尾道
尾道(おのみち)は、広島県尾道市および備後国御調郡の歴史的地名。現在の尾道市の旧市街地にあたる。
Contents
地理
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16px しまなみ海道 - 空から日本を見てみよう |
この地は3つの日本遺産に関連する。
- 「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」[1]
- 「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜」
- 「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」[2]
この地区はこれらのうち向島地区を除いた本州側尾道市中心部のことで、同認定地区の大部分を占める[3]。
瀬戸内海のほぼ中央、中国地方の広島県南東部にある[4]。南側が狭い所で幅約200mの一見すると河のような細長い海峡である尾道水道[5]、北側は尾道三山と言われる千光寺山・西国寺山・浄土寺山に挟まれた、東西に伸びる細長い町である[1]。海峡を挟んで南側が芸予諸島の一つ、向島になる[6]。
中世に倉敷地として開かれた「港まち」が、近世・近代・現代の中で交易あるいは交通の要地として瀬戸内海随一の港町として発達した[1]。近世に海路は西廻海運航路・陸路は西国街道と出雲街道(石州銀山道)、近代では国道2号と山陽本線、現代ではこの近郊で尾道バイパス・山陽新幹線に山陽自動車道と西瀬戸自動車道および中国横断自動車道が交わる「瀬戸内の十字路」で、そうした中で豪商が生まれ活発な商業活動が行われた「商人のまち」であった[1][4]。
尾道三山の峰を中心に神社仏閣、海に下るにつれ住宅地、そして商業地となり、尾道水道付近が港湾施設が形成された[1]。そして数々の寺社が存在する「寺のまち」である[7]。また地形的制約の中で町域は拡大したことから、南は尾道水道まで、北は尾道三山の麓とくに神社仏閣の境内ギリギリまで人家が発達し、複雑に入り組んだ路地や坂道が形成された「坂のまち」である[1][7]。
この地で財を成した豪商や歴代の権力者による庇護・寄進により数々の神社仏閣が現代まで守られ、多くの文人がその情景を自身の作品に残し、現代では映画・アニメなど映像メディアに重用される、「芸術文化のまち」である[1][7]。
こうした特異な地形的制約で旧市街地が発達し文化的に成熟したことにより尾道の風景は変化に富み「箱庭的」様相を呈する[1][6]。
沿革
地名の由来
現在一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『芸藩通志』によると
この地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことからこの名がついたと言われている[9][10]。尾道大橋付近は尾崎町というが、これは山の尾の崎(岬)からきたという[11]。
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16px 千光寺の「玉の岩」伝説 |
その他には、神功皇后が海に近い地にカラムシで道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説[10]、比較的新しい説で司馬遼太郎が唱えた船の航路を意味する澪から「澪の道」が転訛した説[9]、その他にも説がある。
尾道の名が出てくる最古の資料は、永保元年(1081年)に書かれた『西國寺文書』の中の「尾道浦」である[12]。
別名に、千光寺玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。これは、仲哀天皇8年(199年)三韓征伐で神功皇后が玉の浦に寄港し、この際に住民が水を献じたことから、この功績をたたえ水調(水をつぐ)、つまり御調の名が生まれたとする伝承による[13]。ただし、玉の浦伝承は玉島や玉野市玉など各地にあり、また御調郡の地名由来も諸説あり、いずれも確定できない[14]。
朝鮮通信使の宋希景が書いた紀行文『老松堂日本行録』の中では「小尾途津」と表記されている[15]。
古代
古代尾道は、小さな集落として存在していた[12]。尾道の東にある松永湾で縄文時代・弥生時代の貝塚跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている[16][17]。
国郡里制下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある[18]。
山の名にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。
また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[13][22]。なお浄土寺創建の伝承からこの頃には港として機能していたとして616年より前に開港していたとも考えられ[17]、玉の岩伝説や神功皇后の御調や道真の伝承などから古来に船がつける場所があった可能性がある。
古代、ヤマト政権は太宰府まで陸路と海路を整備した。主要陸路は(古代)山陽道で、この時代この地域では尾道の北を通り現在の府中市から尾道市御調町を通り三原市へと抜けるルートであった[16]。海路は、8世紀から整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦(三原市)とが整備され、この時点ではまだ尾道は主要港として位置づけられていない[23]。平安時代に入り荘園制が始まると、荘園からの年貢を運び出すため倉敷地(港)が更に各地に作られていった[23][12]。尾道もその中の一つである。
