東久邇宮稔彦王
東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の皇族(旧皇族)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。千葉工業大学の創設発案者[1]。
貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。
父は久邇宮朝彦親王。香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。
日本の降伏、第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。
東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。
その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策[注釈 1]を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した[注釈 2]。歴代総理大臣では最高齢(死去時102歳48日)の首相経験者である。
Contents
来歴
生い立ち
久邇宮朝彦親王第九王子として1887年(明治20年)に誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もいて親友となる。
宮家の末子として本来ならば成人ののち臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王の降嫁先を確保するための特例措置として、1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。こののち陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。
留学
1915年(大正4年)に予定通り聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)から、1926年(大正15年)まで、フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。そして、後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、画家のモネや元首相のクレマンソー、そして第一次世界大戦の英雄として知られたジョフル元帥やペタン元帥と親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。なお、東久邇宮は、ヨーロッパへの長期に渡る滞在に至った理由について①山縣有朋元帥陸軍大将と上原勇作元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、②滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている。
ヨーロッパ留学の経験から欧米と日本(をはじめとするアジア諸国)の科学技術力の格差やアイデンティティの違いを感じた東久邇宮は、海軍の永野修身元帥や教育学者の小原國芳博士、そして哲学者の西田幾多郎博士らと共に、①日本をはじめとする各国の国家枢要の人材養成、②アジア諸国の科学技術教育の発展と向上、③アジアを背負い世界文化へ貢献する為の拠点の創成などを目指して(詳細は「興亞工業大學設立趣意書」を参照のこと)1942年(昭和17年)、興亜工業大学(のちの千葉工業大学)の創設に尽力している。
大正天皇の容態が思わしくなくなったという報が遊学中の稔彦王に入ったが、稔彦王は息苦しい日本に戻るのを嫌い、一向に帰国の素振りを見せなかったため、日本で留守宅を守っていた妻の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と稔彦王の従者に手紙を送りつけるほどだった[2]。稔彦王は権威主義や形式主義を重んじる大正天皇とは馬が合わず、不仲だったともいわれる。結局稔彦王の欧州滞在は7年間にも及んだ。
軍人生活
帰国後には第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。ヨーロッパ留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。
支那事変(日中戦争)では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。
1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム南部)進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇の大権によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りは強く、昭和天皇に宮の助言は届かなかったという。
日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。皇族であり対米戦争回避派である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、日米交渉妥結を志向する近衛文麿、広田弘毅、海軍ら穏健派以外にも、強硬派の東條英機も東久邇宮が陸軍出身であることから賛成した。しかし皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。
日中の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索するも開戦に至る[3]。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。
1942年(昭和17年)の元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情をはじめて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。
太平洋戦争の時期は防衛総司令官・陸軍大将に就く。大戦中は海軍の高松宮宣仁親王と共に大戦終結のために奔走した。大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされるという被害に遭っている(宮城事件)。
内閣総理大臣
就任
ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年(昭和20年)8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。
副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には米内光政元首相が留任している。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した九月半ばに、後任外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 23日)、東久邇宮が兼任した。
新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ[注釈 3]。
降伏と武装解除
日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の要求する「日本軍の武装解除」であった。なお、東久邇宮内閣の最重要の課題は「無血進駐」だったが、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から、一発でも発砲されれば連合国軍は「武力進駐に切り替える」と通達されていた(神奈川県警史)。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や戦争による一時的占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。
