・オブ・ザ・マンスも獲得した。後半戦は15試合の登板で7勝4敗・防御率2.84・WHIP1.10と好調を維持し、最終的にチーム最多の16勝をマークした。チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、4回途中5失点と力を発揮できずに敗戦投手となり、チームも前年に続き3連敗で敗退した。
1997年4月25日のマーリンズ戦では、ドワイト・グッデンの記録を更新して当時のメジャー最速記録となる444回2/3での500奪三振を達成。8月28日のオークランド・アスレチックス戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人年から3年連続の200奪三振を達成した。前半戦は18試合の登板で8勝7敗・防御率3.81・WHIP1.27の成績で折り返すが、7月26日のフィリーズ戦で打球を右肘に受けて退場、打撲と診断される。故障者リスト入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗・防御率4.81・WHIP1.50と不調に陥る。9月14日のアストロドームでのヒューストン・アストロズ戦以降はトルネード投法を封印し、前年のノーヒットノーラン達成試合以来となる終始セットポジションからの投球に切り替えたが相手3番ジェフ・バグウェルに初回裏先制2ラン浴び7回を奪三振11も勝敗付かず降板。最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはポストシーズン進出を逃す。オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。
1998年は例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。スプリングトレーニングでは球速が91mph(約146km/h)まで回復するなど球威はあったが制球が悪く、計21回を投げ自責点19と開幕に不安を残した。4月3日のレッズ戦ではメジャー自己最多となる7連続奪三振を記録したが、18日のシカゴ・カブス戦では2/3回を8失点で降板。メジャー通算100先発となった28日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回には日本人メジャーリーガー初本塁打を記録し通算45勝目をマークするも、5月9日のマーリンズ戦では右手中指のフェイクネイルの圧迫による痛みを訴え、途中降板。5月まで12試合の登板で2勝7敗・防御率5.05・WHIP1.40と不調。
メッツ時代
6月1日に退団の意思を示し、4日にトレードでメッツに移籍。7月に3連勝を記録したものの、1試合のリリーフ登板を含む17試合に登板し4勝5敗・防御率4.82・WHIP1.44の成績で、シーズン通算では6勝12敗・防御率4.92に終った。
1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約。しかし3月24日に40人枠から外れ、3月30日に放出された。
カブス傘下時代
4月1日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、AAA級アイオワ・カブスに配属されたが、3試合に先発しただけで自由契約となった。
ブルワーズ時代
4月29日にミルウォーキー・ブルワーズと1年25万ドルで契約。AA級ハンツビル・スターズに配属された。調整登板で1試合を7イニング無失点に抑えると、5月9日にメジャー昇格。前半戦を13試合の登板で7勝2敗・防御率3.95・WHIP1.37の成績で折り返す。8月2日のメッツ戦ではドジャースとメッツでバッテリーを組んだマイク・ピアッツァと対戦。第3打席で本塁打を打たれるなど、5回9安打6失点で敗戦投手となり、試合後には「ずっとピアッツァを相手に投げたいと思っていた。彼にはもう少し良い球を投げたかった」と語った。9月8日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。後半戦は15試合の登板で5勝6敗・防御率5.06・WHIP1.46と調子を落としたものの、最終的にチーム最多の12勝を挙げた。
タイガース時代
2000年1月22日にデトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約(2年目は年俸550万ドルの球団オプション)を結ぶ。この年からツーシームとスライダーを習得した他、セットポジションでのフォームを改良し、クイックのタイムを1.5秒台から1.3秒台に縮めた[11]。4月3日のオークランド・アスレチックス戦では日本人初の開幕投手を務め、7回3安打3本塁打3失点で勝利投手となった。7月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦ではマック鈴木と投げ合い、7回0/3を無失点7奪三振で勝利。9日のブルワーズ戦ではイタリアンソーセージの着ぐるみで観客に牛肉を配り、ソーセージ・レースにも参加し優勝。観客にはレース後にアナウンスでこのことが知らされた。しかし前半戦は20試合の登板で3勝7敗・防御率4.74・WHIP1.48の成績で折り返し、8月に右手中指の炎症で初の故障者リスト入り。18日のアスレチックス戦で復帰し、5勝目を挙げた。
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16px 2001年4月4日 2度目のノーヒットノーラン 達成の試合(MLB.comによる動画) |
レッドソックス時代
2000年12月15日にボストン・レッドソックスと年俸325万ドル+出来高75万ドルの1年契約を結んだ。
