仲哀天皇
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。熊襲を討とうとした橿日宮に至ったが果たせず、即位9年で死去したと伝わる。和風諡号は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。容姿端正、身長一丈[1]。
系譜
日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。
- 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
- 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
- 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
- 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
- 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)
系図
皇居
事績
『日本書紀』によれば、叔父の成務天皇に嗣子がなく、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。皇太子13年を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇43年死去)を偲んで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。2年1月11日、天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。
8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いた天皇は、神懸りした皇后から神[2]のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、天皇はこれを信じず神を非難した。翌年2月に天皇は急死し、神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)に同地で死去したとされる。遺体は武内宿禰により海路を穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮(現下関市)で殯された。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父の日本武尊の死後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。
- 「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』)
- 元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』)
- 屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵(恵我長野西陵:えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「岡ミサンザイ古墳」で、墳丘長242メートルの前方後円墳である。
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。現古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
在位年と西暦との対照
仲哀天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
神仏習合
仲哀・神功・応神の三尊で本地を阿弥陀如来とするとされるが、『鶴岡八幡宮記』に「仲哀天皇ハ本地ハ藥師ナル故ニ奉レ除レ之」として単独では薬師如来の化身とされた[3]。
架空人物説
仲哀天皇を実在しない人物とする学説もある[4][5]。その実在性を疑う学説の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物とされているためである。日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げたものである。神功皇后の話は三国時代から、持統天皇による文武天皇擁立までの日朝関係の経緯を基に神話として記紀に挿入されたものである。そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創作され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、この学説の概要である[6]。
脚注
- ↑ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
- ↑ 通説ではこの神は住吉大神ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮では天照大神が祀られている。
- ↑ 「御橋悳言著作集 4 『曽我物語注解』」、続群書類従完成会、1986年3月、168-169頁
- ↑ 『国史大辞典9』吉川弘文堂 2003年 467ページ「仲哀天皇は、日本武尊と神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い」(笹山晴生)
- ↑ 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ「仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている。」(春名宏昭)
- ↑ 『日本の歴史1』中公文庫 1986年 325ページから348ページ
関連項目
外部リンク
- 惠我長野西陵 - 宮内庁