橋本龍太郎
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家、登山家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民[1]。剣道錬士六段。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
Contents
来歴・人物
初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣、大蔵大臣等を歴任し、いわゆるニューリーダーの後をになう総裁候補に目されるようになった。
1994年に発足した、自社さ連立政権の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。
在任中は、住宅金融専門会社問題(住専問題・第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではビル・クリントンアメリカ合衆国大統領や、ボリス・エリツィンロシア連邦大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で行政改革担当大臣や沖縄開発庁長官。また中央省庁再編後には規制改革担当大臣、沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。
2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、翌2006年に死去。
竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。
政策
- 厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。
- 環境庁の発足や、環境庁から環境省への移行など環境行政にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。
- 第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した[2]。
- 海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。 過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。
- 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を目指した。「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」と決意表明したことから、「火達磨の決意」「火達磨改革」「火だるま行革」とも呼ばれた。村山内閣において決定された消費税率5パーセントへの引き上げを実施するも、アジア通貨危機と重なって、長期不況に陥った(失われた10年、失われた20年、就職氷河期を参照)。
- 行政改革に取り組み、22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した[3]。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を挙げた。
- アメリカ合衆国から、沖縄県・普天間基地移設問題についての同意を取り付けた。その一方で「新・日米防衛協力のための指針」を策定。
- 対ロシア外交では、エリツィン大統領との間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現をみた。
- エリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。
人物
人物像
身長165cm、体重66kg。
1990年にベストドレッサー賞を受賞している。座右の銘は「誠」、「初心忘るべからず」。趣味は、剣道、登山、写真など多彩。特に剣道は政界きっての腕前である。全日本剣道連盟顧問、全日本剣道道場連盟会長、日本美術刀剣保存協会会長を務めた。また山中寅文ともに名誉森林インストラクターの称号を持つ。
一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという[4]。ある時鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していた所、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったと言う。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。
高校生時代からの喫煙者で[5]、生前「私は煙草をやめない」と断言している。チェリーを愛飲していた。親友の安部譲二にピースを勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。
橋本は内閣総理大臣在任中も、高知県知事になって東京から離れた腹違いの異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。