港町の成立
平安時代、尾道から北の内陸部にある現在の世羅郡世羅町は「大田庄」という荘園で、平氏政権が樹立された時代平重衡の荘園だった[12][24][25]。ただ倉敷地は存在していなかったため、下司は尾道を用いたいと嘆願を上げていた[10][12][25]。永万2年(1166年)重衡は大田庄を後白河院に寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた[12][25]。「港町」尾道の歴史はここから始まる[12][24]。
文治2年(1186年)後白河院は大田庄を高野山金剛峯寺に寄進、高野山根本大塔領大田庄となり尾道も高野山領となる[12][25]。大田庄の年貢米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった[24]。この運搬は荘官の下で任務にあたっていた「問」「問丸」「舵取り」等呼ばれた海運業者によるものである[24]。
寛元3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼淵信を荘官として派遣している[12]。淵信はここから30年近く尾道を管理し有力な荘官となっていき、弘安9年(1286年)には浄土寺別当となっている[26][27]。浄土寺が叡尊の弟子・定証によって中興されるのはこの時期である[27]。ただ『高野山文書』によると文永7年(1270年)以前から尾道の港で津料(関税)を徴収しており、この頃になると淵信は高野山の意思とは別に独自に動き出し莫大な富を得、海運業者は仲買人からのちに商家へと発達していき、それにより尾道は独立した交易港となっていく[24][12][27]。
中世の繁栄
14世紀初め、尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した[12][25]。そして海賊、交易品を強奪するのではなく水先人として通行料を得ようとするもの、が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた[27]。鎌倉時代初期、守護所は瀬戸長和庄(福山市)にあったが、文保2年(1318年)鎌倉幕府は守護をこの地に派遣し、後に守護所が移設されることになる[27]。
この時代の交易品は塩や鉄・布製品など[30]。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた[31]。刀鍛冶は天平年間(729年から749年)から現在まで続く“其阿弥家”が有名で[32]、当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている[31]。石工が発達したのはこの時代で、現在重要文化財として残る石塔にはこの時代に造られているものがある[31]。
建武3年(1336年)、建武の新政後九州に落ち延びる足利尊氏は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している[25][12]。尊氏が鞆(福山市)で光厳上皇の院宣を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことである。この鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、鎌倉幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた[33]。
室町時代、応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が九州探題として下向していた時に書かれた紀行文『道ゆきぶり』によると、尾道はこの時代から現在のように民家が密集し、陸奥や筑紫から交易船が来ていた[26]。この地は中国地方を勢力下においた山名氏が支配していたが明徳の乱で室町幕府に敗れ没落した。この頃、将軍足利義満が天寧寺に宿泊[34]、応永2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷地頭職、そして尾道・倉敷を高野山西塔へ寄付している[25]。応永の乱の手柄により再び山名氏(山名時熙)が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく[24]。日明貿易が始まり、尾道にも遣明船が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた[24]。現代になって行われた発掘調査において、この年代の地層から瀬戸焼・常滑焼・備前焼のほか、中国青磁・白磁、朝鮮青磁も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている[12]。この時代に、将軍足利氏による新たな建立や西國寺が時熙の子で守護の山名宗全の庇護で再建されるなど「寺のまち尾道」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた[26][35][24]。