また、連合国による占領統治の開始が滞りなく開始されるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。玉音放送が行われて18日後の9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本軍ならびに日本国政府全権代表により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。
一億総懺悔
東久邇宮は玉音放送が行われて翌々日の1945年(昭和20年)8月17日に開かれた日本人記者団との初の記者会見において、国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に国会で行われた施政方針演説においても次の様に発言した。
事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。(中略)敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります
このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、「国家政策の誤り」を認めるとともに、「国民の道義的責任」についても言及するものだった。その発言は、日本の戦争責任の所在を曖昧にするための理論だとして国民の間で反発を招く一方、問題への関心を高めた。
すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを回避するため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関してあくまでも日本による自主的な裁判を開廷することが決定された。
一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え[4]、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判(東京裁判)の準備にとりかかっている。
総辞職
東久邇宮首相は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら、政治犯釈放は戦後混乱期に喘ぐ中にあって共産主義革命の勃興を憂慮した内務省と司法省の反対により実現しなかった。
内務省は、モーニングコートを着用し直立する「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着用し腰に両手を当ててやや体を傾ける姿勢のダグラス・マッカーサーと並び立っている会見写真の公表を阻止するために、内務大臣の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施[5]し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎巌内務大臣を逮捕して軍事裁判にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎巌内務大臣は発禁処分を撤回した。GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。なお、この時点では共産主義者の釈放は行われていなかったが(徳田球一は東久邇宮の総辞職5日後の10月10日に府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄)、東久邇宮と副総理の緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した[6]。
首相辞任後
臣籍降下
1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は、皇室の「敗戦の責任を取るため」として、皇族の身分を離脱する意向であることを表明、賀陽宮恒憲王などがこれに同調した。
1946年(昭和21年)2月に東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任(「昭和天皇の戦争責任論」)をとるため退位する意思があること、これへの賛同者は昭和天皇に「道徳的、精神的な責任」を有すると考えていることをAP通信記者に述べている。東久邇宮は早期から天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の次期皇位継承者であった皇太子明仁親王への譲位、また年齢的にも幼く未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた弟の一人・高松宮宣仁親王が摂政を務めるという案)の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。
1946年(昭和21年)5月23日、貴族院皇族議員を辞職[7]。1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。
臣籍降下後
公職追放を受け[8](1952年解除[9])、その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。その理由は東久邇宮本人が曲がった事が大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの値段で取扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると宮は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。1948年(昭和23年)には、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現世界連邦運動協会)を創設した。
1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。同1950年フリーメイソンに入会(=initiated)[10]。1957年6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる[注釈 4]。
1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相の岸信介に退陣を勧告。1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。
1979年(昭和54年)、聡子夫人と死別。同年暮れ頃から、「東久邇の妻」を自称する女性がいるとの噂があったため戸籍を調べたところ、知らぬ間に入籍されていたことが判明。「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)を相手取り、結婚無効の調停を起こした。調停が不調であったため民事裁判となったが、一審判決は婚姻は有効、高裁判決は無効とし、1987年(昭和62年)最高裁が上告を棄却したため婚姻の無効が確定した。
死去
1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。
栄典
- 45px 1908年(明治41年)4月23日 - 勲一等旭日桐花大綬章[11]
- 45px 1917年(大正6年)10月31日 - 大勲位菊花大綬章[12]
- 45px 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[13]
- 45px 1942年(昭和17年)4月4日 - 功一級金鵄勲章[14]
エピソード
- 陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のトルストイの『復活』を読んで物議をかもした。これが明治天皇の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討されたが、一方で、明治天皇は、これら、稔彦王の変わった立ち振る舞いを、知的好奇心の表れだとして評価していたとされる。