弟の大二郎がNHK記者だった頃、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が結婚しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『徹子の部屋』より本人談)。
女性関係を指摘されることが多く、そのために首相になり損ねたことがあったらしい。宇野の退陣後に就任した海部が回顧録で、金丸信から首相就任を持ち掛けられた際、橋本はこれ(右手の小指)があるから駄目だと言われたために、その後橋本に直接質したところ「残念ながら、おれにはあるんだ」と答えたと回想している[6][注釈 1]。もっとも久美子夫人の立ち振る舞いもあってか、政治的スキャンダルに発展することはなかった。
1990年に銀座ホステスとの関係が週刊誌で「橋本龍太郎の一夜妻」として取り上げられ、総理在任中の1996年に当人が暴露本を出版しマスコミを賑わせた。
「諸君!」1998年6月号で、加藤昭は橋本が総理在任中に中華人民共和国の女性官僚と関係があったと報じた。女性は中国側のスパイであるとみられていたが、これについて橋本側は、女性は中国大使館に勤務する通訳であり、職務上接点があっただけだとした。なお、橋本は日中友好団体の日本国際貿易促進協会会長を務めていた。
「文藝春秋」2008年9月特別号で米原万里に橋本から関係を迫られたと聞いたとする佐藤優の記事が掲載された。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。佐藤は後に自著『インテリジェンス人間論』においても同様の記述をしている。両者とも故人のため、コメントは得られていない。
1994年の週刊文春の阿川佐和子との対談で「政界の杉良太郎」と呼ばれていますねと問われ「光栄です」と笑い、ご婦人層の人気の秘密はと聞かれ、「まだ、大人になりきってないからじゃないんですか」と答えている[7]。
登山家として
日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きにわたり務めた。1973年、第2次RCCのエベレスト南壁(現・南西壁)の遠征隊の総隊長を務めた。この他にも、多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。
登山家の野口健とも親しい。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は、12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し、帰国後橋本の議員会館事務所を訪れて酸素ボンベを届けた。当初橋本龍太郎は野口を失礼な人間だと感じたが、これが切っ掛けで2人は親しくなり野口は橋本を父親の様に慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007年に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた[注釈 2]。
橋本との縁で橋本没後、野口事務所には橋本龍太郎の当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している[注釈 3]。
内閣総理大臣在任中の1997年に発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して、1997年12月28日に記者団の前で「ペルーはMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限にとどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた[8]。ただし、実際に殺害したのはペルーの正規軍兵士で、金銭目当ての犯行だった。橋本の発言に対し、早稲田大学探検部OBの船戸与一が厳しく反論し、探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト』183ページに意見広告として掲載した[9]。
政治家としての評価
「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。政界随一の政策通として知られ、いささかの揶揄を込めて「課長補佐」などといわれるほど、各政策部門の細かな部分まで精通していたが、何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。また、派閥と子分の面倒を見たことがほとんどなく、前述の自民党総裁選で橋本擁立に奔走した小渕派の幹部からも「橋本さんは水耕栽培だから」と揶揄された。
橋本の兄貴分である竹下登は「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と評した。田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり近くに寄って接していくと理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである[10]。 小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている[11]。橋本の総理大臣時代に幹事長代理として仕えた野中広務は「橋本さんは当選1回、2回の議員との接触がほとんどなかった。若手議員の面倒を見てやれず、総裁選敗北になったのではないか」と著書で語っている。この性格に関して俵孝太郎は、当選前の龍太郎の猛勉強ぶりとその後の行動をみて、父の龍伍が障害者だったことから、健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったことが生意気と言われながらも、シャイで涙もろいところがあった要因だったのではと著書で分析している。