室町後期から戦国時代までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく下克上の時代である。この地の最大勢力となる杉原氏によって千光寺山城などこの地を掌握出来る場所に幾つか城が築かれているため、尾道に杉原氏のなんらかの影響力があったと考えられている[33]。あるいは、尾道の複雑な寺社権力が武力勢力の介入を許さなかったため[40]、商人による自治は続いていたとも。またこの時代この地域の特色として因島を拠点とした因島村上氏(村上水軍)の存在がある[24]。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている[33]。
彼ら2つの勢力は中国覇権を目指した毛利氏の傘下となり、尾道は毛利氏直轄港となり、毛利氏御用達の商人が尾道へ入っている[41][42][43]。この尾道に、花隈城の戦いで敗れ毛利氏へ亡命してきた荒木村重が隠遁していた[44]。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から代官を決めると、商人による自治は続いた[42]。朱印船貿易にも絡み[45]、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際には、尾道の商人が船を出し輸送に関わっている[25]。
近世の栄華
江戸時代、この地は広島藩領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える[13][42][43]。
- 「町」の認定
- 江戸時代初期、広島藩により検地が行われ尾道は農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された[25][46]。時期は、慶長5年(1600年)福島氏(福島正則)による検地[46]、寛永15年(1638年)浅野氏による検地[25]によるものと2説ある。
- 福島氏時代の尾道は商人の中から5人の町年寄と12組60人の月番制行司を選出し商人だけで自治が行われていたが、福島氏が改易され広島藩は浅野氏が治め幕藩体制が強化され町奉行が置かれると年寄-組頭-月行司に再編成され、町奉行下で藩権力の介入はあったが商人による自治は続いた[42]。
- 街道整備
- 福島氏は更に近世山陽道つまり「西国街道」も再整備を行い、この時から街道は瀬戸内海沿岸に移され尾道の町中に通ることになった[47][46]。のち、広島藩領は浅野氏が治め、新たに水野氏による備後福山藩が興ると、譜代大名である備後福山藩と外様大名である広島藩の国境として尾道の東にある防地峠に関所が設けられている[48]。寛永10年(1633年)までに街道に一里塚が置かれるなど整備が完了し、同年には幕府から公式の宿駅に指定された[25][49]。
- また福島氏時代である慶長6年、徳川家康の直轄領となった石見銀山から銀を運ぶため、銀山奉行大久保長安により石州銀山道が整備される[25][48]。当時はまだ海路より陸路のほうが安全であったためであり、石見から運ばれた銀は尾道で船に積み込まれ大阪まで運ばれていった[25][50]。この道は途中赤名峠で分岐し出雲へ向かうルートとしても整備されたことから、尾道では特に「出雲街道」あるいは「出雲大社道」と呼ばれている[51][48][52]。それにより尾道は山陰地方との人・物流の交流点となり、出雲藩の年貢米も取り扱った[48][43]。
- 西廻海運による交易
- 江戸時代初期、鎖国が始まり海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出てきた[42][45]。
- 寛文12年(1672年)、西廻海運、つまり北海道・東北地方を起点に日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には北前船など廻船が寄港するようになる[13]。これにより、再び商人が力をつけるどころか爆発的に成長した[45]。主な取り扱い品は以下のとおり。
他から尾道へ | 尾道から他へ |
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以上のとおり尾道は、西廻海運・広島藩や他藩の年貢米取引・石見銀山からの銀の運搬によって商家町として、さらに主要街道の宿場町して、人と物流の拠点となった[47][49][62]。広島藩もその“台所”として積極的に投資し、町の西を流れる栗原川から土砂が流出し尾道水道内の潮流によって港まで流れ港湾能力が低下するため、藩により浚渫と埋め立てを繰り返し港湾施設は守られそして拡大していった[62]。なおこれら土地は商人に払い下げられるが、藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した[62]。こうして、海沿いが港湾施設、平地が街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている[49]。
港湾利用者のため花街が形成された[62]。元々は山の手側にあったが埋め立てにより土地が南へ拡大していくと花街も港に近い方へと移っていった[63]。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという[62]。
