行基
行基 | |
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天智天皇7年 - 天平21年2月2日(旧暦) | |
法名 | 行基 |
諡号 | 行基菩薩・行基大徳 |
尊称 | 行基上人・行基法師-hl |
生地 | 河内国(後和泉国)大鳥郡(現・大阪府堺市) |
没地 | 喜光寺(奈良県奈良市菅原町) |
宗派 | 法相宗 |
寺院 |
家原寺、東大寺ほか 叡尊が寛元3年(1245年)に家原寺を再興 |
師 | 道昭、義淵 |
弟子 | 光信、景静、真成、法義、丹比大歳ほか |
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)
奈良時代の僧。俗姓高志 (こし) 氏。 15歳で出家し,薬師寺で義淵らについて法相 (ほっそう) を学び,さらに山林で禅定 (ぜんじょう) を修した。母の忌服を終え,諸国を遊歴して自行化他 (じぎょうけた) に励み,これに従うものは 1000人をこえたという。弟子を連れて各所に橋を造り,堤を築いた。瀬戸内海に五泊 (ごとまり) を開いたのもその一例である。各地に布施屋 (無料宿泊所) をつくり,摂津に田 150町を開墾し,さらに各地に道場 (僧尼院) を建て,畿内にあるものだけでも 49ヵ所に及んだ (四十九院) 。このような宗教活動は朝廷によってきびしい弾圧が加えられ,養老1 (717) 年4月の詔となって現れた。詔は,行基や弟子たちが巷でみだりに罪福を説き,家ごとに説教して歩き,施物を強要し,聖道と称して民衆を惑わし,ために民衆が生業を捨てて行基に従ったのでこれを禁止する,というものであった。しかし,朝廷は彼らの勢力を無視することができず,天平3 (731) 年,行基について修業するもので,男は 61歳以上,女は 55歳以上のものに入道することを許可した。同 15年,彼は当時行われていた東大寺大仏造営のため,諸方を勧誘して歩くことになった。彼が以前から民間に培っていた勢力が,大仏造営に利用されたわけである。同年1月 21日前例のない大僧正に任じられ,宗教上の最高の地位に立った。同 21年,聖武天皇以下に菩薩戒を授けてのち,菅原寺の東南院で 80歳の生涯を閉じた。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ,また当時の人々は彼を行基菩薩と称したという。最古の日本全図は彼が作ったと伝えられる。