- 陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。
- フランス留学前に自動車の運転を覚えていた。そのフランス留学中に同じ留学中だった北白川宮成久王からドライブに誘われたが、「ロンドンに行く用がある」という理由で断った。代わりに朝香宮鳩彦王を誘ったが、北白川宮の運転する車はスピードの出し過ぎで立ち木に激突して、北白川宮は即死、朝香宮も重傷を負った。
- パリ留学中には愛人との生活に耽溺し[15]、たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、おりからロンドンに留学中だった小松輝久侯爵がパリに乗り込んで直談判し、[16]ようやく帰国した。帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。
- 近衛文麿から太平洋戦争を避け、日米交渉を継続する為、次期首相にと打診を受けた。当時の日本国内は軍の中堅幹部を始め、マスコミも日本国民も開戦を望む風潮で、この流れに異を唱えたならば逆賊としてテロを加えられるような世の中だったが、宮は「私は殺されてしまうかもしれないが、頑張って半年は持ちこたえて見せよう」とまで述べたという。しかし、木戸幸一内大臣の判断により、東久邇宮内閣が成立することはなかった。
- フランス留学中に、画家のクロード・モネについて絵筆をとった。モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した[17]。
- フランス留学中に東久邇宮は「自分は画家である」と老婆の手相見に言ったが、手相見は「あなたは日本の首相になる」と言った。東久邇宮は身分を明かして「私は日本の皇族でしかも軍人である。日本では皇族や軍人が政治をやることは禁じられているから、首相にはなれない」と反論したが、「いや、日本に大革命か大動乱が起きる。その時に必ずあなたは首相になる」と言い切った。実際に首相に就任してからこの話を思い出し、「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いもバカにならぬと思った」と、日記に書いた[18]。
- 武装解除の際、小園安名海軍大佐率いる第三〇二海軍航空隊(神奈川県・厚木飛行場駐留)は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなどの反乱状態に陥った(厚木航空隊事件)。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎海軍大佐などが説得にあたったが、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。東久邇宮内閣は小園大佐を拘束し、野比海軍病院の精神科へ強制収容された。この時のことを宮は「もし、米軍先遣隊が厚木飛行場に進駐した時、わが方がこれを攻撃でもしたら、将来アメリカに行動の自由を許す口実を与えることになる。厚木飛行隊は最も優秀な防空飛行隊で私は同飛行隊将校に同情をしたが大局から見て許すことができなかった。こうして24日夕までに完全にわが飛行機は飛べないことになった。まったく、毎日毎日剣の刃渡りをしている気持ちである」と日記に記している。
- 東久邇宮は太平洋戦争中の日本について「戦時中、日本は小さなことにこせこせしたが、大きなことにはぬかっていた。全体と部分との混同が、至るところに見られた。部分的には実に立派なものであるが、全体的に総合すると、てんでんばらばらのものばかりで役にはたたなかった」と評価している。
- 米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣に国民の混乱を防ぎ、時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。
- 当時は、まだ制度上は帝国憲法下の内閣だったにも関わらず、東久邇宮は国民の意見を国政に反映したいと考え、「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけたという。すると毎日数百通に上る国民からの手紙が舞い込んできたという。
- ダグラス・マッカーサー元帥に面会した際「アメリカは封建的遺物の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。もし元帥が不適当とみるなら、私は明日にも首相を辞める」 と述べた。これに対し、マッカーサー元帥は「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか、非民主主義と言うのは、その人の生まれた家柄を言うので、あなたの思想・行動は非民主主義とは思わない」と対応した。
- 戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」とも書き記している。
発言
目の前の小さな現象に目を奪われて、遠い目標を見失ってはならない
家族
- 父:久邇宮朝彦親王
- 母:寺尾宇多子
- 兄弟:男子:邦憲王 - 邦彦王 - 守正王 - 多嘉王 -暢王 - 鳩彦王 - 稔彦王
- 兄弟:女子:智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王
- 妻:聰子内親王
- 子:
系図
脚注
注釈
- ↑ 内相及び内務警察官僚4000名の罷免と治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止
- ↑ 東久邇宮首相は、副総理格の緒方竹虎の意見を求めると「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」と述べ、これに首相が同意し、内閣は総辞職した(産経新聞 2002年6月10日掲載)
- ↑ 宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記されていた。
- ↑ “七人の有名な日本人メィーソン”. 東京メソニックセンター. 2009年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011閲覧. “1957年6月、東久邇は東京の友愛ロッジでメイソンになった。”
このサイトにおける「メイソン」とは第3階級の「マスターメイソン」を言っている。
出典
- ↑ NEWS CIT ニュースシーアイティ(2013.4.15)
- ↑ 『宮家の時代』ISBN 4022502266
- ↑ 『やんちゃ孤独』155頁
- ↑ 朝日新聞夕刊連載『新聞と戦争』「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。
- ↑ 粟屋憲太郎 『敗戦直後の政治と社会 第2巻』 大月書店 p.453
- ↑ 今西光男 『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』 朝日新聞社 p.84 - 85
- ↑ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
- ↑ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
- ↑ 『朝日新聞』1952年4月22日夕刊一面。
- ↑ Professor Andrew Prescott(Kings College, London). “International Conference on the History of Freemasonry 2011”. Paper 4a: General MacArthur and the Grand Lodge of Japan(Pauline Chakmakjian, UK.). Scribd. . 2014閲覧.