一方で、この時代は泰平の世となり海賊の心配がないことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていく[47][64]。航路の変更が尾道にも影響が出ており、例えば参勤交代で海路を用いた藩では、尾道に寄港し本陣を置いた記録はほぼない[65]。ただ尾道は、街道沿いの陸路と海路を繋ぐ玄関口であったため[66]、交易港として衰えることはなかった。江戸時代中期になると、商人同士の競争が増え秩序が乱されるようになり、また福山藩の鞆との競合も激しくなっていった[47]。更に沖乗りが主流となっていき御手洗や倉橋の方が取引量が上がり、それに伴い尾道も停滞するようになる[47]。元文5年(1740年)、第13代広島藩尾道奉行平山角左衛門が着任する[13]。町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」工事を行っている[13]。自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている[13]。平山はその他にもそれまで慣例化していた掟を「問屋掟」として明文化[42]、株仲間を藩公認[67]とするなど、のちに名奉行と讃えられ、現在は尾道住吉神社に合祀され、尾道名誉市民第一号となっている[13]。
尾道水道を縦断する渡船が出来たのはこの頃である。記録に残るものとしては、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たのが最初である[68]。
なおこの時代繁栄した御手洗や鞆などの交易港は、近代以降汽帆船の登場により存在意義がなくなり衰えていくが[69]、尾道は新たな交通・産業により引き続き商業地として発展していく。
近現代
明治4年(1871年)廃藩置県後、広島県御調郡尾道町となる[25]。この時期、「御調県」構想と尾道を県庁所在地とする案が浮上している。当時、尾道は広島県の東端で、それより東側の福山は小田県に属していた[70]。広島県庁舎は当初広島城内に置かれていたが、広島鎮台(第五師団)発足と仮庁舎の火事により移転を繰り返していた[70]。明治6年(1873年)伊達宗興県令は県庁を尾道に移し広島県を御調県と改称する計画を立て、大蔵省に提出した[70]。これに前島密大蔵官僚は県として手狭になることと無暗に移転することを嫌がり、強く否定したことにより実現しなかった[70]。
ここで、尾道に「山陽鉄道(山陽本線)」が登場する。商業区域を二分し寺社の参拝道が奪われることになるこの鉄道路線案は当初から反対が多く反対運動が起こっている[71]。様々な問題を解決し明治24年(1891年)10月、福山駅-尾道駅間が開通した[71]。そして新たな物流手段が出来たことによりこれで儲ける商人も生まれ、さらにこの鉄道が尾道の景観を一変させる(下記坂のまち参照)[71]。 明治45年(1911年)には軽便鉄道「尾道鉄道」も開通する[71]。
- Onomichi Station in Meiji and Taisho eras.JPG
明治・大正期の尾道駅
- JRW Onomichi Station 2010.JPG
現在の尾道駅。昭和5年(1930年)竣工[72]。
尾道は、少なくとも明治時代までは広島県随一の商業地であった[73]。「銀行浜」と呼ばれた当時県内随一の金融街があった[73]。明治11年(1878年)広島県初の国立銀行として「第六十六国立銀行」が銀行浜で設立されている[74]。のち広島市にも第百四十六国立銀行が設立されるが、尾道の国立銀行のおよそ半分の規模のものだった[75]。明治29年(1896年)には「尾道貯蓄銀行」、後の尾道銀行も銀行浜で設立されている[73]。なおこれらの銀行の後身は広島銀行であり、つまり広銀の歴史で見れば創業地は尾道ということになる[74]。
尾道は住友家とも関係がある。明治6年(1873年)住友家は「住友尾道分店」を開設、明治25年(1892年)「住友尾道支店」に拡大する[75][76]。その前年に神戸から尾道まで山陽鉄道が開通しており、住友家が経営していた別子銅山の玄関口となっていたことから、住友尾道支店で銅山の物品調達と並合業(自己資金による物品抵当の金融事業)を行うことになった[75][76]。そして、明治28年(1895年)5月住友尾道支店にて、合議制を初導入した第一回住友家重役会議いわゆる“尾道会議”が行われ、“住友銀行ヲ興ス事”つまり住友銀行の創業が決まり、同年11月住友本店銀行部が大阪で開業した[75][76]。当時住友家の主要業だった銅山の中継基地だった尾道で、新たな主要業となる銀行の発足を決めたということになる[76][77]。明治35年(1902年)住友尾道分店廃止に伴い、住友銀行尾道支店が銀行浜で設立される[77]。つまり住銀尾道支店は住銀における全国初の支店であり、現在も三井住友銀行尾道支店として存続している[76][77]。その他にも、明治42年(1909年)には別子銅山の煙害被害者と住友本店との初めての正式交渉いわゆる“千光寺会談”が行われ、翌年賠償契約を締結している[75][78]。大正2年(1913年)、住友肥料製造所(現住友化学)が新居浜で開業した際には、尾道が荷揚げ・荷捌きの港となった[75]。
尾道
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昭和初期の映像 | |
16px 第1回尾道みなと祭 - 昭和10年(1935年) | |
16px 千光寺公園の花見 -昭和10年(1935年)ころ | |
16px 千光寺公園ドライブ - 昭和12年(1937年)ころ | |
16px 桜と尾道鉄道 - 昭和12年(1937年)ころ |
こうした中で、明治31年(1898年)4月、県下2番目の市制施行、「尾道市」となる[25]。尾道の代表的な景観・観光地である千光寺公園が出来たのはこの頃で、明治36年(1903年)地元商人三木半左衛門が整備し市に寄贈した[79]。