2001年4月4日のボルチモア・オリオールズ戦では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを記録。レッドソックスの投手としては、1965年9月16日にデーヴ・モアヘッドが対クリーブランド・インディアンス戦(フェンウェイ・パーク)で達成して以来、実に約35年半ぶり13人目(15回目)のノーヒットノーランであった。また、カムデン・ヤーズにおけるノーヒッターは2017年現在野茂が史上唯一の達成者であり[12]、1996年に続き達成難度の高い球場での達成となった。この試合により両リーグにわたってのノーヒッター達成者となり、これはサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次ぐ史上4人目の快挙である。同月26日には、レッドソックスのMLB初試合から100周年目[13]の試合となったミネソタ・ツインズ戦にも登板し、7回まで無安打の投球を見せた。5月2日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し、第1打席と第2打席を二ゴロ、中飛に抑え、第3打席には死球を与えた。25日のトロント・ブルージェイズ戦では7者連続を含む14奪三振1安打で完封勝利を挙げ、6年ぶりの無四球を記録。6月16日のブレーブス戦では3回にNPB/MLB通算2500奪三振を達成。前半戦を18試合の登板で8勝4敗・防御率3.83・WHIP1.21で折り返し、7月20日のシカゴ・ホワイトソックス戦で2年ぶり5度目の10勝に到達した。7月は負けなしの5勝・防御率3.00・WHIP1.50の成績で、ピッチャー・オブ・ザ・マンスの投票ではマーク・マルダーに次ぐ2位となった。8月からは2勝6敗・防御率6.07・WHIP1.49と調子を落とした。しかしシーズンを通して奪三振率が9.00を切ることなくリーグ1位の奪三振率10.00を記録し、4年ぶりに200奪三振を越えて二度目の最多奪三振を獲得した。
ドジャース復帰
2001年12月19日に2年1375万ドル(3年目は年俸900万ドルの球団オプション)で古巣ドジャースに復帰。
2002年4月2日のジャイアンツ戦では4回まで1安打に抑え、5回には2死満塁の場面で新庄剛志を迎えるが、新庄を二ゴロに抑え、ドジャース復帰後初勝利を挙げた。その後は打線と噛み合わなかったが、5月17日からは14勝1敗の活躍で、6月21日のレッドソックス戦でメジャー通算1500奪三振を記録。7月1日のダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンと投げ合い、5回にジョンソンからタイムリー二塁打を放てば、投球でも8回5安打無四球無失点7奪三振の好投で自己最長タイの7連勝を記録。前半戦を18試合の登板で9勝5敗・防御率3.16・WHIP1.32の成績で折り返した。8月22日のマーリンズ戦では3回に突如制球を乱して敗戦投手となる。同年チームメイトだった石井一久とは与四球数において、メジャー全体で1・2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。
2003年は自身3年ぶりの開幕投手に指名され、開幕戦となった3月31日のダイヤモンドバックス戦で、ランディ・ジョンソンと投げ合い、完封勝利。4月20日のジャイアンツ戦でメジャー通算100勝を達成。前半戦を20試合の登板で9勝8敗・防御率2.97・WHIP1.12の成績で折り返す。9月に右肩回旋筋の炎症が見つかるも、故障者リスト入りはせずに療養し、14日に復帰。最終的に防御率はリーグ6位の3.09、得点援護率がリーグワースト3位ながらもリーグ5位の16勝を挙げ、チームメイトのショーン・グリーンが「ウチにはブラウニー(ケビン・ブラウン)とエースが二人いる」と絶賛する活躍を見せた。オフに肩の内視鏡手術を受けた。
2004年は球団がオプションを行使して残留。前年に続いて開幕投手を務めるも、オフに受けた肩の手術からの回復が遅れて球速が戻らず、2度の故障者リスト入りを挟み、4月17日から9月1日にかけて自己ワーストの10連敗を喫した。
ドジャース退団後
2005年は当時、創設八年目のタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦でNPB/MLB通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。NPB/MLB通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。
2006年3月3日にホワイトソックスとマイナー契約。4月17日にAAA級シャーロットの先発として初登板したが、右肘の炎症を理由として故障者リストに登録され、6月8日に契約解除。同月下旬には右肘を手術した。
2007年、ドミニカ共和国でのウィンターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、リーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのレオネス・デル・カラカスに入団し、ベネズエラでのウィンターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦では1年半ぶりの登板を果たした。