政界で唯一の友人と言えるのは同期当選で同学年の小渕恵三で、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている[注釈 4]。また、橋本を取り巻く数少ない側近には、斎藤十朗、山東昭子、藤井孝男、熊代昭彦[注釈 5]らがいた。
政治評論家の浅川博忠は、橋本が初当選の頃の後藤田正晴を「後藤田君」と呼んでいたという逸話を紹介している。後藤田は当選回数では橋本より下だが、23歳年長で警察庁長官・内閣官房副長官を経験していた[12]。また田勢康弘は、水俣病問題への対応の末に自死した山内豊徳(環境庁企画調整局長)の遺族に手紙を宛てたエピソードなどを紹介しつつ、「橋本には『使用説明書(取扱説明書)』が必要だと常々思っている」と評している[13]。
田中秀征は橋本内閣の経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、それまでキザなイメージが強かった橋本への人物感を改め尊敬するようになったという[14]。
久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評している。橋本は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。通商産業大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている[15]。最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の久米宏に「睨まないでくださいよ」と言われて「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。
早くから自民党および田中派のエースと目され、重要ポストを歴任し首相に就任したが、退任後は傀儡の形で派閥の会長に就任し総裁選に再度出馬も落選、スキャンダルで引退を余儀なくされそのまま翌年死去と、華々しいキャリアの割にはいささか寂しい晩年であった。
マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」等ともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。
略歴
- 1937年7月 - 東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれる[注釈 6]。
- 1950年3月 - 大田区立田園調布小学校卒業
- 1953年3月 - 麻布中学校卒業
- 1956年3月 - 麻布高等学校卒業
- 1960年3月 - 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
- 1960年4月 - 呉羽紡績株式会社(現・東洋紡)に入社
- 1963年4月 - 衆議院議員西村英一秘書
- 1963年7月 - 厚生大臣秘書官
- 1963年11月 - 父の後を継ぎ、衆議院旧岡山2区より出馬、初当選
- 1964年8月 - 自民党学生部長
- 1966年8月 - 党産業労働部長
- 1968年1月 - 党内閣部会副部会長
- 1969年1月 - 党国民生活局次長
- 1970年1月 - 厚生政務次官(第3次佐藤内閣)
- 1971年7月 - 党環境部会副部会長 党国民運動本部副本部長
- 1972年7月 - 党社会部会長 党医療基本問題調査会副会長
- 1972年12月 - 党全国組織委員会遊説局長
- 1975年9月 - 党ライフサイクル調査会副会長
- 1976年12月 - 衆議院社会労働委員長
- 1977年9月 - 党岡山県連会長
- 1978年12月 - 厚生大臣(第1次大平内閣)
- 1980年8月 - 党行財政調査会会長 党社会保障調査会副会長
- 1981年11月 - 党国際経済対策特別調査会副会長
- 1984年3月 - 党医療基本問題調査会会長
- 1986年7月 - 運輸大臣(第3次中曽根内閣)
- 1987年11月 - 党幹事長代理
- 1989年6月 - 党幹事長
- 1989年8月 - 大蔵大臣(第1次海部内閣)
- 1990年2月 - 大蔵大臣に留任(第2次海部内閣)
- 1990年12月 - 大蔵大臣に留任(第2次海部改造内閣)
- 1991年10月 - 大蔵大臣辞意を表明
- 1993年2月 - 党環境基本問題調査会会長
- 1993年8月 - 党政調会長
- 1994年6月 - 通商産業大臣(村山内閣)
- 1995年9月 - 党総裁
- 1995年10月 - 副総理兼通商産業大臣(村山内改造内閣)
- 1996年1月 - 内閣総理大臣
- 1998年7月 - 参院選の敗北を受けて首相を辞任。後任の小渕内閣で外交最高顧問に就任
- 2000年7月 - 平成研究会会長就任
- 2000年12月 - 行政改革担当大臣・沖縄開発庁長官(第2次森改造内閣 (中央省庁再編前))