近世での尾道の特産はそのまま近代にも受け継がれた。例えば塩は専売制となり大蔵省専売局尾道専売支局が置かれた以降も製造していた。尾道酢は、大正時代には満州・台湾・朝鮮にまで輸出されており、昭和30年代には広島銀行頭取橋本龍一とキユーピー役員廿日出要之進の偶然の出会いからキユーピーマヨネーズの原料酢に使われていた[58]。
- Onomichi 1930.jpg
昭和5年(1930年)頃、千光寺山から東方向を望む。
- Onomichi 1932.jpg
昭和7年(1932年)頃、浄土寺山から西方向を望む。
近代から現代にかけて、この地域の産業の中心となったのは向島・因島での造船業である[62]。これらの島では中世では村上水軍の勢力下で、近世では商人用の廻船として船製造が行われており、近代になり木造船から鉄造船に移行すると、島で育まれた造船技術と尾道において中世から受け継がれていった鍛冶の技とが結びつき飛躍的に発展した[80]。因島では明治29年(1896年)土生船渠合資会社が、向島では明治39年(1906年)松場鉄工所、瀬戸田では大正4年(1916年)山陽造船が最初に起業し、以降日立造船系(現ジャパン マリンユナイテッド)・尾道造船系・内海造船系の3つに集約されている[80]。日露戦争・第一次世界大戦・第2次世界大戦・朝鮮戦争と戦争による特需活況と戦後の不況、その後も好況不況を繰り返したなかで成長していった[80]。
この造船に活気だつ島へ尾道からの交通手段として渡船が最大で12箇所まで増えていくことになるが、現代に入り広域交通が整備される中で規模が縮小されていった[68]。
そして、戦後の広域道路網整備は昭和43年(1968年)尾道大橋開通から始まり、平成27年(2015年)に山陽自動車道・西瀬戸自動車道・中国横断自動車道が結ばれた。昭和63年(1988年)山陽新幹線新尾道駅が開業、駅前再開発に合わせ平成11年(1999年)尾道駅が平成12年(2000年)尾道糸崎港が再整備された。
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尾道ポートターミナル
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しまなみ交流館テアトロシェルネ
まちづくりの取り組み
1980年代以降、ニチイ尾道店(イオン尾道店)やフジグラン尾道が開店すると、市街地中心部の商店街は衰退していく[82]。1998年まちづくり3法が施行すると、市街地活性化に向け手が加わるようになる[82]。
現在尾道市全体で見ると、少子高齢化がすすみ空き家が発生している[83]。市街地でも同様で、特に斜面地では災害対策やバリアフリー問題など生活環境に問題がある[84]。一方で尾道は数年ごとにブームが起こる観光都市でもあり[85]、都市開発による急激な変化を望まないものもいる。尾道市主導の開発の幾つかは市民の抗議により頓挫している[86]。平成に入り、2度高層マンション計画が上がったが、1度目は署名活動を展開した市民団体が用地を買い取り現在はMOU尾道市立大学美術館となり、2度目は市民の抗議活動を受けて市が用地を買い取り公園になった[6][84]。
これらを受け、尾道市は景観を重視するようになる。景観法に基づく景観行政団体となり市街地を景観地区に指定、2007年には「尾道市景観条例」を制定、地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(歴史まちづくり法)施行に伴い尾道市は「歴史的風致維持向上計画」を作成し、市街地を「尾道・向島歴史的風致地区」として重点区域に指定した[87][88]。それまで点在し個別に保全計画を立てていた文化財を、時代背景ごとに分類し町全体で保全する意識を高め、建物には高さ制限・目立たない広告看板を即すなど条例に定め、町並み保存や空き家利用促進などには補助金を交付している[89][87]。
こうした中で国による日本遺産選定の際に尾道市が作成した「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」というストーリー案が認められ、2015年広島県初の日本遺産認定となった[3][88]。
景観
尾道は、南北を山と海に挟まれ東西に細長い土地に港町・商都・門前町として栄え、そして太平洋戦争末期に空襲を受けていないため、中世から現代までの建物・文化財が混在し、多くの魅力的な観光資源の間を小さな路地が張り巡らされ、特徴的な情景を醸し出している[82]。大林宣彦は「根っからのスクラップアンドビルドの町」と表現している[86]。
坂のまち
現在の尾道旧市街地の景観が形成された過程は以下のとおり。
- 尾道水道側から商業地・住宅地が形成。
- 浄土寺山・西国寺山・千光寺山の尾道三山を中心に神社仏閣が創建。
- 市街地中心部および尾道三山の麓近くを山陽鉄道(山陽本線)が通ったことにより南北に町が分断される。
尾道は東西に細長く伸びる町であるが、そこに山陽本線が通ることにより景観は一変した。尾道三山の麓近くの寺社のいくつかは敷地に線路が通ることになったため、山門と本堂の間に踏切あるいはアンダーパスが設けられることになってしまった[71]。また明治初期である鉄道敷設以前は、尾道三山の山手側には民家は殆ど無かったが鉄道が通る事になると住宅建築が許可され、線路により立ち退きに迫られた住民が山手側に移っていった[71]。これに加え、鉄道開通に絡んで商売に成功し財を成したものが、風光明媚な山手に「茶園」と呼ばれた別荘を建てていった[71]。