2008年1月4日にロイヤルズとマイナー契約を結ぶ[14]。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つにとどめるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格[15] の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した[16]。しかしその後結果は残せず、4月20日にDFAとなった[17]。
5月11日には東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉意思を示すも、入団には至らなかった。7月17日、共同通信のインタビューに対して「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」とコメントして現役引退を表明。引退会見などは特に行っていない。メジャーリーグでの大半を過ごしたドジャースを除く29球団との試合で勝ち星を記録していたため、MLB全30球団からの勝利が達成間近での引退となった。
現役引退後
帰国後の2008年11月12日から3日間限定で、臨時コーチとしてオリックス・バファローズの秋季キャンプに招かれた。
2009年2月1日、オリックスのテクニカル・アドバイザーに就任した[18] が、同年オフ、月1回の試合観戦というノルマが成されていなかった事と、大石大二郎監督の退任に伴い契約解除となった。3月10日、入会を保留していた日本プロ野球名球会へ正式に入会した。
2010年・2011年には、広島東洋カープの春季キャンプで臨時コーチを担当[19]。2011年11月には、ドジャースが2008年までキャンプ地として使用し「ドジャータウン」と呼ばれたフロリダ州ベロビーチのスポーツ施設の共同オーナーに就任した。
その一方で、毎年7月に開催される日米親善少年野球大会では、2011年の大会から日本選抜の監督(総監督)を務めている。監督として臨んだ同年の大会では、長谷川滋利が監督を務めるオレンジカウンティー選抜と対戦。2012年には総監督として、長谷川が総監督・大塚晶則が投手コーチを務めるアメリカ選抜と対戦した。
2010年からは野球解説者としても活動。初めて解説を務めた同年11月6日の日本シリーズ第6戦・中日ドラゴンズ対千葉ロッテマリーンズ(ナゴヤドーム)のテレビ中継(東海テレビ・フジテレビ系列)では、ソウル五輪でバッテリーを組んだ古田敦也と共演した。この試合は、日本シリーズ史上初となる延長15回・史上最長の試合時間(5時間43分)へ至った末に、2-2の引き分けで終了。中継終了の際には、古田とともに「お疲れ様でした」と声を掛け合った[20]。2011年からは、年に1試合のペースで、『スーパーベースボール 虎バン主義』(ABCテレビ)のセ・パ交流戦中継にゲスト解説者として出演している。
2013年11月26日、日本人選手として初のアメリカの野球殿堂入りの候補となったが[21]、2014年1月8日のアメリカの野球殿堂入りの発表では6票で落選。得票率は1.1%で、5%を下回ったことから翌年度の候補から外れることになった[22]。一方、日本の野球殿堂では11月29日に競技者表彰候補に名を連ねていることが発表され[23]、2014年1月17日に秋山幸二、佐々木主浩と共に競技者表彰者として殿堂入りしたことが野球殿堂博物館より発表された[24][25]。表彰候補者入り1年目での野球殿堂入りはヴィクトル・スタルヒン、王貞治に次いで史上3人目となった[25]。
2015年1月18日、アメリカのプロ野球スカウト財団は、野茂と朴賛浩に「先駆者賞」を授与し、大リーグの国際化に果たした功績を称えた[26]。
2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任[27][28][29]。11月にアメリカのスポーティング・ニュース社が発表した「大リーグで最も重要な40人」に37位で選出され、日本人選手で唯一選ばれる[30]。
2017年3月21日、WBC準決勝、ドジャー・スタジアムで開催されたアメリカ対日本の試合前の始球式でトミー・ラソーダと共に登場し、投球を披露した[31]。
選手としての特徴
ニックネームは「ドクターK」,「The Tornado」。大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、真上から振り下ろすオーバースローから平均球速86-90mph(約138-145km/h)、最速95mph[32](約152.9km/h)の伸びのあるフォーシームと77-82mph(約124-132km/h)のフォークボールを武器とした[33]。速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた[33]。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。
三振奪取率が極めて高く、プロ入りから9年連続で奪三振が投球回数を上回っている。NPB/MLB通算奪三振率は9.28。ただし、MLBのみに限ると奪三振率は8.7344となるが、それでもMLB歴代22位である[34](通算投球回数1000イニング以上)。
その一方で細かな制球力に欠き、NPBでの通算の与四球率は5.03、メジャー通算は4.13。この制球力の無さが近鉄時代、上層部との確執の一因となった。
元西武のオレステス・デストラーデは「野茂が日本球界最高の投手」と評している[35]。
社会現象
- 1990年オフにルーキーイヤーのハイライトシーンと少年時代をアニメーション化したオリジナルビデオ「三振奪取王 野茂英雄のすべて」が発売。アニメパートの野茂の声は松本保典(幼年期:杉山佳寿子)が演じた。