- ↑ 『官報』第7446号、「叙任及辞令」1908年04月25日。p.591
- ↑ 『官報』第1575号、「叙任及辞令」1917年11月01日。p.6
- ↑ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
- ↑ 『官報』第4570号、「宮廷録事 勲章親授式」1942年04月07日。p.213
- ↑ 佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書p.184,2007。
- ↑ 浅見雅男『伏見宮―もう一つの天皇家』講談社p.289,2012。
- ↑ 『やんちゃ孤独』101-108頁、159-162頁
- ↑ 広岡裕児『皇族』読売新聞社281-282頁
伝記
参考文献
- 東久邇稔彦 『東久邇日記 日本激動期の秘録』 徳間書店、1968
- 東久邇稔彦 『一皇族の戦争日記』 日本週報社、1957
- 東久邇稔彦 『やんちゃ孤独』 読売新聞社、1955
- 東久邇宮稔彦王 『私の記録』 東方書房、1947
- 長谷川峻著 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』行研出版局,1987
- 外務省編 『終戦史録(全6巻)』、解説江藤淳、北洋社 1978
- 外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録(上中下)』、山手書房新社,1990
- 江藤淳編 『占領史録』 波多野澄雄解題、講談社全4巻、1982
- 講談社学術文庫全4巻、1989、同文庫新版全2巻、1995
- 江藤淳編 『もう一つの戦後史』講談社、1978年-インタビュー集
- 佐藤元英、黒沢文貴編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』
- 上.下 <明治百年史叢書> 原書房 2002
- 林茂、辻清明編 『日本内閣史録.5巻』 第一法規 ,1981
- 鈴木九萬一監修 『日本外交史.26巻 終戦から講和まで』 鹿島研究所出版会,1973
- 荒敬編 『日本占領・外交関係資料集 第1巻』 柏書房,1991
- 広岡裕児 『皇族』 読売新聞社、1998 ISBN 4643980745、中公文庫、2002 ISBN 4122039606
- 鹿島茂編 『宮家の時代』 朝日新聞社、2006 ISBN 4-02-250226-6
- 大久保利謙監修 『日本の肖像.第12巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』
関連項目
外部リンク
- 第88回帝國議会(臨時会)戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説(1945年9月5日)
- 百年の遺産-日本近代外交史
公職 | ||
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先代: 鈴木貫太郎 |
内閣総理大臣 第43代:1945年 |
次代: 幣原喜重郎 |
先代: 阿南惟幾 |
陸軍大臣 第34代:1945年 |
次代: 下村定 |
軍職 | ||
先代: 山田乙三 |
防衛総司令官 第2代:1941年 - 1945年 |
次代: 廃止 |
先代: 古荘幹郎 |
陸軍航空本部長 第10代:1937年 - 1938年 |
次代: 寺本熊市 |
先代: 寺内寿一 |
第四師団長 1934年 - 1935年 |
次代: 建川美次 |
先代: 多門二郎 |
第二師団長 1933年 - 1934年 |
次代: 秦真次 |
日本国歴代内閣総理大臣 | ||||||||
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第42代 鈴木貫太郎 |
第43代 1945年 |
第44代 幣原喜重郎 |
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