こうして、山陽本線の北側は尾道三山の麓に神社仏閣と住宅が混在しその間を細い路地と坂道が複雑に伸びる「坂のまち尾道」が形成された[71][90]。
芸術文化のまち
尾道は古くから多くの文人・芸術家を輩出してきた。また多くの文人が訪れ、風光明媚な景色を見て自身の作品に残している。
ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり — 読人しらず、『万葉集』第15巻
『万葉集』の中にある遣新羅使の歌である。この歌は一般には岡山県玉島のこととされているが、“玉の浦”から尾道のことを歌ったとする説も存在する[91]。
応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が九州探題として下向していた時に書かれた紀行文『道ゆきぶり』の中に当時の尾道が出てくる。
この所のかたちは北にならびて、あさぢ深く岩ほこりしける山あり。ふもとにそひて家々所せくならびつつ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひに従ひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、遥なるみちのくつくし路のふねも多くたゆたゐたるに、・・・・ — 今川了俊、道ゆきぶり[1]
浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々伏見城内に豊臣秀吉が所有していた茶室“燕庵”を向島の商人が海物園に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの[92]。つまり、安土桃山時代に花開いたわび茶文化が尾道にも伝播していたことを意味する[67]。尾道の茶文化は江戸時代に「茶園」、尾道三山の山の手や向島の海岸沿いなど風光明媚なところにあった茶室や庭園付きの別荘、を生み出した[67]。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば頼山陽や菅茶山、田能村竹田や浦上春琴らは作品を残している[67]。頼山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った。
江戸時代の戯作者十返舎一九の作品である『山陽道漫遊中』の中には
日のかげは 青海原を照らしつゝ 光る孔雀の 尾の道の沖 — 十返舎一九、山陽道漫遊中[93]
正岡子規は、日清戦争の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。
のどかさや 小山つづきに 塔二つ — 正岡子規、 [93]
近代文学では、志賀直哉『暗夜行路』と林芙美子『放浪記』が特に著名。
志賀は暗夜行路の草稿をこの地で起稿しており[94]、現存する草稿には特に当時の尾道の情景が描かれている[95]。
景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市まちの遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。 — 志賀直哉、暗夜行路[81]
若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。
海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。 — 林芙美子、放浪記[93]
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尾道市立美術館 | |
尾道の表現者達 - プロフィール右上に紹介動画がある。 |
尾道出身の画家としては平田玉蘊、福原五岳など。洋画家小林和作は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。
和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している[97]。
映像作品としては、まず小津安二郎『東京物語』が挙げられる。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、2015年現在でもロケ地見物に訪れる[99]。ただ映画公開当初は、尾道を象徴する風景がなかったため、尾道の人々は拍子抜けしたという逸話がある[98]。
若い頃尾道で暮らしていた新藤兼人もたびたびロケをしており、出世作となった『裸の島』を始め、『悲しみは女だけに』『かげろう』『落葉樹』『墨東綺譚』『石内尋常高等小学校 花は散れども』で用いている。『石内~』では小津の『東京物語』に登場する竹村家で撮影している[100]。
そして大林宣彦の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』『ふたり』『あした』『あの、夏の日』の尾道三部作/新尾道三部作の6作品。尾道出身の大林は、名所だけでなく歩きにくい山道など何気ない故郷の原風景、なにより坂のまち尾道をそのまま作品に活かした[86]。
NHK連続テレビ小説では『うず潮』『てっぱん』で舞台となった[25]。
近年は舛成孝二『かみちゅ!』や小林俊彦『ぱすてる』、『龍が如く6 命の詩。』などアニメ・漫画・ゲームなどの舞台にもよく使われ、ファンから竹原と共に“聖地巡礼”と称し尾道を訪れる[101]。