- 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌「野茂英雄のテーマ・HIDE〜O」(バナナ・ボートの替え歌)をシングルCDで発売。当時、「Nomo(野茂)が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
- 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。
- 1997年に公開された、ジム・キャリー主演の映画『ライアー ライアー』の中で、主人公の子供が野茂の名前を出す場面がある。
野茂とキューバ
社会人野球時代に何度かキューバ代表と対戦をしている。普段はあまり多くを語らない野茂もソウルオリンピック後に「凄いっすよ。あのキューバのパワー。あんなん初めてですわ」「打たれても、抑えても、何か爽やかな感じで気持ち良かったです」と振り返っている。近鉄入団後も「あの迫力半端じゃなかったっすよね」と対戦時の衝撃がたびたび口を突いて出ており、キューバと同じ豪快な野球をするメジャーリーグへの憧れも宿り始めていた。滅多な事では驚かないキューバの選手達も野茂の速球と打者の手前で消える魔球に呆れ返り、野茂との対決を楽しみにしていた。日本の選手の名前は難しくて覚えられないというが、「ノモ」の名前は後年でもしっかりと記憶していた。野茂から本塁打を打ち、三振を喫したオマール・リナレスやアントニオ・パチェコは「ミ・アミーゴ(僕の友達)」と自慢にさえしていた[36]。
NOMO ベースボールクラブ
2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていく現状に対し、野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたいという理由で、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球クラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任した。2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟。2005年には結成2年目で都市対抗野球大会に初出場し、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。
また少年野球(ボーイズリーグ)のジュニアオールジャパンの総監督も務めている[37][38][39][40]。森友哉らが代表に選ばれている。
詳細情報
年度別投手成績
1990 | 近鉄 | 29 | 27 | 21 | 2 | 1 | 18 | 8 | 0 | -- | .692 | 975 | 235.0 | 167 | 18 | 109 | 2 | 4 | 287 | 12 | 0 | 87 | 76 | 2.91 | 1.17 |
1991 | 31 | 29 | 22 | 4 | 0 | 17 | 11 | 1 | -- | .607 | 1024 | 242.1 | 183 | 21 | 128 | 1 | 5 | 287 | 15 | 1 | 92 | 82 | 3.05 | 1.28 | |
1992 | 30 | 29 | 17 | 5 | 1 | 18 | 8 | 0 | -- | .692 | 900 | 216.2 | 150 | 13 | 117 | 0 | 1 | 228 | 4 | 0 | 73 | 64 | 2.66 | 1.23 | |
1993 | 32 | 32 | 14 | 2 | 0 | 17 | 12 | 0 | -- | .586 | 1064 | 243.1 | 201 | 22 | 148 | 1 | 7 | 276 | 13 | 1 | 106 | 100 | 3.70 | 1.43 | |
1994 | 17 | 17 | 6 | 0 | 0 | 8 | 7 | 0 | -- | .533 | 512 | 114.0 | 96 | 9 | 86 | 0 | 2 | 126 | 7 | 0 | 55 | 46 | 3.63 | 1.60 | |
1995 | LAD | 28 | 28 | 4 | 3 | 1 | 13 | 6 | 0 | -- | .684 | 780 | 191.1 | 124 | 14 | 78 | 2 | 5 | 236 | 19 | 5 | 63 | 54 | 2.54 | 1.06 |
1996 | 33 | 33 | 3 | 2 | 0 | 16 | 11 | 0 | -- | .593 | 932 | 228.1 | 180 | 23 | 85 | 6 | 2 | 234 | 11 | 3 | 93 | 81 | 3.19 | 1.16 | |
1997 | 33 | 33 | 1 | 0 | 0 | 14 | 12 | 0 | -- | .538 | 904 | 207.1 | 193 | 23 | 92 | 2 | 9 | 233 | 10 | 4 | 104 | 98 | 4.25 | 1.37 | |
1998 | 12 | 12 | 2 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | -- | .222 | 295 | 67.2 | 57 | 8 | 38 | 0 | 3 | 73 | 4 | 1 | 39 | 38 | 5.05 | 1.40 | |
NYM | 17 | 16 | 1 | 0 | 0 | 4 | 5 | 0 | -- | .444 | 392 | 89.2 | 73 | 11 | 56 | 2 | 1 | 94 | 9 | 3 | 49 | 48 | 4.82 | 1.44 | |