- 2001年1月 - 行政改革担当大臣、沖縄及び北方対策担当大臣(第2次森改造内閣 (中央省庁再編後))
- 2001年4月 - 規制改革担当大臣 (第2次森改造内閣 (中央省庁再編後))
- 2003年5月 - 党沖縄振興委員会委員長
- 2004年2月 - 国連のコフィー・アナン事務総長に要請され、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長に就任
- 2005年8月 - 郵政解散後、総選挙不出馬=政界引退を表明。14回連続当選。次男・橋本岳が後継者となるが郵政選挙での柚木道義との新人対決に惜敗し比例復活。
- 2006年7月1日 - 東京都新宿区の国立国際医療センターで死去。享年68。
栄典
死後、正二位大勲位菊花大綬章を追贈(死去した7月1日にさかのぼって贈られる)。
著書
- 『Vision of Japan わが胸中に政策ありて』KKベストセラーズ1993年 ISBN 4584181624
- 『政権奪還論 』講談社 1994年 ISBN 4062070065
- 『燃える剣―橋本龍太郎の青春秘話』日本出版放送企画 1996年 ISBN 4795253412
- 『馬越恭平』(岡山 : 山陽図書出版、1976年)
家族・親族
橋本家
- 祖父・卯太郎(東京府平民[17]、実業家・大日本麦酒の元常務)
- 岡山県吉備郡秦村(現・総社市)出身。橋本明によれば、「橋本龍太郎首相の祖父卯太郎は農民だった。岡山県吉備郡秦村(現・総社市)が高梁川の氾濫で水没すると上京、新聞配達をしながら苦学して高等工業学校を卒業。馬越恭平日本ビール社長に見込まれ入社した。当時専務をしていた石光真澄が卯太郎の人柄を見抜いて「妹・真都を嫁に…」と望み、二人は馬越の媒酌で結婚する。酵母を扱う技師から常務に出世した卯太郎は8人の子宝に恵まれた。男六人には「宇宙乾坤龍虎」に数字をつけて命名した。」という[18]。
- 『明治大正人物史』によると「明治二年三月生る。岡山県人橋本源三郎の長男なり。同三十一年養兄富平方より分れて一家を創立す。幼より沈着誠実、悠々として迫らざる態度は大人の風ありて、その大成を嘱望せらる。長じて東京高等工業学校に学び、二十七年同校機械科を卒業するや、直ちに大日本麦酒株式会社に入る。温厚円満の人格と、機宜に当る手腕とは君をして工務部長に累進、更に常務取締役に挙げしめ、現にその任にありて活躍しつつあり。書画骨董に趣味を有し、閑日月を活動の間に求むるところ奥床しとも云ふ可し。」という。
- 祖母・真都(熊本藩士石光真民の娘、恵比寿麦酒支配人石光真澄・陸軍少佐、諜報活動家石光真清・陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪)
- 父・龍伍(官僚、政治家)
- 厚生大臣、文部大臣などを歴任した。
- 実母・春子(埼玉県、官僚・弁護士大野緑一郎(元警視総監、朝鮮総督府政務総監)の長女)
- 継母・正(兵庫県、官僚・政治家若宮貞夫の四女)
- 異母弟・大二郎(政治家・元高知県知事)
- 妻・久美子(元不二音響社長中村久次の長女、銀行家中村貫之男爵・元千葉県知事加納久朗子爵の孫、元上総国一宮藩主加納久宜子爵・元東京市長阪谷芳郎子爵・元満鉄総裁中村雄次郎陸軍中将男爵の曾孫、日本資本主義の父・財界・実業界指導者渋沢栄一子爵の玄孫)
- 長男・龍〔りょう〕
- 次男・岳(政治家)
- 長女
- 次女
- 三女
- 伯父・叔父
- 従兄弟
石光家
人脈
広瀬隆によれば、「彼の先代の人脈は、一見して分るように、陸軍中将が三人と、海軍少佐[20]、朝鮮総督府政務総監らに囲まれた軍人一家であった。妻・中村久美子も満鉄総裁中村雄次郎の曾孫にあたる。」という[21]。
出典
- ↑ 総社市
- ↑ 『産経新聞』2005年12月22日
- ↑ 『激録!総理への道』pp.670-671 pp.699-707
- ↑ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』199頁
- ↑ 厚生族のドン元厚生大臣 橋本元首相死去 たばこ好きとしても知られ、1995年10月の麻布高校創立100周年記念祝賀会で「高校の屋上でたばこを吸い始めて以来、ヘビースモーカーになってしまった」と、あいさつで触れるほどだった。
- ↑ http://www3.grips.ac.jp/~oralreport/view?item=100025 海部俊樹『海部俊樹オーラルヒストリー(下)』p.168
- ↑ 切れ者で正直すぎる政治家 橋本龍太郎 文春写真館
- ↑ “特集ワイド 早大探検部員殺害事件”. 毎日新聞(東京夕刊) (東京): pp. 2. (1998年1月30日)
- ↑ 「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」、『週刊ポスト』第30巻第5号、小学館、1998年2月6日、 183頁。
- ↑ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』138頁
- ↑ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』93頁
- ↑ 浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』講談社文庫、258頁
- ↑ 田勢康弘『だれが日本を救うのか』新潮文庫、249頁