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御袖天満宮の階段。『転校生』の重要なシーンで登場する。この神社は『かみちゅ!』『てっぱん』の舞台。
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長江小学校。『時をかける少女』の主人公が通う学校シーンで用いられた。
石のまち
尾道の地盤はほぼ花崗岩で形成されている[102][81]。花崗岩は風化しやすく加工しやすい特性がある。尾道の自然は長い年月をかけ特異な形をした巨石群を生み出し、幾つかには伝説が生まれ名がつけられた。代表的なのが上記の「玉の岩」伝説である。
そして加工しやすい石は中世から尾道の石工文化を育んでいき、石材加工品である石段・石塔・石像・狛犬などで尾道を飾った[81]。その一つが、千光寺山の遊歩道の端にある巨石に尾道に縁のある文人の作品を刻んだ「文学のこみち」である[93]。
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天狗岩
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鏡岩
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三重岩
猫のまち
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広島 cat street view 尾道編 |
尾道は、港町であり細い路地の多い坂の町であることから、猫にとって住みやすい環境である[103]。そこで尾道観光協会を中心に、猫をテーマとした新たな観光資源を発掘した[104]。
観光協会は、市街散策コースに艮神社そばの福石猫で飾られた「猫の細道」や「招き猫美術館」など猫をテーマとしたものを加えた[103]。広島県は、猫の目線によるストリートビューサービス「広島cat street view」を開始している。
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舗装が乾く前についた猫の足跡
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猫の足跡
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いたるところに置かれた「福石猫」
空き家再生
2011年の資料によると、尾道の空き家は特に山手側が多い[82]。少子高齢化による住民減少、景観地区であるため用途が条例により制限されていること、傾斜地・細い道と施工が困難なことに加え接道義務を満たせないことから新築するにはハードル高すぎるためである[82][88]。
一方で古い町並みを残す雰囲気に憧れ、地価も安いため既存の建物を改修する選択肢があること、空き家再生プロジェクトとして市やNPO団体から支援が行われていることから、移住希望者が増えている[82][88]。
この一環として、長い間空き家となっていた国の登録有形文化財「みはらし亭」の改修が進められている[106]。
文化財
ここでは2015年現在、旧市街地範囲内で国の文化財登録されているものだけを列挙する[1][107]。
- 国宝
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持光寺 絹本著色普賢延命像。
- 国の重要文化財
- 浄土寺
- 浄土寺6棟・山門・阿弥陀堂・納経塔・宝篋印塔
- 絹本著色仏涅槃図
- 絹本著色両界曼荼羅図
- 木造十一面観音立像
- 木造聖徳太子立像
- 孔雀金経箱
- 孔雀文沈金経箱
- 紙本墨書観世音法楽和歌
- 紙本墨書定証起請文
- 紙本墨書浄土寺文書
- 紺紙金銀泥法華経巻第七
- 西國寺
- 金堂・三重塔
- 木造釈迦如来立像
- 木造薬師如来坐像
- 銅製五鈷鈴
- 錫杖
- 金銅五鈷鈴
- 天寧寺 塔婆
- 西郷寺 本堂・山門
- 常称寺
- 3棟・大門
- 紙本白描遊行上人絵
- 光明寺 木造千手観音立像
- 国登録
祭り
以下、旧市街地での主な祭り・イベントのみ列挙する[108]。
映像外部リンク | |
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祭りの様子 | |
16px 火渡り神事 | |
16px 西國寺 節分会 | |
16px さくら茶会 | |
16px 浄土寺 春観音まつり | |
16px 尾道みなと祭 | |
16px あじさいき | |
16px 天神祭 | |
16px おのみち住吉花火祭り | |
16px 吉和太鼓踊り | |
16px 尾道灯りまつり | |
16px ベッチャー祭 |
- 1月
- 西國寺 柴燈護摩(火渡り神事)
- 2月
- 吉備津彦神社 節分祭
- 西國寺 節分会
- 3月から4月
- おのみち俳句祭り
- 千光寺公園の花見
- 4月
- 千光寺公園 さくら茶会
- 浄土寺 春観音まつり
- 西國寺 弘法大師正御影供
- 5月
- 尾道みなと祭
- 浄土寺 尾道薪能
- 山脇神社 山王祭
- 6月
- 久保八坂神社 祇園祭
- あじさいき
- 7月
- 御袖天満宮 天神祭
- おのみち住吉花火まつり
- 8月
- 吉和太鼓踊り(西暦偶数年)
- 10月
- 尾道灯りまつり
- 千光寺公園 尾道菊花展
- 11月
食文化
一般的に認知されている、尾道の名のつく食文化は以下のとおり