'98計 | 29 | 28 | 3 | 0 | 0 | 6 | 12 | 0 | -- | .333 | 687 | 157.1 | 130 | 19 | 94 | 2 | 4 | 167 | 13 | 4 | 88 | 86 | 4.92 | 1.42 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | MIL | 28 | 28 | 0 | 0 | 0 | 12 | 8 | 0 | 0 | .600 | 767 | 176.1 | 173 | 27 | 78 | 2 | 3 | 161 | 10 | 1 | 96 | 89 | 4.54 | 1.42 |
2000 | DET | 32 | 31 | 1 | 0 | 0 | 8 | 12 | 0 | 0 | .400 | 828 | 190.0 | 191 | 31 | 89 | 1 | 3 | 181 | 16 | 0 | 102 | 100 | 4.74 | 1.47 |
2001 | BOS | 33 | 33 | 2 | 2 | 1 | 13 | 10 | 0 | 0 | .565 | 849 | 198.0 | 171 | 26 | 96 | 2 | 3 | 220 | 6 | 0 | 105 | 99 | 4.50 | 1.35 |
2002 | LAD | 34 | 34 | 0 | 0 | 0 | 16 | 6 | 0 | 0 | .727 | 926 | 220.1 | 189 | 26 | 101 | 5 | 2 | 193 | 6 | 0 | 92 | 83 | 3.39 | 1.32 |
2003 | 33 | 33 | 2 | 2 | 0 | 16 | 13 | 0 | 0 | .552 | 897 | 218.1 | 175 | 24 | 98 | 6 | 1 | 177 | 11 | 0 | 82 | 75 | 3.09 | 1.25 | |
2004 | 18 | 18 | 0 | 0 | 0 | 4 | 11 | 0 | 0 | .267 | 393 | 84.0 | 105 | 19 | 42 | 1 | 4 | 54 | 3 | 0 | 77 | 77 | 8.25 | 1.75 | |
2005 | TB | 19 | 19 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | 0 | 0 | .385 | 472 | 100.2 | 127 | 16 | 51 | 2 | 2 | 59 | 3 | 0 | 82 | 81 | 7.24 | 1.77 |
2008 | KC | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 27 | 4.1 | 10 | 3 | 4 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 9 | 9 | 18.69 | 3.23 |
NPB:5年 | 139 | 134 | 80 | 13 | 2 | 78 | 46 | 1 | -- | .629 | 4475 | 1051.1 | 797 | 83 | 588 | 4 | 19 | 1204 | 51 | 2 | 413 | 368 | 3.15 | 1.32 | |
MLB:12年 | 323 | 318 | 16 | 9 | 2 | 123 | 109 | 0 | 0 | .530 | 8462 | 1976.1 | 1768 | 251 | 908 | 31 | 38 | 1918 | 109 | 17 | 993 | 932 | 4.24 | 1.35 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
- MLB
- 最多奪三振:2回 (1995年、2001年)
表彰
- NPB
- 新人王 (1990年)
- MVP:1回 (1990年)
- 沢村賞:1回 (1990年)
- ベストナイン:1回 (投手部門:1990年)
- 月間MVP:2回 (投手部門:1990年6月、1992年8月)
- 野球殿堂競技者表彰(2014年)
- MLB
- 新人王 (1995年)
- 月間MVP:2回 (投手部門:1995年6月、1996年9月)
- Topps ルーキーオールスターチーム (右投手部門:1995年)[注 1]
- Baseball Digest ルーキーオールスターチーム (先発投手部門:1995年)[41]
- その他
- 日本プロスポーツ大賞:1回 (1990年)
- 報知プロスポーツ大賞:1回 (1990年)
- ナンバーMVP賞:1回 (1990年)
- サンスポMVP大賞:1回 (1990年)[42]
- ハッピーハンド (1990年) ※手形を寄贈[43]
- 新語・流行語大賞 年間大賞:1回 (1995年、「NOMO」)
- 朝日スポーツ賞:1回 (2005年)
- プロ野球スカウト財団先駆者賞 (2015年)
記録
- NPB初記録
- 初登板・初先発登板:1990年4月10日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、6回4失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に清原和博から
- 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1990年4月29日、対オリックス・ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1990年6月24日、対日本ハムファイターズ13回戦(東京ドーム)