- ↑ 2015年4月20日中日新聞
- ↑ 小説 角栄学校 267-268頁
- ↑ 『衆議院会議録情報 第042回国会 本会議 第1号』
- ↑ 17.0 17.1 『人事興信録. 5版』(大正7年)は八五
- ↑ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』112頁
- ↑ 石光真清著『城下の人』
- ↑ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』112頁によれば、「二男・宙二は海軍大佐」である
- ↑ 広瀬隆著『私物国家 日本の黒幕の系図』287頁
注釈
- ↑ なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている
- ↑ 「橋本龍太郎氏の慰霊碑」『野口健ブログ』
- ↑ また首相在任中に行われた党首討論(日本記者クラブで各党首による公開討論)で日本共産党委員長の不破哲三が「北方領土が日本固有の領土という点においては、なぜか自民党と一致している」と発言したのに対して、「山登りも同じだよ」と混ぜっ返して会場を和ませた。不破もまた登山を趣味としていた。
- ↑ 橋本の父・龍伍と小渕の父・光平は第24回衆議院議員総選挙の当選同期であり、同じ吉田茂派に在籍していた
- ↑ 同じ岡山県出身で、橋本に見いだされて政界入りした
- ↑ なお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。本籍は東京都渋谷区(『人事興信録』より)。昭和43年(1968年)岡山県総社市に家を建てた(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 - もう一度「龍」と呼ばせて 』48頁より)
参考文献
- 浅川博忠 『橋本龍太郎 仕事師と呼ばれた男』 東洋経済新報社〈人物発掘ノンフィクション〉、1995年10月。ISBN 4-492-06085-5。
- 岩見隆夫 『実録・橋本龍太郎』 朝日ソノラマ、1995年10月。ISBN 4-257-03459-9。
- 奥村茂編著 『橋本龍太郎孤独な戦い 「剣道総理」の意外な素顔』 並木書房、1998年2月。ISBN 4-89063-091-0。
- 仮野忠男・長田達治 『橋本龍太郎・全人像』 行研出版局、1996年8月。ISBN 4-87732-008-3。
- 俵孝太郎 『日本の政治家 父と子の肖像』 中央公論社、1997年4月、351-377。ISBN 4-12-002666-3。
- 橋本明 『昭和抱擁 天皇あっての平安 戦後50年・年譜の裏面史』 日本教育新聞社、2000年(原著1998-04)、増補版、112-114。ISBN 4-89055-208-1。
- 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社〈知恵の森文庫〉、2000年6月、133, 173, 191, 244, 275, 283, 333頁。ISBN 4-334-78001-6。
関連項目
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代: 村山富市 |
内閣総理大臣 第82・83代:1996年 - 1998年 |
次代: 小渕恵三 |
先代: 河野洋平 |
国務大臣(副総理) 1995年 - 1996年 |
次代: 久保亘 |
先代: 創設 |
規制改革担当大臣 初代:2001年 |
次代: 石原伸晃 |
先代: 創設 |
沖縄及び北方対策担当大臣 初代:2001年 |
次代: 尾身幸次 |
先代: 福田康夫 |
沖縄開発庁長官 第42代:2000年 - 2001年 |
次代: 内閣府へ |
先代: 畑英次郎 |
通商産業大臣 第59代:1994年 - 1996年 |
次代: 塚原俊平 |
先代: 村山達雄 |
大蔵大臣 第93・94代:1989年 - 1991年 |
次代: 海部俊樹 |
先代: 三塚博 |
運輸大臣 第58代:1986年 - 1987年 |
次代: 石原慎太郎 |
先代: 小沢辰男 |
厚生大臣 第57代:1978年 - 1979年 |
次代: 野呂恭一 |
議会 | ||
先代: 熊谷義雄 |
衆議院社会労働委員長 1976年 - 1978年 |
次代: 木野晴夫 |
党職 | ||
先代: 河野洋平 |
自由民主党総裁 第17代:1995年 - 1998年 |
次代: 小渕恵三 |
先代: 安倍晋太郎 |
自由民主党幹事長 第25代:1989年 |
次代: 小沢一郎 |
先代: 三塚博 |
自由民主党政務調査会長 第39代:1993年 - 1994年 |
次代: 加藤紘一 |
先代: 綿貫民輔 |
平成研究会会長 第5代:2000年 - 2004年 |
次代: 空席 → 津島雄二 |
名誉職 | ||
先代: 海部俊樹 |
最年少衆議院議員 1963年 - 1967年 |
次代: 山口敏夫 |
日本国歴代内閣総理大臣 | ||||||||
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第81代 村山富市 |
第82・83代 1996年 - 1998年 |
第84代 小渕恵三 |
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