観光協会は、港町であるため瀬戸内海の魚介類をメインとしている[109]。また尾道の風情の中で古民家を改装したカフェが点在している[110]。
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尾道ラーメン
- Yuyu-Onomichi.JPG
昭和初期からある銭湯を喫茶店として改装したもの[53]
交通
尾道市自体は、広域交通網として山陽自動車道・西瀬戸自動車道・中国横断自動車道が結ばれ「瀬戸内海の十字路」が形成されている。尾道市街地には山陽本線尾道駅・尾道糸崎港、郊外には山陽新幹線新尾道駅がある。ここでは特に、尾道特有の交通手段を列挙する。
- 渡船
- 対面の向島あるいは周辺の島々に渡る交通手段として渡船がある[68]。記録に残るものとしては江戸時代後期から整備され、明治・大正時代に向島・因島に造船所が出来ていくと渡船も増え最大で12航路存在した[68]。現代に入りしまなみ海道が整備されると廃航されていった[68]。以下、存在していた主な渡船を示す[68]。
- 現航
- 廃航
- 南北ルート
- 桑田渡し : 山波町桑田-向東町肥浜
- 小肥浜渡し : 尾崎-向東町肥浜
- 玉里渡船 : 「東渡し」「ドック渡し」など、尾崎浄土寺下-向東町西谷
- 岸元渡し : 「彦ノ上渡し」、薬師堂浜-向東町彦ノ上
- 烏崎渡し : 「廿五番渡し」、西御所-向島町西富浜
- 有井渡船 : 「有井渡し」、西御所-向島町有井
- それ以外
- 津部田尾道間航路 : 尾道-吉和-岩子島-津部田
- 立花尾道間航路 : 尾道-大町-干汐-立花
- 南北ルート
- 千光寺山ロープウェイ
- 昭和32年(1957年)開業[112]。長江口から千光寺山頂上を結ぶ。
ギャラリー
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千光寺境内から
- Senkō-ji Temple in Onomichi 尾道 千光寺 - panoramio.jpg
- 尾道駅01.jpg
尾道駅と尾道城
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- Onomichi, Hiroshima (15706089847).jpg
尾道本通り
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駅前本町一番街商店街
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尾道絵のまち通り
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蘇和稲荷神社
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千光寺新道
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- Onomichi (14092476715).jpg
- Stone Steps 尾道の石段 - panoramio.jpg
- Sea under the Slope - panoramio.jpg
- Onomichi machinami.jpg
脚注
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- ↑ “祭り・イベント”. おのナビ. . 2015閲覧.
- ↑ “食べる”. おのナビ. . 2015閲覧.
- ↑ “尾道は素敵カフェの宝庫!散策途中に立ち寄りたいおすすめカフェ11選”. キナリノ. . 2015閲覧.
- ↑ “尾道好きっぷライン”. 広島観光ナビ. . 2015閲覧.
- ↑ “『【昭和の尾道シリーズ】昭和32年ごろの千光寺公園のお花見風景』”. 尾道観光協会 Facebook (2014年1月22日). . 2015閲覧.
参考資料
- 尾道市歴史的風致維持向上計画について - 尾道市
- “【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(表紙・目次・第1章) (PDF)”. 尾道市. . 2015閲覧.
- “【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第2章前半) (PDF)”. 尾道市. . 2015閲覧.
- “【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第2章後半) (PDF)”. 尾道市. 2015年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2015閲覧.
- “【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第3章、第4章、第5章) (PDF)”. 尾道市. . 2015閲覧.
- “【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第6章、第7章、資料編) (PDF)”. 尾道市. . 2015閲覧.
- 小田靖之「地方都市における景観形成の課題ー尾道市を事例としてー (PDF) 」 、『第5回 研究集会報告書』、広島大学大学院社会科学研究科附属地域経済システム研究センター、1994年3月、. 2015閲覧.
- 長沼賢海 『尾道郷土史論』 尾道市教育会、1932。アクセス日 2015-12-11。
関連項目
外部リンク