- 初セーブ:1991年7月17日、対西武ライオンズ16回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- NPB節目の記録
- 1000奪三振:1993年8月27日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回裏に高橋智から ※史上90人目(871投球回での達成はパ・リーグ記録、史上2位)
- 1000投球回:1994年5月31日、対西武ライオンズ9回戦(藤井寺球場)、6回表2死目に達成 ※史上253人目
- NPBその他の記録
- 二桁奪三振:70回 ※パ・リーグ記録
- シーズン二桁奪三振:21回 (1990年) ※NPB記録
- シーズン奪三振率:10.99 (1990年) ※パ・リーグ記録(規定投球回数以上)
- 6試合連続二桁奪三振 (1991年4月7日 - 5月9日:11-10-10-10-10-10) ※史上2位、近鉄バファローズ球団記録
- 1試合17奪三振:1990年4月29日、対オリックス・ブレーブス5回戦(阪急西宮球場) ※先発勝利投手として史上2位、近鉄バファローズ球団記録
- シーズン148与四球 (1993年) ※パ・リーグ記録
- 1試合16与四球:1994年7月1日、対西武ライオンズ12回戦(西武ライオンズ球場) ※NPB記録
- 5者連続与四球:1992年7月10日、対西武ライオンズ12回戦(西武ライオンズ球場) ※NPB記録
- リーグ最多完封:2回 (1991年、1992年)
- オールスターゲーム出場:5回 (1990年 - 1994年)
- 開幕投手:2回(1993年、1994年)
- MLB初記録
- 初登板・初先発登板:1995年5月2日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ2回戦(キャンドルスティック・パーク)、5回無失点
- 初奪三振:同上、1回裏にDarren Lewisから
- 初勝利・初先発勝利:1995年6月2日、対ニューヨーク・メッツ4回戦(ドジャー・スタジアム)、9回0/3 1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1995年6月24日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ6回戦(ドジャー・スタジアム)
- 初安打:1995年7月15日、対フロリダ・マーリンズ5回戦(ドジャー・スタジアム)、7回裏にボビー・ウィットから中前安打
- 初打点:1995年8月5日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ9回戦(キャンドルスティック・パーク)、9回表にShawn Bartonから適時中前安打
- 初本塁打:1998年4月28日、対ミルウォーキー・ブルワーズ5回戦(ドジャー・スタジアム)、7回裏にJosé Mercedesから左越ソロ本塁打
- MLB節目の記録
- 1000奪三振:1999年9月8日、対アリゾナ・ダイヤモンドバックス8回戦(ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム)、1回表にジェイ・ベルから
- 1000投球回:2000年5月5日、対ミネソタ・ツインズ2回戦(ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム)、1回裏1死目に達成
- 1500奪三振:2002年6月21日、対ボストン・レッドソックス1回戦(ドジャー・スタジアム)、3回表にブライアン・ドーバックから
- 1500投球回:2002年8月5日、対フィラデルフィア・フィリーズ4回戦(ベテランズ・スタジアム)、5回裏2死目に達成
- 100勝:2003年4月20日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ6回戦(ドジャー・スタジアム)、7回4失点
- MLBその他の記録
- ノーヒッター:2回 (1996年、2001年) ※両リーグ通じての達成は史上4人目、世紀を跨いでの達成は史上初
- 1996年9月17日、対コロラド・ロッキーズ12回戦(クアーズ・フィールド)、4四球8奪三振 ※球場史上初
- 2001年4月4日、対ボルチモア・オリオールズ2回戦(オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ)、3四球11奪三振 ※球場史上初
- リーグ最多完封:1回 (1995年)
- MLBオールスターゲーム出場:1回 (1995年) ※先発投手として出場
- 開幕投手:3回(2000年、2003年、2004年)
- NPB・MLB通算節目の記録
- 3000奪三振:2003年9月25日、対サンディエゴ・パドレス19回戦(クアルコム・スタジアム)、3回裏にブライアン・ローレンスから
- 200勝:2005年6月15日、対ミルウォーキー・ブルワーズ3回戦(トロピカーナ・フィールド)、7回2失点
- 3000投球回:2005年6月21日、対ニューヨーク・ヤンキース8回戦(ヤンキー・スタジアム)、1回裏1死目に達成
背番号
- 11 (1990年 - 1994年、1999年、2001年、2005年)
- 16 (1995年 - 1998年)
- 23 (2000年)
- 10 (2002年 - 2004年)
- 91 (2008年)
関連情報
出演
CM
- 住友生命保険
- コカ・コーラ「ジョージア缶コーヒー」
- 新日鉄(「スクスクと新日鉄」 BGMの歌詞は「ぽーかぽかー」の繰り返し 1990年頃?)
