木曜クラブ
木曜クラブ(もくようクラブ)は、かつて存在した自由民主党の派閥。通称田中派。会長は名目上西村英一→二階堂進だが、事実上のオーナーは一貫して田中角栄であり、自民党を離党した後も常にこの木曜クラブを通じて自民党ひいては日本政界に君臨し続けた。旧自由党の吉田派から佐藤派(周山会)の流れを汲む保守本流派閥。
Contents
経歴
田中派の旗揚げ
- 主な出席者(佐藤派田中系81人 衆議院40人(代理人7人)、参議院41人(代理人5人))
- 田中角栄、橋本登美三郎、二階堂進、斎藤昇、西村英一
- 郡祐一、前田佳都男、上田稔、梶木又三、徳永正利
- 寺本広作、永野鎮雄、橘直治、白井勇、吉武恵市
- 木村睦男、鬼丸勝之、岡本悟、川野辺静、細川護煕
- 石井一、長谷川仁、大松博文、山本利寿、一龍齋貞鳳
- 世耕政隆、渡部恒三、奥田敬和、斉藤滋与史、小沢辰男
- 亀岡高夫、足立篤郎、高橋英吉、山下春江、安西愛子
- 小沢一郎
1972年5月に佐藤派の派内派として発足。その後佐藤派から独立し、同年7月7日、田中が内閣総理大臣に就任したことから、「七日会」として正式に田中派が旗揚げされ、西村が会長に就任した。旗揚げ時は佐藤派102名のうち、衆議院から40名、参議院から41名が参加し、合計81名の大派閥であった。
派閥の特色としては、田中が首相在任中に日中国交正常化を成し遂げたこともあり、台湾(中華民国)とは距離を置く親中派が多かった。また、道路や郵政などの公共事業による集金、集票力のある利権と深い関係を持つ族議員が圧倒的に多かった。また、議員数の増加によって自民党内の全ての政策部会に族議員化した田中派所属議員を抱えるようになると、地方自治体の首長などから「田中派に所属すれば地元からのあらゆる陳情を派内で処理して貰える」という暗黙の了解が形成されるようになり、田中内閣崩壊後も求心力を維持し続ける効果を齎した。田中は自らの派閥を総合病院と評した。
1976年、派閥のオーナーである田中と、派閥幹部の橋本登美三郎が、ロッキード事件に関与したとして逮捕される。逮捕直後に田中は自民党離党届と七日会退会届を提出する。取り調べの後に保釈された田中は、刑事被告人ながらなおも実質的な七日会のオーナーであり続けた。田中と田中派が世間から厳しい目を向けられたこの時も派閥からの脱落者は一名も出さず、田中派の結束の強さを示す。しかし、これは裏を返せば、田中に楯突いたり反目すれば、政治生命を脅かす報復が待っていることの表れとも見られた(この時の選挙で初当選した相澤英之は田中派入りを断ったため長く冷遇されたといわれる)。
七日会
- 最高顧問
- 顧問
- 会長
- 副会長
- 理事
- 幹事
- 橋本龍太郎、小宮山重四郎、大村襄治、松野幸泰、梶山静六
- 佐藤守良、奥田敬和、林義郎、渡部恒三、愛野興一郎
- 戸井田三郎、村岡兼造、金井元彦、梶木又三、川野辺静
- 安西愛子、世耕政隆、井上吉夫、遠藤要、亀井久興
- 戸塚進也、山東昭子
1977年、党内の派閥解消の流れで一時「七日会」の看板を降ろすが、翌年の福田赳夫、大平正芳による総裁選を境に派閥活動を復活させ「政治同友会」(会長・西村英一)を発足させた。1980年、政治同友会から「木曜クラブ」に派閥名を改め、選挙で落選した西村に代わり、二階堂が木曜クラブ会長に就任。かつて佐藤派が「木曜研究会」という派閥名だったことが由来している。
木曜クラブへの衣替えと同時に、田中は積極的な派閥拡大を進め始める。刑事裁判とロッキード政局の長期化により自民党復党がかなわない田中は、「自民党周辺居住者」と自称しながらも田中派を掌握し、船田中派や水田三喜男派などの旧中間派・無派閥議員を次々と田中派に入会させた。1980年には99名、その後も入会者を増やし、ロッキード事件第一審判決の年の1983年の総選挙でも自民党が大敗する中で田中派は2人の議員を減らしたにとどまり(ただし、各選挙区に田中派の候補を大量擁立していたため田中派の落選者も多かった)、1984年には118名と、田中派は年月を経るごとにさらに膨張していった。このため、同派は「田中軍団」と呼ばれて政界の内外で恐れられるようになる。
木曜クラブ
- 会長
- 副会長
- 代表幹事
- 事務総長
- 運営局長
- 広報担当
大平、鈴木善幸、中曽根康弘政権樹立の大きな原動力となり、総理・総裁を目指すには、田中派の協力なしでは不可能と言われていた。しかし、この頃から派内で「他派の候補ばかりを担いで自派から総理・総裁を出さないのは士気が下がる」との声が漏れるようになった。田中は、自身の影響力低下を恐れ、また将来の復権を考えていたため、田中派内から自分に取って代わる人間、つまりは竹下登の総裁選出馬を許さないと考えていたと言われる。しかし、田中の意を体して竹下を抑えつける立場であった二階堂進会長自身が党内の反中曽根派の使嗾に乗って総裁選出馬の意欲を一時示す(二階堂擁立構想)など、自前の総裁候補を出そうという機運が派内に充満した。
1985年に竹下を擁立する派中派の「創政会」が、金丸信、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六らによって結成された。当初は勉強会だという表向きの説明を信じて容認していた田中は、派中派と知るや憤慨して激しく抑えつけたが、直後に脳梗塞で倒れた。
田中が一線から退いたことで、派内抗争が激化する。二階堂は、江崎真澄、田村元、小坂徳三郎らを擁し、木曜クラブ会長であることを盾に、自身が田中派の総裁候補であると発言、総裁選出馬を臭わせると、創政会グループがこれに猛反対し、さらには創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指す奥田敬和らの中立グループが形成されるなど、木曜クラブは完全に分裂した。
1987年7月、木曜クラブから120名が参加して、竹下派(経世会)結成大会が行われた。二階堂系だった田村グループや、奥田ら中立組も竹下派に参加し、木曜クラブは完全に衰退。大派閥としての地盤は竹下-金丸ラインの経世会に引き継がれていった。
木曜クラブに残留した二階堂会長、江崎、小坂、山下元利らは以降二階堂グループと呼ばれ、引き続き独立勢力を維持したが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。このとき、小沢辰男や後藤田正晴など竹下・二階堂どちらにも与しなかった議員もいた。1990年の総選挙で田中角栄、小坂、久野忠治が政界を引退し(ただし、久野は1回落選している)、保岡興治、田中の女婿である田中直紀が落選。大量に所属メンバーを減らしたことで、同年2月木曜クラブは解散を表明し、田中政治の終焉を告げた。