- 公共広告機構(現:ACジャパン)「献血キャンペーン」(1990年)
- サントリー「ビア吟醸、野茂+カズ キャッチ篇」(1991年)
- セガ「セガサターンせがた三四郎シリーズ「プロ野球チームもつくろう!」(写真のみ)」
- キリンビバレッジ「ジャイブ缶コーヒー、Z7『現役続行篇』」(2007年5月 - )
- 富士通ゼネラル「nocria」(2009年2月27日 - 2010年12月)[44]
- トヨタ自動車
- 宝くじ ロト6(2012年4月 - 現在)
- キリン「のどごし<生>」(2013年10月18日 - 現在)[45]
脚注
注釈
- ↑ 通称「新人ベストナイン」。選出対象となる新人扱い選手を両リーグ統一した中で、各守備位置ごとに各球団監督の投票により選出される(例えばシルバースラッガー賞のように各リーグごとに選出されるのではない)。投手部門には2009年まで「右投手」「左投手」の2部門があり、2010年以降は「リリーフ投手」が追加されて基本3部門がある。
出典
- ↑ The Padres continue assembling a fantasy front office by hiring Hideo Nomo
- ↑ 野茂氏「勉強になる」パドレスのアドバイザー就任
- ↑ 【米国はこう見ている】野茂英雄氏が再び米球界へ パドレスのアドバイザー就任「非常に光栄」
- ↑ 野茂英雄氏の長男が日本ハム通訳へ 米国の大学を卒業
- ↑ 【日本ハム】野茂氏の長男・貴裕氏、来季から通訳に
- ↑ 日本ハム通訳に就任した野茂貴裕氏。父の背中に感じた「やり通せ」。
- ↑ 近鉄・鈴木啓示監督とエース・野茂英雄の確執が生まれた瞬間
- ↑ 仰木彬氏「野茂に怒られるの怖かった」とトルネード投法黙認
- ↑ 野茂英雄、常識破りの快投 米大リーグでノーヒット・ノーラン(1996年9月19日)
- ↑ 野茂英雄ノーヒットノーラン!日本人初の快挙/復刻
- ↑ 野茂英雄 in DETROIT『月刊スラッガー』2000年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-6、18-25頁。
- ↑ 25 fun facts about Oriole Park at Camden Yards
- ↑ “BOSTON RED SOX HISTORY”. baseball Almanac ※当時はボストン・アメリカンズ
- ↑ “Nomo not ready to retire yet Japanese trendsetter taking another stab at Majors with Royals”. The Official Site of The Kansas City Royals. . 2008年4月21日閲覧.
- ↑ “Nomo yet to write final chapter Starter turned reliever rejoins Royals after groin injury”. The Official Site of The Kansas City Royals. . 2008年4月21日閲覧.
- ↑ “Pettitte remains a Royals nemesis Left-hander stays solid vs. KC as New York salvages finale”. The Official Site of The Kansas City Royals. . 2008年4月21日閲覧.
- ↑ “In tough decision, Royals set Nomo free Career may be over for Japanese hurler attempting comeback”. The Official Site of The Kansas City Royals. . 2008年4月21日閲覧.
- ↑ 野茂英雄氏がテクニカル・アドバイザーに就任
- ↑ 【広島】野茂臨時コーチが指導開始
- ↑ 野茂氏が初解説 古田氏と息ピッタリ
- ↑ 野茂氏 米野球殿堂入り候補に!マダックス氏、グラビン氏らと並び スポーツニッポン 2013年11月27日配信
- ↑ 野茂氏米殿堂入りならず 来年は候補除外 日刊スポーツ 2014年1月12日配信
- ↑ 野茂氏、KK、鈴木尚典氏が候補に 来年の野球殿堂入り スポーツニッポン2013年11月29日配信
- ↑ 平成26年 野球殿堂入り決定!! 野球殿堂博物館 殿堂ニュース 2014年1月17日付
- ↑ 25.0 25.1 野茂氏が野球殿堂入り!即表彰は20年ぶり 佐々木、秋山両氏も選出 スポーツニッポン 2014年1月17日閲覧
- ↑ “野茂氏に「先駆者賞」=国際化への貢献たたえる-米プロ野球スカウト財団”. 時事ドットコム. (2015年1月18日) . 2015-1-18閲覧.
- ↑ 野茂氏「勉強になる」パドレスのアドバイザー就任
- ↑ 【米国はこう見ている】野茂英雄氏が再び米球界へ パドレスのアドバイザー就任「非常に光栄」
- ↑ [1]
- ↑ “野茂氏 “大リーグで最も重要な40人”選出 日本人唯一”. スポニチアネックス. (2016年11月24日) . 2016閲覧.
- ↑ “野茂英雄氏が始球式 侍背番16で暴投も大声援 - WBC”. 日刊スポーツ (2017年3月22日). . 2017閲覧.
- ↑ BASEBALL; Dodgers Cut Nomo Loose And Will Try to Trade HimThe New York Times
- ↑ 33.0 33.1 メジャーリーグ某球団スカウト部長による"リアル"スカウティング・レポート!『月刊スラッガー』2002年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-3、30-33頁。
- ↑ Career Leaders & Records for Strikeouts per 9 IP | Baseball-Reference.com
- ↑ ベースボールマガジン 2011年9月号 P28
- ↑ 鉄矢多美子. 熱球伝説―キューバリナレスを育てた野球王国. 岩波書店.
- ↑ ボーイズリーグとは
- ↑ ジュニア ALL JAPAN
- ↑ BOY MEETS WORLD.
- ↑ 野茂 英雄 Junior All-Star Japan Team 対 長谷川滋利 MLB Urban Youth Academy
- ↑ Baseball Digest Rookie All-Star Teams.BR Bullpen.2016年11月17日閲覧。
- ↑ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日) . 2017閲覧.
- ↑ “歴史と観光「ハッピーハンド」”. 幸手市観光協会. . 2017閲覧.
- ↑ 日本人メジャーリーガーの先駆者 野茂英雄さん出演!
- ↑ “野茂英雄氏 ファン9人と真剣勝負!”. デイリースポーツ. (2013年10月18日) . 2013閲覧.
関連項目
- 大阪市出身の人物一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- ノーヒットノーラン達成者一覧
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 N
- 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧
- 日本人のメジャーリーグベースボール選手が獲得したタイトル・表彰一覧
- 日本人選手のメジャーリーグ挑戦
- 日本人のマイナーリーグ選手一覧
外部リンク
- 野茂英雄オフィシャルサイト
- 野球殿堂 野茂英雄 - 公益財団法人野球殿堂博物館
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- 日本の野球選手
- 在アメリカ合衆国外国人の野球選手
- MLBの日本人選手
- 新日本製鐵堺硬式野球部の選手
- 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手
- ロサンゼルス・ドジャースの選手
- ニューヨーク・メッツの選手
- ミルウォーキー・ブルワーズの選手
- デトロイト・タイガースの選手
- ボストン・レッドソックスの選手
- タンパベイ・レイズ及びタンパベイ・デビルレイズの選手
- カンザスシティ・ロイヤルズの選手
- 沢村栄治賞
- パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB)
- 最優秀防御率 (NPB)
- 最多勝利 (NPB)
- 最多奪三振 (NPB)
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